第二章 善悪がもう分からない

 今まで仲の良かった友達から、突然無視されるようになったことがある。

 犯罪者の息子だと、心無い言葉を浴びせられた経験がある。

 自宅の壁や表札に中傷の文字を刻まれ、引っ越しを余儀なくされた過去がある。

 こんな状況を作った父親を恨み、目を腫らして眠った夜がある。

 無論、皆が皆、敵というわけではなかった。朔夜と辰貴以外にも、『憂人は悪くない』と言って庇ってくれた人もいる。

 だけど、往々にして向けられた嫌悪の感情というのは長く記憶に巣食うものだ。たった一人の、ひと振りの言葉のナイフが、何年も忘れられぬほど深く心を抉ることだってある。

『人殺しの子供のくせに』

 その一言が、冷たい声が、今でも鼓膜の奥にこびり付いて消えてくれない。


 円い穴から入り込む朝陽に瞼を刺激され、ゆっくりと意識が覚醒していく。昔の夢を見たせいか、目覚めの気分は最悪だった。隣を見ると純朴そうな少女が自分にもたれかかりながら寝息を立てていて、昨晩の出来事を否が応でも思い出させた。

(こっちも夢だったら良かったのに……)

 げんなりしつつ、レーヴェの肩を軽く揺り動かす。しかし、改めて見てみると本当に髪が長い。何かもう毛量がすごい。生まれてからまだ一度も切っていないんじゃないかってくらいの長さだ。朔夜より長髪の人間を久々に見た気がする。

 寝ぼけ眼の少女はしばらく頭をゆらゆらと揺らしていたが、こちらの顔を見るなりわずかに目を見開いた。そして、無表情の中にほんの少しだけ安堵の色を滲ませた。眠っている間に俺がいなくなってしまわないかと不安だったのだろうか。

 毛布代わりに貸していた上着を回収してバッグに仕舞う。荷物を持ち、二人して這うように外に出た。公園の遊具の中で夜を明かしたのは初めてだ。おかげで腰やら首やら背中やら、全身のあちこちが痛い。人並外れた身体能力を手に入れても、難儀なことにきっちり寝違えはするらしい。むしろ着ていたのが動きやすいトレーニングウェアだったからまだこの程度で済んだのかもしれない。指を組んで一度伸びをすると、関節がポキポキと大層な音を鳴らした。少女が口を小さく開けてこちらを見上げている。

「だいじょうぶ、ですか……?」

 普通に喋ったことに内心驚きつつ、平気だと答える。

「そっちは大丈夫か? 地面とか硬かったし寝づらかっただろ」

「いえ……だいじょうぶ、です。……なれてる、ので」

 たどたどしい返事。口調こそ可愛らしくほっこりしそうになるが、言葉の内容はそれとは裏腹のものだった。今夜は俺のためにも彼女のためにも、野宿ではなく布団の上で休む方法を考えたいところだ。そんなことを思いながら公園を後にした。

 涼やかな風。小鳥のさえずり。立ち並ぶ家屋の窓は、昇ったばかりの太陽の光を反射してきらきらと光っている。一見のどかな早朝の風景は爽やかであり平和そのもので、ともすれば自分が置かれている今の苦境を忘れそうになる。

(この時間ならもう始発動いてるよな。まずは電車に乗って距離取って、それから……)

 今後のスケジュールを頭の中に思い描いていく。

(というか、一応向こうが主でこっちが従者って関係のはずなのに、俺の独断で行動計画考えちゃっていいのか……?)

 俺の服の裾を摘んで歩いている小さな魔王様は、どこまでも温順についてくる。弱音も文句も何一つ零さず、黙々と足を動かしている。朝早くに起こされ食事もしないまま連れ出されたりなんかしたら、普通の子供なら駄々をこねたり泣き出したりしてもおかしくないはずだ。それを考えればスムーズに行動できることは個人的には助かるのだが、彼女の年不相応な平静さが少々不気味であり、同時に少し不憫でもあった。

 通行人とすれ違う。ちらりと後ろを確認するが、こちらを不審がるような素振りは見せていない。どうやらレーヴェの変装は少なからず効力を発揮しているようだ。

 長い黒髪のウィッグで地の髪色を隠し、さらにはキャップで目元も見えないようにした。瞳に関しては薄めのカラーレンズメガネをかけさせる案も浮かんだが、やめた。逆に悪目立ちしすぎる。それによく考えてみれば、昨夜魔王として大衆の記憶に刻まれた双眸の色は真紅だった。今の水色の瞳も気付かれれば人目を引くかもしれないが、帽子を被っていれば大人の目線からは見えにくいし、もし見られたとしても彼女の正体にイコールで結びつけられることはないはずだ。ダボッとしたパーカーにサングラスという若干パリピ感漂うファンキーなファッションで、無駄に注目を集めるよりはいいと判断をつけた。

(覚悟はしていたけど……やっぱなかなかに気を揉むな)

 何かの拍子にウィッグの下の銀髪が晒されたとして、果たしてインナーカラーという言い訳でごまかしきれるだろうか。散髪してしまえればこんな気苦労もしなくて済むのだが、かといってこちらの都合で少女の髪を切るというのも気が咎める。

 男と女の価値観は違う。髪は女の命なんて言葉もあるくらいだ。異性への理解が深いとは言えない俺でも、女性が男性以上に髪を大切にしているのは分かる。それに、仮にレーヴェの立場に朔夜がいたとしたら、俺は彼女に安全のために髪を切れとは絶対に言わない。なら、レーヴェに対しても言うべきじゃない。

 綺麗事かもしれないが、たとえどんな時であろうと他人の気持ちは尊重したかった。

 行き先もそうだ。移動し続けるにしろ一か所に留まるにしろ、これから向かう先の目星くらいはあらかじめ付けておきたい。だから、まずは話し合おうと思う。幸い夜が明けて間もない時間帯だから人影はほとんどない。周りに会話が漏れ聞こえる心配もないだろう。

「レーヴェはどこで生まれたんだ?」

「……さむいところ」

「北の方か? 国の名前は?」

 尋ねてみたが首を傾げられた。駄目っぽい。神は昨夜レーヴェを『自然発生した』存在だと言っていたから、そこを深く掘り下げてもあまり意味はないのかもしれない。

「日本には……ああいや、この国にはどうやって来た?」

「そらをとぶ大きなものに……つかまってきました」

 察するに飛行機か。チケットを購入して正規の方法で来たとは思えないが、ひょっとして文字通り『掴まって』来たのだろうか。そうだとしたらとんでもなさすぎる。何か怖いのでこれ以上の追求はやめ、もっと肝心で本質的な質問をすることにした。

「どうして人類を滅ぼそうとしてるんだ?」

 彼女の反応を見逃さないよう注視する。少女は顔色を一切変えず、事務的に、決められた台本をなぞるように、淡泊な声で呟いた。

「……それが、わたしの『役割』だから……」

 抑揚がないだけに、意味深長に捉えられる言葉だった。

「どういう意味だ? 役割って、誰かに与えられたのか?」

 問い詰めたかったが、それ以降レーヴェはうつむいてしまい、駅に着くまでの間ずっと押し黙ったままだった。その反応が何を示しているのかは分からない。言わないのか、言えないのか。ただ、もしかしたらこの聖戦は、単に『人類の敵が現れた』というような単純なものではないのかもしれない。少女の陰鬱な表情を見ていたら、何となくそんな気持ちになった。

 しばらく歩き、線路が見える所まで辿り着く。通勤するサラリーマンの姿はあるが、まだ人波は疎らといった印象なのでひとまずは胸を撫で下ろした。

(さて、行き先をどうするか……)

 木を隠すなら森の中と言うが、かといって数多の人が蠢く都会に身を潜めるのはハイリスクな気がする。俺は逃亡のプロというわけではない。下手したら即見つかってゲームオーバーという可能性も多分にあり得る。ここは奇をてらわずに行動するのが吉だろう。

 レーヴェは北の方から来たようだし、ルーツを探る意味でもとりあえず北上することにした。財布から小銭を取り出し、券売機で切符を買って彼女に手渡す。

「…………?」

「ああ、電車の乗り方が分からないのか。この紙をあそこの機械に入れて通るんだよ」

 改札を指差し教えてあげると、切符と改札を何度か見返した後、こくりと首肯した。

 指示した通りの手順でホーム側の通路へ向かう少女。切符が自動改札機に吸い込まれる時、一瞬ビクッと驚いていたみたいだが、特に騒いだりすることもなくこなしてくれた。素直とは美徳だとつくづく実感する。何だか我が子の成長を見守る親のような心境だ。神は俺を魔王の従者という立場から《悪魔》だと表現したけど、今のところ《保護者》の気分である。苦笑しつつ、自分もICカードをタッチして改札を抜けた。

 車内に乗り込み、空席だらけの座席に座る。多くの通勤者が利用する電車とは逆方向ということもあり、この車両には俺たちの他に乗客の姿はなかった。

 長めのため息を吐きながら(公園の地面に比べれば)柔らかいシートに体重を委ねる。

 電車の振動が心地いい。状況は何一つとして好転していないが、昨日の夜からとにかく忙しなかったものだから、ようやく肩の力を少し抜くことができた。焦りは視野を狭め、惑いは思考を鈍らせる。とにもかくにも冷静に判断をするには平常心が必要不可欠だ。そのことを今一度自分に言い聞かせた。

 隣の少女は手を膝の上に置き、ちょこんと行儀よく座っている。

 表情を全然変えない子だから分かりにくいが、視線は一心に窓の外へと向けられていた。

 右から左に流れていく景色が物珍しいのだろうか。電車に感動している様は、どこからどう見ても無垢で無邪気な一人の女の子で、やはり魔王のイメージからはかけ離れていた。

(今話しかけるのは野暮かな……。いや、そんなこと言ってる場合じゃないけど……)

 彼女のこのひと時を壊すのが憚られたので、先に世間の情報収集から始めることにした。

 だが、スマホを確認するなり唖然としてしまう。着信が何十件と入っていたからだ。

 発信者はすべて朔夜だった。電話の他にメッセージも届いている。

 そういえば、昨日彼女を家に置き去りにしたままだったのを失念していた。というより、レーヴェの身の安全を確保することに頭がいっぱいで、その後朔夜と連絡を取ることにまで気が回らなかった。普段なら彼女を二の次にするなんてことはありえないのに。これも契約の影響なのだろうか。

 ともあれ、まずは謝罪の一言。加えてこちらは無事なこと、電車で移動中だという旨を添え、降りたらまた連絡すると打ち込み送信した。

(心配かけちまった……)

 スマホを額に押し当て、先ほど以上に深く長いため息を零す。それから再び画面を見ると、電池の残量が乏しいことに気付き、慌てて操作を再開した。まだバッテリーが残っているうちに、世界が現時点でどう動いているのかを知っておきたい。

 ニュースアプリを起動し、トップ記事に目を走らせる。正直、あわよくば杞憂に終わってくれやしないかと淡い期待もしていたのだが、そんなものは儚い妄想だったと思い知らされた。早くも昨夜の夢の内容が大々的に取り上げられている。あくまでも夢であり物的証拠がないということで懐疑的に見ている人もいるようだが、様々な議論が白熱してしまっているこの状況がもうアウトだ。今日の昼には早々に特番が組まれ、脳科学の権威やら超自然主義を掲げる学者やら、果てはとあるカルト教団の教祖までもが出張ってくるらしい。

 たかが夢、されど夢。あの神を名乗る者の存在感はやはり無視のしようがなかったということか。魂魄剥離現象というとんでもない実害がすでに出ているのも、夢の信憑性に拍車を加えてしまっている。まだ否定派もそれなりにいるみたいだが、聖戦を裏付ける何かが今後一つでも出てきたら、いよいよ決定的な一打になってしまうだろう。

 行動は自然に。しかし、決して油断はせずに。未だ食い入るように外の風景を眺めているレーヴェを見て、俺は引き結んだままだった口角をさらに固くした。

 電車に揺られ、乗り継ぎを繰り返すこと約二時間。東京を離れた俺たちは、埼玉県を縦断し、群馬県までやってきた。降りたのは高崎駅。レーヴェのお腹が空腹を訴えたので、一度下車して朝食を摂ることにした。この辺りには初めて来たが、思っていたよりも栄えていて驚いた。駅前の開放的なバスターミナル、その周辺にそびえる商業施設は都会のそれと比べても遜色なく、平日であるにもかかわらず多くの人で賑わっていた。ファミレスにでも入ろうかと考えたものの、やはり人目は極力避けた方がいいと思い直す。

「無難にコンビニにでも行くか……。何か食いたいものとかある?」

 一応聞いてみると、レーヴェは少しだけ考えてからぽつりと答えた。

「……ハンバガー、がいいです」

「お、おう。コンビニにハンバーガーあるかな……」

 結果、なかった。残念だが他の食品で妥協してもらうこととなった。ちなみにレーヴェを店内に入れるかは結構悩んだが、店の前で一人待たせるのも危険と考え、俺の後ろにぴったりくっついているよう言い含めた上で一緒に入店して購入を済ませた。

 烏川の土手まで歩き、傾斜になっている芝生の上に二人並んで腰を下ろす。川の流れにぼんやりと視線を投じながら、棒状の栄養補助食品をかじる。レーヴェも隣で小動物のようにもそもそとサンドイッチを食べている。これから人類を滅ぼさんとする魔王一行が、河原でぽけーっと朝食タイムを送っていると思うと何ともシュールだ。

「それうまいか?」

「(こくり)」

「そうか。そりゃ良かった」

 紙パックの野菜ジュースを彼女の脇に置き、自分はペットボトルの水で喉を潤した。レーヴェの飲食物はすべてコンビニで買ったが、俺の方は元々バッグに入っていた物だ。今後どこでいくらお金がかかるか分からない。節約できる部分は節約しなければなるまい。

(あ、そうだ。朔夜に連絡しないと……)

 そうしてスマホを取り出し、言葉を失う。充電がご臨終なされた。あともう一時間くらいは持つだろうという算段だったので、これには項垂れずにはいられない。持参してきたボストンバッグにモバイルバッテリーを備え入れてあったなら問題はなかったのだが、今度買おう、そのうち買おうと思って先延ばしにしていたのが仇となった。

(充電器は持ってるから、早めに泊まれる所を見つけて充電しよう……)

 へこんでいても仕方ないので、無理やりにでも気持ちを切り替えるべく顔を上げる。

 さっきネットで調べたおかげで世の中の動きは少し分かった。次に知るべきは己のことだろう。あの戦闘時に感じた全能感は依然としてある。今の自分には何ができて、何ができないのか。それを前以て把握しておく必要がある。

