第四幕 バディ爆誕!

 白くて甘い、曖昧な夢を見る。

 夢とわかっていて、夢を見る。


 今は夢の中だから、知らない言葉も流れてくる。


 ここははこにわ。じょおうはひとり。やがて、たみはしる。

 せんねんのあんそくがつづいたこうふくと、こううんを。


 目の前には、美しい誰かが立っている。人か獣人か悪魔か吸血鬼か天使か、どれかはわからない。どれも、違う気がする。この誰かは神聖で、現世を生きる者ではないのだ。


 だが、もしかして、それは。

 絶対的な孤独ではないのか。


 しかし、そう思うことすらもまちがいなのかもしれない。目の前の存在はそれだけ五種族からかけ離れていた。あまりに特異な生き物は、孤独など感じもしないのかもしれない。


 不思議で、きれいな、『彼女』は問いかける。


 ────ねえ、あなたはなにを願うの?

 ────ねえ、あなたはなにを望むの?


 望みはある。

 願いはある。


 夢がある。

 けれども、


「なんで、アンタにそれを教えてやらなくちゃならないのよ」


 自分の声でエルは目を覚ました。

 なにか、嫌な夢を見た気がする。

 具体的には悪いことなどなかったというのに──だからこそ不吉で、奇妙な夢。

 だが、その内容の詳細を、エルは覚えていなかった。ただ、『見たくなかったのに』という強烈な後悔にも似た、独特の不快感だけが残っている。

「…………ッ」

 頭痛を堪えながら、エルは首を横に振った。

 思いだせない以上、悪夢のことなど早急に忘れるにかぎる。囚われるだけ、時間の無駄だ。そう割りきって、天使警察の宿舎のふかふかのベッドで、エルは体を伸ばそうとした。

 だが、できなかった。

 誰かが、エルに抱きついていたためだ。

「はあっ?」

「むにゃむにゃ」

 嘘だろうと言いたくなるほどの、見事な寝言が返る。

 ギギッと、エルは首を動かした。まさかのまさかと思ったら、そのまさかだった。

 間近で、うす紫色の髪の悪魔が寝ている。

 白く、たおやかな腕は、しっかりとエルの体に回されていた。直に、鼓動が聞こえる。きわどい服装のせいで、すべすべしたお腹や太ももが否応なく触れてくるのが心地いい。

 違う、そうではなくて。

 この状況は、なんだ?

 やがてエルは理解する。


 イヴが、彼女を抱き枕にして寝ているのだ。

「はあああああああああああああああああ!?」


 エルはどでかい疑問の声をあげた。

 バサバサと、屋根から鳩が飛んだ。


   ***


「うーん、まだ早いですよぉ」

「『まだ早いですよぉ』じゃなーいっ!」

「それじゃあ、遅いですかぁ?」

「いや、早いけど……じゃなくって、なんで、アンタがアタシのベッドにいるわけ!?」

「だって、寝る場所がなくってですね……」

「監獄か、獣人用の宿舎に行きなさいよ!」

 毛を逆だてる猫のごとく、エルはふしゃーっと叫んだ。悪魔と一緒に眠るなど天使としては言語道断だ。絶対にお断りである。だが、目をこすりながら、イヴは眠そうに応えた。

「だって、どこに向かえばいいのかわかりませんでした」

 うっと、エルは言葉に詰まった。

 そう言えば、イヴをこの部屋まで連れてきたのは他でもない、彼女だった。天使警察本部内の構造など、イヴにはわからなくて当然だ。そうでなくとも廊下には夜勤の天使が──おしゃべりをしながらではあるが──巡回しているのだから、イヴにはエルの部屋から脱出などできなかっただろう。だから、しかたなくベッドに潜りこんだものと思われた。

 だが、

「だったら、ソファーか、床で寝なさいよ!」

「床もソファーも寝るところじゃありません」

 エルの文句に、イヴはむうっと応える。それは『そこで眠るのが不満だ』というよりも、『行儀が悪いのでよくない』という口調だった。スラム街に棲んでいたくせに、なんでこういうところは変にこだわりが強いのか。思わず、エルは天井を仰ぐ。


(落ち着け、アタシ。えーっと昨日はどうしたんだっけ?)

 百合形の照明を眺めながら、彼女は昨夜の記憶を漁った。


   ***


「な、なんでですか? なんで私が悪魔なんかと?」

「これは決定事項だ。逆らうのならば、降格もありうる」

「そ、そんな……」

 シャレーナは聞く耳をもってはくれなかった。

 抗議も拒否。それでいて納得できるだけの詳細な理由説明もないとくる。

 頭を殴られるような勢いで、エルは思い知った。確かに、この署長は天使らしい天使だ。自分の決断を疑わない生き物だった。横暴にもほどがある。その理不尽な命令に、エルは屈したくなかった。だが、上には逆らえないのが、組織に属する者の悲しい定めでもある。

 最終的に、エルは敗北の言葉を絞りだした。

「了解、しました」

「うむ、それでいい。『逃げ羽根のイヴ』を逃がさず、利用することだ」

「……失礼します」

 頭を下げてから、彼女は踵を返した。署長室をでて、しっかりと扉を閉める。続けて、周りにイヴ以外は誰もいないことを確かめた。やわらかな白の髪を揺らして、エルはふらりと壁に手をつく。そのまま、衝撃と悲しみの強さにぷるぷると打ち震えた。

