二章 パチンコ・たばこ・時々コスプレ

「やあ、君もこの講義を取ってたのか」

 朝一の講義が始まるのを本を読みながら待っていると、講義室に入ってきた西園寺に声をかけられた。そのまま自然な流れで横に座ってきたのだが、つい嫌な顔をしたのを西園寺に見咎められる。

「そんな顔をしなくてもいいじゃないか。一緒に一晩過ごした仲だろう?」

 人聞きの悪いことを言うんじゃない。いやまあ、一緒にいたのは事実だけれど、言い方に悪意を感じる。

 西園寺は酒クズな中身はともかく見た目は大変よろしい人間なので、一緒にいると目立つのだ。大講義室の中とはいえ、僕が座っているのは講義室の最後尾、出入口に一番近い席である。必然人目に触れることが多くなり、サークルの人にも目撃されることになる。

 先日の飲み会の翌日、二人で大学へ上って佐川君たちに詰められた後なのだ。これ以上の厄介は勘弁願いたい。

 そういうことなのでさっさと友達のところなりなんなりどこかに行ってほしい。

「つれないなあ。友達の所に来た結果ここに座ってるんじゃないか」

 友達じゃない。

 それならこっちじゃなくて向こうで固まってるサークルの女性陣のところに行けばいい。わざわざ男ひとりにくっつくこともあるまい。

「いや、サークルの女の子たちとはあまり仲が良くなくてね。まあ学部にも仲が良い相手がいるわけじゃないんだけど」

 西園寺はそんなことをのたまうが、別にサークルの女性陣は西園寺を嫌っているわけではないのでこいつにその気があれば彼女たちのグループに入れてもらうことなぞ簡単なのだ。学部でだって同じようなものだろう。

 仲が良くないなんて言い訳している暇があったら努力をしろと言いたい。人のことを言える立場じゃないから言わないけど。

 まあ、西園寺の交友関係が狭かろうが僕には関係ない。いや、この目立つ置物を排除する理由がなくなって困ってはいるが。

「まあまあ、友達のいないもの同士、仲良く連もうじゃないか。……大学最寄りに宿も確保できるし」

 おい、打算がだだ漏れじゃねえか。笑って誤魔化すんじゃない。

 これ以上絡んでいるとただでさえないに等しいサークルでの地位が消滅する可能性もある。なんとか西園寺をこの席から退かせられないかと考えていると――。

「おいっす~。あれ、今日はひとりじゃないんだ。珍しいわね」

 かけられた声にそちらをちらりと見ると、野球帽を目深に被った女の姿。

 ひらひらと手を振る彼女に僕が手を上げて返すと、西園寺がちょっと驚いたような声を上げる。

「おや、北条ほうじょうさん? ……なんだ、君たち仲良かったのかい?」

 いや、特にそんなことはない。名前も今知った。

「顔は知ってるし、毎週ここで会うけど名前は……なんだっけ?」

「……いや、君たちちょっと親しげに挨拶したじゃないか。毎週顔合わせてるって話なのに、逆になんでそんな相手に興味ないんだよ」

 別に大した話ではない。彼女は毎週この講義の時に僕に出席カードを渡して帰る人だ。

「毎週ここにいてくれるから代返頼みやすいのよねえ」

「ええ……。いや、ある意味大学生らしい関係かもしれないけど……」

「まあまあ、お互い気にしてないんだからいいのいいの」

 困惑する西園寺とけらけら笑う北条さん。

 素直に受け入れている僕が言うのもなんだけど、北条さんはもうちょい神妙にしてもいいと思う。

「それよりあたしは西園寺さんが男とふたりでいることに驚きなんだけど。……もしかして、できてるの?」

 僕の言葉をさっくりスルーして北条さんは西園寺に話しかける。その上僕を押し込んで同じ机に座り込んできた。

 確かにこの机は三人掛けだけど、三人並んで座るとめちゃくちゃ狭いからやめてほしい。

「いや、ボクと彼は文芸サークルの部員でね。そして酒飲み仲間なんだ」

「へえ、そうなの」

 酒飲みじゃない。

 ……というか、ふたりが知り合いだったことが驚きだ。西園寺も友達いないとか言いながら交友あるんじゃないか。

 すると、西園寺は呆れたような顔をする。

「君ね……。ボクたちと彼女は同じ基礎ゼミだよ。もう何回も顔を合わせてるはずだし、なんならゼミの飲み会にもいたじゃないか」

 マジで?

 西園寺がゼミにいたのはかろうじて記憶の隅に引っかかっていたけど、北条さんがいたのは気がつかなかった。ちなみに飲み会には出ていない。

「いや、君がいた記憶がないなとは思ってたけど本当にいなかったのか……。君は本当に他人に興味ないね……」

 いや、確かその時は用事があったから仕方がなかったんだ。うん。

「ああ、なんか見たことあるやつだとは思ってたんだけどゼミかあ。あたしも全然気がつかなかったわ」

 ほら、北条さんも僕のこと気がついてなかったみたいだしおあいこというやつである。

「……本当に用事があったかは疑わしいが、まあそれはよしとしよう。しかし、うちのゼミの女子はけっこうレベルが高いのに勿体ないな。北条さんが君のことを認知できてなかったのはまあわかるとしても、君は男ならせめて北条さんのことぐらいチェックしておきたまえよ。これだけエロい身体した女はそうそういないじゃないか」

「西園寺さん、それ最近は女同士でもセクハラになるからね……」

 僕と北条さんの扱いの差に多少の理不尽を感じなくもないが、僕のようなぼっちのことまでちゃんと覚えておけというのは酷な話なのでそこは許すことにする。

 そして、西園寺の言葉を受けて僕は北条さんのことを初めてしっかりと見た。

 野球帽を脱いだ北条さんは金に染められた髪をショートカットにしていて、ボーイッシュに見える顔立ちが活動的な印象を持たせる。ホットパンツを穿き、薄いカーディガンを羽織っているが中はタンクトップでその印象を裏付けるような動きやすそうというか、露出の多いファッションをしていた。

 そして、なんというか、こう。非常に肉感的な体形をしているのだ。

 服装が薄い分、体形がハッキリと出ていて目のやり場に困るぐらいだった。一部位に布を取られすぎてタンクトップの裾が足りず、全景に対して細く見えるおなかが見え隠れしている。

 ……うん、なるほど。西園寺の言わんとすることは、まあ理解した。

 確かにこれは人の目を集める見た目をしている。

「あんた、今さらすぎない? ここで何回も顔合わせてたじゃない」

 呆れた様子の北条さんに僕は返す言葉もなかった。

 それでも言い訳させてもらえば、僕は普段誰とも話さないし、待ち時間は本を読んでるから人の顔はろくに見ないのだ。

 北条さんに話しかけられたときも視界の端でしか捉えていなかった。服がパンパンそうな感じはしてたからぶっちゃけふとっ――。

「あたしは、太ってる訳じゃ、ない。オーケー?」

 イエス、マム。

 今は理解してるから肩に置いた手を退けてほしい。マジで肩が外れそうなのでお願いします。

「今のは君が悪いね」

 言われなくてもわかってる。

 僕が謝罪の言葉を口にすると、北条さんは素直に手を離してくれた。

「まあ、そう見られるのは昔からだから今更なんだけどねえ。太ってるとかデブとか言われなれたわ。こんな荷物抱えてたらしょうがないって諦めてるけど」

 両手で自分の胸を寄せてあげてみせる北条さん。愚痴るのも納得の重量感がよくわかるが、男の前でそのような行動は止めた方がいいと思う。

「その体形ならやっかみを受けるのはしょうがないかもね。ボクはいいと思うけどなあ。その大きさでその腰回りの細さは反則だよ」

 西園寺はまじめな語り口でのたまっているが、北条さんを上から下までなめ回すような視線がすべてを台無しにしていた。

「ええ、あ、ありがとう? ……同性からそこまで露骨に見られるのは初めてだわ」

 北条さんも西園寺の視線に顔を引きつらせつつ応答する。不快に思ったら遠慮なく訴えてくれていい。

 ……しかし、そうか。胸の大きな女性は服の着こなしが難しくて太って見られやすいと聞く。北条さんは身体の線が出やすい服装をすることでそう見られないようにしているんだな。

「いや、この服装は趣味だけど」

 趣味かよ。

「好きなゲームのキャラがこんな感じの服着てるのよねえ」

 けらけらと笑う北条さん。まあ、似合ってるのは否定しない。露出が多くて別の問題が出てきそうな気もするが。

 それよりも、そろそろ講義が始まる。代返ならするからさっさと出席カードを渡してほしい。

 そろそろ周囲の視線が辛くなってきた僕は北条さんにさっさとお帰りいただくため、彼女の方に手を差し出す。

「ああ、今日はいいのよ。元々講義は受けるつもりで来てるから」

 な、なぜ今日に限って……?

