1.はじまりの言葉

 始まりは穴だ。何の脈絡もなく、彼女の眼前に開いた穴。

 何も映さない姿見のように、穴は唐突にそこに生まれた。

 周囲には誰もいなかった。彼女の代わりになるような人間は誰も。

 だから後にあの穴を思い出す時、彼女は首をひねらざるを得ない。

 はたして二つの世界をつなげた虫食い穴は──初めから彼女を選んでいたのだろうか、と。


  ※


「あつ……」

 降り注ぐ日の光は暴力的なほどだ。

 みなしずくは重いかばんを肩にかけなおした。黒いショルダーバッグがずしりと揺れる。

 夏休み初日のこの日、空は雲一つない真夏日に見舞われている。年々上がり続けている気温は、そろそろ外を歩くだけで火傷やけどしそうだ。

 大学一年生の彼女は、熱されたアスファルトの上を歩いていく。

「重い重い……」

 無意識のうちに滑り出た言葉を聞いて、雫は眉を寄せる。こんなことを言ったら余計重く感じるかもしれない。頭の中で「軽い」とつぶやいてみた。

 彼女の持つ鞄の中には二冊の辞書を始め、ずっしりと数冊の本が入っている。私物に加えて夏休みのレポート用に研究室から資料を借り出してきたのだ。中でも毎日持ち歩いている英和と独和の辞書が重みを増しているが、この二冊がなくては何もできない。

 ふと彼女が顔を上げると道路の先は熱気でゆがんでいた。キラキラと光る逃げ水が目を引く。

 雫は左手で額の汗を拭う。その手を下ろして──「それ」に気づいた。

「何これ」

 いつの間にか目の前に穴が開いている。

 何の支えも、現実味もなく、まるでドアが突然現れたかのように大きな穴が宙に浮いていた。真っ黒なえんけいの穴を、雫は足を止めて見やる。

「幻覚かな……」

 熱中症にでもなったのだろうか。だとしたら倒れて迷惑になる前に、自分で日陰に移動すべきだ。

 そう思って穴の横を通り過ぎようとした彼女は──問題の穴を横から見て目を丸くした。

「……線?」

 横から見ると穴は一本の線に見える、つまりほぼ平面だ。まるで古い映画に開いた虫食い穴を思わせる。

 ──恐れと好奇心が同時に生まれた。

 彼女は穴に向かいそっと手を伸ばす。黒い表面に触れるギリギリへ手をかざした。そこには何の温度も圧力もない。雫は唾をのむ。

 だが直後、急に風が吹いた。

 辺りに吹いたのではない。彼女を吸いこむように穴が急激に周囲の空気を引き寄せ始めたのだ。

「え!? ちょっ……と!」

 雫はあわてて足を踏みしめる。何かに摑まれないかと振り返った。

 何もない。誰もいない。誰も彼女に気づいていない。

 頭の中が真っ白になる。逃げなければと、雫は後ろに手を伸ばす。

 悲鳴が喉につかえた。あれだけ重かった鞄が穴に吸いこまれる。左手が、半身が黒い穴に没した。

「誰か……っ」

 れた声が熱気にえる。伸ばした手がくうつかむ。

 何の叫びもなく

 何の痕跡もなく

 そうして水瀬雫は、世界からこつぜんと姿を消した。


  ※


 広がっているのはただ白けた空間だ。

 何も見えない。目を開けられない。

 濃密な何かの中に漂っているような感覚。

 全てがそこにあり、黙している。

 それは無遠慮な力。冷たい視点だ。

 彼女が小さく震えたのを皮切りに、何かは彼女の中に入ってくる。忍びこみ、沈殿する。

 まるで圧倒的な転換。歪められる存在。

 彼女はその瞬間全てを理解し──そして全てを忘れた。


  ※


「──ぁ、あ」

 喉からこぼれた声は、まるで自分のものではないように聞こえた。雫は喉に手をやる。

 記憶は連続していたようにも、断裂していたようにも思える。

 気が遠くなる熱気に彼女は目を細めた。空を仰ぐと何かが上空を飛んでいる。鳥というにはおかしな形の、飛行機ほどに大きなそれは、ゆっくりと羽ばたきながらはるか遠くへ消えていった。

