●6月7日(日曜日) その4

「あははは。あー。ふっ、ははは……おっけ。りょーかい。後輩君の対女の子スキルが壊滅的だってことは、今のやりとりでよくわかったよ」

「……反論も言い訳もしないでおきます」

 できるはずもなかった。

「正直、悩みますね。どういう態度が兄妹きようだいとしてふさわしいのか。どんなふうに気遣っていけばいいのか。そんな心配ばっかりでとてもじゃないけど美人と同居だの何だのと喜ぶ気にもなれません」

「後輩君なら自然体にしてれば大丈夫だと思うけどねー」

「嫌われませんか、自然体」

「後輩君は嫌い? わたしの自然体」

「……全然」

「ほらぁ」

「でも読売先輩、美人だしな……。美人の自然体と俺みたいな陰キャの自然体が同価値なわけないしなぁ」

「いや自己評価低すぎでしょぉ。わたし結構気に入ってるのになぁ、後輩君のこと」

「でも読売先輩、変人だしな……」

「おっ。同じ文脈で正反対の台詞せりふ。いいね。芸術点高しだね」

「そういうところですよ」

 会話の中でいことを言うと読売先輩は唐突に評論家の顔に変わる。彼女いわく、文学少女ならではのたしなみらしく、日常の中に潜む美しい修辞学的表現レトリツクに常に目を光らせているのだという。

 オヤジギャグを毎秒考えてる中年男性と本質は同じなのだが、その残酷な真実は俺の胸の中だけにしまってあった。

 文学少女と中年男性の相似にかなしみを抱いていると、読売先輩は、そうだ、と言って、パタパタと小走りに売場へ向かった。

 すこしして彼女が戻ってくる。その手には一冊の本がある。

「あったあった。これ、オススメ」

「『男女の科学』?」

「他人──特に異性と仲良くなるための方法が、心理学の研究に基づいて書かれててね。わたしも結構参考にしてるんだよ」

「面白そうですね」

 渡された本をパラパラとめくった俺は、素直にそう言った。目次をざっと眺めるだけでも、今の俺にとって必要な一冊になりそうな予感がする。

 いわく、まずは相手を知るべし。

 曰く、次に、自分を知るべし。

 曰く、そのためにも自分自身を客観視するすべを身につけよ。

 他の本にもこれに近いことは書かれていた。だからこそ俺は自分を客観視する生き方をしていきたいと考えてきたわけだし、その点については特に目新しい論でもない。

 だが『男女の科学』の目次に含まれていたある一文に目が吸い寄せられた。

『客観視能力を高めたいなら日記をつけろ!』

 具体的、かつ、すぐに使えそうな方法。その一点の新しさだけで読む気が起きる。

 読書を趣味にしていると過去に読んだものと似たような記述の本に当たることも多いが、題材が同じだからこそ著者ごとの細かなテイスト、切り口の違いを落語的に楽しめる。

 俺が目次に関心を示してるのを表情から読み取ったのか、よみうり先輩はサキュバスめいた仕草でニヤリと笑う。

「本の効果はわたしがキミで実証済みだったり」

「使われてたんですか」

しんぴようせい高しでしょ? 実際、わたしと後輩君はうまくやれてるわけで」

「確かに、これ以上ない説得力ですね」

 百の推論よりも一の実行。

 言葉を尽くしてダイエットの素晴らしさを説くデブよりも、黙々と努力を続け現在進行で痩せゆく姿を見せつける元デブのほうが何倍も利口だ。

 結局、俺はその本を買うことにした。

 シフトの時間を終えて更衣室でバイトの制服を脱いだ後、取り置きしてもらっておいた『男女の科学』を深夜0時まで勤務が続く読売先輩から購入する。夜10時までしか働けない高校生と違い、まだまだ帰れないことを彼女は嘆いていた。

 折りたてのブックカバーに丁寧に包まれた本を受け取り、カバンに入れて帰ろうとし、ふと俺は振り返った。

「さっきのナンパ男みたいなのに絡まれたら、いつでも呼び出してくださいね。チャリ、飛ばしてくるんで」

 一瞬、きょとんとする読売先輩。しかしすぐに、にやあ、とうれしそうに顔をとろけさせた。

「頼もしいー♪ それじゃ、後輩君を呼んで、警察も呼ぶね」

「順番は逆でお願いします」

 警察を呼べるならその後輩君はどう考えても不要だった。


 自宅マンションの駐輪場に着く頃には夜10時を回っていた。

 帰り道、自転車を手で押しながらオススメの日記アプリを検索、DLしていたので普段よりすこし時間がかかったのだ。

 駐輪場に愛車をめ、エレベーターで三階に上がる途中、ふと妙な罪悪感に襲われる。

 これまでの生活と同じ感覚でマイペースに帰ってきてしまったが、よく考えたらさんやあやさんにはバイトが何時に終わるか教えた記憶がない。

 親父おやじがうまく説明してくれてたらいいんだが、そういう繊細なフォローは正直まったく期待できなかった。

 家族全員寝ている可能性も考えて音をあまり立てないように鍵を開けドアを開け、そろりと足を忍ばせてリビングへ。曇りガラスのドア越しにあかりが漏れている。誰かが起きてるんだ。

