第一章 砂漠に降る雨(7)
◇
夜半。月明かりだけが微かに照らす、真っ暗闇の部屋。
事務所にはレッスンルームの他にも、アイドルが寝泊まりするための寮、様々な運動器具を備えたトレーニングルーム、楽曲の録音なども行えるサウンドブースといった数々の施設が備わっており、所属アイドルが何不自由なく活動できるような環境が『橋の国』の多大な援助により整えられている。
スイッチ一つで部屋の明かりを点けることだってできる……にもかかわらずレインは真っ暗なままの部屋で、ぼんやりとした自分の影が辛うじて映るだけの鏡に向かって一人、ひたすらに歌い、踊っていた。
「…………次……」
床に置いた携帯端末から、ランダムに選曲された課題曲が次々に流れる。音に合わせ、何百何千何万回と身体に染み込ませてきた動きをなぞる。頭のてっぺんから爪先まで、喉を通る空気も瞬きのタイミングさえも、正確に、精密に、完璧に。
鏡の向こう、闇の中で踊る人形の姿は、もはやレイン自身の目にすら映っていない。
「……レイン!? お前、こんな時間まで……!」
途中でレッスンルームに入ってきた誰かの声が聞こえても、視界が突如昼間のように明るくなっても、レインはダンスを止めなかった。
「レインッ!」
少し痩せた大きな手が、レインの腕を強く掴む。
それでようやく、レインは動きを止めて声の主に目を向ける。
「………………、あれ? プロデューサー」
明かりを点けてもなお溶け残った夜のように、昏く寒々しいダークブルーの瞳。深い井戸の底を覗き込むのと似た感覚に襲われながらも、暗闇の向こうに届くよう問いかける。
「こんな時間まで何をしている。今日はゆっくり休んでいいと言わなかったか?」
その言葉に、レインは表情ひとつ変えずに淡々と答える。
「うん。だから、適当に身体を動かしたら今日はもう寝ようと……」
「もう今日ではない」
楽曲の再生を停止し、拾い上げた携帯の画面を突き付ける。表示時刻はとうに深夜0時を回っていた。
「そうなんだ。気づかなかった」
「……せめて明かりくらい点けたらどうだ」
点灯している部屋……つまり誰かが使用中の部屋は、事務所のシステムを通じて確認することができる。少なくともこんな時間になる前に気づけたかもしれない。
「えっと……忘れてた」
まるで気にも留めていなかったような口ぶりで、レインは答えた。
レインの身体には、これまで何百何千何万回と繰り返してきたレッスンの全てが刻み込まれている。それを再現するのに、鏡が見える必要すら無かっただけ。声が出て身体が動いて曲が聞こえればそれだけでよくて、部屋を明るくしておく意味が無かっただけ。
必要ないから切り捨てただけ。いつものように、当たり前に。
「どうして……」
俯いたプロデューサーの絞り出すような声に、レインは耳を傾ける。
すぐに忘れるかもしれない言葉を、ほんの数秒だけでも心に留め置くために。
「どうして、ここまで自分を追い詰めようとする?」
別段、追い詰めているつもりはない。
歌とダンスはアイドルに必要なものだから、磨いているだけ。
だけど、強いて言うのであれば……。
「今日、相手したアイドルの子に」
「……フレアか?」
「そう、フレア。フレアに言われたの、次こそは勝つって。だから私も、負けないように練習しなきゃって思って。負けたら、何もかも意味がなくなるから」
「そんなことは……」
「あるよ。だってアイドルは、戦って勝つことが全てでしょう?」
違う。そう否定しようとしたプロデューサーの喉は、しかしその言葉を紡げなかった。
他でもない彼自身がつい先刻、敗北したアイドル一人をその末路へと導いてきたばかりだ。同じ口で綺麗事を吐けない程度には、彼は正直者だった。
「……全て、とまでは言わない。負けないこと以上に大切にしてほしいこともある」
「そうなんだ」
それが一体何なのかを問うこともなく会話を切り上げ、プロデューサーの手から携帯を取り返そうとするレインに、彼は険しい表情を向けた。
「……何のつもりだ?」
「何って、曲。途中だったから。練習の続き」
プロデューサーは深い溜め息をついてから、取り上げた携帯の電源を落とした。
「ダメだ。今夜はこれ以上のトレーニングは認めない。すぐに切り上げてもう休め」
「……でも」
「朝の走り込みに始まって、こんな真夜中までろくに食事も採らずに一日中身体を酷使して。一体どれだけ疲労が溜まってると思ってるんだ。こんな事を毎日のように続けていては、そのうち絶対に身体を壊すぞ」
「……私、壊れないよ」
朝と同じ言葉。あくまで自分は壊れないお人形なのだと言い張るだけの決まり文句は、今はあまりに説得力に欠けていた。
「……壊れないからといって、壊れるまで踊っていいわけではない。約束したはずだ。スケジュール外の過度なトレーニングは控える。私が休めと言ったら休む」
「約束……」
アイドルとプロデューサーとの約束。破ればきっと、アイドルを続けさせてもらえない。負けてアイドルの意義を失う以前に、アイドルでいられなくなる。
「……わかった」
だからレインはこの命令を受け入れるしかないと、プロデューサーにもわかっていた。 どんなに卑怯でも横暴でも、この無敵の切り札を切るのが「プロデューサーの仕事」というものだった。
「それと、これを」
「……? 水と、ゼリー……?」
手渡されたのは水の入った一本のボトルに、無機質な容器に入った『橋の国』製の栄養補助保存食であるゼリー飲料。
「夕食分には心許ないだろうが……休む前にこれだけでも腹に入れておいてくれ」
「それも、命令?」