「ドラゴン?」

 自分の呟きに自分で馬鹿馬鹿しさを覚えて彼女はかぶりを振る。

 とても暑い。今まで以上だ。雫は汗ににじむ手で鞄を持ちなおした。

 そこでようやく彼女は周囲を見回す。

 気づいていなかったわけではない。気づきたくなかったのだ。

 踏みしめているのはアスファルトではなく白砂。漂う空気は湿り気のない乾ききった風。


「──砂漠?」


 どこまでも続く砂。

 メディアの中でしか見たことがないような景色は、非現実そのものだ。

 日陰などどこにもない。果ても見えない。そのことに気づいた雫はようやく我に返る。

「これ、まずいんじゃ……」

 風が巻き上げる砂が顔に当たる。その感触は少なくとも現実だ。まったく意味が分からないが、このままここに立ち尽くしていてはまずい。

 雫は自分の格好を見下ろす。着ているものはノースリーブの白いシャツにサブリナパンツ。アウトドアの経験がほとんどない彼女にはこの服装が砂漠で命取りなのか違うのか分からない。

 三百六十度辺りを見回した雫は、地平ぎりぎりに砂漠の境界があることに気づいた。そこから先は背の低い草がちらほら見える。砂地から草原に移り変わっているのかもしれない。彼女は短い間に決断した。

「ペットボトルが一本……間に合うかな」

 鞄の中には飲みかけの水のペットボトルが入っている。

 白昼夢の経験はない。これが現実だと断じることもできない。

 だが幻覚であることを期待してここに留まれば、そうでなかった時に命に関わる。

「現実では車道に歩き出したりしている、なんてことになりませんように」

 雫は鞄から長袖の上着を取り出すと頭にかぶった。重い鞄を肩に背負いなおす。本を置いていこうかとも一瞬思ったが、自分の本だけならともかく図書館の本を捨てていくのは駄目だ。

 雫はそこで思い出してスマホを取り出してみたが、電波は入らない。彼女は苦笑して顔を上げる。

「よし、行く」

 ──例えば立っていた場所が砂漠でなかったら、しばらく動転し動けなかったかもしれない。

 しかし実際は、命に関わるかもしれないという静かな恐れが動揺を押しこめた。

 雫は意外と冷静でいられる自分に賛辞を送りながら、この世界で初めての一歩を踏み出す。

 爪先に力を込める。一歩一歩が砂に埋まり、スニーカーの中がざらざらになっていった。熱が圧力となって襲いかかってくる。乾いた空気が呼吸した端から喉を焼くようだ。

「つら……」

 草原は歩いても歩いても一向に近づいてこない。時折口に含む水はなまぬるかったが、充分おいしく感じられた。雫は気弱になりそうな自分にかぶりを振る。

「みんな心配するかな……」

 雫が暮らしているのは大学の学生寮だが、家族が異変に気づくのはいつ頃だろう。

 彼女は三人姉妹の真ん中で、おっとりとしていて優しい姉と、しっかり者で厳しい妹に挟まれて育った。姉よりは現実的で、妹よりは穏やかな性格だと自認しているが、姉妹と離れて自分個人を見た時に、「どういう人間なのか」と問われてもよく分からない。

 二人とは同じ小中高に通い、ずっと比較される中で生きてきたのだ。自分を振り返ろうにもまず姉妹と比べてしまう。

 だが、このまま自己が曖昧なままでは、うわさに聞く就職活動で悲惨な目にうことは確実だ。

 そうでなくても──きっと「自分」が分からないままではよくない。

 だから雫は、家を出て県外の女子大に通い始めた。

 人文学部の授業は、教養科目の中から好きな授業を選べ、毎日が楽しい。サークルには入っていないが、これからでも間に合うだろうしバイトもしてみたい。

 期待と可能性が詰まっている夏休み、だが現実に今、彼女がいるのは砂漠だ。

「砂漠か……なんで砂漠……」

 雫が思いつく中で日本にある砂漠と言えばとっとりきゅうだ。何故なぜ数百キロ離れた鳥取に出てしまうのかは分からないが、もしここが鳥取砂丘だとしたら頑張れば帰れる範囲だろう。

