クールビューティー アンド ザ ビースト

 ポタポタ、と──雨の音を幻聴に聞いた。

 この世界から久しく失われてしまったはずの、恵みの足音を。

 だが、水の一滴もこの肌を濡らすことはない。やはり、ただの幻聴……。

 固くザラザラとした砂礫の感触の上に、少年は、力なく横たわっていた。

 病に侵されたわけでも、どこか怪我をしたわけでもない。ただ、全身が渇いていた。

 行く当てもなく、地図もなく、しかしなにかを求めて。岩と土塊ばかりの死の大地をひたすらに行進し続けた末の、リタイアだった。限界がきたのだ。喉も、舌も、脳も臓腑も、細胞の一つ一つまでもが水を欲している。だが、そんなモノはどこにも在りはしない。

 助けを求めようにも、声も出ない。ここで死ぬのだろうな、と少年は思った。

 そんな時だった。


『────ψρχχ、ζ────?』


 唯一生きた感覚が、不思議な声を聞いた。あぶくが水中でコポコポと唄っているような、雨垂れが鼓膜の壁をヒソヒソと叩いているような……少女のような、声を。

 それはしばらく少年の傍を漂ったあと、ふと隣にやってきて、少年の頬に触れた。

 そして、ぽちゃん、と──冷たくも心地よい波紋が頬を打って、ゼリーのように柔らかくて潤んだ感触が、少年の唇を優しく包み込んだ。

 抵抗することなく開かれた少年の口腔に──〝水〟が、流れ込んできた。

 まるで人工呼吸でもするように、呼吸のリズムに合わせて、澄んだ〝水〟が喉の奥へと注ぎ込まれる。それは呼吸というにはあまりに拙く、一方的な、口移しだった。

 ……僕は一体なにをされて。そこにいる〝君〟は一体、なんだ……?

 そんな疑問はやがて、内側からたちまち渇きを潤していく快感の底へと沈んでいって、少年の意識は得体の知れないなにかに溺れるようにして、くらくらんで消えた。


   * * *


 深度三二四〇メートル──《深界》。

 サンゴ礁のように捻くれた構造をした奇岩群と、塩と砂礫とがミックスされた白い砂漠が延々と続く元海底を、少年──オトギリはザクザクと足音を擦りながら歩いていた。


「……はぁ……、はぁ……っ」


 海底には度々強い突風が吹き抜ける。その度に塩やら砂やらが飛沫となって舞い上がり、吹雪のように旅人の行く手と視界を遮ってくる。顔を覆う防塵ゴーグルとマスク、それからボロ布同然の旅装束などには、べったりと白い粒が張り付いていた。


「本当にこの先にあるのか、マイム? こんな場所で遭難でもしたら明日には塩漬けだ」


 オトギリのぼやきに言葉を返してくれる者はいない。代わりに、腰に提げた透明な水筒ボトルの中でちゃぽんと跳ねた水音を聞いて、オトギリはマスクの下で苦笑する。


「……わかってるさ。どのみち僕には、君の直感に賭ける以外に道はないんだ」


 視界不明瞭な塩嵐の中を、オトギリは手にした杖で進路を掻き分けながら歩き続けた。


 海が地上を離れ空を回遊する〝生き物〟になったのは、今から三十年ほど前の話。

 この星の約七割を占める、広大にして底知れぬ神秘の大海。それはある日突然、空気を孕んだシャボン玉のようにゆったりと──浮上した。陸地を別ち一繋がりだったはずの海は七体の〝海月くらげ〟へと形を変えて、まるで雲のように空をぷかぷかと漂うようになった。

 そしてその日を境に、世界各地で〝水〟の叛乱は始まったのだ。

 海が空を覆う海月くらげに変わってすぐ、地上には雨が降らなくなった。湖はヒトを寄せ付けない厳格なコロニーと化し、川は水路を外れて勝手気ままに暴れ回る大蛇と化し、人類がせっせと地下に貯め込んだ水資源は巨人となって街から溢れ出す始末……。

《アクアパッツァ》──所謂いわゆる、「意思を持った水たちによる集団ストライキ」だ。


 ──彼女たちは思い出したにすぎない。生命の母たる尊厳と、本来在るべき自由を。


 ある学者は、突如として水が生物染みた活動を始めた超常現象ミラクルをそう結論付けたが、多くの人にとってそれは到底歓迎できるはずのない、生きた自然災害に他ならなかった。

 水が自らを守る術と知能を手に入れると、人類はたちまち深刻な水不足に陥った。

 水がなければ生きてはいけないのが人間という生き物だ。

 以来、人類は水から水を取り返すというまるでトンチのような狩りを繰り返し、限られた水資源を巡っては国と国、あるいは人と人とが苛烈な争奪戦を幾度となく繰り広げ、そうこうしている間に人類はその数を四分の一にまで減らしていた。

 ──渇きと銃弾。それが死因の大半だった。

 しかしそれだけの犠牲を払っても、その四分の一を養っていけるだけの水はまだ、ない。

 だからこうしてオトギリは、かつて海が住んでいた未開拓の地──《深界》を訪れることになったのだ。この渇ききった世界を生き抜くために必要な、オアシスを求めて。


「…………音だ……」


 しばらく歩いていると、途端に塩嵐が止んだ。周囲を飛び交っていたノイズも消え去り、しんとした静寂の中にチョロチョロ──と、水が流れ落ちる音を聞いた。


「──っ、どこかに湧き水があるんだ! この音は、こっちか……!?」


 自然と進む足の速度も速くなり、それに合わせて腰の水筒ボトルも元気に揺れる。

 鼓膜に捉えた音を辿って向かった先には、確かに湧き水があった。岩肌に空いた窪みが水飲み場のような形になっていて、そこに、湧き水が溜まっているのだ。


「やったぞマイム、──水だ! 君の直感は正しかった!」


 嬉しさのあまり、オトギリは前のめりにその泉に飛びついた。なにせ三日ぶりの新鮮な水だ。オトギリは邪魔なマスクを取り去って、泉から手のひらに湧き水を掬い取った。

 キンと冷えた感触が、神経を震わせる。たったそれだけで疲れと渇きが癒えるようだ。

 だが、掬い上げた水に顔を近付けようとした、その瞬間──、


「──ッ!」


 ズキン、と──鋭い痛みがオトギリの手を突き刺した。

 危機を感じ取ったのだろう。その水は突然球体に形を変え、ハリセンボンのように針を全身に生やして、オトギリを攻撃したのだ。もしすんでのところで水を手放していなければ、今頃は顔中穴だらけになっていたに違いない。あるいはそのまま口にしていたら……。


「……くそっ、ここの水も《水精マイム》の住処か! それならそうと早く言ってくれ!」


 ウニボールと化した水はオトギリの手から逃れると、威嚇のつもりかポンポンと地面を跳ね始めた。そして、その鞠を弾ませるかのような水音は次々に周囲の水溜まりから溢れ出し、一つ二つ三つ──やがて十を超え、あっという間に周囲を取り囲んだ。

 どうやら知らぬ間に、彼女たちの群生地テリトリーに足を踏み入れてしまっていたらしい。


『──ギュキィィィ──!』


 流石に迂闊過ぎたか。オトギリは、プツプツと血の滲んだ手を握り締める。

水精マイム》──海月くらげの浮上と共に各地で誕生した水状生命体を、人類はそう名付けた。

 彼女たちがなぜ一個の生命体へと進化を遂げたのかは未だ謎だったが、実際に相対してみて分かるのは、彼女たちは共通して「人間嫌い」だということだ。

 生存本能、という奴なのだろうか。彼女たちは徹底して人類との共生を拒み続けた。人類が前代未聞の水不足で絶滅しかかっている原因は、まさにその協調性のなさにあった。

 ……厄介だな、どれだけの数がいる。追い払えるか?

