TRPG〈ゲームファンタジー〉から
〈ライトファンタジー〉へ

——ファミリーコンピュータの発売は83年ですから、それ以前のことですか。

角川 はい。そんなとき、「コンプティーク」の創刊メンバーのひとりである、糸川先生の事務所にいた井山さん……名前は忘れてしまったのですが……その人が、僕をアメリカに連れて行ってくれたんです。コンピュータゲームで世界をリードしているいくつかのメーカーを見て回るために。

——そこで「D&D」に触れる機会が?

角川 そうなんですよ。アテンドしてくれたのが、伊藤忠の現地法人に勤める方で、その人から「『D&D』という面白いゲームがあって、親子の断絶がそれによって救われている」という話を聞いたんです。

神坂 なんと!

水野 お父さんがゲームマスター(GM)をやって、子供が遊ぶ?

角川 そういうことです。仕事が忙しくて、親子で共通の話題がなかなか見つけられないけれど、「D&D」で親子がGMとプレイヤーという立場になることで、自然と会話が生まれるんだ、と。そのエピソードのインパクトと、〈ダンジョン〉と〈ドラゴン〉という単語の新鮮さで、ゲームの名前が強く印象に残りました。そしてその直後、アメリカの有名大学内にある書店に行ったら、なんと「D&D」が山積みになっていたんですよ(笑)。

水野 スターターセットのボックスがですか!?

角川 そうです。これはすごいな、と。

水野 いい大学ですねえ〜。TRPG好きからすると、夢のようや(笑)。

角川 当時、日本でもゲームを作ろうとしていた人たちはいましたが、やはりレベルがアメリカと比べてはるかに低かったんです。だからアメリカのゲームを買い付けてくることを考えたのですが。その後井山さんと「コンプティーク」を設立しました。

——スーパーカセットビジョンや8ビット御三家(PC-8801、X1、FM-7)向けに発売していた一連のゲームのことですね。

角川 そう、「From U.S.A.」シリーズです。ちなみに、ソフトバンクの孫正義さんや、エニックスの創設者の福嶋康博さんも、是非売らせてほしいと来社されました。そして会社のコンプティークから出版されたゲーム雑誌がコンプティークです。……話を戻すと、アメリカでそうした「D&D」体験をしたことで、日本に帰ってからも株式会社新和(※当時「D&D」を翻訳・販売していた会社)の会議に出て話をしたり、「D&D」を実際にプレイする会にも参加したりしたんです。どの集まりも、参加者は少人数ではありますが、大変な熱気でした。そしてもうひとつ、私にとって大きかったのは「火吹山の魔法使い」です。

水野 当時大ヒットした、ゲームブックの。

角川 そうです。「D&D」の周辺にいる人たちの盛り上がりと、創元社から文庫版で発売された「火吹山の魔法使い」の好調な売れ行きを見て、〈剣と魔法の世界〉が日本でも広く受け入れられるだろうという確信が生まれました。しかし「D&D」の販売の権利は、すでに新和さんが押えていし、どうしたものかと(笑)。ただ、「D&D」の世界を使って、小説が書けるのではないか? そんな予感があったんです。そうしたら実際に、「ドラゴンランス戦記」(原著の刊行は1984年、日本語訳は1987年から刊行)が出たわけですね。

水野 長らく邦訳版は絶版状態でしたが、最近電子書籍で改訳版が全巻発売されて、我々のまわりではそのニュースですごく盛り上がりました。

角川 そうなんですね。原著が出たときに「やっぱりこの可能性があった!」と思って、安田さんに訳してもらった。これは名訳ですよ。安田さんは翻訳者として超一流です。しかも、単に語学力の問題だけではなく、背後にあるゲーム文化をちゃんと踏まえた翻訳ができている。

水野 ゲームがわかっている人とわかってない人で、ファンタジーの訳には差が確実にあるんですよね。ゲームに馴染みのない方だと、どうしてもファンタジーの訳文は、耽美な雰囲気になってしまう。でも原語で読むと、実は意外とシンプルな表現だったりするんです。安田さんはそういうところをしっかり日本語に置き換えてくださっていました。

角川 水野先生はもともと、安田さんにゲームのことを教わっていたんですよね。あのころは本当に可愛い少年でした(笑)。

水野 そんな(笑)。

角川 ともあれ、だからそんな水野先生が書いた「ロードス島戦記」も、ゲームの素養を踏まえた破綻のない世界の上で、人がちゃんと活き活きと描かれている。読んだとき本当に、正統的なファンタジーだなと感じました。