 驚愕する僕を気にした様子もなく机の上にノートや筆記用具を広げ始める北条さん。

「いやあ、今日は懐が暖かいから、あんたにいつも代返してもらってるお礼をしようかなって。講義終わったらご飯行こうよ、奢ったげるから。せっかくだから西園寺さんもどう?」

「いいのかい? ……じゃあ、ご相伴に与ろうかな」

 サークル女子の誘いは断る癖に、こういう時だけ色よい返事をする西園寺。先ほどから北条さんの身体にご執心の様子だが、まさか身体目当てなんじゃないかと勘ぐってしまうほどの気軽さだ。

「おっけ~。九号館の方で鉄板焼き定食食べましょ」

「いいねえ、九号館の学食は地味に高いからなかなか足が向かないんだよね」

 僕が返事をする間もなく話はトントン拍子に進んでしまっている。

 ……わざわざ実質初対面の相手と食事なんてめんどくさいことこの上ないが、正直タダ飯というのは一人暮らしの学生には魅力的で抗いがたい。

 まあ、僕が黙っていても女子ふたりで勝手におしゃべりしてくれるだろう。

 そういうわけで。一限、そして偶然一緒のものを取っていた二限の講義を共に受けた僕たちは、途中の移動ですれ違った佐川君他数名のサークル部員に睨まれた僕の精神に傷をつけつつ九号館の食堂へ入った。

 宣言通り僕と西園寺の分の食券も購入してくれた北条さんと僕が注文の列に並び、西園寺に席を取ってもらう。

 比較的新しい校舎である九号館に入っているので店内がきれいな上、テラス席も設置されているこの食堂はいつも人が多い。本日も好況なようで、急いで入ったにもかかわらずもう満席なようだ。西園寺はなんとかテーブルを押さえられたようでこちらに手を振っているのが見えた。

 食券を食堂のおばちゃんに渡してしばらく待つと、じゅうじゅうと焼けた鉄板の上にのった肉野菜炒めが出てくる。

 僕はお盆に自分の分と西園寺の分を受け取り、自分の分を受け取った北条さんと共に西園寺の待つテーブルに向かい定食を並べた。

「おお、これが大学外の人もわざわざ大学まで上って食べに来ると噂の鉄板焼き……!」

 ほお。秀泉大学が丘陵の上にあるが故に登校するために坂を上ることを強いられるので、学生は大学に向かうことを大学に上ると表現するのだが、学生食堂の定食を食べるためにこの大学まで出向く人がいるとは驚きだ。

 だが、確かに見た目のインパクトも、鉄板から立ちこめる食欲をそそる匂いもすばらしい。六百円は学生からするとちょっとお高いが、社会人からするとお手頃な値段なのかもしれない。

 さっそくいただくと、なるほど、確かに美味い。肉にかかったタレはとてもご飯に合うし、盛られた肉野菜の上にのった卵黄を絡めると味がまろやかになって二度おいしい。

 学生としてはこれでもうちょっと安かったら毎日でも食べたいのだが、まあこうやってたまに食べるぐらいがちょうどいいのだろう。

 せっかくなので熱々のうちにと言わんばかりに、三人とも言葉少なく食べ続けた。

「……ふう、ごちそうさま。お腹いっぱいだ。ありがとう北条さん」

「どういたしまして。一緒にご飯食べた仲なんだし、ナツでいいわよ。夏希だからナツ」

「ふふ、それならじゃあ。ボクは春香だけど、好きに呼んでくれていい」

「それじゃあハルちゃんね」

 女子同士の微笑ましいやりとりを、食後のお茶を飲みながら眺めていると西園寺がちらりと視線を投げかけてくる。

「……君も好きに呼んでくれていいんだよ?」

 別に今の呼び方で間に合ってる。

「つれないわねえ。かわいい女の子が無条件でこう言ってくれてるんだから泣いて喜ぶところでしょうに」

 名前やあだ名で呼ぶことがプラスであるかのような言い方だが、あいにくと僕にとってはマイナスだ。ただでさえ佐川君や他の皆からの視線がきついのに、これ以上自分の立場を悪くする必要はないのである。

「ふうん。普通は友達付き合いよりもハルちゃんみたいなかわいい女の子と仲良くできた方がいい気がするけど」

「佐川君たちは彼にとって友達ですらないけどね」

 おい、言っていいことと悪いことがあるぞ。……友達は、確かに言いすぎな感があるけど、サークルの仲間なのは間違いないじゃないか。

「そう思うならもっとサークルに溶け込みなよ」

 いやあ、そうなんだけど……。めんどくさくて、つい。

「あんたそれでよくサークルの仲間なんて言えたわね……」

 北条さんの呆れた様子に返す言葉もない。友達は欲しいけどそのための努力をしたくない、という志向の矛盾が昔からの僕の欠点だ。

 サークルに入ったり飲み会に参加してみたり、行動してみては投げ出してしまう。結局やることが中途半端で、自分の思ったような立ち位置をとれない。

 西園寺に対してそれはお前もだろうと突っ込む気力もなく地味にへこむ僕に気をつかってか、西園寺が話題を変えるように北条さんへ話を振る。

「しかし、人に奢るぐらい懐が暖かいなんてうらやましいね。割のいいバイトをしているなら紹介してくれるとうれしいのだけれど」

「いいわよ。けど、紹介はできるけどバイトじゃないの」

 バイトじゃない……? まさか、今流行りのパパ活というやつか?

「なるほど。その身体なら稼ぎ放題だろうな……」

「違うっての! 流石にそんなことに手え出すほどお金に困ってないわよ! ……まだ」

 僕らは思わず北条さんの肢体を凝視してしまうが、北条さんは自分の腕で身体を抱くようにして隠しながら否定する。

 ちらりと西園寺の方を見ると目が合ったが、あれは僕と同じく身体が強調されて逆にエロいなと思っている目だ。

 ……ごほん。

 バイトでもパパ活でもないならどうやって稼いでいるのか。

 北条さんに問うと、彼女はふふん、と胸を反らした。西園寺は自然な動作でスマホを操作し、北条さんの撮影を始めた。

「これよこれ」

 北条さんは西園寺の盗撮など気づかぬまま右手を前に出し、何かを握って捻るような動作をしている。

 ……ふむ。つまり、パチンコ?

「そうそう! いやあ、昨日夕方から打ったんだけど、座ってすぐ当たり始めてさあ! オスイチってやつ?」

 嬉しそうに語る北条さん。

「パチンコね。誰か先輩に教えてもらったのかい?」

「いんや、大学に入ってから偶然好きなアニメのタイアップ機が出てるの知って。なんか限定グッズが景品になってるっていうから独学で覚えたんだ」

 ……ん? つまり、僕に毎週代返を頼んでたのは、パチンコを打つためということだろうか。

「そゆこと。二限以降は出席も取らない講義ばっかりだし、一限だけ代返頼めば後は朝から打ち放題ってわけ」

 ええ……。いや、遊ぶためだろうがなんだろうがどうでもいいけど、パチンコ打つためって言われるとなんか嫌な気がしてくるな……。

「ま、まあまあいいじゃない! こうしてお礼もしてるわけだし! ……あぶく銭でだけど」

 ……。

「そ、そうだ! ふたりとも、よければこの後一緒に打ちに行ってみない? 最初はちょっと敬遠するかもしれないけどやってみると楽しいわよ」

 ジト目で北条さんを見ていると、彼女は誤魔化すように声を上げた。まあ過度な追及はよしておこう。

 しかし、パチンコか。正直、良いイメージはない。借金をして身持ちを崩すとか、酷いと友人家族との金の貸し借りでトラブルになるとか、そういう話をよく耳にする。

 だいたい、ギャンブルというものは基本的に胴元が勝つようにできているのだ。一時の勝ち負けがあるにしても、最終的には負けるようにできているのである。短期的にはずぶの素人でも勝ちを拾えるかもしれないが、かもしれないにお札をベットできるほど僕の懐は暖かくはない。

