
『祭りのあとに』
「お母さん、浴衣の着方、これで合ってる?」
「んー? たぶん大丈夫」
「たぶんじゃ困るの」
鏡の前で、少女はしきりに自分の格好を確かめる。
白地に桃色の花びらをあしらった浴衣は、清楚さと可憐さを併せ持ち、この日のために新調した勝負服だ。
腕から下がった袖の布地が、少女が動くたびに揺れて、まるで蝶の羽のように空気を揺らす。
惑井葉月、十二歳。
「葉月、冷蔵庫からビール出してー」
「自分で出して。これからデートなんだから」
「デートねぇ」
「デートです」
少女はつんつんとした様子で返す。
「それに今日は勝負下着なんだから」
「誰に見せるつもりさ」
「もちろんお兄ちゃん」
「ハア……」母親はベコリと空き缶をつぶし、のっそりと立ち上がる。
冷蔵庫を開けると、新たなビールを取り出し、それを二本ばかり抱えてソファーに戻る。
プシュッと炭酸の抜ける音が響く。
「ごく、ごく……ぷは~っ」
「もう、昼間からお酒飲みすぎ」
「もうすぐ夕方さー」
ぷりぷりと娘が怒ったところで、チャイムの音が鳴り響く。
「あ、お兄ちゃんだ!」
怒っていた少女の顔が、ぱっと輝く。
財布とハンカチの入った巾着袋をひっつかむと、 翼のように浴衣の袖をなびかせ、玄関までとてとてと走る。「よっこらせ」と母親も重そうに腰を上げる。
少女がドアを開くと、そこにはすらりと背の高い少年が立っている。
「お兄ちゃん!」
「へえ、浴衣か」
「ど……どう?」
少女は上目遣いで尋ねる。
「似合ってるよ」
「ほんとう!?」
「ああ」
「へ……ヘへへ」
少女は顔をほころばし、ひらりとその場で回転してみせる。
一拍遅れて、母親が顔を出す。
「おー、大地―、悪いねー。今日は葉月よろしくなー……ひっく」
「真理亜さん、飲みすぎですよ」
「おまえまで葉月みたいなこと言うなよー。うっぷ」
「お兄ちゃん、酔っぱらいは放っておいて早くいこ?」
「それじゃ真理亜さん、行ってきます」
「遅くなりそうなら電話なー」
「了解です」
すると少女は赤い顔でもじもじしながら、
「お母さん、今夜は私、帰らないかも……イテッ」
ペシリと少年は少女の頭をはたき、
「アホか」
「お兄ちゃんは乙女心が分かってない。葉月は来年から中学生だよ?」
「つまりまだ小学生だな。ほら行くぞ」
少年が歩き出すと、「あ、お兄ちゃん、待って!」と少女は慌てて追いかける。カコン、カコンと下駄の音が響く。
「お母さん、行ってきまーす」
「大地とはぐれるんじゃないよ」
「はーい」
少女は少年に追いつくと、その手をしっかりと握りしめる。
少年が手を握り返すと、少女はまた「へへへ」と笑った。
〇
「おい、あんまりひっつくな」
「だって、お兄ちゃんとはぐれるなってお母さんが」
「手を握ってたらはぐれないだろ」
「抱きあってたほうがはぐれないよ」
「歩きにくいわ」
他愛ないやりとりをしながら、二人はぴっとり寄り添って歩いていく。
祭囃子が聴こえ始める。道行く親子連れや、浴衣姿の女性。神社の鳥居が見えたころには、人波はかなりのものになっていた。
「あ、お兄ちゃん、リンゴ飴! あっちはチョコバナナ!」
「こら、走るな」
「かき氷と綿アメもある~!」
「甘い物ばっかりだな」
「どれにしよっかな~」
「縁日の食べ物って、基本コスパ悪いからな。かき氷と綿アメは特に」
「じゃあチョコバナナ!」
少女が大きな声で叫び、露店に駆け寄る。カコン、カコンという下駄の音が、神社前の石畳に響く。
「チョコバナナ、一本ください」
「まいど!」
ねじりハチマキをした中年男性が、できたてのチョコバナナを差し出す。少年はそれを受け取り、すぐに少女に渡す。
「ほら、葉月」
「わー、おいしそう~」