 なにごとかと、驚いたらしい。慌てて、イヴは彼女に問いかけてきた。

「あの……エルさん、大丈夫ですか?」

「アンタは?」

「はい?」

「アンタは嫌じゃないの?」

「嫌です!」

 思わぬ、きっぱりとした返事があった。

 自分でも予想外なことに、エルはさらなる衝撃を受けた。このなにごとにも怯えきっていて、お人好しの悪魔が勢いよく言いきるとはどういうことか。そこまで嫌われているとは、流石に腑に落ちない。だが、イヴはそういえばそうだったという訴えを続けた。

「騙されて、いきなり牢屋にぶちこまれて、手錠をかけられたのに、そのうえバディを組めだなんて無茶苦茶すぎるでしょう!?」

「そうだ。アタシがぶちこんではめたんだった、手錠はとる。でも逃げないように……って、あれ? そう言えば、元からはめられてる左手首の手錠ってなに? アタシはつけた覚えがないけど?」

「前に捕まったときにはめられてそのままですー」

「あー、こっちは鍵が特別製だ。うーん、とりあえず、そのままつけておくしかない、か」

 カチリと、エルは新たにはめたほうの手錠の鍵を回した。銀の輪の拘束を解かれ、イヴは細い手首をさする。そのたびに、残された左手首の手錠がちゃらちゃらと音をたてた。

 ふうっとエルは息を吐いた。これから先の指示は受けていない。もうどうでもよかった。

 受けたショックはそのままに、彼女はふらふらと歩きだす。

 すぐにか細い声が追いかけてきた。恐る恐るといった調子で、イヴはエルにたずねる。

「あの、エルさん、私は……その、バディは嫌ですけど! でも、その、教えていただかないとわかんないです……これから、どうしたらいいんでしょう?」

「組むのは嫌だって言うのなら、必要以上に頼らないで。選択肢はあるから。確かに消えられても困るけど、どうせ玄関の鍵はもう閉じられてるころだし、牢にでももどんなさい」

 しっしっと、エルは手を振った。子犬のごとく、イヴは目をうるませる。

 それでも、彼女はついてきた。他の天使に怯えた顔を向けながら、イヴは静かに後に続く。どうやら天使警察本部が、悪魔にとって危険な場所であることはわかっているらしい。

 あるいは、狭苦しい牢屋にだけはもどりたくないのか。

 ふたたび、イヴを鉄格子の向こうへぶちこもうと思えば、できた。だが、エルはそうはしなかった。あそこの固い床で孤独に寝るのは、確かに哀れと言えば哀れだ。イヴがついてきたいのならば好きにすればいい。それよりも、昨日から本当に散々だ。これほどまでの不幸が、重なってたまるものかと思う。夕飯もまだだが、エルは骨の髄まで疲れ果てた。

「アタシは帰るから」

 改めてそれだけを告げると、エルは宿舎に向かった。すでに、眠った者が多いのだろう。閉じられた扉を横目に、冷たい静寂で満たされた廊下を進む。部屋にこもった全員が穏やかな夢の中にいるのだと思うと、うらやましかった。

 そして、彼女は一番奥にある、自分の個室を開いた。

 中には造りつけのクローゼットと黒い革張りのソファー、クリーム色のカーペットと百合形の照明、大きな窓が配置してあった。他の天使警察の部屋のように、色とりどりのリボンや大量のクッション、ぬいぐるみなどの無駄な飾りつけは、彼女はほどこしていない。

 革靴を脱いで、ボスッとエルはベッドに飛びこんだ。もう、ネグリジェに着替えるのも面倒だ。これだけは厳選に厳選を重ねた上質な羽根布団の中に潜って、彼女は目を閉じる。

 そうして、意識が落ちる寸前のことだ。

 イヴの困りきった声が聞こえた。

「あのー、私はどこで……」

「ソファーで、寝なさいよ」


 速やかに、エルは眠りに落ちた。

 そうして、甘い悪夢を見たのだ。


   ***


「って、ソファーで寝なさいってちゃんと言ったじゃない!」

「ベッド以外のところで寝るのは、お行儀が悪いですから!」

「友人の家に行って、ソファーで寝るくらいなら普通あるんじゃないの!?」

「その言い方は、エルさんにも経験がありませんね!」

「うっ……た、確かにそうだけど」

「それに、エルさんはよく知らない人じゃないですか!」

 そう、イヴは頬をふくらませた。

 流石に、エルはムッとした。確かに、互いのことをよく知らないのは事実だ。真剣に戦い、共に危機から逃げはした。だが、それだけだ。だからといって、ベッドに潜りこまれるいわれなどない。唇を尖らせて、エルは問いかけた。

「あー、そう。でも知らない他人にくっついて、安眠を妨害するのはどうなわけ?」

「抱き枕にしてしまったのは悪かったです」

「素直に謝るじゃない?」

「でも、エルさんはよく寝てました!」

「悪夢は見たっての!」

「私のせいじゃありません!」

 ああでもない、こうでもないと、ふたりは言いあう。腕を組み、エルはイヴの頭からつま先までを眺めた。そのすべすべした肌の感触を思いだす。正直、結構気持ちがよかった。けれども、そんな格好で他人に抱きつくのはどうなのか。注意もこめてエルは文句を言う。

「それにそんなきわどい服装をしたやつに、抱きつかれたくなんてないんだけど!」

「エルさんだって、お腹でてるじゃないですか!」

「っ、そりゃ、天使は軽装を好むけど……アンタほどに危ない格好はしてないから!」

「失礼です! これは悪魔の正装ですよ! 悪魔はこういう服を着るものだって、あなたはなるべく悪魔らしくしなさいって、お母さんに言われました!」

「えっ、なにそれ?」

「えっ?」

 イヴは目を見開いた。エルは首をかしげる。ベッドに腰かけたまま、彼女は足を組んだ。ここはいじめないほうがいいだろう。嫌がらせのつもりは一切なく、エルは事実を告げた。