「っ……そうだ。プロデューサーとして命令する。飲め」
命令と聞いた瞬間、迅速かつ恭順に、レインは容器を口に運んだ。
「……んっ…………」
全身が急速に潤っていく感覚があっても、肉体が水分を欲していたのだとレインが気づくことはなかった。
「ごちそうさま」
空になった二つの容器を返す手の冷たさと、変わらず温度のないレインの瞳に、プロデューサーは言葉もなく顔をしかめるのみだった。
「じゃ、おやすみ。プロデューサー」
「ああ……」
事務的に告げて部屋を出て行ったレインを、視線も合わせられないまま見送る。
「……アイドルに見せていい顔じゃないな……」
一人で使うには広すぎるレッスンルームの鏡に映った情けない顔を見て、プロデューサーはまた深い溜め息をついた。
◇
プロデューサーの言いつけ通り自主練を切り上げて眠りについたレインは、朝日が昇るとほぼ同時に起き上がり、練習着に着替えて寮を出た。
天地事務所に所属するアイドルは全員、事務所に併設された寮に寝泊まりすることになっている。鉱区街の廃墟とは違い、居住施設としても一級品の設備が揃えられた寮では、アイドルたちは衣食住全てにおいて手厚い支援のもと快適に生活できる。
とはいえ、現在所属アイドルはレイン一人のみであったが。
「……あれ。他にも誰か、いなかったかな……」
事務所周辺の砂漠を走りながら、レインはふと考えを巡らせる。
朝起きて、走って、戻ってきて、歌って、踊って、また走って、夜少しだけ眠る。
昨日までのそんな生活の中に、自分以外のアイドルなんていなかった気がする。
「……っと」
ポケットの中で振動した携帯を取り出し通話に応じる。
「おはよう、プロデューサー。どうしたの?」
『おはよう。急で悪いが、今から事務所に来られるか』
「いいけど、なに?」
『顔合わせしてほしい人物がいる』
レインが言われた通り走って事務所まで戻ると、そこにはプロデューサーともう一人、新品のスーツに身を包んだ女性が……その服装の割には少し幼く見える、どちらかと言えば少女が立っていた。
「あ……おはようございます、レインちゃん」
自信のなさそうな笑顔で会釈した少女に続き、プロデューサーが口を開く。
「今日からは事務員としてここに務め、私のサポートをしてもらうことになった。レイン、お前のマネジメントも私と彼女との分任になる」
「改めまして、
どうやら、事務所に新しく迎え入れたスタッフの紹介らしい。プロデューサーは今までレインの世話をずっと一人でしてくれていたから、負担が減るのは有難いことだろう。
「はじめまして、早幸さん。こちらこそよろしく」
ぺこりとお辞儀をして顔を上げると、何故か二人の表情は驚愕に固まっていた。
「……レイン。お前、それは悪ふざけのつもりか?」
「え……何が?」
「何がって……!」
レインの態度に声を荒らげかけたプロデューサーの横で、早幸は逆に笑みを浮かべた。
「あー……、あはは……やっぱり」
自身のちっぽけさを嗤うような、悲痛な笑顔を。
「そんな雑草なんですね。私って」
「ク……っ」
「日吉」でも「早幸」でもなさそうな名前で呼び止めようとしたプロデューサーの声を振り切って、彼女は走り去ってしまった。
「ごめんなさい。私、どこかで彼女に会ってたっけ」
向こうは覚えていたのに自分は覚えていなくて、それで機嫌を損ねてしまった……そう解釈したレインは、ひとまず残ったプロデューサーに失態を詫びた。
「……本当に覚えていないのか?」
「ん……………………、うん。ごめんなさい」
早幸の顔、言葉、仕草や表情。色々なヒントから記憶を手繰ろうとしてはみたものの、やはりレインは「日吉早幸」との出会いを思い出すことはできなかった。
「……では、レイン。昨日、私と話した内容は覚えているか」
「話?」
「約束してほしいと言ったことだ」
落ち着き払った真剣な口調。その「約束」のことなら、レインも覚えている。
「スケジュール外での過度なトレーニングは控える、休めと言われたら休む」
記憶の通りに反復すると、プロデューサーは険しい表情でレインを見つめ言い放った。
「そういうことだ。……今すぐに休め、レイン。今日から活動休止を命じる」
「…………え?」
聞き間違いかとレインが返すも、プロデューサーの表情は変わらない。
「当分の間、ライブは勿論、自主練も一切禁止する。可能な限り休養に努めろ」
「私は疲れてない。休養なんて必要ないよ」
「それは、お前が判断することじゃない」
「もし嫌だって言ったらどうなるの」
「私との約束を破ることになるだけだ」
「それ、従っても、断っても、どっちにしてもアイドル辞めさせられるってことだよね」
「……理不尽だと思うなら、もっと怒ったらどうだ……!」
「怒る……? 怒るって……」
怒るって、どうやるんだっけ。
プロデューサーと問答を交わす間ずっと、レインの口調は言葉とは裏腹にとても落ち着いた抑揚のないものだった。何処でもない虚空を見つめたまま沈黙したレインに、プロデューサーは一呼吸置いてから静かに続ける。
「……何もアイドルを辞めろとまで言ってるわけじゃない。しばらくの間、アイドルというものから離れてもらうだけだ」
「しばらくって、いつまで?」
「十分な休養が取れたと私が判断するまでだ」
「次のライブはどうするの?」
「お前が心配する必要はない」
取り付く島もないプロデューサーの態度に、レインは抗議を諦めて短く答えた。
「そう。わかった」
怒ることも、悲しむこともないまま。
温度のない無表情のままで、レインは事務所を後にした。