まるでそれは奇怪な生き物の様にすら見えた。
肉の蠱──そんな錯覚をしてしまう位にだ。
人間の左手首。
実際、透明な円筒の中に浮かんでいるその形はクモに似ている。
胴体から四方八方に脚を伸ばした形のクモだ。握り拳でもなく指を伸ばした平手でもなくその中間──まるで何かを掴もうとした途中であるかの様な状態で、固着している為に、そう見えてしまうのだ。
「──それが大事なものなのか?」
思わずトールはそう尋ねていた。
わざわざ金を払って人を傭い、領主の館に忍び込み、挙げ句には領主とやり合ってまで──まあこれは単に結果だが──彼女が手に入れようとした品。然したる根拠も無くトールはそれを宝石や美術品の様な何かだと思っていた。
「そう」
こっくりと頷くチャイカ。
どうやら間違いないらしい。彼女は背中から降ろした棺を開くと──その左側の中程に、つまりは遺体が普通に入っていればそこに左手首が来るであろう位置に、問題の円筒を置くと、これを固定用の紐らしきもので縛った。
「……この棺はその為の、ものか」
「そう」
とまたチャイカは頷く。
その表情は何の暗さも迷いも含まぬ、真摯な喜びに満ちている。
だが……
「一体、そんなものどうするんだ? っていうか──そもそもそれは本物の、人間の死体なのか?」
「…………」
「本物の死体だったとして、それは、誰のものなんだ?」
「……トール」
チャイカは微笑を浮かべた。
「アカリ」
「──む?」
改めて呼ばれアカリも首を傾げる。
「感謝。残り。半金」
ごそごそと更に棺の中をあさって硬貨を数枚取り出すとチャイカはトール達にそれを差し出してきた。銀貨である。それも主に北方諸国で流通しているボフダーン銀貨だ。元々銀の含有量が多い為に大陸中何処ででも使い易い貨幣だった。
「ここでか?」
トールは呆れて言う。
道の真ん中──という訳ではないにせよ、仕事の帰り道に戸外でいきなり仕事料の残金を渡される事になるとは思ってもみなかった。
「っていうか──あんた」
「…………」
チャイカはにっこり笑ったまま、銀貨を差し出したまま、動かず、喋らない。
その様子にトールは彼女の言いたい事を悟った。
(これ以上は関わるなって事か)
思えば細かい事情を話すのを彼女が渋ったのもこの為なのだろう。
どんな背景が在るのかは知らないが、トール達は彼女にとって一時的に傭っただけの、ただの行きずりで、それ以上でもそれ以下でも無かったという事か。
あの独角馬と戦った際の高揚感の為か、トールはどうもチャイカに必要以上の親近感というか仲間意識の様なものを知らず知らずの内に抱いていたのかもしれない。
元々他人だ。
だから用事が終われば別れる。それだけの事。
チャイカの捜しているものが他に何処にあるのかは知らないが、彼女はそれを求めてまたこのデルソラント市を出て行くのだろう。
「感謝!」
改めてチャイカが銀貨を載せた両手をつきだしてくる。
何をしているのか、早く受け取れ、とでも言わんばかりである。
だがトールは束の間ながらこれを逡巡した。アカリの物問いたげな視線が横から投げ掛けられるのを感じながら、しかし彼はその銀貨に手を出せずに居た。
これを受け取ればトール達とチャイカとの関係はそこで終わる。
終わる──筈だった。
しかし……
「──!?」
反応はほぼ同時。
若干だがアカリの方が早かった事を思えば、やはりトールはここしばらくの修練不足が多少祟っているのかもしれない。ともあれトールはチャイカを突き飛ばし、アカリはチャイカを背後から引っ張っていた。
突然の事にチャイカの両手から銀貨がこぼれて路面に跳ねる。
涼しげな音を立てるそれらの内の一枚を──
──ぢぃん!!
鋭い異音と共に何かが貫いていた。
何が?
それは──
(──投針!)
小柄なチャイカは殆ど空中を飛ぶ様にして移動──受け止めたアカリは一歩下がった後、勢いに逆らわず、チャイカの身体を巻き込む様にして手近な建物の陰に飛び込んでいた。
一連の動作は全て一瞬の事だ。
トールもまた腰の小剣に手を掛けたまま、路面を蹴って跳躍、やや大きめのゴミ箱の陰に身を潜めた。
そして──
「……ヴィヴィ」
困った様な、慌てた様な、そんな声が通りの奥から漂ってきた。
「いきなり、そんな──」
「ジレット様。失礼ながら」
若い男の声と──恐らくは少女の声と。
闇からゆっくりと分離する様に、三つの人影が現れる。
それは……
「乱破師相手に尋常な会話など無駄の極みですよ」
「…………」
トールは眉を顰めた。
何者かは知らないが、相手はどうもトール達を乱破師と知っているらしい。勿論、投針に対する反応を見て──ではないだろう。予め知っていて、問答無用に針を放ってきたのである。トール達が反応したのはその投擲者の殺気に対してだ。
「……何者だ?」
良くも悪くもトールとアカリ達は分断されてしまった。
しかもチャイカの棺は先程の位置に置かれたままだ。それを気にしてかチャイカがジタバタしているのをアカリが抑え込んでいるのがトールの位置からは見えた。
(……アカリ)
トールは素早く手話でアカリに告げた。
乱破師にはこの手の特殊な意思疎通法が幾つかある。混乱する戦場、静まりかえった敵陣、如何なる状況でも混乱せずに仲間と連携がとれる様に──との考え方からだ。
(チャイカを連れて逃げろ。裏山で合流。棺は俺が回収。チャイカにそう伝えろ)
(了解。チャイカを連れて離脱。裏山で合流。棺は兄様が回収)
頷くアカリ。
それを確認すると、トールは懐から攪乱用の煙玉を取り出した。
何かに擦りつければ着火して静かに煙を吐き出すが、硬いものに叩き付ければ、破裂して音と光を放つ。彼は両手に持ったそれを近付いてくる三人に向けて投げた。
──どん!
鈍い炸裂音と共に夜の街路に閃光が溢れ、風景の闇を一時的に追い払う。夜の明るさに慣れている人間にとって、これは光で眼を塞がれたのと同じだった。
チャイカを抱えて脱兎の勢いで走り出すアカリ。
同時にトールは路上に置き去りになっていた棺桶に飛びついていた。
運搬用──だろう多分──の取っ手をひっつかむと、これを背中に担ぐ様にして更に路面を蹴る。ついでに最後の煙玉を駄目押しとして地面に叩き付けるのも、忘れなかった。
だが──
「──!?」
煙玉は炸裂しなかった。
一瞬の内に近付いてきた何者か──恐らくは三人の内の一人が、剣でこれを串刺しにしていたからである。強い衝撃を与えられなければ煙玉は爆発しない。
つまり──
(こいつは……!)