「あー、やっぱり、悪魔らしさを過剰に意識してたってわけか……でも、アンタのきわどい格好、悪魔としてもおかしいんだけど?」

「えええっ!」

 ピシッと、イヴは固まった。まるで、石の彫像と化したかのようだ。

 精神と認識に対して、彼女は強烈な打撃を受けたものらしい。みるみるうちに、うす紫色の目に涙がたまっていく。まるで、その様は紫水晶が濡れていくかのようだ。だが、神秘的な美しさを自ら裏切るかのごとく、イヴはへにゃっと情けなく顔を歪めた。

「どこがおかしいんですかぁ?」

「えっ、えっと、ね。確かに、貴族階級の悪魔は畏怖と退廃の象徴として、きわどいドレスを選ぶ輩も多いけど……アンタみたいな流れ者じゃ、逆に浮くだけ」

「お母さんは嘘はつきませんもん!」

「アタシだって嘘はつかないけど?」

 エルは言いきる。真実を見極めようとするかのようにイヴはキッとエルをにらんだ。やがて結論がでたらしい。エルの言葉は本当だとわかったのか、彼女は情けなく泣きだした。

「うっ……うっ、うっ、ひっく、ひっく」

「うっとうしく泣かない! はぁ、もぉ」

 がっくりと、エルはうなだれた。だが、こうしていてもはじまらない。お腹はぺこぺこだ。きっと、イヴのほうもそうだろう。朝食を食べれば、少しは元気もでるかもしれない。

 まだ泣き続けている姿に視線を投げかけて、エルは告げた。

「食事は、ちゃんと悪魔用のを食べさせてあげるから」

「えっ、本当ですか!? エルさんは魔王さまかなにかですか?」

「……人間で言うところの『聖母さま』と同じ意味で讃えてくれてるのはわかるけど……天使に魔王とはもの凄いムカつく喩えね」

「ああ、嬉しいです……やっと、ご飯が食べられる。実に四日ぶりです」

「アタシの話を聞きなさいって」

 イヴは応えない。両手を祈るように組みあわせて、彼女は目をキラキラさせている。

 それほどまでに、お腹が空いていたようだ。確かに、四日間の断食はきついだろう。だが、さっきまでの泣き顔はいったいどこへいったのか。

 のんきな様子を見て、エルは額を押さえた。

「……はぁ、今はいいけど。日が暮れたらでかけるから、そのつもりで」

「……出かけるって、どこへですか?」

 涙をぬぐって、イヴは問う。

 これからの苦労を思って、エルは首を横に振った。だが、上司に決められてしまったのだからしかたがない。エルは無駄な泣き言など吐かない主義だ。腕を組んで彼女は告げる。


「バディとしての初仕事に、よ」


   ***


 バディは嫌です!とイヴは訴えた。エルだって嫌なものは嫌だ。だが、署長に命じられた以上はしかたがない。牢の中にもどりたいならいいけどと告げると、イヴは大人しくなった。それでも、ぴぃぴぃと泣き続ける。三度目のため息をつきながら、エルは考えた。空腹の子にはやはり食事が効果的だろう。だが、イヴに天使たちと同席をさせるのは酷だ。

「ちょっと、ここで待ってなさい」

「うううっ、理不尽ばっかりです」

「寝てていいから、大人しくしてるように」

 弁当をとりに、エルは食堂へと向かった。

 両開きの扉を開くと、四方から囀るような笑い声がひびいた。あの子が。いい気味。聞こえるわよ。そんなささやきが耳を叩く。どうやら、天使と悪魔のバディ成立の噂は広まっているらしい。外見は涼やかに内心ではブチキレながら、エルは奥の厨房へ足を向けた。

「ちょっといいですか、料理長。相談が」

「ああ、シャレーナ署長から聞いてるよ」

 大変だねと、初老の天使はうなずいた。天使用と悪魔用──エルは紙袋入りの二種類のサンドウィッチを受けとる。持ち帰ろうと踵を返して、彼女は顔をあげた。あの四人組が食堂の入り口に群れている。くすくすと露骨に笑う姿を見て、エルはなるほどと納得した。

 話の伝達が早すぎたのは──上と繋がりがある──アイツらが原因らしい。

「信じられない」

「悪魔と天使よ」

「穢らわしいわね」

「恥で死にたくならないのかしら?」

 ありきたりな、悪口が耳を叩く。だが、蠅の羽音のようなものだ。

 相手にすることなく、エルは隣を通りすぎようとした。瞬間、サッと、リーダーが足を突きだした。転ばせることを狙ったのだろう。馬鹿馬鹿しくも実に子供じみた嫌がらせだ。

 それを見逃してやるほど、エルは寛容ではない。

「よっ、と」

 トンッと床を蹴り、彼女は相手の足を勢いをつけて踏んだ。悲鳴があがる。

 無視して思いっきり踏みにじってやったあと、エルは満面の笑みを向けた。

「無能よりは恥ずかしくないから」

「『光よ』!」

「エルさああああああん、おはようございまあああああす! あっ、皆さますみません、ご機嫌うるわしゅう、失礼します!」

 毎度のごとく、ルナが嵐のように現れた。風のような勢いで、彼女はエルを連れて駆けだす。半ばエルを抱えながら食堂を抜け、回廊を走りに走って、ルナは足を止めた。

 気がつけば、ふたりは中庭にでていた。

 近くでは、大輪の花をつけた木々がやわらかな風に揺れている。煉瓦で模様の描かれた通路のうえでは、係の手で撒かれたパンを白鳩がつついていた。和やかな光景を背に、ルナは逃走成功と胸を撫でおろす。次いで、エルへ笑顔を向けた。