水野 「スレイヤーズ」が〈ライトファンタジー〉とラベリングされていたのと同じような発想で、僕は自分の小説を〈ゲームファンタジー〉と呼んでいました。会長のおっしゃるように、ゲーム的な世界設定があって、その上で書かれたファンタジー小説という意味ですね。そうした小説が80年代末にブームになって、角川スニーカー文庫が生まれた。僕の「ロードス島戦記」と深澤美潮さんの「フォーチュン・クエスト」が、角川スニーカー文庫の初期にゲームファンタジーとして書かれた作品の中でよく売れた、代表作と言ってよいものではないかと思います。「ロードス島戦記」の第1巻は、刊行時は角川文庫の「青帯」で、あとからスニーカー文庫に入ったものですが。

角川 最初に「青帯」に入れるときも、一悶着ありました。文庫のジャンル分類というのは、当時文庫の先達だった岩波文庫の分類に沿ったものにする慣例が、かつてはあったんです。角川文庫だけではなく、新潮文庫にしても、他の文庫にしてもそう。そこに新しい分類を作るというのは、文芸系の編集者からすると、とてつもなく革命的なことに見えたようなんです。

水野 反対があったんですか?

角川 ありました。「こんな小説が角川文庫に入っていいのか!」とまで言われました(笑)。

水野 文芸系の編集者さんなら当然の反応だと、書き手ながら思います(笑)。当時は「こんな小説でごめんなさい」と謝りながら書いていましたから。

鏡 ホントですか?

水野 そうですよ。ただ、僕は会長が進められたというその新しい分類に、なんだか背中を押されていた気がしたんです。「僕みたいなやつが書いてもいい時代が来たんだな」と。

角川 社内だけではなく、出版業界の中でも、あまりにもそれまでの小説と違うものだから、批判するどころか、知った人が声を失うようなものだったんですよね。

鏡 そうした、受け入れられないところに挑戦していく気持ちは……。

角川 もちろん、ありました。

水野 会長だけではなく、当時の編集者の方々にも、そういう新しいものを作りたいという気持ちがあったから、できたことですよね。小川(洋)さんなどは、特に明確にそういう考えを持っていたように感じていました。

角川 小川くんは編集者として才能が傑出していましたね。当時、まだ角川書店のアルバイトで、そんな立場もあって、「この新しい世界で認められよう」という気持ちが強かったのでしょう。だからのちに彼は喜んで、富士見ファンタジア文庫創刊の中心になるわけです。

水野 それにしても、「ロードス島戦記」が出たのは1988年の4月、「スレイヤーズ」の短編が最初に載った「ドラゴンマガジン」は1989年10月号で、長編の第1巻が出たのは1990年の1月。実は「ロードス島戦記」と「スレイヤーズ」は1年くらいしか発表時期の差がないんです。

角川 意外なことですよね。

——〈ゲームファンタジー〉が広く読者に根付いて、その知識を前提にした〈ライトファンタジー〉が出てくるのは、あっという間だったんですね。

神坂 マンガやゲームの「お約束」というか、そうした作品世界を踏まえた上での読み方、遊び方を読者のみんなも分かっているよね? という前提で書かせていただけた印象がありました。ファンタジー世界の知識だけではなくて、ルビ(読み仮名)の使い方もそうですね。私以前に、秋津透先生の「魔獣戦士ルナ・ヴァルガー」シリーズで、ある文字列の上にまったく違う内容のルビを打つことをやっていたんです。それを見て「ああ、こういう表現がアリなんだ!」と思ったことを覚えています。

水野 先日、あざの耕平先生とも「ルナ・ヴァルガー」の文体の斬新さについて話したんですよ。

神坂 後は「週刊少年ジャンプ」連載の「BASTARD!! -暗黒の破壊神-」ですね。あれも「スレイヤーズ」と同じで、漢字で書いた呪文にルビを振って、別の読み方をさせていた。

水野 そうやね。……「BASTARD!! -暗黒の破壊神-」って、割と設定が「ロードス島戦記」っぽいよね(笑)。

神坂 ですねえ(笑)。

水野 「上位古代語(ハイ・エンシェント)」とか、そのまま出てきてたから。

角川 「BASTARD!! -暗黒の破壊神-」に限りませんよね。エルフのイメージも、「ロードス島戦記」がその後の作品に大きな影響を与えていますし。

水野 あれは僕の功績というより、イラストを担当してくださった出渕裕さんのデザインの力ですね。ディードリット(※「ロードス島戦記」のヒロイン)のビジュアルが、「耳が長いエルフ」として描かれたことは、今となっては「世界のエルフを変えた」とまで言われているそうですから。

