一章 思い出す事など(2)
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「……ッ!」
爆発の瞬間を思い出して、漱石は体を強張らせる。
「どうやら『修善寺の大患』に至るまでの記憶も、きちんと思い出せたらしいな。ああ、『修善寺の大患』ってのは、あんたが派手に吹き飛んだ一件のことだ。重大患者が生じた事件だったもんでな。延命手術を成功させるために、俺がわざわざアメリカから招聘されたわけだ」
聞くに、ラトルスネークと名乗る男は手術に関わったという。ならば医者なのだろう。
また、アメリカからわざわざ呼ばれたとも言っていた。
つまり彼を招いた人物は医療事情に明るく、かつ海を隔てた異国まで連絡を取る手段を持つ立場にある。
――ドクトル・ニルヴァーナか。
瞼の裏に、彼の顔を思い浮かべた。
かの人物とは立場上、随分と疎遠になってしまった。息災にしていただろうか。
かつての友のことを考えていると、耳がカツカツと規則正しい足音を拾う。
「ご到着か」
ラトルスネークが短く呟く。
足音はさらに近づく。ドアを開ける音がした。
誰かがこの部屋に入ってくる。漱石のベッドの脇に立つ。
「目を開いていいぞ。ただし、ゆっくりとだ」
ラトルスネークに言われ、瞼を徐々に持ち上げていく。
光が相変わらず目を強く刺した。視界が一瞬だけ真っ白に染まり、漂白されきった視界の中に、やがて人の輪郭が浮かび上がっていく。目が慣れてきたらしい。
漱石の顔を覗き込んでいる男がいる。軍服姿だ。
背骨に定規でもあてているのかしらと思うほど姿勢良く、じきに齢五十を迎えるはずの顔は、神彩ありと形容できるほどに立派なものだった。ドクトル・ニルヴァーナだ。
「君とは二年ぶりになるな」
久しぶりに聞いた声だ。声調から感じ取れる深遠なる思慮は、最後に出会った時よりも深みを増している気がした。
「最後に会ったのは
そうだ。
その時既に漱石は武装組織・木曜会のトップとして、政府と対立していた。
対してドクトル・ニルヴァーナは政府側の人間であった。漱石と親交があったが、帝国陸軍の軍医総監という立場から、漱石とは分断されていた。
ドクトル・ニルヴァーナは、本名を
軍人であり、世に森
鷗外という名もドクトル・ニルヴァーナと同じく、彼が持つペンネームの一つだ。
「まさかこんな再会を果たすとは思わなかったぞ。まったく、君という男は手を焼かせてくれるものだ」
そうは言いつつ、ドクトル・ニルヴァーナ……改め、鷗外の顔には笑みがあった。
かつての友との再会を楽しんでいるようにも見える。
実際、このような事件でもない限り、木曜会の司令官であった漱石と陸軍軍医総監の彼は、永遠に交わらない平行線であったはずだ。
確かに『修善寺の大患』は痛ましい事件であったが、この時代を彩った二人の文豪を再び会合させる役目も果たしていた。
「ドクトル、俺がここにいるんですが」
ここでラトルスネークが鷗外に呼びかけた。
漱石はラトルスネークの方に視線を動かした。
頭髪が癖のある猫っ毛になっている、齢三十ほどの白衣の男。
病室だというのに煙草を咥えている。煙草を摘む手には、手袋が着けられていた。
「……ああ! ラトルスネーク、君の前で手を焼くとは軽率だったな」
鷗外は「済まん」とラトルスネークに詫び、漱石を再び見る。
「君にも紹介しておこう。ここにいるのは手術を担当した医師で、名を
「患者はまだ喋れませんよ」
本名を英世だという医者が告げる。
鷗外がラトルスネーク……改め、英世の顔を見る。
「そうなのか?」
「ええ。何せ十五年ぶりに再活動する肉体です。腕や足など主要部については電気刺激や按摩で筋力をある程度まで回復させることができましたが、喉の奥の声帯までは、流石に手を出せませんでした。喋れるようになるには、訓練が必要です」
その言葉に、漱石は目を剥かされた。
――十五年だと!?
修善寺での攻撃で、死線を彷徨ったことは聞かされた。
短くない昏睡時期があることも承知している。
だが十五年もの間、寝続けていたというのか!?