「聞きましたよ、エルさん! よかったじゃないですか!」

「珍しい。アンタまでアタシをからかうとは」

「違います、違いますよ! 私は、単に心からよかったと思っているんです!」

 ルナは獣耳と手をパタパタと振った。意味がわからないと、エルは目を細める。昨夜から今までのどこに喜ぶ要素があるというのか。思い返しても理不尽な出来事しかなかった。

 だってですねと、ルナは説明を開始する。

「エルさんは凄くいい人なんですけど……そのよさがなかなか伝わっていないんですよ。特に、駄目な同僚には、エルさんは厳しいじゃないですか? だからこそ……お世辞にも、天使警察に馴染めているとは言えないですよね?」

「余計なお世話。こっちは毒を盛られたり、ガラス片を仕込まれたりもしてる。そんな豚や鴉みたいな、怠惰で卑怯な連中と友好を築こうなんて、時間の無駄」

「それでもですよ。私は定期的に心配になるんです。なにせ、私は獣人ですから、いつ追いだされたり、誰かの機嫌を本気で損ねて殺されたり……そういうことだって、もしかしなくても、あるかもしれないじゃないですか?」

「ッ、そんなことアタシが決してさせない!」

 制服の胸元に手を押し当て、エルは声をあげた。

 確かに、獣人の地位は低い。そうした不測の事態は、常に起こりえるものと言えた。

 だが、エルにはこのお人好しで親しい少女を、危険な目にあわせる気などなかった。理不尽に暴力を振るう輩がいるのならば倒すまで──だが、エルの本気の言葉に、ルナはただ困ったようにほほ笑んだ。そして、彼女は優しく続けた。

「だから、エルさんに新しい友達ができてよかったなぁって思うんです」

「友達じゃない!」

「だって、バディを組むんでしょ? せっかくだから仲良しになりましょうよ」

「天使と悪魔が仲良くできるわけがない!」

 鳩が飛ぶほどの声で、エルは断言した。それは自然で、絶対のことだ。

 天使は聖で、悪魔は邪だ。ふたつの存在は親しく交わることなどない。

 だが、ルナは首を横に振った。穏やかな表情で、彼女はささやく。

「私は、そうは思いません」

 青い空に白い羽根の散る中、ルナはほほ笑む。

 確信しているかのごとく獣人の少女は続けた。

「あなたは、厳しいけれども優しい。相手がいい子であれば、悪魔とも仲良くできる方だ」

「……もういい。行く。お腹空いてるから」

「あっ、そうですね。長々とすみませんでした」

 ぺたりと獣耳を倒し、ルナは頭をさげた。

 長い髪を揺らして、エルは彼女に背を向ける。振り向くことなく、ルナから遠ざかった。

 衝動のままに足を速めながらも、エルは考える。

 確かに、ルナにもしものことがあればエルにはなにが、誰が残るのだろう。もやもやと絡まる不安の中に、悪夢の残滓が浮かびあがってくる。ぱちんと、それは耳元で弾けた。


 ────ねえ、あなたはなにを願うの?

 ────ねえ、あなたはなにを望むの?


 夢はある。

 けれども。


「……それでも、天使と悪魔は」


 噛みしめるように、エルはつぶやく。大きく、彼女は首を横に振った。そうして、エルは自室に着いた。勢いよく扉を開ける。一瞬、サンドウィッチの紙袋を放り投げてやろうかと思った。だが、ルナの言葉が耳元をかすめた。一応エルはちゃんと帰還の挨拶をする。

「……ただいま」

「むにゃむにゃ」

 やはり、嘘だろうというような寝言が返った。

 見れば、イヴはのんきに二度寝をしている。気持ちよさそうに枕を抱きしめて、彼女はすぴすぴと寝息をたてていた。エルのお気に入りのベッドには豪快な量の涎が垂れている。

 確かに、寝ていてもいいと告げたのはエルである。

 だが、そこまで自由に爆睡しろとは言っていない。

 ふるふると、エルは震えた。そして、思いっきり叫んだ。

「やっぱり、仲良くなれるわけがなーい!」

「なっ、なんですか! 世界の終わりですか!?」

「いきなり終焉がくるか、この馬鹿!」

「むっ、馬鹿って言うほうが馬鹿なんです!」

「もっと、ありきたりじゃないことを言ったらどうなの?」

「え? えーっと、他者を馬鹿にする人は駄目な人だと思います!」

「一理あるけどムカつく!」


 どったんばったん、ふたりは騒ぐ。

 そうして、暗い夜がくるのだった。


   ***


 日が暮れるころ、天気は曇りはじめた。

 黒く染まった空にはうすく雲がかかる。

 月も星も、網のような灰色に広く覆われた。スラム街の夜には灯りというものがない。だからといって、投光機を使うのは目立ちすぎた。闇の中に隠れながら、エルとイヴは荒れた地に降り立つ。窓と窓の間を洗濯紐が渡されている通路にて、エルは背筋を伸ばした。