「ううん、興味深くはあるんだけれど、何分持ち合わせがね……。日雇いバイトに時々入るぐらいな学生に、ウン万の資金は簡単には出せないなあ」

 西園寺も懐事情は同じらしい。意外にも興味津々な様子ではあったが、資金不足には勝てなかったようだ。

「あら残念。まあ、負けるときは諭吉先生が何枚もお亡くなりになったりするしねえ」

「今それだけ持っていかれたら生活できなくなるな。申し訳ないけど、今回は遠慮しておくよ」

「いいっていいって! お金がかかるのは間違いないし、無理に誘って大損させても責任取れないしさ!」

 そう言いつつも、北条さんがどこか残念そうに見えるのは僕の胸中に誘いを断った故の申し訳なさがあるからだろうか。

「それじゃあ代返のお礼もできたし、あたしはそろそろ戦場に向かおうかしら」

「戦場って、もしかしてパチンコを打ちに行くのかい? 午後の講義もあるだろうに」

 空になった食器を手に持ち席を立つ北条さんに呆れたように言う西園寺。あくまでも他人事であるから僕も西園寺もとやかく言う立場にないが、大学一年目の前期からいい度胸をしている。

「こういうのは流れってもんがあるからね~。勝ってるうちはどんどん勝負しないと。それじゃ、勝てたらまた奢るから。期待して待っててね!」

 そう言って颯爽と去って行く北条さんを見ながら、西園寺がつぶやく。

「惜しいなあ。ボクにもっと貯金があれば彼女と友達になれただろうに」

 なんだ、サークルの女子にはつれない態度を取る癖に北条さんとはお近づきになりたいのか。

 僕の言葉に西園寺は苦笑しつつ首を横に振った。

「サークルでの交流をないがしろにするつもりは、まあないさ。ただ、北条さん――ナツとの方が仲良くなれそうだと思ったんだよ」

 仲良くなれそう、か。サークルの部員たちと北条さんに差異があるとは思えない。むしろ、定例会で顔を合わせやすいサークル部員の方が仲良くなる機会はあると思うのだけれど。

「確かにそうなんだけどね……。今回は図らずも話が転がってナツの人となりも知れたからね。彼女とは上手くやれそうだったから」

 どうやら西園寺にとっての友達付き合いというものはやたらと敷居が高いものらしい。北条さんのどういった部分が琴線に触れたのかはわからないが、今回は縁がなかったということだろう。僕への礼という名目での食事を一緒にした程度の縁で今後の付き合いにつながるとも思えない。

「そうだね。……しかし、実に惜しい。あの乳を間近で観賞する権利をふいにしてしまうとは。無理してでも資金を捻出すべきだったかな?」

 お前本当に北条さんと仲良くする気あったの?

「冗談、冗談だよ。まあ、彼女と知己を得たということで今日はよしとしよう。ゼミでも顔を合わせるんだし、交友を深める機会はそのうち巡ってくるさ」



 はたして、その機会は早々に巡ってきた。

「ふたりとも、おはよう……」

「おや。おはようというよりはこんにちはかな……って。ナツ、なんかすごくテンションが低いけど、どうしたんだい?」

 本日も西園寺に絡まれていた僕は、二限の講義を彼女と一緒に受け終えて昼ご飯を取るべく学食へ向かっていたのだが、その道すがらで北条さんと出会った。

 北条さんは、昨日の快活な様子がなりを潜めて露骨に意気消沈といった風である。西園寺が遠慮がちに声をかけると、北条さんは小さな声で応える。

「……昨日あの後、パチンコで派手に負けちゃって」

 ……ああ、そういうことか。

 北条さんは昨日、勝つ流れがあるうちに勝っておくようなことを言っていたが、そんなものは実際には存在しないのだ。勝つときは勝つし、負けるときは負けるのがギャンブルなのである。なんなら負けることの方が多いだろう。

 これほどの消沈をみせるのだ。けっこうな額負けたに違いない。

「負け額は、諭吉四枚ぐらい……」

「ああ、かなり痛い金額だね……。パチンコって半日でそれだけ負けられるのか。けど、一昨日の勝ち分があるだろうから、それも合わせて考えればそんなに負けてないんだろう」

 西園寺が痛ましそうな表情をみせつつ、北条さんにやさしく声をかける。北条さんは笑顔を作ろうとして失敗したような不出来な表情を作り、震える声で言った。

「……一昨日の勝ち額を消し飛ばした上で、諭吉四枚ぐらい負けたの」

 ええ……。



「いや~、勝ち分が溶けたところで止めればよかったんだけど、ここからすぐ当てればまたプラスに持っていけるなと思ったら止まらなくて……」

 北条さんを伴って学食に向かい、昼食を取りながら事情を聞く。

 本日は昨日入ったお高い九号館の学食ではなく、別の場所にある安い方の学食だ。北条さんの目の前にあるのは百五十円のミニうどんに、それを憐れんだ僕と西園寺がそれぞれ奢ったおかずの小鉢。昨日の鉄板焼き定食とは雲泥の差である。

「それで、結局なすすべもなく大当たりを得られないまま負けたと……」

「ううん。一応当たりは何度か引いてるのよ。けど、五十パーセントの壁を越えられなかったり、越えたはいいものの通常に即落ちしたりして……」

 よくわからないが惜しいところまではいっていたということなのだろう。たぶん。

「そうなの! 投資がマイナスになってすぐ当たったときにせめて平均連チャンだけでもしてくれれば結果は全然違ったと思うんだけど……。いや、そもそも一番最初に確変直当たりしたときにきちんと連チャンできていれば……!」

 北条さんが語っていることは半分もわからないが、経験則から言えばこういうときは下手に口を挟まずに相槌だけ打っているのが一番だ。相手も答えを求めちゃいないし、同じ時間を使うなら言葉数は少ない方が経済的なのである。

 西園寺もその辺り心得ているのか、うんうんと頷きながら隙を見て昼食を消化している。目線が明らかに北条の顔より下を向いていることが多い気がするが、お互いに不満はないみたいだしこれでいいのだろう。

「……はあ、しゃべってたらなんだか落ち着いちゃった。ていうかごめんね、ふたりとも。ご飯奢ってもらった上に、愚痴まで聞いてもらっちゃって」

 しばらく熱く語っていた北条さんは、一通り語って気持ちが上向いたらしい。先ほどまでよりも顔色がよくなっている。

「かまわないよ。ボクらも昨日は美味しいご飯を奢ってもらったんだからね。そのお返しさ」

「ありがとう、ハルちゃん。……あ、けどその理論でいくと、代返のお礼した分がチャラになっちゃってるわよね」

 落ち着いて食欲が出てきたのか、うどんをすすりはじめた北条さんは口をもぐもぐと動かしながら宙を見つめて考えはじめる。別に昨日の鉄板焼き以上のものを今さら求める気はないのだが……。

「そしたら大したものじゃないけど、これあげるわ。昨日の端玉で適当にもらってきたやつだけど」

 北条さんがかばんの中から何かを取り出して、テーブルの上に置いた。見ると、たばこの箱がひとつとピエロのロゴが入った百円ライターだった。

 ……いや、僕は別に喫煙者ではないのだが。

「まあまあ。別に吸う気がないなら誰か喫煙者の人に安値で売ればいいでしょ。たぶん五百円ぐらいにはなると思うから」

「それは難しいかも知れないな。彼にはそんなことを持ちかけられる友達もいないだろうし」

 そこ、うるさいぞ。

「あれ? 確かハルちゃんもあんたもサークル入ってるとかゼミの紹介の時に言ってなかったっけ? それに、ゼミの人でもだれかしら声をかければたばこを吸う人のひとりやふたりいそうだけど……」

 コミュ力のある人間の容赦ない言葉が僕と西園寺に突き刺さる。微妙な表情をしているであろう僕と、余計なことを言ったせいで自滅してうめいている西園寺を、北条さんが不思議そうな顔で見てくる。

 ……まあ、人には売らないから問題ない。このたばこはせっかくなので自分用にする。

「けど、さっき喫煙者じゃないって」

 今までは喫煙者じゃなかったが、興味自体はあったのだ。せっかくなので試してみようという話である。

「そう? それならそれでよかったわ」

 しかし、吸うわけでもないたばこをもらってくるぐらいなら、その分だけでも換金してくればよかっただろうに。なんでわざわざこんなものを。

 僕の何気ない問いに、北条さんは目を逸らしながら答える。

「最後に当たって出した玉で未練打ちしてたんだけど、結局当たりを引き戻せなくて……。せめて千円分は回収しようと思って残り玉数計算してたつもりだったんだけど、交換率の計算間違えちゃった……。昨日打ってた店は換金千円からだったから五百円も回収できず……」

 よくわからないが文脈から推察した感じだと、未練打ちをしなかったら千円以上救えてたんじゃないだろうか。

「仕方ないのよ……! 現実を受け入れるには必要な犠牲だったの!」

 また心を壊しかけている北条さんを尻目に、西園寺がしみじみと言う。

「しかし、パチンコっていうのはとんでもないね。ナツが昨日具体的にいくら負けたかは恐ろしくて聞けないけど、諭吉先生がたった一日で何人もお亡くなりになるぐらい負けられるものなのか」