「なぁ、俺って魔王の力のほとんどを譲渡されたんだろ? 魔王って何ができるんだ?」

「……はやく、はしれます」

「あーいや、そういうんじゃなくて……。ほ、他には?」

「……からだが、じょうぶです」

 だから、そういうことじゃないんだ。レーヴェの様子を見るに、はぐらかしているわけでもなさそうなのがまた困る。もう少し質問の要点を絞らないと駄目そうだった。

「えっと、これまで天使とはどうやって戦ってきたんだ?」

 少女は咀嚼していたサンドイッチをこくりと飲み込むと、吐息ほどの声で答えた。

「わたし……たたかったことないです」

 思わず何度か目を瞬かせて彼女を見る。野菜ジュースを手に取り、じっとパッケージを観察しているレーヴェの瞳は、ここではないどこかを見つめるような哀愁を帯びていた。

 戦ったことがないとは一体どういう意味だろうか。言葉をそのまま受け取るとしたら、今日までの間に世界中で出た何億という犠牲者をどう説明すればいいのか。

(……いや、待てよ。犠牲者の死亡原因は魂魄剥離現象によるものだ。確かにあれは暴力が原因で死んだわけじゃない。現象の結果として死んだってのが適切な表現だ)

 思い出されるのは昨晩の光景。

 突如宙に浮いたレーヴェの身体に、無数の光球が吸収されていった。あの時、彼女の目は開いていたけど、その双眸に意識の光が宿っているようには見えなかった。あれが魂魄剥離現象なのだとして、彼女の意思が介在しない代謝のような能力なのだとしたら、『たたかったことないです』という言葉にも得心がいく。『同時多発的に発生する』、『何日も続けざまに起こることもあれば、数日空く場合もある』、『被害者数が日によってバラつきがある』など、世間が追っている謎も全部解消されるだろう。彼女が自ら進んで人間を殺しているわけではないとする俺の予想も、より確度を増してくる。

(ただ、そうなると……やっぱりどうにも不憫だな)

 殺したくなくても殺してしまう力。そんな能力、もはや呪いと変わらない。

 仮にすべての推測が正しいとするなら、あの光の粒子が魂ということになる。あれだけ派手な現象が全く取り沙汰されていない事実から察するに、あの白光は魔王にしか見えない可能性が高い。俺が目視できたのは、昨夜時点ですでに魔王と契約して関係者になっていたためか。そう仮定すれば一応の説明はつく。第一、あれが他の者にも見えるようだったら、今後俺たちがどこに潜伏しようともすぐに居場所がバレてしまう。そうなったら、さすがにもう無理ゲー認定必至だ。

(しかし……レーヴェに聞けないとなると、自分で調べる他ないか……)

 まだ食事中の少女を残し、土手を下って川辺の砂利の上に立った。食後の運動も兼ねて色々と検証してみることにしよう。まずはイメージ通りに身体を動かせるかどうかを測る。

 脳内でこれから行う動作をなるべく精緻に想像し、実行に移す。

 足で地を蹴り、頭と膝を抱え込むようにして身を丸め、勢いそのままに空中で一回転した。着地してすぐさま、今度は後方へ一回転。早い話がその場で前宙とバク宙を連続してやったわけだが、もちろん今までこんな体操選手みたいな芸当などできた試しがない。自信はあったものの、それでも驚きを禁じ得ないというのが本音だった。その場で空を見上げ、己に感嘆するように息を吐く。

「オリンピック狙えるぞこれ……」

 次の実験に移る。足元に落ちている拳大の小石を拾い、少し強めに力を込めてみる。早々に手の中で形を変えた石は、次の瞬間、鈍い音と共に粉々に砕け散った。どうやら俺はゴリラをも超える握力を身につけてしまったらしい。これには自分でも少し引いた。

 ふと視線を上げると、ジュースを飲んでいる最中のレーヴェと目が合った。何を思ったのか、パチパチと控えめな拍手を送られた。その様子を見て脱力しそうになる。

(気を取り直して……そうだな、次は普通にジャンプでもしてみるか)

 赤毛の男と戦った時も、相手の隙を作れたのは跳躍回避の力が大きかった。敏捷性や機動力は、きっとこの先の逃走や戦闘における重要なファクターになる。

 膝を曲げ、腕の振りで弾みをつけ、いつもの調子で垂直跳びをした。普段なら真上に跳び上がった後、徐々に減速し、空中で一瞬静止してから空気抵抗を受けつつ自由落下していく。一連の動作は大体一秒程度で終わるのが常だろう。だが、今回は何秒経っても跳び上がりの勢いは収まらず、ようやく減速し始めた頃には、俺は地上から四十メートルほど離れた所にいた。眼下の風景が、どこかで見たものに似ていることに気付く。

(あ……分かった。航空写真だ……)

 まさか肉眼で、それも飛行機や気球に乗らず生身のままで目にする日が来ようとは。

 跳躍のスピードが弱まり、上空にて束の間の静止タイムが訪れた。昔、遊園地でフリーフォールというアトラクションに乗った時と同じ感覚に見舞われる。地に足つけて生きる人間が通常なら感じ得ない感覚。重力から一瞬解放されたと錯覚するあの浮遊感。肝が冷えるような、心臓が締めつけられるような生理的な恐怖が、ぞわりと全身を走り抜けた。

 そして、落下が始まる。ジャンプ力が半端ないとか、肌で切る風がさっきよりも冷たいとか、このままだと脚の骨が逝くとか、様々な考えが高速で駆け巡っていく中、みるみる地表が近づいてきた。目を瞑っていたら死ぬと思い、肉体の端々からかき集めてきた根性で両足に力を込めて着地する。ミサイルの着弾と間違われかねない轟音と共に、足裏から衝撃が突き抜けた。すぐさま下肢の状態を確認してみるが、骨折していないどころか全くの無傷だった。

(えぇ……これはいくら何でも……)

 再び自分に引いた。己が本当にただの人間ではなくなったのだと再認識させられた。

「ってか、しくった……。もし今のを誰かに見られてたら……」

 目に見える限り土手の上に人影はないが、今のジャンプはいかんせん目立ちすぎる。

 あれだけ派手に人間離れした姿を目撃されてしまったら、今更どう取り繕おうとも追及を逃れるのは難しいだろう。

「レーヴェすまん! 急いでここから離れるぞ!」

 紙パックを手に首を傾げている彼女を抱え、そそくさとその場を後にする。そんな俺たちを、中天を飛翔している黒い鳥がじっと見下ろしていた。

 十分ほど走り、ここまで来れば大丈夫かとレーヴェを地面に下ろす。

 やはり息は上がらず疲労感も特にない。化け物扱いされるのは嫌だが、悪魔と称されるだけの恩恵は確かにあるようだ。

「悪かったな、急に走り出して」

 声をかけたが返事がない。レーヴェの瞳は斜め上方へと向けられていた。何を見ているのかと視線を追うと、そこには白く輝く巨大な仏の彫像がそびえ立っていた。

「高崎白衣大観音か。初めて見たな。確か胎内拝観とかできるんだっけか」

「たいない、はい……?」

「あの観音像の中に入って見学ができるんだよ」

「そう、なんですか……」

 心ここに在らずといった様子で呟き、見惚れるように眺めている。ひょっとして行ってみたいのだろうか。正直、俺としても興味はある。行楽に適したこの時季、紅く色づき始めた木々の間を散策し、歴史ある慈眼院を悠々と見て回りたい。できることなら、伊香保温泉や妙義神社など各地の観光名所にも足を運んでみたかった。

(まぁ、でも……無理だよな)

 娯楽を優先して、危ない橋を渡るわけにはいかない。レーヴェもそれが分かっているからか、見ているだけで願望を口にすることはなかった。最後にもう一度だけ観音様の巨躯を目に焼きつけてから、俺たちは再び北を目指して歩き出した。

 その後、群馬県を抜けて東北の地を踏む頃には、もう太陽が西の空へ傾きつつあった。

 そろそろ宿泊場所を見繕わなければならない。一応クレジットカードは持っているものの、足が付きにくいという面からも、やはりいざという時に頼りになるのは現金だ。銀行もいつまで利用できるか分からない。ATMの前に立ち、いくら引き出そうかと一考する。

 しかし、子供の頃からコツコツと貯めてきた金がまさか逃走資金になろうとは。

(どうせならもうちょい夢のある使い方をしたかった……)

 猫背で肩を落とす俺を、裾を掴んでいるレーヴェが心配そうに見上げてくる。

「……何か食うか。希望ある?」

「え? えっと……ハンバガー、がいいです」

 またか。そんなに気に入ったのだろうか。とりあえず適当な店はないかと探ってみる。

 結構田舎の方まで来たこともあり、この辺りは都会の街並みとは少し毛色が違う。高層ビルや洒落たレストランは見当たらない。寂れているわけではないが、木造の古い家屋や庶民向けの大衆食堂などが多く目に付く。とはいえラッキーなことに、先の景色の中にかの有名なファストフード店の姿もあった。おかげで無事にレーヴェご所望の夕飯をゲットできた。

「さて、と……どこに泊まるかな」

 民宿やビジネスホテルが候補に挙がってくるが、どちらもほとんど利用したことがないので今一勝手が分からない。料金も気になるところだが、最もネックなのは受付だ。身分証明が不要だとしても、レーヴェとの関係や諸事情について突っ込まれたら面倒くさい。そこから違和感を抱かれて怪しまれ、身バレに繋がらないとも限らない。

 考えすぎかもしれないが、用心に用心を重ねて悪いことはないだろう。バレたら一発で終了なのだから。『?』顔の少女をよそに頭を悩ませていると、俺の耳にすれ違う通行人の会話が聞こえてきた。

「今回んとこわりと良かったな。アメニティも思ったよか充実してたし」

「ねー。無人受付なのもポイント高いよね。やっぱ人いるとちょっとヤじゃーん?」

 そのやり取りを聞き、カップルと思しき二人が歩いてきた方向に視線を投げる。この界隈にある建物の中では比較的背の高い施設が目に触れた。外観からしてホテルのようだ。ただし、あの二人の会話から察するに、頭に『ラブ』がつく類の。

(えぇぇ……? あそこはさすがに……いや……でも……だけど……っ……――)

 ひとしきり悩み、葛藤すること十数分。重い足取りで――チェックイン。

 そのさらに二時間後、俺はホテルのベッドに腰かけ、力なく首を前に垂れていた。

 これはやむを得ない合理的手段、緊急措置、不可抗力、という言葉たちを頭の中で何度も反芻している。幼女と二人でご休憩なんて犯罪臭しかしない展開、俺だって不本意だ。

 しかも人生初ラブホがまさか逃走目的の利用になるなんて。

「どうせならもうちょい夢のある使い方をしたかった……(二回目)」

 残念ながら夢も希望も愛もない。

「けど、思ったよりも普通の部屋なんだな……。変な器具とかもないし」

 などと妙な感慨を抱きながら室内を観察する。風呂場がやたらと広いことを除けば一般的なホテルとそう変わらない。これなら多少は落ち着けそうだ。

「ふぅ……ひとまずゲームでもやるか。まだデイリーこなしてないし(現実逃避)」

 すると、ガチャッと扉の開く音がして浴室からレーヴェが出てきた。

「あの、おふろ、おわりました」

「ああ……ちゃんと一人で入れて良かったよ。問題はなかったか?」

「えっと、ひとつだけ……。せっけんかとおもったら、ぬるぬるしたのがでてきて……」

 ローション?

「うーん何だろうなそれ俺にもよく分からないやでも今後は触らないようにしようか!」

「あ、はい……」

 と、彼女がずっと突っ立ったままでいたので、こっち来て座れ、とベッドの方に呼んだ。

「ふかふか……です」

「だろ。もう硬い地面で夜を明かすのはこりごりだからな」

 キャンプでもないリアル野宿は現代人の俺には少々しんどい苦行だと知った。寝不足だし今日はとっとと寝よう、と声をかけたところで、レーヴェの髪がまだ濡れていることに気付く。というか、結構びしょびしょだった。ろくに拭いてもいない感じだ。

「……ちょっと待ってろ」

 魔王なのだから風邪など引かないかもしれないが、気付いてしまった以上は見て見ぬふりも決まりが悪い。それにレーヴェは髪が長いから自分でやるのも大変だろう。そう思った俺は、タオルとドライヤーを使って彼女の髪を乾かしてやることにした。

「…………。……………」

 相変わらずの無表情。だが、ふわふわのタオルと緩やかな温風は彼女のお気に召したようだった。せっかくだからとしてあげたブラッシングも好評の模様。心なしかご満悦の気配が伝わってくる。終盤、温風のみで終わってしまうとキューティクルが傷む、みたいな話を以前朔夜から聞いたのを思い出したので、最後に冷風を当てて仕上げをした。

「あ、の……ありがとう、ございました」

「どういたしまして」

 恐縮しているレーヴェに短く返し、ドライヤーのコードを巻いていく。

 先にご飯食べてていいぞ、と言い残してから今度は俺が浴室に向かった。

 超人的なこの肉体が病気に罹るかは分からないが、衛生面に気を配っておいて損はないはずだ。小汚い格好をしていて人目を引くのも嫌だし、身なりには配慮しておきたい。

 身体を洗いつつ、下着なども一緒に手洗いする。薄めの生地だから一晩あれば乾くだろう。ちなみに自分の服と共にレーヴェが着ていたものも洗っている。ウィッグとかを入手する際、ついでに彼女用の着替えも買っておいて正解だった。

 ついさっきまで女児が穿いていた下着を洗っている今がどんな気分かと問われると、羞恥や興奮の情動は微塵もなく、ほぼ無心。

(育児に、金銭管理に、洗濯って……やってることが主夫とほぼ変わらねぇ……)

 ラブホで洗濯に勤しむ人間が世の中にどれだけいるだろう。何とも言えない思いを洗い流すようにシャワーを浴び、諸々の雑念を湯に溶かすように浴槽に浸かった。

 入浴を終えて部屋に戻る。少女はハンバーガーを両手で大事そうに持って食べていた。

「うまいか?」

「はい……。でも、憂人さんがつくってくれたものと、すこし……ちがいます」

「あー、それは店で売ってるちゃんとしたヤツだからな。俺が作ったのは勢い任せの有り合わせというか……ともかく、それが本物のハンバーガーだ」

 ソースを口の端につけながら、レーヴェは再び手元に視線を戻した。

「これも、すごくおいしいです、けど……わたしは、憂人さんがつくってくれたハンバガーのほうが……すきです」

 表情もなくそう零し、改めて小さな口であむあむと頬張り始めた。

 何だこれ。よく分からないが非常に面映ゆい。照れを隠すように室内を見回すと、視界の端にテレビを発見した。沈黙を生まず、勝手に場の空気を動かしてくれる心強い味方。ニュースも見たいと思っていたので一石二鳥だ。これ幸いとばかりに電源をつけた。