「さて、と……今はまだ安全か」

「ううううっ、どきどきします。なんでこんなことに」

「それはこっちのセリフだから……アンタは牢屋行きを免れただけマシでしょ?」

「そんなことありませんよ! 理不尽は嫌ですし、怖いですもの!」

 イヴは小声でささやく。きょろきょろと、彼女は辺りを見回した。

 曲がりくねった道に、人の姿はない。

 もちろん、蜥蜴の姿も、だ。

 スラム街にあふれた怪物の排除は、シャレーナ署長が他の天使警察に命じて行わせていた。だが、戦闘の必要はなく、朝が完全にくるとともに、蜥蜴たちは自然崩壊したという。

 陽の光によって──怪物という存在が受ける負荷に──元は人間だった者たちの肉体は、耐えきれなかったのだ。悲しく、惨い結末だった。あの怪物たちは、端から使い捨ての道具にすぎなかったのだ。その事実に対して、エルは胸の奥底に確かな憤怒を覚えた。

 その後の街の中の探索と、希望した人間の保護も済んでいる。だが、呪いの首謀者はどこにも見つからなかった。それに貧民の多くは、天使警察の手を拒んだという。

 高等種族に対しての反発は、スラム街では特に厳しい。高慢な者たちの警告に、彼らは頑なに耳を貸そうとはしなかった。ゆえに、近隣住民の多くは避難が済んでいない。

「……つまり、この辺りにはまだ呪いの材料にできる人間がうじゃうじゃいて、犯人もいるかもしれないってことか……やっかいね」

「……あの、犯人は、いるかもしれないというか、いると思います」

 おずおずと手をあげて、イヴが発言した。予想外の言葉に、エルは目を細める。

 まさか、イヴがしっかりと独自の推測を持っており、しかもそれを伝えようと試みるとは思わなかったのだ。エルの硬い表情を見て、イヴは肩をすくませた。

 羽を畳み、彼女はしゅんっと小さくなる。

「でも、あの、違うかも、しれないです、し」

「いいから言って」

「で、でも」

「意見はどんどんだして。アンタが真剣なら、アタシも馬鹿にしない」

「えっ」

「それに、バディは情報共有が重要」

 基本をエルは教える。嫌々ではあったが、バディを組んだ以上、エルのほうから関係を壊すつもりはなかった。騙し打ち自体は、彼女は結構平気でする。だが、どんな相手でも、組んだ以上は裏切りたくはなかった。いつも任務中、同胞に離脱されているが、結構辛い。

 それに対して、イヴはぱちくりとまばたきをした。ふわりと、彼女は目を細める。

 なぜか、イヴは嬉しそうな顔をした。

 だが、すぐに、彼女は表情をひきしめた。考え考え、イヴは手を動かしながら語りだす。

「最近、スラム街では猟奇殺人が頻発していました」

「知ってる。警察にも情報は入ってた……それで?」

「それは多分、魔力を高めるための材料を集めたり、呪いを練習したり、蜥蜴化させた人間の威力を試したりするためだったと思うんです」

 イヴの言葉に、エルはうなずいた。

 猟奇殺人による犠牲者の死にざまが、その証拠だ。

 頭部切断は材料集めのあと。内臓破裂は呪いを失敗した結果。八つ裂きは蜥蜴化させた人間を試用した成果だろう。そのため、イヴの意見に異論は覚えない。

 エルの反応を見て、彼女は続けた。

「でも、それだけ丁寧に準備して整えてきた戦力を、昨日、敵は私たちに対して大きく使いました……それは、私たちが標的なのか、または天使か悪魔の死体が大規模な呪術の素材として必要なのかの、どちらかだと思うんです」

「……そう。入念な前準備をしている以上、敵の魔力量は無限ではないということ。なのにソレを向けてきたのには目的がある、のは確か……アタシたちをなぜ標的にしたか、か」

「私には心当たりはありません……エルさんには?」

「当然、ない」

「なら、敵は天使と悪魔の死体が欲しいんだと思います」

 確かにエルとイヴ、両方に襲われる心当たりがない以上その可能性が高い。

 呪いの主は、天使と悪魔の亡骸を欲しているのだ。ふむと、エルは考える。

「それで? どうして、敵はまだスラム街にいると?」

「はい……敵には天使と悪魔が必要。でも、天使警察は基本は群れで動きます。そして、悪魔はこの辺りにはいません。ならば、手頃なのは私たちだけ。それならば脱走した私が一時帰宅して、天使警察のエルさんが追いかけてくるのを待つ、と思うんです」

 なるほどと、エルは納得した。

 敵側も標的の情報は仕入れているだろう。調べればすぐにわかることだ。

 過去、イヴは天使警察に捕まるたびに脱走をくりかえしている。此度も天使警察本部に囚われたあと即逃げだし、危険性に怯えながらも荷物をとりに戻ってくる可能性は考えられた。そして、エルがそれを追ってくることまでをも、敵は皮算用するだろう。

 ならば、今まさに、敵はここにいる確率が高い。

 一連のイヴの推測に、エルは感心した。素直に、彼女は賞賛を口にする。

「やるじゃない、アンタ」

「そ、そんな……えへへ」

「おかげで、行くべきところもわかったし」

「えっ……どこ、ですか?」

 イヴはきょとんとする。ほぼ、彼女が答えを言ったようなものなのにわからないのか。

 そう、エルは逆に驚いた。己の額をとんとんと叩きながら、彼女はヒントを口にする。

「だって、それなら犯人の見張っているところはハッキリしている。そうじゃない?」

「うん? えっ?」

「『逃げ羽根のイヴ』が荷物をとりに戻るかもしれない場所……アタシたち、天使警察はそこを知らないけど、スラムでアンタを張ってたのなら敵は把握をしている可能性が高い」