トールは一瞬にして目の前に迫っていたその人物を睨み据えた。
(相当──できる)
それは金髪碧眼の若い男だった。
恐らく先程、戸惑ったかの様な声を仲間に掛けていた人物だろう。
だがこの男は煙玉の光や、その後に生じた煙にも惑わされず、一瞬で間合いを詰めてきたかと思うと、剣で、それも煙玉を破裂させない程に鋭く──衝撃を伴わない様な鋭さでこれを刺し貫いていたのだ。
生半可な武芸者では此処まで出来まい。
「──君」
その青年は身構えるトールに対して悠々と言った。
自分の技を殊更に誇る様子も無い。それがかえってこの青年の秘めたる技量の高さを示していた。今の一突きなど、彼にとっては平凡な技なのだろう。
「君は先程の、あの銀髪の少女とどういう関係なのかな」
「……なに?」
「ヴィヴィが──私の部下が君の事を乱破師だと言っていたが。もし単に金で傭われただけの関係ならばこれ以上、関わるな。それが君の為だよ」
「…………」
トールは眼を細める。
この青年は──恐らく本気で言っている。
トールに対して敵意や害意を抱いている訳ではない。この台詞は挑発でも無ければ嘲罵でもないのだ。むしろ善意からの忠告が一番近いだろう。
背丈と姿勢の関係で、若干、トールを見下ろす様な形になっているが……その表情は実に静かで清々しささえ感じられる。きちんと使命感を抱いて行動している者の、迷いの無い貌だ。
だが……
「先の、アバルト伯爵邸襲撃も君達だろう?」
「…………」
「いや。それを責める積もりは無い。決して褒められた話ではないが。ただ君はその棺を我々に渡して、立ち去るべきだ。そうすれば我々は君を追わない。我々が用があるのは、あの少女と、その棺の中身だけだ」
「機杖の事か?」
「あの少女がアバルト伯爵邸から奪ったものを、君は見ていないのか?」
首を傾げる青年。
どうやらチャイカの機杖の事ではないらしい。まああの機杖に関して言えばトールが見ても判る位に年代物だ。まさか骨董が趣味という訳でもあるまいし、この青年達が求めているのは他のものという事になる。
それはつまり──
「どうだかな」
だがトールは敢えてしらばっくれた。
ここはこの人の善さそうな乱入者に喋れるだけ喋って貰った方が良いと判断したからだ。
「一体、何が入ってるってんだ、この中に?」
「…………」
青年は口をつぐんで首を振った。
言えないという事か。まさか知らないという意味ではあるまい。
「ジレット様」
ふらりと──およそ体重を感じさせない動きで青年の左横に歩み出る少女が一人。
小柄で青年の肩の辺りまでしかない。年齢も恐らくはチャイカと同じ位──つまり十代半ばかそれ以下だろう。
顔立ちとしては非常に可愛らしい少女だ。
ただし──その鈍色の双眸はまるで刃物の様な光を帯びている。
今までのやり取りからすれば、恐らくはこの少女が先程の投針を放ったのだろう。
弾くならともかく硬貨を貫通させるとなると……それはとんでもない技量の存在を示唆する。
「乱破師との会話は無駄です。彼等の口は人を騙し欺く為にのみ動きます」
少女──恐らくヴィヴィという名なのだろう──が言った。
更に……
「同感ですな」
青年の右横に歩み出る三人目。
錆を含んだ低い声を発するその人物は、肩幅も広く背丈も青年より更に頭一つ分高い、巨漢であった。先のヴィヴィと異なり、こちらは何処か岩を想わせる、見るからに厳つい印象の容姿で、ただ歩いているだけでも周囲の空気を掻き回し、足音を響かせるかの様な印象がある。ただ腕を組んで立っているだけでも威圧感満点だ。
しかもその背には大剣を背負っている。
それは──
(──機剣か)
トールの小剣と同じく仕掛けを施された代物だ。
「乱破師はおよそ騎士の価値観とは真逆の存在です。努々真正面から交渉などなされぬ様──」
「言ってくれるな」
唸る様にトールは言った。
「暗殺者や傭兵にそこまで馬鹿にされる謂れはねえぞ」
「…………」
「…………」
ヴィヴィと巨漢は僅かに表情を揺らがせたのみだ。
だが恐らく──トールの読みは間違ってはいまい。
真ん中の『ジレット様』なる青年は騎士。
左横の『ヴィヴィ』という少女は暗殺者。
右横の名称不明の巨漢が──恐らく傭兵。
明らかに立場がばらばらで何の統一感も無い連中だが、一体何の目的で一緒に行動をしているのか。
「ニコライ。ヴィヴィ。何者であろうと我々の目的は基本的に彼女一人だ。事情を知らずにただ傭われただけの者に非はあるまい」
「…………」
騎士ジレットの物言いに──トールはかちんと来た。
何なのだ。この上から見下ろす様な物言いは。
騎士ジレットにはトールを殊更に馬鹿にする様な言動は無い。恐らくこの青年は見た目通りの真面目な善人だろう。だから彼はごくごく自然に──意識する事無く他人を見下しているだけだ。騎士としての──貴族としての教育によって、ごく当然の事として、彼は貴族以外の人間を下に見る。
それに──
(何が『事情を知らずにただ傭われただけ』──だ)
トールは地面に転がる銀貨を一瞥した。
そう。実の処トールの立場は騎士ジレットの言う通りだ。ただの通りすがり。ただの傭われ。チャイカとは仕事が終われば縁の切れる間柄である。それ以上でもそれ以下でもない事は他でもない、チャイカがそう態度で示していた。
だからこそ……それを全くの他人から指摘されるのは余計に腹が立った。
確かにいざ戦となれば冷酷無惨──即ち人倫にもとる行為でもそれが有効と分かれば実行するのに躊躇いも無いのが乱破師だ。必要とあれば人質を取る。背後から闇討ちする。虚偽を唱えて惑わす。罠を仕掛けて陥れる。未だに騎士や戦士を主役とし、大義名分が幅を利かせる戦争において、卑劣上等、卑怯常套の、勝つ為に手段を選ばない忌み役──そういう汚れ役を一手に引き受けるのが乱破師なのだ。
だが──
(……だからこそ)
何かを成したかった。
あの嵐の様な戦乱の世界で──ただ翻弄されて散っていく羽虫の一匹にはなりたくなかった。何の為に生まれて、何の為に死ぬのか、そんな事すら分からない。そんなもの、生きているといえないではないか。
幼いあの日。
あの人が死んだあの時。
トールは──
「君は乱破師なのだな」
「……だったらなんだ」
確認するかの様に尋ねてくる騎士ジレットにトールは顔をしかめて応じる。
何にせよまずい状況だ。