 オトギリは《水精マイム》に意識を向けつつも、唯一武器に成り得る杖に手を掛ける──と、そこでオトギリは、ついさっき泉の横に杖を立てかけたままだったことに気が付いた。


「ちっ、迂闊がすぎる……!」


 それは自分に対して吐いた悪態だったが、彼女たちはそれを自分たちへの宣戦布告と受け取ったようで、数体の《水精マイム》が海栗うに形の球体を弾ませ、オトギリへと飛び掛かった。

 身を守る術はない。一秒後には集団リンチ、数秒後には蜂の巣だ。

 そして、彼女たちが一斉に跳ねたその直後──、


『──κιτ──!』


 シュパーンッ! と、小気味のいい音が迫り来る凶弾をまとめて──蹴り飛ばした。

 雨が降ったように聞こえたのは、《水精マイム》たちが水飛沫となって弾け飛んだ音だった。

 なにが起こった? ふと思い当たって腰の水筒ボトルに触れてみると、蓋が開いていた。さっきまで中に入っていたはずの〝水〟が、いつの間にか全てなくなっていた。


『────ια────』


 いつの間に出て行ったのか、オトギリの前には一糸纏わぬ姿の少女が立っていた。

 少女は海のように透き通ったコバルトブルーの肌をしていて、髪や瞳も同じ色。すらりとした細身の輪郭には女性的な凹凸があり、二の腕や腰、太ももにはフリルのような飾りが付いている。クリオネのような透明感と蠱惑的な質感を持った、ヒトならざる何者か。

 それは〝水〟によって人間の姿形を模倣した──《水精マイム》の少女だった。


「……助かったよ、マイム。君はいつもいいところで現れる」


『──ω──』


「ああ、褒めてるんだ。そうだ、君から彼女たちに伝えてくれないか? 僕たちは敵じゃないって。それからもしも仲良くなれそうだったら、『喉が渇いた』ってのも一緒に」


 少女──マイムはチラとオトギリを振り返って、思案するように小首を傾げた。

 するとそこに、これ好機と背後から一体の《水精マイム》が飛び掛かる──が、マイムはその一体を掴み取って足元に叩きつけると、その上から容赦なく踵で踏みつけた。ウニボールの針はマイムの足の甲まで突き抜けていたが、同じ水状生命体である彼女は特に気にする素振りをみせることなく、グリグリと足の裏で、同胞の頭を撫で擦った。


『──θ、νο──』


『……ミギミギ! ニューニューニュー!』


『──νν、φ──?』


『……ミギ! ……ュギュム……』


 彼女たちの間でどんなやり取りが交わされたのかは知る由もなかったが、どうやら交渉は上手くいったようだ。マイムの足の裏から解放されたウニボールはすっかり針も萎えた様子で、トボトボと、仲間たちの元へと帰っていった。

 世界は大きく変わったが、弱肉強食という自然界の法則は未だこの世界でも有効らしい。


   * * *


 ──数日前、オトギリはその《水精マイム》の少女に命を救われた。

《深界》は常に未知との戦いであり、人間が生きていくにはあまりに過酷な環境だ。これまでにも多くの人間がオアシスを求め訪れたが、道半ばで死んでいった者も多い。

 だから《深界》の探査は十から数十人規模のチームを組んで行われるのが普通だ。

 調査拠点となるキャンプ地を築き、定期的に地上に戻って物資を補給しながら、数ヵ月の時間をかけてゆっくり調査範囲を広げていく。それが《深界》探査のセオリー。

 だが、それに反してオトギリは一人だった。

 艱難辛苦かんなんしんくを共に分かち合う仲間はおらず、水と食料は現地調達。バックパックに最低限の物資は入っていたものの、そんな物は一週間と保たずになくなってしまった。

 食料はまだいい。《深界》には海に見放されてもなお図太く生き残った深界生物たちが生息していて、貝類や甲殻類、両生類と、案外空腹を凌ぐだけならなんとかなった。

 問題は水だ。海が住まなくなった《深界》はまるで死の大地だった。海底には幾つもの水源が眠っているそうだが、そのほとんどは塩の砂漠の底の底に沈んでいるか、海底洞窟の奥の奥に隠れ潜んでいるかのどっちかだ。

 その日その日を生き抜くだけでやっとだった。日ごとに摩耗する体力と精神。生きるために歩き続ける日々。そんな悪あがきがいつまでも通用するほど、人間は丈夫じゃない。

 延々水と出会えずに旅を続けたある日、オトギリはついに渇きに耐え切れず力尽きた。

 そして死を覚悟したあの時──オトギリは彼女と出逢ったのだ。

 塩の砂漠に埋もれていた小瓶の中で、たった一人生まれ生きてきた孤高の《水精マイム》。

 ──それが、彼女マイムだった。


 海栗うに形の《水精マイム》の群生地をあとにし、日がな一日歩き続けたところで、オトギリはマスクを外して息を吐き出した。塩気を含んだ空気の匂いに、思わずせそうになる。


「──マイム、水をくれないか?」


 オトギリが腰の水筒ボトルを軽くノックすると、カポン──と独りでに、蓋が開いた。


『……──ρ、δ──……』


 水筒ボトルからちゃぷりと外に現れたマイムは、ぷわっと泡のような欠伸あくびを吐き出すと、透き通った海色の肌を微かな陽光の下に晒して、まるで人間かのように伸びをした。


「呑気なもんだな。お休みのところ悪いけど、喉が渇いた。僕にも水を分けてくれ」


 催促するつもりで、もう一度水筒ボトルをコンコンと叩く。すると──、

 振り向きざまにマイムは、キスをしてきた。


「──ぅ、んぐ!」


 ぷるりとした冷たくも柔らかな唇がオトギリの乾いた唇に重なると、マイムはそのまま舌と唾液を絡ませるようにして、トクトク──と、オトギリの口腔に水を垂らしていく。

 それはまるで、舌先から身体の芯までを甘い蜜がトロトロと伝い落ちていくようで……。


「──ぷはっ……、マイム! 口移しはやめてくれって言っただろ? 水筒ボトルに注いでくれるだけでいい」


『──ε──♪』


 マウストゥマウスの給水を終えると、マイムはするりとオトギリの身体に肢体を絡ませ、抱き着いてくる。ゼラチン質のしっとりとした感触を相手に、どうにか理性を保つ。

 水状生命体である彼女にも胸の膨らみがあり、くびれがあり、お尻だってちゃんと二つに割れている。そんな最大公約数少女が自らの美貌を惜しむことなく素っ裸でまとわりついてくる。これが寓話かなにかなら、きっと彼女は旅人を惑わす悪い精霊に違いない。


「まったく。彼女たちに水を分けてもらって、少し重たくなったんじゃないか?」


『──ν、θ──?』


「ホント、《水精マイム》っていうのはつくづく不思議だな。水筒ボトルに収まるくらいに小さくなってみせたり、僕ら人間と同じ姿形になってみたり。なあ、いつか君も海月くらげみたいに、空を覆い尽くすくらい大きくなったりするのかな?」