 不運が続いて負けがこんだら、大卒初任給ぐらいじゃ一週間も持たなそうだ。北条さんとて今回が初めての負けじゃないだろう。トータル収支なんてどうなっているやら。

「……実は生活に困るレベルでやばいのよ」

「ええ……」

 なんでそんなになるまで打ち込んだんだよ……。

 ちょっと引き気味の僕と西園寺に言い訳するように、北条さん――もう呼び捨てでいいか。北条が言葉を並べたてる。

「い、今までの戦績は後々に活かすために記録をつけてたんだけど、どうも収支が理論値に対して下振れしてて……。理論値通りの結果が出てればむしろ収支はプラスのはずだったのよ!」

 適当に打たずに努力をしているらしいのは立派なのだが、結果がこのザマではなあ……。

「で、どうするんだいナツ。今の君は素寒貧なんだろう? バイト代が入ってくるとかそういう予定はあるのかい?」

「今はバイトしてなくて、収入ゼロなのよねえ。受験終わった直後ぐらいから先月までは地元の居酒屋で働いてたんだけど辞めちゃったし。軍資金は今までの貯金とそこでのバイト代から出してたんだけど、供給がなくなって参っちゃうわ」

 合わなくて即辞めたとかじゃなく数ヶ月とは中途半端な期間だな。バイトサボってパチンコに行ってるのがバレてクビになったとか?

「そこまで堕ちちゃいないわよ! 酔っ払いのセクハラが酷いせいで何回も警察が来て外聞悪いし、バイトメンバー内の修羅場の因になってるって言われて辞めただけよ」

 ええ……。

 そんなサークルクラッシャーの上位互換みたいな展開あるのかよ……。いやまあ、北条のなりを見れば想像できる光景ではあるけども。

「強いて敗因を挙げるなら大学入学直前にイメチェンしたことかしらね。まったく、好きでこういう体形してる訳じゃないのに、どうして他人の人間関係に巻き込まれたり悪し様に言われたりしなきゃいけないんだか」

「バイト先が居酒屋だったのも悪かったんだろうね。……けどナツの言うこと、ちょっと分かるなあ。ボクも中高時代は色々あったから」

「ほんと世の中理不尽よねえ」

 ……ふたりはなにやら一般人には縁のない内容で盛り上がっている。西園寺の食いつき方を見るに、やつが交友関係に及び腰なのもその辺りが原因か。人間関係のごたごたというのは、僕が思った以上にいろいろなところに転がっているらしい。

「まあそれはそれとして。定期代なんかは親が出してくれてるからいいんだけど、お昼ご飯とかその他雑費は自腹だからマジで死活問題なのよ。次のバイトを見つけるまではパチンコで稼ぐつもりだったから、昨日の敗北がつくづく悔やまれるわ……」

 パチンコで生活しようというクズな発想が出てくる時点で既におかしいと思うのだが、本人はいたって真面目そうだ。親御さんも娘がまさかこんな身の持ち崩し方をするとは想像もしなかっただろう。

「とりあえず収入が入るまで昼食は安くすませるか、最悪抜くしかないね」

「昼食抜きかあ。あたし、ちょっと燃費悪くてご飯はしっかり食べるタイプなんだけど大丈夫かしら……」

 なるほど。この漫画みたいなグラマラス体形を維持するために相応のカロリーが必要なのだろう。じゃあせめて昼食代だけでも残しとけという言葉は、今さらなので言わないでおく。

 とにかく、そういうことなら一刻も早く収入を得る必要があるだろう。空腹で働けませんなんてことになったら笑い話にもならない。とりあえず日雇いバイトでもするしかないな。

「日雇いもいいと思うけど、今日明日で仕事にありつけるものでもないだろう? もっと手っ取り早い方法がある」

 やたら自信ありげな西園寺に不安しかないが、聞くだけなら無料なのでとりあえず先を促す。

「なに、簡単なことさ。定期券を払い戻して資金を確保しつつ、彼の部屋に転がり込めばいい。ボクも間違いが起きないよう監視することを口実に部屋を利用しやすくなるし一石二鳥だ」

 僕を親指で示しながら得意げに語る西園寺のガバガバ理論に頭痛を覚える。

 却下だ却下。北条も、ちょっと検討してそうな顔するんじゃねえよ。

「いやあ、ハルちゃんが一緒なら意外と大丈夫かなって」

 意外とじゃない。

 それに、僕のプライベートが脅かされる案に乗るつもりはないのだ。そんなことするぐらいなら当座の金を貸すから早急に働けと言いたい。

「それもそうね。まあ、知り合ってすぐな男の部屋に転がり込むのはあたしもちょっとどうかと思うし。第一候補は日雇いバイトだけど、一応他にも案があるのよ」

 ほう。考えなしにお金を浪費する北条でも策はあるらしい。

 それで、どうするつもりだろうか。

「実は、午前中の内に講義サボって手早く稼げる方法がないか調べてたんだけど……」

 せめて講義に出ながら調べろよ。

 突っ込む僕の言葉など気にもせず、北条はちょっと自信満々な様子でスマホを差し出してくる。僕と西園寺が画面を覗いてみると、どうやら何かのホームページらしい。しかし……これは……。

「ふむ、これは有名なアダルトサイトだね。こういうオークションやってたんだ、ここ」

 そう。北条が開いているサイトはAVとか大人のおもちゃとか同人誌とかを売っている名の知れたアダルト系の販売サイトだ。真っ昼間の大学構内でこんなサイトを開く胆力に驚嘆する。

 どうやらサービスの一環としてオークションをやっているらしい。

 けれど、物を売るならそういうのに特化したフリマアプリとかオークションサイトなんかがあるはずだが、わざわざアダルトサイトで売る必要があるのだろうか?

「そりゃあもちろんよ。この中のカテゴリーにね……」

 北条がページを操作していくと、オークションにかけられる商品のカテゴリが細分化されていく。素人、と表示されたカテゴリーを開くと、下着姿の女性の写真がずらっと表示された。

「おいおいおいおい。もしかして使用済み下着を売るつもりかい?」

「……顔出しはさすがにしないけど、首から下だけとか顔にモザイクかけたりすればいけるかなって。オークション形式だから当たれば一発でかなりの額になるかも」

 思った以上にマジな顔をしている北条に西園寺が引きつった顔をする。

「いやいやいやいや、流石にどうかと思うよ……? 余所で売るぐらいならボクが買うから」

「それはそれで怖いわ……。冗談よ冗談。流石にこういうのにまで手を出すつもりはないから」

 そう言ってけらけら笑う北条にため息を吐く西園寺。知人を止められてホッとしているのだろう、たぶん。

 しかし、なんだやらないのか。今ざっと調べてみた感じだと使用済み下着の売買に違法性はなさそうだし、過剰な数じゃなければ生活用動産扱い? とか言って所得税がかからない可能性が高いらしいからおいしい商売だと思ったのだけれど。

「……それ、マジ?」

「おい! 人がせっかく引き留めたのに悪い方向に持って行こうとしないでくれるか⁉」

 僕は実行する上での問題点を確認しただけだ。確かに外聞は悪いかもしれないが、損得を吟味して決めるのは北条自身である。

「そんな他人事みたいに……」

 なにせ他人事である。北条が下着を小汚いおっさんに売ろうが、そのおっさんが北条の下着をどう使おうが関係ないし僕は困らない。

「そういう表現されるとやりたくなくなるわね……。元からやる気はないけど」

 僕の突き放した言葉に、北条はあっさりと引き下がった。ちょっと未練がありそうに見えなくもないが、本人がそう言うのならこの話はなしだ。

「はあ、ボクだけ無駄に神経すり減らした気がするよ……。君も、ツンデレみたいなことやってないで素直に引き留めろよ」

 僕にそんな要素はない。本人にリスクを背負う覚悟があれば稼げる見込みが高いのは間違いないのだから。

 結局のところ、真面目に働くしか生きる術はないのだ。諦めて労働に励めばいい。

「日雇いバイトならボクも時々入ってるから、そこを紹介するよ」

「ほんと? それじゃあたしもそこにしようかな……。ハルちゃんお願いできる?」

「かまわないとも」

 ちょうど昼休みが終わることもあり、話はそこで切り上げとなった。

 その後、別々の講義を受けるために別れた後、僕たちは再び合流した。僕自身は別に合流する気はなかったが、この後僕が向かう場所を聞いて勝手にふたりがついてきたのだ。無駄に目立つのであまりついてきてほしくはなかったが仕方がない。