鏡 僕はもう、恋をしていましたよ。

水野 山本(弘)さんに?(※「ロードス島戦記」の小説の元になったTRPGリプレイで、ディードリットは小説家の山本弘が演じていた。なお、山本は男性)

鏡 中の人の話をするのは止めてください!(笑)。僕が恋をしていたのは、あくまで「ディードリット」というキャラクターです!

水野 ごめんな(笑)。今、神坂先生がコミックの話題を出してくれたけど、その前の話では、会長はもともとゲームに注目してらっしゃった。僕ももともとはゲームにどっぷりの人間で、その影響で小説を書いた。当時はポップカルチャー、サブカルチャーがまだ今のようには統合されていなかった時代、「メディアミックス」という仕組みが今ほどしっかりとできあがっていなかった時代だった。だから個人が別のメディアの作品から影響を受けつつ作品をつくるしかなかったわけかな、と思います。

角川 今の視点がとても大事だと思います。文化とは孤立して生まれるのではなく、必ず何か、ほかのものに触発されて生まれてくる。ライトノベルはその典型かもしれません。

■〈ライトノベル〉以降のパラダイムの中で

——序盤のお話に立ち返るようですが、鏡先生は今うかがってきた流れで、角川スニーカー文庫、富士見ファンタジア文庫を始めとするさまざまなライトノベルレーベルが確立された以降にデビューされ、活躍されてきました。

鏡 そうなりますね。僕がデビューする少し前に電撃文庫が生まれ、デビューするころには、電撃文庫とファンタジア文庫の勢いが拮抗するような状態になったと聞いていましたが、間違いはないでしょうか?

水野 正直なことをいえば、入れ替わるくらいだったんだと思う(笑)。〈ライトノベル〉という言葉は、作家の立場からすると、電撃文庫が登場して以降のパラダイムを示すものだという気がするんですよ。

鏡 それには僕も同意です。それこそ、新人賞の名前が「電撃ゲーム小説大賞」と、「ゲーム」を冠したものだったわけです。最初から、別のメディアからの影響を前提とした小説を受け入れるような名前になっていたわけですよね。

水野 そこでも編集部の方々が、「自分たちで新しい文化を作る」という気概を持っておられたのかなと思います。だから実際に、〈ライトファンタジー〉とは違うジャンルを積極的に取り上げていった。SF作家さんたちに話を聞いても、電撃文庫が生まれたときに、自分たちにまた違った活躍の場ができるかもしれないという期待感があったそうですよ。

鏡 なるほど。角川文庫青帯からスニーカー文庫が生まれてくる流れに水野先生がいて、「ドラゴンマガジン」の創刊直後からの流れに神坂先生がいたように、電撃文庫の創刊からの流れには、上遠野浩平先生の「ブギーポップ」シリーズと時雨沢恵一先生の「キノの旅」があった……というのが、僕の印象です。「ブギーポップ」と「キノの旅」の2000年代前半の盛り上がりは、それはもう、強烈なものでした。

水野 僕にとっては、とにかく「ブギーポップは笑わない」(「ブギーポップ」シリーズ第1作)の登場が鮮烈な印象だったんです。あそこから、電撃文庫の時代が来た。

鏡 そして、ファンタジア文庫で書いていた僕が苦しむわけです(笑)。……といっても、僕の作品もおかげさまで、ヒットはしていたんです。でもアニメ化であるとか、ほかのメディアでの存在感が、電撃文庫の作品の方が大きく感じられて……。

水野 そのあたりから、ライトノベルの各レーベルからの刊行点数も増えましたよね。多いときだと、月に100冊ぐらい出ていたんじゃないですか?