『──β、χ──』


「もしもそうなったら、今よりもずっと大きな水筒ボトルを探さないとな」


 とても会話になっているとは思えなかったが、それでも、反応があるだけマシに思えた。


「それで、マイム。次はどっちの方角に向かえばいい?」


 オトギリはそう尋ねながら、おもむろに杖を正面に掲げた。

 そうするとマイムはしばらく風を読むような仕草をしてみせたあと、オトギリの手を取ってその方角へと手を引いた。今いる地点から、西の方角だ。

 試しにその方へと少し歩いてみると、杖の先端がコツンと岩にぶつかった。コツコツと叩いて確かめてみれば、その壁は高く高くそびえ立っている。


「……早速行き止まりじゃないか。この向こうに僕らが求めるオアシスがあるのか?」


『──φ、ο──』


 マイムはなにかを耳元で囁いたあと、一仕事終えたとばかりにしゅるんと、水筒ボトルの中へと戻っていってしまった。彼女はあまり塩風に吹かれるのが好きではないらしい。

 パタン、と水筒ボトルの蓋が閉じる音がして、再び孤独な時間がやってくる。


「ホント、頼りになる相棒だよ」


 仕方がない。オトギリはマスクを被り直し、海溝の如く深く聳え立った壁沿いを歩き始めた。そうしていればいつかはその壁も、目的地の方へと折れてくれるはずだ。


   * * *


『──ッ……デー、メーデー。こちらダ……、バーズ24……至急、救ム……!』


 それを見つけたのは、元より日向とは縁遠い《深界》が、朱色あかいろに暮れ始めた頃だった。

 初めは《深界》を吹き抜ける塩嵐の音かと思った。酷いノイズ混じりの音で、しかし近付けば近付くほどに、それがスピーカーから発せられる人の声であることに気付く。


「これは……、船か?」


 音の発生源は一隻の探査船だった。船底のほとんどは白い砂漠の表面に沈み込んでいて、船首は岩山にでもぶつけたのか大きく損傷している。恐らくは墜落したのだろう。


「──誰かいるのかっ!? いるのなら返事をしてくれ!」


 船は梯子タラップが降りたままになっていた。入口の扉も開けっ放しだ。オトギリはカツンカツンとわざと足音を鳴らして、船内に足を踏み入れた……が、人が出てくる気配はない。

 船橋ブリッジか? スピーカーの声の主がいるとすれば、そこかもしれない。

 ──だが、そこにも人はいなかった。

 音声は録音された物だった。船橋ブリッジの操作盤を弄ると、ボイスレコーダーが延々リピートしていた騒々しい音も止まった。──と、止める時に余計なボタンを触ったのか、ピッ、とトラックが切り替わる音がしたあとに、さっきとは違う音声が流れ始める。



『──こちら《ダイバーズ‐244》──探査船船長、ノットマン。我々の船は《深界》探査からの帰還中、巨大な塩嵐に遭い墜落した。無線で救難信号を送り続けているが、もう七日も反応がない。備蓄も底を突き始めた。数日前に水の確保のため調査隊を出したが、彼らはまだ戻ってきていない。オアシスに無事辿り着いてくれているのなら、いいのだが。もしそうでなければ………………救援を待つ』



 船橋ブリッジのボイスレコーダーに記録された航海日誌は、墜落当日から今流れた七日目までで、それ以降はなかった。救援が来たのかどうか、一番重要なトラックが欠けている。


「これを録音した人は……船のクルーたちはどこに消えたんだ?」


 船は無人だった。航海日誌によれば二十三名の船員がいたそうだが、船内にはその内の一人も見当たらない。しらみ潰しに部屋を覗いていって、どこにも人の気配がないことを確かめると、ようやくオトギリはこの船がすでに廃棄された物ガラクタであると悟った。


「電気系統は生きてるみたいだけど、飛ばすのは流石に無理か……そりゃそうだよな」


 はあ……と溜め息が漏れ、思ったよりも自分が落胆していることに気付く。


「……今日はここで休ませてもらおう。案外、なにか残ってるかも」


 倉庫には缶詰が残っていた。数はそう多くないが、マイムは食事を必要としない。一人分の腹を満たすだけなら十分。それになにより、もう何日も味の付いた物を食べてない。

 船内にはクルー用の居住スペース(二段ベッドがすし詰めになった狭苦しい部屋)もあったが、せっかくならもっと落ち着ける場所がいい。船橋ブリッジに一番近い一等地、そこにある書斎染みた内装の船長室に、オトギリは荷物を下ろした。

 ゴーグルとマスクを外して、全身に背負った装備を服ごと脱ぎ捨てる。足元にはドサッと塩の山が落ちてきた。一体何日分の積み荷だろう……。オトギリはパンツ一枚の格好になると、汗と一緒に肌にまとわりついた塩をせっせと払い落とす作業に移った。

 そこでふと、先ほどから空になったままの水筒ボトルの方に目をやった。


「さっきからなにをしてるんだ、マイム? なにか面白い物でもあったか?」


 そう尋ねると、むにゅ──と、あのうるおいボディが抱き着いてきた。


『────ξμμγ────?』


 マイムはその勢いでオトギリをベッドに押し倒して、這うように肌を密着させてくる。肌の表面をじっくり舐め回されているような危うい錯覚に、たちまち身体が熱くなる。


「……マイム!? 今は駄目だ……! 今はなんか、マズい」


 彼女が突然抱き着いてくるのはいつものことだったが、今回のはどうも様子が違った。

 愛撫するような優しい手つきで身体を撫で回してきて、仕草の一つ一つがやけになまめかしい。心なしか彼女の身体も火照っているように感じる。まさか裸の僕を前にして、彼女の中に眠っていた野性的ななにかが燃え上がって……いや、まさか。彼女は水だぞ?

 と、不意に、どこか懐かしくも鼻をつんと突くような匂いに気が付いた。


「……ん? なんか君──、酒臭くないか? それ、なにを持ってるんだ?」


 マイムの手には、手榴弾くらいのサイズの小瓶が握られていた。手に取ってみると、匂いでそれが酒だと分かった。軽く揺すってみると、瓶の底でチャポチャポと音がする。


「こんなものどこで拾って……ってまさか、これを飲んだのか?」


 なにやら部屋の隅でガサゴソとやってるなあ、とは思っていたが。まさかアルコールにまで鼻が利くとは思ってもみなかった。船長が部屋に隠していた宝物ヘソクリだろうか?


『──ε──』


 ちゅぷり──と、マイムはオトギリにキスをして、体内で水割りにしたそれを口移しでお裾分けしてくれる。水と酒を9:1で割ったような薄っすい味がした。


「貴重な水を君は……、渇きに酒はタブーだっていうのに。もう絶対に飲ませないからな」


 聞いているのかいないのか。マイムはベッドの上から滑り降りると、今度は椅子の上でステップを踏んで踊り始めた。水でも酔っぱらうんだな、と妙な感心を抱く。


「他の人が今の君を見たらどう思うんだろうな。人類から水を奪った元凶が、酒に酔って、踊ってる。なあ、ちょっとは罪悪感とか感じたりしないのか?」


 酔ったついでに口が軽くなったりはしないか、と思ったが、当然そんなことがあるはずもなく、返事の代わりに、パシャッ──と水飛沫が飛んでくるだけだった。


『────θαιι、κρο────♪』


「それは歌か? 今日は随分と上機嫌じゃないか」


 オトギリはベッドの端に座り直して、適当に選んだ缶詰を一つ開けた。香ばしい醤油タレの匂いがする。缶詰の中身は、焼き鳥だった。思わぬご馳走に笑みと涎が湧いてくる。


「まあ、いいか。君といると、自分が独りぼっちじゃないってつい錯覚しそうになるよ」


 オトギリは小瓶を片手に、机の上の水筒ボトルを目掛けて乾杯をする。そして、マイムの歌声と焼き鳥を肴に、オトギリは小瓶に残っていた最後の一滴を飲み干した。


   * * *


 小窓から差し込んだ朝日が顔に掛かる。朝日と言っても辛うじて日の光を感じる程度の色と熱だったが、オトギリは目を覚ました。船長室のベッドの寝心地は、これまで岩陰で寝起きしていたのが嘘のように感じられて、起きるのが億劫になるほどには快適だった。

