5.禁じられた夢想 5

 魔法士長イドスは、怒気に顔を歪めながら廊下を歩いていた。

 彼が追いかけている少女は、地下研究室にて一度逃がした相手だ。まだ城の中をうろうろしているとは思わなかった。ふつふつとした苛立ちにイドスは舌打ちする。

 今まで一緒にいた主教は「核の様子を見に行く」と言って転移して消えてしまったが、その後を追う気にはなれない。正直なところイドスは怖かったのだ。次第にあちこちから感じ取れる瘴気が、そしてそれを楽しむ主教が。

 だが、部下の前でも主教の前でもそんな感情を表に出すことはできない。そんな矢先、あの無礼な少女が現れたのだ。だからイドスは恐れを怒りへ変えることにした。あの少女を今度こそ処分する。血に酔っていなければ、とても迫りくる未知の圧迫感に耐えられそうになかった。

「どこに行った。もはやこの城に逃げ場などないぞ」

 少女の声は返ってこない。だが真っ直ぐに伸びる廊下に彼女の姿は見えないのだ。ならばすぐそこの角を曲がったに違いない。そして先は行き止まりだ。

 イドスは手の中に構成を生みながら角へ近づく。

 一撃では殺さない。軽く痺れさせ、身動きを取れなくしてからなぶってやる。彼は右手を前に上げながら、角を曲がった。

 ──まず見えたのは、視界に広がる白い布だ。

 女官が服の上から着るエプロン、それを顔にぶつけられてイドスはたじろぐ。だが彼はそのまま退くことをせず右手の構成を打ち出した。電光が枝分かれしながら辺りに放たれる。

「痛ッ」

 少女が苦痛の声を上げる。けれど彼女はそれ以上何も言わなかった。代わりにイドスは右膝をしたたかに蹴られる。彼は短い叫びを上げながらうずくまった。

 思いもかけない反撃。動転して咄嗟に構成が組めない。イドスがようやく顔に貼りついた布を取り去った時──既に、目の前には短剣がつきつけられていた。

 名も知らぬ少女が黒い目で彼を見つめる。

「魔法を使わないで。使ったら刺す」

「貴様……」

「口をきくのも禁止。私が質問した時だけ許可」

 刃先が近づく。それはわずかに震えていたが、彼の眼前から離れる気配は感じられなかった。

 イドスが見たところ、少女は今の魔法攻撃で左脇腹をはじめ全身に何箇所か火傷を作ったようだ。黒く服が焼け落ちた下からは象牙色の肌が見え、めくれかけた皮と滲む血が見える。だが彼女は己の怪我に少しも拘泥している様子はなかった。真っ直ぐな視線が彼を見下ろす。

「もう一度言うよ。あの禁呪は負の海に穴を開けるものです。完成したらこの城の人間はみんなおかしくなって死ぬかしかない。あなたはそれを知っていて進めているの? ──はい、答えて」

 短剣を持つ少女におされてイドスは渋々口を開く。

「あの禁呪はこの城都一帯に精神支配をかけるものだ。負の穴を開けるものではない」

「ブー。それは噓です。騙されないで」

 最初に会った時と同じ会話。だがこの時イドスは「少女の言うことの方に真があるのではないか」と思い始めていた。何かがおかしいのだ。彼もまた宮廷において魔法士長になれるだけの実力を持っている。その彼が「今城に立ちこめている気配は精神支配の術とは違う」と感じているのだ。

 そしてだからこそイドスは恐怖を感じ、それを誰に言うこともできずにいた。言えばきっと主教に殺される。もはや後戻りはきかないのだ。

「人の死が禁呪を加速させてるの。もう時間があまりない。それは知ってる?」

「……知らない。だが、瘴気が漂い始めている」

「さっき核の陣って言ってたよね。もしかして、それを壊せば禁呪は止まる?」


 雫は短剣を突きつけたままイドスを見据える。

 ──彼女は知らなかった。ずっと一緒にいた魔法士のエリクは滅多に魔法を使わなかったのだ。だから彼女は「人間が魔法を使うところ」をあまり見たことがない。

 そして目撃した数少ない場合において、魔法士は全員が詠唱と共に魔法を使っていた。だから彼女は知らなかったのだ。腕の立つ魔法士ならば無詠唱で魔法を使えるのだということを。

「……っぁ!」

 脇腹に激しい痛みを感じて、雫は短剣を取り落とす。見るとそこにはいつの間にか、氷でできたくいが刺さっていた。まるでそれ自体に意志があるかのように、杭は体の中に食いこもうとする。雫はあわててそれを摑むと抜きさった。途端血が溢れ出し、雫はその量にくらりと眩暈を覚える。

 すぐに激しい痛みが襲ってきて、雫は膝をついた。全身を走り回る悪寒に声を我慢することができない。

「……くっ……あ……っ」

 涙が滲む。一体傷がどこまで深いのか。ただ傷口を押さえる手を離してはいけない気がして雫は全身の力を振り絞った。その上に男の声が降ってくる。

「もう止まれぬのだ、小娘。お前も禁呪の礎となるがいい」

 きつく目を瞑った頭に男の手が触れる。上を向けない。気が遠くなる。逃げることもできない。

 ──ああここで死ぬのだと、思った。


 だが、少女はそれでも震える唇を動かす。

「教え、て、よ……陣を、壊……」

 哀願でも恨み言でもない彼女の言葉。それを聞いた瞬間、イドスの目には傷に似た何かが生まれた。彼は形容しがたい感情を湛えて少女を見つめる。小さな頭に手を触れさせたまま口を開いた。

「──核の陣を壊せば、城に溜まっている魔力は拡散していく……。禁呪も構成を失って散り散りになるだろう。だがお前はここで死ぬのだ」

「あな、たが、こわせば、いい」

「私は……」

 死にたくない。死にたくなかったのだ。だからイドスは主教に逆らえない。

 なのに何故この少女は、死の淵にあって自分の命を請わないのか。別のことを望めるのか。

 愚鈍か、蛮勇か、それとももっと別のものか。

 少女はついに倒れこむ。小柄な体が彼の手から離れて床の上に転がった。

「……馬鹿め」

 その呟きに先程まであった怒りはもうない。かといって代わりに恐怖があるわけでもなかった。イドスは無表情のまま、ややあって詠唱を開始する。

 ──どれほど高潔であっても、真摯であっても、人は死ぬ時はみな死ぬのだ。

 そこから逃れることは決してできない。だからシューラは「絶望を知れ」と教える。束の間の生の安楽に溺れて怠惰となるな、と訴えかけるのだ。

 早いか遅いかの問題だ。いずれ自分も死ぬ。皆死ぬ。それだけのことだ。たったそれだけの──

 彼は構成を生んだ手の平を、倒れた少女に向ける。

 そして溜息を一つついて──その魔法を、打ち出した。


  ※


 目が覚めた時、そこはベッドの上だった。雫は薄目を開けて見慣れた天井を見つめる。

 白い壁紙。大きな花の模様は十年以上見続けてきたものだ。雫はぼんやりとした頭を押さえて起きあがる。カーテン越しでも外は既に充分明るい。両手を伸ばし大きく伸びをする。

 雫は身に染みついた動作でパジャマを履いた足を下ろし、スリッパに差し入れた。無意識に脇腹を手で探るがどうにもなってない。

「……夢オチ?」

 呟きは水玉のカーペットに落ちて弾ける。──そこは、雫が十八年を過ごした自宅の部屋だ。

 自室を出ると、雫は欠伸をしながら階下に下りていった。キッチンから聞こえてくる物音に自然と足はそちらを向く。ドアを開けると、流しの前には髪の長い女が背を向けて立っていた。

「雫ちゃん、起きた?」

「お姉ちゃん」

「休みだからって寝坊し過ぎじゃないかな。みんなもう出かけちゃったよ」

「うん」

「ついでだからブランチ作ってあげる」

 雫は「ありがとう」と返事をして椅子に座った。まだ体は半分眠っているようだ。頭の中にしゃがかかって上手く動かない。彼女はテーブルの上にあった麦茶のボトルを引き寄せてグラスに注ぐ。ひんやりとした味は妙に懐かしさを覚えさせた。

「ねぇ、お姉ちゃん」

「何?」

「エリクを知らない?」

「…………」

「私、エリクのところに帰らないといけないんだ。ねぇお姉ちゃん、彼を知らない?」

 姉は答えない。ただ黙々とコンロの上でフライパンを動かし続けている。

 雫はグラスについた水滴を指で弾いた。

「お姉ちゃん、ありがとう。でも私、もう行くね。もうちょっと頑張ってみる」

 姉は答えない。本当は姉ではないのだ。雫にはもうそのことが分かっている。彼女は実際、料理が苦手で、自分から作るなどと言い出さない。

 だが雫はまるで本物の姉にするように話しかける。いなくなった雫を心配しているだろう家族への思いを込めて、そっと囁いた。

「お姉ちゃん、ごめん。行ってくるよ」

 雫は立ちあがるとドアに向かう。背中に姉と同じ声がかかった。

「雫ちゃん。答えは全部、あなたの中にあるのよ」

 ドアノブに手をかける。それを押し開く。

 次の瞬間雫は眩い白い光に包まれ、何も見えない視界にきつく目を瞑った。


  ※


 まず目に入ったのは自分を覗きこんでいる女の顔だ。金髪に緑の目の女。聖職者を思わせるような、整ってはいるが堅さが印象的な顔立ち。雫はどこかで見たはずの女の名が思い出せず、目を擦った。金髪の女はそれに気づいて微笑む。