「鳥取でなかったら……」

 そこまで口にして雫はひとまず思考を棚上げした。ただでさえ過酷な状況なのに嫌な想像をしない方がいい。まず目の前の砂漠を見るべきだし、本当に砂漠しか見えない。

 くらくらと視界が歪む。体が重い。

 もう一度あの穴が現れたら今度は自分から飛びこんでやる──そう思って彼女はただ歩き続けた。


  ※


 街道というほど広くはない道を乗合馬車が走っていく。

 馬車に乗り合わせているのは商人たちだ。彼らは大きな街での仕入れを終えて、自分の町へ戻る途中だった。

綿めんおりものが少し値上がりしていたな」

「最近アンネリの情勢が不安だからじゃないか? あそこに何かあると綿毛は大打撃だ」

「違いない。少し多めに買っておいた。どうせ女たちが欲しがる」

 ささやくような話が続く中、馬車の一番奥の席では一人の青年が本を開いている。

 金色にも見える明るい茶色の髪に藍色の瞳、上下の繫がった服装の彼は中性的な顔立ちをしている。れいな顔立ちに一切の表情を乗せていない青年は、周囲の話を気にすることなく分厚い本を読みふけっていた。

 商人たちの話は、商売から別のことへと移り変わっていく。

「そういえば最近、西の方では奇病が流行はやっているらしいぞ」

「奇病? 伝染するのか?」

「いや、子供たちだけなんだと。それが薄気味悪い病気で──」

 その時、馬車が急に速度を緩めた。すぐにがたん、と音を立てて止まる。

 一人がほろめくり外を見たが、まだ町には着いていない。別の男が御者に声をかけた。

「どうしたんだ」

「人が倒れてる」

 簡潔な答えに商人たちは顔を見合わせた。二人が荷台から降りて外を見回すと、確かに前方の草原に人が倒れている。駆け寄ってみるとそれは一人の少女だ。彼らはわらわらと少女に駆け寄った。

「行き倒れか?」

「砂だらけだ。砂漠越えをしたんじゃないか」

「まさか。こんな服装で越えられるわけがない」

 少女は見たことのない変わった格好をしている。少し茶色がかった黒い髪。顔立ちからしても異国の人間だろう。そのせいか若いということは分かるが、年齢もよく分からない。一人が少女の額に手を当てる。

「生きてる、のか?」

「──生きてるね」

 へいたんな声に商人が振り返ると、荷台の奥にいた青年が隣をすり抜けていくところだった。彼は地面に膝をつくと、少女の首に手を当てて脈を取る。

「あんた、魔法士か。ちょうどいい」

「魔法士だけど医術系じゃないよ。息はあるから、馬車に運んで体を冷やしてあげて」

「わ、分かった」

「誰か水持ってこい!」

 あわただしく男たちが動き出し、少女は荷台に運びこまれる。中で待っていた商人の妻が布を水で塗らして少女の顔を拭った。熱された黒髪にも少しずつ水をかける。魔法士の青年は時折その処置を指示しながら、手にしたものを見下ろした。それは少女の荷物らしい黒い布袋だ。変わった形をしており、ひどく重い。間違っても砂漠越えに伴うような荷物ではない。