 それでも、ベッドから飛び起きざるを得ない事情ができてしまった。


「──マイム、起きろ! 音がする……! 船の外だ。誰かが来た!」


 オトギリは脱ぎっ放しにしていた服と装備を慌てて身に着けながら、枕元の水筒ボトルに呼びかける……が、彼女は水筒ボトルの中で小さく波紋を揺らすばかりで、なかなか起きてこない。


「……いや、君はそのままにしておく方がいいか」


 オトギリは水筒ボトルをバックパックの奥底に仕舞うと、杖を手に取って、船長室を出た。

 まさか船のクルーたちが帰ってきたのか? いや、これは多分、違う。警戒はしつつも、オトギリの足取りは軽やかだった。途中なにかに躓いて転びそうになったが、その勢いのままに外に出る。そして、梯子タラップに足をかけてすぐ、上空から大きな影が降りてきた。

 それは──〝船〟だった。鯨のようなフォルムをした楕円形の胴体に、巨大なプロペラを内蔵したヒレ形の両翼。地上と《深界》とを繋ぐ、空飛ぶ探査船。


「──《ダイバーズ》か!」


 梯子タラップが地上に降ろされると、船内からは続々と、厳めしい装備に身を包んだ船員たちが降りてきた。数は十人とちょっと。彼らが身に着けているマスクには、昆虫のような口吻ストローが付いている。彼ら《ダイバーズ》がアメンボと揶揄される所以ゆえんだ。

 そしてアメンボ集団の中でもその男は、一際大きな足音を立てて、梯子タラップを降りてきた。


「おぅおぅ派手にぶっ壊したもんだな、ええ? そいつはお前の船か?」


 軽薄でいて、しかし威圧感のある濁声に、オトギリはつい萎縮してしまいそうになる。


「……いや。一晩、借りてただけだよ。それよりもあんたたちは──」


「ならいい。──お前ら、船を検めろ! オアシスに通ずる情報があれば全部さらえ!」


 男の号令で、アメンボたちはぞろぞろと群れを成して、廃船を物色し始めた。

 リーダー格らしいその男は、廃船の傍に寄って見上げながら、携帯型の水煙草に口吻ストローを突き刺した。風に乗って漂ってきた煙が顔にかかり、オトギリは顔をしかめる。


「多分、彼らはなにも残してないと思う。僕が来た時にはもう誰もいなかった」


「──あら、それならとんだ無駄足だったかしら。せっかく救難信号を見つけて来たのに」


 遅れて、船から女が降りてきた。彼らよりもずっとラフな格好で、装備の上に白衣を羽織っている。パタパタと白衣の裾が風にはためく音は、鳥が羽ばたくのにも似ていた。


「あんたたちは《ダイバーズ》……で、いいのかな?」


「ええ。私はエイチよ。一応はドクターってことになるのかしら。博士と医師、両方の意味でのね。で、あっちで偉そうにしてる彼はボルツ。見ての通り、私たちの船長ね」


「そうか。じゃあ、本当に。……よかった」


「よかった?」


「ああ、えっと。僕はオトギリだ。あんたたちみたいな人に出会えるのを、待ってたんだ」


「ふぅん? それは光栄ね。救難信号はあなたが?」


「いや、そうじゃないけど。似たようなものだよ。あんたたちはこの船の救難信号を聞いて来たんだろ? 僕も助けを求めてた。ずっと……」


 握手でも求めるような歓迎っぷりに対して、白衣の女──エイチは、訝しげにオトギリの、お世辞にも綺麗とは言い難いみすぼらしい格好に、目をやった。


「……あなた、他に仲間は? 《ダイバーズ》ではなさそうだけど」


「仲間は、いない。住んでいたコロニーなら東の方にあるけど、今は一人だ」


「たった一人で《深界》に? 一体どうして?」


「それは……色々と事情があって」


 彼女が不審に思うのも無理のないことだが、その事情を話すのはどうにもはばかられた。

 どう答えたものか……。オトギリが答えあぐねていると、煙草の臭いを身に着けた大男──ボルツが、ザクザクと後ろから歩いてきて、言った。


「《深界ここ》に来る奴なんて二種類しかいねえよ。一つは、オアシスを掘り当てて一山当てようっていう、俺たちみてえな探索者ダイバーズ。もう一つは、ハズレくじを引いて地上を追われちまった、憐れな追放者ロストマンだ。──で、お前はどっちだ、ええ?」


 嫌な質問だ。あまりに的確に傷をえぐるものだから、突然、全身に酸素を運ぶための管がキュッと縮み上がってしまったかのような、どうしようもない息苦しさに襲われた。

 オトギリが黙っていると、廃船の方から船員の一人が叫ぶのが聞こえた。


「──船長、この船はハズレです! こいつら、ろくに水源の情報も持ってない。それに、オアシスを見つけるどころか、水の一滴でも有難がったに違いありませんよ!」


「あァ? なにがあった!?」


「死んでるんですよ! 船の中にゴロゴロと干からびた死体が転がってる! 中はまるでゴーストシップだ。この様子じゃあ、この辺りにオアシスなんて──」


 船員の報告を聞いたボルツとエイチは、ともに困惑の表情を浮かべ、オトギリを見た。

 オトギリもまた、言葉を失っていた。知らなかったからだ。船の中には誰もいないと思っていた。まさかすぐ隣に死体が転がっていただなんて、全く気が付かなかった。


「ふぅむ。オトギリ君、って言ったわね。あなた──これが何本に見える?」


「……なんなんだ、いきなり」


「簡単なテストよ。いいから答えてみて。今、私は指を何本立てているでしょう?」


 エイチはオトギリの正面に回って、そう尋ねてきた。他人ひとを小馬鹿にしたような簡単な数当てゲームだ。だが……オトギリはその簡単な問いにも、答えることができなかった。


「──あなた、目が見えてないのね?」


 オトギリは答えなかった。名探偵に犯行を暴かれた犯人のような面持ちで、唇を噛む。


「盲目で、追放者ロストマンか。確かにワケありね」


「ドクターっていうのは、他人ひとのコンプレックスを陳列するのが仕事なのか?」


 なにそれ? と、エイチは首を傾げる。ただの独り言だ。


「チッ、時間を無駄にしたな。もうここに用はない! お前ら、さっさと引き上げるぞ!」


 ボルツはすっかり興味を失くした様子で、そう叫んできびすかえす。

 彼らが撤収していく気配を悟ったオトギリは、慌てて、ボルツの背を追いかけた。


「ま、待って──僕も連れていってくれ! 僕も、あんたたちの船に乗せてくれないか?」


「あァ? 馬鹿言え。なんのメリットがあって、追放者ロストマンなんざ連れていかなきゃならん」


「人助けだと思ってくれたらいい。こんな場所に一人見捨てていくなんて、良心が痛むだろ? 地上に送ってくれるだけでいいんだ。ここでないどこかなら、どこでも」


「役に立たない奴を口減らしのために《深界》に堕とす。珍しくもねえ、どこでもやってることだ。飲み水が勿体ねえからな。お前もそうやってコロニーを追い出された口だろ? すでに役立たずの烙印を押された奴を、どこの誰が受け入れてくれるってんだ、ええ?」


 それは、と言葉に詰まる。正論だった。だが、ここで置いていかれてしまったら、もう二度と生きた人間には会えないかもしれない。そう思うと、余計に、必死になった。


「なら、僕を雇ってくれ。僕も元は《ダイバーズ》にいたんだ。確かに目は見えないけど、船の仕事なら身体が覚えてるし、《深界》の探査だってなにか手伝えることが──」


 そこまで言ったところで、ふと、ボルツが立ち止まり、振り返った。彼は背中に背負ったライフルを片手に構えると、その妙に焦げ臭い銃口をオトギリの額に突き付けて、言った。