動悸がする。言葉にならない声が出る。
「おい、落ち着け!」
英世が強い声を放った。
「血圧の急な変化は予後に差し障る! 今は西暦一九一一年、修善寺の大患から一年後だ! ドクトル・ニルヴァーナの顔を見てみろ、十五年の歳月は流れていない!」
言われてみれば、確かに。
久しぶりの顔合わせではあるが、鷗外の顔に十年以上の歳月分の変化は見られない。
だが耳は確かに十五年という言葉を聞いた。矛盾が生じている。
どういうことだ、と問いかけたい。しかし喉は未だ回復していない。
漱石は場の二人に向け、あらん限りの意思を目線で送った。鷗外が肩を竦める。
「説明しろ、と言いたげだな。いいだろう」
鷗外は英世に頷きかけた。
英世が大きな鏡を手に持ち、待機する。
「さて夏目君、ここで私からささやかなお願いがあるのだが――」
一拍、鷗外が間を置く。
「――冷静に頼む。くれぐれも冷静に。分かったかね?」
英世が大きな鏡の角度を調整し、漱石に鏡面を見せた。
鏡に映し出されたのは、ベッドに横たわっている漱石自身のはずだった。
「…………!?」
臓腑に氷水を流し込まれたような心地がした。
そこには一人の乙女がいたのだ。
形の良い鼻を起点に、顔中に「美」を広げている。
手術用の薄布一枚を纏わされた裸身が煽情的だ。
病み上がりなのか、彼女の体の肉は決して豊かではなく、皮下の血潮も流れがそぞろに見える。彼女の美しさを語るには、万全の状態では無いようだ。
それでも街で投網を放ち、引っかかりたる乙女たちを並べて比べたとして、きっと美の秤は他の誰よりも、鏡の中の乙女に傾くだろう。
体調が戻ればきっと、男も女も誰もが懸想するくらい美しい乙女であるはず。それほど濃厚な「美」の気配を纏っていた。
漱石は呆然として、手を動かす。
鏡の中の乙女も漱石に呼応して手を動かした。
漱石の頭に、恐ろしい仮説が生まれる。
そんなバカな。だがまさか。
認めがたい現実から逃れるように、漱石は懸命に手を動かした。
だが鏡の中の乙女は遅れることなく、漱石の挙動をなぞり切った。
「理解したかね、夏目君」
鷗外がゆっくりと言う。
「鏡に映っているのが今の君の姿だ。そして君は、その姿に見覚えがあるはずだ」
あり得ない。馬鹿な。どうしてこんなことが!?
言葉にならない激情が頭をかき乱す。
だって彼女は死んだはずなのだ。十五年前に!
それなのに今、漱石の見つめる鏡の中には、十五年前の姿のままの彼女がいる。
「そう、文豪・
告げくる鷗外の瞳には、理知由来とも狂気由来ともつかぬ眼光が宿っていて。
「簡潔に言おう。脳移植だよ。致命傷を負った君を生き永らえさせる唯一の方法として、冷凍保存されていた彼女の肉体に、君の脳を移植したのだ」
次の瞬間、漱石の喉からは叫びが生まれていた。
怒りか、悲しみか、それともこんなことを仕出かした旧友への憎しみか――漱石自身も判別がつかぬ巨大な感情が胸中で爆発した。叫べるはずのなかった喉で、吼えた。
呼吸を忘れるくらい叫び続けた。
手足を滅茶苦茶に動かし、今の自分の姿を否定しようと鏡を割った。
破片で陶器のような肌が傷ついてもなお、暴れた。
「だから落ち着けって! 脳移植をした身体だぞ! 過度な興奮は脳血管に悪影響を――ああクソッ」
苛立たしげに舌打ちした英世が、手袋を外した左手を漱石の顔に伸ばす。
露わになった彼の左手には酷い火傷があった。痛々しい皮膚の有様は、暴れる漱石すら一瞬だけ硬直させる程のものだった。
その硬直による間隙を英世は見逃さない。
伸ばした左手で漱石の顔面を掴んで、そのままベッドに組み伏せる。
「少々寝ていろ、お嬢さん」
漱石は首筋に鋭い痛みを覚える。視界の端に注射器が見えた。
意識が覚束なくなる。英世により薬を打たれたらしい。
強力な薬だった。意識も激情も何もかも、あっというまに泥濘に沈んでいった。