 すこし身の引き締まるのを感じながら俺はリビングに足を踏み入れた。

 リビングでは綾瀬さんがひとりソファに座っていた。

 ホットココアだろうか、甘い湯気を立ち昇らせるカップを口に寄せて、彼女は無表情でスマホをいじっている。SNSだろうか。相手は友達か、あるいは彼氏か。これだけ美人でファッションセンスもいい、派手めなギャルなのだから、どちらもあり得そうな話だ。

「ただいま」

「え? あー、うん」

 スマホから顔をあげた綾瀬さんが生返事をした。

 適当にあしらったというよりは困惑を含んだような表情で、外国人に道案内を頼まれたかのような目がぼんやりとこちらを向いている。

「……綾瀬さん?」

「ごめん。ただいま、ってあんまり言われたことなかったから。どう返事をすればいいかわかんなかった」

「ああ……そっか。生活時間、ズレてたから」

 そういえば夜の仕事をしている亜季子さんとは寝る時間が合わない、と言っていたような気がする。

 最初聞いたときはまあそんな家庭もあるよなぁぐらいにしか思っていなかったのだが、ただいまのひと言にさえ戸惑うという事実は妙に胸が詰まった。

「深刻そうな顔してる」

 あはは、と綾瀬さんは苦笑した。

 どうやら俺は内心がかなり表に出ているみたいだった。

「大丈夫だよ。べつにひどい扱いされてたとかじゃないから。私が学校にいる間に帰ってきて睡眠と用事を済ませて、私が帰ってくる頃にまた出勤していく。──そういうふうにルーチンを回してるだけ」

「あんなに仲良さそうだったのに」

母娘おやこだしね。今日は久しぶりに一緒に買い物できたし、けっこう楽しかった」

 そう語った彼女の声は抑揚に乏しく、表情も無に近い。

 あまりにも大人びたドライな空気をまとっている理由が彼女の話を聞いているとなんとなくわかるような気がした。寂しがる気配が皆無なのは、孤独に慣れているからなのだろう。

 もともと片親と言えどももう高校生。俺自身もそうだけど、親と会えないからってどうという年齢でもなかった。

 そんなことよりも、友達か彼氏とのメッセなのかわからないが、スマホでしていたことを邪魔してしまった。

 申し訳ない気持ちが湧いてきて、俺はすぐにでも自室に引っ込みたくなる。

「風呂入って寝ようと思うんだけど」

「どうぞ。私はどっちも最後でいいから。いつも夜遅いし」

「そっか。了解」

 素直に言う通りに自室に引っ込み入浴の支度をしながらも、俺はあやさんの発言の言外の意味について考えていた。

 風呂は最後がいい。

 睡眠も最後がいい。

 そりゃ同い年の男子、それもほぼ初対面の人間と暮らす一日目なんだから当然だ。自分がかった後の湯舟なんて使われたくないだろうし、自分の寝室があるとはいえ先に寝て無防備な姿をさらしたくもないだろう。

 だとしたら俺の存在が彼女に夜更かしをさせてる可能性もある。

 ──なるべく早めに済ませよう。

 そう決意して俺はいつも三十分かけて入る風呂を十分で上がり、残り二十分で湯を抜き浴槽を洗い、また湯張りし直した。

 い接し方の答えがまだ出ないなりに、今の自分の頭で考えられる最大限の異性への配慮をしようと思った。


 ──余談だが。

 初めてひとつ屋根の下で同い年の女子と一夜を過ごすという状況で、少年誌のラブコメによくあるであろう、ドキドキのワンシーンは残念ながら訪れなかった。現実におけるまいとの生活は、二次元のそれとはまったく違うのだということは、冒頭でも話した通りである。

 とはいえ異性の存在をまったく意識せずに眠れたのはひとえに意識を手放すまでの間、綾瀬さんが一度も自宅ならではの油断した姿を見せなかったからだろう。

 翌朝も俺が目覚めたときにはすでに綾瀬さんは身だしなみのすべてを完璧に整えた状態でリビングにおり、ドキドキするタイミングなど一度も与えてもらえなかったけれど──。

「おはよ。よく眠れた?」

「おかげさまで」

「私も、いいお湯だった。感謝してる」

 ──そんなやりとりからはドライなだけじゃないあやさんの人間的魅力がかいえて、二次元的ではないけれど、この関係はちょっといいなと素直に思ってしまうのだった。

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