 目的地は、九号館食堂のテラスの先にある隔離された空間。喫煙スペースである。

 せっかく手に入れたたばこなのでさっそく吸ってみようという魂胆だ。

 ちらほらと先客がいたので彼らを避けるようにスペースの隅っこに陣取る。案の定じろじろと見られてやり辛いったらありゃしない。

「健康に悪いとはわかっていても、一度は試してみたくなるのが人の性だよね」

「わかる~。それに、赤信号皆で渡れば怖くない、みたいな?」

 僕がたばこの封を開くのに苦戦している横で頭の悪い会話をしつつも、ふたりは興味津々といった感じでのぞき込んでくる。

 不器用に中の銀紙を破いてやっとこさたばこを取り出すと、さっと手がふたつ伸びてきて一本ずつ抜き去っていく。

 一応僕の物になったたばこなんだが……。

「まあまあ、貰いたばこってやつよ」

「全部消費できるとも限らないんだからいいじゃないか」

 いまいち納得いかないが、まあいいだろう。僕も一本たばこを取り出し口に咥える。

 ライターを取り出して火をつけようとすると、たばこを咥えた顔がふたつ寄ってきた。

 ……いや、邪魔だから顔を退けろ。

「せっかくだから皆で一緒にデビューしちゃおうよ」

「そうそう、抜け駆けは良くない」

 こんなことに抜け駆けもくそもあるか。……ええい、仕方ない。

 ふたりが引く様子もないので僕もいやいや顔を寄せる。……よし、いくぞ。

 僕たちはライターの火にたばこの先端を突き出し、大きく息を吸い込む。

 そして、同時に盛大にむせた。

 三人の口から吐き出された煙で僕たちの周囲は大惨事だ。

「げほっ、げほっ! 何これまっず⁉」

「……初めてのたばこは美味しくないとは聞きかじっていたけれど、こりゃあきついな。何本も吸える気がしないね」

 ある意味予想通りの展開だが、ここまでとは思わなかった。調べたところ、北条の持ってきた銘柄は比較的初心者向けでタールやニコチンの量も少ない物らしかったので大丈夫だと思ったのだが。

 まあ最初はこんなもんでも吸っていれば美味しくなるのかもしれない。捨てるのももったいないしなんとか吸いきってみよう。

 そういうわけで僕たちはそれぞれ頑張ってたばこを消化し始めたのだが、全員が顔を突き合わせてしかめっ面で吸う酷い絵面になっていた。

「これは三人がかりでも一箱吸いきるのにどれだけかかるかわからないなあ」

 西園寺のぼやきに僕と北条が無言でうなずいていると、喫煙スペースに人が入ってきた。

「あれ? 西園寺さんと北条さんと……。珍しい組み合わせに珍しいところで会うね。……というかどうしたの? みんな不景気そうな顔して」

 入ってきた女性は僕たちの存在に気がつくと、目を丸くしながら声をかけてきた。

「ああ、東雲しののめさんか。最近ちょっと縁があってね」

「お疲れ~。ちょっと理由があって三人でたばこデビューしてみたんだけど、惨敗したところなのよねえ」

「そういうことか。吸ってる私が言うのもなんだけど、たばこはあんまりおすすめできないなあ」

 そう言いながら東雲さんはたばことジッポライターを取り出すと、慣れた手つきでたばこに火をつけた。吸い込んだ煙をゆっくりと吐き出す様は堂に入っていて、年季を感じさせる。

 ぱっと見、男性平均身長ぐらいの僕と同じぐらいに見えるから、女性としては身長が高い部類だろう。肩まで伸びた栗色の髪に大人びた容貌、洒落たパンツルック。たばこ片手に立っている姿が絵になる女性だった。

 僕は彼女に気づかれぬよう西園寺にアイコンタクトをすると、それに気がついた西園寺は一瞬呆れたような表情をした後、片手でささっとスマホを操作する。

 僕もなるべく自然な動作になるよう心がけつつスマホを取り出し西園寺からのメッセージを確認した。

『彼女は東雲冬実しののめふゆみさん。ボクらのゼミの同期だよ。君は本当に人の顔を覚えないんだね……』

 なるほどやはり。得心してうなずく僕を西園寺が半眼になって見ているが気にしない。やれと言われてできたら宿題を忘れる学生も働かないニートも存在しないのである。

 しかし、東雲さんは僕たちと違って美味そうにたばこを吸っている。何か上手に吸うためのコツみたいなものがあるのだろうか?

「結局慣れだからね。何回も吸ってれば美味しく感じてくると思うけど。吸い方に気をつければちょっとマシになるかな」

「ふむ。できればその上手な吸い方というのをご教授いただけないかな」

「いいよ、そんな難しいことでもないし。たばこっていうのは燃やすときの温度が低いほど良い味が出るんだよ。だから、勢いよく吸ったりしないでゆっくり吸う方がいいんだ。たばこを咥えながらも、普通に呼吸をするような感じっていうのかな」

 言われたとおりにゆっくりと呼吸をするよう意識して吸い込むと、煙の吸入量が減り先ほどのようにむせることなく吸うことができた。肺の中に空気以外のものが入ってくるような違和感は拭えないけれど。

 なるほど。これなら醜態をさらすことなくたばこを吸えそうである。

「ほんとだ。吸い方ひとつで変わるものなんだね」

 西園寺が煙を吐き出してから感嘆の声を上げる。

「東雲さんは吸い慣れて見えるけど、前から吸ってるの?」

 北条の言葉に、大学一年生の僕らが考えちゃいけない疑問が湧き出てくるが口を衝く前に西園寺が目で制止してきた。

 いけないいけない。僕たちはたばこもお酒もオッケーな歳だった。大学一年生はみんなにじゅっさい。この世界はそういう設定なのだ、うん。

 北条の問いにたばこの煙をゆっくりと吐き出してから東雲さんが答えた。

「吸い始めて一年ぐらいかな。予備校時代に手を出してね」

「あ、もしかしなくても年上?」

「皆がストレートで入ってるならそうなるかな。別に年齢は気にしなくて大丈夫だよ。私よりも上の年齢で大学入る人もけっこういるっていうし」

「そう? じゃあ親しみを込めてシノちゃんね」

 微妙な話題を軽い感じで流して東雲さんの懐に入っていく北条。このコミュ力の高さと男女問わず人目を引きすぎる見た目が周囲の人間関係をぶち壊すのだろう。サークルクラッシャー体質とパチンカスで金がないのを除けばゼミやサークルの中心にいるような女だと思うのだが。

 西園寺の場合はただでさえ昨今は受け入れられづらい大酒飲みなのに、交友関係の狭いコミュ障なのでとても人をまとめ上げることなぞできまい。

「やっぱり誰かに影響されて吸い始めた感じ? 彼氏とか」

 無邪気に聞く北条に対して、東雲さんはあっさりと答える。

「誰かに教え込まれたわけじゃないけど、強いて言えば死んだ弟かな。このジッポも形見のやつだし」

「えっ……」

 兄じゃなくて弟なのか。東雲さんは真っ当に見えるし家族に不良がいるイメージも湧かないのだが。

「どちらかというとおとなしい、普通の子だったんだけどね。まあ実際吸ってたかどうかはわからないんだ。遺品整理の時にエロ本と一緒に未開封のたばことこのジッポが出てきて、そうだったのかなって」

 たばこが見つかるよりエロ本が見つかる方がつらいな……。やっぱり時代はデジタルということか。

「私もエロ本は親に見せられなくてこっそり捨てたよ。たばことジッポの方は私がもらい受けたんだけどね」

「……平然とそのボールを投げ返せる君には感服するよ。見たまえよ、リアクションに困って固まってるナツの姿を」

 呆れた目で見てくる西園寺。確かに北条が引きつった顔で口を半開きにしていて面白い。

 本人が普通に話してるんだから問題あるまい。別に僕が地雷を踏み抜いたわけでもないし。

「彼の言う通り、別に気にしなくていいよ。一年も経てばこっちも気持ちの整理がついてるし。まあ、当時はけっこう取り乱しちゃって。受験も散々で浪人するはめになったんだけどね」

「……いやあ、そんなさっくり重い球投げつけられても」

 ははは、と軽い感じで笑う東雲に対して再起動した北条がうめくようにして返す。

「ま、私のことは気にしないでよ。三人はなんでたばこなんか手を出したの?」

「あ、ああ。実は……」

 西園寺が北条がたばこを持ち込んだいきさつを説明した。

「なるほどねえ。じゃあ、バイト紹介しようか? 不定期だけどけっこう割はいいと思うよ」

 二本目のたばこに火をつけた東雲さんからの思いがけない提案に北条が食いつく。

「マジ? どんな仕事?」

「一応モデルってことになるのかな? 有名雑誌とかに載るようなやつじゃないけど。従姉妹が撮影スタジオやっててね。スタジオの貸し出しだけじゃ儲からないから時々宣材の撮影とか引き受けてるんだ。この服も撮影に使ったのをそのまま貰ったやつ」