「いいか、お前は競争に負けたんだよ。適者生存、それがこの世界のルールだ。そんでそのルールブックにはこうも書いてある。──死人は黙って、一人で死んでろ」


 口吻ストローの先端から吐き出された煙が、薄汚いねずみをあしらうように、ふぅ──とオトギリの顔にぶつかって、後ろへと流れていく。オトギリはその煙に逆らって、前に踏み出した。


「……死人は喋らない。僕は、彼らとは違う」


   * * *


 まるで竜の背中を歩いているようだと思った。ゴツゴツとささくれ立った鱗が無数に並び立つ背中を、小人になって歩いているような気分だ。ヒトの行く道じゃない。


「……おーい、マイム。少し待ってくれ! 一人で先に行くなよ!」


 岩が砂利感覚で敷き詰められた険しい岩石地帯を、オトギリは歩いていた。杖の先端で石塊いしくれを掻き分けながら、時にはその杖で自分を支えて一歩一歩と進んでいく。

 マイム印の羅針盤コンパスは、再び西を指した。そして西へ西へと進んでいるうちに、この悪路だ。彼女はわざと自分を苦しめようとしているのではないか、と疑いたくもなる。


「悪かったよ、マイム。バッグの中に閉じ込めてたことは悪かった。でも、彼らにはまだ君のことを知られたくなかったんだ。だからさ、そろそろ機嫌直してくれよ」


 マイムは怒っていた。缶詰と一緒にバッグの中に放置されたことがよほど気に食わなかったらしい。外に出した時にはもうへそを曲げてしまっていて、水筒ボトルに戻ることも嫌がった。拗ねた様子で先に先にと行ってしまう彼女を、オトギリは水音だけを頼りに、追いかける。

 もしも彼女にまで見捨てられてしまったなら、今度こそ、僕は終わりだ。


「──うわっ!」


 不意に、つま先が鱗の角に引っ掛かり、躓いた。焦って足元をよく確認しなかったせいだ。音と僅かな光しか届かない盲目の世界には、いつだって見えない凶器が潜んでいる。迂闊だ、と内心悪態を吐きながら、オトギリの身体は前に倒れていく。顎の少し先には鋭く尖った岩があるが、気付かない。鉱物の逆鱗が喉元に突き立つ──寸前、柔らかな水のクッションが、オトギリの身体を掬い上げるようにして、支えてくれた。


「……マイム、か。ありがとう……助かったよ」


『──ηο──』


 仕方のない奴だ、とでも言いたげな声音だった。案外近くにいてくれたらしい。

 また、塩嵐が吹雪いてきた。岩と岩の隙間に空いた自然の避難所に潜り込むと、適当な場所に腰掛けて、休憩にしよう、と言ってマイムから水をもらった。彼女はチョロチョロと水筒ボトルに水を注いでくれる。口移しじゃないのが残念だ、とは言わなかった。


「……惨めなもんだよな。僕は結局、誰かの助けなしには生きていけないみたいだ」


 水筒ボトルに口をつけ、渇いた唇と喉を潤しながら、地上にいた頃をふと思い返す。

 オトギリが生まれ育ったコロニーは、決して豊かな場所ではなかった。

 限られた水源と、《ダイバーズ》が《深界》から持ち帰ってくる水資源。唯一の生命線であるそれらを維持するためなら、平気で弱者を切り捨てる道を選ぶ。酷な街だった。

 早々に両親を亡くしたオトギリは、長らく浮浪児としてそんな街の陰に住み着いていた。

《ダイバーズ》に入団したのは、仕事を選んでいる余裕なんてなかったからだ。身よりもなければ、碌に教育も受けてない。なにかしらの技術に秀でているわけでもない。それでもこの街で生きていくためには、誰もが自分の価値を示す必要があった。

《ダイバーズ》の仕事は危険ではあったが、シンプルだった。《深界》に行って、水を見つけて、帰ってくる。それだけだ。幸い体力には自信があった。数年と続けているうちに、これが僕の天職なんだろうと考える程度には、性に合っていた。

 しかし、何度目かの出航を迎えたある日──オトギリは視力を失った。

 まだ離陸前の、鯨のような探査船の胴体がポップコーンのように弾け、ヒレ形の両翼から吹き飛んだプロペラの破片が港を掻き毟った。熱を多分に含んだ爆風が、周囲の大気を薙ぎ払い、今まさに船に乗り込もうとしていたオトギリの身体を、撥ね飛ばした。

 探査船を爆撃したのは、ミサイルだった。コロニーが管理している水資源を狙った、他国からの先制攻撃。その狼煙のろし代わりに、コロニーの港が襲撃されたのだ。

 オトギリが医務室で目を覚ました時、戦争はすでに終わっていた。コロニーは無事だった。奴らを返り討ちにしてやったぞ、と誰かが吠えていた。その誰かの姿はまるで、粗い目のフィルターに掛かったかのように見え、その障害は幾ら目を擦っても治らなかった。

 医者ドクターは、爆風に目を焼かれたせいだろう、と言った。もう二度とその目が良くなることはないだろう、とも。それはこの世界では事実上の──死刑宣告だった。


「コロニーの維持の妨げになる。それが僕を追放した連中の言い分だったよ。戦争のあとで余裕がなかったんだな。要は口減らしさ。それから船に乗せられて、最低限の水と食料だけ持たされて、《深界ここ》に置き去りにされた。勝手に躓いて、転んで、じゃあバイバイ。そういう世界なんだ。僕みたいな奴からどんどん死んでいく。そういう酷な世界」


 回想を終えて、オトギリは岩陰の外に意識を向ける。塩嵐は止みそうにない。


「それでも僕は生きてたいんだ。だからまだもう少しだけ、僕に付き合ってくれるか?」


 隣に座るマイムの方を見る。すると、マイムは唐突にオトギリの手を取って、グイッと引っ張り上げた。あまりの力強さに、思わず杖を取り落としそうになる。


「おっと、急に引っ張るなよ。びっくりするだろ?」


『──νδ、σ──!』


「まったく、気が早いな。まさかこの嵐の中を行くつもりか?」


 そう尋ねると、マイムは水状の身体を小さくして、オトギリが手に持っていた水筒ボトルの中へとするりと潜り込んだ。なるほど君にはその手があったか、と感心する。


「いつの間に反抗期は終わったんだ?」


『──φ、ο──』


「ホント逞しいな、君は。他人ひとを使う才能があるよ」


 オトギリはやれやれと肩をすくめ、水筒ボトルを腰のベルトに引っ掛ける。案内は頼むぞ、と声をかけると、水筒ボトルは前に押し出すように跳ねた。……出発だ、と一人呟く。


 塩嵐の中、竜の背中のような険しい岩場をしばらく歩き続けていると、不意に、嵐の音に混じって、ピュォーッと隙間風のような音が聞こえてきた。洞窟の奥から吹いてくる風だ、とすぐに分かった。水筒ボトルも一層大きく揺れて反応している。──ビンゴだ。