 ところが、変な焦りからか直後にリモコンを床に落としてしまう。それで偶然にも画面選択が為されたのだろう。突如として大音量でとんでもない映像が映し出された。

『あっ、あっ、ダメ、あんっ……いい、イイの、ぁあああああぁアっ!』

 化け物並みに向上した身体能力を駆使し、落としたリモコンをマッハで拾い上げる。

 間髪入れずに瞬で消した。不覚が過ぎる。こんなミラクル望んでない。

「……? 憂人さん。いまの人たちは、はだかでなにをしていたのですか?」

 拾うなよ。スルーしてくれよ頼むから。あんな映像、一体どう説明しろというのだ。

 選択肢①とぼける「さあ、何だろうな?」

 選択肢②ごまかす「たぶんプロレスか何かだろ」

 選択肢③煙に巻く「ハンバーガーの発祥の地って実はロシアらしいぜ!」

 分からない。子供に性教育を施す際の大人の苦悩を痛感する。こういう時はどうすればいいんだ。教えてくれ朔夜。辰貴でもいい。近年は保健体育の授業もかなり簡略化されてきたという話だし、海外に比べて日本では性についてどこかタブー視する風潮が強いのは紛れもない事実だと思う。人生経験が乏しい自分では、ここでどう答えるのが適切なのか見当もつかない。ただ、少女は依然、無垢な視線を向けてきている。純粋すぎる瞳だ。彼女の善悪は置いておくとして、少なからず信頼を寄せてくれている相手に不誠実な態度で応じるのは信条に反する。悩んだ末、俺は下手に隠さずそのまま伝えることにした。

「あれは動物で言うところの交尾と一緒。つまりは子供を作るための行為だ」

「こどもを、つくる……?」

「ああ。実を言うとここはそのための施設なんだ。普通のテレビならあんな映像流れない」

 そう伝えたら、レーヴェはきょとんとした顔になった。

「憂人さんは、わたしとこどもをつくるんですか……?」

「いや作んねぇよ! 何でそうなるんだよっ!」

 予想外の返しについ叫んでしまったが、俺の伝え方が悪かったのか。今の話の流れなら彼女がそう思ってしまったのも仕方ないというか、むしろ当然のような気もしてくる。

「俺たちはなるべく周りに素性がバレないよう、苦渋の決断としてここを利用しているだけだから……。俺はレーヴェに変な気を起こしたりしないし、絶対に手も出さないから安心してくれ。第一お前まだ子供産めるような年齢じゃないだろ。何歳なの?」

「……わかりません」

 わずかに間を空けてからそう答えた後、レーヴェはうつむいてしまった。何か気に障るような発言をしてしまったのだろうか。分からないと言われたが、昨日から分からないことだらけなのはこちらの方だ。微妙な空気が流れる中、何とも泣きたい気分になる。

(……そうだ、スマホがそろそろ復活したはず)

 現代の万能ツール、スマートフォン。アプリやメール、調べ物はもちろん、気まずい中で一人過ごす時にも大活躍する優れもの。切れていた充電もだいぶ溜まった頃だろう。

 そうして立ち上げて画面を見た瞬間、思わず「うおっ」と声を出してしまった。通知が三桁近くも届いていたからだ。ほとんどが母と朔夜からだった。これはまずい。

 怒られるならまだしも泣かれたりでもしたら相当応える。どうしたものかと熟思したが、とりあえずまた連絡するとメッセージを送っていた朔夜にまず電話をかけることにした。

『――もしもしっ、憂人君⁉』

 再び「うおっ⁉」と言ってしまった。ワンコールで繋がったこともそうだが、スマホの向こうから、朔夜らしからぬ冷静さを欠いた大きな声が聞こえてきたためだ。

「す、すまん。スマホの充電が切れて連絡遅れた」

『そう……そっか、そうなんだ……良かった……。いくら電話しても全然繋がらないから、私、心配で、心配で…………本当に、心配で……』

 彼女の声がかすれていく。声だけしか情報がない分、余計に焦る。

「すまんっ、本当にすまん! 以後こんなことがないように気をつけるから!」

『ううん……。憂人君も大変だったんだよね。ごめんね、逆に気を遣わせちゃって……』

 大変じゃなかったわけではないが、何かもう気分的に申し訳なさの方が勝る。

『テレビであんなことがあったから、憂人君の身に何かあったんじゃないかって、私……』

「……? テレビ? 一体何があったんだ?」

『憂人君、ニュース見てないの……?』

「いや……見ようとは思ったんだが、ちょっとした事故があって……」

『事故? そういえば憂人君、今どこにいるの?』

「えっ、それは――…………ホテルだよ」

 嘘は言ってない。ちょっと名称を省略しただけで嘘は言ってない。

「そ、それよりテレビで何が放送されたんだ?」

 露骨な話題転換とも取られそうだったが、重要度からいっても本題に戻るべきだろう。朔夜もそう思ってくれたらしく、すぐに意識をニュースの件へと切り替えてくれた。

『今日の正午に天使を名乗る人たちが会見を開いたんだけど、その会見を取り仕切っていたのが、夢で神様と一緒にいた女の人だったの……。学校ではみんなが同じ夢を見たって話で朝から結構騒ぎにはなってたんだけど、テレビとか動画とかでそのニュースが世界に向けて発信されてから様子が変わって……学校中がパニックになって……っ』

 朔夜の話を聞き愕然とする。混沌とする教室の風景が目に浮かんできた。

 神からの啓示という面で、夢での体験は確かに衝撃的だった。とはいえ、それが夢である以上、魔王との聖戦なんて所詮は眉唾物、実感の伴わない『ただの夢』に過ぎなかった。しかし、夢に現れた人物が現実でも姿を見せたことで信憑性が一気に増したのだろう。エレオノーラという女性は、自身を『物的証拠』にすることで、『ただの夢』を『現実』に変えたのだ。

『街中も大変なことになってる……。食べ物や日用品を買い込む人たちがお店に押し寄せて騒然となったって……。警察も動いてるみたい』

「備蓄のための買い占めか。災害や恐慌の時と同じだな……」

 東京の方はそんな事態に陥っているのか。人目を避けて行動したのが間違いだったとは思わないが、人口密集地から遠ざかる分、どうしても世間の動きの察知が遅れる。スマホが使えなかったというのも大きいが、今後は今まで以上に社会の動向に対してアンテナを張っておかなくてはならない。

「朔夜は大丈夫なのか? 今どこにいる?」

『今は憂人君の家にいるよ。……憂人君のお母さんと一緒にいる』

「っ……そうか、母さんと……」

 傍にいてくれたのか。ありがたい。朔夜はいつも俺が懸念するだろうポイントを理解して的確にフォローしてくれる。彼女にはもう足を向けて寝られそうにない。『今、代わるね』と告げる朔夜の声を継ぎ、スマホの向こうから母の声が聞こえてきた。

『……憂人? 大丈夫?』

 顔は見えないが、憔悴している様子が声音から察せられた。自分が原因なのだと思うと心が重くなる。室内の照明が少しだけ暗くなったように感じられた。

 それから二言三言、温度の低い言葉を交わす。『大体の事情は朔夜ちゃんから聞いた』と前置きしてから、母は一つだけ聞かせてほしいと問いかけてきた。

『どうにかして……帰ってくることはできないの……?』

 胸が痛くなる。帰ると言いたい。帰れると言ってあげたい。だけど……。

「……できない」

 戻りたいけど、戻れない。レーヴェを守るためにも、母さんたちを戦いに巻き込まないためにも、俺は戻るわけにはいかない。

『そう……。やっぱり、そうなのね。……ダメね、私。大変なのは憂人の方なんだから、母親として元気づけてあげなきゃいけないのに……こんなんじゃ、お母さん失格ね』

「そんなことっ……そんなことない。無理して明るく振る舞われるより、いい」

 むしろ俺の方が母さんを元気づけたいのに、うまく言葉が出てこない。平気だとか、大丈夫だ、なんて言葉は気休めにもならないと分かっているから。人類規模というスケールを甘く見ていたわけではないが、自分以外の人の反応を見ると受ける実感が違う。

 少しの間会話が途切れ、かすかな息遣いだけが耳に届いた。

『ねぇ、憂人。お母さんのお願い、一つだけ聞いて。……一生に一度のお願いだから』

 母の声が、か細く震えた。

『お願いだから……無事に帰ってきて……』

 もう、家族を喪うのは嫌だ。独りになるのは耐えられない。

 直接言葉にしなくても、言外にそう訴えているのが痛いほど伝わってきた。

「……うん。約束する」

 何の保証もありはしないけど、それ以外の返答などできるわけもなかった。それに、これは自分への誓いにもなる。絶対に死なない。俺の命は、俺一人のものじゃない。

「必ず帰る」

 電話の奥で、母さんが少しだけ安心したように息を漏らした。

「…………」

 そんな俺たちのやり取りを、レーヴェは終始じっと見つめていた。

 その晩は、先に話していた通り、俺もレーヴェも早々に床に就いた。仄暗い感情が渦巻いていたのと、ごちゃごちゃと考えてしまう性分のせいで、なかなか寝つけないかもしれない。そんな心配もしたが、自分で思っていた以上に疲れが溜まっていたのか、はたまたベッドの心地よさに緊張が緩んだのか、横になるなりすぐに眠りの底へと落ちていた。

 翌朝になり、大きめに設定し直したスマホの着信音で目を覚ます。眠りが深かった分、すぐには頭が覚醒しない。のろのろと枕元に手を伸ばし、再び閉じそうになる瞼を震わせながら画面に目を凝らす。差出人は不明だった。誰だろうと寝起きの頭で考える。メッセージを開き、文面に視線を走らせた瞬間、滞留していた眠気が一気に吹き飛んだ。

『そこは危険。すぐに離れろ』

 味気のない端的な文章が、ドクンという拍動と共に危機感を煽った。


***


 神の啓示より四日目の朝を迎えた。

 方々を渡り歩き、今日も引き続きラブホテルを利用している。人間という生物は大抵の物事には慣れるようで、最初は躊躇っていたラブホ宿泊も、回数を重ねるうちに段々と抵抗を感じなくなってきたように思う。しかしそれは、そんな些事に心を砕いている余裕がなくなってきたからだとも言える。体力的にはまだ問題なくても、常に追われているという緊迫感と疲弊感は、確実に俺の精神をすり減らしていた。

 気掛かりな問題が多い中、天使の追跡以外にも大きな懸念事項が三つある。

 一つは匿名のメッセージ。

 非通知設定の連絡が、今日までに合計七回も送られてきている。内容は一貫して危険を知らせるもので、『そこから離れろ』や『十分間その場に留まれ』といった簡素な文章が綴られていた。誰が何を意図して送っているかが分からないから気味が悪い。だが、俺たちをはめようとしているならこんな回りくどいことをする意味もない。そのため、注意を払いながらも指示通りに動いているのが現状だ。実際、そのおかげかどうかは定かでないが、今のところトラブルなく逃避行を続けられている。

 二つ目の懸念は俺が交わした契約における制約について。

 初日以降も朔夜や母さん、それに辰貴とも何度か連絡を取り合ったが、向こうがこちらの現在地を尋ねてきても、俺は答えることができなかった。答えようとしたが、答えられなかった。おそらくはそれにより情報が漏洩し、《魔王》の身に危険が及ぶのを防ぐため。どうやら俺にかけられた『裏切り禁止』の制約は、好悪感情などの思考面は緩いが、言動面においてはかなり厳格で強固らしい。この事実が今後どう影響してくるかは分からないが、いざという時、朔夜たちを傷つける結果にならないかが不安だ。

「ん、む……」

 レーヴェが目を擦りながら身を起こす。緩やかに波打つ銀白色の髪が所々はねている。その様子が微妙に間抜けで、これが人類を滅ぼす魔王なのかと今でも疑わしく思える。

(本当に……もっと分かりやすい悪党なら話が早かったのに)

 ぴょこんと寝癖のついた髪を手櫛で直してやると、レーヴェは少しくすぐったそうにしながらも、どこか嬉しそうに瞳を細めた。

 三つ目の懸念事項――魂魄剥離。

 二日目の夜、その現象を再びこの目で見た。前回と同じく、宙に浮いたレーヴェの身体に無数の光体が吸い込まれていった。そして、今回はその瞬間に気付いたことがある。以前は動揺が勝り見落としていたが、どうも魂の吸収に合わせて俺の肉体が強化されているようだった。筋力、知能、感覚器官、そういった能力が軒並み向上している。今なら訓練を積んだ軍人の集団が武装して襲ってきたとしても、片手であしらえる自信がある。奪った命を自らの糧にするなんて、いかにも魔王じみた力でぞっとする。

 ニュースを見た限り、今回の魂魄剥離現象により命を落とした者の総数は、最低でも八千万人を超えているらしい。俺がこの手で直接殺したわけではないから、八千万人分の力が丸々俺に加算されたわけではないようだが、それでも成長速度が異常なのは変わらない。ゲームならチート呼ばわりされるほどのレベルアップ。どう過小評価しても、すでに人類最強。ただの人間に一対一で負けることはもう絶対にない。少しずつ自分が人間じゃなくなっていくみたいで、何だかこれまでとは違う種類の恐怖が生まれつつあった。

「そろそろ出るぞ」

 レーヴェに出発の準備を促しつつ、自分も身支度を整える。謎の警告文に従っているうちに日本海側へ移動し、今は秋田県の秋田市辺り。目的地というものはないので、変わらずざっくり北方向に放浪しているわけだが、今日はどこまで進もうか。

「あー、ちょっと待った君たち。今そこの施設から出てきたよね?」

 ホテルから出たタイミングで背後から声をかけられ、ぎくりとしながら振り返る。そこにいたのは中年と若めの男性二人。制服を見れば何者なのか嫌でも分かる。

(……やばい)