「あ、起きた起きた。生きてるみたいね」

「おおむね生きてます……」

「生きてるってよ! ターキス!」

「そりゃよかった」

 より聞き覚えのある男の声に雫は跳ね起きる。見ると男は部屋の片隅で、頭の後ろに両手を置いて屈伸運動を繰り返していた。あまりの光景に雫は色んなことを忘れて問う。

「何でスクワット」

「空気が悪くなってきててな。体動かしてないとイライラすんだよ」

「それで瘴気の影響が抑えられるっていうんだから、ほんと頭が筋肉な男だよね、アンタって」

「充分気持ち悪いぞ。勘弁してほしい」

 瘴気という言葉は雫の意識を現在に引き戻すに充分な力を持っていた。雫は自分の体を見下ろす。

 灰色のワンピースはあちこちが焼け焦げ、破れている。脇腹付近はたっぷり血が染みこんでおり、焼けたのとは別の黒い染みが広がっていた。

 だが、傷は一つもない。雫は剝き出しになっている自分の肌を撫でた。

「怪我がない……」

「治しといた。血がずいぶん出ちゃってたからさ。怪我塞いでも失血死するかと思ったけど」

 平然と言う女の名を雫はようやく思い出す。

「ありがとうございます、リディアさん」

「いいよ。ターキスに貸しが増えただけだから」

「借りが増えた。雫、出世払いしてくれ」

「悪いけど出世する見込みはありません」

 雫がきっぱりと返すと、筋トレ中の男はからからと笑った。よく分からない状況に、雫は改めて最後の記憶を振り返る。

「私、魔法士長に殺されそうになってたんですけど、二人が助けてくれたんですか?」

「魔法士長にやられたの? 私たちは使い魔に呼ばれてひんのアンタを見つけたんだけど。他に誰もいなかったよ」

「あ、じゃあ死亡確認しないでどこかに行ったんですね。詰めが甘くて助かった」

「自分のことなんだから、もうちょい言葉を繕えよ」

 雫はターキスの呆れ声を無視して、心配そうなメアを拾い上げる。怪我はない。ターキスが言っているような気持ち悪さも感じない。エリクの言う通り、本当に自分は瘴気に影響を受けないのだろう。だが部屋を見回した彼女は、一つしかない窓に気づいて愕然とした。

 ──城の外は、すっかり暗くなっていた。

 雫は月の光もない暗いだけの外を見上げる。気を失っている間に真夜中にでもなってしまったのか。取り返しのつかない時間の経過に彼女は蒼白になった。

 しかし、そこに深刻とはかけ離れた男の声がかかる。

「あー、雫。心配すんな。そんな時間は経ってない。昼の三時過ぎってとこだ」

「え? で、あれ。まっくら!」

「瘴気が城を覆ったみたいなんだよね。やばいわ、これ」

 それで外はにっしょくのようになってしまっているというのか。

 雫は傷のせいか違和感の残る体を動かして窓の前に立った。窓の向こうは暗くてほとんど何も見えない。だがそれは夜のように暗いというより、黒くて厚い布をすっぽりと被せられたかのような暗さだ。リディアが大きく溜息をつく。

「禁呪の名は伊達じゃないっていうか、まったくターキスの持ってくる話ってろくなもんがないんだよね。転移して逃げようかと思ったら外への座標指定が効かなくなってるし。思いっきり閉じこめられた。ここで死ぬ羽目になったら、アンタ、貸しを返してから死になさいよ」

「何すりゃいいんだよ。何も持ってきてないぞ」

「腹踊りでもしといて。ちょっと気が晴れる」

「そんな死に様は嫌だ……」

 絶体絶命の状況なのかもしれないが、少なくとも二人のかけあいに緊張感はじんも見られない。緊張感はないのだが、そこに聞き逃せないものを見つけて雫は振り返った。

「転移、できない?」

「そそ。この城の周りが魔法的に遮断されてて、出るも入るもできないのよ」

「城門ら辺にいた奴らどうなってんのかね。無事かな」

「て、転移陣も使えない!?」

 悲鳴に近い叫び声にターキスとリディアは顔を見合わせる。ターキスはようやくスクワットをやめると、両手を軽く広げて見せた。

「使えないみたいだな。城の魔法士があわててるのを聞いた」

「そんな……」

 それでは助けを呼べない。エリクに頼まれた役目を果たすことができない。

 雫は目の前が外と同様、真っ暗になった気がしてよろめいた。今まで極限状態において彼女を支えていた「やらなければ」という気持ちが抜け落ちて、窓枠を摑んだまま床にへたりこんでしまう。

「どうした、雫」

「……私、ファルサスに行こうと思ってた。助けを呼ぼうと思ったんです」

「あ、連絡ならしてあるぞ。そのうち来るだろ」

「へ!?」

 何だか目が覚めてから驚いてばかりいる。ぼんやりとした頭を動かして事態を咀嚼しようとする雫を前に、ターキスは「駄目だ、やっぱイライラするわ」とスクワットを再開した。


 スクワットをしながらターキスが教えてくれたことによると、ファルサスへの連絡はもとから計画に含まれていたらしい。夜明けと共に街に禁呪の情報を流し、昼を過ぎても事態が解決していなければ数人の魔法士からファルサスに連絡が入れられることになっていた。その真偽についてファルサスが確認を取り、動くまでに多少の時間差はあるだろうが、三日目までには魔法大国の手が入るだろうと見積もられていたのだ。

「ここで俺たちだけで何とかできてれば、一気に名もあがったんだろうけどな。残念残念」

「っつーか、どう考えても無理だっての! 最初から連絡しといてよ!」

「それじゃ丸投げでつまらんだろ。傭兵失格じゃないか」

 一体、二人はどういう関係なのか。スクワットをするターキスに向かってリディアは近くに転がっていた紙の箱を投げつけた。だが男はそれを難なく避ける。放っておけばいつまでも舌戦を繰り広げそうな彼らに、雫は気を取りなおすと割って入った。

「あ、あの、じゃあ本当にファルサスは来るんですか?」

「多分」

「来ると思うわよ。あの国、禁呪って聞くとおっかないし」

 ならまだ間に合うかもしれない。安堵する雫に、けれどリディアは澄ました顔で現状を指摘する。

「ただファルサスが何とかするまで、私たちが生きてられるかは分からないけどね」

「え?」

 リディア曰く、雫が意識を失っていた約二時間の間、城は内外ともに禁呪によって一変したのだという。城は瘴気の厚い膜によって外部と遮断され──そして内部では城の三階中央部が完全に瘴気に閉ざされた。二階より下でも城の中央部に近づいた者は皆が正気を失って暴れ回り、苛烈な同士討ちが繰り広げられた結果……王を含めて大多数の人間が死亡した。

 一方、何とかそれらを免れた人間は、瘴気を避けて城の外周部に逃げたものの、城壁の外には逃げられない。ターキスたちをはじめ生き残りは皆、同士討ちを避けながら城の中を右往左往する羽目になった。その上、禁呪の中央部は徐々にその支配領域を広げつつあるのだという。

 ──結果、三日目の禁呪の完成を待たずに、彼らは今危機にひんしていた。


「うげ。じゃ、人が死ぬと禁呪の進行速度が増しちゃうの? 最悪だよ。カイトなんかに声かけて逆効果じゃない。そういうのあらかじめ言っといてよね! ターキス!」

「俺も依頼主から魔法士を殺せば止まるって言われたんだが……。むしろお前が教えてくれよ。魔法士だろ」

「知るか! 禁呪の知識なんて普通の魔法士にあるわけないっしょ! 資料化されてるものでも城とかで厳重に封印されてるってのに」

 雫が禁呪について自分の知っていることを伝えると、二人はある意味予想通りの口論を開始した。

 どうやらリディアに頭が上がらないらしいターキスと、遠慮なく彼に非難をぶつける彼女の会話は清々しいくらいの勢いがあるが、今はのんびりそれを聞いていられる余裕はない。

 雫は手を握ったり開いたりして問題なく動くことを確認すると立ちあがった。

「あの、助けてくださってありがとうございます」

「いいよ、別に。これから死ぬかもしれないし」

「俺は腹踊りは嫌だ」

「ターキスの腹踊りはともかく、私、もう行きますね」

 雫は一緒に回収してもらったバッグを手に取った。一つだけある扉の前に立つと、きょとんとしている二人を振り返り、頭を下げる。

「少し待っていてください。何とかしてきます」

「ちょっ……ちょっと待ってよ。どこ行こうっての?」

 留めようとするリディアに雫は苦笑する。そこには少なくない緊張もあったものの、それ以上の決意があった。今は指輪をしていない手が、真っ直ぐにある方角を指差す。

「中央部、核の陣のところへ」

 異世界の少女はそう言ってドアを開ける。それは、まさに城一つ滅ぼそうとする忌まわしい魔法への、ささやかな宣戦布告だった。


  ※


「カンデラの城都で騒ぎが起こっているらしいな」

「騒ぎ?」

 突然呼び出されていささか機嫌の悪い女は、男の言葉に顔を顰めた。見る者全てに感嘆の溜息をつかせる美貌が険を帯び、同じ部屋にいた文官が顔を引き攣らせる。

「騒ぎとは一体何でございましょう」

「さぁ。よく分からない」

「分からないことで私を呼び出さないでくださいますか? 兄上」

「分からないからお前を呼んだんだ。カンデラが禁呪に手を出したという情報が入ってきている」

 禁呪、というその一言で部屋の空気は一変した。女の青い瞳にけんのんな光が生まれる。

「……確かなのでしょうか? 禁呪とは」

「騒ぎを起こしている民衆はそう言っているようだ。あとは城都に居合わせた魔法士数人からも『異様な魔力が立ちこめている』との知らせが入ってきている。が、城で何が起きているのかはまだ分からない。困ったものだ」

