Day.1 女子高生、はじめてのおてつだい

第十話 作家と重版とハッピーエンド(1/2)

〝ホヅミ先生はどうして、小説を書くんですか?〟


 まつくんに、そんなことを聞かれたことがある。

 あれはいつだったか。

 まだ出会って、そう日が流れていなかった頃だ。

 原稿が思うように進まずに、食べ物がろくに喉を通らなかった。それでも生き物というのはどこまでも不完全な形をしていて、なにも食べなければきちんと腹が減った。おなかがすけば、なにかを口にした。すぐに気持ち悪くなって吐き出した。胃が空っぽになっても、気持ち悪さだけは残り続け何度も何度もえづいた。トイレから出られない夜が続く。

 こうなると、まずまともな食事が取れなくなる。

 まつくんには申し訳なかったけれど、その間はプリンとか、ヨーグルトとか、ゼリーなんかを用意してもらった。それくらいなら、ギリギリ吐き出さずにすむからだ。

 不調はそれだけじゃなかった。

 目をつぶった途端に胸の内に不安がぶわっと広がっていくので、満足な睡眠も取れない。体を限界まで酷使してからとんにもぐり込み、ずっとずっと強く目をつぶり、祈るような気持ちで体を震わせて、二時間とか三時間くらい気絶するように眠った。

 起きても頭は重く、体も重く、はっきり言って仕事のできる体調ではなかったけれど、それでも小説を書いていないと不安になった。起きてすぐにパソコンの前に座り、うつろな目をして一万字を書き、一万千字を消した。なにをしても駄目な気がした。

 全ボツが続いたせいもあっただろう。

 あるいは、作風を変えたからか。

 これまでなんとか積みあげてきた自信は全てせ、いつだって不安は僕と共にあった。

 目の下のクマは濃くなり、頰はこけて。

 腕にはじんしんと、それをガリガリときむしった赤い爪痕。

 ただただ、なんの生産性もない時間だけが流れていった。

 あー、と多分百回目くらいの絶叫の後、僕は八割がた書きあがっていた章を丸々消した。

 これで何度目だ。ちっともくいかない。くいかないからあせる。あせるからくいかない。最低のせんが渦巻いて、僕の首をじわじわと絞めていく。

 ダンッとキーボードを強くたたいた。

 真っ白な画面に、法則性のない文字がほとんど同時にいくつか表示された。

 痛みだけが熱に変わって手の中に残っていた。

『少し休憩しませんか?』

 僕のあまりに悲惨な様子を見かねたのだろう、まつくんがコーヒーを入れてくれた。そばには一口サイズのチョコが添えられてある。

 渇いた口をコーヒーで湿らせてから、チョコレートをめた。まずに、溶けて消えるまで、ずうっとめていた。その甘さのおかげで、呼吸ができた。

 僕はその瞬間まで、自分がまともに呼吸ができていないことに気付いていなかったらしい。

 パソコン上で点滅するバーを眺めながら、礼を言う。

『ありがとう』

 笑ったつもりだけど、頰がこわばってきちんと笑えていないことがわかる。

『あの、聞いてもいいですか?』

『どうしたの?』

『ホヅミ先生はどうして、小説を書くんですか?』

『どうしてって、どういうこと?』

『そんなにつらそうにしているのに、どうしてまだ小説を書くんだろうって』

『……仕事だからだよ。お金を稼ぐんだ。楽な道なんて一つもない。サラリーマンも、政治家も、公務員も、医者やコンビニ店員、タクシーの運転手。編集者やイラストレーターだって、誰もが泣きたい夜を越えて、眠い朝を我慢して、怒りたいのに耐えて、歯を食いしばって働いてる。職業にせんなんてない。どれも等しく大変だ。僕だけが特別なわけじゃない』

