序章 神の戯れ

 四十六億年前、広大な宇宙に地球という一つの惑星が誕生した。地球に最初の生命が生まれたのは、それから数億年経ってからのこと。現生人類が姿を現したのは、ほんの二十万年前と言われている。仮にこの地球四十六億年の歴史を一年という時間に置き換えるなら、人類誕生は十二月三十一日の午後十一時三十七分――などという話もあるほど、人類はこの惑星における新参者だ。それにもかかわらず、彼らは瞬く間にその知能や技術力を向上させ、生物的にも文化的にも目まぐるしい進歩を遂げた。そうして方々に数々の文明を築き上げ、あたかも地上の支配者であるかの如き存在感で世界に君臨している。


 そんな人類を、《その者》は憂いを帯びた眼で俯瞰していた。


「うーむ、弱った……。このままじゃ滅んじゃうなぁ、人類……」

 一人ぼやいて地上に住まう人々を見下ろす《その者》は、人間に近い見た目をしながらも、その頭には大鹿を思わせる立派な角、背中には三対六枚の翼、腰からは鮫に似た尾びれを生やした珍妙な姿をしていた。加えて皮膚は所々が爬虫類を想起させる鱗に覆われており、下半身は肉食獣のそれに近い。上半身からは蔦が自生していて、左胸にはこの世のものとは思えないほど美しい青花が咲いている。まるで幾多の生物を乱雑に寄せ集めたかのような外見だった。

「んー……救うのは簡単だけど、基本スタンスは不干渉だしなぁ」

 そこは形容しがたい空間だった。

 天井も床も壁もなく、遥かどこまでも空色の景色が続いている。しかし、空ではない。その証拠に、すぐ足元には水面が広がっている。ボリビアのウユニ塩湖を連想する者も多いだろう。違うのは、水面に映っているのが『空』ではなく『世界』だという点。あらゆる生物の営みが、透明な鏡面の向こう側に映し出されている。周りには誰もいない空間の中、《その者》はうんうんと唸りながら独り言を零し続ける。

「でも、彼らを眺めるのは最近の僕の娯楽だし、いなくなっちゃうのは困るよなぁ……」

 惜しい、実に惜しい。何度もそう呟き思案に暮れていた《その者》は、そのうちに何かを閃いたのかパチンと指を鳴らした。

「そうだ、いい方法を思いついたぞ。人類には試練という名のチャンスを与えよう。存続か滅亡か、あくまでも選ぶのは人類という体で、僕は舞台だけ用意しよう」

 中性的な《その者》は、玩具を前にした幼子のように瞳を輝かせ、パンと柏手を打った。際限なく広がる空色の空間に、乾いた高音が響き渡る。

「そうと決まったら早速設定を練らないと。うん、せっかくだし凝った演出を考えよう。人間的に言うとRPG風にね。ふふ、僕もだいぶ彼らに毒されてきたなぁ」

 くすくすと笑うのに合わせ、六枚の翼が楽しげに揺れる。翼はそれぞれ異なった形体をしており、上から鳥、翼竜、蝶のそれを模した、何ともアンバランスな三対となっていた。

 ぐっと身を乗り出して、《その者》は眼下に映る『世界』に目を凝らす。

「さーてどうしようかなぁ。どういう物語にしたら盛り上がるかな。僕自身は手を出さないわけだから、彼らだけで話が進むように作らないと。あと、物語に適した人材も選出しないといけないよなぁ。うわー、結構やることいっぱいだー。これは面倒くさいぞー」