チョコレートでコーティングし、カラフルなトッピングをまぶした縁日定番の果物菓子を、少女は宝物のように眺める。
「はい、あーん♡」
「僕はいいよ」
「あーん!」
少女が大きな声でチョコバナナを差し出す。少年は困った顔で、少しだけかじる。
「チョコバナナなんて、小学生以来だよ。こんな味だったっけ」
「はい、じゃあ今度はお兄ちゃんが私に『あーん♡』する番」
「なんでだよ」
「だって順番でしょ?」
少女は少年に突き付けるように、チョコバナナを差し出す。先端には、少年がかじったばかりの歯形がついていて、白いバナナの果肉が露出している。
「……間接キス♡(ぽっ)」
「いいから口を開けろ」
少年は呆れた顔でバナナを差し出す。
「『あーん♡』って言って」
「あーん」
「もっと甘い声で。恋人同士でささやく感じで」
「注文が多いな。……あーん」
「あ~~むっ」
ぱくり、と少女はチョコバナナをかじる。リスのように頬袋を膨らませ、もぐもぐと咀嚼する。
「うまそうに食うなぁ」
「お兄ちゃんの味がする」
「おいやめろ」
少女は喉を鳴らして飲み込むと、残ったチョコバナナをペロペロとアイスキャンディーのように舐める。
「次は綿アメを食べたいな」
「もう『あーん』はしないぞ」
「え~~!! デートなのに~!」
「デートなのか」
「デートです」
少女は自信満々に断言すると、チョコバナナの残りを口に放り込む。
「お兄ちゃんは何か食べないの?」
「そうだなあ……食うなら焼きそばか、たこ焼きか……」
「たこ焼きがいい!」
「そうか。じゃあたこ焼きにするか」
「たこ焼きをフーフー♡して、あーん♡するプレイができるから!」
「焼きそばください」
「ちょっとお兄ちゃん、聞いてる~!?」
「付き合いきれん」
少女の言動に辟易しつつ、少年は焼きそばを注文をする。
「焼きそばフーフーしてあげる」「やめろ」「照れなくてもいいって」という問答を繰り返しつつ、少年は焼きそばを平らげる。その間に少女は綿アメとかき氷とベビーカステラを平らげ、今はリンゴ飴を舐めている。甘い物ばかりだ。
いくらか腹ごしらえも済んだころだった。
「──あれ、平野君?」
ふいに、声をかけられる。振り向くと、そこには二人の少女が立っている。一人は髪を三つ編みにした眼鏡の少女。
「えーと……」
「あ、同じクラスの宇野です」
「あー、たしか……」
少年は記憶をたどり、「委員長の?」と訊き返す。
「そう。図書委員もやってるけど」
「そっちは……」
宇野の隣には、もう一人、少女がいた。
「…………」
夏祭りには似つかわしくない、黒ずくめの服装の少女。長い黒髪と、分厚い前髪から覗く無機質な視線は、まるで柳の木の下にいる幽霊を思わせる。
「同じクラスの黒井さん。副委員長だよ。図書委員もやってるけど」
「……そうだっけ」
宇野に紹介されても、少年はピンとこない。
「ほら、冥子。クラスの平野君」
「…………」
「もう」
宇野は呆れたように唇をとがらす。黒井という少女は、友人の言葉が聴こえてないのか、ただじっと少年を見つめる。出会ってからまだ一言も言葉を発していない。
「けっこう同じクラスの子も来てるよ」
「そうなのか」
「…………」
「そっちは妹さん?」
「あ、いや近所の子で……母親同士が知り合いで、今はちょっと預かってる」
「…………」
「もうすぐ花火の時間だよね。平野君も見ていくんでしょ?」
「あー、どうしよっかな」
「…………」
宇野と少年が話す間、黒井は何も話さない。ただ、無言で少年を見つめる。
(なんだこいつ……)
「――お兄ちゃん」
そこで少年の手が、くいっと引かれる。
「ん?」
「そろそろ……」
「あー、悪い悪い」
宇野と話し込んでいて、少年は幼なじみの存在をほったらかしていたことを思い出す。