——現在もそれくらいです。

水野 すごいことですね。まったくなかったところから、20年くらいで月100冊もライトノベルが出るようになった。作家にとっては厳しい世界にはなったけど、でも、現象だけを見るなら、すごい。

神坂 各レーベルが新人賞をやってらっしゃって、毎年、毎回、新人さんが輩出されるわけですからね。今、ライトノベルの作家が、何人いらっしゃるのか。

水野 それだけ競争は厳しいですよね。でも、その前は逆に、新人賞がほとんどなかった。僕らの若いころは、作家デビューしようと思ったらハヤカワ・SF コンテスト(1961年から92年にかけて早川書房の「S-F マガジン」で実施されていた短編の新人賞。現在開催されている「ハヤカワSFコンテスト」とは別物)ぐらいしかなかったんです。

神坂 でしたね。懐かしい。

水野 でも 「S-F マガジン」に掲載されることを目指すには、ジャンルプロパーの小説を書かなければならない。それはとてつもなくハードルが高いわけです。すでに確立された方法論に則って、その中でレベルが高いものを書かなければならないから。僕は若い頃、そのハードルのせいで、小説家を目指してすぐに挫折したんです(笑)。

——おどろきです。

水野 でも今、ここにこうしているわけです。自分でいうのもなんだけど、出る場所さえ用意すれば新しい才能が生まれてくることが、ライトノベルという場で証明されたと思うんです。既存の小説の方法論と違うものでもいい、とにかく自分の好きなものを書いてもいいよ……という新人賞があれば、「それなら書いてみようと思う人が世の中には大量にいて、そこには新しい才能が潜んでいるんだ」、と。

角川 ライトノベルの新人賞が、ハヤカワ・SF コンテストを始め、当時実施されていた新人賞よりも優れていた点はもうひとつあります。長編を募集していたことです。しかも新人賞を取った作家には、3冊から5冊は本を出していただことにもなっていた。そこまでの経験を積んでいただいた上で、本当の評価をする形になっていたんです。

水野 短編の新人賞というのは、その作品単独でのおもしろさよりも、「その人が作家としてこれからも書き続けられるか」という力量を試している側面があったんですよね。最初から実力のある作家を選抜するためのシステムだった。スニーカー大賞やファンタジア大賞も、作家としての力量をまったく見ないわけではもちろんないですが、応募作が面白かったら、技術は少々下手でもいいという基準がありました。ライトノベルの新人賞によって、新人の選考基準が「作家主義」から「作品主義」に変わったような気がしますね。

——しかも、評価のものさしが、ある文芸ジャンル内の単一のレギュレーションではなく、より多様になった、と。

角川 しかし、そうしたライトノベルの新人賞も、長く続く内にやはりレギュレーションのようなものが生まれてしまい、一度、壁に当たりました。そこで僕が考えたのが、「角川学園小説大賞」だったんです。ライトノベルの中に「学園小説という新しい枠組みを設けることで、応募作や、それを選考する編集者たちの意識に変化を起こせないか」と考えたんですね。角川文庫に青帯を作ったときくらい、社内からはすごく抵抗されました(笑)。

水野 でも、「学園もの」の流れは来ましたよね。「涼宮ハルヒの憂鬱」とか。僕はスニーカー大賞の選考委員を務めていたとき、冲方丁先生、吉田直先生、谷川流先生を送り出せたんです。それだけで仕事したな、と自負してます(笑)。吉田先生と谷川先生は大賞、冲方先生は金賞。冲方先生は作品のクオリティは問題がなかったけど、明らかに目指している方向性がライトノベルではなかったから、金賞にしようと僕から提案しました。

——そうだったんですね。

水野 大賞を出すということは、そのレーベルが責任を持って、全力で推すということですからね。作品のレベルが高くても、あまりにレーベルの方向性とは違うものに「大賞」を出すのは、作家のためにもならない。その意味では、「ハルヒ」はまさに大賞にふさわしい作品で、あの作品が応募されてきたとき、僕のライトノベルレーベルでの役割はもう終わったなと思ったんです。

——どういうことでしょう?

水野 自分が理想とするライトノベル……いや、それどころか、自分が理想とする小説の完成形を見たような気がしたんですよ。文章力はあるし、構成力はあるし、アイデアも優れている。おまけにキャラクターもむちゃくちゃ立っていて、魅力がある。衝撃的でした。これを大賞に推さなかったら、責任を感じるくらいの作品だったんです。編集部にも「これは絶対に売らなければならない。売れなかったらそれは、編集部の責任問題だ」というくらい煽って、けしかけました(笑)。

角川 水野先生が、谷川流先生という作家を世に出したわけですね。

水野 形としてはそうなりますかね……でも、「見つけ出した」なんて偉そうなものではなく、「目の前に現れてくれた」という気持ちです。それを見落とさなかった。選考委員も長くやらせていただきましたけど(※第1回から第10回まで)、大賞を出したのは3人なんですよ。吉田先生、谷川先生、あとはヤスケン(安井健太郎)ね。

——新人発掘・育成を巡る新しい潮流としては、新人賞を経由せず、Webの小説投稿サイトから出てくるケースも目立ちます。このパターンでのデビューは、みなさんの目にはどう映っていますか?