「へえ、そうするとシノもそこでモデルやってるのか。美人でスタイルもいいしね」

「身内だから急な依頼で使いやすいってだけだよ」

 東雲さんは表情も変えずに謙遜してみせるが、立ち振る舞いを見れば納得の人選ではある。この季節でも長袖なのは日焼け対策ってことか。

「いや、別にそんなつもりはないんだよね。夏服を出したり選んだりがめんどくさくて着てるだけだから。私、汗とかかかないタイプだし」

 違うのかよ。

「まあ気にした方がよくはあるけど、最近は加工でなんとでもなるしねえ」

 それでいいのか……。

「少なくともクレームは来てないらしいし、大丈夫じゃないかな」

 じゃあ……いいか。けど、北条にモデルなんてできるのだろうか。顔はともかく体形が常人離れしすぎてて使いどころが難しい気もするが。

「体形の話は余計だっての!」

「大丈夫大丈夫。普通のファッションモデルみたいなのはちょっと難しいかもだけど、うちは何でもやるから需要はあるよ。夏希レベルじゃないけど胸の大きな人も仕事してたし。……ちょうどその人の写真も。ほら」

 そう言って東雲さんはかばんを漁り、取り出したDVDケースを僕に手渡してきた。

 受け取ったDVDケースの表面を何気なく見てみると、大きな胸の女性のバストアップ写真が移っていた。

 裸の。

 ……ていうかこれAVじゃねーか!

 咄嗟に渡されたAVを隠しつつ周囲を確認するが、僕らが端っこにいて且つ僕自身が壁になっていたので周囲に見とがめられることはなかった。よかった。こんな公共の場でAV持ってるのを見られたらどうなるかわかったもんじゃない。

「お、この前デビューした娘のやつじゃないか。ちょっと気になっててレンタルショップで借りようか悩んでたやつだ」

 西園寺が謎の食いつきを見せるが、北条の顔は引きつっている。

「いやあ、あたし、初めては普通に終えたいなって……」

「違う違う。AVとかはやってないよ。これは従姉妹の会社を辞めた後に本人からもらったやつ。こっちに専念するっていうからこの人がやってた仕事をやる人がいなくて。ああ、そのAVは君にあげるよ。私も両親がいる家で見るわけにはいかないから。それに、ちゃんと使ってくれる人のところにあった方がこのAVもうかばれるだろうし、本人のサイン付きだから価値も高いよ」

 使わない。

 というか、女からもらったAVなんてどう処理しろというのだ。

 僕はセクハラじみた発言と共にとんでもないものをプレゼントしてくれた東雲のことを睨みつけるが、本人は何も悪いことはしていないと言わんばかりに平然とたばこを吹かしている。もしかしたら本当に悪気のない行動なのかもしれない。

 ちょっとした出来心で飲み会の誘いを受けてからというもの、ろくなやつに出会わない。いや、僕が知らないだけで大学という場所にはこういうやつしかいないのだろうか。

「まあまあ、せっかくもらったんだから見ないのは勿体ないだろう? 使う気がないならせめて皆で酒を飲みながら鑑賞しようじゃないか」

 それは西園寺が見たいだけだろうが。しょうがない。酒の肴にしたらサークルの誰かに売りつけるとしよう。サイン付きなら定価以上で売れるはずだ。たぶん。

「とりあえず、従姉妹には話を通しておくから予定が決まったら連絡するよ。時間についてはある程度調整効くと思うから」



 東雲から提案を受けた翌日には連絡が入り、週末そのスタジオにお邪魔することになった。

 撮影には北条だけでなく西園寺も誘われ、ついでに僕もアシスタントという名の雑用として雇ってもらえることになった。

 もともと今回のバイトは北条たちが対象で話が進んでいたので僕はほぼ他人事な気分で話を聞いていて、もちろんついていく気もなかったのだが、ちゃんと給料が入るバイトということであればありがたく参加させていただくことにする。家計がかつかつの貧乏学生には願ってもない話である。

 週末の朝、三人揃って僕の家からバイト先のスタジオに向けて出発した。

 前日の夕方に、収入の前祝いと称して北条を引き連れた西園寺がおしかけてきて酒盛りをはじめた挙げ句、家主である僕を酔い潰してなし崩しで泊まり込みやがった結果である。西園寺にはそのうち復讐せねばなるまい。

 大学最寄り駅から電車に乗り、数駅離れたこの辺で最も栄えている某駅に降り立つ。

 駅ビルが建ち並び、人通りが煩わしい駅前から大通りをまっすぐ進み、目印として聞いていたコンビニの手前で折れる。しばらく進んだ先、目的地の目の前に東雲が立っていた。

「やあ」

 今日は日差しが強く外にいるだけで軽く汗をかくぐらいなのだが、片手をあげて僕たちを迎え入れた東雲は相変わらず長袖パンツルックなのに涼しげだ。

「このビルが丸々撮影スタジオ兼事務所なんだ。中で社長が待ってるから」

「はえ~、ビル丸々ってすごいわね。その社長さんが例の従姉妹さん?」

「そうそう。ちょっと無理して借りたせいでやり繰りが大変らしいんだけどね」

 東雲に先導されて入ったビルの一階が受付兼オフィスらしい。手前はショップの受付のようなスペースとテーブルやソファーが置いてあり、受付の奥にはデスクが並んでいて私服の女性たちが何人も動き回っている。

 一番奥のデスクに座ってパソコンを叩いていた女性が僕たちに気がついて席を立ち、こちらに近づいてくる。

「どーもどーも。私が冬実の従姉妹で、このスタジオ・コスパーティー社長の卯月三代です。今日はよろしくねえ」

 女性の年齢判別をするのは失礼だが、ぱっと見は二十代半ば程度で社長というには若い人だった。スーツ姿ではないが、パンツルックに化粧をばっちり決めていて、美人キャリアウーマンという言葉がぴったりな人である。

「よろしくお願いします。そんな名前を付けていらっしゃるということは、コスプレ専門のスタジオなんですか?」

 西園寺の質問に卯月さんは苦笑しながら答える。

「私も今いる社員も元々レイヤーとかカメコだし、そうしたかったんだけどねえ。立地とか福利厚生とかこだわりすぎてそうも言ってられなくなっちゃったのよ。勢いだけじゃやっぱり駄目ねえ」

 それでも会社を続けていられるのは立派だと思うが、学生でしかない僕たちにはわからない苦労があるのかもしれない。

「けど、冬実の言う通りやばいぐらいの逸材で嬉しいわあ。北条さんも西園寺さんも、色々着せたくなってくるわね。肉体労働担当も付いてきて今日は何でもできそう!」

 い、いや、あの。仕事なら指示されたことはやるつもりですし、たいていのことで文句を言うつもりもないのですが、言い方が不穏すぎませんか……?

「ごめんごめん。そんな極端な力仕事とかはないから安心してちょうだい。ただ、うちは男性社員がいないから男手があるのとないのとじゃできることも変わってくるし」

 ああ、そういう……。

「女ばかりの仲間内で始めたせいで今更入れづらいところがあるのよねえ。入ってくる方も内輪で固まった異性ばかりじゃ気まずいだろうし。普段はそれでなんとかなるんだけど、撮影の時に単発で入ってくれるなら助かっちゃうわあ」

 なるほど。それなら僕も都合がいい。適度な感じに仕事を入れてくれれば日雇いの仕事を選り好みして入らなくて済むというものだ。

「お互いウィンウィンというわけね。冬実の紹介なら人柄は保証済みみたいなものだし、能力次第では正社員採用もしちゃうわよ」

 それはノーセンキューでお願いしたい。フルタイムでその環境に居続ける自信は僕にはない。

「そうかな? 君なら空気とか読まずに平然と仕事できそうだとボクは思うけど」

 人のことをなんだと思ってやがる。ただでさえ大学でも孤立しかけてるのに社会に出てからも進んで孤立しやすい環境に身を置いてたまるか。

「私もいけると思うけどな。春香と夏希とはよく一緒にいるんでしょ? こういう環境はまったく問題なさそうだけど。君、才能あるよ」

 どんな才能だ。そんなものはいらないし、こいつらと連み始めたのもつい最近のことである。

「まあまあ、まだこれから働き始めるところなんだし、お互いゆっくり相手のことを知っていけばいいじゃない」

 なんで北条がまとめてるんだ。お見合いおばさんみたいなことを言うんじゃない。

 襲いかかってきた北条をなんとか撃退しつつ、さっそく仕事にとりかかる。

 本日の撮影は、とあるアパレルブランドから依頼された秋物の宣材撮影らしい。胸の大きな女性向けのブランドということで、北条にはうってつけの内容だ。目立つ北条に隠れがちだが、十分条件の範疇にいる西園寺も衣装を身に纏い、カメラの前でポーズを決めている。