「あっ」

「そう」

 エルはうなずく。やっとわかったらしいイヴに、彼女は答えを告げた。


「アンタの家」


   ***


「嫌です! 教えたくありません!」

「バディは情報共有が重要」

「今まで、天使警察に何度捕まっても隠し通した、秘密のお家なんですよ!」

「バディは情報共有が重要」

「エルさん、前に私を騙したじゃないですか!」

「バディは情報共有が重要」

「うっ…うう」

「重要だから」

 ゴリ押しに押して、エルが勝った。トボトボと、イヴは案内に歩きだす。心なしか、肩甲骨から生える羽も下向きだ。その元気のない背中に向けて、エルは明るく声をかけた。

「大丈夫。バディとして教えてもらった情報は、他の天使には言わないから」

「信用できません!」

「本当だって」

「本当、ですか?」

「だって、バディを解散したら、アタシがアンタを捕まえに行くし」

「ふええ」

「他の天使に乱暴かつ余罪までつけられて投獄されるよりマシでしょ?」

「どっちも嫌ですよ!」

 泣きながらも、イヴは止まらずに歩いた。店のたぐいのある表に近い通りを越え、貧民宿や互いを押し潰しあっている集合住宅のそばを横ぎって──スラム街の奥の奥まで来る。

 ここは行き止まりだ。どうするのかと、エルは首をかしげた。

 その前で、イヴはかがみこんだ。彼女は壁の穴に潜りはじめる。

 エルは目を丸くした。そこに開いているのは──通れなくはなさそうだが──痩せた人間がぎりぎりくぐれるか否かの、小さな丸でしかない。案の定、羽がひっかかり、イヴは、ああでもない、こうでもないと、体をひねった。それから、猫のごとく器用に抜けた。

 エルは後に続く。壁をくぐると清浄な風に頬を撫でられた。思わず、彼女は目を見開く。


 夜の中に小さく、愛らしい花畑が広がっていた。

 慎ましやかな白色がふわりふわりと揺れている。


 エルは腰に手を当てた。小石の転がる地面に立ちながら、彼女は花畑を見つめる。

「へー、こんな場所があったの」

「えへへへ、すてきですよね?」

「これは、スラムに精通していないとわからないところだ」

「はい、私もはじめて知ったとき、びっくりしましたから」

 素直に、エルはうなずく。この場は効率的ではない違法建築がくりかえされたせいで、意図せずに生まれた空き地らしい。そこに名もなき花々が群生したようだ。

 不意に、エルは気がついた。白い海の向こうに、ぼろぼろの小屋がある。ペンキで塗り、可愛らしくしようとしているらしいのが逆に痛々しい建物だ。壁の板張りは粗末で、隙間風もひどそうだった。うっと哀れに思いながらも、エルはたずねる。

「アレが、アンタの家?」

「はい、そうです! いい家でしょう?」

 振り向いて、イヴはどうだと言うように胸を張った。ふたたび、エルはイヴの棲家へと視線を投げる。木板で塞いだだけの窓を、彼女はじっと見つめた。黒く、暗い隙間を睨む。

 そして、エルは一度目を閉じ、開いた。

「まあ、好みは人それぞれ……それにしても、アタシを案内してよかったじゃない?」

「えっ?」

 イヴは首をかしげた。エルは指を鳴らす。虚空から、彼女はかがやく銃をとりだした。

 それを横殴りに掴みとり、エルは引き金を弾く。

 銀の弾丸が飛びだし、イヴへと向かった。

「えっ?」

『グア、ああああああああああっ!』

 白い頬の真横を弾丸は通過した。彼女の背後から迫っていた蜥蜴が撃ち抜かれて倒れる。

 小屋の中に隠れていた怪物たちが、駆け寄ってきたのだ。さらに数匹が飛びだしてくる。勢いのままに、彼らは扉を破壊した。残骸で花を潰したうえに、容赦なく踏みつけていく。

