一章 はろー、ばっどらっく様(1)
「最も悪い」と書いて〝最悪〟というくらいなのだから、きっとその〝最悪〟というやつには限度があるに違いない。あるいは、「これ以上悪くなってくれるなよ」という想いから〝最悪〟などという言葉が生まれたのかもしれないな、と、少年はふと考える。
なんにせよ、彼の口から〝最悪〟という言葉が漏れたのはこれで、四度目だった。
「はい、それじゃあ息吐いてー。はぁー、って」
昼下がりの空の下、仄かな陽光と色鮮やかなホログラムに彩られた都市がある。
その下地となっているのは、遥か見上げるほどの超高層建築物群だ。
そして摩天楼の頭上を越えて、
それは──一隻の飛行船だった。
「……最悪だ」
飛行船が地上に落としていった影の下、頭上を通り過ぎていく飛行船から地上へと視線を戻した少年は、目の前の女性警官に言われるがままに息を吐いた。
はぁぁ……、という深い溜息と一緒に。
「──ふむ。アルコールの検知はなし、っと。なんだ正常じゃない。おっかしいわねー?」
「……だから最初から言ってるじゃないですか。俺は酔っ払いなんかじゃない、って」
「そうは言ってもねぇ。……少年、君。もう一回自分の言動振り返ってみてくれる?」
少年はただでさえ猫背がちな背中をさらに低く沈めて嘆息すると、これで三回目となる説明をなかば捨て鉢になって言う。
「目が覚めたら俺、何か見覚えのない路地裏で寝てて。しかも辺りは全然知らない場所で……俺、ここがどこなのかも、自分が誰なのかも忘れちゃってるみたいなんですよ」
「それでお仕事中のお巡りさん捕まえて、こう訊ねてきたんだったわよね。
──『ここどこですか? 俺って、誰ですかね?』って」
そうだ。そしたら未成年飲酒の疑いをかけられ、現在に至る。
「……いい加減信じてくださいよ。俺、マジに記憶喪失なんですよ。助けてくださいよ」
「そう言われてもねぇ。君の記憶がどこに行っちゃったのかなんて、お巡りさんに解りっこないし。それより気になってたんだけど──少年、君。肩のとこ鳥のうんち付いてる。あそこのビルにトイレあるから、染みになる前に洗ってきな? その間にお巡りさんは、迷子になった君の記憶でも探しにパトロールに行ってくるから──じゃ」
「じゃ、って──見捨てる気マンマンじゃないかよ、あんた……!」
女性警官は「バレたか」と舌を出すと、さも面倒臭そうな顔でパトカーに寄りかかる。
少年はさっきまで、ガラクタが散乱した不法投棄のホットスポットみたいな場所に、ゴミのように転がっていた。そこは錆とケモノ臭さが充満した薄暗い路地裏で、なぜか大量の鳩に埋もれる形で目を覚ましたのが、今から三〇分くらい前の話だ。
群れた鳩たちに追い立てられるようにその〝巣〟を飛び出し、天井にビルの蓋がされた複雑な路地の迷宮から抜け出すのに約十数分。途中、柄の悪そうな集団にぶつかって因縁つけられたり、野良犬の尻尾を踏んづけ怒らせてしまったりと度々〝最悪〟に見舞われつつも、ようやく外の景色が拝めたと思ったら今度は視界に飛び込んできた見覚えのない街の風景に、愕然とする。それが数分前。
あとは女性警官が語った通り、だったのだが……
(……人選ミスったよなぁ、これ……)
まさか第一村人との会話でこうも躓くとは。そう後悔し始めた矢先、無線が鳴った。
『──
そんな緊張感皆無の呼び出しに対し、女性警官は無線越しに一言二言返すと、
「悪いわね、少年。お仕事入っちゃったみたい。事件よ、事件」
ナイスタイミングとばかりの表情で、「オッズはどんなもんかなぁ」などと呟きながら運転席に乗り込んでしまう。彼女の興味はすっかり手元の『
「……ちょ、ちょっと待ってよ……!」
バタン、と無情にもドアを閉じたパトカーに、少年はなおも縋りつくようにして言う。
「頼むよ。第一村人のあんたに見捨てられちゃったら、俺は誰を頼ったらいい? 目が覚めたら記憶はない、持ち物もない、自分の家がどこにあるのかも解らない。友達の顔も親の顔だって思い出せないのに、このままじゃ俺ははじまりの村で野垂れ死にエンドだ」
必死の訴えに、女性警官は半分だけ開けた窓の向こうで「う〜ん」と腕を組むと、
「そういえば少年、君──《
「……何です、それ? ウサギ?」
「ラビじゃなくて、ナビ。この街のみんなが使ってる素敵なアプリよ。本当に行き詰まってるんなら、まずは〝天使様〟を頼ってみたらいいわ。案外、助けになってくれるかも」
「……天使、って……そんなのどこにいるんですか……」
「ここよ、ここ」
女性警官は髪をかき上げると、うなじを見せるような仕草で自分の首筋を指した。
そこにあったのは、燐光を灯した機械的な線で描かれた『
だが、それが何かと問う前に、彼女は去り際に茶化したような敬礼をしてみせる。
「──ようこそ、旅の人。総ての夢と希望が叶う街──『拡張都市パンドラ』へ」
そう言い残して、第一村人を乗せたパトカーは都市の喧騒の中へと消えてしまった。
「……なにが夢と希望が叶う、だよ。困ってる一般市民を見捨ててさ。……最悪だ」
そうして少年は改めて、自分が置き去りにされてしまった異世界の姿を見渡した。
剣山のように地上から空に向かって伸びた摩天楼。天地を駆け巡る道路はこんがらがった配線のようで、ホログラムの装飾が街の至るところでネオン系の色彩を放っている。
クジラをひっくり返したような飛行船が悠々と漂う空には、まるで電子回路を書き写したような星座が一面に広がっていて、なんだこりゃ……、と呆気に取られる。
「……てか、ホント」
近未来的かつどこか非現実めいたテクスチャに支配された、全く見知らぬ大都市の風景を前にして、少年は堪らずその場に蹲ってほろりと涙を零した。
「──何なんだよ、ここぉ……」
目を覚ますとなんか記憶喪失になっていた。
彼の身に起こった〝不運〟を一言で言い表すとすれば、つまりはそういうことだった。