当たり前の様に続いた日々は──その日、唐突に終わった。
あるいは以前から何かの前兆はあったのかもしれない。
だが彼女は王国や周辺諸国の情勢を知るにはあまりに幼すぎて……全ては彼女のあずかり知らぬ処で始まり、そして終わっていたのである。彼女に出来たのは、ただ、あまりに唐突に始まった事態を前に、呆然と佇む事だけだった。
何処かで誰かが吼えている。
何処かで誰かが啼いている。
何処かで誰かが叫んでいる。
幾重にも重ねられた無数の声が滅びの歌を奏でていた。
それは悲鳴であり、怒号であり、絶叫であり──その他諸々の声が、炎や風の放つ轟音と混ざり合って生まれる旋律だった。一つ一つを聴き分けるのは無理だろう。それはつまり一つの国が死んでいく時に漏らす断末魔の呻きだった。
「──姫様!」
窓の外には奇妙なものが見えた。
遥か彼方の空に巨大な何かが浮かんでいる。
どれ位離れているのかは分からない。だがそれが呆れる程に大きな代物である事は分かった。手前を飛んでいる天竜騎兵の大きさと比べてみれば、城──いやちょっとした山程の大きさすらあるのだと分かる。
それが浮いているのだ。
支えるものもなく。吊り下げるものもなく。まるで雲の様に。
不可能を可能にするのが魔法だが──それにしても、あまりにそれは桁外れだった。
一見するとそれは直立した円筒の様にも見える。だが──細かく見て行けばそれが、むしろある種の立像に近い事が分かるだろう。祈りを捧げる乙女を模したかの様な……己の両腕を胸元に折り畳んでいるかの様な人の形に似ている。
空飛ぶ巨大な立像。
それが──
「──姫様!」
攻めてくる敵軍の要塞なのだと理解するのに若干の間が必要だった。
「…………」
恐ろしい。恐ろしい。あまりに恐ろしい。
彼女は逃げるようにして視線を下へと転じる。
だがそこにもまた──そこにも既に地獄絵図が広がっていた。
敵兵。敵兵。敵兵。敵兵。敵兵。敵兵。敵兵。敵兵。敵兵。敵兵。敵兵。敵兵。敵兵。敵兵。敵兵。敵兵。敵兵。敵兵。敵兵。敵兵。敵兵。敵兵。敵兵。敵兵。敵兵。敵兵。敵兵。敵兵。敵兵。敵兵。敵兵。敵兵。敵兵。敵兵。敵兵。敵兵。敵兵──だらけ。
眼下は既に敵で溢れていた。
数え切れない程の兵士達が物凄い勢いで押し寄せてくる。
文字通りに相手を押し倒し殺し尽くす勢いで、武器を振りかざし、盾を突き上げながら、殺到してくる様子が見えた。見えてしまった。
「何処に!? 姫様!!」
戦略や戦術などまるで分からぬ小娘の身でも確信できる。
これは勝てない。勝ちようが無い。
「姫様……!」
扉を破るかの様な勢いで、初老の女官が部屋に転がり込んできた。
「ああ姫様……この様な所に!」
女官は恐怖と焦燥に顔を歪めて叫ぶ。
髪は乱れ、服も乱れて、悲惨な格好になっていた。常々『宮廷女官はまず品格が第一です』と澄まして唱えていたのが嘘の様だ。多分、何処かで転んだのだろう。頬には擦り傷が生じて血が滲んでいた。
「どうかこちらに……お早く!」
「…………」
女官に手を引かれるままに城内を進んでいく。
見慣れた筈のその景色は──しかし一変していた。
何もかもが緋い。
それは燃え盛る炎の色であり、飛び散る血の色であり、つまりは──飽きる程に見慣れた城の情景を、根刮ぎ染め潰してゆく滅びの色だった。掲げられた国旗が、あるいは飾られた絵画が、火の粉を撒いて燃え狂っている。床の上の絨毯だけ火が燃え移らないのは、たっぷりと血を吸っているからだろう。
床を埋め尽くすのは夥しい数の死体だ。
敵も味方も数え切れない。本当に数えられない。中には何人分かさえ分からないものもあれば、人間のそれとは明らかに異なるものも在ったからである。
斬り殺されたらしい死体が最も多い。だが中には黒焦げになった死体や、全身が熱した飴の様に溶け崩れた死体もあった。一体どんな方法で殺されたのか想像もつかない。
男の死体があった。女の死体もあった。
子供の骸があった。老人の骸もあった。
本当にありとあらゆる死がそこには転がっていた。
そんな中を──
「大丈夫ですよ姫様、大丈夫」