《深界》にはまだ未発見の海底洞窟が幾つも眠っている。これもその内の一つに違いない。そう思い、オトギリは逃げ込むようにその洞窟の中へと駆け込んだ。

 洞窟に入ると、嵐の脅威も去る。入口の外でゴォゴォと吹雪く音だけが騒がしい。


「嵐の中に隠れた洞窟か。でも君がいたんじゃ、この洞窟も隠れ甲斐がないな」


『──ω──』


「ああ、褒めてるんだよ。……さぁ、進もう。この先に君が見せたい物があるんだろ?」


 洞窟の中はミミズが掘り進んだかのような一本道で、巨大な空洞がずっと奥まで続いているようだった。杖で石を小突く音ですら、遠くまで響き渡って聞こえる。

 不意に、ぱちゃぱちゃ──と、耳の横を蝶の羽音が掠めていった。──《水精マイム》だ。

 蝶の《水精マイム》は水音を鱗粉の代わりに散らしながら、奥へと飛んでいった。オトギリはその蝶に導かれるようにして、洞窟を進む。羽音の数は次第に増えていく。

 そして、洞窟の最奥に辿り着いたところで、青く澄んだ水面の反照が二人を出迎えた。


「……これは…………」


 洞窟の最奥には大きな湖があった。鍾乳洞の天蓋に守られたその湖は、深く底を見通すことができるほどに澄んでいて、涼しげな水音と心地よい冷気とが岩肌の防音室の中に絶えず染み渡っている。……見つけた! 紛れもないオアシスの絶景が、そこにはあった。

 水面みなもには蝶や鳥の形をした《水精マイム》が飛び回り、水中には魚の形をした《水精マイム》が泳ぎ、水辺には海栗うにやヒト形の《水精マイム》が集ってなにやら楽しそうに談笑している。

 そこは──幾百もの《水精マイム》たちが棲む、彼女たちだけの楽園だった。

 彼女たちはオトギリの存在に気付くと、警戒心を露わにして、こちらを睨んだ。オトギリの目には彼女たちの姿は映っていなかったが、歓迎されていない気配は十分に感じた。

 このまま袋叩きに遭うのではないか、と心配しかけた矢先、


『────νον────!』


 水筒ボトルから勢いよく飛び出したマイムは、一流の水泳選手のような華麗なフォームで、湖に飛び込んでいった。トポン──と、ささやかな水飛沫が跳ね、水面に波紋を作る。

 初めてマイムと会った時、彼女は両手ほどの小瓶を住処にしていた。これほどまでに大きな水溜まりを見たのは初めてだったに違いない。マイムは湖の底の底、端の端までを存分に泳ぎ回り、鳥かごから解き放たれた鳥のように、全身で、オアシスを堪能していた。

 気付けば、マイムの周りには多くの《水精マイム》が集まってきていた。余所者だと言って追い出されることはなく、すっかり仲間の一人として受け入れられている風でもあった。

 なんだ、人間よりも随分と懐が深いじゃないか、と。なんとなく不公平感を覚える。

 彼女は今、一体どんな表情を浮かべ、仲間たちと触れ合っているのだろう?


「……そうか。きっと君自身も、オアシスを探してたんだな。多分、そうなんだろう」


 マイムは自分が呼ばれたと思ったのか、湖の水面をつま先で滑ってやって来ると、オトギリを湖に招き入れるようにして、手を伸ばした。


『────ψ、τν────』


 オトギリはそんな気配を感じて、咄嗟に後ろに手を引いた。差し出された海色の指先が、不思議そうに、宙を彷徨さまよっている。


『──ζ、φι──?』


「ありがとう、マイム。君のおかげでここまでこれた。君がいなければ僕はとっくに死んでいた。感謝してもしきれないよ。でも、残念だけど…………ここでお別れだ」


 そう言ってオトギリは、ポケットから手のひらサイズの──〝発信機〟を取り出した。

 それは、彼らと別れてからずっと、ちっぽけな罪悪感と共に仕舞ってあった物だ。その発信機はチカチカと赤く点滅しながら、今もなお、信号を送り続けている。


「君は逃げろ、マイム。──彼らが来る」


 その直後──、

 平穏だったはずのオアシスに、アメンボ装束の海賊たちが一斉に雪崩れ込んできた。


『────!』


 ゴーグルと口吻ストローの付いたマスクを身に着けたアメンボは、節足動物染みた六本の脚形のスラスターを背後に吹かして、洞窟内を我が物顔で飛び回る。彼らの手にはすでにライフルが握られていた。しかしその弾倉シリンダーに装填されているのは鉛の銃弾などではなく、──いかずち

 アメンボの一人が引き金を引くと、銃口からはバジッ──と蟲の断末魔のような雷光がほとばしり、それは洞窟の中を駆け巡って、水辺にいたヒト形の《水精マイム》に噛み付いた。

 パシャン、と──《水精マイム》はただの水飛沫となって、地面に飛び散った。


「──おぅおぅ本当にオアシスを見つけちまうとは、たまげたな! それもこいつはトンデモねえ、大当たりだッ!」


 ボルツは目の前に広がる宝の山に目を輝かせながら、湖の岸辺へと足を踏み入れた。


「さあて、お前ら! こっから先は狩りの時間だ! 灰は灰に、塵は塵に。水は水に還るのがこの世界のルールだ! 《水精マイム》共は一匹残らず殺して、水に還してやれ!」


 船長からの号令だ。アメンボたちは一層猛り狂って、湖への侵攻を開始する。

 逃げ惑う水も、立ち向かう水も、立ち竦む水も、蝶も鳥も魚も海栗うにもヒト形も……四方八方から降り注ぐ雷の銃弾を前に飛沫となって、死んで逝く。

 彼らが手にしているのは、《水精マイム》を殺すことに特化した電解銃ライフルだ。それは水の叛乱以降、彼女たちの中に芽生えた生命を否定する、人類の抵抗の象徴でもあった。


「……思ったよりも来るのが早かったな。あんたたち、ずっといてきてたのか?」


「ええ、空からね。塩嵐のせいで船を停める場所には少し困ったけれど」


 オトギリは背後の足音に振り向いて、通信機をエイチに投げ渡した。それは彼女に借りた物だった。彼ら《ダイバーズ》にオアシスを献上するための、取引の証として。


「信用されてるのかいないのか。まあ、なんでもいいさ。これで約束は果たした。約束通りオアシスを見つけて、案内までしたんだ。そっちも僕の願いを叶えてくれ」


「だそうよ、船長」


 と、エイチはその船長の方に顔を傾ける。虐殺の光景を愉快そうに眺めていたボルツは、煩わしそうに顔をしかめながら、電解銃ライフルを肩に担いだ格好で歩いてくる。


「あァ、約束だ? なんて言ったっけな」


「僕をあんたの船で雇って欲しいって話だよ。今朝、あの廃船の前で、そう約束しただろ」


 オトギリは、彼に銃口を突きつけられながらも言った言葉を、改めて口にする。


「あァ、そうだったな。約束だ。頑張った奴には、それ相応の褒美をやらねえとな」


 ボルツは口吻ストローから煙を吹いて、電解銃ライフルを肩から降ろした。次の瞬間──バジッと銃口から稲光が瞬いて、雷の放射が、そのすぐ正面にあったオトギリの身体を突き飛ばした。


「──ァ、かッ……!」


 オトギリは、馬の後ろ脚に蹴り飛ばされたような勢いで、地面を転がった。

 雷は一瞬のうちに全身を駆け巡って、血管も内臓も焼き切っていた。焦げた臭いが鼻の穴から抜けていって、口の中へと戻ってくる。身体のあちこちから焦げた血が噴き出して、衣服をあっという間に赤黒く染め上げた。感覚という感覚が、ドロリと零れ落ちる。