 警察官だった。この状況はまずい。社会的にまずい。

「君たち、二人とも未成年だよね。しかもそっちの子は小学生くらいじゃないの? どういう関係なのか、少し話を聞かせてもらってもいいかな」

 予想通りの展開だった。しかし、何という不名誉な職務質問だろうか。今二人の警官の目には、俺が幼女をラブホに連れ込んだ変態に見えていることだろう。身の潔白を訴えるべく弁解できないところがまたつらい。説明しようとすれば《魔王》という単語に触れかねないからだ。これ以上事態を悪化させてはいけない。この局面、一体どう言い逃れをしたものか。

 すると、話しあぐねている俺を見たレーヴェが、代わりとばかりにぼそりと答えた。

「……きょうだいです」

「「「えっ?」」」

 俺と警官二名の声が重なった。さぁーっと血の気が引いていく。

 出会った日の夜、確かに俺はレーヴェに、俺たちの関係を聞かれた際は兄妹と答えるよう言い含めていた。それが穏便に話を進めるためには最も適した答えだと思ったから。

 ところが、その回答が時と場合によるものだということをたった今思い知った。兄と妹で早朝ラブホからチェックアウトとか、アブノーマルに一層拍車がかかる。

「兄妹って、それ……近親相か――」

 若い方の警官が驚愕の声で呟きを漏らそうかという矢先、その言葉が最後まで告げられるよりも早く、俺はレーヴェを脇に抱えて脱兎の如く逃走した。

「あ――ま、待ちなさい!」

 待つわけがなかった。そして、この時ばかりは力の制限とか考えている余裕もなかった。道の角を曲がるや否や全力疾走。おそらく、いや確実に、自分史上最高速をマークした。

 数キロ走り、周囲の安全を確かめてから立ち止まる。久々に呼吸が乱れているが、この息切れはきっと肉体的疲労から来たものじゃない。

「はぁ、はぁ……焦った……」

 昨今ラブホを女子会やカラオケ目的で利用する人も多いと聞く。あるいは落ち着いて対応すれば何とかごまかせたのかもしれないが、それで色々と突っ込まれていたらやはりボロが出ていた気もする。うん、これは逃げて正解だった。

「あの……ごめんなさい。わたし、なにかまちがったことをしてしまいましたか……?」

「あー、いや……気にするな」

 誰が状況をややこしくしたかは明白だが、彼女は俺から言われた通りに受け答えしただけだから𠮟責するのは違う。今後はあらゆる可能性を想定して、自分がもっとうまく立ち回らなければいけない。適応力と対応力が求められている。

「というか……どこだ、ここ」

 警官を撒くべくがむしゃらに走ったから、現在地がどこか分からない。

 突き抜けるような秋晴れの澄んだ空、森林と呼んで差し支えない規模の豊かな緑、ガードレールの奥ではススキの穂が穏やかに揺れ、少し視線を上げれば観覧車がその車体を陽光に煌めかせていた。どこからか動物の鳴き声も聞こえてくる。

(……のどかだ)

 ゆったりとした雰囲気に感化され、ついそんなのんきな感想を抱いてしまった。

「憂人さん……あれ、なんでしょう」

 レーヴェが服の裾をくいくいと引っ張りつつ尋ねてきた。見れば、道路の続く先に何かの施設がある。横に長い受付のゲートに記された文字が、その正体を告げていた。

「動物園みたいだな」

「どうぶつえん……?」

「飼育されている色んな動物たちを見て回れる場所だ」

 そう説明すると、彼女は小さく相槌を打った後、門の方を瞬きもせず見つめたまま動かなくなった。表情の乏しい子だが、今回ばかりは何を考えているのか容易に推し量れた。

(どうしたものか……)

 危ない橋は渡らない。ここ数日、それを前提に行動してきた。『周りはすべて敵』。普段なら被害妄想とも取れるその言葉も、今は『ない』と切って捨てられない。

 これまではそれほど意識していなかったが、注意して見てみると、街中に設置された監視カメラや防犯カメラの多さに気付く。コンビニなどの店内はもちろん、街路や駐車場、個人宅の玄関先にも、今や世の中の至る所に『目』がある。当然、この動物園にもその視線はあるはずだ。安全を第一に考えるならば、不要で余計な行動は極力控えるべき。それは充分に理解していた。

 だが、同時に思い悩んでもいた。この終わりの見えない逃避行、仮にすべての娯楽を排除し生き残ったとして、果たしてそんな人生に意味はあるのだろうか。彩りのない絵を延々描き続けていくようなものだ。何の価値も感動も生まれない、無味乾燥な白黒の絵画。たとえ完成したとしても、その絵はきっとつまらない。

 数秒の逡巡を経て、俺は気持ち長めの息を吐いた。

「行ってみるか、動物園」

 レーヴェが驚いたようにこちらを見上げてきた。初めて見る表情だった。

「いいんですか……?」

「そんなに長居はできないから、少し覗くだけになるだろうけどな」

 そう返しつつ、先導して歩き始める。レーヴェは少々間を空けてから、やや遅れてついてきた。ちらりと再度表情を窺い見る。かすかな変化だが、これまた初めて見る顔をしていた。

 分かりやすく笑っているわけではない。

 それでも、心なしかその足取りは軽く、瞳はきらきらと輝いているように見えた。

 チケット売り場で確認すると、幸運にも高校生以下は無料で入園できるようだった。しかし、学生証の提示が必要とのことだったので、身元を明かすリスクと七百三十円とを天秤にかけた末、俺は安全を優先し、大人料金を払って入ることにした。

「さて、どこから見て回ろうか。見たい動物とかいる?」

「どうぶつ、あんまりしらないです……」

 入り口付近に置いてあった園内マップのパンフレットを手に取り、すべての動物舎を効率よく網羅するための合理的ルートを組み上げる。俺自身、入場するのは小学生の時以来だ。しかも東北の動物園は初だから、どことなく心が浮き立つのを感じていた。

 今一度レーヴェの身なりを確かめて、帽子やウィッグの着け方が甘くないか、変装が完璧であるかをチェックする。俺も改めてフードを深めに被った。無警戒になるのは当然駄目だが、常に周囲を威嚇していたら逆に怪しまれかねない。

 それにリスクを承知で遊ぶと決心してここに来たのだから、楽しまなければ損というもの。面倒なことはひとまず忘れて、今だけは可愛い動物たちに全力で癒やされるとしよう。

「よし、じゃあまずは正面のコツメカワウソから行くか」

「コツメ……カワイソウ?」

 前言ちょっと撤回。動物には少し詳しい。レーヴェのために解説を挟みながら癒やされるとしよう。

 そう決めてほぼ順路通りに進んでいき、キョン、エミュー、ラクダ、リス、クジャクと、様々な動物を見て回った。東京の動物園にはいなかった種類も数多くおり、レーヴェに説明してあげようと思っていたが、俺の方もだいぶ解説板のお世話になってしまった。

 レーヴェは好奇心に満ちた目で、しきりに「あれはなんですか?」と質問してきた。出会ってから一番の饒舌具合だ。彼女はとにかく遠慮がちで、自分の意見を言わず、我というものをほとんど出さない。だから、ようやく彼女の年相応な姿を見ることができた。

「憂人さん、あれはなんですか?」

「キリンだ」

「くびと、あしが、ながいですね」

「高所にある葉っぱを食べたり、遠方の敵を見つけやすくなるためにそういう進化を遂げたって聞いたことあるな。ああ見えて牛の仲間で『モー』って鳴くらしいぞ」

「……うし?」

 牛も知らないのか。マップを見てみるが、残念ながらこの動物園に牛はいないようだった。そのうち牧場にでも連れていってあげようか。

 それにしても、つい日本にいる普通の子供と同じように接してしまうが、料理についても生き物についてもレーヴェの知識量は赤子並みだ。『一ヶ月前に自然発生した』という話は半信半疑だったけれど、これはいよいよ現実味を帯びてきたかもしれない。

「きりん……おおきいですね」

 当の本人は、柵の向こうでむしゃむしゃと口を動かしているキリンを感心しながら眺めていた。黄色と茶色の柄が店で見かけたバナナに似ている、などと話している。

 この園の動物紹介パネルはわりと凝っていて、学名、英名、分類、分布の他に、個体についての情報もしっかりと載せてあった。目の前で葉っぱを食べているキリンはエミリーという名前の雌で、臆病だが仲間想いの性格をしているそうだ。先々月に出産して母親になったらしい。そのことをレーヴェに伝えると、彼女は何かを考え込むように一度うつむいてから、俺の顔を見上げて真摯な視線を送ってきた。

「憂人さん。おかあさんというのは……家族というのは、どういうものなのですか?」

 その瞳は、先日俺が母と電話で話していた時に向けてきたものと同じだった。料理や動物に対する興味とはまた別の、困惑と羨望が入り交じった熱のようなものを感じた。

「家族か……。人によって認識が違うだろうから一概にこうとは説明できないんだが、そうだな……俺にとっては、無条件で心を許せる存在、かな」

 どう答えたものかとやや悩んだが、母さんの顔を思い浮かべたら自然とそのフレーズが出てきた。長い時間を共に過ごしたからこそ構築される信頼関係。法律や血縁といった形式的・物質的なものとは一線を画す、心の絆。一朝一夕で得られるものではないからこそ、その繋がりは尊く価値のあるものなのだろう。

「家族……わたしにも、できるでしょうか……」

 それは俺への問い掛けではなく、自身に対する呟きのようだった。この感情が何なのか、自分でも分からない。一時の同情か、あるいは単なる憐憫なのかもしれない。でも、ずっと孤独を感じているであろうこの子に、今、何かを言ってあげないといけない気になった。

「……設定とはいえ、今は俺の妹だろ」

 そう告げると、彼女は目を数度瞬かせて小首を傾げてきた。今一伝わっていない模様だ。

「だから……とりあえず今は俺がレーヴェの家族だってことだ」

 言っている途中で気恥ずかしくなり、何だか最後吐き捨てるみたいになってしまった。もはやレーヴェの反応をまともに見ることもできず、次のコーナーへと足早に歩き出す。

 彼女がちゃんとついてくるのを確認しつつ、さらに歩調を速める。完全に照れ隠しだった。

 それがいけなかったのかもしれない。斜め前にいた人と軽く肩が接触してしまった。

「あ……すみません」

「いえ、大丈夫ですよ。お気になさらず」

 幸い気のいい人だったようで、難癖をつけてくることもなく平和的に済んだ。ぶつかったのは、染色とは違う自然な色の金髪が眩しい美形の青年だった。顔立ちからして異国の人みたいだが、流暢な日本語から察するにそれなりに滞在歴は長いと推測できる。それにしても、とんでもなく整った容姿だ。顔面偏差値は東大を超えてハーバード級と言えよう。その証拠に、道行く少女、婦人、老婦に至るまで、すべての女性が彼へと熱い視線を向けていた。

「こちらこそ失礼しました。お怪我はありませんか?」

 ぶつかってしまったのは俺の方なのに、丁寧に謝罪までしてくれた。外見だけじゃなく中身までイケメンとか、恐ろしいまでに人間ができている。

「そちらは妹さんですか? とても可愛らしいですね」

 にこりと柔和な微笑を湛える青年。レーヴェは人見知りが発動したのか俺の背中に隠れてしまったが、特に気にした様子もなく依然として青年の物腰は柔らかい。少し距離感が近い気もするが、この一気に親しみを寄せてくる感じは海外の人特有のものなのだろうか。

 とはいえ、どこまでも朗らかだから、馴れ馴れしくて嫌という印象は全く受けない。何となくそのまま喋りながら次の『王者の森』コーナーまで一緒に歩いていく。

「実は僕、動物園に遊びに来るのは今日が初めてなんです。少し前まで病に臥せっていまして、まともに活動できる状態ではなかったので」

 こうして普通に外に出られるだけで幸せなんです、と語る青年は、これまでの苦労を感じさせない清々しい面差しで、降り注ぐ日光に手の平をかざして目を細めている。

 彼は人と話す行為に飢えていたかのように、祖国がある欧州の街並みや、療養のため家族と離れ多摩奥地の別荘に単身移り住んだこと、日本に来てその風光明媚に感動したこと等々、短い間に色々なことを聞かせてくれた。俺としてもここまで自然体で話せる同世代の相手は久方ぶりだったので、何だかとても新鮮な心地だった。

「じゃあ、あなたは財閥の跡取りなんですか?」

「元、ですけどね。病気になって回復の見込みが薄いと判断されてからは、家督や財産の継承権は弟に移りました。ただ、そこに不満はありません。……家を維持するには必要な措置だったと僕自身も理解していますから」

 そう微笑んで話しながらも、青年の顔にかかる陰影は先ほどよりも濃くなっているように感じた。治療や静養というのは建前で、本音は厄介払いだったのではないか。その不信感が払拭できないのかもしれない。彼はこの極東の地で何を思って過ごしてきたのだろう。俺はかけるべき言葉を見つけられないでいた。

「申し訳ありません。何だか少し暗い話になってしまいましたね。……あ、見てください。ライオンがいますよ」

 場の空気を変えるように、青年は話題を目の前の風景に戻した。励ましたいという思いもあったが、下手な慰めは逆効果になるだろうし、自分に気の利いたフォローができるとも思えない。それにせっかく配慮してくれたのにまた話を蒸し返すのも野暮な気がした。

「……つよそうです」

 そんな時、レーヴェが小さくそう呟いた。重くなりかけていた心を軽くする、子供らしい素直な感想。正直、ちょっと和んだ。少女が零した飾り気のない一言に、俺と青年は二人して表情を緩めたのだった。

 それから暫し、そのエリアを散策する。ライオンに続き、トラ、オオカミと見て回った。さすがは東北というべきか、ユキヒョウを発見した時は少々興奮してしまった。

 よくよく見てみると、想像していたよりもずっと尻尾が長い。体長の九割近くありそうだ。レーヴェも同じことを思ったようで、「どうしてなんでしょう」と聞いてきた。例の如く設置してあった解説版を読み上げる。

「ユキヒョウは標高の高い山脈にある岩場や草原などに生息しており、雪山の急斜面を走る際に長い尻尾で重心をコントロールしている。また、寒い時は自分の尻尾をマスクやマフラーのように巻きつけて、口や鼻から冷たい空気が入るのを防いでいる……」

 すごいな。生息地が違うことで体の作りもヒョウとはだいぶ変わっているらしい。

 寒さを凌ぐために体毛は長く密に生え、雪の中でも歩きやすいよう脚は太く、崖から滑り落ちないよう肉球は大きい。ヒョウは走るのが得意だが、ユキヒョウはジャンプ力が優れていて、ひと跳びで十五メートルほども跳躍できるという。

