蘭崎六花のスパルタ魔法教育白書

「兄様。それができない理由はなんですか? いつまでにできるようになりますか?」

「イエス、マイ・シスター……」


「兄様のこの1時間のバリューは? 昨日と比べてなにが成長しましたか? 成長できないならママのお腹に戻ってずっとおねんねされますか?」

「……イエス、マイ・シスター……」


「さっきからずっと俯いて、床にはなにも書かれていませんよ? 具体的な課題は? 進捗は? 次のアクションは? じゃあ5秒以内に動きましょうか。ハリー・アップ♡」

「…………イエ……ス、マイシス……タァ……」


「あと2秒!!!!」

「イ、イエス! マイシスタァッ!!」


 魔法学院の誰も知らない敷地。今日もまたひとつ、汗と涙の川フイードバツクがひっそりと生まれる。

 これは互いの立場を入れ替えて始まってしまった、とある兄妹の超スパルタ物語スーパー・スパルタ・ストーリー


   ☆


蘭崎らんざき先生、お疲れ様です!」


 頭を下げる生徒たち。

 魔法教師の蘭崎理人りひとは、今日も硬い靴音を鳴らして廊下を歩く。

 

「ああ。魔法の鍛錬を忘れずにな」


 魔法教育特別学校、『ツクバ高等学院』。

 自然と魔法が調和する魔法都市・新ツクバ市に位置する本校は「個の力、全の力へ」という理念を掲げ、生徒が一丸となって成長することを重んじる。

 そのすべては、強固な組織力をもって外敵に立ち向かうため。それを体現するように三つ葉形の校章には「人」と「規律」、そして「団結」を意味する葉が描かれ、このガチガチに結ばれた関係性を誰かが「鎖のトライアングル」なんて呼んでいた。それは決まって外部の人間らしいが、由緒ある魔法を学ぶ学校であれば、これらを貴ぶ文化はそうおかしなことではないだろう。

 と、そんなことを思いながら職員室に向かう途中――彼女に出会した。

 

「今日も生徒たちから慕われてるねぇ、理人くんは」

「お疲れ様です、京子きようこ先生……じゃなくて、教頭先生」


 そう訂正すると、彼女はくしゅっとうねる前髪を払って笑った。

 元担任。いつもスーツパンツがぱりっとしていて、気を抜くところがないというか。自分とひと回りも歳は離れていないらしいが、出世頭の彼女は今日も世話を焼いてくれる。


「『17歳』の若すぎる教師クンは、そろそろお仕事に慣れたかい?」

「正直、まだ苦労が絶えませんね」

「早く慣れてもらって、優秀な魔法使いをどんどん育ててほしいんだけどねぇ。できれば全員、理人クンみたいな『大魔法使い』になってもらうくらい?」

「それはなかなか……」

「あはは。とにかく、去年よりもっと大規模な機械人形オートマタの侵攻がきちゃったら、キミ一人じゃさすがに大変だからね。皆で立ち向かえるようにならないと」


 この歳で生徒から教師になった特例の理由は、それだった。

 カラクリ人形を模した不気味な異形、機械人形オートマタ。地上を侵略しようとするその脅威が最初に確認されたのははるか前で、同時期に人類の対抗手段、魔法が生まれた。

 魔法使いと機械人形オートマタの戦争。それは年々激しさを増し、昨年この街に訪れた未曾有の「大規模侵攻」では、対抗する学院の魔法使い生徒らの力が敵わず、街の陥落が目前に迫っていた。

 だが――すべての魔法を極めた魔法使い、『大魔法使い』。

 そう呼ばれた俺が現場で獅子奮迅し、成果を残したことで、俺は特別高度人財として生徒から教師に特別昇格した。

 魔法を極めた次は教える側に回り、早急に組織の力を底上げしろというお達しだ。

 

「てことで、これから期待してるよ。未来の大先生っ」

「大先生ですか、恐れ多いです」

「なれるさ。だって理人くん、中等部からも大人気だからね。特に男子」

「え、そうなんですか」

「また新しい異名付けようって皆盛り上がっちゃってさ。今週のハイライトは『魔法の終焉者』って書いて『マジシャンズ・エンドロール』。対抗馬の『デススペル・“リヒト”』もいい線いってた」

「俺、オモチャにされてます?」


 これでつけられた異名は20を超えた。俺は異名バンク。


「なんてね。じゃあ私はもう行くけど、また今日の夕会で」

「はい。今日の会議も長くなりそうですね」

「敵の次の侵攻がもう来月に迫ってるもんねぇ。これで最後になってほしいもんだ」


 教師も生徒も皆、口を揃えてそう言う。次こそ最後であってほしい、と。

 当然だ。誰かの血が流れる戦争なんて、今すぐにでも終わらせるべきだろう。

 だけど。


「……この戦争が終わった後の世界なんて、なかなか想像つきませんね」


 そんなことをぼやくと、京子先生は眉を上げた。


「? 平和で幸せな世界、でしょ? なに、別の敵がまたやってきちゃうの?」

「あ、いえ……すみません、特に深い意味は」

「ふふ、じゃあそんな深妙そうに言わないでよ。そのしかめっ面が怖くてキミのことを『スパルタ教師』なんて言う生徒もいるらしいじゃん?」

「そのつもりはありませんが……」

「キミは大魔法使いなんだからさ。まあ……だから六花りつかちゃんにも、よろしくね」

「六花に、ですか?」

「さっき模擬戦の結果が出たでしょ。あの子は『大魔法使いの妹』ってだけで注目されやすいんだよ。だから、ね?」


 言いたいことは分かるでしょ、と。

 京子先生は微笑み、手を振ってどこかへと歩いていった。

 頭の中でたなびく霞は、今日も晴れそうにない。


   ☆


 双子の妹の蘭崎六花は、自宅のソファーで横になってすやすやと眠っていた。

 それはもう、静かな吐息で。甘そうな吐息で。借りてきた猫よりもおとなしく。


「六花が寝落ちか、珍しい」


 すべての職員会議を終え帰宅し、時刻はもう夜の8時。春とはいえ夜は肌寒い。

 ふぁさっとブランケットを被せてやると、彼女に大事そうに抱えられた本も隠れた。

 おおかた、読書しながら眠ってしまったところか。『本の虫』とまで呼ばれた六花が寝落ちとは、よほど疲れていたか。それとも。


「しかし相変わらず難しい本ばかり読んでるな。言語すら分からん……」


 山積みの本から一冊手に取り、付箋だらけのページを捲る。

 うむ、さっぱり。なんてあくびをしていると、


「第2ユークリッド語。旧大陸の歴史について書かれた書物です」


 滑舌よく、教科書を読み上げるような声。六花がお目覚めのようだった。


「ああ、起きたのか」

「……お帰りになられていたんですね、兄様。すみません、はしたない姿を……」


 そう言った六花はそそくさとブランケットを畳み、本を棚に戻しはじめていた。

 立ち上がると腰まで伸びた薄水色の髪がさらりと揺れ、母親の髪質とそっくりだ。

 両親はここから遠い研究所で働いているため、俺たちは数年前からこの場所で二人で暮らしている。別に散らかしっぱなしでも怒られることはなかろうに、こう真面目なところが六花らしいというべきか。

 だからこそ、ちょっとからかってみたくなるのだが。


「昔はよくぬいぐるみを抱いて寝ていたが、今は本か。名前は付いてるのか?」

「付いてません。……いじわる言わないでください」

「ふふ、冗談だ」


 厚めの前髪から少し拗ねた目が覗くが、六花はすぐに微笑み、作業を再開した。

 居間を四方から囲む、壁のような本棚だ。本の種類ごとにきちんと整頓されている。学院の図書館ですらもう少し散らかっていたような。


「また本が増えてるな。古書にまで手を出すとは」

「書物はいくら読んでも飽きませんよ。魔法の原理原則や万物の歴史に至るまで、なにか秘密を知った気になれるんです。古書はやはり教科書にない情報が多くて、最近読んだものですと……」


