一章 思い出す事など(1)

 吊るした電気灯がぐらぐらと動く。

 硝子の中に湾曲した一本の光が、線香花火のように|疾(はや)く閃く。

 生まれてから、この時ほど強く、また恐ろしく光力を感じたことはなかった。

 かつて読んだ本にある「稲妻を眸に焼き付ける」なる表現はこれのことかと納得した。

「目が覚めたか。ああ、光を直視しないほうがいい」

 聞き覚えのない男の声がする。

「俺からしてみれば普通の灯りだが、今のあんたには強すぎるだろう。目を閉じろ」

 言われるがまま目を閉じた。

 瞼の裏に、まだ光の残滓が残っている気がする。

「俺の言葉は通じているようだな。そして自らの意思で瞼も開閉できる、と」

 目を瞑ったままだが分かる。どうやらベッドに寝かされているらしい。

 ベッドの近くには男がいる。誰なのかは分からない。

 何やらカチャカチャと機材をいじる音がした。

 機材が電話機であることは、続く男の言葉から察することができた。

「随分と早く電話に出ていただけましたね、ドクトル・ニルヴァーナ」

 ――ドクトル・ニルヴァーナだと?

 異国情緒あふれる珍妙な響きだが、聞き覚えのある名だ。

 とある文豪が持つ、数多のペンネームのうちの一つであったはず。

 更に、もう一つ気付いたことがある。

 男は電話を繋ぐのに交換台を介さなかった。ということは民間の回線を使っていないということだ。専用回線を持てるのは、今のところ軍部だけだ。

 ――ならば俺は軍の施設内にいるのか? 俺は一体どうなった?

 自分を取り巻く全ての事象に対して疑問が尽きない。

 が、頭がうまく働かない。手足も動かない。

 口も呼吸をするのがやっとで、喋れない。

 体の全てが機能不全。かろうじて耳は聞こえるので、聴覚に神経を集中させる。

「――そう、俺ですよ、『ラトルスネーク』です。はい、そうです。患者が目覚めました。すぐにこちらに」

 すると、電話の相手が何やら要求をしたようだ。

 ラトルスネークと名乗る男は、返答の前に考え込むような沈黙を置いた。

「――承知しました。俺の方で状況の説明をしておきますよ。ですが例の件については、あなたからご説明を……ええ、それでは後ほど」

 受話器を置く音がした。

「さて」

 男が再び声をかけてくる。

「聞こえていただろうが、ドクトル・ニルヴァーナがここに向かっている。彼については俺よりあんたの方がよく知っているはずだ。そうだろ、夏目漱石さんよ」

 夏目漱石。

 その名で呼ばれた瞬間、頭の中で何かが切り替わる。

 どろどろと不安定な心が、秩序だっていくような気がした。

 思考の回転が安定し、現状を客観的に分析できるようになる。

「……ぅ、あ」

 漱石は何とか言葉を話そうとした。

 だが、喉は萎えてしまったかのように、気だるく震えるだけである。

 あの時と同じだ、と漱石は思った。

 榴弾の爆発と破片で蹂躙された時のこと。

 死を目前にして、この世に言の葉一つ残せなかった。今も同じく声が出ない。

「あんたは生死の境をさまよった」

 漱石の顔の歪みから、漱石が何を思い出したのかを察したらしい。男は語る。

「西暦一九一〇年八月二十四日のこと。しゅぜんきく旅館の一室にて客と面会していたあんたは、小銃擲弾ライフルグレネードの攻撃を受けた。爆発の衝撃、そして飛散した破片が室内の何もかもに襲い掛かった。あんたの肉体にもな」

 普通なら即死だった、と男は言葉を継いでいく。

「あんたがこの世に留まっている理由のうち、二割は日頃の鍛錬だろう。折り返しを重ねた刀のように、鍛えられて丈夫になった肉と骨が、あんたの命が尽きるまでの時間を延長した。残りの八割については……これからやってくる御仁に語ってもらおうか」