 生息地に適応するために、住みやすい体へと自然に進化を遂げていったのだと考えると面白い。生命の強かさを感じる。

「しろくて、きれいです……」

 レーヴェと並んで檻の中を一心に眺めていると、青年にくすりと微笑まれた。

「お二人はとても仲がいいんですね」

 彼としては、俺たちを兄妹と認識しての台詞だから他意はないのだろうけど、思ってもみなかったことを言われてつい返事に窮する。青年はそんな俺の心情など知る由もなく、悠々と動物鑑賞を楽しんでいた。

「そうだ、写真を撮っていただいてもよろしいですか?」

 そう言ってスマホを差し出される。断る理由もないので了承しながら受け取り、背後のユキヒョウがうまく映り込むような角度でシャッターを押した。

「ありがとうございます。お礼に僕もお二人を撮って差し上げますね」

「え……いや、俺たちは」

「まあまあ遠慮なさらず。これもきっと記念になりますから」

 青年は善意で申し出てくれているから拒否しづらい。それにここで強く拒み続けるのも不自然に思われかねないので、俺は彼に自分のスマホを手渡した。

「はーい、いいですよ。あ、妹さん、もう少しお兄さんの方に寄ってくれますか?」

 どうせなら良い写真を撮りたいと、青年は時間をかけて細かな指示を出してくれた。やがて納得のいく構図が出来上がったのか、指で丸を作りスマホ画面を覗き込んだ。

「えーと、うーん……? カメラがここで……あ、こうですね。はい、いきますよー」

 やや手間取っていたようだが、ようやくスマホからカシャリという音が聞こえてきた。

「うん、我ながらなかなか素敵な一枚が撮れました」

 偉く満足げな青年からスマホを受け取る。確認してみると、本当に良い写真だった。

 満面の笑みを浮かべているわけではない。それでも、俺もレーヴェも穏やかな表情で互いに寄り添っている。まるで本物の兄妹のように見えた。

 何となくレーヴェにも見せてやりたくなり、振り返る。だが、彼女は微動だにせず鉄格子の中へと視線を投じていた。怪訝に思いその隣まで歩いていく。

「どうかしたのか?」

「憂人さん。……あの子が、ぜんぜんうごかなくて」

 見ると一匹のユキヒョウが力なく地面に横たわっていた。眠っているにしては少々様子がおかしい。静かすぎる。呼吸によって胴体が上下することもなく、口の近くに生えている草が息でなびくこともない。旅館などに飾られている剥製のようだった。

「あのユキヒョウ、死んでいますね」

 いつの間にか真横に来ていた青年が、潰えた命を見据えたままそう呟いた。

「……動物たちはどう感じているんでしょうね。狭い檻の中に閉じ込められ、人に飼われたまま一生を終えていくこの環境を。楽して餌にありつけることを幸運と感じているのか、はたまた何も疑問に思わず生きているのか……それとも……」

 青年はそこで言葉を止めたが、俺には彼が何を考えているのか分かる気がした。病という不自由に囚われて過ごしてきた彼だからこそ、檻の中にいる動物たちにも人一倍感情移入してしまうのだろう。俺も環境や境遇といったしがらみには思うところがある。

「一見楽しい動物園も、見方を変えれば人間の業の深さが窺える……そう思いませんか?」

 こちらに向き直り、眉を下げて微苦笑を浮かべる青年。声音も表情もこれまでと同様に柔らかいままだが、その醸す雰囲気が少しだけ変化したように感じた。

「憂人さん……あのどうぶつたちは、どれいなんですか?」

 一方、こっちはこっちでレーヴェから飛び出したその単語に思わずぎょっとしてしまう。

「い、いや、奴隷とは違うんだが」

 口では咄嗟にそう否定したものの、改めて考えてみるとどう説明すればいいか分からなかった。動物の飼育は言ってみれば人間のエゴだ。彼らの意思が尊重されているか否か、それを完全に証明する手立てはない。奴隷は極論だとしても、自由を奪っていることは明白。事実、この鉄柵をなくしてしまえば、彼らは解き放たれたように逃げ出すだろうから。

 明瞭な答えを返せず黙する俺の傍ら、レーヴェはどこか物憂げな表情を湛えて鉄の囲いに閉ざされた世界を正視していた。そんな俺たちを見て、青年がふっと笑みを漏らす。

「今日はとても有意義でした。お二人と話せて本当に良かった。……お礼に一つ面白いものをお見せしましょう」

 再度檻の方へと視線を向けた青年は、その目に倒れているユキヒョウを映した。

 風がざわめく。空気がひりつく。刺すような緊張感が肌を通して伝播してきた。

「【起きなさい】」

 彼が唱えた謎の言詞。それが意味することについて考えるより早く、その異変は生じた。

 ユキヒョウの死骸から黒い靄のようなものが立ち昇る。

 それは徐々に元の生命の形体をかたどっていき、するりと檻の中から抜け出すと、四本足で俺たちの前に顕現した。夜を宿したように全身が純黒でありつつも、二つの瞳だけは微光の帯を引きながら青白く光っている。

 突如眼前で起きた事象に対し、思考が瞬時に加速し始める。動物園に入って以降、どうにか抑えようと努めていた危機感が死神さながらに鎌首をもたげた。

(こいつ、まさか……っ)

 青年は落ち着き払った様子で何かを取り出し、それを摘んだ指先から垂らして俺たちに見せてきた。チェーンに繋がれたそれは、値の張りそうな懐中時計だった。

「【反魂時計クロノスタクティス】――神様から賜りし僕の神器です。死した者の肉体から魂の残滓を抽出し、それを実体化して影の兵として使役することができます」

 その言葉通り、蘇ったユキヒョウは服従を示すかの如く青年の前で首を垂れている。彼はその頭を撫でながら、俺と、傍らにいるレーヴェに視線を向けた。

「その子は魔王ですね?」

「っ……!!」

 端的な指摘に動揺した俺は、ついレーヴェを庇う素振りを見せてしまう。

「その反応、当たりみたいですね」

 相も変わらず人当たりのいい笑みを浮かべる青年を見て、しまったと忌々しげに舌打ちする。レーヴェを腕で押し、さらに後方へと下がらせた。

「鎌を掛けたのか?」

「状況証拠ばかりで確証がありませんでしたので」

 人畜無害そうな顔をしながら全く悪びれず答える青年に苛立ちが募る。

 その時、空から数羽の黒い鳥が舞い降りてきた。カラスかと思ったが、違う。青白い妖光を灯す二つの目が、その正体を雄弁に物語っている。鳥たちは青年の周りをパタパタと旋回していたが、やがてそのうちの一羽が彼の腕へと静かに止まった。

「僕は影兵と感覚を共有できます。その能力を駆使し、この子たちの『目』を通して各地に異常がないかを見張っていました。そして数日前、群馬県高崎市を流れる烏川近辺を監視していた影の一つが、生身のまま遥か上空に跳躍する若い男性の姿を認めました。そのため、当該人物の行動を予測して網を張っていたんです。……心当たり、ありますよね?」

「…………」

 沈黙と睥睨で応える俺に苦笑いしつつ、青年は話を続ける。

「でも、結構骨が折れましたよ。これは捕捉できるだろうというところで毎度網をすり抜けられていましたからね。だからこそ、ここで接触できたのは僕としても想定外でした。この動物園にはちょっとした気分転換のつもりで立ち寄っただけでしたので。まさかそちら側から来てくださるとは」

 思わずぎりっと歯軋りする。偶然とはいえ、俺の安易な考えがこの事態を招いてしまったのだから。だが、判断ミスを悔いている時間はない。後悔よりも、今は他にやるべきことがあるはずだ。

 そっと視線だけで周囲の状況を確認する。大混乱とまではいかないまでも、不穏な空気に気付いた入園客たちがざわつき始めているようだった。

「そういえば、自己紹介がまだでしたね。僕は《再生》を司る天使、レイン・L・グリーンフィールドと申します。……良ければあなた方のお名前もお聞かせ願えますか?」

「……断る」

 眼光鋭く吐き捨てると、金髪の青年――レインは再び苦笑を漏らした。

「しかし、どうにも理解できません。話してみた感じとして、あなたは良識のある方だという印象を受けました。それだけに魔王と行動を共にしている理由が分からない。その子が魔王だと知らなかった、というわけでもないですよね?」

 レインに目を向けつつも、引き続き周りに気を配る。可能な限り戦闘は避けたい。そのためにも、大きな騒ぎになる前に、速やかにこの場を離脱する。

「とはいえ、正直なところ僕も少し困惑しています。想像していた魔王像とあまりにもかけ離れていたものですから。……でも、その子が魔王であるなら、やはり僕は今日ここでその子を殺さなくてはなりません。できればあなたには危害を加えたくない。もしもその子に人質を取られているのでしたら僕が責任を持ってその方を救出します。……ですからどうか、その小さな魔王をこちらに引き渡していただけませんか?」

 できるだけ穏便に済むよう、誠意的に接してくれているのが分かる。この青年はきっと良い人間なのだろう。短い時間とはいえ、久々に打ち解けられた相手だ。俺だって叶うことなら争いたくはない。

 だけど、あの契約が存在し、向こうに魔王を見逃すという意思が全くない以上、どんな説明も無駄。和解は成立しない。必然、俺に許された選択肢も一つしかなかった。

「断る」

 レーヴェを右腕で抱え、踵を返して走り出す。当然フルスピードだ。目撃者は増えてしまうが仕方ない。とにかく今はあの天使から離れることに全精力を傾注する。

「……残念です」

 疾走する俺の足元に、後方から水溜まりのような影が伸びてくる。途端に身の毛がよだち、反射的に高くジャンプして回避しようとした。

「【ヴォルフ】」

 レインがその名を紡ぐと同時、地面の闇から何かが噴き出した。上空にいる俺の眼前へと覆い被さってくる。黒い靄の正体は――目測四メートルはありそうな巨大な狼だった。

「叩き落としなさい」

 影の狼が振り下ろしてきた槌のような前脚を、咄嗟に左腕で受けて防ぐ。

 とてつもない威力。空中にあった俺の身体は、そのまま衝撃と重力に耐えきれず真っ逆さまに地面へと落下していく。死ぬ、頭部保護、受け身、色々な考えが目まぐるしく脳内を巡る中、何よりもまず先んじて取った行動はレーヴェの身を守ることだった。

「かっ、は――……っ!!」

 背中から地面に打ちつけられる。肺の中の空気が根こそぎ押し出される感覚。痛みでまともに声すら上げられない。眩む視界の焦点を合わせられないまま、胸の中に抱きかかえているレーヴェを見る。ぐったりとしてはいるが、外傷はない。ひとまず無事のようだ。

 辺りでは今の一場面を目にした入園客たちが、とうとう騒然とし始めた。

 悲鳴を上げながら逃げ惑う人、事態を冷静に把握しようと遠巻きにこちらを見つめている人、警察に通報した方がいいと叫ぶ人などが、渾然一体となって右往左往している。

(く、そ……なんだ、あの狼……)

 追撃してこないのは命令されていないためか。通常では考えられないほど大きなその黒狼は、地上に着地した後もすぐ近くで俺を威嚇し見下ろしてきている。

「逃がしませんよ。この聖戦は、ここで僕が終止符を打ちます」

 足元に伸びているレインの影が大きくなり、地面に広がった黒い湖面から次々と異形の存在が姿を現した。その数、十、二十、五十、百……まだ増えていく。あっという間に周りを包囲され、目に映る景色のすべてに漆黒の影兵が乱立した。

「時間をかけるつもりはありません。すぐに片をつけましょう」

 軋む肉体を叱咤し、弾かれたように飛び起きる。その勢いのまま大狼の顔面に回し蹴りを叩き込んだ。兵の中に吹っ飛んでいく巨体を横目に、俺の意識はすでに天使へと標的を変えていた。ここまで完全に取り囲まれてしまったらもう逃げの線は捨てるしかない。レインをまず戦闘不能にし、追手の芽を摘んでから逃走する方が賢明だと判断した。

「驚きました。魂を強化してあるヴォルフをまさか一撃とは……」

 台詞とは裏腹に、レインの態度には余裕が滲んでいる。それを裏打ちするように影の兵が彼の前に並び立つ。向かう先はさながら黒く分厚い城壁だ。中学の頃、多対一で喧嘩をした時も、せいぜい同時に相手をしたのは四人程度。ここまで多勢に無勢じゃなかった。全力で挑まなければ勝てない。レーヴェを下ろし、荷物を放ってから、勢いよく地を蹴った。

「――邪魔だ!!」

 一番手前にいた人型の影を殴り飛ばす。続けて二体目、三体目と殴打し、着実に前に進むべく敵を薙ぎ倒していく。どうやら一定以上のダメージを与えた影兵は消滅するらしく、形を保てず煙みたいに霧散していった。

(くそ、どんだけ出てくるんだ……っ)

 遠い。本丸までの道のりが果てしなく遠い。倒しても倒しても次から次へと影の兵が湧いてくる。それに人型相手はまだ慣れているから戦いやすいが、獣型のやりにくさといったらない。地を這うようにして攻めてくるから避けにくく、反対にこちらの攻撃は当たりづらい。このままではジリ貧になる。それに、この隙にレーヴェを狙われるかもしれない。

「ど、けぇぇぇっっ!」

 力任せの横蹴りを放ち、目の前の敵をその後ろに連なる兵ごと一気に吹き飛ばす。豪快な力技が功を奏したのか、それによりレインへと至る一本道が開かれた。かなり細く、両脇にはまだ幾十幾百にも及ぶ影の兵が立ち並んでいるが、この機を逃すわけにはいかないと全速力で駆け抜けた。一足飛びで肉薄し、あと数メートルで届く距離にまで迫る。

「行きなさい、【キマイラ】」

 レインの背後から、彼を飛び越えて一つの大きな影が降り立つ。

 眼前に立ちはだかったその面妖な姿に瞠目する。

 四足歩行でありながら、俺の倍はある身の丈。風になびくたてがみと、渦巻きのようにうねった二本の巻き角、鋭利な牙の隙間から覗く先割れの舌。獰猛に吼えるその生物は、獅子と牝山羊の双頭を持ち、尾は大蛇の姿をしている化け物だった。

「僕の神器はこんなこともできるんですよ。ギリシア神話に出てくる怪物をモチーフに、複数の動物の魂をかけ合わせて創った影の合成獣です」

「命を冒涜してんだろ、こんなの……っ」

「魂の残滓にはもはや自我は残っていません。それに倫理観について説教するのでしたら、先にそちらの小さな魔王様にしてあげてください」

 主人を守るべく怪物が突進してくる。敵を噛み砕こうと口を開ける獅子を上に跳んで躱しつつ、落下の勢いを活かして踵落としを繰り出した。だが、獅子の脳天目掛けて振り下ろした蹴りは、横から割り込んできた牝山羊の角で受け止められてしまう。

(まずい、バランスが……っ!)