この三人を相手に、煙玉の残りも無く、しかも棺をかついでとなるととても逃げ切れない。あるいは棺を棄てれば──そしてその中のあの『手首』も棄てていけば、逃げ切れるかもしれないが……
(……あいつ)
チャイカ。
満足にこちらの言葉も操れないのに。
損得抜きで頼れる相手も居ないのに。
それでも何の迷いも無く彼女はあの『手首』を欲していた。自分に出来る事をやって、目標に一歩ずつ近付いていた。恐らく自分の命が危険にさらされる事だって分かっていただろう。そもそもあの不器用で要領の悪い少女が、一人旅をしていて今まで生きていられたのが不思議な位だ。戦後と言っても──いや戦後だからこそ兵士崩れの山賊やら夜盗やらには事欠かない。あるいはトールが知らないだけで既に何度も辛酸を舐めてきたかもしれない。
それでも尚──惑わず。
ただ真っ直ぐに彼女が求めたものならば……
(置いてける訳ねえだろ)
そんな風にトールは想う。
自分のこの考え方が、ある意味で乱破師としては異常なのだという事を、トールは自覚していた。そもそも彼の初陣が遅れたのも、能力不足ではなく、彼のこの性格を師が見抜いていたからだろう。
しかし……
「乱破師は徹底した合理主義者と聞く。君が彼女を主君と定めていたならばともかく──そうでないならば、庇い立てする義理はあるまい。私は騎士だが、騎士だからこそ、無駄な争いは避けたいのだ」
「ご立派なこった」
静かにそう告げてくる騎士ジレットにトールは言った。
なめられたものだ。
要するに騎士ジレットはこう言っているのだろう。お前は勝てないから膝を屈して言う事を聞けと。合理的に判断すればここで棺桶を渡して消えるのが正しいと分かる筈だ──そう告げているのだ、この男は。
(……〈鉄血転化〉はしばらく使えない)
領主邸に忍び込んでから二時間と経っていない。最低でも半日は間を空けなければ、色々な意味で危険だ。
(その状態でこの三人を──倒せるか?)
それは極めて難しいだろう。
ではどうするべきか。
「さあ。その棺を渡してくれ」
騎士ジレットがそう告げてくる。
(考えろ、考えろ、トール・アキュラ)
自らをそう叱咤しつつトールは──棺の取っ手を強く握り締めた。
*
「駄目! 不可! 戻る!」
「──駄々をこねるな」
じたばたと暴れるチャイカを脇に抱えながら走るアカリ。
「あまり面倒な様だと気絶させるぞ」
「むっ──」
アカリが本気で言っているのが分かったのだろう、チャイカは暴れるのと叫ぶのを止めた。
「……そもそも」
アカリは立ち止まってチャイカを降ろした。
先にあの三人に声を掛けられてから、区画としては二つばかり移動している。この辺りは幾つか店の並ぶ商店通りだ。昼間は賑わっているのが常だが、夜は逆に気持ち悪い位に人の姿が絶える。お陰で誰かが潜んでいても気配で見つけ易い。
幸い──つけられた様子は無い様だった。
「あなたの大事な棺桶は兄様が回収すると言っていた」
「本当?」
「ああ」
眉を顰めた貌でアカリは頷いた。
「とはいえ……むしろ心配すべきは兄様だ」
「むぃ?」
「あの三人……全員が同じ技量とは限らないが、仮にあの投針を放った者と同等と考えれば、兄様でもあの場から脱出するのは難しかろう。ましてお荷物を持っては──」
「お荷物?」
「あなたの棺桶の事だ」
アカリの眉間の皺がわずかに深さを増す。
「……納得」
「兄様も……どうしてこんな……」
頷くチャイカと、そして表情こそ変わらないが、何やら納得しかねる様子で呟くアカリ。
やがて──懊悩を脇に除けるかの様に首を振ると、アカリは改めてチャイカに向き直って言った。
「──あなたはここに居ろ」
「…………」
「私は兄様を助けに戻る」
「同道。私」
「駄目だ。足手まといだ」
アカリはすっぱりとそう告げた。
「でも──」
「既に仕事は終わっている。あなたは──私や兄様の雇い主ではない。ここまで連れてきたのはむしろオマケだ」
「…………」
チャイカが言葉に詰まった様子だった。
無理も無い。先程──もう自分達の雇用関係は終わったと彼女自身が示したからだ。
アカリの言葉は筋が通っている。
だが──
「アカリ──トール、回収」
チャイカはアカリを指差して言った。
「私──棺、回収」
「だからそれは無理だと……」
「無理。私の事情。トール手助け。アカリの事情。別物、別物」
「…………」
今度はアカリが言葉に詰まる番だった。
要するにチャイカは、棺を取り戻しに──そしてアカリはトールを助けに戻るという事になる。同行はしても目的は異なる。
そして当然──棺を取り戻しにチャイカが戻って、あの三人組に捕らわれても、あるいは殺されても、それはチャイカの事情だからアカリは気にするなと言っているのだ。
勿論そう割り切るのは乱破師アカリにとって無理な考え方ではない。
いやむしろ──
「兵は詭道なり……」
アカリは腕を組んで言った。
「まさか私達が戻ってくるとは想っていないか……?」
わざわざトールが煙玉を使ったのは、チャイカとアカリを逃がす為だというのは、あの三人組にも分かっている筈だ。
逆に言えばしばらくアカリ達は戻ってこないと踏んでいる筈である。そこに舞い戻れば──例えば回り込んで背後から攻撃を仕掛けるなり何なりすれば、まだ勝算はあるかもしれない。
「……分かった。ならば」
「感謝」
頷くアカリにチャイカは微笑した。
*
結論から言えば──トールは早々に捕縛されていた。
棺を抱えて逃げようと動いた彼を、素早く動いた巨漢と騎士ジレットの剣が左右から交叉する様に差し出されて制していたのである。首筋に触れる刃の感触にはさすがのトールも動きを止めざるを得なかった。
まして──
「……お前の剣も機剣の様だな」
巨漢は巨大な剣を片手で軽々と保持しながら言った。
「俺も機剣使いだ」
機剣使いは地味に厄介だ。
使い手が気を送り込み感覚を通じ合わせた機剣は、使い手の一部になる。剣を持ったその状態こそが最も安定した状態となり──つまりその瞬間から、剣と剣士はそういう形の生物に変化するのだ。
剣が剣士の一部になるという見方が多いが、これは逆に考える事も出来る。
剣士が剣という武器の一部になるという事だ。
機剣使いに『剣を振る』という意識は無い。
彼等は行動の全てが技だ。