 彼はしばらくその荷物をじっと見ていたが、荷台の隅に置いて座りなおした。

 予想外の荷物を増やしながら馬車は再び走り出す。

 そうして彼らの町に運ばれた雫が目を覚ましたのは、その日の夜のことだった。


  ※


「──もう行くの、お姉ちゃん」

 その声に雫は振り返る。玄関の上がり口に立っているのは妹のみおだ。

 大きな目に天然の長いまつ。整った顔立ちとものじのしない態度は校内でも有名だ。二つ年下の妹に雫は苦笑すると、着替えの入ったバッグを肩にかけた。

「もう、って言われても。そろそろ行かないと入寮式に間に合わないよ」

「大学なんて家から通えばいいのに」

「片道三時間はちょっとね。ゴールデンウィークには帰ってくるよ」

 両親や姉は「駅まで送る」と言ったがそれは断った。引っ越しの荷物は既に向こうに送ってあるし、今日は平日なのだ。特に一人でも困らない。

 あっさりと家を出ていこうとする雫に、澪は眉を寄せた。

「お姉ちゃん、どうして家を出ることにしたの?」

「え?」

 ドアに手をかけていた雫は振り返る。どうして今更そんなことを聞くのか。まるで内心を見透かされたようなうしろめたさを覚えて──


 目が、覚めた。


「……澪?」

 薄暗い部屋だ。雫は引き天井をまじまじと見上げる。

 明かりはない。窓からは青白い月光が差しこんできている。雫は体を起こして小さな部屋を見回した。板張りの粗末な部屋には、小さなようだんと雫がいるベッドだけがある。

「ここって……?」

 頭を振った雫は、そこでようやく昼間のことを思い出した。

 熱砂の中ひたすらに歩き続けた記憶。夢なのかとも思ったが、何気なく髪を指でくとざらざらとした感触がまとわりついてきた。雫は白砂がついた手に目を落とす。

「あれ、現実?」

 ぽつりとれた自分の呟きを聞いてぞっとする。

 一体今、どこにいるのか。砂漠で死ぬのだけは避けられたようだが、そこから先が思い出せない。

 雫はそろそろとベッドの外に足を下ろす。壁際に置かれていたスニーカーを履いて、ドアへと向かった。だがそれを開けるより先に向こうから扉が開かれる。暖色の光が流れこんできて、雫は反射的に手で目をかばった。

「あ、起きたんだね。よかった」

 聞こえてきたのは柔らかな女の声だ。雫は相手の姿を見て、軽く目をみはる。

 三十代前後に見える女は、人のいい笑顔で雫を見下ろしている。その笑顔とかけられた言葉に雫は恐る恐る尋ねた。

「あの、あなたが助けてくださったんですか? 私、急に砂漠に出てしまって……」

「あんた、そんな格好でスイト砂漠を渡ろうとしたのかい? 途中の道に行き倒れてたよ」

「スイト砂漠……?」

 聞いたことのない地名だ。自然と雫の心は冷える。

 だがその前に礼だ。彼女は女に向かって深く頭を下げた。

「ありがとうございます、おかげで助かりました」

「いいよいいよ。若い女の子なんて放っておけないからね。あんたどこの子だい? どこに行くつもりだったの?」

「ど、こ……かと言いますと」

 それを問いたいのは雫の方だ。あの砂漠は、ここは、どこなのか。少なくとも雫が通っていた大学の周りには砂漠などない。彼女はひりひりと日焼けで痛む首筋を押さえる。

「すみません、ここはどこですか?」

 黒い穴と出会い、熱砂を歩いた記憶。──もしこの全てが夢ではないのだとしたら。

 雫は女の顔を見つめた。それは明らかに日本人の顔立ちではない。どちらかといえば西洋人の顔だ。女は何の裏もない善意の顔で笑う。

「ワノープって町だよ。タリスの西にある」

「……タリス?」

「この国の名さ。あんた本当に何も知らないんだね。大陸の東にある小さな国だよ」

「大陸……」

 確かに雫は地球上の国名全てを把握はしていない。だが日本ではないとして、どうして自分はそんな場所に移動してしまったのか。

 何よりさっきから無視できない違和感があるのだ。雫はできるだけ緊張を見せないように尋ねた。

「あの、日本語、お上手ですね」

「ニホンゴ? ニホンゴって?」

 くらり、と目の前が暗くなる。雫は自分の額を押さえて支えた。

「いま……話している言葉です。私の国の……日本の」

「ニホン? 聞いたことないね。西の方の国かい?」

 ああ、やっぱり、という言葉をのみこむ。さっき明かりの下で女の顔を見た時、日本語のあまりのりゅうちょうさに違和感を覚えたのだ。その違和感はやりとりをするうちに大きくなって、結局はこれだ。雫はわずかに残った可能性を確かめようとする。