女官はむしろ自分に言い聞かせる様に言いながら、死体の間を縫って──時には死体を踏み越えて進んでいく。敵兵も味方も区別などしない。出来ない。そんな余裕は何処にも無い。
「陛下の所に、陛下の御許に辿り着きさえすれば──」
普段の倍以上の時間を費やして、彼女と女官は城の中を歩いていく。
途中で敵兵と出会わなかったのは奇跡の様な幸運だった。
しかし──
「──陛下! 姫様をお連れしました!」
そう叫びながら謁見の間に飛び込んだ女官は。
「………!?」
愕然とその場に凍り付いた。
普段ならば百名余りの臣下が傅く大広間である。
権威の象徴とも言うべきこの広大な空間には──今や、がらんとした空虚が横たわるばかりで、窓から差し込む夕陽の色が、全てを廃墟じみた気怠い色に染め上げている。
そして──その最奥。
皇帝の姿が在るべき玉座は空席になっていた。
代わりに──
「へ……陛下…………!?」
女官が声にならない喘ぎを漏らした。
──玉座から少し離れた床の上に、俯せの状態で一人の男が倒れている。
顔は見えない。だがその体格と、そこに帯びる金糸銀糸をふんだんに使った衣装から、男が誰であるのかは一目瞭然だった。
更に言えば──その人物が既に息絶えている事もだ。
ゆっくりと大理石の床の上に広がっていく血溜まりがその証拠である。
「そんな…………」
呟いてから──女官は血走った眼で皇帝の遺体の向こうを見据えた。
そこに半円を描いて立つ八人の人影を。
いずれもが武装していた。刀剣を携えた剣士や騎士も居れば、機杖を帯びた魔法師も居る。獣様の耳や尻尾を備えた亜人も混じっている様だった。それぞれに身に帯びる戦装束は異なっており──更には容貌や肌の色にも異なる特徴が見て取れる。恐らくは様々な国から集められた混成部隊なのだろう。
「…………陛下、陛下、陛下!?」
女官が叫びながら床に伏した遺体に駆け寄る。
だが次の瞬間──
「陛下、へい──」
──ばづん。
鈍い音が大広間に響く。
八人の内の一人が動いていた。その右手に携えた大剣で女官の首を刎ねたの──だろう。
断言を躊躇うのは、剣の動きが全くといって良い程に見えなかったからである。その剣士らしき人影の姿勢が一瞬前と異なっていたという事実、そして女官の首が驚きの表情を浮かべながら宙を舞っていたというその事実を以て、そう判断するしか無かった。
そして──
「……〈魔王〉の娘か」
八人の内の誰かが言った。
八対の視線がこちらに集中してくる。
不用意にも確かに女官は叫んでいた──『姫様をお連れしました』と。
ならば今更、否定しようが、とぼけようが、彼等が容赦など想い出す筈も無い。否──女官の言葉が無くとも状況は変わらなかったであろう。
これだけ死が蔓延した城内で、死体が一つ二つ増えたところで気にする者は居ない。
むしろ〈禁断皇帝〉の血族を逃す位ならば、疑わしき相手は皆殺し──そう考えて当然だろう。
「ならば是非も無い」
「子供といえど例外ではない」
「後顧の憂いは断たねばならん」
八人は悠然とこちらに向かってくる。
「平和の為だ」
「正義の為だ」
「世界の為だ」
「許せとは言わない」
女官の首を刎ねた剣士がその大剣を掲げるのが見えた。
「さ──好きなだけ罵り喚いて逝くが良い」
そして──
…………
時に大陸歴一六〇四年。
フェルビスト大陸において、実に三世紀にも亘って続いてきた戦国時代は北方の雄ガズ帝国の崩壊を以て終焉を迎えた。
投入された兵力は正規の騎士や兵士の他、魔法師や乱破師、傭兵団を含め実に六十二万、更に航天要塞三基をはじめとする大量の魔法兵器、棄獣兵団、天竜騎兵隊といった特殊戦力すらもが残らず駆り出され、徹底的に『諸悪の根源』とされたこのガズ帝国を殲滅した。
ガズ帝国攻略に際して同盟を結んだ大陸主要六カ国は、以後も相互に平和条約を結び、事実上の終戦宣言を行った。ガズ帝国は分割統治され、〈禁断皇帝〉の持っていた莫大な富は戦後復興の為に同じく分割されて六カ国がそれぞれ管理し、有効利用する事となった。ガズ帝国の誇っていた魔法技術も同様である。
それは万民の待ち望んだ平和な時代の訪れであった。
だが──