 知っている。このままだと六花がルンルンとあっちの世界に行ってしまうことを。


「まあ、面白そうなのがあったら今度教えてくれ」

「喜んで。兄様が寝る前にベッドで読み聞かせるのがいいですか?」

「え。それは冗談だよな?」

「はい、冗談です♡」


 やられた、今し方の仕返しか。

 六花は大きな目を細め、くすくすと笑う。とにかく、これが蘭崎兄妹の日常だ。


「っと、すみません、兄様。こんな時間ですね、すぐ夕飯の支度をしますから」


 六花は白いブラウスの上にエプロンを着け、台所に立つ。

 すらりと線が細く、背筋はよく伸び、妹ながらその後ろ姿に妙に品があるというか。

 一体いつどこでそんなものを身につけてくるのか、兄はもう分からない。


「夕飯か。いや構わない、今日ぐらいは俺が作ろう」

「とんでもない。兄様はお仕事でお疲れですので、ゆっくりお休みください」

「六花だって今日の『模擬戦』があったはずだ」


 その言葉で六花は動きを止めた。


「そう……ですね。ですが私は労われる成果を出したわけではなく、むしろ……」


 来月の機械人形オートマタの侵攻に向けた、生徒同士の模擬戦。

 六花のチームは散々な結果だった。そんな話を今日、職員室で聞かされた。

 敗因は現場力の差。六花らはセオリー通りに課題をこなしていったが、想定外の事態になった途端、他チームの逆転を許し、追いつくための力も尽きてしまったらしい。

 魔法使いに求められるものは知識や理論じゃない。現場を牽引し、成果に繋げる力。

 だから妹の方はいくら勉強家で品行がよくとも、使のではないか。そんなウワサすら教職員の間で出回ってしまっている。

 ……いよいよ俺も心を鬼にし、六花を徹底指導する頃なのだろうか。

 

「六花」

「……はい」

「決めた。今日は最高にふわっふわなオムライスを六花に作ろう」


 でも、それは明日からでいい。

 今の俺は教師ではなく、兄なのだから。


「え? オムライス、ですか? 兄様が私に……?」

「ところが残念ながら、俺は六花のように料理が上手なわけじゃない」

「というと?」

「俺に作り方を教えてくれ、六花」


 つながりと成功体験。自己効力感を持ってもらうには、やはりこれだった。

 だが、六花はといえば。


「兄様」

「なんだ」

「こういう時は黙って頭を撫でてくれたり、もっと直接的な愛情表現をしてくれたりしてもいいんですよ?」


 上目遣い。薄水色の髪がさらさらっと揺れると、このまましてやられそうな。


「それは一応冗談だよな……」

「さあ、どっちでしょう♡」


 真面目なクセに、時折こういうところを見せられる。

 でも、それが俺のよく知る蘭崎六花だった。


   ☆


 通称・ぱっかーんオムライス。

 ナイフで切れ目を入れた瞬間、ぱっかーんと開いて半熟卵がふわっととろけ出るアレ。

 概ねの作り方を六花に教えてもらったところで、台所に立った俺は、コンロに火を灯してフライパンを熱した。

 じゅっじゅっ、じわぁ。油とバター、ともに量ばっちり。

 フライパンの上でくつくつと卵を混ぜていると、六花がそれを隣で見守っていた。


「ずいぶん静かだな。遠慮せず教えてくれと言ったはずだが」

「い、いえ。なにせ教えるなんて初めてなもので、どうしたらいいものかと」

「俺は『究極のぱっかーんオムライス』を作る」

「え」

「ひとたびナイフを入れるととろっとろの卵がライスを覆い、皿の上で宝石が溢れたように光輝く。六花に教わらずに、俺がそんな完璧なオムライスを作れると思うか?」

「それをこの時間で作りたいということですか?」

「ああ、とっておきの時間にしたくてな」

「なるほど、そういうことでしたか。では頑張ってみますが……本当に大丈夫でしょうか? 兄様といえど大変ですよ?」

「ああ、問題ない。

「それを聞いて安心しました」


 六花に元気になってもらう時間を共に作ろう。

 卵がふるっと優しく揺れて、甘くて、ふわふわとしたひとときを。

 だが。

 なんだ……? ふわ……ふわ……じゃない。なにかこう、ぞわ……ぞわ……と、暗黒がやってくるような気配が……俺の横から……。


「ハリー・アップ!! あくびが出そうな生産性! もっとスピーディに!!」


 じゅう、と。卵を熱する音だけが続いた。


「え…………?」

「……なるほど、兄様は卵をかき混ぜるのがよほどお好きでしたか。フライパンの持ち手もまるで動いていませんが、頭の中のお花畑をのんびり眺めている最中ですか?」

「あ、い、いえ……て、ていうか、六花……?」

「私語は慎んでください。兄様が喋っていいのは、私が質問した場合のみです」


 不気味な汗が込み上げてきた。

 俺の全身がくまなく見張られている。鋭利な氷柱を押し当てられているかのような。

 それから焼き上がった卵をライスにのせる。

 表面が焦げ、くたびれた卵。

 それを見た六花は目を細めた。


「まるで芋虫のような奇怪な見た目……」


 …………声、低…………。


「最初から作り直しましょうか、兄様」


 俺は今――尋常ならざる状況にいるのだとようやく理解した。

 なんだこれは。俺はふわふわのオムライスを……六花とふわふわに作って……食後はゆっくり紅茶でも飲んで……。


「モタモタしない! 次!!」

「!? は、はい!!」


 すぐに新しい卵をもう一つ、冷蔵庫から取り出した。

 卵カパっ、かき混ぜシャカシャカ。強火でジュッ、ライスにポンっと盛り付け。

 が、今回のチャレンジも失敗。

 ――「もう一度作り直しましょうか、兄様」と、再び。

 これを5回ほど繰り返したところで、俺はついに動いた。


「……六花……? これもいつもの『冗談』……だよな?」

「? 冗談?」

「いつものように『冗談です♡』なんて言って、実は演技なんだよな……? さすがに今回のは手が込んでるっていうか……」

「冗談なわけないじゃないですか」

「え……」

「兄様が指導してくれと真剣に仰ったのに、私がなぜ冗談なんて言うのですか? それは失礼じゃありませんか?」


 それはむしろ、責任感をまとった目。

 まさか。いやまさか。六花の真面目さがこんな形で顕在化しただと……?


「い、いや、にしたってこれでもう作り直しは5回目だ……後で俺が食べるにしても、限界ってものが……」

「限界ってなんのことでしょうか」

「は……?」

。兄様が今、その境界線ボーダーラインをどのようにして決められたのかと、それがとても気になりまして」


 ドクン、と心臓が高鳴った。


「兄様が望まれたんですよね? 『究極のオムライス』を作るんだ、と」


 心臓から送り出された血液が、グングンと全身を駆け巡る。


「それとも『究極』は諦め、その醜穢で奇怪な形をしたオムライスで妥協し、欺瞞に満ちた食卓でも囲みますか? 私は構いませんが、その後に飲む紅茶は兄様の妥協という汚汁で真っ黒に汚染され、きっとドブの香りがするのでしょうね。では消臭剤の準備を……」 

「いや違う、俺は……」

「兄様?」

「決めたよ六花。俺は……」

「もったいぶらない! すぐ結論を出す!!」


 今いいこと言おうとしたんだが……?

