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 昨晩の寝不足が祟り、眠気が身体を支配していた。

 人類が生み出した巨悪、ベッド。人の睡眠欲を促進させるだけでなく、ようやく目を覚ましたと思えば、またしても眠気を誘う。

 ふしだらな身体をなんとか律して出勤する朝八時。

 学校へ来ることを出勤と呼ぶことに違和感が残る。一般的な日本人であれば、学校とは登校する場所と認知しているはずだ。

 ガタつき、素直にスライドしてくれない職員室の扉は、出勤することに対する憂鬱な気持ちを増して、一際重たく感じる。

「……おはようございます」

 扉を引く音を最小限に抑えるだけでなく、挨拶する声はか細くて誰に聞こえるわけでもない。人に気遣い、なるべく音を立てない。これぞ礼節を重んじるマナーだ。声を張ることが面倒とかではない。

 出勤してきた俺のことを見る目は一つとしてない。誰もが忙しなく働いていると思えば、それも当然のことだ。最初から返事など期待していないし、悲しむ理由はどこにもない。教師が朝から忙しいなんてことはないし、単純に無視されているだけだが。

 扉をくぐった先、数歩進めば自分専用のデスクへと辿り着く。

 出入り口から最も近い位置にポジションを用意してもらった俺は、下手な移動を必要としない。その分、人の出入りがすぐそばでおこなわれるため、常々背後に気を遣わないといけなかったりする。

 赴任二年目にして荒廃したデスクの上。

 乱雑にまとめられた書類、資料は本立てから頭を出し、角が折れ曲がっているなど微塵も整然としていない。一応、これでも整頓しているつもりだ。何がどこにあるかくらいは大体把握している。部屋を片付けられない奴の常套句みたいだな。

 デスクの上に鞄を放り捨てる。優しく投げ捨てたこともあり、風を浴びたプリントの端をはためかせる程度の被害で済んだ。

たかみや先生、おはようございます」

 ふと耳を打つ柔らかなボイス。まるで天使のような甘い声だ。出勤したつもりが思わず昇天したかと勘違いしてしまう。

 この職場において、高宮という名字で現世に生を受けている人物は俺以外存在しない。挨拶なら先ほど済ませているが、名指しと来ては反応せざるをえなかった。

 首を九〇度、右方向に曲げる。

「今日も眠そうですね」

 俺が顔を見せたことでニコリと笑みを浮かべる彼女。お天気キャスター顔負けの笑顔はまさしくもぎたてフレッシュ。新鮮なんて概念を逸脱している。

「……おはようございます。おお先生」

 会釈と共に挨拶を済ませ、安物のデスクチェアをひく。椅子の脚先に装着されたキャスターが転がって、床に緩い音が響いた。

 腰をおろすと追随するように息が漏れる。『どっこいしょ』と言わないだけマシだが、二〇代前半にして老化が進んでいる気がした。ちなみに日本国民の大半が、高校生あたりからもれなく自分のことを老いた、とよく口にする。ソースは俺。卒論のテーマに悩んでいる大学生がいたら、是非とも研究テーマにしてもらいたい。

 さて、メールチェックでもしますか。社会人の朝と言えばメールチェックだ。何も届いてないだろうけど。

「ちょっと! 高宮先生!」

 耳元で騒がしい声が再び『高宮先生』を呼ぶ。

「なんですか……」

 怠さを前面に押し出した気のない返事に合わせ、椅子を右に九〇度回転させた。

 移り変わった視界には、唇を尖らせてムスッとした女性が一人。

 彼女の名前は大津

 このじようぐち高校に勤めるうら若き女性教師だ。担当科目は数学。

 教師と聞くとキッチリとしたイメージが強いけれど、彼女の外見はそのイメージを助長させることはない。栗色に染められた髪は毛先がカールしている。長いまつげは、付けまつげを付けているのか、付けていないのか、俺にはわからない。毎日欠かすことがないのが頰の薄いチーク。彼女はオシャレというものを確実にこなしている。

 起床、洗顔、髭剃り、出勤のルーチンワークしかこなしていない俺とは大違いだ。

 大津絵里は俺よりも一つ上の先輩。年が一つ違うだけでここまで変わるのか、と未来の自分に期待してしまう反面、あと一年で彼女のようにしっかりとした人間になれるとは考えられない。