「悪いな、今日はちょっとこいつの面倒見てるから、このへんで……」
「あ、こっちこそごめんね、引き留めて」
「じゃあな」
「うん、じゃあね」
「…………」
最後まで黒井は一言もしゃべらなかった。
「もう、お兄ちゃんってば!」
少女がぷりぷりと怒る。
「悪い悪い。でも話してたの二分くらいだろ」
「そうじゃなくて~!」
少女はフグのように頬を膨らます。
「私というものがありながら、どうして他の女にデレデレするの~!?」
「べつにデレデレしてない」
「でも鼻の下を伸ばしてた!」
「伸ばしてない」
「お兄ちゃんには許嫁としての自覚が足りない」
「いつ許嫁になった」
「一年生の七月から」
「よく覚えてるな」
「指切りした」
「そうだったか?」
「誓いのキスもしたよね」
「しれっと事実を捏造するな」
少年は呆れて肩をすくめる。
「そうだ、花火見るんだろ」
「そうやってすぐはぐらかすー」
「見ないのか?」
「見るけど」
少女はまだ怒った様子だったが、腕時計の時刻を確認し、「あ、もう始まっちゃう!」と声を上げる。
「お兄ちゃん、急ご」
少女は少年の手を引き、急いだ様子で歩き始める。
「おい、どこ行くんだ。花火ならここから見えるだろ」
「へへ~、いいとこがあるの~」
少女は下駄を鳴らしながら、少年の手を引いて、神社の奥へと歩いていく。鳥居を抜け、やや脇道にそれたあとは、坂道を登っていく。道も薄暗い。
「ああー、下駄って歩きにくい~!」
「だったら坂を登るなよ」
「でも、この先がいいとこなの」
「いいとこってどこだよ」
「ひ・み・つ♡」
「アホか」
「あー、鼻緒が食い込んで足痛い~!」
少女はぼやきながらも登っていく。細い坂道はなかば獣道のようで、石が多くて歩きにくい。登り切るころには、少女は「も~やだ~」と半分泣き顔になりながら、足を引きずるように進む。
「おい、足痛いんならもうやめとけよ」
少年はたしなめるが、少女は「あ、ここ、ここ!」と嬉しそうに声を上げる。
「へぇ……」
そこは、山の中腹にある、ちょっと開けた場所だった。一応ベンチは設置してあるが、かなり古い木製で、びっしりと苔むしている。人影はない。
「こんなところがあったのか……」
少年は、目の高さにある木々の枝をはらいつつ、少女とともに奥へ歩いていく。
そこにはベンチと同じように苔むしたテーブルがあり、その先にさびた看板がある。何かの慰霊碑かモニュメントだろうか。向こうには月見野市の夜景が見え、無数の家々の明かりが星空のように広がる。
「ここ、穴場なんだよ。友達に教えてもらったの」
「確かに穴場だな。でも蚊が多いぞ」
「あ、虫よけスプレー忘れた!」
「あとでかゆくて大変だぞ」
まとわりつく蚊をはらいのけながら、花火が上がるのを待つ。予定時刻まではあと五分ほどあり、少女は少年にしなだれかかってくる。
「おい、くっついたら暑いだろ」
「今なら誰も見てないよ」
「どういう意味だ」
相変わらずのやりとりをしながら、少女は少年の腕に抱きつく。
それから少し、しんみりした声で、
「──ねえ、お兄ちゃん」
「なんだ」
「あそこにある星、分かる?」
少女は夜空を指す。
「ん? どれ?」
「あれ。こと座のベガ」
「もちろん分かるさ。織姫だろ」
「じゃああれは? ちょっと斜め下に下がった星」
「わし座のアルタイルだろ。彦星だな」
「私が初めて覚えた星の名前なんだ」
「そうなのか」
「お兄ちゃんに教えてもらったんだよ」
「そうだったか?」
「私が、おじいちゃんのお通夜で泣いていたとき」少女は遠い目で語る。「お兄ちゃんがそばにやってきて、こう言ったの。──哀しいことがあったときは、星を見るといいって」
「ああー。弥彦流一の言葉だ。宇宙飛行士の」