 いや、構わん。

 再びフライパンの柄を握り、六花にこう言った。


「蘭崎理人は『有言実行』だ。口にしたことを必ず成し遂げる……!」


 こうして俺はその晩、20食のオムライスを食べることになった。


   ☆


 翌朝。暖かな陽の光がリビングに差し込む。

 テーブルには朝食後の食器が並べられ、向かい合って座る2人。

 芳醇な紅茶の香り。だがそこに一切の言葉はなく、鳥のさえずりが沈黙を埋める。


「兄様、昨晩は……その……」


 ついに口を開き、頭を下げようとする六花。だが。


「謝ってくれるな」

「ですが……」

「六花は俺に作り方を教えてくれたんだ。むしろ俺こそ、覚悟が足りていなかった」

「教えたとはいってもあれは……」

「今までにない教わり方だったから、驚いたことは否めないが……」


 学院で魔法を教わり続けた。だが、それはもっと淡々とした訓練だった。


「教えることが好きな六花の一面を知ることができて、俺はよかった」


 そう言ってやると、六花は口をつぐむ。

 なにかこう、自分の中にある言葉を探しているようだった。


「……誰かに」

「うん?」

「誰かに知らない景色を見せてあげたいって……兄様は思ったりしませんか」

「それはどんな景色なんだ」

「一概には言えません。ただ……その人の価値観が変わるような景色。たとえば、まだ背の小さな子どもには、高いところからの景色を見てほしいなって」

「六花が抱っこしてあげるのか」

「いえ。私の背なんて高くはありませんので、私は小岩の積み方を教えてあげて、その人がもっと高いところから景色を見られるように助けたくて」

「その『小岩の積み方』が、昨晩のオムライスの件だったと」

「……っ! いざ頼られたら、やりすぎてしまうんじゃないかと危惧していました……それが本当に、昨日の私は物事の限度をわきまえず……」

「そんなもの、六花が決めるものじゃないだろ」


 限界は、己が決めるものではない。それは六花が言ったことだ。

 六花の言葉がずっと頭から離れようとしない。


「お陰で俺は『究極のオムライス』を作れるようになった」

「……とんでもないです。あれは兄様がご自身の限界を超えられたからです」


 ならば理屈は同じなのかもしれない。

 ケツを燃やされることで、無理だと思っていたことができるようになる。


「その限界、俺の『魔法』も同じように超えられないか」


 六花の目が見開かれたのが分かった。


「俺は今まで勝手に決めつけてたんだ。魔法を極めて『大魔法使い』になって、生徒を卒業して教師になって。それがさも当たり前の道なんだと疑わなくて」

「兄様……?」

「だけど、それって本当か? はたして俺は本当に魔法使いの『限界』に到達したのか? 実はまだ、積み残した小岩があちこちに散らばってるんじゃないのか?」


 じゃあ一体、誰がそれを決めるんだろうか。

 分からない。分からないからこそ。


「六花!! 俺の『限界』を……めちゃくちゃにしてくれぇ!!」


 椅子から立ち上がり、床に身を投げ出し、平身低頭。


「兄様!? 一体なにを……頭を上げてください!」

「六花はもしかしたらめちゃくちゃ魔法に詳しいんじゃないのか!? あれだけ本を読んでるんだ、だったら挑戦せずにはいられない!」

「いえ、そもそも大魔法使いの兄様に私が魔法を教えるなんて、罰当たりな……」

「そんなのどうだっていい! 罰があるならそれは俺が受ける!」

「な……いや、常識的に考えれば兄様が先生で、私が生徒で、逆のはずで……」

「全部全部どうでもいい! 常識なんて知らん! 俺たちは『こっち』の方が多分うまく回る! 今はもうそんな気しかしない!!」


 ほとんど息切れして言い切ると、六花の顔つきは変わっていた。


「……兄様。兄様は今のままでも輝かしいキャリアを積まれています。誰かが蔑むことなんて決してありませんし、そこまでこだわる理由を教えてくれませんか」

からだ」


 京子先生と話した時、こんなことを思ってしまった。

 もし戦争が終わり、この世界から魔法が必要とされないものになったのなら。

 それでも俺はしばらくチヤホヤされるのだろう。本に名前だって残るかもしれない。

 だけど、きっとそれで終わりだ。

 魔法の需要は今と変わり、仮に科学技術が今よりも発展すれば、魔法が取って代わられる日も遠くない。

 仮に戦争が終わらずとも、新たな魔法技術が生まれ続ければ、俺の能力を容易に超えてくる若手魔法使いや「上位互換」が続々と台頭するだろう。

 その時、老いた俺は近所の子どもや若者にこんなことを呪詛のように呟くんだ。

 ――昔はすごかった、あの時は1番だった、なんて。


 


 ならばぶち抜けたい。

 前人未到中の前人未到、金輪際横に並ぶ者が現れることのない、圧倒的な魔法使い。

 その力は魔法の当たり前を覆し、魔法使いの概念が前進するような偉業を成し遂げ、まるでおとぎ話のように千年万年先も語り継がれ、歴史を深く永久に刻む。

 それが魔法に尽くした俺の存在証明。

 俺から魔法を引き算されたら、きっとなにも残らない。

 だったら俺が魔法で、魔法が俺で――。


「兄様、大丈夫ですか?」


 すると、屈んだ六花が顔を覗き込んでいた。


「あ、ああ。六花、すまない。つい考え事を……」


 だが六花の目には見覚えがあった。

 氷のような冷たい気配。されど瞳の奥では炎が燃え盛るよう。


「それでは『覚悟』はある、ということでよろしいでしょうか」

「!! も、もちろんだ!」

「……では、跪いてよく聞きなさい」


 まるで喉奥に氷の氷柱を押し込まれ、頭の中には沸騰した湯を注がれるように、冷たく、ゆっくりと、熱く、おぞましい言葉が紡がれた。


「汝。病める時も健やかなる時も、富める時も貧しき時も」


 ──だがこれが、二人の歪な誓いだと言わんばかりに。 


「苦汁を愛し、苦痛を敬い、苦行に励み」


 ――二人の歯車はここでぴったり噛み合って。


「その命ある限り、永遠に『鍛錬トレーニング』に尽くすことを誓いますか?」


 究極完全育成プロジェクトが始まる。


   ☆


「では、兄様の目標はご自身が『極み』に至ること。これで間違いありませんね?」


 翌日。ひっそりと佇む、老朽化した校舎の講義室。

 教壇に上がった少女はそう確認した。


「あ、ああ。しかし六花、お前のその格好……」


 黒のブラウスとネクタイ。そして細い腰まわりをきゅっと絞る白いスカート。

 いつもの六花らしくもない。彼女はもっと淡い色を好むが、あれはまるで……。


「まさか俺のマネか」

「はい、今日から私が『先生』ですので♡」


 くるっとターンし、スカートの端をくいっと摘み、ぺこっとお辞儀。


「いつかこんな日が来るかもしれないと、心密かに待ち望んでいました。なにせまだ磨ける大きなダイヤが目の前にあったものですから」

「六花は普段、俺のことをどう思って見ていたんだ」

「……♡」


 あまり詮索しない方が俺のためだろう……。

 六花はこほんと喉を鳴らし、本題に入るようだった。


「さて、これから早速始めたいところですが、ひとつ問題があります」

「? なんだ?」

「兄様の掲げた目標。それはすべての時系列での一番を目指すもので、不確定要素の大きい未来を考慮することは適切ではありません。なにより、定量的に評価できない目標はすぐに迷子になってしまい、モチベーションの維持が難しいかと」