「観念しろ。お前の力量ではいかに機剣使いでも俺達三人から逃れる事は出来ない」
「…………」
トールはしばし睨む様な視線をその巨漢に向けていたが──
「…………ふん」
トールは肩を竦めて構えを解いた。
ただし棺の取っ手からは手を放さない。
「改めて聞くが」
騎士ジレットが剣を突き付けたまま尋ねてくる。
こちらの剣は機剣ではない様だが──むしろある意味でその方が恐ろしい。
この騎士はただの剣で機剣使いと同じ動きをした事になる。武門の騎士には二本脚で歩く前に剣を握る者が居るなどと言われるが……あながちこの青年を見ていると間違いではないのかもしれないと思える。
「君は彼女とどういう関係だ?」
「…………」
「彼女が何者か知っているのか?」
「そっちこそ知ってるのか?」
トールはわずかに首を動かして騎士ジレットに視線を向ける。
ほんの少しだが首の皮に刃が食い込んで──トールの首に血が滲んだ。
「チャイカが何者なのか」
「勿論だ」
騎士ジレットは頷く。
「我々は正当な義に基づき、各国政府の要請を受けて行動している。自分が何者を追っているのか──彼女が何を追っているのか。理解した上で行動している」
「あんたとは違うよ」
とヴィヴィが言ってくる。
「私達は正義だ」
「…………暗殺者が、正義、ね」
トールの言葉にヴィヴィの視線が尖るが、彼女はそれ以上、何も言ってこなかった。
「まあいい。分かった。俺にこの状態で勝ち目は無い。あんたらが追ってるって品物を渡す。それでいいか?」
トールはゆっくりと身を屈めてチャイカの棺を地面に横たえる。
「手を放せ」
「いいのか?」
命じてくる巨漢にトールは言った。
「この棺にゃ爆薬が仕掛けてあるぞ。無理に開けると爆発する。あんたらの不注意で吹っ飛ばされたくはないんだがな」
「…………」
騎士ジレットと巨漢は顔を見合わせた。
彼等は束の間、考え込んでいる様だったが──
「いいだろう」
巨漢が頷いた。
「仕掛けとやらを解除しろ。それから俺達に問題の品を──『遺体』を渡せ」
「…………」
トールは考える。
この連中はチャイカの求めているものが『遺体』なのだと知っている。
ならば本当に──チャイカが何者で何を目的にあんな遺体を集めているのか、そしてあの遺体が誰のものなのかを知っているという事だ。勿論、この連中もまた誰かに傭われたか使われているだけで、本当は事情を知らないという可能性もあるが──それならそれでむしろ好都合だ。
彼等自身には細かい判断がつかないという事なのだから。
トールは騎士ジレット達の視線を背中に受けながら、棺の『仕掛け』を解除する真似をする。言うまでもなく爆薬云々はハッタリだ。だが『敵対者に渡す位なら』という考えは別に珍しくはなし──また先に煙玉を使って見せている分、彼等も爆薬の類には敏感になっているだろうとトールは考えたのだ。
そして……
「あんたらが言ってるのはこれか」
トールはチャイカの棺を開く。
その中に手を入れて固定用の紐を外し──問題の品を取り出すトール。
透明な円筒に入った手首。
トールはそれをよく見える様にと三人に掲げて見せた。
「そう。それだ」
騎士ジレットが満足げに頷く。
それを確認するとトールも満足げに笑うと──
「そうか。これか」
呟いて──投げた。
夜の闇の向こう側に向けて、その透明な筒に封入されていた、手首を。
「──!!」
思わず騎士ジレットや巨漢、そしてヴィヴィの視線がそちらに逸れる。
さすがに突き付けた剣を外す様な真似はしなかったが、しかし、注意が逸れている者の持つ剣など、死んだも同然だ。トールはやや強引だが両手の甲で──手袋には非常時に刃を受けられる様にと鉄片が仕込んである──首の左右を挟むそれらを弾き、身を沈めると、チャイカの棺を掴んで脱兎の如く駆け出した。
「ちッ──」
「構わん、あちらを!」
騎士ジレットがそう叫ぶと同時に、投げられた手首を追って走り出す。ヴィヴィもその後を追って咄嗟に走り──そして。
「…………あんたは追わないのか」
トールは一人、手首ではなくその反対方向──即ち自分を追跡してくる巨漢を睨み据えながら問うた。
「乱破師は油断ならない」
トールのすぐ後を走りながら巨漢は言った。
「投げたフリをしているだけかもな」
「そこまで器用じゃねえよ」
「いずれにせよ」
巨漢は言った。
「俺はジレット殿ほど、優しくはない」
次の瞬間、空気を抉り抜く様な勢いで巨漢の機剣が飛んできた。
これをトールは身を沈めて躱すが、躱しきれず、動きに取り残された彼の髪の何本かが千切れて空中に舞った。
「敵は減らせる内に減らしておく。相手の事情など知った事か」
「合理的な判断だな」
機剣が翻って頭上に振り下ろされるのを見ながらトールは──手にしていた棺を強引に振り回した。
「ぬおっ!?」
まさか棺を武器にしてくるとは思ってもいなかったのだろう。棺の殴打は勿論、躱されてしまったが──無理な回避で、ほんのわずかだが巨漢の体勢が崩れる。
「──っしゃ!」
鋭い呼気を吐きながらトールは棺をそのまま──投げた。
この巨漢を相手に余計な荷物を持っていては到底、勝てない。
『敵は減らせる内に減らしておく』──まさしくその通りだ。折角、あの騎士ジレットとヴィヴィとかいう暗殺者を引き離したのだから、この際、この巨漢だけでも倒しておくのが鉄則だろう。
棺が何処かの建物の壁にでも当たったのだろう。何やら硬い音が背後から響いてくるが、構わずトールは両手で双機剣を引き抜いて巨漢に相対していた。
「ふん」
巨漢は野太い笑みを浮かべながら言った。
「小僧の癖に、中々、やる」
「そうかい」
トールは唇を舌で舐めながら言う。
次の瞬間、二人はほぼ同時に動いていた。
「──ふんッ!」
巨漢が放つ剣の一撃。
これを──トールが体さばきでかわす。
どれだけ優秀な機剣使いだろうと、どれだけ強い腕力の持ち主だろうと、モノの重さは無視出来ない。ただでさえ機剣は重い上に、この長さ太さとなれば、まともに振り回すのも難しい筈だ。
自然と──その軌道は限定される。
予め飛んでくる方向が限られている攻撃ならば〈鉄血転化〉無しの状態でも避けるのはそう難しくない。
刃は虚しくトールの頭上を通り過ぎてゆく。
そして──
「──ぬっ!?」
巨漢の剣がすぐ近くの建物の壁に、音を立てて深く食い込む。
(──もらった!)