 男は回りくどい言い方を好んでいるかのように、はっきりと答えを出さない。それは彼がこういった魔法の揉めごとに対し、妹の方に決定権があるという姿勢を取っているからだ。

 兄は魔法士ではなく、妹は魔法士である。魔法大国であるこの国において、国の頂点は彼であっても魔法士の頂点に立つのは彼女の方なのだ。

「私に様子を見に行けと、そういうことでしょうか」

「行ってくれたら嬉しいと思ったりしなくもない」

「棒読みなさらないでください。余計腹が立ちます」

「怒ると皺になるぞ」

「そういうところだけ真剣に仰られると、吹き飛ばしたくなってしまいます」

「無視するわけにもいかんから、精霊だけでも出してくれ。現状を把握したい」

 ようやく真面目な要請をする兄に、彼女は澄ました顔で了承を示す。彼女は白い右手を何もない空間に差し伸べ、使い魔たる「精霊」の名を呼んだ。

「シルファ。おいで」

「参りました」

 何もない空間に一人の少女が現れる。真白い髪に銀の目。人間としてはまず見ない色彩を纏った上位魔族は、主君である女に優美な仕草で膝を折った。

「何なりとご用命ください。レウティシア様」

「カンデラの城都に様子を見に行ってちょうだい。何が起こっているのか私に報告するように」

「かしこまりました」

 何の詠唱もなく精霊の姿が消えると、女は兄を振り返って目だけで「これでよろしいですか?」と尋ねる。その問いに若きファルサス国王は満足そうに頷いたのだった。


  ※


 ──中心部の核の陣を壊せば、禁呪は止まる。

 それは、どこで聞いたか記憶が曖昧だが、雫の中に確信として刻まれていた言葉だ。

 だが目覚めてからすぐに自分が行こうと思い立ったわけではない。ターキスやリディアと情報を交換して「行けそうだ」と思ったからだ。

 ファルサスに連絡が既に行っているというなら、自分ができることはこの城の中にしかない。地下室に戻ってエリクを禁呪の真下から動かそうかとも思ったが、それはリスクとリターンが不均衡な行為だ。彼を動かせば禁呪の速度が増してしまう。上手くその場を逃げられても、城内に閉じこめられている以上遅かれ早かれ限界は来るだろう。

 ──それよりも、禁呪自体を止めることができたなら。

 核がある中央部は同士討ちによって生存者はいないのだという。そして雫は瘴気の影響を受けない。なら誰もが近づけない場所に自分が入って、核を壊してくればいいのではないか。

 そのことに気づくと同時に心は決まった。

 難しいことでも何でもない。むしろ、やらなければならないことだ。

 時間はない。すぐに行けばまだ間に合う。

 そうすればきっと、彼と旅を続ける日常に帰れるはずなのだ。


「ちょ、待ちなって!」

 あっという間に角を曲がって見えなくなった少女に、リディアは呆然とする。

 だが、彼女はすぐに振り返ると、スクワットを続ける知己に駆け寄ってその足を蹴りつけた。ターキスは「いてぇ」と言いながら筋トレをやめて立ちあがる。

「さっさと行って連れ戻してきなさいよ、このぼんくら!」

「ぼんくらって……。本人が行くって言うんだからいいだろ」

「いいわけあるか! あんなただの女の子に何ができるんだっての!」

「俺もそれを知りたい」

 男の言葉は揶揄でもなく言い訳でもなく、本当にそれだけの意味しか持っていなかった。

 眉を潜めて沈黙したリディアに、ターキスは続ける。

「お前も見ただろ、雫の持ってた本」

「…………」

 廊下に血まみれになって倒れていた少女。

 彼女にリディアが治癒をかけ始めた時、ターキスは離れた場所に落ちていたバッグを拾い上げた。そしてそこから零れ落ちてしまった小さな本を何気なく手に取った時、彼は訝しさという枠には収まりきれない衝撃を受けたのだ。

 本の小ささにもかかわらず中にびっちりと並んでいた細かい文字列は、共通言語を使うこの大陸のどの文字ともまったく似ていないかった。もちろん祖先を同じくする東の大陸とも違うだろう。それに彼女は出身地を「東の島国」と言ったのだ。

 つまり彼女はこの大陸でも東の大陸でもない、ほとんど交流もなく情報もない未知の場所から来たということだ。世界にまだいくつかあるという大陸のどれかか、それとももっと別の──

 彼女がどこから来たのか、何故ファルサスを目指して旅をしているのか。それは彼女自身が何者なのか、という疑問と結びついている気がする。

「それにお前の言う通りなら、あいつは少し変わった体をしてるってことになる」

「……血が多い体質なのかもしれないじゃない」

「一命を取り留めたのはともかく、あの出血量じゃ普通すぐには動けないだろ」

 雫を手当てした時「これだけ血が流れてるんじゃもう助からないと思って」と自分で言ってしまった手前、リディアは忌々しげに唇を嚙む。魔法で傷は塞げても、失われた血を補充することはできないのだ。だがあの少女は傷を治しただけで元通りになってしまった。

 少しおかしい、とはリディアも思う。だがそれだけだ。小柄な体からは魔力も感じ取れず、戦い慣れた動きでもない。誰もが手をつけられないでいる禁呪に立ち向かえるような人間とは思えない。

 リディアは舌打ちすると、筋トレを再開した男を睨みつける。

「それがアンタの勘違いで、あの子が死んだら家族には謝っときなさいよね」

「あの顔でもう十八だそうだぞ。自分の責任だろ。それにその時はそれまでの人間だったってことで……腹踊りでもして謝ってやるさ」

「それ謝ってない! 最悪だ、アンタ!」

「普通に謝るより俺は嫌だ」

「相手も嫌だよ!」

 かつて四つの国から宮廷に仕えるよう要請を受けながら、その全てを蹴り倒した女は不機嫌そうな顔で押し黙る。禁呪が組まれ始めてから二日目。瘴気にちつつある城は、一人の少女を除いてその動きを止めようとしていた。


  ※


 廊下の先に重なり合う二つの死体が見えた時、雫はさすがにぎょっとして足を止めた。

 互いに斬り合い息絶えたのか、死体の傍には広がっている血溜まりと投げ出された長剣がある。その凄惨さは普通の少女には正視に堪えないほど壮絶なものだった。

 だが自失しかけた雫は、すぐに「冷静になれと」自分を叱咤する。中央に近づけば近づくほどこういった死体は増えていくはずなのだ。既にもう自分は「普通の女子大生」ではない。普通の大学生は魔法のある世界を旅したりしない。だから吐きたいような泣きたいような現実も、その場にうずくまるのではなく、そうなってしまったものとして捉えるしかない。

 雫は目を閉じる。歩き出す己の背を思い描いた。

 そうして、拳を握りしめ顔を上げる。

「メア、ここで待ってて」

 重いバッグを柱の陰に置くと、雫はその上にメアを乗せる。彼女が例外的に瘴気の影響を受けない存在でも、使い魔はその例外に含まれないのだ。メアは心配そうに主人を見上げたが、「すぐに戻るから、待ってて」言われると一声鳴いて彼女の命令を受け入れた。

 雫はこの城に来て初めて手ぶらになると、倒れている二人の遺体に歩み寄る。

「……お借りします」

 血に濡れた剣を、雫は躊躇いなく拾い上げた。目を開けたまま死んでいる兵士に歩み寄り、強張った手を伸ばして男の両眼を閉じさせる。

 ──城都に着いてまもない頃、エリクと死後の概念について話をしたことがあった。

 その時、この世界での死の無情さを憂いた雫に対し、彼はいつもの調子で言ったのだ。

「仮に死後の世界があるのだとしてもそれを知ることができない以上、彼岸へのあらゆる夢想は生きている人間のためのものだ。だから君は信じていてもいいんじゃないかな。死した後も救われる可能性があるんだって」

 それを聞いた時は納得できなかった。気休めと分かっているのに自分の心の平安だけ買うことなどできるわけがないと。

 だが、間近にいくつもの死を見た今なら分かる。

 悲しんで、祈ってもいいのだと。それが死者を救えばいいと夢想しながら、死後の安寧を期待すればいい。起こってしまったことに哀惜を抱きながらも、もう手が届かない無力さに苛まれながらも、自分が前に歩き出すために、それはきっと必要な儀式なのだ。

 雫は自分の身長には長い剣をもてあましながら走り出す。

 積み重ねられた死を越えて、血と瘴気に染まった空気の中を黙して踏みしめ、静寂に包まれた長い道のりの果てに──彼女はついに「絶望」の前に立った。



 その部屋は城の三階、中心部にあった。

 部屋の中は薄暗く、あちこちに立てられた燭台だけがほんのわずかな領域を照らしている。

 だがそれらあかりに照らされた場所は、床も壁も全てが赤黒く血で塗装され、血の飛沫は天井にまでいたっていた。

 かえるほどの血の臭いは、お化け屋敷もここまで陰惨ではないと思わせるほどだ。

 雫は一歩踏み入って口元を押さえる。先程から大分慣れてきてはいるが、どうもふとした瞬間に吐き気がこみ上げてくるのだ。その都度彼女は浮かびあがってくる涙と共に、逆流してきた胃液を飲みこまなければならなかった。

 ──気を逸らさねばならない。それとも集中か。

 ともかく、精神をくじかれていてはここから先に進めないのだ。

 雫は、本来何色だったのか分からぬじゅうたんを踏み、ゆっくりと奥へ向かう。闇の中、輪郭だけが窺えるを避けながら前に進んだ。暗がりの向こうに蠟燭の灯とは異なる色の光がちらついている。