「ここは何大陸ですか? ユーラシア?」

「大陸は大陸だよ。名前なんてない」

「そ、うですか……」

 雫は軽くよろめきかけて目を閉じる。

 言葉は通じる。意思の疎通はできる。しかし、自分の今いる場所はどこだか分からない。

「……少なくとも日本じゃない。あとは──」

「何だ、迷子なのかい? どこから来たか分かるかい?」

 どこから来たかは分かる。だがそれを説明しても知りたいことは知れないだろう。

 女の問いに、雫は顔を上げた。

「あの、地図が見たいんです。この国の場所が分かる、できるだけ大きな地図が」


  ※


 見も知らぬ場所に突然移動する、という怪奇現象を、雫はそう知っているわけではない。

 むしろ似たものを知っているとしたらそれらは、子供の頃読んだファンタジー小説だ。まったく違う土地、あるいは違う時代に迷いこんでしまう話。だがそれらはあくまで本の中の物語で、自分で体験するようなものではない。

 雫はそんなことを考えながら、夜の町を走っていく。変わった服装とその勢いに、店仕舞いをしていた商人がぎょっとしたが、周りの目を気にする余裕はない。雫はひたすら前を見たまま通りを駆け抜け、突き当たりにある大きな建物に飛びこんだ。

 ──中は真っ暗だ。

『地図かい? 図書館の入り口に大陸地図があるよ。まだこの時間なら鍵開いてるから』

 そう言われて来てみたがどう見ても閉館している。人気はないし、明かりもない。

 だが、どうしても今知りたいことがあるのだ。

 雫はポケットからスマホを取り出し、その明かりを頼りに進む。

 学校の教室くらいの大きさの玄関ホール。その奥の壁に目的のものはかかっていた。幅三メートルはある大陸地図を、雫はかぼそい電気の光をかざして見上げる。


 四方を海に囲まれた大陸。

 強いて言えば横長の長方形に近い形。


 雫が知る地球のどこにも、その形に該当する大陸はない。

「そんな」

 手から滑り落ちたスマホが耳障りな音を立てて木の床に転がる。雫は自分もへたりこみそうになってよろめいた。叫び出しかけて口元を押さえる。

「……あ」

 ほんの一言だけ滑り出た声は、まるで固形となって喉に詰まってしまったかのようだ。

 体に力が入らない。動けない。頭から血の気が引いていく。体が急激に冷えていく。

 何が起きているのか。どことも知れない場所で理由も分からないのに一人きりだ。

 雫はぼうぜんと立ち尽くして──

「……あ……あ──」

 声を、絞り出す。

 混乱して壊れそうな精神を脇に置いて、彼女は無理矢理吐いた息を吸いなおした。

 意識して出した自分の声は、少しだけ彼女の心を現実に引き戻す。雫は震える指先を握りこむともう一度息を吸った。

「……あー」

 油断すれば上がってしまいそうな呼吸を、声を出して保つ。

 伸ばした声は前へ、暗い建物の中へ響いていった。雫は深呼吸して、もう一度声を張る。

 混乱が恐怖に変わってしまいそうな不安が膨らんでいく。だからそうなる前に落ち着かなければ。あるいはこれが夢だとしたら誰か起こしてくれないだろうか。

 雫は震え出した声に気づいて息を切る。じわじわと実感が湧いてきて涙が滲んだ。えつが喉を駆けあがってくる。

「う、うそだよね……なんでこんな……」

「──うるさいな」

 あきれたような男の声に雫は飛びあがった。今まで誰もいないと思っていたのだ。彼女は恐る恐る声のした方を見る。

 青年は、音もなく闇の中から現れた。

 透き通る金色がかった茶色の髪。藍色の瞳は不思議と誠実さを感じさせた。中性的な顔立ちの青年は、手に持ったろうそくに火をともすとスマホを拾い上げる。

「何これ。魔法具?」

 聞き慣れない単語を口にしながら彼は雫に歩み寄ると、彼女に向かってスマホを差し出した。

「変わった服だね。どこの国の人間か知らないけど図書館で騒ぐのはよくない。分かった?」

 子供に言い聞かせるような言葉に雫は反射的にうなずいた。スマホを受け取って頭を下げる。

「あ、ありがとうございます。すみません」