その様子を見てトールは確信した。
あれではすぐに剣は抜けまい。なまじ高い破壊力が仇になっている。弱い撃ち込みならば単に壁に弾かれただけであろうに。
トールは一歩踏み込んで巨漢の胸元に双機剣の一撃を送り出した。
必殺の確信を込めて突っ走る右の小機剣の切っ先。
だが──
「──ッ!?」
突きは、相手の脇腹を抉る事無く、虚空へと抜けていた。
信じ難い動きで巨漢の体躯が突きを避けたのだ。
それも──いきなり上に。
巨漢の体躯は恐ろしく不自然な体勢で空中にあった。
あり得ない。
巨漢の立ち位置、姿勢、そうしたものから避けられないとトールは判断していた。どれだけ柔軟な人間であろうと、その動きには人体構造や力学的な限界が在る。普通に立っている人間がいきなり頭を基点に一回転する様な事は不可能だ。そもそも剣を振り抜いた巨漢の脚は、跳躍できる状態に無かった筈なのだ。
なのに──
「──ははっ!」
哄笑と共にブーツの踵がトール目掛けて鉄槌の如く振り下ろされる。
トールの頭上に居た巨漢から──だ。
一撃をかわされて体勢が泳いでいたトールは、これをかわせる状態に無い。咄嗟に左の小剣で踵を受けるものの、衝撃を殺しきれず、トールの手から小剣が吹っ飛んで、近くの建物の壁に突き刺さった。
「……っ!」
トールは敢えて立つ事に固執せず、地面に転がって一回転。
距離をとって巨漢に相対した。
「……そういう事か」
「そういう事だ」
にっと巨漢が笑ってくる。
巨漢の機剣は未だ壁面に食い込んだままだった。
食い込んだ? 否。食い込ませたのだ。
巨大な機剣はそれに見合うだけの頑丈さを持っている。巨漢が体重を掛けても折れない程の──だ。つまり巨漢は、壁に食い込ませて固定した剣を力点として、己の身体を空中に跳ね上げたのである。
騎士の剣術ではない。
剣士の剣術でもない。
それらの正統派剣術とは似ても似つかない。
この身も蓋も無く状況を──周囲に在るものをそのまま利用する戦い方は、傭兵ならではのものであり、強いて言うならばトール達の様な乱破師のそれに近い。正統派騎士ならば卑怯と罵り邪道と蔑む様な技術であった。
だが──
「まさか卑怯なんて言わねえよな? 乱破師が」
剣を壁から引き抜きながら巨漢は笑う。
「いわねえよ」
トールは言った。
卑怯上等。卑劣常套。
如何なる手段を用いても己の主に勝利をもたらすのが乱破師の矜恃である。戦いに正当もへったくれもある筈がない。
「ならば──」
だん! と路面を踏み割るかの様な激しい音と共に地を蹴って、巨漢が迫る。
真正面からの突撃。
走る勢いを載せたそれは、巨漢本来の膂力と、更に剣の重量を加えたものとなる。しかも走り込んでの撃ち込みは間合いを測りにくい。更に──突撃する事により意識を前面に集中する為、放たれる一撃は裂帛の気合いを注ぎ込んだ、まさに必殺の斬撃。
たとえ軌道が単純だろうと、真正面からやや低め、横薙ぎに放たれる一撃は、右にも左にも下にも避けようが無い。そして迂闊に跳躍すれば無防備な状態を相手に晒す。
単純に見えてそれは恐るべき攻撃であった。
だが──
「まさか卑怯なんて言わねえよな!!」
叫びと共に回転しつつトールが跳躍。
彼のすぐ下を巨漢の斬撃が通り抜けた。
右にも左にも下にも避けられないのならば残るは上のみ。ごく当然の道理だ。
「──しゃっ!」
鋭く呼気を吐きながらトールは小剣を巨漢の頭上に振り下ろす。
元より岩をも断ち割るトールの斬撃、しかも身体全体の回転を載せた斬撃は、加速され、当然に威力が倍加する。
しかし──
「愚かッ!」
巨漢は叫ぶ。
確かにトールは横薙ぎの斬撃はかわした。だがそれだけだ。空中に在って動き様の無い彼に、巨漢は剣を翻してすくい上げる様な一撃を放つ。どうあっても巨漢の一撃の方が軌道が直線で短い分だけ早く届く。
届く──筈だった。
「──!?」
巨漢の体勢が崩れる。
その時になって彼はようやく悟っただろう。
黒く塗られた鋼紐が──己の脚に絡んでいる事に。
トールが先程吹っ飛ばされた片方の小剣。その柄頭に取り付けられていた鋼紐が突撃してきた巨漢の脚に引っかかったのだ。トールがわざわざ回転しつつ跳躍したのは、小剣の斬撃を加速する為ではなく、地面に張っていたその紐を巻き取って巨漢を引っかける為だったのである。
「屠った!」
巨漢の頭上に叩き落とされる小剣の一撃。
だが、これを巨漢はあろう事か、己の左腕を掲げて受けた。
──鋼の打ち合う異音。
トールの一撃は、巨漢の腕を切り落とせず、その太い筋肉の半ばで止まっていた。恐らくは服の内側に鎖帷子を着込んでいたのだろう。戦場においてそれは当然の仕儀だ。卑怯と評する様なものではない。
「ちっ……!」
トールは深追いせず、巨漢の胸に蹴りを入れてそのまま離れた。
同時に改めて紐を手繰り寄せて壁に突き刺さっていたもう一本の剣を取り戻す。
しかし──
「……ぬ……む……」
巨漢は左腕をだらりと垂らして呻いた。
出血と──恐らくは筋肉を大きく切断された為に、腕に力が入らないのだろう。二の腕から先は真っ赤に塗れ染まり、指先からも紅い雫が滴っていた。
「──さて」
トールは鋏の如く双小剣を交叉させて言った。
「敵は減らせる内に減らしておく。だったな?」
さすがに片手であの大機剣を振り回すのは不可能だろう。
まして大量の出血──放っておいても止血する隙を与えなければトールの勝ちだ。
「…………」
巨漢は顔をしかめると、それでも巨大な剣を担ぐ様にして構えて、腰を落とし──
「まだやるかよ」
「おう。傭兵には傭兵の矜恃があるでな。乱破師には無いのかもしれんが」
「…………」
トールは溜め息をついて、双小剣を降ろす。
次の瞬間──
「──!?」
ごつりと鈍い打音と共に巨漢の頭部が揺れる。
地響きを立てる様にして地面に沈むその男の背後に──
「大丈夫か兄様?」
「救助。トール」
鉄槌を手にしたアカリと、そしてチャイカの姿があった。
*
『遺体』の手首は問題無く回収出来た。
夜という事もあって困難を予想したアルベリックとヴィヴィだったが、意外にもすぐに見つかった。一定間隔で道路沿いに設置された燭台式の街灯が、ぼんやりと光を広げており──透明な容器がそれに煌めいていた為だ。
「これが──あの」
ヴィヴィが興味深そうにその手首を眺める。
「だろうな。さすがに私も本物かどうかの鑑定はしかねるけれどね。ズィータかマテウスに頼まねばならないだろう」
言ってアルベリックは手首を懐から取り出した布で包むと──これを剣とは反対側の腰に縛り付けた。
「──ところでニコライは?」
「あの乱破師を始末する為に残ったみたいですよ」
とヴィヴィは言った。
「始末って……」
顔をしかめるアルベリック。