 まず頭に浮かんだのは「紅い鬼火」という単語だ。小さな鬼火は床の上に複数灯り、辺りを禍々しく染め上げていた。近づくにつれそれらは円形に配されているのが分かる。

「これが……核の陣?」

 鬼火の目の前まで辿りついた雫は、床に浮かびあがる魔法陣を見下ろした。

 直径は二メートルほどだろうか。要所要所で揺れている火とは別に、線自体もうっすら赤く発光している。複雑に書きこまれた魔法陣は、足を踏み入れることを躊躇わせる圧力を醸し出していた。

「……どうやって壊そう」

 試しに剣の先で目の前にある鬼火を切ってみたが、まったく何の影響もないようだ。だとするとやはり石の床に描かれている線そのものを崩すしかないだろうか。雫はツルハシか何かがないかと辺りを見回した。その視線がふと、少し離れた場所に倒れている男を捉える。

 魔法士のローブを着て、陣に向かって手を伸ばしながら伏している男。雫はその姿に既視感を覚えて、吸い寄せられるように歩み寄った。半ば床と一体化している死体の顔を覗きこむ。

「──その魔法士は裏切り、あらがったのだ」

「っ……!」

 突然の声は、魔法陣よりも更に奥から響いた。雫は弾かれたように体を起こすと剣を意識する。

 誰かがまだ残っていたのだろうか。けれど、用心したものの、誰も近づいて来る気配はない。よくよく目を凝らしてみると、部屋の奥には玉座が据えられており、そこに誰かが座っているのがぼんやりと見て取れた。

 その男もまた魔法士のローブを着ているようだが顔は見えない。ただ声には覚えがあった。

「裏切りは人の常だ。だから私はそれを責めぬ。だがその魔法士は死んだ。陣を壊そうとして流れこむ力に耐えきれず、器が壊れたのだ」

「……壊そうとして」

 もんの表情のまま死んでいた男。禁呪を破壊しようとして命を絶たれた男は、つい二時間ほど前に雫を重傷に追いこんだカンデラの魔法士長その人だ。名前も知らなかった魔法士長がどのようなおうのうを経て禁呪の破壊を試み、そして死したのかは雫の想像外のことだ。

 だが彼女の目的でもある陣の破壊は、命の危険を伴っているということだけは分かった。あとはその危険が「この世界の人間」だけに起こるものなのか、彼女にも影響するものなのか。

 そしてもう一つの危険。玉座に座っている老人のことも無視はできない。

 聞き覚えのある声は、魔法士長がへりくだっていた男のものだ。その意味するところは──

「……あなたがシューラ教の主教ですか」

 彼が、この事件のそもそもの発端でないのか。

 硬質な雫の問いに、凄惨な部屋と比して静かな声は答える。


「主教と、呼ばれていた。この体にまだ個の意思があった時には」


 ──これはやばい。

 雫は心中でそう呟いた。トランス状態にあるのか本当にひょうされたのか、とにかく非常に不味い気がする。唯一幸いと言えるのは、主教が一度遭遇した時とは違って、すぐに雫を攻撃する気がないらしいことだ。

 雫は、長過ぎて石床についている剣を気づかれないよう少しずつ前へ動かす。核の陣に向かって刃を慎重に近づけながら、相手の気を逸らすために声をかけた。

「では、あなたは誰ですか」

「名前はない。いつも、どこにでも在るものだ」

「シューラですか」

「そう呼ばれていたこともある」

「シミラと同じ?」

「いつかの時には」

「あなたは何ですか」

 男は少し沈黙する。まるで電気がついたり切れたりするようだ、と雫は思った。

 そこにいる存在は能動性を感じさせない。問えば答える。定義すればそれとなる。だが自分からは何にもならない、それだけの不定な何かに思えた。

 男は答えない。電池が切れてしまったようだ。もう動かないのだろうか。

 そう思えた少しばかりの空白の後に、「それ」は囁く。

「私は絶望である」

 その声は、遠い地の底から響いてくるようだった。


 もし、今の自分の双肩に譲れないものがかかっていなかったら、雫はすぐさま回れ右をしてその場から逃げ去っていただろう。本音を言うと今でも逃げ出したい。

 だが、彼女は意志の力を振り絞ってその場に留まった。

 この男──男でさえないのだろう、「それ」は間違いなくよくないものだ。こんな風に人が向き合っていいものではない、そう本能が囁いている。

 雫は全身に悪寒を覚えながらも思考を巡らす。対話を繰り返すことが唯一、この状況を破滅の一歩手前で留める気がして、緊張に詰まりながら質問を探した。

「あなたは、負ですか」

「私は人に成る以前の人の負だ」

「負の海に棲むものですね」

「怨嗟、諦観、悲嘆。その全てであり、より根源のものだ。そして私は絶望とされる」

「人によって定義されたら、ということですか」

「人にしかこの私は意識されない」

「劣等か優越か」

「どちらでもある。私を意識し得るということは優越ではあるが、私そのものは最下層に位置している」

「ならばあなたは、何を望みますか」

 ここで世界の破滅とか言われたらどうしよう、と思いながら雫は問答を定義より一歩先に進める。

 鋼の剣先が石畳に擦れて嫌な音がした。陣を構成している最外周まであと数センチ。触れたら電流が走って感電するかもしれない、と嫌な想像が頭を掠める。

 心身ともに身構える雫に、だが「絶望」は何かを読み上げるような平坦な口調で応えた。

「私は何も望んではいない」

「ですが、あなたはここにいる」

「招かれたからだ」

 手違いです、帰ってくださいと言いそうになって雫は口をつぐむ。帰ってほしい、と頼んで帰ってくれるのだとしても、そう確信が持てるまでは動かない方がいい。神とは、人の条理が通じぬものと相場が決まっているのだ。

 ──今は相手の出方を探ることと時間を稼ぐことの方が大事だ。

 だがそう思った雫は、あまり時間の猶予がないことを思い出す。彼女は変わらず揺れている鬼火に視線を移した。

「……穴はまだ開いていませんか?」

「未だ。ただとても近くにはある。もとより私は人の中に在り得るものなのだから」

 まだ二日目の昼だ。決定的なところまでは至っていない。その答えは彼女を安堵させたが、それだけでしかなかった。今、止めねばならないのだ。雫は剣をまた少し動かす。

 冷静に。とにかく、冷静に。

 恐怖に走り出しそうな精神の手綱を取り、何度も自分を落ち着かせる。

 携える両刃の煌きが赤い火を映し出した。息苦しさが頭の内部を締めつけ、徐々に視界が閉じていくような気がする。夜の中、何もない場所に一人立っているのではないかと思える途方もなさ。

 だがそれは、他でもない自分が見た世界でしかない。そして己でいくらでも塗り替えられる。

 雫は深く息を吸った。

 ──大丈夫。やれるはず。

 彼女は目を閉じ、世界に溶けこむ息を吐き出す。剣を握る指に力を込める。

 ただ真っ直ぐに、自分を保って。

 そうして雫がもう一度目を開いた時──彼女の精神は、かつてないほど研ぎ澄まされていた。

「あなたが人の魂に近しい存在なのだとしても、今は近過ぎます。人の精神が耐えきれない」

「仕方がない。人とはそうしたものだ。初めから私に繫がっている」

 何故人は怒るのか。恨むのか、悲しむのか。その答えの一つは負の海に由来するものなのかもしれない。魂は負に向かっていつでも開いているのだから。

 だが、それだけではないと雫は思う。

 世界を異にする彼女もまた怒り、嘆く。それは人間である以上、生来から染みついた当然のことだ。批判することはできても否定することはできない。

 だからきっと、負の海が人を形作る全てではないのだ。

 現に人は、時に自分の中で暴れ出そうとする負を抑える術をも知っている。

「人は理性を持つ生き物です」

「そう。正にも繫がっている。人は何にでも繫がっている」

「あなたの言うように魂が何にでも繫がっているのだとしたら、何に従い何を選ぶのか、それは個々人の意志に委ねられています。誰であろうとも他者がそれを侵すことはあってはならない。私は精神の自由を望みます」

「望んで、何と為す?」

「あなたに人を明け渡すことはできない」

 それが、人としての彼女の結論だ。彼女が信じる人の尊さだ。

 雫は両手で摑んだ剣を振り上げる。鏡面のように磨かれた刃に、自分の黒い瞳が映った。

 迷いはない。死の恐怖もない。考えない。

 彼女は魔法陣を構成する一番太い外周に狙いを定める。剣の向こうに鎮座する「何か」の存在を強く感じた。

「お前がそれを言うのか。世界に迷いこんだ棘よ」

 何も聞こえない。止まらない。

 雫は言葉にならない叫びを上げる。

「ああああぁぁぁっ!」

 意志と根源がぶつかり合う一瞬。

 彼女は全身の力を込めると、紅い線の上、長剣を突き立てた。


 無形の力が破裂する。

 押し寄せる力の奔流に、雫の体は容易くはね飛ばされた。いつかメアにされたように、彼女は軽々と宙を飛び離れた場所に落下する。咄嗟に腕を出して受身のごとをしたが、痺れに似た痛みが左半身を襲った。