「せっかく人が話しかけているんですから、ちゃんと反応してくださいよ!」

「挨拶しましたよね?」

 俺は眉をひそめて不満げな表情を作る。

 社会人二年目の俺は、社会という闇世界に飼い慣らされておらず、先輩に対しても御覧の通り不満タラタラな表情を包み隠すことはない。俺の考えだと人は後輩ができない限り、規律を守る意義を知ることはない。つまり下っ端である現状において、生意気であることこそが俺の仕事だ。

「どうして新人なのにそんなふてぶてしい態度が取れるのかな」

 はぁ、とため息交じりにお手上げだと両手をあげる大津先生。その顔は呆れて物も言えないと言いたげだった。言うことがないなら、これで終わりにしてもらえると嬉しい。

 しかし、そうは問屋がおろさない。彼女の口が閉じられることはなかった。

「そういえば高宮先生、今年からクラス担任ですよね。ようやくって感じですか」

「ようやく?」

 大津先生が何を言いたいのかを理解できず、思わず首を傾げてしまう。

「教師と言えばクラス担任じゃないですか! 大変なこともたくさんありますけど、一緒に頑張りましょうね!!」

 彼女の両腕の先には、ぐっと握られた拳。頰が上がり、ファイトと笑う彼女の瞳が視線を寄越す。俺は大津先生から視線をやや斜め下に落とした。眩しすぎて直視できない。

 大津絵里はこの職場において、男性教員たちからちやほやされている。明るい笑顔を振りまき、見ているだけで元気になってしまう仕草で応える。何も俺だけにこういった態度を見せるわけではなかった。

 彼女の人気は留まることを知らない。しょっちゅう飲み会に誘われている場面を見かける。デスクが隣ということもあり、男性教員から誘いを受ける光景をこれまで幾度となく見てきた。誘いに応じる、応じない。どちらにせよ明るい笑顔で対応されたら、また誘いたくなるのもわかる。

 対照的に、俺は半年以上前から職場で飲みの誘いを受けていない。便宜上全体の飲み会には出席しているが、他のすべてを断っていたら遂に誘いが来なくなった。誘われても応じないが、誘われないことが寂しくないわけではない。我ながら面倒な人間だ。

「大津先生は今年で二回目でしたっけ?」

「うん。去年が初めて。わからないことがあったら、お姉さんに何でも聞いていいんだからね?」

 大津先生は誇らしげに腕を組み、うふふと笑う。どうでもいいですけど、プロゲーマーもそのポージングしますよね。

 その組んだ両腕の上に乗っかっているたわわに実った二つの果実。それの正確なサイズについて、気にならないわけではない。彼女が言う通り、目に見えてわからないことと言えばそれだ。セクハラで訴えられそうだから口が裂けても聞かないでおこう。

「……」

 先からバシバシと感じる先輩風。大津先生にとって俺は、社会人になって初めての後輩だ。御覧の通り、風がビュービュー吹いている。おかげで扇風機が稼働していないにもかかわらず、朝からやけに涼しい。