「ジレット様。相手は若いとはいえ乱破師ですよ。それこそ偽物を投げて誤魔化す位はやりかねません」
「……それはそうかもしれないが」
アルベリックは溜め息をついた。
基本的に彼は無関係の人間を巻き込みたくないと考えている。そして乱破師であろうが何だろうが、あの少年はよく事情も知らずに、傭われただけの様に見えた。
「とりあえず戻ろう。上手く行けばニコライを止められるかもしれない」
「ジレット様」
今度はヴィヴィが溜め息をつく。
この生粋の暗殺者はアルベリックのお人好し振りに呆れているのだ。
だが──実の処、この二人はどちらも『ニコライが負ける』という可能性については微塵も考えていなかった。機剣士ニコライ。その実力は並ならぬものが在る。機剣による精密な攻撃と、傭兵剣術独自の特異な身体運用術。アルベリックですらもまともにやり合えば勝てるかどうか分からない──としている程だ。
そして……
「……え?」
先の、乱破師の少年を捉えた場所に戻ったとき。
「ニコライ!?」
愕然とアルベリックはそう呟き、ヴィヴィは僅かに身構えた。
彼等が強者と認めその敗北など考えもしなかった仲間は──その巨体を地面に横たえ、その上に脚を組んだ乱破師の少年が座っていたからだ。
「君が──ニコライを倒したというのか?」
「さあな」
乱破師の少年はぶすっとした表情で言った。
「念の為に言うが、こいつはまだ生きてる」
「…………」
アルベリックは眉を顰めた。
乱破師は勝つ為には手段を選ばないという。勿論──殺人に禁忌の情など在る筈も無い。ニコライを倒したなら倒したで、そのまま息の根を止めるのが当然だ。
では──
「……これか」
アルベリックは腰に下げていた包みを開いて手首を取り出した。
「ああ。悪いな──わざわざ拾ってきて貰って」
と乱破師の少年は言った。
皮肉の積もりなのだろうが、表情はしかめ面のままだ。
「あんたらがこいつの命よりもそっちが大事だってんなら、それを返す必要はねえよ。俺はこいつを殺す。手こずったけど、ま──こうなってしまったら、赤ん坊の首を捻るよりも簡単だよ」
「…………」
ヴィヴィが低く唸るのを耳にするアルベリック。
だが彼は──
「君は、知らないのだったな」
アルベリックはゆっくりと言葉を選びながら言った。
「何の話だ?」
「彼女の事だよ。君を傭った少女。今は何と名乗っているのか、知らないがね」
「…………」
乱破師の少年は眼を細めてアルベリック達を見据える。
「幾ら彼女に貰ったのか知らないが、馬鹿な真似は止めておくんだ。彼女に協力しても良い事など何も無い。むしろ世界中を敵に回すぞ?」
「そう言われてもな」
乱破師は言った。
「曖昧で抽象的な言葉ばかりじゃ、判断のしようがねえよ」
「…………」
「…………」
アルベリックとヴィヴィは顔を見合わせる。
やはりあの乱破師は何も知らないのだ。
これは重要機密だが──しかし。
「──ガズ帝国」
アルベリックは言った。
「この手首は、ガズ帝国皇帝、〈魔王〉あるいは〈禁断皇帝〉などと呼ばれた男の──王にして最強最大の魔法師、アルトゥール・ガズのものだ」
「…………」
しかめ面の上に更に眉を顰める乱破師。
胡散臭い話だと思っているのだろう。
アルトゥール・ガズは強大な存在だった。
殆ど伝説や神話の領域と言っても過言ではない。人間ではないとまで言う者達も少なくなかったが、いずれにせよ、その存在はあまりに大きすぎて、むしろ普通の人間にはおよそ現実味が無い。
しかし……
「そして君を傭ったあの銀髪の少女は」
アルベリックは相手の反応を窺いながら続けた。
「チャイカ・ガズ──ガズ帝国皇帝の、娘だ」
*
アルトゥール・ガズ。
彼の者を指し示す言葉は多い。
『禁断皇帝』『魔王』『不死王』『怪物』『大賢者』『超帝』『戦争狂』……
そのいずれもが正しくいずれもが誤りとも言える。何故ならばただ一言で言い表せる程にその存在は小さくなく、また単純でもない。フェルビスト大陸史上他に類を見ない存在であり、実を言えばあまりに長命かつあまりに強大である事から『個人ではなくガズ帝国の国王そのものを指す言葉ではないか』とまで言われていた位だからだ。
北方の大国を統べる独裁者であると同時に、数々の魔法技術を生み出した大賢者であり、そして長い戦国時代、常にその渦中にあって列強諸国を手玉にとり続けた策士でもある。
特に……魔法技術に関しては、現在のそれの基礎を造り上げたのは間違いなくアルトゥール・ガズであり、魔法が様々な分野で使われている現在の状況を鑑み、『彼の人がおらずば人類文明はおよそ百年は遅れていた』『ガズ皇帝こそが人類の導き手である』などと評する学者や賢者さえ居る。
だがその一方で──ガズ帝国を興す以前のアルトゥール・ガズについては一切の記録が無く、全くの正体不明であり、『アルトゥール・ガズ皇帝そのものの存在が壮大なある種の詐欺ではないか』と言う者も居る。
いずれにせよ……
アルトゥール・ガズ皇帝はそれ程にフェルビスト大陸においては強大な影響力を持っていた存在であり、記録があるだけでも三百年近くにわたって世界そのものの情勢に影響を及ぼし続けて来た。
しかし……数々の魔法の秘儀を駆使し、三百年という歳月にわたってガズ帝国皇帝に君臨し続けた『魔王』も噂程に不死身ではなかった様だ。
ガズ帝都攻防戦においてアルトゥール・ガズは討ち取られた。
そして彼の者の死を以てフェルビスト大陸における戦乱は幕を閉じたのだ。
即ち──アルトゥール・ガズはこのフェルビスト大陸における戦国時代そのものを象徴する存在とも言える。
当然その影響力は未だに大きい。
そして…………
*
「〈魔王〉の──娘?」
眉を顰めてトールは呟く。
それは彼にとって全く予想外の一言だった。
衝撃的と言っても良いだろう。乱破師としてはつくづく未熟な話だが、恐らくは顔に驚きの相が出ていたに違いない──トールの反応に頷きながら騎士ジレットは続けて来た。
「そうだ。五年前のガズ帝国首都攻防戦の際にアルトゥール・ガズ本人は討ち取られたが、その娘──チャイカ・ガズは逃げ延びた」
「…………一人で?」
チャイカはどう見ても十代半ば程、という事は五年前は十歳前後の幼児であった筈だ。
怪物アルトゥール・ガズが討ち取られる様な現場から、彼女一人が逃げ延びたとは考えにくい。だが臣下の類が協力していたとすれば、どうしてその者達の姿は今──チャイカの傍らに無いのか。
力尽きて死んだのか。
それともチャイカを見捨てて逃げたのか。
あるいは──
──「馬鹿な、貴様は、死んだ筈だ!」
確かにあの領主はチャイカを見てそう言った。
それはつまり死んで当然の状況から、奇跡の如き偶然が作用して彼女を生き延びさせたという事なのだろうか。