 予想外の防御で体勢を崩されたところに、尾の蛇が矢のように突っ込んできた。ガードが間に合わず、鋭い体当たりをもろに鳩尾へと食らい地面に転がされる。咳き込みながらも急いで立ち上がり、再び臨戦態勢を取る。

(こんなモンスター、まともに相手してられるか……!)

 律儀に倒す必要はない。目標はあくまでもこの影兵たちを出現させている天使の方だ。

 脅威ではあるが相手は所詮獣。戦いの駆け引きには疎いはず。

 俺は攻撃にフェイントを入れ、一瞬ひるんだ怪物の脇をすり抜けて走った。

「【ゴリアテ】」

 しかしあと一歩というところで、突如地面から這い出てきた手に足首を掴まれ倒される。

迂闊だった。影兵の召喚は、レインが広げた影の範囲内ならどこでも行えるのか。つまり俺は今まで敵のテリトリーの中で戦っていたことになる。真に注意すべきは周囲ではなく下だったのだ。足元から現れたのは、岩と見間違えそうな体躯をした真っ黒な巨兵。

「ゴリラの握力は推定五百キロ。動物界一と言われています。あなたといえども簡単には振りほどけないでしょう。さて……【ガネーシャ】」

 ふっと頭上に影が差す。危険を察知したが、足首を掴まれていたせいで回避が遅れてしまう。直後、未だかつて体験したことがないほどの圧力が背中にのしかかってきた。あまりの圧迫感に意識が飛びかける。何かの足に踏まれているのか身体の自由が利かない。

「アフリカゾウのガネーシャ。体長五メートル、体重はおよそ七トンあります。これで絶命していないのは驚異的ですが、ひとまず無力化はできましたね」

 レインが悠然と歩を進める。当然、その先にいるのはレーヴェだ。彼女も人型兵に取り押さえられ、身動きが取れないようだった。

「ま、待て……っ、待ってくれ!」

 全身にかかる重圧のせいで呼吸もままならない中、切願交じりに叫んだ。

「あんたにはその子が邪悪な存在に見えるのか⁉ こんな、こんな子が魔王なんて……。この聖戦は何かおかしいっ! あんただって違和感を覚えてるんじゃないのか⁉」

 必死に訴えた。象の足から抜け出るための時間稼ぎという面もあったが、発した言葉に嘘はない。ずっと誰かに投げかけたかった疑問だった。

 俺とレーヴェのちょうど中間地点で、レインの足がピタリと止まる。

「……以前、とある養豚場でCSFの発生が確認され、何万頭もの豚が殺処分されるというニュースを見ました。検査も隔離も行われず、即殺処分です。人の間で感染症が広まった際はワクチンや特効薬の開発を死に物狂いでするのに対し、動物たちの命はなぜこんなにも軽く扱われるのだろうと、その時僕は深く疑問に思いました。……人はとても、とても傲慢な生き物です。だからなのか、僕は昔からあまり人間が好きではありませんでした」

 突然何を話し出したのか解せず訝しんだが、こちらに向けられた彼の眼差しは真剣そのもので、俺は黙って耳を傾ける他なかった。

「僕は、魔王を用意したのは神自身だと考えています。この聖戦が、神が人類に与えた試練なのではないかと思っているからです。人が今後も生きるに値する生物かどうかを測る試練なのだと。……だからあなたが言うように、もしかしたら本当に、あの子は悪しき存在ではないのかもしれません」

 レインの自説を聞き、うまくいけば説得できるかもしれないという希望がちらつく。だが、続く彼の言葉は、そんな淡い希望を粉々に打ち砕いた。

「でも、そのすべてがどうでもいい。僕の人間に対する感情も、魔王の正体も、取るに足らない些事に過ぎません。僕はただ、指示に従って魔王を始末するだけです」

 青年の顔には愁いが見えた。かすかな迷いも。しかし、それでもその意志は固いのか、彼は再びレーヴェの方に向かい歩き出そうとした。

「何がお前をそこまで動かしてるんだ……?」

 思わず口から零れたのは、足止めなどの意図もない、ただただ純粋な問い掛けだった。

 数秒の静寂。落ちていく斜陽が、園内をノスタルジックな朱色へと染めていく。

「……僕の病気ですが、別に治ったわけではないんです。天使になって起き上がれる体力を得ただけで……おそらく僕は、もうそう長くは生きられないでしょう」

 くるりと振り返ったレインはそう言って、眉を下げながら微笑んだ。

「僕は天使たちの中で唯一、神ではなく他の天使によって選出された人間なんです。彼女は家族からも見放され、ただ死を待つだけだった僕にもう一度生きる意味を与えてくださった。あの方の……エレオノーラさんの力になりたい。僕にあるのはそれだけです」

 そこで一度言葉を切り、スマホを操作するレイン。まさか増援を呼んでいるのか。もしもこの場に他の天使が現れたら、いよいよレーヴェを守りきれない。

「あなたと魔王が一体どういう関係なのか……気にはなりますが、それは魔王を討った後でゆっくりとお聞かせいただくとしましょう」

「っ、待て!」

 制止を無視し、青年はレーヴェの数歩手前まで歩み寄る。

「【スノウ】」

 先ほど蘇ったユキヒョウが、兵に組み敷かれているレーヴェに跨るようにして立つ。その顎が開かれ、氷柱の如く尖った牙が少女のうなじ辺りに向かっていく。「やめろ!」と叫ぶ俺を憐れんだ瞳で見つめながら、レインが惜別を含んだ声で言ってきた。

「もしも出会い方が、立場が違ったなら、僕らは友人になれていたかもしれませんね……」

 細い首筋に迫る黒い牙。血流と拍動が激化する。

 自分の中の何かが『彼女を助けろ』とうるさいくらいに絶叫していた。腕に全身全霊の力を込める。背中にのしかかっている巨象の足を押し返そうと必死にもがいた。

「が、ぁぁあああああっ!!」

 根限りの力を振り絞る。しかし、少しだけ浮いたものの、七トンにも及ぶ圧力を完全に払いのけることはできなかった。俺の目に、今にも噛み殺されそうなレーヴェの姿が映る。

 やめてくれ――。心臓が潰されそうなほどの悲愴が押し寄せた、次の瞬間。

「っ、なんだ……⁉」

 青年の驚く声につられ、伏せかけた視線を持ち上げる。

 レーヴェから発せられた白光が、纏わりついていた影の兵を余すことなく吹き飛ばした。

 小さな身体がふわりと宙に浮く。空を思わせる水色の双眸が、血を零したような真紅へとその色を変化させていく。レインや野次馬たちが戸惑いを見せる中、俺だけが今何が起こっているのかを理解していた。魂魄剥離が始まったのだ。それを証明するように、すぐさま周囲から数多の白光――魂が、台風の目に集うようにレーヴェの内へと吸い込まれていった。

(…………っ!)

 同時に、俺の中にも急速に力が溢れ出してくる。魔王の力――奪った命をそのまま自身の糧とする能力。何者にも負けないという全能感が体内を駆け巡り、迸った。

「お お お、おおアアアァァぁぁああああっっ!!」

 腹の底からの咆哮。腕を伸ばしきったところで反転して、象の足に痛烈な肘打ちをめり込ませる。傾いた巨体にすかさず蹴りを叩き込み、近くにいた獅子の怪物にぶち当てた。続けざまに他の兵たちも一掃する。軽く当て身をかましただけで、皆例外なく消し飛んだ。

 身体が軽い。外界の一切が遅く見える。視界はクリアだが、頭の中は一挙に押し寄せた魂の情報処理が追いつかないのか、どこか靄がかかっているみたいだった。

 進む妨げとなる影の兵を根こそぎ粉砕し、瞬く間に天使へと迫る。レインに反応する間を与えず距離を詰め、その首に手をかけ空中に持ち上げた。息苦しそうな声が青年の口から漏れる。左の手の平から、人間が呼吸する際の気道の動きが伝わってきた。

「…………」

 敵は制圧した。だが、ここからどうする。優位には立っているが、彼の能力は侮れない。もたもたしていたらまた死角から影兵を召喚されてしまう。それに他の天使たちが加勢に来る恐れもある。けりを付けるなら早いに越したことはない。今の自分なら、あとほんの少し指先に力を加えるだけで彼の命を絶てるだろう。――……だけど。

(いや、それは駄目だ……!)

 いくら何でも人を殺すなんてしていいわけがない。人殺しが世間からどんな扱いを受けるのか、その身内がどれだけ虐げられるのか、俺は身に染みて知っている。たとえ異常な状況に巻き込まれていたとしても、人として越えてはならない一線というものがある。

「どうしたんですか? とどめを刺さないんですか……?」

 酸欠で力が入らないのか、はたまたそれが無駄だと悟っているからなのか、青年に抵抗する気配はない。ただ、諦観と慈悲が混じったような視線で俺を捉えている。

「一応宣言しておきますが、ここで僕を見逃しても戦いが終わることはありません。命ある限り、僕は何度でも魔王の命を狙いに来ますよ……」

 彼の言葉が突き刺さる。そうだ、生き残るためには甘さは捨てなくてはいけない。

 天使は他に九人もいる。敵対戦力は削れる時に削らなくては。

(だけど、人を殺すのはっ……俺は父さんとは違う!)

 レーヴェを守るのが最優先。第一義的に実行すべきことだ。ここでこの天使を逃がしてはいけない。彼には顔を見られてしまった。それにレインが自ら言ったように、この場で彼を仕留めておかなければ、今後もまたレーヴェの命が脅かされる。それは避けなくては。

(でも、だからといって人を殺すのは……!!)

 様々な考えが浮かんでは消え、肯定しては否定してという押し問答を繰り返す。幾多の感情が綯い交ぜになり、自分でも訳が分からなくなっていた。

 ――レーヴェを……俺がレーヴェを守らないと。

 そんな混沌とした思考の中、常に存在し続けていたその一念が強く表層に出てきた瞬間、俺の掌中からゴキッという鈍い音が聞こえてきた。

「……え?」

 レインの頭が不自然に左方へと傾いていた。口元からは一筋の赤い雫が垂れている。

 俺の手の平から、脱力した青年の身体が滑り落ちていく。膝から崩れ落ちるように倒れた彼は、うつ伏せになったその体勢のままぴくりとも動くことはなかった。

 死んでいた。

 辺りにまだ残っていた影兵たちが霧の如く消えていく。逢魔時の動物園、あまりの惨状に危機感を覚えたのか、遠巻きに眺めていた野次馬ももう散り散りに逃げたようだった。

 しかし、人目はなくても防犯カメラはある。ここで起こった一部始終は遠からず世の中に知れ渡ることになるはずだ。魔王に付き従う者の存在も、じきに公になるだろう。

 左手にはまだ首を握り潰した際の感触が、鼓膜には骨を砕いた時の不快な音が明瞭にこびり付いている。地面には力なく事切れている青年の遺体。魂魄剥離を終え、レーヴェが天女のようにふわりと舞い降り戻ってくる。俺の心には、空と同じ夜の帳が下りていた。


***


 黎明を迎え、ホテルの一室に弱々しい朝陽が射し込んでくる。薄暗い部屋の中、ベッドに腰かける俺の頭の内側では、昨晩から同じ考えが何度も何度も堂々巡りしていた。

 一睡もしていないのにちっとも眠くない。ただ途方もない疲労感だけがある。現実味が乏しいようで、しっかりと自覚はしている。自分が何をしたのか。何をしてしまったのか。

「……人を、殺した」

 明確に言葉にすると、ずしりと心にのしかかってくる。罪悪感が体内で蛆虫みたいに蠢いていて酷く気分が悪い。油断したら吐いてしまいそうだった。

 殺そうと思ったわけじゃない。殺したかったわけでも。それが言い訳にもならないことは重々承知しているが、叶うのなら殺す前の時間に戻りたい。でも、戻ったところでおそらく同じ道を辿るのだということが何となく分かる。これから先、似たような決断を迫られた際も、俺はレーヴェを守るためにきっと敵の命を奪う選択をする。

「……こんな、契約があるせいで……」

 隣に視線を移せば、レーヴェが静かに眠りに就いている。動物園での一件の後、彼女とは一言も言葉を交わしていない。お互い無言のまま歩き、宿に着いた後はそれぞれに入浴を済ませて布団に入った。それまでの間、彼女がどんな顔をしていたのかは分からない。自分のことに一杯一杯で気にかける余裕などなかったから。今もレーヴェは背を向けて横になっているためその表情は窺い知れない。たぶん穏やかな寝顔をしているのだろう。

(なんで……俺だけがこんなに苦しんでるんだ……)

 沸々とした、どす黒い感情が芽生える。自分にこんな醜い思いが生じるなんて認めたくないのに、もはや目を背けることができない。

(この先も俺は人を殺し続けなきゃならないのか……。……だけど――)

 今ここで一人を殺せば、止めようのない凶行はこの場限りで終わりにできる。短絡的で愚かな考えだが、純然たる事実でもある。そもそもの元凶を今断てたのなら、今後訪れる煩わしい苦悩からは解放される。気付けば右手は隣で寝ている少女の首筋へと伸びていた。

 だがしかし、触れる直前で指先がピタリと止まる。これが自分の意思なのか契約による制止なのかは分からないが、手が石の如く動かなくなった。途端に我に返る。

「馬鹿か、俺は……っ」

 人を殺したことで苦しんでいるのに、また人を殺そうとするなど言語道断だ。それで何かが解決できたとしても、また別の苦しみが生まれることは想像に難くない。

 相手が善人だろうと悪人だろうと自己判断で殺していい道理はない。命を奪う行為はどう転んでも正義にはなり得ないのだから。そこを正当化してしまったら、俺の中の道徳心が崩壊してしまう。

(誰か……誰か助けてくれ……)

 思わず両手で顔を覆って項垂れる。叫びたい衝動に駆られるが、もうそんな元気もない。

 スマホは昨日から見ていない。それを手にしたら最後、縋ってしまいそうだったから。

「母さん、朔夜、辰貴……」

 俺が人を殺したと知ったら、三人はどう思うだろうか。悲しむだろうか。軽蔑するだろうか。いや、きっとそんなことはしない。親身に話を聞いてくれるはずだ。仕方がなかったと優しく寄り添い励ましてくれるはずだ。俺は今、その言葉を欲している。慰めてもらえるのを期待してしまっている。何とも打算的で浅ましい。自分の行いの責任は自分で負うのが当然。他人の同情を買い、己を慰撫する道具にしようなんて最低の考えだ。