「君、昼間倒れてた子だね。無事でよかった」

「ご存知なんですか?」

 雫はそこで初めてまじまじと彼を見上げた。最初に会った女性と同じ、違う人種の顔立ち。

 二十歳過ぎだろう彼は、非常に整った造作をしている。だがどこか近寄りがたい印象を覚えるのは表情にまったく愛想がないからだろう。彼は雫の問いに頷いた。

「君を拾った馬車に僕も乗ってたから。どこから来たの? 迷子?」

「迷子っていうか……日本から来たんですけど、知ってます?」

「知らない」

 覚悟はしていたが、雫は思わず息を止めた。

 この状態を迷子とするなら、これ以上絶望的な迷子はない。何しろ十八歳にもなって、どうすれば帰れるのかさっぱり分からないのだ。

 そもそも本当に帰れるのか、そんなことを思いかけてぞっとする。再び涙が滲んできて、雫はあわててかぶりを振った。

 ──泣いても、叫んでも仕方ない。

 自分はあの砂漠から抜け出してこられたのだ。あの時はもっと冷静で、もっと強くいられた。

 なら今もまたそうであるべきだ。少しでもできることをやる。そうでなければ何にも届かない。

 彼女はスマホを握りしめると、青年に向かって軽く手を挙げた。

「すみません、ちょっとだけ。落ち着かせてください」

「うん?」

 目の前の彼に断って雫は目を閉じる。両膝に手をついて深呼吸する。

 声を出したかったがもうできない。代わりに彼女は、前へ歩き出す人の背をイメージした。


 ──子供の頃から、気分を切り替えるためによく同じことをしてきた。

 立ち止まりそうな時ほど、前へ進む人の姿を思い描いた。

 小さい頃には姉の背を。姉は、どんな時にもほほんで折れないしなやかさを持っていた。

 成長してからは妹の姿を想像したりもした。澪は、何にも臆さず強気な姿勢を崩さなかった。

 だが、今ここにいるのは自分だけだ。だから自分が歩む姿をイメージする。

 数歩先を行く自分自身に追いつけるように。その背を、追う。


 雫はとんとん、と軽く自分の両膝をたたくと顔を上げた。姿勢を正し青年を見つめる。

 まずは、ここからだ。

「はじめまして。私は水瀬雫といいます。十八歳で人文学部の大学一年生、二十一世紀の日本出身です。──あなたは、どなたですか?」

 突然の自己紹介に青年は目を丸くする。だがすぐに気を取りなおしたのか、涼やかな声で答えた。

「僕はエリク。二十二歳でタリスの魔法士。ここで司書をしてる。専門は魔法文字……かな」

「……魔法士?」

 さっきもおかしな単語を聞いたと思ったが、やっぱり意味が分からない。雫は聞いた単語をしゃくして、聞きなおす。

「ひょっとして魔法使い? そういう世界なんですか、ここ」

「何でそんな驚くかな。魔法士なんてファルサスに行けばいっぱいいる。……まぁ僕は研究専門で魔法士としての力はあんまりないけど」

 そう言うと彼はおかしな来訪者への対応に困ったのかこめかみをく。

 雫はただ食い入るように彼の藍色の瞳を見つめた。


 異世界から来た女と一人の魔法士。

 この時の彼らはまだ知らない。

 始まりつつある大陸の変革に、これからの自分たちの意志が深く関わっていくということに。

 ただ彼らにとっての物語の始まりは、今この時の出会いと共に幕を開ける。

 不条理で不可思議な、謎の数々をのみこんで。

 それは、言葉にまつわる物語だ。


  ※


 ──どこか別のところに行きたい、と願ったことがないわけではない。

 だが、魔法の世界に来てしまうのはさすがに予想外だ。どこか遠くに飛ばされるでも、せめて鳥取くらいがよかった。

 図書館を出て町の通りを戻りながら雫はためいきころす。魔法士の青年が聞き返した。

「違う世界?」

「そうです……」

 自己紹介を済ませた雫が向かっているのは、助けてくれた商人の家だ。

 現状、ここが違う世界であることは分かったが、分かったのはそれだけだ。バッグも置いてきてしまったし、今頃「地図を見てくる」と飛び出していった雫のことを心配しているだろう。