「その辺の事情は我々も知らない」
騎士ジレットは言った。
「いずれにせよ我々は彼女を放置しておけない」
「何故だ」
トールは問う。
彼が見たところ、チャイカはただちょっと魔法が使えるだけの、鈍臭い少女に過ぎない。わざわざ騎士だの傭兵だの暗殺者だのが寄って集って追わねばならない様な存在には思えなかった。
だが……トールのそんな考えは甘いものであったらしい。
「未だにガズ皇帝の信奉者は少なくない。そもそもガズ帝国首都を各国が協力体制を敷いて攻める事が出来たその事自体が、奇跡と言っても良い位だ」
本来ならば敵対関係にあった列強諸国が……諸事情から、偶然、一時的な協力体制を敷く事が出来た。その結果として実現したのがガズ帝国首都攻防戦だ。恐らく再びガズ帝国が再興されても、列強諸国の同盟は実現しないだろう──と騎士ジレットは言う。
「死して後もあの〈禁断皇帝〉の影響力は大きすぎる。その娘であるチャイカ・ガズを担ぎ上げてガズ帝国を再興しようという連中も居る」
「…………」
「同時に──」
騎士ジレットは手にした円筒に視線を向けた。
「その生涯が三百年、いや五百年とも言われる〈怪物〉──その遺体は間違いなく強力な魔法念料となる。蓄積された魔力は計り知れない。魔法機杖に組み込めば強大無比な兵器が出来上がる」
魔法の原動力──魔力とはつまるところ、生物の思念である。
そして知的生物の死体はその生涯分の残留思念を蓄積している為に、適切な処置を施せばそこから魔力を引き出す事が出来る。多くの魔法機関は、物質的に安定しているという事で化石や屍蝋を使う。これらから抽出した魔力に術式という形で方向性を定め、魔法師の思念を『種火』として使う事で『起爆』させるのだ。
多くの場合には棄獣の化石を使うが……理屈から言えば、防腐処置を施した人間の遺体も魔力の源泉として使い得る。
あの──手首の様に。
「…………なるほどな」
確かに領主のあの屋敷そのものを効果圏内にしていた大型機杖の事も在る。
単にあれは機杖が大きいから可能であった訳ではなく、強大な魔法師たる〈禁断皇帝〉の手首があったからこその技術であったという事か。
だからこそアルトゥール・ガズの遺体は幾つもの部位に分割され、ばらばらに保管される事になったのだろう。その全部を集めればどれだけの魔法兵器が作れるか、ましてそれがガズ帝国再興を目論む者達の手に渡ればどうなるか──その事を騎士ジレットの背後に居る者達は恐れたに違いない。
「分かっただろう?」
騎士ジレットはわずかながらも焦れた様に言った。
「チャイカ・ガズはこの──ようやく訪れた平安の世に再び戦乱の渦を呼び込む災厄の種なのだ。彼女に父親の遺体を集めさせてはならないのだ!」
*
「チャイカ・ガズはこの──ようやく訪れた平安の世に再び戦乱の渦を呼び込む災厄の種なのだ。彼女に父親の遺体を集めさせてはならないのだ!」
騎士ジレットの叫ぶ様な声は──少し離れた位置に身を潜めていたチャイカと、アカリの処にも届いていた。
「…………」
アカリが無表情にチャイカの方を振り返る。
〈禁断皇帝〉の娘は──唇を噛んでわずかに俯いていた。
「奴の話は真実なのか?」
「…………」
チャイカは答えない。
ただトールを支援する為にと民家の屋根の上で構えた彼女の機杖──その杖把を握り締める指が、ひどく白かった。
事実だ──と認めた様なものだろう。
「〈魔王〉の娘……」
「……私」
チャイカはぽつりと言った。
大陸公用語ではなくガズ帝国でも使われていた北方言語のラーケ語である。
「私はただ……ばらばらにされた……父上の遺体をちゃんと集めて弔いたかった……だけ……そうしないといけないから……そうしているだけ……」
「…………」
アカリは無言。
だが確かにチャイカがガズ帝国の残党や支援者と繋がりが在るとも思えない。というよりそんな者達に伝手があるならば、わざわざトールやアカリを傭ったりはすまい。
アカリは孤児だ。アキュラの里にはそも家族を知らぬ者も少なくない。孤児を拾い育てて乱破師にする──伝統的にそういう事も行われてきた。
だからアカリにはチャイカの気持ちは分からない。
ただ想像する事しか出来ない。
しかし……
「──兄様」
トールはどう思うのだろうか。
アカリは眼を細めて義理の兄の決断を待った。
*
「……結構なこった」
トールは呟く様に言った。
だが騎士ジレットの耳には、そしてその隣のヴィヴィの耳にも届いたらしい。
二人は揃って怪訝の表情を浮かべた。
「再び戦乱の渦を巻き込む? ──いいな。それ」
トールは歯を剥いて笑った。
騎士ジレットは眼を見開いて唸り、暗殺者ヴィヴィは唾棄すべき下衆を見るかの様な眼でトールを睨み据える。
だが彼は気にせず言葉を続けた。乱破師としても、無職の穀潰しとしても、罵倒されるのにも軽蔑されるのにも慣れている。
「戦乱上等だ。もう一度戻して貰おうじゃねぇか──戦国時代によ」
「君は……!」
まるで理解不能の呪詛を吐く怪物を見たかの様に、騎士ジレットは表情を歪めた。
「俺は乱破師だ。こんな平和な世の中、糞喰らえ──何も出来ずに、何も遺せずに、何も変えられずに、ただ死んでいく為の平穏なんぞいらねえ!」
脳裏を過ぎる幼い日の記憶。
死した我が子を捧げ持ちながら息絶えた──彼女。
世界を変えたかった。
世界に己の存在を刻みつけたかった。
ただ生まれただ死ぬのではなく──自分が此処に居る意味を見据えて生きたかった。何の為に自分は生まれ、何の為に自分は死ぬのか。その事を全力で追求したかった。
だから……
「戦乱を望むというのか!」
「おうよ!」
トールは獰猛に笑う。
だが実の処……それは理由の全てではない。全てではなくなっていた。
(……それがあいつの生きる目的だというのなら)
チャイカ。〈禁断皇帝〉の娘。
父の遺体を集めて回る──棺担ぐ孤独な姫君。
たった一人で。全てが敵とも言うべき、絶望的なこの世界の真ん中で。
彼女はそれでも真っ直ぐに自分の目的を見据えて動いていた。
それがどれだけ無茶で無謀な事であろうとも──彼女にとってそれは揺らがない目的で、生まれてきた意味に等しい重さを持つならば。
それは……
(……叶えてやりたい)
心底からトールは思った。
自分と違い──世界が変わっても、否、変わったからこそ、まるで揺らがぬ意志。
それはトールにとって途方も無く眩しく見えたからだ。
故に──
「──チャイカッ!!」
叫びながらトールは飛び出した。
猛烈な勢いで突進しながら彼は──眼を閉じた。
「──!?」
身構える騎士ジレットと暗殺者ヴィヴィ。
どちらも相当な使い手だ。真っ直ぐ飛び込んでも今のトールに勝ち目は無い。
しかし……
──ばし!!