 言葉とは裏腹に、声音は明るく弾んでいる。相も変わらず両の瞳を爛々と光らせて、地上の人間たちが織り成す喜怒哀楽を愛おしそうに見つめている。

 理想の自分を追求し、将来のために学業に励む若者。

 親を亡くし、学びの機会も得られないまま飢えに耐える日々を送っている孤児。

 互いに不貞行為を黙認しながら、我が子の前では仲の良い家族を演じている夫婦。

 金の魔力に取り憑かれ、他者を欺き蹴落とすことに何の罪悪感も抱かなくなった老人。

 己の限界に挑み、極限まで肉体を鍛え抜いているアスリート。

 嫌な現実に負けずに、ステージの上では必ず笑顔と愛嬌を振りまいているアイドル。

 人を殺したくなどないのに、暗殺者という宿命を生まれながらに背負わされた少女。

 人生の意味を自らに問いかけつつ、今まさに永遠の眠りに就こうとしている青年。

 世界には実に多様な命が存在している。それぞれに想いがあり、ドラマがあり、唯一無二の始まりと終わりがある。《その者》はそんな情景を、これまでずっと見続けてきた。

「どうせなら、愛と憎悪と希望と絶望が綯い交ぜになった感じの秀逸な舞台を創造したいなぁ。人の感情は揺れ幅が大きいほど美しく煌めくからねぇ」

 四方の果ての果てまで続いている水面。そこに波紋が生まれるたび、見える場面も切り替わる。波紋は一つではなく、いくつもいくつも生まれては消えていく。

 途方もないほどの情報量だが、《その者》は涼しい顔で一から十まですべてを把握する。加えて言うなら、現在だけじゃない。生きとし生けるものが歩んできた過去の軌跡まで辿り、その性質や死生観さえも的確に読み取っていく。それはさながら世に存在する書籍全部を一度に捲り続けて、内容を一言一句違わず暗記するに等しい行為だった。

「――お!」

 ふと《その者》の視線が、とある波紋を前にピタリと止まる。

「これはこれは……うん、いいね。この子はなかなか趣深そうだ。問題は配役をどうするか。主役に持ってくるか、あるいは……」

 考え込みながら、鮫のような尾びれをびたんびたんと水面に打ちつける。思考をまとめるための動作だったが、そのせいで波紋が揺らぐことはない。

 この空間内の一切は《その者》の管理下に置かれている。すべてを思いのままに支配できるため、想定外の事象など起きようがなかった。そして、それは地上の出来事に関しても同じことが言えた。本来ならこんなふうに頭を悩まさずとも、いとも容易く解決することができるのだ。だが、当の本人はそれを良しとはしていなかった。

 なぜか。主義に反するし、何よりそれでは『退屈』だから。

 尾びれの動きを止めた《その者》は、にっと口角を上げると、再び小気味の好い音を立てて指を鳴らした。直後、その場面を映していた水紋が光り出す。辺りも次第にざわざわと飛沫を上げて波立ち始めた。

「どれ、この子自身の意向を確かめるためにも、とりあえず会いに行ってみるかな。何事もまずは現地に行かなきゃ始まんないよね」

 頭の中では、すでに一つのストーリー案が浮かび上がっていた。まだ骨組み部分だけではあるものの、主題や構成も徐々に輪郭を帯び始めている。あとはほんの少しのインスピレーションさえ得られれば、この構想は形になるという予感があった。

 世の物語に出てくる主人公には総じて仲間がいるものだ。

 けれど、仮にこの子を主人公にするなら、きっとこの子には友達も、恋人も、理解者もできない。あらゆる者に敵視され、善行も悪行として扱われる。相当に孤独な戦いを強いられることになるだろう。様々な葛藤や苦悩が生まれるはずだ。

 ともあれ、それも一興。自分が手掛ける物語なのだから、凡庸ではつまらない。

 毛先だけ黒い白髪がなびく。今にも踊り出しそうな好奇心は、もう抑えようがない。

 可笑しそうに目を細めてから、《その者》は光る水面に飛び込んでいった。

「さてさて、面白くなってきたぞー」

 ――可愛い可愛い僕の子供たち、どうか楽しませておくれ。

 大小数多の泡沫に包まれながら、《その者》は無邪気な顔をしてほくそ笑んだ。

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