「な、なるほど……?」

「ということでこの時間のゴールは、『定量的に評価できる目標を設定すること』にしましょう。兄様の最終目標はかなりふわっとしているので、トップダウンではなくボトムアップで考えたいです。それでは手始めに現状分析から、次にKPIツリーの作成を……」


 ……早速ワケの分からないことが始まった……。

 いや、これはまさか俺が試されているのか? どれだけ六花についていけるかを。

 ならば……ここは前に出るべきか。いざ、現状分析。


「現状、俺はかつてない挑戦の局面に直面していると思う」

「はい?」

「だが俺の中にある熱量。諦めない気持ち。それを信じてくれれば、どんな困難も……」

「あの。突然なんでしょうか? それはまさか現状分析のおつもりで?」

「え……」

「なぜそんな誰でも使える言葉を使おうとするんですか? 兄様はもっと色々なことを思って、今日に至ったわけですよね? 兄様だけの言葉をちゃんと使ってほしく……」


 ……六花の目が冷え冷えとしていた。

 やってしまった。六花に置いていかれまいと空回りしてしまった結果がこれだ。


「……すまない」

「兄様?」

「愚かな俺を改めて指導してくれ、六花……」

「もう、仕方ないですね。では兄様の分からないところからお伺いしますが……」

「いや、教えてくれないか、頼む……」


 しかし、それが六花にとっての最大の地雷だったらしい。


「はい? 私は兄様の『ママ』ですか?」


 六花からついに――一切の笑顔が消えた。


「あの。愚かだとかなにも分からないだとか、それを免罪符にしていませんか? 赤ん坊のようにバブバブと声を上げていれば、欲しいものを与えてくれると?」

「あ……」

「最初から全部、まるっと教えてほしい? 一体なにを? 兄様は既に大魔法使いじゃないんですか? 自分で考えもしないで、兄様のそれは『丸投げ』じゃありませんか? 昨日の覚悟はまさかそんな気持ちからのものだったんですか?」

「…………」

「兄様は今、なにが分かって、なにが分からないんですか? なぜそれを言語化しないんですか? 『熱量』だけならヤカンで水を沸かせばすぐに得られますよ?」

「すみ、すみませ……」

「私の指導の目的は答えを与えることではありません。機会を与えることです。プロセスで学ぼうとしない方に知識を詰めたところで、半年も経てばすべて忘れますから」


 ぐうの音も出ない。代わりに涙が出そうになる。くっ、本当に本当に俺は……。


「……っ! その通りだ、六花! バカな俺を許……」

「あ、土下座なんてしないでくださいね。ここではなんの意味もありませんから。必要なのは正しいコミュニケーションです」

「…………はい…………」


 ただその場で深く頭を垂れた。

 だが六花は少し表情を曇らせる。それは彼女の気持ちを削いでしまったような。


「兄様。あの……もし、私の指導方法がお気に召さないようでしたら……」


 そんな顔をさせたかったわけじゃない。

 俺が本当になら、見栄も甘さもいらなかったはずだ。


「……意識を変える。ただ口を開けて教えを請うのではなく、自分でも考える。だけど、俺のやり方や答えは適切でないかもしれない。その時は六花に指導してもらいたい。負担ばかり掛けてすまないが、それには結果で返すから……」

「…………」

「一切容赦なく俺を指導してくれ、六花」


 言うと、いくばくか彼女の不安は和らいでくれたようだった。


「承知しました。一応お伝えしますが、兄様に嫌がらせしたいとか、そんな気は……」

「ああ! それで早速、さっきの『現状分析』の件なんだが、俺の理解だと……」

「ふふ。まずは『動機』の深掘りですね。兄様がなぜ、今の状態でも満足できないと思ったのか」


 そう言われ、黙考。そして。


「……それはいつもモヤモヤするから、だろうか」

「モヤモヤ?」

「教師の仕事がイヤなんじゃない。だけど俺はふと、このままでいいのかと思うんだ」

「それはなぜですか」

「へ?」

「まさかそれで答えたつもりですか? まったく理由になっていません。答えられるまで『なぜ?』を続けますので、よろしくお願いします」


 き、きっつ…………?

 いや折れるな。これがいいんだ、これが俺を活性化させる。集中、集中……。


「積み残しがある……と思ったんだ」

「もう少し詳しくお願いします」

「俺は魔法を極めたと言われる『大魔法使い』だ。だが六花と話したことで、それが実は誰かが勝手に決めた限界なのかもしれないと思い……」

「つまり、目標が未達かもしれない、という仮説ですね」

「ああ。しかし『大魔法使い』は、全属性で魔法力がカンストした魔法使いにのみ与えられる称号。これ以上極める余地なんて、本当にあるのか……」


 なんてぼやくと。


「ふ……ふふ……♡ 早く、早く私が兄様に教えてあげなきゃ……♡」


 六花の全身からウズウズなんて音が出てきそうな様子だった。


「六花……?」

「失礼しました。ところで兄様は『大魔法使い』の定義をご存知ですか?」

「あ、ああ、もちろん。魔法を構成する5属性。それらすべてにおいて、学校カリキュラムでの最高成績を叩きだすことだ。今更そんなの、聞くまでもないだろ?」

「はい、この学校ではそんなの常識ですよね」

「常識だな。で、俺がこれからどうするかって話だが……」


 すると六花は俺の前の席の椅子を引き、逆向きに座りはじめた。

 机の上に両腕を乗せ、お顔が近いですね、なんてからかうように笑っている。


「どうしたんだ急に……」

「……♡ いえ、兄様はとっても素直だからこそ、魔法の上達も早かったのかなと♡」


 褒められているのか分かったものじゃない。

 だが六花が本当に言いたかったことは、そんなことじゃなかったらしい。


「魔法と熱心に向き合い、学校のカリキュラムを粛々と完璧にこなす。学校側にとって、これほどまでに理想的な生徒はきっと他にいなかったでしょうね」

「理想もなにも、当たり前のことをやっただけじゃないか」

「その当たり前って、


 意味深な六花の口調。一見、勤勉さを賞賛するようにも思える。

 が。はっと――ある言葉にひっかかりを覚えた。


「あ……『学校のカリキュラム』を……完璧に……?」

「はい」

「そういえば……『学校のカリキュラム』って、なんだ……?」

「合理的な魔法教育を推進するため簡略化された体系、それが『学校のカリキュラム』」


 六花が教卓の前に戻る。魔法書を開き詠唱すると、前の黒板に文字が浮かび上がった。

 横一列に並んだ5つの文字。火、水、風、雷、土。

 魔法を構成するこの5属性をすべて極めた者こそ、『大魔法使い』の称号を授かる。


「50属性」

「?」

「学校で習う5属性。それを細分化すると

「……え……?」


 六花が再び詠唱。横一列に並んだ文字の下には、新たな文字がずらりと浮かんだ。

 まるでアリの巣のような、ウネウネとした構造が目の前に広がっていく。


「なんだこれは……!? 見たことのない属性がいくつも……」

「学校のカリキュラムでは使われていない旧式魔法系統図。用途が限定的な非実用魔法から古代魔法、禁忌魔法に至るまで。様々な理由で表に出ることがなかった、45個の隠された属性たちです」