 なんて、自分でも驚くくらいれいな模範解答がするりと口から出ていた。

 実際、そういう理由だっていくらかはあるから、まるっきりうそってわけでもないし。

『ただ、これが僕の選んだ道ってだけ。これしかもう、生き方を知らないんだ』

『そうですか? もっと楽な生き方はたくさんあると思いますけど』

『人付き合いが苦手だから、選択肢が少ないのさ』

『小説家だって、誰かとつながっています。ううん。小説っていう媒体を通して、普通の人よりももっとずっとたくさんの人とつながっていますよ』

 なかなか納得してくれない。

 しばし考えて、言葉を継ぐ。

『じゃあ、こういうのはどう? 僕はふたつ担当と約束していることがあるんだよ。小説の累計発行部数が百万部を越えたら、彼女になんでもしてもらえるっていう、そういう約束。僕はそれで童貞を捨てるつもりなんだ。それが書き続ける理由』

『先生、童貞だったんですか?』

 若干、まつくんが頰をひきつらせた。

 しまった。余計なことを口にしたか。

『……いいだろ、別に。僕は理想が高いんだ。それに初めては結婚する人とって決めてあるし』

『担当さんって、美人さんなんですか?』

『あれ? 編集部で会ったことないの?』

 面接とかもなかったのかな。

 それとも、そういうのは総務とかがまとめてやってしまうのだろうか。

『え、ええっと。実はそうなんですよ。お会いしたことなくて。あははは』

『ふうん。まあ、美人だよ。あと、胸がデカい』

『胸が大きいんですか』

『そう。Gカップあるんだって』

『男の人って、本当に胸が好きなんですね』

 まつくんが自分の胸もとに手を持っていく。決して大きいわけじゃないけれど、小さくもない。平均程度。僕は巨乳が好きだけど、それだけが好きなわけじゃない。美乳に、微乳。そういうのも大好物です。つつましい胸の子がそれを気にしている仕草とか、正直、ぐっとくるよね。

『これはきっとアダムの頃から受け継がれてきた男の抱える原罪の一つなんだよ』

『アダムって巨乳が好きなんですか?』

『知らない』

 でも、アダムくんも男の子なんだからそうなんじゃないのかな?

 男は大体、乳が好き。

『もう。適当なんですから。大体、こういうのはどう、って聞き方からして、つまり本当の理由じゃないってことですよね?』

 残念。これも納得いただけないらしい。

『困ったな。どれも本当なんだけど。でも、僕が小説を書き続ける一番の理由は、うん。それは、まだ内緒にしておこうかな。いつか気分が乗った時にでもちゃんと教えてあげるよ』

『ああ! やっぱりなにかあるんじゃないですか』

 はぐらかされたことにねたのか、まつくんは頰を膨らませていた。

 正直なところ、大した理由ではないんだ。

 でも、僕はまだそれを口にするだけのことを成し遂げていない。

 だから、言えない。格好悪くて、口にできない。男っていうのは、そういう下らないプライドとかってものを必死に守ってしまう生き物だから。

 そんなことを、パソコンの前でぼうっとしながら、思い返していた。

 あの頃、永遠に終わらないと思えた原稿が、今、終わろうとしていた。

 社会人のおっさんがそれまでなんの縁もなかった女子高生と出会って、仲良くなって、ご飯なんか食べるようになって、女の子がいつしか家に押しかけてきたりして。遊園地デートをしたり、勉強を教えたり。

 笑って、泣いて、時には手なんかつないだりして。

 特別なことなんてなにもない。

 異世界に召喚されたり、ゲームに閉じ込められたり、空から女の子が降ってくるような運命的な出会いもなければ、強いままでニューゲーム、俺Tueeeなんて物語の約束事、ラッキースケベなTo LOVEラブるなんてのは、やっぱりなにも起こらない。