 だけど、ふと思う。果たしてすべて俺が悪いのだろうかと。無論、青年を殺した責は俺にある。そこから逃げるつもりはない。でも、一体どうすれば良かったというのか。他の誰かが俺と同じ立場にいたらどうしていただろうか。……どうにもならなかったはずだ。魔王の従者である時点で、他に選択肢などなかったのだから。

 今一度レーヴェを見る。あの夜、彼女を公園で助けたのは間違っていたのだろうか。少なくともあの時関わっていなければ、自分は今こんな目には遭っていない。あるいは彼女が俺と契約を交わしさえしていなければ、俺が人を殺してしまうこともなかったはずだ。

「……どうして俺なんだ……」

 ぽろりと零れた言葉。それに応える声が唐突に響く。

「それはね、君がこの世界で唯一、その子に救いの手を差し伸べた人間だからだよ」

 伏せていた顔をおもむろに上げる。幻聴かと思ったが、声の主は確かにそこにいた。

 神が、そこにいた。

 相変わらず神出鬼没で前触れなく現れる。ただ、驚きはしたが動じることはなかった。威圧感も以前ほど感じない。それだけ俺が人間離れしてしまったということかもしれない。

「……何か用ですか?」

「あはは、だいぶ参ってるみたいだね。用はもちろんあるよ。大事な用がね。もしかしたら君が今抱えている葛藤を少しは解消できるかもしれないよ?」

 背中に生えた六枚の翼を一度大きくはためかせ、鮫のような尾を床につけて寄りかかる。

「ほら、レーヴェちゃんも寝たふりしてないで起きた起きた」

「えっ……?」

 神の登場よりも、むしろ今の方が虚を衝かれた気分だった。目を向ける視線の先、神の呼び掛けに応じて少女がゆっくりと身体を起こす。その目元にできた隈から察するに、どうやら彼女も昨夜から一睡もしていなかったように見える。そこで疑問が降って湧いた。

(なんで……お前がそんなつらそうな顔をしてるんだ……)

 困惑する俺をよそに、神はさっさと本題を切り出してきた。

「さてと、それじゃあ単刀直入に言うけど、僕が今日ここに来たのはね、君に真実を伝えるためなんだ。この聖戦の真実をね」

 そう口火を切ってから、神はこう続けた。――自分はいくつかの噓をついた、と。

 そして、さらにこう続けた。――魔王が人類を滅ぼすというのが最初の嘘だ、と。

 それを聞いて頭の中が真っ白になった。『人類を滅ぼす魔王が現れた』というのが、今日この世界で起こっている災いの大前提だ。そこが嘘となると、根底から引っ繰り返ってしまう。俺は狼狽しながらも必死に思考を巡らせて、神の真意を汲み取ろうと努めた。

「な、にを……何を言ってるんだあなたは……。なぜそんな嘘を……⁉」

「うんうん、混乱するよね。安心して、きちんと順を追って説明するから」

 神がレーヴェを手招きする。彼女はそれに従い、神のすぐ傍まで歩み寄っていった。

「先の日に全人類を誘った精神世界でも伝えたように、近々人類は滅ぶ。でも、それはこの子が原因で滅ぶんじゃない。人類の自業自得で滅ぶんだ」

 凪のような声。淡々とした口調。にこりと微笑む神の表情がどこか歪んで見えた。

「自業自得……? それは、一体どういう……」

「うん、言葉通りだね。逆に聞くけど、高坂憂人君。君は人間が自業自得で滅ぶとしたら、どういった原因を思いつくかな?」

 切り返して尋ねられ、静まらない動揺を無理やりにでも抑えつつ、何とか頭を働かせる。

 食料問題――世界ではおよそ十人に一人が飢餓に瀕している。

 核兵器問題――現存する核爆弾だけでも人類の約半数を殺せる威力を有しているらしい。

 エネルギー問題――地球の資源はいずれ枯渇するという話はよく聞く。

 地球温暖化問題――温室効果ガスによる気候変動やオゾン層破壊といったリスクは、今や小学生でも知っているくらいだ。

「――ね? ちょっと考えただけでも色々な可能性が浮かんでくるでしょ? それだけ人類は自分で自分の首を絞め続けているわけなんだよ」

 こちらの思考を見透かしているのか、恐怖を感じるタイミングで神はそう告げてきた。

 ほのかに触れた人外の片鱗に、鳴りを潜めていた畏怖の念が再燃する。

「このまま行けばあと百年以内に人類は絶滅するだろう。今がちょうどターニングポイントなのさ。だから僕は《魔王》という存在を創ったんだ。人類を間引くために」

「間引く……?」

「そ。人類は増えすぎた。救済するためにはその分減らせばいい。簡単な話だね」

 明け透けに神は語る。薄情にも聞こえる物言いだったが、これは冷酷というより合理的と表現した方が適切だと思えた。

 人間味がない。俺たちとはやはり何かが根本的に違うと感じた。

「人を減らす以外に方法はないんですか……?」

「うーん、ないことはないけどものすごーく難しいと思うよ。娯楽や無駄を一切省き、自然を害さない文明へと早急に転換すれば存続の道も開けるだろうけど、今の君たちにそれができるとは思えない。エコの精神とかSDGsとか色々頑張ろうとはしてるみたいだけどさ、それに一体どれだけの人間が取り組んでるのって話だよね。偉い人が忠告しようが神が天啓を下そうが、結局のところ君たちって戦争や災害みたいな痛みを伴う体験を実際にしないと理解できない種じゃない? ああ、それが悪いとは言ってないよ。そこも含めて僕は人類を愛おしく想ってる。だからこそ君たちを気遣って、今回魔王を生み出したわけだからね」

 その台詞に眉をひそめる。話が見えない。神はそんな俺の表情から心情を察しているらしく、慈しみを滲ませた瞳で今の話の補足をしてきた。

「君たちだって、身から出た錆で滅ぶなんて言われるより、被害者でいられた方がまだ面目を保てるだろう? プライドの高い人類への、神様なりの配慮だよ」

 挑発とも取れる言動。臆する心に小さな反発の火が灯る。気力を振り絞って歯の根を合わせ、睨めるような視線を神に対して向けた。

「何なんだあなたは……っ。魔王だの天使だの、そんな回りくどい真似しなくても、あなたなら人類を救えるはずだ。俺にはあなたが俺たちで遊んでいるようにしか見えない。助けられる力があるのに、なぜこんな訳の分からない戦いを強いるんですか……⁉」

 すると、神はほんのわずかに目を見開いた後、何とも愉快そうに口の端を上げた。

「少し思い違いをしているね。そもそも僕には人間を助ける義理がない。僕は基本、生命の営みを見守るだけの存在だからね。このまま放置すれば確実に滅ぶ人類に、生き残る選択肢を与えているだけでも異例であり破格なのさ。ただ、思い入れはあっても無条件で救うような特別扱いはしない。考えてもみてよ。仮に食料問題で人類が滅ぶとして、僕が直接手を加えるということは、牛や魚や米や林檎を君たちに食べられるためだけに生み出すということになるんだよ。それはさぁ、いくら何でも驕りが過ぎるんじゃないかい?」

 淀みなく流暢に回る舌は、心の底から討論を楽しんでいるように見えた。

 そしてそれは、正論すぎるほどに正論だった。舌鋒鋭い正しき指摘。確かに人類の問題は本来人類が解決して然るべき。神に頼るなど究極の他力本願だ。

 完膚なきまでに説き伏せられ、何も言い返せない。悔しさはあったが、それ以上に人間としての不甲斐なさが勝っていた。神は沈黙する俺を諦視してくすりと笑みを漏らすと、両の手の平を上に向けて肩をすくめてみせた。

「とはいえ君の主張もあながち間違いじゃない。魔王だの何だのは完全に僕の趣味だからね。いやぁ、それにしても僕にここまで堂々と意見してくるなんて、君が気概のある若者で良かったよ。これなら今後もちゃんと魔王のお供が務まりそうだ。ね、レーヴェちゃん」

 うんうんと一人満足そうに頷き、傍らにいる少女の頭をぽんぽんと撫でている。

「よしっと、それじゃあ次に具体的な数字を教えておくね。目標は明確な方がいいからね。間引く人類の総数だけど、今が大体七十億人ほど生き残ってるから、そうだなー……この十分の一くらいまで減らしてくれれば大丈夫かな」

 絶句する。耳を疑う数字だった。約七十億人の十分の一ということは、ざっくり七億人。

 そこまで人数を減らすということは、つまり――。

「あと……六十三億人殺せっていうのか……?」

 無理だとか、途方もないとか、そんな感想すら出てこないほど絶望的な数だった。桁違いすぎてうまく想像すらできない。やれるとは思えないし、やっていいわけもない。だが、もしも実行できなければ、人類は今後数十年のうちに緩やかに滅んでいくことになる。

「ああ、それとね、この子が自然発生した存在っていうのも嘘だから」

 あっけらかんと言い放つ神に、「は……?」と、自分の口から間の抜けた声が漏れる。

 確かに、不自然に思わなかったわけじゃない。むしろ何度も疑問に思った。

 どうしてこんな子が魔王なのだろうと、全然似つかわしくないと、繰り返し感じてきた。

 だけど、いつもそこで考えを止めていた。その答えに行き着くのを無意識のうちに避けていた。だってそんなのあんまりではないか。そんな理不尽な現実、いくら何でも酷すぎる。戦慄きながら立ち尽くす俺に、神は少女の肩に手を置き優しく告げてきた。

「人間だよ、この子は。魔王になる前は、君たちと同じ普通の人間だった」

 衝動的に身体が動いた。考えるよりも先に、無謀にも俺は神に殴りかかっていた。

 しかし、捉えたはずの拳は虚しく空を切り、体勢を崩した俺はそのまま勢い余って床に膝をついた。躱されたわけではない。神はその場から動かなかった。俺の手は字義通り神の身体をすり抜けたのである。あれは俺たちとは異なる次元にいる。向こうからは干渉できても、こちらからは触れることすら敵わない。一瞬にして格の違いを思い知らされた。

 片膝立ちで振り返り、何もできないまま、ただ拳を握りしめながら質問を投げつけた。

「なんでっ……何でこんな小さな子を魔王になんてしたんだ……⁉」

 神の肩がぴくりと動く。こちらを振り向いた神の顔は、先ほどまでの飄々とした緩い表情ではなく、哀愁を孕んだ清廉で真面目極まるものだった。

「愛を知らない子だったから」

 その答えと雰囲気の変化に戸惑い言葉を失ってしまう。神は穏やかな語調で続けた。

「この子はこの世に生を受けてから、まだただの一度も他者からの愛を受けたことがない。娼婦の親に売られ、劣悪な監禁生活を強制され、その商館が火事で焼失した後は浮浪児として街をさまようだけの日々……。誰からも認知されず、必要とされてこなかった」

 重々しい話に肝が潰れる。生い立ちがあまりにも凄絶すぎて、今一腹の底まで落ちてこない。いや、信じたくないというのが本音かもしれない。

 ふと少女と視線が合う。目を伏せるでも逸らすでもなくまっすぐに見つめてくるその瞳には、悲しみも憤りも見られない。いつも通りの彼女がそこにいた。そのいつも通りが、神の語ったことが真実であるという事実を俺に突きつけてきた。レーヴェは化け物などではなく、ただの薄幸な少女なのだという事実を。

「僕も初めは興味本位だった。けれど、この子に会いに行き、言葉を交わしてすぐに決めたよ。この子を聖戦の主人公にしようとね。そして、僕たちは一つの契約を結んだんだ」

「契約……?」

「魔王の役割を引き受けてくれるなら、その代わりに君の願いを何でも一つ叶えてあげるという契約さ。この子はそれを承諾し、僕に願った」

「……何を願ったんだ?」

 神はそこでレーヴェに目を配った。初めて見せる、慈愛に満ちた表情だった。

「『愛されたい』」

 その願いは、とても純粋で、痛切な、祈るように泣く少女の叫び声に聞こえた。

 それだけに納得がいかなかった。現状を再認すればするほど鼻持ちならなくなってくる。

「ふざけるな……っ! この状況のどこが『愛される』だ! 人々の命を望まぬまま奪い続け、全世界を敵に回して、真逆の感情を向けられてるじゃないか!」

「だけど、それらすべてが延いては人類のためになることだ」

 ぴしゃりと言い切られ、二の句が継げなくなった。

「機を見て僕はこの真実を公言する。愛を知らない孤独な女の子が、自分を犠牲にしてまで人類の未来のために戦ったんだ。募っていた恨み辛みの分だけ、謝意と敬意が彼女に集まるだろう。逆にこれで胸打たれないようなら、そいつは人として終わってるね」

「いや、でも、ちょっと待て……それだとあんたが……」

「ああ、嘘をついていた僕を憎む者も出てくるかもね。でも、僕は別に崇拝されたいなんて思ってないから大丈夫。それにちゃんと初めに言っておいたしね。僕の話は鵜呑みにしなくていい、一人一人が自分の頭で考えて行動してほしいって」

 情報が一気に入ってきたせいで、頭がぐわんぐわんと揺れている。今神が語ったことはすべて真実なのだろうか。またどこかに嘘が紛れ込んでいるのではないか。

「……どうして、今になってそのことを俺に……」

「いやいや、本当は初日の夜に伝えるつもりだったんだよ? でも、君が話も聞かずに家を飛び出していっちゃうもんだからさ。まぁ、その後いくらでも伝える機会はあったのに、このまま静観してた方が面白いかもって放置したのは否めないけどね」

 ぺろっと舌を出してウインクを飛ばされた。

「そうだ、魔王の従者特典ってことで、この聖戦が魔王側の勝利で終わった暁には君の願いも一つ叶えてあげるよ。その方がモチベーションも上がるでしょ? あ、でも先に言っておくけどNGなのもあるから。『死者の蘇生』と『過去への干渉』。この二つだけは無理。これらはできないというより、やったら世界の因果律が壊れちゃうんだ。だから無理」