 大切な小屋の惨状を見て、イヴは叫んだ。

「か、勝手に、私の家に入らないでくださいっ!」

「言ってる場合か! ……ビンゴ。いいのがいる」

 もうひとつ、エルは銃をとりだした。次々と蜥蜴を撃ちながら、彼女は唇を舐める。

 別の怪物が、小屋の背後からのっそりと姿を見せたのだ。

 八本の脚をもった、巨大な毒蜘蛛だった。恐らく、敵からすれば『とっておき』だろう。

 相手は、ここで確実にイヴを仕留めるつもりだったらしい。

 黄と黒に禍々しく光る体をエルは睨んだ。最低、三人は『材料』に使われているものと判断をくだす。そのうえで、これだけ人間からかけ離れた形に変貌を遂げさせているのだ。

 遠隔制御は難しい。つまり、

「術師はすぐ近くにいる!」

「そんなこと言っても、怪物もいっぱいいます!」

 あわあわと、イヴは叫んだ。

 小屋の中からだけではない。街のほうからも壁を乗り越えて、蜥蜴たちが駆けつけつつあった。美しい花弁を散らしながら、おぞましい怪物たちが集まる。

 ザッと、エルは視線で撫でて影を数えた。三十には届くだろうか。

 被害者たちのことを考えて、エルは唇を噛んだ。だが、すぐに思考を切り替えて告げる。

「アタシには不利!」

「それなら」

「でも、今はアンタがいる!」

「えっ?」

 イヴはきょとんとした顔をした。まばたきをくりかえして、彼女は己を指さす。

 エルは大きくうなずいた。悪魔の紫水晶のような目に向けて、彼女はたずねる。

「そうでしょう?」

「そっ、そうですけど」

「だから、イヴ、多数戦は任せた」

「そんな!?」

「背中を預けるって言ってるの! アタシも命を張るから!」

 はっきりと、エルは言いきった。嫌々で組んだバディではある。だが、戦場でともに闘う者は信じるのが礼儀だ。それを拒んで意地を張り続ければ、死はぐっと近くなるだろう。

 また、エルはイヴの強さを知っていた。そして他者を信じる素直さと、己も危機に陥りながらも天使すら助けようとする気質もわかっている。信頼を、イヴは裏切らないだろう。

 その事実が、エルには見えていた。愚鈍な同僚たちと、イヴという少女は違う。

 悪魔であろうが、後ろを任せるに値した。

 数秒、エルは考える。だが、これでいい。判断は正解だ。そう、断言することができた。

 イヴは目を見開く。なぜか、彼女は頬を赤く染めた。それから、うわずった声をあげる。

「は、はい! がんばります!」

「上等! じゃあ、頼んだ」

「『ウーヌス』、『ドゥオ』、『トリア』、『クァットゥオル』!」

 謳うように、イヴは叫んだ。

 うなずき、エルはほほ笑む。

 即召喚とは正しい判断だ。イヴは馬鹿だが決してまぬけではなかった。やるべきことなすべきことを、彼女はちゃんとわかってくれている。期待通りだった。

 これなら、すべてが大丈夫だ。

 イヴの実力を信頼して、エルは蜥蜴の群れの中に飛びこんだ。鋭いかぎ爪が振るわれる。だが、その喉笛に、犬と狼たちが次々と噛みついた。大量の紅色が花弁のように宙を踊る。

 そう、イヴの召喚能力は、本来多数戦に有利なのだ。

「ここはよろしく」

 蜥蜴と獣の乱戦の隙間を、エルは縫うように駆けた。血飛沫の舞う空間を抜ける。彼女は毒蜘蛛の前へと飛びだした。その全貌を確かめて、エルは吐き捨てるようにつぶやいた。

「……ひどいもんね」

 毒蜘蛛の背中には、女体の乳房が、側面には肥満した男の腹が、伸びた脚の節々には老人の鼻や耳が残されていた。生々しい苦悶の声が、体の各部から聞こえてきそうな形状だ。

 醜悪さに舌打ちしながらも、エルは二丁拳銃を消した。おそらく、この弾では通らない。だが、迫撃砲では力を使いすぎる。白い光を指先にまとわせて、彼女は別の武器を編んだ。

「さて……やろう」

『くぃやああああああああああああああああああああああああああああああああぉあぉあ』

 奇怪な絶叫をあげて、蜘蛛は毒液を吐いた。粘つく紫色が降り注ぐ。

 それをエルは跳んで避けた。飛沫で肌が焼ける。だが、問題ない。動きの阻害にならない程度の負傷など、気にするには値しなかった。得物を手に、エルは蜘蛛の横を走る。

 細くも鋭い脚が振るわれた。左に転がったあと、エルは前に跳んだ。

 大地を派手に穿ち、蜘蛛は花弁を散らす。右から殴打がきた。前に飛んで、エルは躱す。

 上から突き刺すような一撃が落とされた。僅かに後ろに身を反らしたあと、エルは一回転し、次の攻撃も躱した。複雑な動きで、彼女は攻撃を絶え間なく避け続けていく。ジグザグに跳び、時には曲線を描いて、エルは蜘蛛を翻弄した。

 やがて、埒があかないと焦れたらしい。ぐっと、蜘蛛は尻に力をこめた。

 このときを、エルは待っていた。

 蜘蛛とは、糸を吐くものだ。

「イヴ!」

「『クィーンクェ』!」

 事前に打ちあわせてはいなかった。だが、意図は通じたらしい。

 イヴは己の獣の使い方を知っている。召喚能力に長けているだけはあった。

 流石と、エルは片方の拳を握った。召喚されたクィーンクェは跳びあがる。自らを糸に巻きつけて、獣は蜘蛛の必殺の一撃を無効化した。その隙に、エルは蜘蛛へと駆け寄った。

 大きくさげられた頭を、彼女は踏みつける。


 を向けた。

 そしてささやく。


「『祝福されよ』」


 無数の弾に穿たれ、蜘蛛の頭は根こそぎ吹っ飛んだ。

 痙攣しながら、巨体は崩れ落ちる。どろどろと、人の血にも似た紅い液体が零れ落ちた。

 もう、ソレは動かない。怪物は短くも歪な生を終える。

 だが、エルは蜘蛛の絶命を見届けはしなかった。怪物に守られていた向こう側、空き地の隅へと視線を移す。一角を囲む建物の背中の前に、彼女は予想通りの人物を見つけた。

 黒のローブで、全身を覆った術師だ。

 歪な貴金属飾りをいくつもぶらさげて、相手は立っている。蜘蛛の敗北を見てとると、敵はじゃらじゃらと音をたてながら逃げようとした。

 散弾銃をもったまま、エルは駆け寄った。銃口を向け、叫ぶ。

「天使警察だ! 動くな! 穴だらけになりたいのか!」

「……くっ」

「おまえが一連の呪いの術師……大人しく捕まりなさい。言いわけは署で聞く」

「……女王の」

「なに?」

 エルは目を細めた。嫌な予感を覚えて、彼女はふたたび駆けだす。

 だが、術師が口元を押さえるほうが早かった。禿頭の大男が、無理になにかを飲みこむ。エルが組みつき、吐かせようとしたときだ。どろりと、彼は口から大量の紅色をこぼした。