「っ……痛………………いたくない!」

 雫は気合を入れて顔を上げる。このままここで痛みが行過ぎるまで耐えていたいが、そんな状況ではない。魔法陣がどうなったのか確認しなければ。

 雫はぼやける視界に焦点を合わせる。赤い鬼火が揺れている。

 だがそれは、先程までのようにゆらゆらと光を放っているのではなく、今にも吹き消されそうなほど強い風を受けて揺れていた。雫はあまりのことに目を瞠る。

「た、竜巻?」

 魔法陣の上に小さな竜巻が生まれている。何がどうなっているのか、中央に向かってねじれる風は大きく鬼火を煽り、周囲のものを吸い上げ始めていた。

 雫はあわてて立ちあがる。まだここまでは影響はないが、巻きこまれてしまったらたまらない。彼女は振り返って広間の出口を確認した。

 ──逃げるべきか、留まるべきか。

 咄嗟に判断がつかない。でき得る限り状況を見極めようと雫は竜巻を凝視する。

 部屋中の空気が吸い寄せられる。立ちこめていたものが晴れ、漂っていたよどみが徐々に薄まっていく。刻一刻と肌に感じる変化に、雫は乱れる髪を押さえながら息をのんだ。

 ──吹き荒れる風の向こうに、ローブを着た男が立ったのはその時のことだ。

 人ならざる何か、今まで会話をしていた男の顔が、吹き消されそうな鬼火によって照らされる。露わになったローブの下の顔に彼女は慄然とした。

 人間としての意志がない黒いだけの瞳。虚ろな暗い海そのものが竜巻を見つめている。それはまさしく目を合わせてはいけないもので、雫は本能的な悲鳴を上げそうになるのをかろうじて堪えた。

 虚ろの視線が彼女を捉える。

「外から来し者よ。お前は何を望む」

「わ、私は……」

 雫は気圧されて言葉に詰まる。あの「何か」がいるということは、まだ終わっていない。そして、問われているのは彼女の他にいないのだ。震える唇を彼女は動かす。

「私は……もとの……」


『元の世界に帰りたい』


 そう答えようとした。そのために旅をしてきたのだと。

 望みなど他にない。これが一番大切なことで、叶えたいことだ。

 ──その、はずなのに。

 言葉が途切れる。何故、今そんなことを聞かれるのか。

 雫を「別の世界から来た」人間として認識している存在は、それを聞いてどうしようというのか。

 もし答えて、そして元の世界に戻れるなら。

 雫は息をのむ。それだけの力が、現出した根源にあるのなら。

 できるなら、もう少しだけ待ってほしい。せめて彼が無事だと分かるまで。

 ほんの少しでいいのだ。もう一度会って、礼を言う。それだけの時間で構わない。

 だが、それだけの時間が……今の雫の、一番欲しいものだった。



「答えがないのか。異質な棘よ」

「ま、待って」

「いるはずのない存在。あるべきではない意志よ。ならばお前は……人の望みによって排除されるのだ」

「──え?」

 聞き逃せない不吉な言葉に雫は目を見開く。

 直後、男は前触れもなく床の上に崩れ落ちた。虚ろな眼窩から、口から、「何か」が竜巻に向かって吸い出される。風がより一層勢いを強めた。

 陣のもっとも近くに転がっていた魔法士長の死体が、まるで人形のように竜巻の中に吸いこまれる。それだけではなく部屋中に転がっていたのであろういくつもの遺骸が暗闇の中から現れ、次々陣の中に引き寄せられていった。

「な、何!?」

 単純に風の力が為しているのではない。だとしたら鎧を着た大柄な兵士の遺体が軽々と風に引きこまれることはないだろう。現に雫は吹き荒れる強風の中立っていられるのだ。近くにある椅子もまた動いていない。

 ──死体が、吸われている。

 そう理解した彼女は耐えきれない戦慄に体を震わせた。

 何かが起こる。おそらくはよくない何かが。

 雫は竜巻から目を離さぬまま、扉に向かって後ずさり始めた。

 瘴気が晴れていく。部屋に立ちこめていた嫌な圧力がせていく。

 だが、その代わりに目の前の竜巻は、まるで城中の負が集められていくかのようにどす黒く濁りつつあった。

「ま……ずいよね。これ」

 剣は手放してしまった。メアはいない。今の雫には自分を守る力さえない。扉まであとほんの数歩というところまで彼女は後退する。その時、不意に風がやんだ。

「……うそ」

 雫は自分で見たものが信じられず凍りつく。

 十を越える死体が吸いこまれたはずなのに、そこには人の体の影も形もない。

 代わりにそこにいたのは──紅い両眼で雫を見据える、漆黒の大蛇だった。



 体長十メートルは越える真っ黒な大蛇。

 これが動物園などで厚いガラス越しに対面したのであれば、雫は恐怖を覚えながらもこれほど戦慄はしなかっただろう。だが、この血塗られた部屋において彼女と大蛇を遮るものはない。ただ十五メートルほどの空間があるだけだ。

 血のように赤い眼が雫を見つめる。そこから感じられる威圧に、雫はカエルのように凍りつくのではなく……素早く踵を返した。半開きの扉を押し開け廊下に駆け出す。走り始めたばかりなのに心臓が激しく揺れ動き、そのまま口から飛び出してしまいそうだ。

「まずいまずい! 何あれ!」

 たとえ剣を持っていたとしても戦えるような相手には思えない。そもそも彼女は蛇が嫌いなのだ。雫は走りながら首だけで後ろを振り返って──

「ぎゃあ!」

 逃げ出した彼女を追うためにか、蛇もまた魔法陣の上から動き出していた。廊下に出て迷うことなく距離を詰めてくる。映像でしか見られないような大蛇が蛇行して前に進む速度は、目を瞠る程早いわけではないが、逃げる雫と大して変わらない。追いつかれたら丸飲みだろうか──そんな思考を一瞬でして雫は走る速度を上げた。自分でも限界と思われる体を酷使して廊下を駆けていく。

「蛇は……蛇はやだ……」

 死ぬのは嫌だが、蛇に食われて死ぬのは嫌な死因上位三つに入るくらい嫌だ。

 雫は恐慌に陥るぎりぎりをさまよいながら血に汚れた廊下を蹴って走る。背後から聞こえてくる蛇が滑る音に悪寒が止まらない。もはやあの蛇が雫を狙って動いていることは明らかだった。

 彼女は途中で幾つかの死体の隣を駆け抜ける。そのまま二十メートルほど走って、嫌な予感に振り返った。

「ああああああっ! 最悪!」

 大蛇は先程より一回り大きくなっている。転がる死体を吸いこんだのだ。そのせいか移動速度も若干増している。このままでは遅かれ早かれ追いつかれそうだ。実のところ、逃げ惑って近くの遺体がなくなってしまうのは非常に申し訳ないのだが、今はそれより自分の命を優先させてほしい。

 雫は廊下の先に、見覚えのある小さな人影を見出して片手を上げた。

「メア! 逃げるよ! 走って!」

 少女の姿に戻っていたメアはそれだけで事態を把握したらしい。雫のバッグを拾い上げると主人を待って走り出す。もっとも詳しい説明をしている時間はなかったし、せずとも背後から巨大な蛇が追ってくるのだから説明の必要もないだろう。

 二人は角を曲がって階段をもどかしく下りると、今度は一階の廊下を駆け始める。

 だが城中の瘴気を凝り固めた蛇は、雫が見えなくなってもどこにいるのか分かっているように、違えることなく後を追ってきた。

「し、しつこい……!」

 廊下の奥に見える窓からは日の光が差しこんできている。

 城を覆っていた瘴気が晴れたことは喜ばしいが、今の雫にはそれを喜んでいる余裕はない。よそ見も許されず、ひたすらに廊下を北西方角に向かって移動中だ。

 つかずはなれずの距離で追ってくる気配は、死体が辺りになくなったせいか最後に見た大きさのままだ。だが直線が続くと距離を縮めてくる。その度に雫は絶叫しながら角を曲がり、差を広げる努力をしなければならなかった。

 どこまで逃げれば解決するのかは分からない。分からないが、あんなものを何とかできるのはまず魔法しかないだろうと、魔法の限界をよく知らない雫は思っている。そして、居場所が分かっていて腕の立つ魔法士と言えば、彼女はリディアしか知らなかった。

 あまり面識がない上、命の恩人である魔法士を怪獣退治に巻きこむのは心苦しいが、ターキスもいることだし何とかなるかもしれない。いささか強引に結論を出して雫は彼らのいた部屋に向かう。

 走っていく廊下の先、不意に前方でドアが開いた。中から一人の兵士がきょろきょろと辺りを窺いつつ出てくるのを見て、雫は叫ぶ。

「危ない!」

 突然の少女の声に兵士は彼女の方を見て、蛇に気づいたらしくぎょっと硬直する。そして、無理からぬことだが、そのまま中に逃げこんで扉を閉めてしまった。

 見事に見捨てられた雫は、安堵したような泣きたいような気分でドアの前を走り過ぎる。遅れて追ってくる蛇も、逃げた兵士には興味もないのか部屋の前を素通りしていった。

「メ、メア。私が食われちゃったら逃げていいからね!」

「私はマスターに最後までお仕えいたします」

 そう言ってくれるのは嬉しいのだが、できればメアも自分も死なせたくない。雫は見覚えのある角を曲がりながら、痛む肺を酷使して声を張り上げた。

「ターキス! ターキスちょっと! 助けて!」

「お、戻ってきたのか、雫」

 のん気な声を上げながらドアを開けた男は、さすがに廊下の向こうから走ってくる少女と、大蛇を視界に入れて沈黙する。だが彼はすぐに我に返ると、部屋に逃げ戻ることはせずに抜剣した。