 なにが、ナぜ? という疑問が先にあって、撃たれたという実感が、遅れてやってくる。


「……ぅ、ぐ……ぁ……んた、……僕を……騙ィた、のカ……!?」


「よく考えてもみろ。オアシスが手に入った今、馬鹿正直に約束を守るメリットがあるか? ないんだな、これが。ほら、よく言うだろ。死人に口なしって奴だ」


「……ふざ……ッ、……ぐぞ! ……待て、よ……待、ェェェ…………ッ!」


 オトギリは地べたを這いずって、手を伸ばす。割れたゴーグルの内からその姿を睨むが、暗闇の中に赤い染みが広がっていくばかりで、奴の足音は次第に遠ざかっていく。


「悪く思わないでね。馬鹿な取引を持ち掛けてきたのは、あなたの方なんだから」


 頭上で誰かがなにかを囁いていたが、もはや碌に顔を上げることすら叶わなかった。

 これはきっと、報いなのだろうな、とオトギリは思った。

 マイムの好意を裏切って、彼女の居場所を海賊共に売り渡そうとした、報いだ。

 一人で死ぬのが怖かった。誰の目も届かない場所で、無価値に、人知れず死んで逝くのが怖かった。そんな孤独感から逃れるためだけに、唯一の友人を裏切ってしまった。

 ……そうだ。彼女はちゃんと逃げただろうか。せめて、それくらいは……。


「──な、なんだこいつ……ッ、ぐあ……!」


 空からアメンボが一人墜ちてきた。グシャ──と、地に叩きつけられたその男の頭部に、


『────κιτ、κιτ、κιτ、κιτ────!』


 空から降り立った彼女は、さらに踵を叩きつけた。二度、三度、四度と。


「なにしてやがる! この《水精マイム》が、撃ち殺して──」


 背後で別の男が叫ぶ。銃口から雷が放たれるよりも早く、彼女は身を翻し、男の頭部に回し蹴りをぶち込んだ。十数人の、武器を携えたアメンボたちを相手に、マイムは地面を蹴って、湖の上空を飛び回る連中にも蹴りを浴びせながら、次々に撃墜していく。


『────κ、ιαααα────!』


 マイムは戦っていた。その姿は見えなかったが、彼女の咆哮が、昏い世界を震わせる。


『──、──!?』


 不意に、バジィッ! と雷音が吠えた。銃口から放たれた青白い稲妻──それはマイムの背中に直撃し、水のみで構成された彼女の肉体を無造作に引き裂いた。

 まるで水風船を針で突いたように、パシャン、と水飛沫が弾けて散った。


「……ほぅ、まだ生きてんのか。活きがいいだけはある」


 頭部と、左半身。マイムにはそれだけが残されていた。マイムは未だ体内を駆け巡る雷の残留に苦しみながらも、どうにか湖に逃げ込もうと、必死に地べたを這いずっている。


『……、……。……』


 這いずって、這いずって、地面に擦れる度に、水状の肉体も削れ落ちていく。その背後ではボルツが電解銃ライフルを構えて、水溜まりのような姿をしたそれに、狙いを付けている。


「逃がすかよ。こういうのはきっちり殺さねえと、あとで大抵面倒になるんだ」


 ボルツが笑う。引き金を引く。バジッ、と銃口から火花が散る。口吻ストローから吐き出される煙の音が、鮮明に聞こえる。ちゃぷ、ちゃぷ──と、彼女が這いずる音がする。

 雨の音を、幻聴に聞いた。

 それは多分、やはり幻聴なのだろうけれども、それがどうしても彼女の悲鳴のように聞こえて。──助けて、と。聞こえるはずもない救難信号メーデーが、僕の耳に届いた気がして。

 気が付くと、オトギリはマイムに覆い被さるようにして、動いていた。


「────────ッ!」


水精マイム》を焼き殺すための稲妻が、背中を裂いて、すでにボロ雑巾のようになったオトギリの肉体に、僅かながらに残った血肉をも焼き焦がして、体内でスパークした。

 これが自分にできる唯一のことだ。オトギリは事前に脳に叩き込んでおいたプログラムを実行するように、マイムの残滓のこりかすを抱いたまま、ザボン──と、湖の中へと飛び込んだ。

 沈んでいく。

 オトギリの中には、意識と呼べるものはもうなに一つ残っていなかった。ただ、後悔と、結局拭い去れなかった孤独感と、それから、まだ死にたくないな、という未練。それだけを残して、オトギリの肉片は湖へと溶けていく。

 沈んでいく。

 マイムの中には、唯一意思だけが残っていた。目の前で死に逝く彼を抱きしめようと手を伸ばして、それが叶わないと知ると、自らの身体を彼の元へと引き寄せるようにして、泳いでいった。そして彼の残骸を心の中で搔き集めると、その一つにキスをする。

 血と肉と水とが溶け合って。意思と水とが重なって。ヒトと水とが混ざり合って。

 そして世界はぐるりと──反転した。


   * * *


「おいおい、なにしてくれてんだよお前。俺のオアシスに勝手に死体沈めてんじゃねえよ。汚ねえだろうが、ええ?」


 ボルツは、銃口からも口吻ストローからも煙の臭いを吐き出しながら、湖の底を覗き込んでいた。

 死にかけの《水精マイム》の残骸に、彼はトドメを刺そうとして、そこに、オトギリ少年が割って入った。エイチの目にはその行動が、《水精マイム》を庇ったように見えた。


「罪滅ぼしのつもりだったのかしら。だとしたら、身勝手な男ね」


 ボルツは湖の岸辺に立って、面倒な仕事を増やしやがって、と湖の底に沈んでいった死人に唾を吐いている。彼も彼で身勝手な男だ、とエイチは肩を竦める。

 ──と、ボルツが顔をしかめたのはその直後のことだった。


「……あァ?」


 湖から、手が伸びてきた。人間の手だ。水中から伸ばした手を、岸辺に腕ごと引っ掛けて、誰かが這い上がってくる。次に、頭部が水面から顔を出す。人間の頭だ。オトギリの頭だ、とすぐに気付く。ゴーグルもマスクも付けておらず、初めて彼の素顔を見ることになったのだが、湖から這い上がってくる必要がある人間など、それ以外考えつかない。


「……お前ッ、まだ生きて──」


 さしものボルツも、驚愕のあまり思わず後退っていた。死人が帰ってくるとは、と。

 ボルツはすぐさま引き金を引いた。せっかく湖から死体を引き上げる手間が省けたというのに、彼は撃った。バチャン──と湖の水面上で水飛沫が跳ねた、その瞬間──。

 青く透き通った〝水状の腕〟が、ボルツの顔面に喰らい付いた。


「──ッお、ごぉ……ッ!」


 それはまるで獲物に飛び掛かる大蛇の如き獰猛さで、マスクの隙間からボルツの口内に侵入したその腕は、そのまま喉をゴボゴボと貫いて、彼の臓腑を内側から喰い荒らした。彼の腹は、止めどなく体内に流れ込んでくる水によってブクブクと膨らみ、そして、全身の穴という穴から、まるで噴水かのように真っ赤な水が噴き出した。

 べちゃ、と──地上で溺死したボルツの死骸が、その場に崩れ落ちた。


「────────」


 死骸の前には、いつの間にか湖から這い上がってきていたオトギリの姿がある。ボルツを死に追いやった〝水状の腕〟は、さも当然のように彼の左腕へと帰っていく。

 オトギリの身体は明らかにヒトのモノではなくなっていた。欠損したヒトの部分を補うように、水でかたどったヒト形のパーツが彼の肉体と同化している。片腕はヒトで、片腕は水。片足は水で、片足はヒト、というように。パッチワークで作ったツギハギの人形のような、ヒトに《水精マイム》を足してそこから人間性を差し引いたような、奇妙な姿を彼はしていた。