水野 いわゆる「なろう」系の作家さんたちね。

鏡 みなさん、よく売れていますよね。

水野 僕は非常にポジティブに捉えています。もともと文芸には、同人誌からデビューするという流れがありました。それの拡大バージョンではないかと思うんです。要するに、小説が好きで、別にプロになりたいという気持ちもなく、好きで書いているうちに人気が出てきて、デビューする……実はこの流れは、一番まっとうなものかもしれない。最近は商業デビューを目指して投稿する人も増えているとは思いますけど、大本にあった基本の流れは好ましいかな、と。

鏡 選考委員に読んでもらう代わりに、読者に直接読んでもらって、そこで評価されたものが本になる……そういう、新人賞とは違ったデビューの流れがひとつできただけ、というのが僕の理解です。

水野 読者に直接読んでもらえるというのは大きいですよね。やっぱり、発表したものにレスポンスがあるのは、すごくいいことなんです。レスポンスで作家が育つ側面はありますから。

——アンケート葉書を直接もらっているようなものですよね。

水野 そう。僕は魂が削られていくので、絶対に無理ですけど(笑)。読者から直接意見をぶつけられるなんて……。

神坂 想像するだけで怖い……(笑)。

鏡 評判が落ちると、最初の構想から展開を変えたりするのかなと思うと、どうなのかなと思うところも少しあります。

水野 そうね。書きたいものを書くという勇気も必要なのかなとは思います。せっかく自由な場所なんだから。「売れるものはこうだろう」と思って書くのも全然いいけど、それだと長続きしない気がします。

鏡 気持ちが続きませんよね。

水野 この前、別の作家仲間との集まりでもそんな話になったんです。好きなものじゃないと続けられない。ともあれ、とにかく小説投稿サイトは、作家として鍛えられる仕組みなことはたしかです。上位ランカーになるには、毎日投稿できるだけの筆の速さも求められる。筆が速い作家が、読者の反応を気にしながら、連日のように書く……。

神坂 とてつもないですよね。

水野 上手くはなるよ、間違いなく。少なくとも、書き慣れていく。ただ僕はやっぱり、好きなものを書いてほしい気持ちが、ひとりの小説好きの願望としてある。好きと得意は違うこともあるかもしれないけど、好きなもの、こだわりをどこかで持ち続けてほしい。

鏡 このあいだ、「カクヨム甲子園」という、WEB小説サイトのカクヨムで実施する新人発掘企画の選考委員をやったんです。応募資格を高校生だけに絞った新人賞の企画で、そうするとやはり、あまり上手くない書き手が多いです。でも応募作の中に、書きたいものをとにかく書いていて、売れる方向を向いていない内容だけど、文体がすばらしい子がいたんですよね。そういうものを見ると、インターネットの、何を書くのかわからないような場から新人が出てくる仕組みがあるのは面白いなと感じました。

水野 高校生に限定したところが面白い企画だね。

編集部 短編も入れると約1200本とかなりの応募が集まりまして、高校の文芸部が年間の活動計画の中に、「カクヨム甲子園」を入れ始めたりもしているそうです。

水野 それはいい。高校生たちの、ひとつの目標になるわけだから。

角川 責任を持って続けないといけないですね。

編集部 「高校生が作家を目指すなら、カクヨム甲子園!」みたいな、象徴的な存在になるまでがんばりたいと思っています。

——では長くなりましたが、最後にそうした状況の変化を踏まえて、水野先生、神坂先生、鏡先生が今後作家としてのどのような展望をお持ちなのかをうかがって、終わらせていただこうと思います。