「リディア来い! 敵が来た!」

「敵?」

「蛇だ蛇! 早く来い!」

「へび?」

 首を傾げながら廊下に出てきた女は、やはり接近しつつある大蛇を視界に入れて硬直する。整った顔が見る間に青ざめた。

「しょ、瘴気の塊!?」

「いいから結界張れ! 雫が食われる!」

 男の言葉に彼女は眉を上げたが、はんばくすることなく詠唱を開始する。そのまま雫がターキスの下に辿りつくと同時に、蛇の眼前に不可視の結界が張られた。メアが振り返ってそれを補強する。

 初めての抵抗に蛇は動きを止め、赤い舌を出して雫を睨んだ。

 しかし、本能的な恐怖を呼び起こす大蛇の圧力も、心臓が破裂しそうな雫には本来の半分ほどの効果しか与えない。彼女は膝に両手をついて必死に呼吸を整えた。

「何だあれは。雫」

「瘴気……と、死体。……あと負。たぶん」

「禁呪を凝縮したのか。シューラ偶像と同じ姿だな」

「倒せる?」

「分からん。リディアどうだ?」

「核と瘴気を切り離せれば。けど、これは自信ないわ……」

 禁呪を何とかすると言って出ていったのに、その禁呪を連れ帰ってきてしまったのだから申し訳ない。雫は荒い息をかろうじて復調させると体を起こして蛇を見た。血色の双眸が雫を射抜く。

 ──黒い瘴気の塊は彼女しか見ない。彼女しか追ってこない。

 その疑いを確認するために雫は左右に数歩動いて見たが、蛇の視線は彼女から逸れなかった。むしろ距離を縮めようとして結界を押してくる。途端、かけられる圧力にリディアの顔が苦しげに歪んだ。それを見てターキスが結界の前に出ようとする。

 だが、単なる鋼でできた剣が負の結集である蛇に効くとは思えない。雫はメアからバッグを受け取ると背後の廊下を確認した。

 昼過ぎに連絡が行ったというファルサス。彼の国は今頃調査に乗り出しているのだろうか。

 城を隔離していた瘴気は晴れた。出入りも自由になっただろう。調査隊が来るかもしれない。

 雫は蛇を見上げたまま後ずさり始める。彼女は魔力を振り絞って蛇を留めるリディアに言った。

「リディアさん、私が距離を取ったら結界解いてくれますか?」

「へ? 何で!」

「私を狙ってきてるみたいなんで、どこか遠くに捨ててこようかと……。時間稼げばファルサスが来ますよね」

「そりゃ来るだろうけど、って、食われたらどうすんのよ!」

「ここまで走ってこられたから、もう少しくらい平気ですよ。きっと」

「待て待て雫! 勝てねぇならやめとけ!」

 ターキスが振り返ったが、その時既に雫は走り出していた。メアが半歩遅れて主人の後を追う。

 標的が逃げ出したことに気づくと、大蛇はいっそう前へ前へと結界を押し始めた。

 黒い頭がリディアの結界をげ、少しずつ前進してくる。結界を通じてその重みを全身に受ける彼女は、額に脂汗を浮かべて苦痛の声を洩らした。

「ちょっ……と、もう!」

「解いてください!」

「解け、リディア!」

 二人の叫びと、限界を越えたリディアが倒れこんだのはほぼ同時だった。留めるもののなくなった廊下を、蛇は遠く離れた雫に向かって蛇行し始める。無造作にうねる蛇身に弾き飛ばされそうになったリディアを、ターキスがすんでで拾い上げた。彼は気を失った女を背後に押しやると、目の前を通り過ぎようとする蛇の尾に向かって斬りかかる。

 だが返ってきたのは泥濘を斬るような感触だ。手で内臓を搔き回すに似た音に、彼は顔を顰めた。かなりの力を込めて振り下ろした剣は、まったく弾力を感じられない蛇の体にずぶずぶと沈みこみ床に達する。

 だが大蛇はターキスの攻撃を受けても、彼を見ることも止まることもしなかった。ただ逃げる少女めがけて進んでいく。斬られたはずの尾も刃が過ぎた箇所から元通り繫がり、ターキスはさすがに息をのんだ。

「雫!」

 蛇に追われる少女の姿は既に見えない。その使い魔の少女も見当たらない。だが蛇の目には二人の姿が見えているのか、迷いもせずに廊下の奥へ進んでいく。

 その異形の姿は絶望を覚えるにふさわしいもので──けれどターキスは気を失ったリディアを部屋に戻すと、蛇の後を追って走り出した。



 束の間ではあったが、息を整え距離を取ることはできた。そして今はそれ以上望むことはできない。雫は前を見てひたすら走っていく。

 彼女が履いているのは、この世界に来た時に履いていたスニーカーだが、これは幸いと言っていいだろう。サンダルなどではとっくに足がもつれて蛇の餌食となっていたはずだ。雫は一歩一歩に力を込めて床を蹴る。

 何故自分だけを追ってくるのかは分からない。あの時質問に答えられなかったせいだろうか。

 雫は勢いをできるだけ保ったままブレーキを効かせて角を曲がる。窓が並ぶ廊下は、日が落ち始めたのか赤みのある光が差しこんできていた。様子を窺う兵士たちがちらほらと見える中を、雫は「逃げて!」と叫びながら走り抜ける。最初は不審な二人組に眉を顰めた兵士たちも、彼女たちの背後に大蛇を見出すとあわてて逃げ出していった。

 ──とにかくファルサスが来るまで、城内をぐるぐる逃げ回ってさえいればいいのだ。

 それだけのことなのだが、今日一日走りづめだったせいか、雫の足や膝には既に意志に反した震えが出始めていた。彼女はすぐ横を走っている使い魔を見やる。

「メア」

「何でしょう、マスター」

「逃げ、れる、かな」

「ご自分を信じてください」

「うん」

 信じるしかない。雫は酷使し過ぎて自分のものではないような足を動かし、次の角を曲がる。

 だが、次の瞬間彼女は、曲がったすぐ先にいた女官の一人と衝突して派手に転んでしまった。あっという間に天地が逆さになるほど勢いよく引っくり返る。

「マスター!」

「……っ、だいじょぶ」

 床に両手をついて体を起こす。しかし雫が顔を上げた時、すぐそこには彼女を見下ろす赤い両眼が光を放っていた。蛇は頭をもたげながら獲物に向かって狙いを定める。

「きゃあああッ!」

 悲鳴を上げたのは雫ではなく、彼女とぶつかった女官の方だ。雫は半ば無意識で女官を廊下の端へと突き飛ばした。そのまま自分は逆方向に転がる。

 この判断は正解だった。

 直後それまでいた場所に、蛇の頭が恐ろしい俊敏さで突っこむ。白く光る牙が床をえぐった。

 ──もしあれを食らっていたらただでは済まない。

 雫は何とか立ちあがる。だがその時はもう蛇が、彼女を狙って目と同じ色の舌を震わせていた。

 ──逃げられない。

 背を見せたらきっと食いつかれる。けれどこうして睨み合っていても、待つものはただの死だ。

 選択肢のない極限で、雫は永遠にも等しい数秒を立ち尽くす。

 何も考えられない。誰のことも思い出さなかった。

 これは敗北なのだろうかと、そんなことだけが頭をよぎる。

「マスター!」

 メアの声。続く誰かの怒声が時間を動かす。蛇が苦悶の声を上げて身をよじる。

「突っ立ってんな、雫!」

 いつになく厳しい声。その声に押されて雫は意識を引き戻した。蛇の後ろにいる男を見やる。

 どうやって追いついたのか、そこにはターキスが険しい顔で短剣を黒い尾に突き立てていた。普段彼が持っているものとは違うその短剣は、刺さった箇所からくすぶるように黒煙を上げさせている。

 蛇が憎悪に満ちた目で彼を振り返ると、ターキスは短剣を引き抜いて跳び退すさった。不敵な笑いを浮かべながら構えを取る。

「こっちなら効くだろ? 精霊術士が鍛えた剣だ」

 初めて傷をつけられたせいか、男の敵対姿勢が気に入らないのか、蛇はターキスに向かって首をもたげた。

「ターキス!」

「さっさと行っとけ! 時間稼いでやる!」

 そう言われても雫は咄嗟に動けない。彼を身代わりにして逃げていいものか、それで本当にいいのか、判断がつかず立ち竦んだ。だが男の声は更に彼女を打ち据える。

「行け! お前が逃げたら俺も撒いてくる!」

「……ごめん! 恩に着ます!」

 雫は踵を返すと走り出した。その後を使い魔が追っていく。


 遠ざかる少女の背を見送ってターキスは苦笑した。だがそれもほんの一瞬のことで、彼は蛇の尾を避けて大きく右に跳ぶ。

 人ならざるもの、魔物でさえない相手に嫌でも緊張せざるを得ない。彼は城に忍びこんだ時よりも慎重に、意識を研ぎ澄ませながら相手の様子を窺った。蛇は何を思っているのか、赤い目がただ彼を睨むばかりだ。

 ──不意に、太い尾がしなる。

 男を打ち据えようとするその尾に、だがターキスは鍛えられたバネで空を切らせる。そんなことを間断なく二、三度繰り返した。

 決して長い時間ではない。だが、その間に雫は廊下の遥か向こうにまで距離を稼いでいた。それを確認してターキスは笑う。しかし、彼は次の瞬間、表情を変えた。

 蛇の輪郭が不意に歪む。黒い大蛇自身は微動だにせぬまま、だが表皮がぼやけ黒い瘴気が宙に染み出し始めた。そしてそれはゆっくりと集まると一つの形を成す。──くろひょうに似た一匹の獣に。