「……なっ」

「女王、の」


 溶解した内臓だ。

 もう助からない。


「女王の、栄光は、われわれとだけ、ともにある……」


 それが、最後の言葉だった。

 すべての臓器を吐ききって、


 あっけなく術師は息絶えた。


   ***


 ゆっくりと、エルは絶命した男を地に横たえた。

 苦痛に目を見開いたままの凄惨な死体を、彼女は眺める。もう、彼から様々な情報を聞きだすことはできなかった。天使と悪魔を狙った目的も、動機も、闇に隠されたままとなる。その事実に、エルは軽くいらだった。だが、首を横に振って、小さくつぶやく。

「……『女王の栄光は、我々とだけともにある』か」

 犯人の最後の言葉。

 それと同じつぶやきを、エルは耳にしていた。

「……シャレーナ署長も言っていた。どういうことなの?」

「エルさん怖かったですよおおおお!」

「あー、もー、アンタはー、もーっ!」

 どっかーんと抱きつかれ、エルは呆れた声をあげた。

 咄嗟の指示に応じてくれたときのように空気を読んでほしいものである。また謎なことに──あれだけ見事に戦ってみせたにもかかわらず──イヴはめちゃくちゃに泣いていた。

 紫水晶の瞳から、彼女は大粒の涙を落とす。

「私自身は戦えないですからぁああああ」

「そういえば、そうだった」

「それにエルさんがあんなに怖いのと戦っていましたしいいいいいい」

「えっ、アンタ、戦闘中にアタシの心配までしてたの?」

「えっ?」

 そこで、イヴは顔を撥ねあげた。きょとんと、彼女は首をかしげる。

 ううんとエルは腕を組んだ。イヴは涙どころか、鼻水まで流している。美人が台無しだ。

 そんなまぬけな顔のまま、イヴは不思議そうにまばたきをした。

「おかしい、です、か?」

「ううん──おかしいって言えばおかしいんだけど、でも、嬉しい。ありがとう」

 さらりと、エルは礼を口にした。己の感情に対して彼女は嘘を吐かない。相手が悪魔でも、死地にいることを案じられる気持ちは悪くはなかった。そう、エルは迷いなく告げる。

 なぜか、イヴは真っ赤になった。うす紫色の目を伏せて、彼女はボソボソとつぶやく。

「エルさんって、天使なのに、意外とはっきりと色々なことを言ってくれますよね……私のことを信じて、くれたり……嬉しいとか……お礼とか」

「なに? 悪い?」

「違います! 私はダメな悪魔ですからこういうのはじめて、でして」

 しょぼんと、イヴはつぶやく。

 瞬間、エルは悟った。

 ああ、この悪魔も同じ。

 種族の中で、ひとりぼっちだったのか。

「……だから、その、信用してもらえるって、いいなって」

 恥ずかしそうに声はついえた。なにやらもごもごつぶやきながら、イヴはもじもじする。

 釣られて、エルまで恥ずかしくなってきた。あさっての方向を見ながら、彼女は告げる。

「ま、まあ、バディは信用も重要だし」

「……はい!」

 イヴは大きくうなずいた。

 なんとなく、エルは手を伸ばした。

 目の前の悪魔があまりに無邪気な顔をしていたせいだ。子犬にするように、イヴの頭を撫でてやる。嫌がるかと思いきや、イヴはゴロゴロと喉を鳴らして喜んだ。子供のように素直な娘だなと、エルは思う。十分に撫でまくったあと、彼女は術師の死体に目を向けた。

 人間だったもの。その無惨な残骸を眺めて、エルは重くささやく。

「それとアンタとアタシのバディ、きっとまだ続くから」

「そう、なんですか?」

「多分、これじゃ終わらない」

 険しい表情で、エルは告げた。彼女にはわかっていた。

 おそらく、事件は形を変えて続くだろう。そんな、絶対的に嫌な予感がした。

 過酷な未来を覚悟するかのように、エルは死体を睨み続ける。そのあいだにも、イヴはなにやら動いた。うん? とエルは彼女のほうへ視線を向ける。

 まっすぐに、イヴはエルへと手を差しだしていた。奇行に対して、エルは首をかしげる。

「なんのつもり?」

「ええっと、理不尽な結成ではありましたけれども、その、バディが続くのでしたら、改めて、握手とかをしたほうがいいのかなぁって……」

 ぱちくりと、エルはまばたきをした。彼女はあっけにとられる。


 事件は終わっていなくて。

 辺りは死体だらけで。

 二人は戦闘後で。


 そんな中で、これだ。


 おかしくなって、エルは思わず吹きだした。そういえば誰かを心の底から信頼して共闘をしたのも、頭を撫でたのもはじめてだった。相手は悪魔なのにおかしいなとエルは思う。けれどもそのすべてに、心は嫌だと言ってはいなかった。どうしたのかと、イヴはあわあわと焦る。それを無視して、エルは好きなだけ笑った。なんだかんだで、彼女は思う。

 こういうのも決して、悪くはない。

 浮かんだ涙をぬぐって、エルは明るく告げた。

「そう、互いに挨拶はまだだった」

「はい」

「嫌々なはじまりではあったけど、まあよろしく」

「はい、よろしくお願いしますっ!」


 天使と悪魔ははじめて互いの手を握る。

 純白の花弁が、その周りを舞っていた。


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試し読みは以上です。


続きは2023年9月25日(月)発売

『カルネアデス 1.天使警察エルと気弱な悪魔』でお楽しみください!


※本ページ内の文章は制作中のものです。製品版と一部異なる場合があります。

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