 既存の5属性それぞれがおよそ9個の副属性をぶら下げ、属性の数は合計50。

 内容を読み進めると、術者のただの個性だと思っていた影薄魔法から、危険故に封印された禁術に至るまで、網羅的に要素分解されているようだった。


「そして、私が密かに集計した兄様の『通知表』はこんなところでしょうか」

「密かに集計? え?」

「そこはあまりお気になさらず」


 とにかく、それぞれの属性に0から5の点数がぴょこんと表示された。

「大変よくできました」の5がちらほらと見られる一方、初見の魔法のほとんどが0か1。俺の知るオール5の通知表と違い、ずいぶんとデコボコが目立つ。


「俺がすべての属性で極めていたというのは……」

「副属性がひとつでも5に達すれば、そのグループはまるっと最高評価になります。それが学校が決めたカリキュラムです」


 つまり――俺はまるで魔法を極めてなんていなかった。

 絶望。大魔法使いとあれだけ讃えられた者の正体が、蓋を開けてみればこのザマ。

 所詮、俺は限られたルールの中での王様だった、というわけだ。


「兄様、気を確かに。これはつまり、伸び代がまだこれだけあるということです。このギャップの抽出こそが成長に必要な工程ですので……」

「くく、くはは……」

「兄様?」

「まいった、まいったよ。こんなにも未知の魔法があったなんて。それで『魔法を極めた』なぞ……なんて浅はかだったのか。だが俺は今、最高にワクワクしている」

「……ほ。そう感じていただけたならよかったです」

「ああ、この通知表をすべて『5』で満たそう。そうして俺は『究極の魔法使い』だ……! さあ覚悟はできた。この先どんな苦難が待っていようと俺はやってやる。いざ――」

「あ、いえ。『5』では足りないので『20』でお願いします」

「ん?」

「すべて『20』にしてください。それが『魔法を極めた』と言って許される最低条件です」


 てん、てん、てん。

 まさか、とは思うが。


「…………六花」

「はい」

「上限は『5』、ですよね」

『5』、ですね。ただ、ですから」

「……………………それはさすがに無理では」

「無理かどうかを決めるのは指導者ですよ、兄様♡」

 それから六花は仁王立ちし、腰に手をあて、


「それでは! これより、『兄様・究極完全化プロジェクト』を開始します!」


 賽が頭上高く投げられた。


「以降、訓練中の兄様の返事は『イエス、マイ・シスター』のみにすること!」

「え……?」

「どんなに理不尽で不可能な命令でも拒否は許されない!!」

「そ、それはさすがにノー、マイシスター……」

「? 聞こえませんでした。今なんて?」

「……イエス、マイシスタぁ……」

「聞こえない。耳が悪くなったのかも」


 俺の背筋は、ハリガネが入れられたようにまっすぐになっていた。


「イエス! マイ・シスタァッ!」


   ☆


 パン、パン、パン、パン。

 朝ぼらけ。薄明かりの山道、前の六花が手を鳴らす。

「遅い! 遅すぎる! 右脚を出したら次に左脚を出す! たったそれだけなのになぜもたつきますか! 早く、早く! リズムよく! ハリー・アップ!!」

「……ェス!! マイ……シス、タァ……!!」


 パン、パン、パン、パン。

 食いしばり、岩を踏みしめ、上へ上へと駆け登る。

ビー・ア・ビースト獣になりなさい! 後先を考えない! 今! ここで! 全部出し尽くす!! そう! そう!! 人間を捨てる、そう!!!!」

「……エス……タ……ァ……ぁあ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙ッ……!!」


 自販機よりも大きい岩を背負って。何往復したか、もう記憶はない。

 何度目かの山頂に着き、背中の岩を台座に載せると、土砂のように身体が崩れ落ちた。

 六花がタオルで丁寧に汗を拭いてくれ、そっと耳元に労いの言葉が――、


「さて、もう一周おかわりしますか?」

「!?!?!? ゥご……ァ……ォっ……!!」

「……♡ 冗談です♡」


 もう少しで登校の時間ですからね、と。俺はうつ伏せのまま地面と抱き合っている。


「なんにせよ、岩の妖精『イワクタケシ』を使い魔にするには、聖石を何度も山頂に運び、より多くの汗を流す必要があります。明日も頑張りましょうね」

「俺の汗で小さな川ができたんだが……」

「素敵なせせらぎを聞かせてくれましたよね」

「あれはせせらぎじゃなくて俺の泣き声……」


 こんな生活を続けて1週間。木綿のように魔法技術と知識を吸い続け、学んだことは、属性魔法の結合理論、フタミ式覚醒法、属性別マークアップ学習。はたまたパーラー展開。ホイミンの原理。その他もりもり。これが六花・ザ・デスマーチ。


「このご時世、もっとスマートな鍛え方もあるかと思います。なぜ私がここまで兄様に負荷をかけているか、お分かりでしょうか」

「……ビシバシ頼むって俺がお願いしたから?」

「根性論の話だけではありません。、です」


 たとえば、ダンベルを使った高負荷トレーニング。

 もう上がらないと限界を感じると、脳がケガやオーバーワークを恐れ、真の限界を迎える前にブレーキをかけてしまうことがほとんどだという。

 筋肥大や魔法鍛錬においては、限界まで追い込むことが大切であるにもかかわらず、だ。


「その『迷い』がどれだけ成長を阻害するか。だから私は兄様に負荷をかけ続け、迷いを取り払います」

「はぁ、なるほど」

「その代わり、兄様の『迷い』はこの私が引き受けますから」


 ――それが私の指導者としての在り方です。六花はそう付け加えた。


「ということで、兄様。せっかく山頂まで上がりましたので、ここでお食事休憩でもしませんか?」

「え」

「……実は兄様のためにお弁当を持ってきていまして」


 六花は照れくさそうに、可愛らしいピンク色の弁当箱をリュックから取り出した。

 涙が出そうだ……疲労困憊ひろうこんぱいの身体に六花の手作り弁当。これだ、これなんだよ。過酷な訓練にはやっぱりご褒美が必要だ。これさえあれば俺はいくらでも頑張れる。

 六花がにこにこと弁当箱の蓋を開けると、


「じゃん。『魔法力強化パウダー』、です♡」


 ぎっしりと砂が詰められていた。

 あ……? これは動物のエサ……?