 僕がいて、君がいる。

 本当に、ただそれだけの話。

「まあ、でも、悪くないよな」

 まつくんと過ごしたこの数ヶ月を思い返しながら、僕はページの最後に〝おわり〟と打ち込んだ。それから、体をぐんと思いっきり伸ばす。

「ほんと悪くない。上等じゃないか」

 窓の外に、ゆっくりと春へと移ろっていく空が見えた。

 水色の大気の中を、白い雲が漂っている。形を変え、流れていく。元いた場所には戻れない。時とはそういうものだ。全てが移ろっていく中で、変わらないものはない。

 書きあげたばかりの原稿をプリントアウトしていると、まつくんがやってきた。

 外は寒いのか、鼻の頭が赤くなっていた。首に巻き付けていたマフラーを取り、コートを脱いでいる。僕は言った。

「ああ、ちょうどいいや。これ、読んでくれる?」

「……完成したんですか?」

「うん。多分。でも、一番大事な作業がまだ残ってる。感想を聞かせてもらえるかな?」

「わたしでいいんですか?」

「馬鹿だな。君じゃなきゃ駄目なんだよ。まつくんがいてくれたから書けたラブコメだ」

 プリンターの熱が残った原稿用紙百四十一枚を、まつくんに渡す。

 手の中にあった重みがふっと軽くなる。

 原稿が僕の手から離れていった。

 まつくんが正座をして、原稿用紙を一枚、また一枚と丁寧にめくっていくそばで、僕はずっとネットサーフィンをしていた。まつくんがふっと笑うと、彼女から見えない位置でガッツポーズをした。困ったようにうなると、心配になった。呼吸が止まった。多分、心臓も止まっていた。

 ピンと張り詰め、しわの一つもなかった紙が、彼女の手で強く握られるとうれしくなった。読まれたページの端は彼女が込めた指の力と汗で、少しゆがんでいた。

 読者に目の前で小説を楽しんでもらえる。

 喜んだ顔を間近で見れる。

 こんなに心臓が痛くて、でもぜいたくな時間もないな。

 二時間が経過した頃、まつくんが深い息を吐いた。

 気付けば、窓の外はたそがれに沈んでいた。

 夜が訪れる直前の、金色の風景。

 トントンと原稿の束をそろえる音がする。

 僕はまつくんの方を振り向き、内心、ビクビクしながら尋ねた。

「どうだった?」

 まつくんは笑った。

 それはもう、幸せそうに。


「──おもしろかったです」


 それだけで全てが報われる。

 僕がこの物語に懸けた時間やおもい。その全てが。

「もっと、たくさんの言葉で伝えられたらいいんでしょうけど。でも、わたしにはこれが精いっぱいです。面白かったです。これはちゃんとホヅミ先生の作品ですね。であるわたしが保証します。とてもとても面白かった」

「いや、十分だよ。よかった。ありがとう」

 これで、本当に完成だ。

〝おわり〟を書いた時点がゴールじゃない。誰か一人でもいい。僕以外の誰かに〝面白い〟と言ってもらえてようやく完成するのだ。

 だって、小説はに読んでもらうために存在するのだから。



 それからはもう、あっという間だった。

 ふたつ担当からいくらかの指摘が入り、まつくんの意見を聞きつつ、初稿を改稿して第二稿を作成。その段になってようやく、本格的に企画にGOサインが出る。

 発売は、四月。

 ノンストップで全てが進んでいく。

 アニメ漫画専門店での購入特典用に依頼されたSSを三本ほど書きあげ、校閲の指摘が入った原稿を使って、漢字の表記ゆれや、わかり辛い表現、物語の矛盾を一つ一つ潰していく。

 これがまた、結構大変なんだ。

 僕なんかだと、一週間で同じ原稿を五十回くらい読み直したりする。

 十を超えたあたりで物語を読んでいるのか、文字の羅列を見ているのか判断がつかなくなり、二十を超えると感覚がマヒして面白さがわからなくなる。頭と目なんか、めっちゃ痛い。三十から先は気が狂うし。ちょっとした拷問だ。いっそ殺して。