「……まじかよ」

 黒豹はターキスを一瞥することもなく、雫が去った方向へ走り出した。その後を反射的に追おうとした彼はしかし、蛇の巨体に遮られたたらを踏む。激しい舌打ちと共に大蛇の牙を避けた。

 自分の命さえもかかった急場だ。判断の過ちは死に繫がる。ならばどうすべきか。

 彼は短く息をつく。

 そして……ターキスはひょうに追いつくことを諦めた。

 今は焦りを消す。目の前の敵に集中する。

 静かに閉じていく視界と比例して、戦いの高揚が湧きあがってくる。男は短剣を油断なく構えた。

 ターキスは禁呪の結晶たる蛇を傲岸な目で見上げる。

「来い」

 蛇はゆらりと首を動かしながら獲物に狙いを定めた。空気が張り詰めていく。

 一つの城が道を踏み外した、その取り返しのつかない罪の清算が今、幕を下ろしつつあった。


  ※


 苦しんでいる最中は、それが終わった時のことを想像すれば気が紛れると聞いた。だから大学受験で昼夜机に向かっていた時は、入学してから何をしようかと考えを巡らせていたものだ。

 だが、異世界でよく分からない揉めごとに巻きこまれて、よく分からない怪物に追われている現在、苦しいと言ったら過去最高に苦しいのだが、何を想像すれば気が紛れるのか分からない。少なくとも元の世界にいた頃思い描いていた「楽しい夏休み」はどこかに行ってしまったし、家族も、友人も、肺と心臓が壊れそうな今は遠過ぎて想像できなかった。

 何ならば鮮明に描けるのかといえば、それは宿屋の部屋でお茶を飲みながら本を読み、時折彼と会話を交わす、そんな光景だ。

 ──これが終わったら、彼と何の話をしよう。

 茫洋とした問いだけを抱いて雫は角を曲がる。ふとその時、視界の隅に黒い影がちらついた気がして雫は振り返った。

「な、何あれ!」

 見ると漆黒の豹が滑らかな動きで彼女を追ってきている。メアが緑色の目を細めた。

「禁呪です。形を変えて追ってきたようです」

「しつっこい! でも蛇よりまし!」

 大蛇より大分小さくなった黒豹は、速度を上げて少女へと向かう。それを見て何の武器も持っていない雫は無謀にも、敵に向きなおると持っていたバッグを振り上げた。

 無防備な喉笛を食いちぎろうと豹は床を蹴る。

「メア! 止めて!」

 主人の命を受けて使い魔が放った力は、ほんの一瞬豹を拘束する。だが、彼女が狙ったのはその一瞬だった。間髪をいれず勢いをつけたバッグが豹の頭めがけて打ち下ろされる。

 バッグは黒い頭部を霧散せしめた。頭を失って豹は床の上に落下する。

 本物の生き物ではないので声は上げない。血も流れない。ただ散ってしまった瘴気は、ゆっくりと元の形を取り戻そうと集まっていく。雫はそれを見てもう一度、今度は豹の腹を蹴り上げる。

「止まれ!」

 豹の腹をあっさりと雫の爪先が突き抜ける。だが、それだけだ。

 再び再生しようとする豹を見て、雫は再び身を翻し走り始めた。

「そ、掃除機が欲しい……できれば業務用……」

 苦手な蛇ではなくなったし、かなり走る速度が速いので攻撃してみたが、普通の攻撃は禁呪の塊である豹には効かないらしい。あっという間に元通りの姿になって追いかけてくる。煙のようなものだし、掃除機で吸ってしまったらいいかも、と思うのだが、そんなものはここにない。

「けど、やるしか!」

 雫は足を止め振り返る。豹はもうすぐそこだ。

 雫がバッグを構えながらメアの名を呼ぼうとした時、けれど豹は急激にそのスピードを速める。

 反射的に頭と心臓をバッグで庇う雫の、逃げられない足に向かって黒い獣は飛びかった。

「っああ……っ!」

 予想外の箇所に来た攻撃に、雫の判断は一瞬遅れる。牙が左のふくらはぎに深々と突き刺さり、雫は絶叫を上げた。

「メアっ! 剝がしてぇ!」

 使い魔の攻撃が豹の頭をぐ。黒い頭部はあっけなく搔き消えたが、雫の傷は消えなかった。牙の開けた丸い穴から血が零れ出す。雫は長いスカートをまくり上げてそれを確認した。

「いたい……」

「痛みを消します」

 メアの声は平坦ではあったが、悔しそうな色が滲んでいた。主人に怪我をさせてしまったことを悔やんでいるのだろう。おまけに彼女は治癒を使えないのだ。麻酔のような魔法をかけてもらい雫は再び走り出す。だが攻撃を受けた衝撃は冷めず、息苦しさは一層増していった。


 いつまで、どこまで、逃げればいいのか。

 本当に終わりはあるのか。助かる道はあるのか。

 あの禁呪は雫を「いるはずのない存在」と言った。だからしつように雫だけを追ってくるのだろうか。

 異世界の人間だから排除しようというのか。あるべきではない意志はこの世界には不要なのか。

 ファルサスがどんな国か、彼女は知らない。

 来てくれるかも分からない。何も分からない。

 何も感じない。足の感覚がない。

 傷口から徐々に絶望が染みこんでくる。思考が絡め取られ、上手く前に進まない。

 雫はもつれる両足を動かす。

 自分がどうやって走っているのか、もうそれさえも分からなかった。


 ──追いつかれる。

 曲がり角にさしかかろうとしたその時、音も気配もないのにそう分かったのは、これまでの短い間に何度かそれを体験したためだ。足を止めようとして雫は、自分の体が言うことをきかないことに気づいた。

 怖い。振り向きたくない。襲われるのは嫌だ。そんな思いが頭の中をぐるぐると回る。

 迷いによって動きが鈍ったのはほんの数秒。けれど雫は声を張り上げた。

「っ……動け、私!」

 痛む足に力を込める。反動をつけて振り返る。雫はバッグに刺したままの短剣を抜いた。

 飛びかかろうとする豹は既に目前だ。しなやかな黒い体が雫めがけて跳躍する。

「マスター!」

 豹の爪がメアの張った結界に突き刺さる。だが、禁呪の結晶たる豹はそれを容易く斬り裂いた。

 白く光る爪が雫に振り下ろされる。雫はその爪を短剣で薙ごうとした。

 だが豹は宙で身をよじってそれを避ける。禁呪の塊は音もなく着地した。

 雫はバッグを捨て、短剣を両手で構える。

「私は確かに、異世界から来たけど──」

 豹の赤い目を見据えて、雫は叫ぶ。


「排除はされない! 私はここに、いる!」


 豹が床を蹴る。だがそれより早く雫は自ら前に駆け出した。

 メアの打ち出した力が豹の顎を下から突き上げる。黒い頭が上を向き──その隙に雫は豹の心臓めがけて短剣を突き出した。

 刃が黒一色の体に吸いこまれる。豹の体が黒い靄となって霧散した。

「っ……!」

 核を貫けたのか、雫は宙に漂う黒い瘴気を見回す。

 けれど次の瞬間──ひやりと冷たいものが背筋を走った。

「マスター!」

 豹が、見る間に再生する。それは彼女のすぐ足元で為された。赤い瞳が雫を見上げる。


 ──ああ、ここで終わる、と思った。


 手を摑まれる。

 雫はそのまま後ろにられた。豹の牙は空を切る。

 詠唱が聞こえる。青年の声。低い、心地のよい声。

 床に魔法陣が浮かびあがる。赤い魔法陣。豹はそこに吸い寄せられる。

 そしてそのまま──陣の上にしばりつけられたかのように動かなくなった。

 彼はそれを確認すると抱き取った少女を廊下の先へ押し出す。藍色の目が窓の外を見た。

「もう終わる。精霊が来た」

「エリク」

 それ以上は言葉が続かない。何も言えない。雫は崩れ落ちそうになって彼の手に支えられる。

 ずっとずっと帰りたかった日常。その半分が確かに今、彼女の下に戻ってきたのだ。

 緊張の反動で座りこみそうになる雫を、だが険しい表情のエリクは半ば持ち上げるように立たせる。その上で彼は廊下の奥を指した。

「行くよ。あまり長くはもたない」

 あわてて彼女が振り返ると、豹は魔法陣のくびきから逃れようと体を捩り始めている。自分を見上げる赤い瞳に、雫はぞっとして息をのんだ。

 連れの少女の手を引いてエリクは走り出す。

「エリク、ど、うやって、ここに」

「走ってきた」

「……それは、分か、る」

 息が切れて上手くしゃべれないのに、嚙み合わない会話はやめてほしい。

 無言の苦情が伝わったのか、彼は続けて口を開いた。

「禁呪の圧力が消えた。だから様子を見に来たんだ。そしたら君が豹に食われてた」

「まだ、食われて、ません」

 相変わらずの物言いに言いたいことはいっぱいあったものの、雫はそれ以上に気が軽くなる思いを味わっていた。彼が来て、そして「終わる」と言った。ならば確かに自分たちは終わりに向かって走っているのだろう。