「星はいつでも同じところで光っているから、なんだか見守られているみたいで、元気が出るって」
「言ったかもな」
「そのとき教えてもらったのが、こと座のベガと、わし座のアルタイル──織姫と彦星。この二つの星は天の川に阻まれて、年に一度しか会えない」
「七夕伝説だな」
「そのときもお兄ちゃん、こうやって手を握ってくれた」
少女は少年の手を握りしめる。まるで恋人のように、指と指をからめて。
「お兄ちゃんのおかげで、私、元気が出たんだよ」
「……そうか」
「あのね、お兄ちゃん。私──」そのとき。
轟音が響き、夜空に巨大な花が咲いた。
「あ……」
「始まったな」
ひとつ、またひとつ。
子犬のうなり声のような音が響き、わずかな間のあと、ドーンと音が響く。
「ここ、よく見えるな」
「でしょでしょ」
「蚊が多いけど」
「それはごめん」
「花火って、少ない予算で経済効果があるから、けっこうコスパ良いらしいな」
「もう~ロマンチックなところなのに~!」
「なんで怒るんだよ」
二人は手をつなぎながら、目の前で咲く大輪の花火を見つめる。花が開くたびに、二人の姿が木々の間でシルエットになる。
「きれいだね」
「ああ」
やがて、花火はクライマックスとなり、次々に咲き乱れる。
二人の姿が、花火の光で明滅し、少女の横顔も白く輝く。
花火が終わると、あたりは急に静かになった。二人のいた木々の中も、にわかに暗くなる。
「すごかったね」
「そうだな。思ったより楽しめた。……帰るか」
「うん」
二人は踵を返し、帰途につく。
すると、
「あいたっ」
少女が立ち止まり、うずくまる。
「どうした」
「ちょっと、足が……」
少女の下駄を履く足は、鼻緒の部分が少し赤くなっている。
「鼻緒ずれか。坂道なんて上るから」
「うう~。痛い~」
少女は涙目で足を押さえる。
少年はため息をつき、
「仕方ないな」
少女の前で、少年がひざまずく。背中を見せて、両手を後ろ手に広げる。おんぶしようという姿勢。
「え?」
「ほら、足痛いんだろ?」
「い、いいの?」
「遅くなると真理亜さんが心配するぞ」
「う、うん」
少女は、恐る恐るといった様子で、少年の肩に手を伸ばす。白くて細い手が、少年の首に絡む。
「ほら、もっとちゃんとつかまれ」
「う、うん」
少女が体重を預けて、少年の背におぶさる。
少年は立ち上がり、少しだけ体勢を直したあと、歩き始める。
「下駄、脱がせたほうがいいか?」
「ううん、だいじょうぶ」
「揺れて、痛くないか」
「……だいじょうぶ」
少女は小さな声で返事をする。その顔は少し赤い。
花火が終わったあとの神社は、人波がゆっくりと引き始め、にぎやかだった夏祭り会場は静けさを取り戻していく。
喧騒と寂寥が混ざり合う、祭りの後。
縁日の屋台は撤収を始めている。売れ残りをさばこうと、「たこやき半額!」という呼び込みの声が響く。
「そうだ、真理亜さんのお土産、どうする?」
「…………」
「葉月?」
少女からは、「すー、すー」という寝息が聞こえる。
「やれやれ……」
少年はなるべく揺れないように、少女を背負って歩き続ける。
花火が終わり、夜空ではまた星が明るさを取り戻す。天の川が空を縦断し、二つの星を分かち続けている。
「織姫と彦星は、天の川に阻まれる……か」
何気なくつぶやくと、
「あ……」一瞬、立ち止まる。
夜空に、すっと白い筆を走らせたように、光が横切る。
(今の……国際宇宙ステーション、かな……)
そのとき、少女がつぶやいた。
「おにい……ちゃん……」
少女の吐息が、首元にかかる。
「すき……」
少年はくすりと微笑み、再び少女を背負い直す。
少女が最後に食べたリンゴ飴の甘い香りが、鼻腔をくすぐり、
「だいすき……」
それは甘い寝言とともに、祭りの喧騒の中に溶けていった。
(了)