「あの。からあげ弁当とか、ハンバーグ弁当は……」

「そろそろタンパク質以外にも魔法力合成の栄養が必要な頃ですからね。これは星屑から採取された希少な物質なんですよ?」

「へぇ、そりゃ楽しみ……だ……」

「はい、じゃあ一定間隔で運びますので、よく咀嚼してくださいね♡」


 たっぷりとよそわれたスプーンが口に運ばれる。

 じゃり、じゃり、ざら、ざら。噛み締めるたび、救いのない感触が耳に響く。


「兄様、美味しいですか?」

「ありがとうございます!!」

「あの、美味しいか聞いてるんですけど」

「ありがとうございます!!」


 遠くの美しい山々が青く霞んで見える。

 山頂の澄んだ空気と六花の愛を浴び、俺はそれから一切の言葉を失った。


   ☆


 それは、午後の講義が始まろうとする教室での出来事だった。

 六花が在籍するクラス。そこでは心配そうに彼女の顔色を窺う生徒がいた。


「あ、あの、六花さん。大丈夫……?」

「はい?」

「今、クラスでもウワサになってて。理人先生と六花さんが秘密の特訓をしてるって」

「先生と私が特訓……?」

「理人先生の指導ってちょっとスパルタじゃん? いくら侵攻の日が近いからって、優しい六花さんが辛い思いするのはわたしたち、見てられないっていうか……」

「ああ、大丈夫なので、ご心配なく♡」

「ほんと? それならいいけど……」


 チャイムが鳴り、教壇に上がった俺は生徒に号令をかけさせ、板書を始める。

 ……腕が1ミリも上がらん……。

 今朝の山のトレーニングで限界突破したか。立っているのが奇跡のような状態で、なんとか身体をゆっくり動かしていく。

 が、やはり生徒はそんな不自然な様子を気にかけた。


「理人先生、大丈夫ですか? なんだか最近、顔もやつれてますよね?」

「心配ない。食事を少し変えただけだ」

「まさかダイエットですか? えー、する必要ないのにー」

「私語は慎むように。それでは今日は『侵攻の日』に向けた説明をする。まずは昨年の出陣式の様子から……」


 一同が前方に投影される映像を眺め、俺も近くの椅子に着席。それから5分、10分と静かな時間が続く。

 しかし……今朝のトレーニングのせいか、なにやら睡魔が……いや、寝るな寝るな。俺は教師だ。居眠りなんて許されるはず……寝る……な…………すぅ。

 すると。

 ぷぉぉ、と。映像の中の軍楽隊が力強い管楽器の音を鳴らした。

 ――ラッパの音。


「おはようございます!! 教官殿!!!!」


 六花との朝のルーチンを脊髄が勝手に再現した。


「え……? 先生……?」


 生徒の視線が一斉に集まる。映像の方なんてもう誰も見ちゃいない。


「いや、先生、やっぱりおかしくない……?」

「なんかめちゃくちゃ疲れてるよね?」

「ていうかなんで最近いつも足ひきずってるんだろ……」


 ざわ、ざわ、ざわ。

 ……やってしまった。六花は俺を睨み、右目1回、左目3回ウインクしている。

 あれは六花・ジ・アラート。『ご・ま・か・せ』の合図。


「……というくらいの気合いを見せないと、あっという間に敵にやられるからな。あと、前日は十分な睡眠をとっておくように……えっと、…………すまない……」

「理人先生でもそんな大きな声出すんですね……?」

「あ、ああ。声は大きい方がいいぞ。俺も最近は毎日大きな声を出してるところだ」

「はい、分かりました!」


 次に眠くなったら魔法で自律神経でも焼き切るか。猛省。

 するとそんなざわめきに隠れ、なにやら後ろの席では雑談が生まれていた。


「そういえばさ、次の侵攻の日って『あの日』と被るんだってね」


 近くに座る六花は、なにかに気が付いたのだろうか。少しだけ表情を変えていた。


   ☆


「ふぅん……? 今回の侵攻にイレギュラーがあるかもしれない、と?」


 放課後の空き教室。

 京子先生がそう聞き返すと、俺の隣に立つ六花は頷いた。


「『粒着浮動』の日。十年に一度、重力波の干渉で大気圏と磁気圏が乱れる日です。人間の感覚では気付きませんが、異常な周波が観測されると言われていまして」

「その出所は一世紀前の『旧星魔書』から? またずいぶんと古い情報なんだ」


 根拠としては乏しかったか。京子先生は釈然としない様子で頭を掻いた。


「まあ、了解。このタイミングでどう扱えるか分からない情報だけど、一応各所に働きかけてみるから」

「本当ですか、ありがとうございます」

「わざわざ報告ありがとうね。六花ちゃん、理人くん」


 そう言って京子先生は、並んで立つ六花と俺の方を見る。

 俺たちの本題はここからだ。


「そのことですが、教頭先生。有事の際は俺の出動を許可してくれませんか」

「理人くんが?」

「はい。そうすればどんな事態になろうとも、被害を最小限に留めてみせます」

「……そう来たか、なるほど」


 京子先生は椅子に背を預け、頭の後ろで手を組む。

 快諾、というわけではなさそうだった。


「ちょっとそれは『戦争』を舐めてるかな」

「いえ、そういうつもりは……」

「侵攻の日まであと数週間しかない。本来もっと前から準備すべきものを、いきなり理人くんが前に出たとして。使用する魔法は? その影響範囲は? 各リスクへの対応策は? なにより、教師のキミは指揮の仕事もあるんじゃなかったっけ?」


 今回の侵攻規模の予想は、去年よりもずっと小さい。だからこそ教師になった俺は前線に出ず、後方で指揮をとる新しい仕事を任されていた。

 京子先生の問いに対しては、六花が答えようと前に出た。


「あの、それは兄様の代わりに私から回答を」

「ごめんね六花ちゃん。今私が質問しているのは理人くんに、だから」


 生徒ではなく、教師の自分が答えろという要求だ。

 まるで答えられない質問ではない。だが取り繕ったところで、「俺たち」のことはいつまでも隠し通せないだろう。俺の前線復帰を申し入れるなら、決裁権を持つ上位レイヤーの協力がいずれは必要だ。

 だが六花は言わんとすることを察したのか、心配した様子を見せていた。


「理人くん? 六花ちゃん? どしたの、なんだか二人ともすごい変な感じ」

「あ、いえ。えっと……」

「? まあ、とにかく話してごらんよ。言わないことには始まらないだろうからさ」


 俺と六花の元担任、よく世話してくれた京子先生。なにか頼る時の先は彼女だった。

 いつかは話すことだ。

 だから、俺たちがこと。

 その事実と経緯を京子先生に説明すると――、


「なにそれ……? つまりキミは、クリアしたゲームのレベル上げを延々とやってたってこと……?」


 彼女の反応は、俺が期待していたものとは違っていた。


「あの、京子先生。実は俺たちの『適性』はそれぞれ逆にあって……」

「適性? いや、理人くんはもう教師でしょ? 先生の仕事はどうしたの……?」

「京子先生。それは兄様のお仕事には極力影響が出ないよう、私が配慮して……」

「極力って。そんなキツいことをしてたんなら、仕事や勉強にも絶対影響出るよね。正直、家でダラダラしてもらってた方がずっとマシに思ったんだけど」

「それは……」

「はぁ、そっか。理人くんが最近ちょっと変だってウワサの原因はそれか……」


 京子先生は呆れていた。それは、子どものいたずらへの呆れ方なんかではない。


「俺の件は……すみません。ただ、その力を活かせると思って……」

「個人の力は有限、組織の力は無限。学院の理念はキミのどこに行っちゃったの?」

「当然存じています。ですが」

「個人でいくら頑張ったところで、皆で協力して得る成果には決して届かない。理人くんの善意は分かるけど、そっちを優先する理由にはならないよね」

「それは……」

「成果の期待値が下がるだけじゃない。もし理人くんみたいに皆が好き勝手して、組織がガタガタになったら? この戦争中、考えただけでもぞっとする」

「…………」

「まあ、若い子にとっては組織って『しがらみ』だよね。でもそれは、先人たちの知恵と経験が積み重なってできた構造だから。キミたちが生まれる前から色々な出来事があって、悪いことが再発しないように、いいことを強化するように、最適化されて今がある。理人くんにだって大切な役割ロールが与えられてる」