 しっかりとメイクを施された西園寺と北条は、昨夜の惨状とは別人のようだった。

「良いわ良いわあ。ふたりともやっぱり絵になるわね! 西園寺さん、次は後ろを向いて振り返るように。そう! 完璧!」

 直々にカメラを構えた卯月社長はハイテンションでふたりのことを褒めちぎりながらシャッターを切っている。専門の人間は用意できないためメイクもカメラマンもすべて社員でまかなっているらしい。趣味が高じて作られた会社だけに器用なものである。

 僕はといえば、東雲と一緒に衣装ケース等の荷物を動かしたり、レフ板を掲げたりと文字通り雑務に専念している。社長に指示されるがまま、彼女の手足となって動いているが、難しいことをしているわけでもないので楽な仕事である。

 待ち時間で衣装を替えながら、交代でカメラの前に立つ西園寺と北条は、社長の褒め言葉に乗せられて満面の笑みをカメラに向けている。

「こういった撮影の時、モデルの表情を引き出すのがカメラマンの腕の見せ所だって言われるけど、三代さんは昔からその辺すごく上手いんだよね」

 一緒に裏方をこなしていた東雲の言葉にうなずく。こういう人が上にいるから会社がまとまっているんだなと感心して見ていたのだが、次第に雲行きが怪しくなっていく。

「よし、これでノルマは終わりね。……もし二人がよければ、他の撮影も入っていかない? お給金も弾むわよお?」

 ノリにノせられているふたりは即座に了承した。次の撮影はコスプレ衣装のサンプル写真だという。

 スタジオでレンタルしているコスプレ衣装は、服飾担当の社員が新しいアニメや流行りの漫画が出る度に作るため、延々と増えていくらしい。

 最初のうちは東雲も入って三人で衣装を消化していったのだが、だんだんと北条の撮影割合が増えていった。元々AV女優になった巨乳モデルの代役という名目だったので、その人の担当分が溜まっていたのだろう。

 卯月社長と、いつの間にか外野に回っていた西園寺に褒めちぎられて機嫌のよい北条は気にもとめずに撮影を続けているが、次第に衣装が制服系やアイドル風のしっかり着込むものから、スリットの入ったチャイナ服みたいなものやミニスカートなど露出が多いものになっていく。

 調子に乗った西園寺が胸を寄せさせたり際どい角度にカメラを構えさせたりやりたい放題だが、北条自身を含め誰も止める者がいないのである。

 気がついたときには激しく動いただけで色々とこぼれてしまいそうなぎりぎりの衣装で撮影している有様だった。

 正直、本人の私服の露出度が高いものだから全然違和感がなかった……。

「あれが三代さんのいつもの手なんだ。モデルを上手におだてて機嫌良く仕事をさせつつ、徐々に過激な衣装にシフトさせていくんだよ。三代さんが男だったらと思うと身内ながら恐ろしいよ」

 自分の番を終えて戻ってきた東雲が畏怖の念を込めつつ説明してくれるが、ろくでもない話である。というか、企業の使う宣材とかサンプルであんな過激な衣装が必要なのだろうか。

「もちろん使わないよ。あれはあくまでプライベート用だからね」

 既に業務ですらないじゃねえか。まあ、給料が出るなら僕は文句ないけれど。北条だって、普段から露出過多なのだ。あの程度は許容範囲内だろう。たぶん。

「北条さん、最高だったわあ! 今日は過去一の出来映えよ! ……それでなんだけど、北条さんにしかできない、特別な撮影があるの」

「いや~、ありがとうございます! あたしにできることならやりますよ!」

 おだてられて上機嫌で木に登っているホルスタイン(北条が牛柄のビキニを着ているからで他意はない)は特に考えることもなく即答する。

「ほんとお? ありがと~! それじゃ、これを着てほしいんだけど……」

 卯月社長が取り出したのは、どうみても下着だった。

「えっ……。いやあ、それはちょっと……」

 ここまで順調にノせられてきた北条も、流石に躊躇した様子を見せる。今着てるビキニの方が余程過激だし、元々下着売買にまで手を出そうとしていたのだから今更だと思うのだが。

「お願いよお。前の娘が辞めちゃってから条件に合う娘がいなくて……。北条さんだけが頼りなの」

「ええ~、だけどなあ」

「お願い! 今ならこれだけお給料出すし、撮影に使った下着もプレゼントしちゃう!」

「やります!」

 卯月社長がどこからともなく取り出した電卓を叩いて北条に見せると、目の色を変えて即答した。

 一応止めておいてやるけどいいのか? 顔出しで下着姿をさらすことになるのだが。

「全然オッケーよ! これで薄い財布の中からお金を出してブラのサイズを更新する作業から解放されるわ……」

 ああ、そっちなんだ……。

 卯月社長のことを菩薩か何かのように拝み、歓喜のあまり涙を流さんばかりの北条だが、その菩薩の表情はすべて計画通りと言わんばかりに邪悪だ。

 さて、本人がその気であるなら僕からはもうなにも言うまい。せめてもの礼儀としてこの撮影はパスしてスタジオの外で待機することにしよう。

「アシスタントォ! ぼさっとしてないでさっさと準備してよね!」

 え、いや、流石に僕は遠慮すべきだと思うんだが、北条お前いいのかよ。

「モデルを待たせて気でも変わったらどうするんだ! きりきり動きたまえよ!」

 なんで西園寺はそっち側なんだよ……。お前下着売りの時は止めてたじゃないか。

「あれは企業が入ってるとはいえ個人売買だし、方向性に問題があったからさ。友人として止めるのは当然だったけど、これはあくまで仕事としての撮影だし、身元のしっかりした企業相手だろう? 止める必要はないね。それにこんなえっ……、もとい珍しい撮影をかぶりつきで見られる機会なんて滅多にないじゃないか」

 友情と私欲の不等式が成立する様をまざまざと見せつけられた気分だ。流石に欲望漏れすぎじゃないだろうか……。

 ええい、やればいいんだろう。後で冷静になった北条からクレームが入ってもすべて会社に責任を押しつけてやる。

「いやあ面白いことになったね。みんなを紹介した甲斐があったよ」

 東雲もなに他人事みたいにしてやがる。お前もアシスタントに入るんだよ。こうなればお前も一蓮托生だ。

「もちろん手伝う。こんな面白おかしい現場、参加しないと損だよ」



 ふう……、まずっ。

 その日の夜、僕は自宅のベランダでたばこをふかしていた。受け取ってしまった手前、なにがなんでも箱の中身を吸いきらなければならないという義務感で消化しているが、まだ美味しく吸える日は遠いらしい。

 結局その日は夕方近くまで撮影が続いた。僕も初回サービスということで雑用にしては割の良い額のバイト代をいただいたし、モデルとなったふたりはけっこうな額を受け取ったようだ。特に北条は帰りの道すがら厚みがわかるぐらいの封筒を眺めて終始にやにやしていた。

 撮影後にはちょっと正気に返って頭を抱えていたが、諭吉の魔力には勝てなかったようである。

 中身がいつまで持つのかは見ものだが。

 そして、帰りがけに西園寺の提案で飲みに行くことになり、東雲も誘って四人で居酒屋にくり出して本日の労をねぎらった。

 大学近くの駅まで戻ってきた時点で察しは付いていたが、二次会は当然のように我が家である。今は西園寺と北条が男性器に左曲がりが多いと言われるのはなぜかという議論を白熱させており、なんとなく身の危険を感じたため待避しているところだ。

 手持ち無沙汰な時間を潰すためにたばこを吹かしながら渋い顔で月を眺めていると、背後でガラス戸が開くと共に東雲の声がした。

「やあ、お風呂ありがとう。……おお、ベランダが広いね。ビーチチェアまで置いてあって贅沢だ。これ使ってもいい?」

 今は誰も使っていないのだ。別にかまわない。

「それじゃお言葉に甘えて」

 振り向きもせず了承すると、ぎしりとチェアが軋み、すぐさまたばこに火をつける音が続いた。

「……ふう。最上階の角部屋で、風呂トイレ別でもすごいのに、けっこう高いんじゃないの? ここ」

 最上階と言ってもここは二階建てである。まあ確かに本来はとても手が出るような物件ではない。なんならこの部屋と隣に限っては防音仕様であるため、新卒社会人でも住むことはできまい。