神坂 展望!? それは大きな話になりましたね……なんというのでしょうか……それこそ、私が生まれたころから現在に至るまででも、いろいろな文化が生まれ、科学技術が進歩し、メディアの変化がありました。ある時期までは、たとえば小説なら小説、ゲームならゲーム、マンガならマンガというような形で、個々のメデイアのあいだに「囲い」があったものを、新しく出てきた人がどんどん乗り越えて、融合して、新しい表現方法が今も次々と生まれている。そう思うわけですけれども、そんな中で、どうも紙の本というのは、残念ながらやや下火にはなっています。けれども、おそらく人類の歴史が始まって以降、物語そのものが下火になった時期というのは、たぶん存在しませんよね。紙の本という文化は、もしかしたら今後、さらに弱くなっていくのかもしれません。活字表現には言語の壁もありますし、マンガやアニメに比べて、ビジュアルや音声といった点で表現として弱いところもあります。ただ、その弱さは逆に、読者それぞれの想像力という、ある意味で最強の演出効果を味方につけられるということでもあります。そういう意味で、紙の本ではなくなっても、活字による物語というのは形を変えながらではあっても続いていくだろうと、私は考えています。……「展望」というと、こんな感じでいいのでしょうか。

水野 すばらしい。今日の話を総括された感じですよ。

神坂 いやいや(笑)。ともあれ、新しいメディアの要素をミックスして、さらに新しい物語を生み出していくこともできるはず。私たちの後から来てくださる世代のみなさんは、それを模索していくことになるんでしょうね。

水野 その点でいうと、僕らの世代って実は、表現手段は必ずしも小説でなくても良かったと思うんですよ。たまたま僕はマンガが描けなかったし、TRPGのプランニングもできなかったから、最終的に小説という手段に辿り着いた。ただ神坂さんがおっしゃられたとおりに、物語というのは普遍だと思うので、そこでひとつの結果を出してみたい気持ちはあります。自分なりの、「水野良」という作家がいたことを世界に覚えていてもらえるような、最終作品みたいなものを書いてみたい。そんな野望を諦めずに持ちつつ、これからも粛々と仕事をしていきたいですね。

鏡 僕は小説でデビューして、そのあと、マンガ原作の方でも少しお仕事をさせていただいて……。

水野 『終わりのセラフ』はあれだけヒットしてるのに、「少し」じゃないでしょ?(笑)

鏡 えーと、おかげさまで……(笑)。ともあれ、そうした経験の中で感じたことですが、小説とマンガ、それからアニメは、海外ではそれぞれ世界が別れているように感じるそうなんです。中国ではまさにはっきりとそれぞれの世界が別れているようですし、アメリカも、アメコミが小説やアニメから独立していて、また雰囲気が違うとか。日本のように、小説とマンガ、アニメの世界がり分かれず、繋がってる文化は珍しいようなんですね。何が言いたいかというと、僕は小説でデビューしましたが、あとになって、小説・マンガ・アニメなどのいろいろなメディアが繋がってできた、ひとつの文化の作り手としてデビューしたんだと感じるようになった。マンガ原作を書く際にも、小説家として、ファンタジア文庫や「ドラゴンマガジン」で活躍させていただいたネームバリューに助けられましたから。そして、今、そこから新しい世界が始まっていると思うんです。

——どういうことでしょうか?

鏡 日本の、ひとつながりのカルチャーが世界に既に受け入れられている状態ができつつあるんです。日本の、小説・マンガ・アニメなどが混ざり合って作られているエンターテインメントが、世界からリスペクトされるようになってきている。だから、神坂先生のおっしゃるとおり、紙の本は厳しくなるかもしれないけど、日本のクリエイターが生み出す「物語」は、これからが黄金期なんじゃないかなという風にも思っています。いきなり世界を相手にするビジネスモデルになっているんじゃないかな、と。翻訳もすぐされる時代ですし。小説を書くことで、いきなり世界に物語を届けられるのがこれからの世代だと考えると、面白いんじゃないのかなと思います。

水野 実際に、桜坂洋先生の『All You Need Is Kill』みたいに、ハリウッド映画になった作品もあるわけだからね。

鏡 ですね。実はライトノベルは、今からが一番楽しい時期なのかもしれませんよ。僕はまだ40歳と、おふたりにくらべたら「若手」ですので、まだまだ下の世代と負けないように頑張ります!おふたりや会長を始め、この業界を作ってくださったみなさんに対する感謝を忘れないようにしつつ。

角川 本当に、今のライトノベルは、日本のマーケットだけでは終わらない、世界から注目されるワールドワイドな存在になっています。みなさんはもちろん、これからデビューされようという方も、自分の仕事が世界に向かうものであると意識してほしい。そして、自分の存在、自分の生み出す作品のことを大事にしてほしいと思っています。

——貴重なお話、ありがとうございました!

(司会・構成:前田久)

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