強烈な閃光がトールと騎士ジレット達の間に炸裂する。
予めチャイカと打ち合わせしておいた魔法だ。
〈眩ませるもの〉──幻影系の魔法の発光量を極限まで上げて使ったのである。
当然、無防備にこれを見た者は、数秒間ながら視界を潰される。
対して──暗夜での隠密行動は乱破師の専門分野だ。音を殺し気配を殺し闇の中を──視界の効かぬ中を僅かな空気の流れと反射する音によって移動する技術がトールにはある。
当然、眼を瞑っていても相手に襲いかかれる程に。
「ぬっ──!?」
騎士ジレットが剣を抜き放つが、既にチャイカの魔法の光によって眼を眩まされている彼の動きは、大きく乱れていた。これはヴィヴィも同じだ。暗殺者もトール同様の技術を持ってはいるだろうが、何の前兆も無く炸裂する閃光から眼を守る術は流石に無い筈だ。
それでも攻撃してきた二人はやはり大したものだ。
剣が旋回し針が飛来する。
だが視界も利かない状態で放たれた一撃は、双方共に万全の技には程遠い。二人の攻撃はトールの掲げた双機剣が一瞬で叩き落としていた。
「──くっ!?」
呻く騎士ジレット。
その彼に体当たりしながら──
「返して貰うぜ」
トールは彼の手が握っていた『手首』を強引に奪い取っていた。
「ま──待て!?」
目許を左手で押さえながら叫ぶ騎士ジレット。ヴィヴィは反射的に投針を構えて──しかし動かない。眼が眩んだ状態で針を放って、仲間に当たる事を恐れたのだろう。
「待て、君は──」
尚も叫ぶ青年騎士。
だが──トールは脇目もふらず、彼等を背にして駆け続けた。
*
いざとなると持ち出す荷物は殆ど無かった。
愛用の武器と道具。他には衣類を少し。そして最低限の金銭と。
全部を鞄に詰めて背負ってもチャイカの棺程、大袈裟なものにはならなかった。
「──アカリ?」
「こちらも荷造りは済んだ」
アカリの方も似たようなものだ。
血の繋がらぬ妹に頷くと──トールは改めて確認する様に言った。
「念の為に言うが。お前は別に付き合う必要は無いんだぞ?」
「愚問だな兄様」
アカリは首を振った。
「私はどこまでも兄様と一緒だ」
「……アカリ…………」
「兄様に──」
アカリは怜悧に整ったその顔で静かに言った。
「知らぬ処で死なれては剥製に出来ないではないか」
「死ぬ時は壮絶に爆死してやる」
唸る様に言うと、トールは溜め息を一つついて家を出た。
未だ黎明にも至らぬ暗い早朝風景──冷たく冷え切った空気の中に、棺を背負った少女は独りぽつんと立っていた。
「そんじゃ、行くか」
「──む」
声を掛けると、チャイカは振り返って困惑の表情を浮かべる。
「トール。アカリ。何故?」
「顔──領主に見られたしな」
とトールは肩を竦める。
「どっちみちこの街にはもう居られない」
領主の館に忍び込むどころか、領主と一戦交えた挙げ句、どうやら列強諸国から特別任務を授けられた連中とまで事を構えてしまった。とてもではないがこのデルソラントの街に留まる訳にはいくまい。
「なら旅のついでに、あんたの──お前の『仕事』を手伝ってやるさ。格安でな」
何処に行くアテがある訳でもない。
ならばチャイカの行く方向と同じでも構わない。
彼女はどうやらそれなりに金銭を持ち出してきている様で──一緒に行動していれば少なくとも飢える事は無いだろう、という現実的な打算も在った。
それに──
「でも。私」
俯くチャイカ。
自分の素性について──やはり気にしているのだろう。
「〈禁断皇帝〉の……」
「言ったろう」
トールは覆い被せる様に言った。
「戦乱上等だ」
「…………」
「お前についていけば──世界は変えられるかもしれない。クソ下らない繰り返しの平穏じゃない、俺の生きてきた意味を見いだせる様な、混沌と変化に満ちた世界に、変えられるかもしれない。だからそれは、俺にとって望む所だ」
何も出来ずに死んでいくより。
たとえ悪鬼と罵られ下衆と嘲られようとも。
自分の生きた証をこの世界に刻む──
「チャイカ」
トールは銀髪の少女に向けて手を差し伸べる。
「俺は行くぜ。行ける所までな。お前はどうする?」
「…………」
チャイカはトールを見て。
次にアカリを見て。
「……うむ」
アカリも頷いて見せる。
そして──
「──うぃ!」
ぱっと表情を輝かせると、チャイカはトールの手をとった。
〈禁断皇帝〉の娘──チャイカ・ガズ。
乱破師の兄妹──トール・アキュラとアカリ・アキュラ。
その日、黎明と共に彼等はデルソラントの街を出た。
世界を再び戦乱に巻き込む──その旅へと。