 毅然とした口調の京子先生は、もう俺たちに喋らせようとする気なんてなかった。


「キミがそこから逸脱することに、どれだけの価値がある?」


 彼女はそう言ってから、ふっと笑ってみせる。


「そういえばさっき、理人くんは『適性』なんて言ってたっけ」

「……はい」

「それってすっごい便利な言葉だよね。今の自分が上手くいってないと、『たまたま適性がないだけで別のことなら上手くいく』なんて言い訳ができちゃう」

「言い訳なんてそんな……! 兄様は自分の理想があって……」


 そんな六花の反論もすぐに封じられた。


「大丈夫だよ、理人くん。六花ちゃんも、そう」


 京子先生は俺と六花に近寄り、二人の肩を一緒に抱きしめた。


「私だって先生なんだから。ちゃんと成長できるよう、ちゃんと教えてあげる」


 そこに鞭はない。六花の指導とは正反対のものが待っているのだろう。

 だけど。


「だから『自分勝手』はやめよう? ね?」


 言いようのない圧力に包まれ、それから返す言葉は見つからなかった。


   ☆


「じゃん。お待たせしました、兄様っ」


 帰りみち。並んだ街灯が等間隔に夜を照らす。

 小袋を持ってきた六花の変わらない様子は、少し意外だった。


「なんだそれ」

「売店で買ってきたドーナツです。怒られちゃうとお腹減っちゃいますよね?」

「夕飯前なんだが。そもそもこんな時に食べても……」

「拒否は許されません。それじゃあチョコとストロベリー味、どちらにされます?」


 真面目な六花のことだ。今頃落ち込んで、兄が慰めてやるべきかと思っていたが、俺よりよっぽど逞しい。

 むしろいつもより声が柔らかく、気を遣ってくれているのだろうか。

 チョコの方を指差し、それを受け取った。


「それじゃあ、このまま食べながらお家に帰りましょうか」

「うん? まさか買い食いに食べ歩きコンボか」

「ふふ、一度やってみたかったんですよね」

「六花はそういうこととは無縁だったろうに、ついにグレたな」

「はい。とっても悪いですっ」


 そう言って、六花は歩きながらドーナツにはむっとかじりついた。

 つられて俺もかじるが、やたらと甘いような。こんなものか。


「京子先生のああいうところ、初めて見たよ。怒られたことは今までもあったけど」

「なにをするにしたってよく思わない方は必ずいますからね。京子先生がたまたま、そうだっただけです」

「そういうもんか」

「そういうもんです」


 前を歩く六花は振り返ることもなく、その表情は分からない。

 すると六花は立ち止まり、こんなことを訊ねた。


「兄様はこれから、どうなさいますか」

「どうって。そりゃ……」


 ぼんやりと夜空を見上げる。

 この街だけの空。そこにはいくつもの幾何学模様が描かれ、五角形や六角形と、まるで神様が定規を使って夜空に線を引いたような、整然とした景色が今日も見えた。


「……今日もお行儀よく星が並んでるな」

「星ではありません。成層圏に浮かぶ、魔法のエネルギーになる粒子です」

「そっか。とにかく星も粒子も、皆で引き寄せあってあんな景色を作ってるんだろ」

「はい。万華鏡みたいで綺麗ですよね」


 六花も同じ方を向いて、静かに空を眺めていた。


「あの中からはみ出る奴がいたら、そりゃこの景色も台無しか」


 そう言うと、六花はきょとんとした顔を向けた。


「? そうなんですか?」

「うん?」

「もしかしたら周りも一緒についてきてくれて、今とは違う模様になったりして」

「まあ……でも、そんなの分からないな」

「それなら今見えるものだって、一番かどうかは分かりませんよ」


 六花はふっと、照れ笑いを浮かべる。


「私だって新しい景色を、もっと見てみたいんです」


 だけど、ちょっぴり残念そうにも笑う。


「なんて。冗談です」


 それからなんの時間か分からないまま、お互い空の幾何学模様を眺めていた。

 ずっと眺めていたって、そこになにが書かれてあるのかさっぱり分からないのに。


   ☆


 迎えた侵攻の日。

 予測していたすべての機械人形オートマタの迎撃を終え、司令室は拍手で包まれていた。


「見事見事、生徒たちが訓練通りに動いてくれましたな」


 どこぞの教師が陽気な口調で話し、やれ宴会を始めようだの、やれ集合写真を撮ろうだの、平和そうな会話が続く。

 重傷者、死傷者、共に0。この結果に不満を持つ者はいないだろう。

 自身も後方で安堵の息をついていると、横から缶コーヒーが手渡された。


「理人くんもお疲れ様♪」

「京子先生……ども」

「コーヒー、ブラックで平気だった? 理人くんも今日頑張ってくれたからね」

「……はい。ありがとうございます」


 教師という立場で初めて迎えた侵攻の日。

 先輩の指揮官に付き添われながら小隊の指揮をとり、お役目を果たした。

 そんな微々たる貢献にも労いの言葉というものは贈られる。


「なかなか手際がよかったって。理人くんは誰よりも現場の経験が豊富だからね。どんどんステップアップして、すぐに総指揮官かな? なんて」


 京子先生は上機嫌にコーヒーのタブを起こす。


「あの、さ。この間はごめんね。ちょっと一方的に話しちゃったなって」

「…………」


「でも、理人くんには分かってほしかった。もう少し大人になったらこの間の話もきっと、全部分かってくれる。それは六花ちゃんだって同じで――」

 すると。


「え?」


 周囲の騒音が不意に消えた。誰かがモニターを指差したタイミングで。


「……あれ、なんですか……?」


 モニターには、見たことのない機械人形バケモノが映っていた。


 通常の人型の機械人形オートマタの体長は、およそ2メートル。

 一方、空をぷかぷかと浮遊するそいつは、高層ビル一棟分に近い大きさがあった。

 こんなサイズの機械人形オートマタなんて、見たことも聞いたこともない。

 そして――こんな「笑い声」を出すなんて、誰も知らない。

 ケタケタケタ、と。そんな不気味な笑い声が司令室に響き渡った。


「まだ残党が? いや、そもそもなんだあの大きさは……?」


 全身が機械だが、頭が大きく、その姿形はまるで巨大な赤ん坊にも見える。

 ぷかぷかと浮かぶ様子はプールではしゃぐようで、ぴっと指を振り、音が鳴ると、


 山の中央に大きな穴が空いた。


 まん丸い空洞の闇が生まれた。

 山はまだ崩れていない。画面の向こうでは鳥たちが一斉に羽ばたいていく。

 しんと静まり返った司令室で、最初に声を発したのは総指揮官だった。


「……イレギュラーは想定している。指定の班をすぐ前線に……」


 が、場はまたすぐに静寂に支配される。総指揮官は動けていなかった。


「いや……もうそういう話じゃない……なんだこの理不尽な力は……」


 あちこちの端末からアラートがけたたましく鳴り響く。

 最大警戒レベルの敵の侵攻開始。ならびに全世界への緊急支援要請。

 誰もがモニターに映るバケモノを眺めるだけの時間が続く中――、


「理人くん、待って」


 京子先生は俺の手首を掴んでいた。


「……まだなにもしてないですよ」

「今、現場の生徒たちにも退避命令が出た。六花ちゃんだってきっとまだ無事。これからシェルターに隠れて、各国からの支援を待てば……皆が生き残れる可能性は十分にある」

「可能性、ですか」

「だからお願い。自分勝手な行動はやめて。あなたも……『皆』の一人だから」


 京子先生の手を握る力が強くなる。まるで自分の生徒を離すまいとするようだ。

 そこにはきっと彼女の思いがあって――でも、それだけじゃない。

 きっと「秩序」という名の鎖もぐるぐるに巻かれている。

 だからワガママで動こうというのなら、ここから一歩も動けそうにない。

 だけど。

 これはワガママなのか、あるいは責務なのか。一体どちらだろうか。


「京子先生、前に言ってましたよね。『今』は先人たちの知恵と経験によって、最適化されながらできているって」

「? そうだけど……」


 それを無下にしようというつもりはない。

 だけど皆のためのやり方が1つしかなくて、他の可能性を無視しようなんていうのは、ちょっとおかしな話だ。