 聞いてもいないことをぺちゃくちゃと喋り立てる神に、いよいよ沸点を超えそうになる。そんなのいいから今は頭を整理する時間が欲しい。だからいい加減黙ってくれ。

「そうか……じゃあ、あんたのツラに一発かますとかはしていいわけだな」

 睨みつけながらそう答えると、神は一瞬ぽかんとした後で盛大に吹き出した。

「あははは! やっぱり面白いなぁ人間って。いや、この場合は君が面白いのかな? まさかそんな願い事をされるなんて思ってもみなかったよ!」

 神はひとしきり笑いこけてから、指の背で目元に滲んだ涙を拭った。

「うん、いいよ。それじゃあ楽しみにしてるね。君が僕に一発かます日が来るのを。じゃ、用も済んだことだしそろそろお暇しようかな。今後も頑張ってね。健闘を祈ってるよー」

 生命の創造主は最後まで掴み所のない態度で俺を翻弄し、現れた時と同じように、次の瞬間にはもうその姿を消していた。残された俺とレーヴェに会話はなく、しばらくの間、ただ重苦しい時間だけが緩やかな濁流のように流れていた。

「……さっきの話、本当なのか?」

 神の言葉の真偽なんて判断できない。だから、俺はその答えを彼女に求めた。

 レーヴェは暫しじっと口をつぐんだまま動かずにいたが、やがて服の裾をぎゅっと握りしめながらこくりと小さく頷いた。

「そうか……」

 ベッドまで戻り腰を沈めた俺は、手の甲を額に当て、そのまま仰向けに倒れ込んだ。

(何が『今抱えている葛藤を少しは解消できるかも』だ……)

 この大量殺人には大義名分があると分かった。

 しかし、だからといって、じゃあ人を殺していい、ということにはならない。魂魄剥離を正当化できたとして、今まで奪った数億、これから奪う数十億の命を、『仕方ない』の一言で片付けるなど俺には到底できなかった。

 レーヴェが死ねば昨今の脅威は消えるが、人類存続の道は絶たれる。

 その逆なら、人類滅亡は避けられるが、残り六十三億の命が犠牲になる。

「どっちが正しいかなんて、俺には分かんねぇよ……」

 手で隠したその向こう、熱い感情が一滴目尻から流れ落ちる。どうして俺なんだ、と再び零れたその寂寞たる嘆きは、誰にも届かず朝靄のように消えていった。


***


「レインさんが魔王と交戦し、死亡しました」

 東京多摩奥地にあるグリーンフィールド家所有の屋敷。突然の招集を受け席に着いた辰貴たちに、エレオノーラは開口一番そう告げた。

「場所は秋田県、王森山動物園。昨日の夕方頃の話です」

 知り合ってからまだ日は浅い。それでも、レインとエレオノーラが他の天使たちとはどこか違う親しい間柄であったことは、新参者である辰貴も感じ取っていた。彼女の様子は一見普段通りだが、粛々と話すその胸中に今どんな感情が渦巻いているのか、大切な人を喪った者の心情は察するに余りある。そして、辰貴自身も大きく心を乱していた。

(レインが死んだ? 憂人が殺したのか……⁉)

 魔王の力の大半は今、彼が持っていると聞いた。だから、レインと戦ったのは憂人である可能性が高い。昨日から連絡が一切つかないことも胸騒ぎを増長させている。

 しかし、ありえない。人を殺すというのがどういうことか、どういうことになるかを知っている彼に限って、そんな馬鹿な真似をするなんてとてもじゃないが信じられなかった。

「あーらら。やっぱり強いのねぇ、魔王って」

 重苦しいムードにはそぐわない、軽い口調の声が辰貴の意識を叩いた。

「てゆーかさー、あのイケメン君は一人で戦ったわけー? なんでー? 魔王の居場所を特定したら全員で袋叩きにしようって話じゃなかったっけ?」

 頬杖をつきながら棒付き飴を頬張る少女、鈴麗に全員の視線が集まる。

「やっぱアレかなー。あの子も魔王討伐の功労者特典に目が眩んじゃった感じー? まー、そりゃ誰だって欲しいよね。願いが叶う権利なんて♪」

 口内で飴玉をコロコロと転がしながら、自分も例外ではないというように含み笑いする。中華服に合わせた古風な鈴の髪飾りが、チリンと小気味好い音を鳴らした。

「なんかさ……その願いが叶う権利ってちょい意地悪じゃね? 魔王を倒した一人だけが得られるとかさ、まるで俺らを争わせようとしてるみたいじゃん……」

 灰色髪の若者、那由他が愚痴るように呟いた。ともすれば、彼の言は的を射ているかもしれない。そこには辰貴も違和感を覚えていた。願望成就という甘い誘惑。その一つしかない枠は、天使たちにとって諍いの火種でしかない。自分たちが私利私欲に取り憑かれることなく共闘できるかどうかを神は試しているのだろうか。いっそのこと願い事を統一できれば無用な心配も消えるのだが。ただ、仮にそれを提案したとして、腹に一物抱えていそうなこの面々が、素直に首を縦に振ってくれるとも思えなかった。

 その時、けたたましい音を立てて扉が廊下側から蹴り開けられた。片脚を上げてそこに立っていたのは赤毛の男。先日魔王と戦い負傷した第四使徒のオルファだった。

「扉は静かに開けろ」

 年長者である見嶋がかけた注意の言葉を無視し、オルファは黙然と歩を進める。議長席に座るエレオノーラの反対側、長テーブルの端で立ち止まった彼は、こちらを睥睨するような視線を向けてきた。その周囲の空気が、放たれる熱気によって蜃気楼の如くゆらめく。

「魔王は俺が殺す。お前らは手ぇ出すな」

 暴挙に暴言。突然現れて何を無茶苦茶言い出すのかと一瞬呆気に取られた。

 だが、彼が纏う殺気に信念にも似た不退転の覚悟が混じっていることに気付く。本気だ。あらゆる反論を封殺せんとする鬼気迫る意志が込められている。

「はあ? いやいや、包帯ぐるぐる巻きで何をイキってんのか知らないけど、あんたすでに一回負けてんじゃん。その時点でもうあんたのターンは終了よ。はい、お疲れさまー」

 されども、鈴麗はお構いなしにズバズバと言ってのける。

「てかさー、あんた内臓潰されたんじゃなかったの? それでもう起き上がれるとかゴキブリ並みの生命力ね。さっすがチンピラ。でも次は本当に殺されちゃうだろうから、さっさと帰った方がいいわよ。ま、布団にでも入ってゆっくりと寝てた方が身のため――」

「うるせぇよ。黙っとけババア」

「……は?」

「必死に励んでるその若作りが見るに堪えねぇんだよ。小娘のふりしてるが、実年齢は俺より上なんじゃねぇのか? お前こそとっとと隠居しろや老害女」

 ピシッと、空気に亀裂が走ったような感覚に襲われる。しかし、実際にひび割れたのは目の前にある長大なテーブルだった。鈴麗が手をついていた箇所を起点にして、天板が薄氷のように砕けている。

「くたばり損ないのクソ餓鬼が……。そんなに死にたいなら殺してやるよ」

 烈火の如く燃え盛る殺気と、氷の如く研ぎ澄まされた殺気がぶつかり合う。一触即発の気配に肌が粟立ち、止めなければ、と思わず腰を浮かしかけた。

 だがその刹那、『コン』という静かだがよく響く、石同士を打ち鳴らしたような硬質な音が耳朶に触れた。小さな一音は、息が止まるほど張り詰めていた空気の中を伝播した。

「静粛に」

 そのたった一言で、室内が水を打ったように静まり返る。

 エレオノーラの左手には、五尺ほどの錫杖と思しき物が握られていた。

 おそらくはあれが彼女の神器。その上部は天秤になっており、中央には小さな砂時計が組み込まれている。先ほど聞こえたのは、杖の先端を床に打ちつけた音だったようだ。

「先日も申し上げたはずです。皆さん色々と思うところはあるでしょうが、勝利を掴むためには、我々は一枚岩にならなくてはいけないと。でなければ人類が滅びます」

 エレオノーラの語勢は変わらず平坦だったが、その一言一句が際立って聞こえた。同じ人間とは思えない存在感は、それこそ神を彷彿とさせる。

「わたくし達の敵は魔王だけではありません。レインさんが命と引き換えに遺した情報によれば、どうやら魔王には付き従う人間がいるようなのです。オルファさん、あるいはあなたに手傷を負わせたのもその人物なのではないですか?」

「……そうだ。二十歳手前くらいのガキだった。魔王と同様、間違いなく奴も何か特別な力を持ってる。俺をただの一打で百メートル近くも殴り飛ばしやがった」

 辰貴に緊張が走る。件の人物の正体を、自分だけは知っているから。

「うぇえ、そんなのまでいんのかよ。しんど……」

「動物園での一件、もうテレビやネットニュースにも流れてますね。情報統制を敷いたおかげでレインさんの死は公表されてないみたいですけど。でも、その場に目撃者がいたのなら、天使の敗北が世間に広まるのも時間の問題かもしれません」

 雪咲の発言を受け、辰貴も急ぎスマホを取り出して記事や動画を確認してみる。

 防犯カメラの映像はかなり画質が悪かった。顔を正面から捉えたものはなく、加えてフードも被っているため、魔王に与する人物が誰なのかすぐに特定されることはないように思えた。ひとまずは愁眉を開く。

「それで? 捜索役が死んだ今、今後どう動くのか具体的な方針はあるのか?」

 見嶋の問い掛けに、エレオノーラは睫毛を伏せながら音もなく吐息を零した。

「魔王の足取りは完全に途絶えました。現実的に考えて、今の時点での追跡は不可能と言わざるを得ないでしょう。……ですが、今回新たに知り得た情報もあります」

「……二人連れ、という点だな」

「はい。七歳程度の少女と、十代後半の青年。その二人組の目撃情報を集めます。より精度を上げるためにも、オルファさんには人相書きの作成をお願いしたいのですが」

「あァ? 確かにそのガキを直接見たのは俺だけだが……絵心なんざねぇぞ俺は」

「ハッ、このチンピラは絵も描けないの」

「何か言ったかババア」

「次その呼び方したらマジで殺す」

 再び剣呑な空気が流れる。両者の間だけ空間が断絶されているような隔たりを感じた。

「もう怖ぇよこの二人……。犬と猿の方がまだ仲いいってこれぇ……」

 那由他が腕で顔を覆うようにして震えている。確かに、とても仲間とは言いがたかった。

 他の面子に関しても同じことが言える。パーシヴァルは一言たりとも発言しないし、第六使徒に至ってはリモート参加という体を取りつつも、今日も画面の奥で熟睡している始末。まるで烏合の衆だ。こんな有様で魔王を倒せるのか、そもそも本当に人類を救うために神に選ばれた者たちなのか、段々と懐疑的になってくる。

 それでも何とか組織として保てているのは、ひとえに彼女の存在が大きい。ゆっくりと瞼を持ち上げたエレオノーラは、再び天秤の杖を軽く床に打ちつけた。

「皆さんの関係について、とやかく言うつもりはありません。人間ですから性格の相性もあるでしょう。しかし、『人類の安寧』……この一点においては目的意識を共有していただきます。異論がある方は、今ここで申し出てください」

 途端に厳然とした静寂が降り落ちる。背筋が伸びるような、唾を飲み込む音ですら聞こえてしまいそうなほどの緊張感。静かだが有無を言わさぬ彼女の言に、異議を唱えることはおろか、言葉を返せる者など一人もいなかった。

「人相書きに関しては似顔絵捜査員の手も借りましょう。手配はわたくしと雪咲さんでしておきますので。……それでは、本日はこれで解散と致します」

 その言説を最後に、一人また一人と席を離れていく。

 他の使徒たちが部屋を後にする中、辰貴は椅子に腰かけたまましばらく動けないでいた。

 これから自分はどう立ち回るべきか、うまく考えがまとまらない。

「大丈夫? 竜童くん」

「あ、ああ……。すまない雪咲、大丈夫だ」

 一瞬、誰かに頼る手も浮かんだが、すぐにその案は捨てた。周りの協力が得られれば心強いものの、最も友好的に思える雪咲でさえ了承してくれる未来が見えなかった。少しでも信頼関係を築けていればまた話も変わってくるだろうが、どの天使ともまだ数回会って話をした程度の間柄だ。どう考えてもリターンよりリスクの方が大きい。

 どうすればいい。いっそ自分が天使であることを朔夜に打ち明けて知恵を借りるべきか。

 ……いや、駄目だ。彼女をこれ以上この聖戦に巻き込むわけにはいかない。

(憂人は今どこにいる。俺があいつの立場だったら、何を考えてどう動く……)

 これまでだって遊んでいたわけではない。ここ数日、足を使って可能な限りの捜索はした。魔王が憂人と二人で行動しているという事実も自分はすでに知っていたから、聞き込みも他の天使より優位に立ってできていたはずだ。それにもかかわらず、後れを取った。方針を間違えたのだろうか。初めから索敵能力の高いレインを張っていれば、あるいは先んじて憂人たちと接触できていたのではないか。

(……違う、それは結果論だ。今だから言えるに過ぎない)

 過去の選択を悔やんだところで何も始まらない。それよりも、改めて有効だと思える手立てを考えた方がよほど建設的だろう。しかし、真っ当な方法で捜し出すのはいささか厳しい気がしてきた。正攻法が駄目なら搦め手も検討すべきだろうか。かといって、法に触れる行いをするのは、警察官を志す者として抵抗がある。やむを得ない措置だと目を瞑るべきなのかもしれないが、自分にとってはそう簡単に割り切れることではなかった。

 果たしてどうするべきなのか……。

「竜童さん、雪咲さん、少しよろしいですか?」

 どっぷりと思索に耽っていた最中、他の天使たちの姿が見えなくなったのを見計らい、エレオノーラが声をかけてきた。

「実はレインさんが遺した情報がもう一つあるんです。和が乱れるのを避けるため先ほどの会議では伏せていましたが、あなた方二人にはお伝えしておこうと思います」

 そう前置きをしてから、彼女は言った。

「魔王に随伴している者の携帯端末に、不審なメッセージが届いていたようなのです。ロック画面を見た際に、『その動物園には入るな』という警告文が表示されていたと」

 こちらを見る月光色の瞳が、温度を下げながらかすかに細められた。

「我々の動向を、魔王側に知らせている人物がいます」

 ドクンと、辰貴の心臓が大きく跳ねる。

「その意図までは分かりません。自身が《願い事の権利》を得たいがための妨害工作か、もしくは魔王やその従者と個人的な繋がりがあり擁護しているのか……。いずれにせよ、これは明確な背信行為です。……その人物に、お二人は何か心当たりはありませんか?」

 彼女の視線が突き刺さる。

 信じてくれているのか疑われているのか読み取れない。

 自分たちの中に裏切り者がいる――その言葉は、辰貴の心を一層惑わせた。

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