 となると当然不安にかられ、ふたつ担当に、これ、本当に面白いかな、なんて弱音を漏らしてしまうってわけだ。彼女は息をするように、しれっと断言する。

「大丈夫です。ちゃんと面白いですよ」

 本当なのか、慰めなのかわからない。

「本当に?」

「本当ですって。自信もっていきましょう」

「全部、書きなおした方がよくない?」

「そんな時間はありません」

 この時の僕は最高に面倒くさいので、どれほど面白いと言われても疑ってしまうのだった。いつものこと。ふたつ担当にも面倒だと言われたし、まつくんにも言われた。二人に百回くらい尋ねて、百回とも同じ回答をもらう。

 百一回目で、ふたつ担当は悲鳴をあげた。

「いい加減にして。そんなに心配なら原稿をもう一度、ちゃんと読んでみるといいわ」

 そうしてしぶしぶ五十回目の原稿を読み終えた後にはいつも、あれ、めっちゃ面白いじゃん、と思ってしまうから不思議なものではあるのだけど。

 発売の二ヶ月前には表紙イラストが届き、それのチェック。

 カバーデザインと同時に、口絵やモノクロイラストも続々と届く。

 この段になると、もう僕にできることは特にない。

 そうして、季節は流れていった。

 冬が終わり、春を迎える。

 まつくんが二年生に進級したというその日、我が家に献本が届いた。献本ってのは、要するに見本みたいなもんだ。あと一週間もしない内に、これがたくさん刷られて本屋に並ぶ。

 キリキリと痛む胃に顔をゆがめながら、

「おかえり」

 まつくんをいつものように迎え入れた。

「はい。ただいま帰りました。先生、今日は一段と顔色が悪いですね」

「もう発売まですぐだから。本の発売前は、いつもこんなもんだよ」

「やっぱり、修羅の職業ですよね、作家って。ご飯、消化にいいものを用意しますから、食べられそうならちゃんと食べてくださいね」

「善処する」

「体壊しちゃったら、元も子もないですよ」

 あきれたようにエプロンを身につけ、ちゃっちゃっと手早く髪をまとめあげていたまつくんの手が不意にピタッと止まった。

 その視線は、編集部から届いた段ボール箱に注がれている。

「せ、先生。それは?」

 まるで宝箱でも見つけた海賊みたいに駆け寄ってくる。

「献本。本が完成したから届いたんだ」

「……少しだけ見たら駄目ですか?」

「ん? ああ、というか、あげるよ?」

「いいんですか?」

「もちろん。十冊くらいあるから好きなだけどうぞ」

「や、でも、自分でもちゃんと買いたいので一冊でいいです」

 まつくんマジ天使。

 全人類がまつくんになったら、きっと世界は平和だ。

 誰もが健やかに、穏やかに、過ごせるだろう。これはもう、あれだな。そういう人類補完計画を国家規模で行うべきじゃない? 誰か政策打ち立てて。選挙の時、僕、投票するよ。

「君は本当にいい読者だなあ。ほい」

 出来立てほやほやの一冊をまつくんに渡す。カバーのつるっとした感触も、紙のさらっとした手触りも、指を切ってしまいそうな鋭利な縁も、本当に出来あがったばかりって感じがする。

 つらいこともたくさんあったけれど、それでもこうして物語が一冊の本になるのは、何度経験してもうれしいもんだった。

 わーっと口を開けながら、まつくんはパラパラと本をめくっていた。

 何度も読んでもらって感想や意見をもらったから本文については知らないところがないだろうけど、唯一、あとがきだけは彼女も関与していない。案の定、最後の数ページで手を止め、読み始めていた。ちょっとこそばゆかったりする。

 今回のあとがきには、恒例の謝辞にいつもと違う文言を一つ加えているからだ。


〝執筆にあたって一番近くで僕を支えてくれたヒロインのモデルに、格別の感謝を〟

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