「俺たちは『当たり前』を享受してますけど、今から新しい『当たり前』を作ったって罰は当たりませんよね?」

「……え」


 六花の見たい景色がそれだったら、という仮説だ。

 なにかがめちゃくちゃに光り輝いて、景色が塗り替わろうとするところ。

 だったら俺は。


「待って。理人くん、まさかこの間のことで意地を張ろうとしてる? だったら今は違う」

「いえ、ちょうど今ジャスト・ナウです」

「は……? 違う、違う。あれは……全盛期のあなたでも、絶対に……ムリ……」


 欲しかったのは、

 圧倒的で、誰もが決して無視できず、既存の価値観をアップデートさせる力。

 皆の景色当たり前を塗り替えてやるために――ぶち抜けろ。


「ちょっと俺たちの『適性』を証明してきます」


 躍る胸を抑えて、扉に向かった。


   ☆


 古代の風の移動魔法を使い、現地に到着するまで数分も掛からなかった。

 モニター越しに見た、ツクバの山の入口。空を見上げれば、少し先には一際デカいそいつの姿をすぐに捉えた。

 辺りは現代アートのように穴だらけになっている。建物だって崩壊しているが、道中、重傷者や死傷者はまだ見ていない。間に合っただろうか。


「六花! 無事か!」


 六花は大きな鳥居の近くで身を潜めているようだった。


「兄様?」

「悪い、遅くなった。今は一人か?」

「はい。さっきの指示で皆撤退したところで」

「六花も一緒に撤退しなかったのか」

「他と合流すると伝えて、適当にはぐらかしておきました」

「……よくもまあ、思いきったことを」

「それはお互い様です♡」


 六花の唇の端が優しく持ち上がる。やっぱり来たんですね、とでも言いたげに。


「六花。俺はこれから自分の『適性』を証明する。だからお前の『適性』も貸してくれ」


 手を差し出すと、六花は迷わず握り返してくれた。


「ふふ、しょうがないですね。どんなものを見せてくれるんですか?」

「とっておきの成果アウトプットだ」


 奴の影がもう迫ってきていた。ゆっくり、ゆっくりと。

 あれだけ規格外の大きさの機械人形オートマタだ。木々がざわめき、空気が揺れ、万物が怯えているらしい。


「それじゃあ一発かましてくる。と、その前に」


 六花の方にくいと目を向ける。


「はい? なんでしょう?」

「『行ってこい』の気合いを頼めるか?」

「気合い……?」

「どうやら本気を出す必要がありそうでな。指導者の六花に背中を押してほしいんだ」

「そうですか、それは光栄です。では承りました!」


 準備開始。光輝く魔法陣を足元に広げ、ぶぉん、と小さな振動音が鳴った。


「行くぞ、六花! 思いっきり頼む!」

「はい! 思いっきりですね!」

「ああ! 来い!!」

「では!」


 六花は嬉しそうに微笑む。

 究極完全態・俺のお初のお披露目だ。出陣式はドラマチックに、指導者から「今までの努力をぶつけてきてきなさい」、なんて。

 これから全力全開の魔法を――。


「起きろ!!!!!!!!」


 …………え?

 ……………………あれ。


「寝てんのか!? それが『本気』だと!? なんだそのノミのようにちんけな魔法陣は!! な・ぜ!! この期に及んで手を抜こうとする!? 言ってみろ!! 脳みそまで節約か!!??」

「り、六花さん……? え、あの、これが今の俺の本気……」

「じゃあ死にたいということか!? 死ぬなら赤ん坊からやり直して今すぐここに戻ってこい!! 敵の力を見誤ってただくたばるより、その方がよっぽどお利口だ!!」

「そ……それはさすがに……」

「どんなに理不尽で不可能な命令でも拒否は許されない! 手を抜くな!! 全力を出す!! その脳みそがからっからになるまで!! ハリー・アップ!!」


 ……やばい……。

 今まで叱咤は何度もあった。だがもう少し慈悲の心があって……、


「1秒以内!!!!!!!!」

「はい!! はい!! イエス、マイシスタァ!!」


 かつてなくヤバい奴が今、俺の横にいる。

 いや、もう分かってる。思いっきり頼むと言った結果がこれだ。

 だがやはり、俺は「こっち」の方が性に合う。


 全力以上の全力を。

 


 地面を蹴って飛び上がる。

 近付く夜空。いくつもの星や粒子がはっきりと見えた。

 どいつもこいつも整然と並ぶが、別にそこに仲間入りしなくたっていいと思う。

 ――バチバチの一番星になれ。そうすればきっと、なにかが変わる。

 詠唱。大地を揺らし、空気を震わせ、風を呼び、雲を取っ払い。

 夜空を上書きするよう、巨大な空中魔法陣が全面をすっぽりと覆う。

 暗闇がぽっ、ぽっ、ぽっ、と照らされると、地上の誰もが上を向いた。

 それはまるで、大きな光に誘われたかのよう。

 が。

 同時に、敵の様子が変わった。


 2体……いるのか。


 敵の詠唱式が一瞬見えた。まさか分身魔法の類か。

 右と左、目の前にはそっくりさんが2体。

 どうする。撃ち落とすのは右か左か。一か八か。それとも攻撃中断か。

 ケラケラと重なった2つの笑い声が辺りに響く。迷う俺を嘲笑うかのよう。

 この選択を誤った時、一体どうなる。さすがに俺とて迷……、


「迷うな!!!!!!!!」


 六花の怒号が本当によく聞こえた。

 迷いは六花が引き受ける。それが指導者としての在り方だ、と。

 ……イエス、マイ・シスター。

 今の俺なら「両方」だ。

 目をつぶり、ひとつ唱えると、大きな大きななにかの先端が空からひょっこり覗く。

 まるでこれから、小惑星が敵に向かって落っこちてくるかのよう。

 両の手を合わせ、狙いを定め、すべての指を差し出せば――その姿はまるで。

 六花に祈りを捧げるようだった。


   ☆


 玄関の扉が開くと、朝の息吹がふわりと薫る。


「本当に最近、会議ばっかりですね」


 ランチバッグを手渡す六花の目は、じっとりと不機嫌そうだった。


「よくも悪くも、だな。それだけ例の件で一石を投じたと捉えてる」

「だとしてもこんな朝早くから、兄様の時間を拘束しすぎです。毎回ぞろぞろと全員集まって、皆さんそんなに会議がお好きなんでしょうか?」

「まあ、盛り上がっているということだ。……よくも悪くも……」


 あの侵攻の日から数日が経った。

 大きく変わったことといえば、なんと夕会に加え朝会も定例会議になったこと。

 俺が巨大機械人形イレギュラーを撃破したことで、俺たちの学院での役割を見直してもいいのではないか、という議論がよく交わされるようになった。

 つまり打ち合わせの時間がもっと必要になった。なんてこった。


「京子先生は相変わらず、ですか」

「最近は中立的だな。たまにフォローしてくれるし、前よりだいぶ考え方が変わったよ」

「兄様が最大成果を出したのですから、いつまでも議論していないで早く意思決定してほしいものです。なにより、兄様のご褒美が……」

「ご褒美?」

「……報奨インセンティブです。成果とそれはセットですから。兄様のモチベーション維持のためにも、それがないなんて困ります」

「お咎めがなかっただけいいじゃないか。感謝の言葉もたくさんもらったし」

「いえ。頑張った人はちゃんとご褒美を受け取る。それが私の指導の理念……ですので」

「うん?」

「だから、その……」


 ごにょごにょと。そしてもじもじっと。なにやら珍しくはっきりとしない様子だ。

 なにやら俺の頭に手を伸ばそうとしては途中で引っ込め、……はぁ、なるほど。

 甘えたそうな目になっていることは、兄としてよく分かった。

 残念ながらそろそろ時間だ。やむを得ん。


「じゃあ行ってくる」


 六花の頭の上にぽんと手を乗せ、わしゃわしゃ、わしゃわしゃっと。

 何年ぶりだったろうか。とにかくご褒美とやらは遠慮なく受け取っておこう。

 六花の薄水色の髪は思った通り、さらさらだった。


「あ……だめ、情緒がありません! 最初からやり直し!」

「えぇ、遅刻する……」


 この妙な関係は、これからも続きそうだ。

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