 だが戻ろうにも家の場所をちゃんとは覚えていない。そこで彼が送ってくれることになったのだ。

 ほとんど皆が顔見知りだという小さな町は、すっかり人通りも少ない夜の中だ。街灯もない通りは、道が分かっていたとしても一人で帰りたくはない。エリクが持っているランタンが、少し先までをぼんやりと照らしている。

 雫は見知らぬ世界の空気に、緊張しながら土の道を歩いていった。さっきは地図見たさに必死で駆け出したが、これからはもっと用心しなければいけないだろう。何しろこの世界は自分の知る常識が通用しない場所だ。

 その「常識が通用しない」代表の魔法士である青年は、呆れた目で彼女を見た。

「違う大陸なら分かるけどな。世界って何」

「私が聞きたいです……。魔法で移動したりできないんですか?」

「大陸内ならば座標が分かれば転移できる。けど、違う世界なんて初耳だ。妄想じゃなくて?」

「違います! ほら、この機械。私の世界では普通なんですよ。写真も撮れます」

 雫はポケットからスマホを取り出す。エリクはだが、まず単語の方に引っかかりを見せた。

「シャシン? 何それ」

「風景を静止画として機械で写し取るんです。絵の精密なもの……と言ったら語弊がありますが」

 言いながら雫はフラッシュをたいて自分の手を撮る。画面を見せられたエリクは目を瞠った。

「面白い。どういう法則?」

「……さぁ」

 かれてもスマホの仕組みはさっぱり分からない。ピンホールカメラならぼんやりと知っているが、それとは違うだろう。雫はスマホの電源を切るとポケットに戻す。充電も期待できない以上、できるだけ節約していきたい。

「そういう訳で帰りたいんです……」

「別の世界に?」

「です。できれば元の世界かつ元の時代に……」

 そこまで言っておかないと、中世などに戻されても困る。エリクに言っても戻れるわけではないと思うが、こういうのは気の持ちようだ。いつどこであの黒い穴が聞いているか分からない。

 彼は整った顔を軽くしかめた。

「おかしな話だな。文献でも見たことがない。うーん……でもミナセシズクなんて変わった名前、確かに別の世界という気もする」

「水瀬は名字です。名前は雫だけ。水滴の雫」

 名前がミナセシズクなら元の世界でも充分おかしい。水瀬家の三人姉妹はみょうに由来して、それぞれ水にまつわる名前がつけられているのだ。

 姉はうみ、そして妹は澪。ここまでそろえば名字と相まってすぐに姉妹だと気づかれる。進学したばかりの高校で「海の妹か!」と見知らぬ上級生に言い当てられたことを思い出し、雫は苦笑した。