 急に男は指示を出した。

「右手の指を動かしてみろ。左手の指は動かさずに」

 漱石はゆっくりと右手の指を動かしてみる。

 動いたというより「震えた」という表現の方が似合うわずかな動きだったが、相手にとっては及第点だったようだ。

 今度は左足の指を動かしてみるよう指示される。

 これにも対応すると、男は「神経系は問題なさそうだ」と呟き、言葉を継ぐ。

「記憶についても確認しておこう。欠落はあるか? 自分自身を振り返るんだ。あんたが何を志して、どうして命を狙われたかを思い出せ」

 漱石は言われるままに、在りし日の情景を瞼の裏に映し出した。



 西暦一九〇五年九月五日。

 全てはこの日から始まった。

 日露戦争の講和条件に不満を抱いた一般民衆が、講和による終戦を図った政府への抗議として暴力に訴えたのだ。世にいう「焼き討ち事件」である。

 交番や電車が襲撃され、アメリカ大使館や新聞社にも矛先が向けられた。

 政府は鎮圧のため戒厳令を布き、近衛師団を用いて群衆の抑止にあたった。国民を守るための軍隊が、国民に対して牙を剥いた瞬間だった。

 この事件は日本という国の在り方を大きく変容させた。

 それまで政府と国民は一体だった。国土の拡張は国民の自尊心を拡張させたし、政府の意思はそのまま国民の意思であった。

 だが日比谷焼き討ち事件の後、政府と国民は分断された。

 政府は国民を管理下に置こうとした。

 政府の統制から外れる人間を取り締まり、時には市民にテロリストのレッテルを貼りつけた。警官は市民に毎日のようにこういんじょうを突きつけ、牢を満たしていった。

 国民もまた、自分の思い通りにならない政府に攻撃を浴びせた。

 言論の攻撃はもちろんのこと、一部の過激派は暴力を用いた。

 特に社会主義者と呼ばれる一派は、放火や殺人、炸裂弾でのテロを行った。

 政府と社会主義者は、国の主導権を巡って苛烈な争いを繰り広げた。

 そして両者の争いに巻き込まれたのが、作家たちである。


 当時、印刷技術の発達と編集者たちの商業戦略が功を奏し、文芸界は規模を拡大した。

 比例して作家たちの影響力が増大。ここに政府と社会主義者たちは目をつけた。

 両者は世論工作のため、作家たちを支配しようと考えたのだ。

 例えば政府は、自分たちに都合の良い小説を書く者には地位や金子を与え、政府に不都合な小説を書く者の書籍はこれを発禁処分とした。それでも抗い続ける作家に対しては、拘引状を乱用し、牢に押し込めた。

 社会主義者の蠢動も作家たちを苦しめた。社会主義者たちは自らと思想が合わない作家を見つけると暴力を振るった。これにより腕を折られ、心折られ、遂に筆を折るに至った作家も出る有様だった。

 表現の自由という白金のようにキラキラした美しい概念も、権力の横暴や社会主義者の暴力の前には塵芥より無価値なものとなり果てた。剛力の前には、言論はあまりにか弱い存在だった。

 ペンは剣よりも強しとは、あくまで権力者が命令書にサインを入れるペンの話だ。

 市井の作家が握る万年筆は、理不尽な暴力に抵抗できなかった。

 ここで、ある作家は考えた。

 ――自由を侵害する暴力を止めるには、それ以上に苛烈な暴力で挑むより方途なし。

 作家の名は夏目きんすけという。

 雅号は漱石で、世に夏目漱石の名で知られる男である。

 そして西暦一九〇六年。漱石が三十九歳の頃。

 漱石は弟子たちと共に、武装組織『木曜会』を設立。

 自由を脅かす全ての暴力使用者に対し、宣戦を布告した。


 個人主義。

 それが木曜会の掲げる大義だった。

『自分自身が自由でありたいのなら、他者の自由を尊重し、守護する必要がある』

『それが個人主義である、我は個人主義を掲げ、全ての自由の弾圧者に対峙する』

 その檄文に、志ある作家たちが呼応。

 彼らは寡兵であるが士気高く、気付けば侮りがたい勢力に成長していく。

 当然、政府は木曜会を鎮圧しようとした。政府の命を受けた警官隊が押し寄せた。

 そして、所詮は作家の寄せ集めであると油断した警官隊は、すぐに己の過ちと至らなさを突き付けられることとなる。

 圧倒的な銃と弾薬。

 それらを握る作家たちの闘志。

 何より、作家たちを率いる夏目漱石の圧倒的なカリスマが噛み合った時、そこには強力な軍事力が成立する。

『撃て』

 漱石が一言、呟く。それだけで。

 整然と並べられた三八式歩兵銃の威嚇射撃が場に狂乱をもたらす。

 特務兵士並みに訓練された作家らが、押し寄せてきた警察隊に催涙弾とゴム弾を注ぐ。

 鍛えた肉体を恃みに迫り来る屈強な警官も、過酷な訓練を重ねた作家が肉体言語でのコミュニケーションをはかり、追い返す。

 そして、作家の集まり一つ制圧できぬ不甲斐なさに業を煮やした指揮官が前線に現れようものなら、その日は警官隊にとっての厄日となった。

 味方に向けて檄を飛ばす指揮官たちは、突如として奇襲を受け、虜囚の憂き目を見ることになる。

 そのような場合、襲撃者は決まって漱石本人であった。


 漱石は自由を害する全ての者たちを、木曜会の軍事力で抑止した。

 木曜会がある限り、作家たちは己の胸に込み上げる激情や旅愁を、思いのままに原稿に綴ることができた。

 しかし漱石は政府と社会主義者を――『国家』と『思想』という怪物を二体、相手取ることになった。

 特に政府は漱石の影響力を危険視していた。漱石は政府からの飴と鞭を全て払いのけており、その手管を目にした政府はますます警戒感を強めた。

 そして一九一〇年八月二十四日。

 修善寺の菊屋旅館にて、小銃擲弾ライフルグレネードが炸裂した。

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