 もう少しだ。きっと上手くいく。それだけの信頼をこの旅で得た。

 エリクは雫の手を引きながら後ろを振り返る。

「あ、もう逃れてきたか」

「えええ……」

「大丈夫。着いたから」

 一つの扉の前、彼は唐突に立ち止まると大きなドアを乱暴に押し開けた。雫を先に中へ入れる。

 そこはだだっ広いだけの部屋だ。床には壁に沿っていくつもの魔法陣が書きこまれている。雫は自分の現在地と地図上の点を思い出し、ここが何の部屋なのか思い至った。

「転移陣の……」

「そう。ここから外へ逃げるよ」

「でも、私がいなくなったら」

「平気。あとはもうすぐ来る人間が何とかする」

 エリクは自分も部屋に入ると、床に嵌めこまれたプレートを近い場所から走って確認していく。行く先を選んでいるのだ。

 雫は自分も手伝おうと別の転移陣に向かいかけた。だが、次の瞬間扉を振り返って凍りつく。

 もはや豹の形を留めていない瘴気。それが空中を漂いながら雫めがけて押し寄せようとしていたのだ。絶叫が喉につかえる。

「マスター!」

 メアが雫の服を摑んで引っ張った。彼女はあわてて使い魔の手を取ると、部屋の奥まで踏みこんでいたエリクの前に駆け寄る。彼もまた瘴気に気づくと舌打ちして詠唱を開始した。

 ──どうなってしまうのだろう。

 想像のつかない決着に雫の頭は真っ白になりかける。何をすればいいのか分からず、雫はただ動転して辺りを見回した。

 けれどその時、広間の奥、一つの転移陣が発光し始める。

 青白い光と共に陣の上の空間が歪み、雫の視線はそちらに吸い寄せられた。ふと背後のエリクを見上げると、彼もまた詠唱をやめそちらを凝視している。

 一体何が起きるのか彼女が固唾をのんだ瞬間、だが不意にエリクが彼女を引き寄せ、自分の後ろに突き飛ばした。余所見をしていたわずかな隙に、瘴気がすぐ傍にまで迫ってきていたのだ。

 雫はバランスを崩しながら、すぐ後ろにあった転移陣の中に倒れこむ。

 たちまち青白い光に包まれた彼女が最後に見たもの、それは──

 ──奥の転移陣の上に現れた長い黒髪の美女だった。


  ※


 ざっぱーん、としか言い表しようのない光景に雫は立ち尽くす。

 大岩の上に佇む女官姿の少女は、目の前の岩場に打ち寄せる白波を見下ろした。すぐ後ろではメアが沈黙したまま佇んでいる。

 岩だらけの浜辺の後方は緩やかな坂になっており、その上は林に繫がっているようだ。鬱蒼とした木々は、明るい空とは対照的な色合いで坂の向こうに広がっている。少し木々に隙間があるように見えるのは道でもあるのかもしれない。

 そして──彼女の目の前は果てしなく海。

 正真正銘、疑いようもない水平線が遥か向こうに見えていた。

 理解しがたい景色に、雫はようやく隣に立つ青年へ明るく話しかける。

「こういう日本海! って場所に立つと、演歌を歌いたくなりますね!」

「何それ」

「…………」

 禁呪からは逃げ出せた。致命傷はないし、三人とも無事だ。

 だが適当な転移陣に入った彼らの飛ばされた場所は、内陸部にあるカンデラから遠く離れた、どことも知れない海辺だ。エリクがもっともらしく頷く。

「多分、禁呪が城内を汚染した際に転移陣の構成が歪んじゃったんだと思う。普通城はこんなところに転移陣を書かないから」

「どこですか、ここ……」

「さぁ。上に道があるみたいだし、あとで町を探して聞こう」

 小鳥に戻ったメアを肩に乗せ、雫は岩でできた坂を苦心して上り始めた。

 二人は坂を上りきると、林の中に入って適当な木の陰に腰を下ろす。エリクはメアの魔力を借りて雫の傷を治してしまうと、大きく欠伸をした。

「ごめん、少し寝かせて。何かあったら起こしていいから」

「あ、お疲れ様です」

 彼女の声が聞こえたのかどうか怪しいタイミングで、すぐに規則的な寝息が聞こえてくる。エリクも二日間ほとんど寝ていなかったのだろう。雫は疲れが見える寝顔に同情した。

 そういう彼女は何だか気が抜けてしまって、自分の足をじっと見下ろす。そこに傷はなく、ただあちこちに血がこびりついているだけだ。

「……なんか、本当に現実だったのかな」

 ターキスは、リディアは無事なのか。禁呪の塊はどうなったのか。

 転移してしまった雫にそれを確かめる術はない。できることはただ祈るだけだ。

 雫は疲れ果てた体を木の幹に寄りかからせる。そして束の間の休息に彼女もまた落ちていくのだ。


  ※


「戻りました。兄上」

「どうだった?」

「どうもこうも。禁呪の後始末をさせられました」

 女は黒髪を鬱陶しげに束ねながら、忌々しさを隠さない口調で報告する。

 すなわち、カンデラ城内は禁呪に侵され、王をはじめ高官や将軍たちがほとんど死に絶えたことと、禁呪の結晶となっていた二匹の獣を彼女が消滅させてきたことを。

「禁呪を妨害するために城に侵入していたという者たちは、禁呪を始末した時にはもう逃走していました。死者はおりますが証言は取れません。また城都の方でも死者が出ており、今も城に人が詰めかけています。が、それらに対処できる人間はおらず、当然ながら城は沈黙したままです」

「それは大変そうだな」

他人ひとごとのように仰らないでください。いかがなさるおつもりですか」

 突き刺さる妹の詰問に、しかし王は人の悪い笑みを見せただけだ。

「どうもしようがないだろう? しょせん他国の話だ」

「カンデラは瓦解しますよ」

「自業自得だな。愚かな王を持つと下は大変だ。いい教訓になる」

「私も面倒ごとが嫌いな兄を持って苦労しております」

 即座に切り返されて彼は沈黙する。何だかんだ言って、彼はこの妹に弱いのだ。しばしの間を置いて、王は一枚の書類を書き上げると妹に差し出した。

「これを持ってカンデラを緊急統治してくれ。混乱を最小限に抑えるように」

「禁呪のことは明るみに出してよろしいので?」

「構わん。そうでなければファルサスの大義名分が立たないからな。生き残ったカンデラの人間から証人を選んでおけ。あとはこちらからの侵略と取られぬよう、中立の第三国に協力を要請する」

 女は受け取った書類に目を通していたが、兄の言葉を聞いて怪訝そうな顔になる。

「第三国? 適任がいますか? 禁呪がらみですよ」

「いなくもない。場合によってはカンデラの統治を当分代行してもらうことになるかも知れんから、切れる王を選ぼう。ちょうどすぐ南のアンネリをロズサークが攻め落としたばかりだろう? ロズサークの王は俺の……」

「兄上! 滅多なことを仰らないでください!」

「すまん」

 男はけろりとした顔で舌を出す。その表情に彼女は脱力感を覚えたが、カンデラの政治的な収拾をつけるために執務室を出ていった。一人になった男は書類処理で凝ってしまった肩をほぐす。

「城に侵入して暴れまわった連中か。面白い人間がいるものだ。会ってみたいな」

 彼はそう言って、にやりと笑った。


  ※


 空はよく晴れている。雲が流れる中、長い黒髪の少女は道の真ん中で足を止め、じっと青空を見つめていた。隣を歩いていた男が、彼女がいないことに気づいて振り返る。

「どうした、リースヒェン」

「この時間なのに、空の色がまだ青いのどうして?」

「こっちは大陸の西の端だからな。お前がいたアンネリよりも日没が大分遅いんだ」

 男は言いながら少女を手招く。リースヒェンはそれに応えて小走りに彼の下に駆け寄った。

 闇色の瞳に同じ色の髪の少女は、十六、七歳だろうか。折れそうに華奢な体つきに、非現実的なほどの美貌の持ち主だ。長い漆黒の睫毛の下で、夜のしんえんのような両眼がまたたく。彼女は小さな田舎町の景色を見回した。

「アンネリやロズサークにはもう戻れない?」

「当分は無理だな。アンネリに幽閉された王女がいたことも、その王女がロズサークに連れていかれたことも話が漏れて噂になってる」

「人質のはずのその私が、ロズサークを逃げ出してここにいることも?」

 少女の問いはなものだ。多くを不思議がる子供のような彼女に、男は苦笑する。

「アンネリの王女は死んだことになってる。そう心配しなくてもいい。今の時期だけだ」

 それに、彼女がここにいることは、当のロズサークの王は承知済みのことだ。かの王は、偶然手に入れた戦利品である彼女が、自分の手に余る存在だと理解した。だからリースヒェンが逃げ出すのを止めなかったのだ。

「どちらかというと、見つかったらまずいのはファルサスの方だな」

「ファルサス? どうして?」

「まあ色々な」

 リースヒェンは不思議そうに首を傾げた。猫のような仕草に男は表情を緩める。

「それよりお前ははぐれないように気をつけろよ。すぐ迷子になるんだから」

「大丈夫。貴方あなたと一緒にいる、オスカー」

 少女の手が男の袖を握る。その仕草に男は微笑んだ。日が沈んだばかりの空色の瞳が穏やかな愛情を湛えて彼女を見る。


  ※


 カンデラ城を中心とした突然の凶事は、それを収めたファルサスによって禁呪が原因であることが発表され、近隣諸国をざわめかせた。最初の襲撃が起きた夜から、城がファルサスの指示の下まともに機能するまでの三日間、混乱が城都を覆っていた時のことは、後に「無言の三日間」と呼ばれ、大陸の歴史に忌まわしい痕を残すこととなる。

 だがその渦中にいた一人の少女について、記録には何もない。名前を聞いた人間も残っていない。ただ、彼女を目撃したという何人かが残るのみだ。

 異世界の少女は今は遠く離れた地で深い眠りの中にある。

 無力ながら根源によって「異質な棘」と呼ばれた彼女が、再び歴史の混沌の中に現れるまでには、もうしばらくの時間が必要だった。


【Babel Act.1 - End -】

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