「うわあ、やっぱりそんなにするんだ……。こんな部屋に住めるってことは、君がお金持ちなのか、それともとんでもない事故物件なのか……」

 残念ながらどちらでもない。ちょっとした伝手があって、大家の婆ちゃんの小間使いになることを条件に格安で入居させてもらえたのだ。このベランダの正面に見える庭付き一戸建てに住んでいるものだから、しょっちゅう召集されるのが欠点だが、快適な生活を送れるのであればまあ安い代償だろう。

「へえ、そんな漫画みたいな展開あるんだね」

 あるのだ、それが。この世界は物語らしいから、そういうこともあるだろう。

「ああ、飲み会の時の……。この物語に登場する大学生は皆成人しているからお酒もたばこもエッチなシーンも問題なし、だっけ? さあ乾杯って時に急に春香の口上が始まるからどうしたのかと思ったよ」

 西園寺曰く、大学生が大学生らしくいるための魔法の言葉なんだと。言葉の出所を考えるといかがなものかと思うが、まあ今の僕たちに刺さるものがあることは否定できない。

「ああ、確かに。大学生って中途半端だからね。講義は自由に決められたりして、高校までより自分のやりたいことができるようになったのに、扱いは子供だし。学費とか出してもらってるせいかな」

 中には奨学金とか使って自分で支払っているやつもいるのだろうけれど。だが、親の力に一切頼らず完全に自立している大学生がどれだけいるのかはわからない。

 新入生歓迎会とかで居酒屋に行って酒を飲んだりするのは大人感あるんだけどな。ほんの何ヶ月か前まで高校に通っていたというのに。

「今は断ればいい話だけど、昔はけっこう勧められたりしたっていうしね」

 そうそう。

 ……この話題は僕たちに都合が悪い気がするからあまり深掘りするのは止めておこう、うん。

 とにかく、創作の世界でならご都合主義な展開も、年齢設定のガバもなんでも有りということだ。東雲にだってそういうところはあるだろう。弟の形見のジッポでたばこを吸う大学生なんてそうそういない。実に物語的だ。

「ああ、それね。……前に話したときは言わなかったんだけど、このジッポは元々父さんの物だし、弟にたばこを勧めたのもそもそも父さんなんだよね」

 ……はあ?

 とんでもねえ話が出てきて、思わず振り返る。チェアに寝そべって涼みながらたばこを吹かす東雲は苦笑しながら続ける。

「遺品整理の時にたばことジッポは隠してたんだけど、整理が終わる頃急に父さんがジッポがない!って騒ぎ出してさ。訳を聞いたらこっそり自分のジッポライターをプレゼントしてたことを告白し始めてね。父さんは酒は弱くて飲めないんだけどヘビースモーカーでさ。成人した子供と一緒にお酒を飲んで感慨に浸るみたいなことできないのが不満だったらしくて、せめて一緒にたばこを吸いたいって思ってたらしいんだよ」

 ……いや、弟さんが亡くなったのは東雲が大学受験の時という話だ。その弟が成人しているはずがない。そんな相手にライターはともかくたばこを渡したと?

「弟は私の一個下だったよ。まあ、父さんも流石にそこまではしなかったみたい。誕生日プレゼント代わりに自分のお古のジッポだけ渡して、大人になったらこれでたばこを吸えって言ってたんだって」

 ははあ。東雲のお父様の言い分が正しいのであれば、たばこ自体は弟が購入したと。まあそんな話までされて本人に興味があったのなら、成人まで耐えられなかったのだろう。

「そういうことだと思う。……実際はわからないけど、たぶん弟は本当に吸ってはいなかったと思うんだよね。灰皿みたいな物は見つからなかったし、こっそり吸ってればなんだかんだバレてたと思う。けど、その話を聞いた母さんに当然ぶち切れられて、あやうく家庭崩壊するところだったよ」

 それは残念ながら当然なんだよなあ。家族が亡くなったうえ一家離散なんて洒落にならない。

「本当にね。で、偶然ジッポを見つけたふりして出してみせて、形見分けってことで私がもらい受けたんだ。……その時は隠したけど、たばこも出してたら本当に離婚してたかも」

 それが正解だろう。わざわざ話をややこしくする必要はないのだ。

「ね。まあそういうわけで、結局私も興味を抑えられなくて吸い始めたってわけ。そんな大したことない理由でしょ?」

 いやまあ、大したことないことはないと思うが……。一気に話が緩くなったなあ。湿っぽいだけの話よりは余程マシか。

 ……で、話に流されて聞きそびれたのだが。

「ん? なに?」

 なんでパンイチなんだよお前は。

 話に引っ張り込まれてつい突っ込むタイミングを逃していたことを改めて問う。チェアに寝そべりたばこを吹かしている東雲は、パンツ一枚しか身に纏っていなかった。肩にかけたバスタオルで胸を器用に隠しているが、色々とこぼれてしまいそうで気が気でない。

 正面が大家さんの敷地であるため覗かれる心配はないとは思うが、絶対というわけではないのだ。

 余所から見咎められて痴女が出るとか噂されたらたまらない。

「いや、これには深いわけがあるんだ」

 東雲はたばこの灰を手元の灰皿に落としながら動じることもなく言った。

 お前が他人の家のベランダで露出行為をすることにどういった理由があると?

「私があまり汗をかかないってことは話したと思うけど、逆に言うと汗をかけないせいで熱の放出が上手くできなくてね。お酒を飲んだりお風呂に入ったりしたらどうしても身体が熱を溜め込んじゃうんだ。だから、できるだけ露出面積を増やして、涼しい場所で身体を冷やしてるってわけ」

 ……なるほど、理由がないわけじゃないことはわかった。

 しかし、それならクーラーの効いた部屋で扇風機の前にでも居座ればいいじゃないか。わざわざ外にいる必要はない。

「だって、部屋の中だとたばこが吸えないから」

 それぐらい服を着てからにしろ!

「まあまあ。けど、そういう意味じゃこの部屋は理想的なんだよ。ベランダは広くて寝転がりながらゆっくりたばこが吸えるし、実家じゃこんなことできないからね。春香が都合が良い部屋って太鼓判を押すわけだよ。夏希もこれで終バス後もパチンコが打てる! って喜んでた」

 あいつら、僕の部屋をそんな風に言ってたのか……。ちょっと甘い目で見ていたが、容赦すべきではなかったのかもしれない。僕が今後の対応について検討していると、東雲ははにかんだような笑みを浮かべて続ける。

「……喫煙者って大学にもあまりいないし、友達からもこれに関してはちょっと敬遠されてる感じだったから、みんなが気にせず連んでくれるのがありがたいんだよね。不謹慎だけど今日の仕事も久しぶりに友達とはしゃげて嬉しかったんだ」

 や、やめろ。急に家から追い出し辛くなるようなことを語り始めるんじゃない……。

 ……わかった、わかりました。あんまり外聞が悪いことをしていると僕が部屋を追い出されるからマジで気をつけてくれよ。

「ありがとう。大丈夫だよ。真っ昼間からこんなことはそうそうしないって」

 僕の言葉を聞いた東雲は先ほどまでの影のある表情が嘘のように消え去りにこりと微笑む。

 ……他人の感情の機微に疎い僕には演技なのか素なのかはまったくわからなかった。犯罪すれすれの露出癖といい、この女が三人の中で一番ヤバいやつかもしれない。

「さて、ニコチンも補給したし、部屋に戻ろうか。春香がAV鑑賞会をするってお待ちかねだよ」

 そう言って部屋に戻っていく東雲。……僕のたばこはとっくに吸い終えていたが、何だかもう一本吸いたくなってきた。

 もう一本たばこを取り出し火をつけようとしたが、待ちかねた西園寺が顔を出してきて部屋の中に引っ張り込まれる。

 僕はテレビ正面のソファーに配置され、純粋な子供のようにきらきらと目を輝かせている西園寺が隣に。DVDのパッケージをガン見している北条とシャツを羽織ったおかげで多少はましな格好になった東雲がソファー前に置いたミニテーブルの左右でクッションに座る。

 準備は万端だったらしく、すぐに映像が始まった。

 せめて酒でも飲まないとやってられない。

 酒に関して嗅覚の鋭い西園寺が僕の様子を敏感に感じ取ったのか、すすすっと身体を寄せてきて、僕に杯を握らせると酒をなみなみ注いでくる。

 なんだか口惜しくて西園寺の杯にもぎりぎりまで酒を注いでやったが、西園寺を大喜びさせるだけだった。

 ヤケクソになった僕は、上手いこと酔い潰れられることを願いながらぐいっと杯を呷った。

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