「私も同じ二年担当だから、協力し合おうね!」

「そうですね。何かあったらお願いします」

 社交辞令を一つ。椅子の角度を元に戻してデスクに向かう。

「ちょっと!」

 ほんの少し荒らげた彼女の声に釣られて首が動いてしまった。眼前には飛んでくる華奢な手が二つ。

「え?」

 両頰に手が伸びてきたかと思えば、むにゅっと摘ままれてしまう。

 手から先、大津先生の腕は透き通るような白い肌。何一つ穢れを知らない純白さを思わせる。その先で不機嫌をこれでもかというほど表現した大津先生の顔と対面。

 膨らんだ頰に不満げな瞳。え? 何これあざとい。

 俺が訓練された陰キャラじゃなかったら、今頃恋に落ちていたかもしれない。

「本当に高宮先生は……」

 大津先生はすうっと吐き出すようにため息をこぼした。

 その間も両頰の拘束が解かれることはなく、否応なしに表情筋が伸ばされる。

「爪、痛いんで離してもらってもいいですか?」

 自由に動かすことができない口角。ほごほごとした声が口の中にこもった。自分では自分が何を言っているのかわかるけれど、彼女の耳が正しく捉えている保証はない。

 親指の爪が肌に食いこんでいる。別段、わめくほど痛いとは言えない。しかし、両頰を解放してもらうためには、多少の誇張表現も必要だ。

 大津先生は気難しそうな表情を浮かべながらも、俺の訴えを聞き入れる。頰から離れた手は、ゆっくりと遠のいていく。

「教師に大事なこと、何か知ってます?」

「……突然どうしたんですか?」

「いいから答えてください」

 穏やかな顔つきながら、急かし気味に回答を求められる。

 この空気感。適当に誤魔化すことはできそうにない。漏れそうになるため息をギリギリのところで呑み込んだ。

 彼女の問いは漠然としたもので、模範解答はない。どちらかといえば、自由記述型の問題だ。自分の考えを論じる空欄。配点は何点だろうか。

「なんですかね?」

 即座に答えが出ない。自分には似つかわしくない問いだと思ったからだ。教師にとって大事なこと。俺はそんなことを考えるキャラじゃない。けれど、その問いは不思議と胸の内でわだかまる。

 教師に大事なこと。知性、努力、根性、体力。

 ありきたりなワードが頭の中を埋め尽くす。それらしいものばかりだが、大津先生がそれらで満足してくれるとは考えられなかった。加えて自分自身、納得できるものではない。今どき根性論なんて語られたら、きっと笑いを堪えられないだろう。

「高宮先生にはまだわからないかな」

 優越感を隠せないにやつき。先輩故に吹かせたくなる風を、理解できないわけではないが、その嬉しそうな顔に少々腹が立った。

「模範解答をお願いしてもいいですか」

 空欄を埋めるためのペンを捨て、解答冊子へと手を伸ばす。回答を放棄したのは芽生えたイラつきを誤魔化すため。

 答えを覗き見ることは、教師にとって当然のことだ。答えを見てはいけないのは、夏休みの宿題くらいのもの。得てして答えは見るためにある。教師であったとしても、答えを見ずにすべてがわかるとは限らない。わかった気になって答えを見ようとしないこと、それこそ慢心と言える。保険として模範解答に目を通す。もし自分の考えたことが違ったのなら、理解できるように苦悩するまでだ。

 俺の投げやりな反応。それに対して大津先生は眉間にしわを寄せ、ムスッと顔をしかめる。

「すぐに答えを知ろうとする高宮先生の癖、私はよくないと思いますよ」

「答えがわからないままよりはマシだと思いますけど」

「それは、そうだけど……」

 俺の言い分がわからないわけではない。理に適っているとも言える。しかし、その考え方を許容したくはない、と言いたげな顔をしていた。

「それで、大津先生ならどう答えるんですか?」

 蛇足はいらない。解答がわかればそれでいい。

 途中式に価値を見出すのは、何も数学ばかりではない。国語、英語だって答えに至るまでの経緯は大事だ。それは人生においても同じことが言える。だからこそ、俺の浅い教師歴でそれを語るのはおこがましい。

 答えを急かす俺の言葉に、大津先生はにこりと笑った。

「私は、笑顔かな」

 己の答えを言葉だけではなく、実際に体現してみせる。確かに彼女が微笑むことで何かがプラスの方向へと進みそうだ。となれば、彼女にとって大事なことは笑顔だとする言い分も頷ける。教師関係ないけど。

「笑顔。……俺には無理ですね」

 普段から笑顔を作ることがない。人と話していても仏頂面。表情を作るというのは意外にも疲れることで、取り繕っているとしても、ニコニコと笑顔を作っている大津先生は尊敬に値する。

 それに無表情お化けと生徒間で揶揄されている俺に笑顔は似合わない。今更イメチェンするわけにもいかないし。俺が急に笑顔を見せるようになったら、それこそホラーだ。

「それなら、高宮先生の答えを見つけないとね」

 何かを悟った風な彼女の言葉。それらしく、どこか噓くさい内容だ。まるで青春を語るドラマに出てきそうなフレーズ。しかし、青春という言葉に酔えるほど、俺は青臭さを残しているつもりはない。

 俺の答え。……そんなものがあるとは考えられない。

 返す言葉に悩んでいると、職員室の最奥に座る教頭が声をあげる。朝礼前の伝達事項の確認を始めたことで俺たちの会話は打ち切られた。

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