Prologue 僕と彼女の出会い




 これは僕が失った、二百十四回にも及ぶ一週間の恋の話だ。


 そして──


 これはわたしが手にした、四年に及ぶたった一度きりの恋の話。







「ねえ、よしくん。わたしはあなたが──」

 見ず知らずの女の子に声をかけられた。

 春の日ざしのように暖かく、花を揺らす風のように柔らかな声だった。

 思い返せば、僕はまずその声にかれたのだと思う。


   *


 時計の針が十時を過ぎ、十一時にさしかかろうとしていた。

 参考書を詰め込んだかばんのベルトが肩に食い込んでやたらと痛い。おなかだってくうくう鳴っている。いつもならとっくに家に帰っている時間だ。

 けれどもその日の僕は、どこに向かうというわけでもなく町をさまよい続けていた。

 数時間前の出来事が、頭の中から離れない。

 僕が逃げてしまったぐな瞳。

 強い感情。

 薄暗い放課後の教室で、クラスメイトであるりんどうあかは僕に言った。

「あたし、ハルが好き。あたしと付き合って」

 彼女の顔は見たことないくらい赤くなっていたのに、肩だって震えていたのに、その声だけは大きく、決して揺れることはなかった。

 そんな彼女はいつものように魅力的で、れいだった。

 すごくすごくれいだった。

 だから、僕も好きだよ、なんて言えたらどれだけよかったか。

 事実、僕は朱音のことを少なからずおもっている。ただ僕のそれと彼女の好きは、同じものではない。色も形も重さも、多分、種類すら。

 僕たちが胸に抱いた気持ちは等価値ではないのだ。

 たったそれだけの事実が、おもいを交わすことを拒んでしまった。

「ごめん」

 やけに渇く喉を唾でごまかしながら、それだけをなんとか告げる。

 朱音の首がゆっくりと垂れ、やがてうつむいた。随分と長くなった髪が彼女の顔を隠してしまう。それでも朱音は何度か口を開こうとしたけれど、おもいは吐息に変わるばかりで、もう言葉をつむぐことはなかった。

 僕も何も言うことが出来ず、頭だけを下げて空き教室から出ていった。

 そこから先は覚えていない。頭の一部分がしたように働かず、家に帰ることもなく、ひたすら歩き続けた。

 冬なのに、背中に汗がにじむ。世界は瞳の中で焦点を結ぶことなく、ぐらぐらと揺れている。まるで止まり方など忘れてしまったみたいに、足は前へ前へと進み続けた。

 そんな僕がようやく立ち止まったのは、なんの変哲もない空き地の前を通った時のこと。

 いつの間にか変わっていた看板に気付いたからだ。

 何年も前から更地だったこの場所で、次の春がやってくる頃にビルの建設工事が始まるらしい。そうか。ここ、なくなるのか。思い出と呼んでいいのか分からないけれど、ほんの少しの思い入れがある場所だった。

 かつてこの場所に猫の遺体を埋めたことがあった。

 真っ白な毛並みのれいな猫。

 眠っているように目を閉じた猫の小さな体に指の先が触れて、僕はあの時、生まれて初めてその概念を理解した。ああ、ここに命はもうない。抜け殻だ。固く、重く、何より冷たい。

 中学生だった僕の前にあったのは、〝死〟だった。

 どうすることも出来なかった。

 それで多くの人がするように、自分の心を軽くするためだけに白い体に土をかぶせ、手を合わせたのだ。もう、四年くらい前の出来事になる。

 気付いた時、足はふらりと空き地の中へと向かっていた。あの日のように手くらいは合わせておこう。このあてのない逃避を終わらせるためのきっかけにちょうどいい。そう思った。

 そこで、僕は彼女に出会った。

 あの真っ白な猫のようにとてもれいな女の子だった。雪と見間違う白い肌に、リンゴみたいな赤い頰。長い髪に雪の結晶がからまっている。

 ひとひらの雪が名前も知らない女の子の頰に触れて溶けた。とても幸せそうに笑っているのに、たった一片の雪のせいで泣いているようにも見える。

 彼女の形のいい唇が動き、やがて真っ白な言葉をつむいだ。


 ──ねえ、由くん。わたしはあなたが好きです。


 どうしてなんだろう。

 どうして朱音の言葉では動かなかったものが、見ず知らずの女の子のたった一言で簡単に転がり始めるのだろう。余裕とか理性とかそんなものは全て、一瞬で吹き飛んだ。

 その感情を前にして僕はあまりに無力だった。

 僕の返答に彼女は笑った。

 とてもとてもうれしそうに。

 それから少しだけ寂しそうに。

 高校三年の冬のこと。

 こうして僕はしいと出会った。


 これが、僕と由希の出会いだ。

 だから。

 そう、だからこそ、僕は何も知らなかった。

 由希があの時、どんなおもいで僕に告白したのかを。

 由希があの瞬間、どんな決意をして僕の前で微笑ほほえんでいたのかを。

 由希が僕に与えたものも、僕の手から溶け、こぼれ落ちていくであろうものも。

 本当に何一つとして知らなかったのだ。

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