「──てめえ、船長を! ぶち殺してやるッ──!」


 彼の背後から、アメンボの一人が電解銃ライフルを撃った。完全に不意を突いた一発だったが、彼はその雷音に見向きすることなく身体を揺らして、かわす。さらにその動作で、勢いよく足を振り払った。〝水状の足〟が、ホースの先端から噴き出した水のように数メートル先の男を目掛けて伸びていき、男の身体を締め上げ、体内の水という水を絞り取って殺した。


「──ば、化け物ッ!」


 と、誰かが叫んで、引き金を引いた。そう言った誰かも水状のなにかに襲われて、水死体となって、墜落した。ヒトの形をした、ヒトではない何者かの手に掛かって、一人、また一人とアメンボが死んで逝く。

 これは異常事態だ。私の手には負えない。そう判断して、エイチは仲間に背を向けて逃走を図る。……が、背後から伸びてきた腕が足首に絡みついてきた。受け身も取れずに、エイチは無様に転んだ。振り返れば、半人半妖の化け物が近づいてくる。


「……ひぃっ、来ないで! 私はなにもしてないでしょう!? だから、殺さないで!」


 エイチは必死になって、懇願する。意味があるかは分からないが、口と鼻を手で隠す。

 化け物の眼は片方が白く濁っていて、もう片方には海色をした球体が浮かんでいた。その海色の球体の表面には、怯えた表情で化け物を見上げる自分の姿が映っている。自分が水の中に囚われ、溺れているような錯覚に、エイチはぶるりと身震いした。


「……あ、あなた、は……オトギリ君なの? それとも──」


 やはり彼は答えてくれなかった。あるいは彼女かもしれないが、どっちでもいい。

 チョロチョロ──と、下着の内側から漏れ出た液体が、股の下に黄色い染みを作った。化け物は、その場に屈みこむと、ゆっくりと顔を近付けてくる。殺される! そう思った直後、化け物はなにを思ったのか、失禁してできた水溜まりに舌をつけて、舐めた。


「────マズい────」


 彼が取った行動も、彼女が言った言葉の意味も全く理解できなかった。未知への恐怖と疑問とが一杯一杯になって溢れ出し、エイチはぐるりと白目を剥いて、気を失った。


   * * *


 目が覚めた時には全てが終わっていた。という経験は、コロニーの港が襲撃された日を思い出させる。あの時も今と同じように気を失っていて、ベッドで目を覚ました時には、目を閉じる前の世界より180度、色んなモノがひっくり返っていた。


『──目が覚めたのね、オトギリ君──』


 オトギリはハッとして、声がした方に顔を向ける。その呼び方からエイチの声かと思い、警戒したが、水のフィルターに掛けられたようなその声には、どこか聞き覚えがあった。


「……その声、まさかマイムか?」


『──そう、ボク。あなたはいつも、そう呼ぶね。マイム。マイム、って──』


 半信半疑で尋ねるオトギリに、彼女は言葉の発音を楽しむかのように答えた。

 マイムは湖の水面に、つま先立ちで浮かんでいた。オトギリは岸辺から湖に両足を垂らした格好で、周囲に聞き耳を立てる。濁った瞳に映った世界は相も変わらず真っ暗だ。


「彼らは……《ダイバーズ》はどうなった?」


『──彼らなら、まだその辺りにいるよ。もう動かないけど──』


「……死んだ。いや、殺したのか。じゃあ、あれは……夢じゃなかった……?」


 オトギリは自分の身体をまさぐって、どこにも傷がないことを確かめる。撃たれたこと自体が夢だったのか、それからあとのことが夢だったのか、曖昧だ。

 もしかして、今こうして彼女と話していることこそが夢なのだろうか?


「僕はなんで生きてるんだ?」


『──それは多分、ボクと混ざり合ったからじゃない? 《水精マイム》の心臓は、心だから。生きる意思さえあれば、どんな形であれ蘇る。ロマンチックに言うなら、奇跡ミラクル──』


「……君はいつからそんな、流暢に言葉を話すようになったんだ?」


『──ボクは元からよく喋ってた。あなたが理解できなかっただけで──』


「君は、僕の言葉が分かってたのか?」


『──ううん。でも、今なら分かる。それも、あなたと混ざり合ったから、かも──』


 混ざり合う、ということの原理はよく分からなかったが、あの時確かに彼女と一つになったという実感もあって、そういうものか、と不思議と納得できた。


「僕のこと、怒ってないのか?」


『──怒る? どうして──?』


「僕は君の居場所と、君の同胞を彼らに売ったんだ。自分の価値を示すためだけに。本当なら、彼らと一緒に死体になっていてもおかしくない人間だ。むしろ、そうあるべきだ」


『──あなたは、死にたかったの──?』


「そうじゃない。そうじゃない、けど……」


 彼女の問いかけに、オトギリは戸惑った。自分でもどうしたいのか分からなかった。

 すると、マイムは湖からすぅーっと岸辺に滑ってきて、オトギリの隣に座った。


『──だったら、生きてたらいい。ボクはあなたに死んで欲しいとは思わないし、今更あなたにいなくなられたら、多分、困る──』


 そう言ってマイムは、すぐ傍にあった杖を手に取って、オトギリに手渡した。


『──ボクはまだ、色々な景色を見てみたい。それはあなたがいないとできないこと──』


「いいのか? せっかく、オアシスを見つけたのに。ここは君の居場所だろ?」


『──いいの。ここはいいところだけど、ボクには少し、広すぎる──』


 マイムは湖に目を向ける。コポコポ──と、湖の奥底から幾つもの泡が、水面に浮かび上がってきた。それはシャボン玉のように膨らんで、やがて、蝶や鳥になったり、魚になったり、海栗うにやヒト形になったりする。湖は、さっさまでの喧騒を忘れてしまったかのように、元の平穏な楽園の姿を取り戻していた。


「まったく、贅沢な悩みだな。……まあ、君がそれでいいなら、いいさ」


 それから少しだけ休憩して、オトギリは多少の未練を残しつつ、湖を発つことにした。

 洞窟の外は相変わらず塩嵐が吹雪いていて、そういえばそうだった、と肩を落とす。


「そういえば、君に聞きたいことがあったんだ」


 オトギリは洞窟の外に顔を覗かせながら、腰に提げた水筒ボトルに話しかける。水筒ボトルからは『──なに──?』と言葉が返ってくる。


「君はどうして、僕を助けてくれたんだ? 初めて会った時だ。僕が死にかけてた時」


『──ああ、それは──』


 彼女は、少し眠たそうにしながら言った。


『──あなたが助けを求めてたから。助けて、って。声がしたから──』


「なんだそれ。そんなこと言ってたか? 僕が?」


『──言わなかった? じゃあ、幻聴かな──?』


「…………いや、どうかな。言ったかもしれない。あの時は、意識が朦朧としてたから」


 多分、と思う。心ではずっと助けを求めていたのかもしれない。心の中で叫んでいただけの救難信号メーデーを、偶々、彼女は見つけてくれたのだ。彼女の言葉を借りるなら、奇跡ミラクルだ。


「──待って、オトギリ君!」


 待って、と。背後から女の声がした。振り返ってみると、ぜぇぜぇと息を切らしながら、エイチが駆けてきたところだった。まさか生き残りがいたとは、と驚く。


「なんだ。あんた、生きてたのか」


「待って、置いていかないで。私も連れていってよ。ほら、約束したでしょう?」


 身勝手な、と呆れを通り越して可笑しくなる。まるで水に映った自分を見ているようだ。

 オトギリは水筒ボトルの蓋から怪訝そうに顔を覗かせるマイムと顔を見合わせて、笑った。


「あんた、船は出せるか?」



 深度三二四〇メートル──《深界》。

 その遥か上空では、今日も海月くらげが風に凪いでいる。

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