 一方、それを聞いたエリクは眉根を寄せる。

「何だ、雫か。最初からそう言おう」

「言ってたじゃないですか」

「言ってなかった」

 断言に雫は頰を膨らましかけたが、言葉が通じるだけありがたい。雫は逆に尋ねた。

「エリクさんは名字はないんですか?」

「家名を持っているのは貴族とか由緒ある家の人間だけだ。だから王族なんかは長い名前を持ってる。でも僕はただのエリク。それが普通」

「じゃあ私もただの雫でいいかな……」

 名字を名乗って今みたいに誤解されても困る。頷く彼女にエリクは変わったものを見るような目を向けたが、すぐに一軒の家を指した。

「ほら、そこだよ」

 石造りの平屋は、言われてみれば見覚えがある。雫は改めて彼を見ると頭を下げた。

「送ってくださってありがとうございます。あとあの、もう少し色々お伺いしたいんですが」

「別の世界のこと? 悪いけど何も心当たりがない」

 あっさりした返答は、当然と言えば当然のものだ。急に現れた人間に「異世界人です」と言われても困るだろうし、普通は信じてくれないだろう。

 雫は内心落胆しつつ笑顔を作る。

「分かりました。また自分で調べてみます」

 異世界一日目は、そうして何も分からないまま幕を閉じた。


  ※


 朝の光が差しこむ。目を開けて、真っ先に見えたものは石作りの天井だ。

「起きても異世界……」

 雫はそんなことを呟きながら体を起こした。彼女がいるのは昨日目覚めた時と同じ部屋だ。

 昨晩、エリクの案内で帰ると、家にいた商人夫妻は雫を温かく迎えてくれた。

 そのまま食事と風呂を勧められ泊まったのだが、やはりこの世界は元の世界とはあちこちが違う。少なくとも家の中を見るだに電気製品など機械文明的なものは何もない。

 ただ風呂や手洗い場があったり、布や服などの清潔さが意識されているところを見ると、防疫についての意識はあるのだろう。金属器も普通に使用されているし、透明度が低いとは言え窓ガラスもある。一般家庭でこうなのだから文明としては近世に近いだろうか。ただ雫は文化史にそう詳しいわけでもない。あくまで文学部の教養レベルだ。

「文化史の授業もとっとけばよかった……けどここ魔法あるからな……」

 元の世界に照らし合わせようとしても根本からして違う。だからまずはこの世界について知ることから始めなければ。

 雫は借りた服で身支度を整えると部屋を出る。台所では既に、昨日助けてくれた女性が朝食の準備をしていた。

 雫は彼女の名を呼ぶ。

「シセアさん、おはようございます」

「おはよう、雫。体はどうだい?」

「平気です、ありがとうございます。あ、お手伝いさせてください」

 雫はシセアと並んで台所に立つ。そうして朝食を作って一緒に食べながら教えてもらったのは以下の内容だ。

 ──この大陸には四つの大国があるのだという。

 一つは北部に広がるメディアル、二つ目は中央東部にあるガンドナ。三つ目は南部にあるキスク。

 そして最後の一つが、大陸中央から西部にかけて広大な領地を持つ魔法大国ファルサスだ。

 今いるタリスは東部にある小国だが、大陸には他にも多くの中小国がひしめいている。その中でもっとも魔法技術が優れているのは魔法大国の名を冠するファルサスらしい。

「ファルサス……ですか。その国って遠いんですか?」

 魔法の国なら帰る手がかりも手に入るかもしれない。大陸地図を思い出しながら雫が問うと、シセアは笑った。

「乗合馬車を乗り継いでも三ヵ月近くかかるよ。魔法の転移陣を使えれば早いけど、タリスじゃ平民にはなかなか許可が下りないしね。何だったらエリクに聞くといいよ。一日中図書館にいるし」

 この町には医者を含めて三人の魔法士がいるが、彼は魔法士というよりは学者のような人間らしく、一日中図書館に詰めている変わり者なのだという。

「外見だけ見れば娘たちに人気が出そうなのに、そっけないからね、エリクは」

「そうですか……」

 それほどそっけないとは思わなかった。むしろ親切にしてくれた。

 だが確かにほとんど笑わず、世辞も慰めも言わないその態度はとっつきにくいと言えばそうなのかもしれない。彼の姿勢にどこか大学院生に似たものがある気がして雫は微苦笑した。

 ただ何をするにしてもひとまずはこの世界で生きていけなくては仕方がない。

 朝食の片づけを終えると、雫はシセアに向きなおった。

「すみません、実は私、どうやってここに来たのかも、どうやって帰ればいいのかも分からないんです。助けてくださったお礼もしたいですし、どこか働けるところってご存知ないでしょうか」

 ファルサスに行くにしても旅費は必要だ。糸口がない以上、当面の足場は欲しい。

 シセアは雫の真剣な表情を見て、目に困惑と同情を浮かべた。

「どうやって帰ればいいか分からないって……まあ、人には色々あるだろうからね。いいよ、知り合いの店に紹介してあげる」

「いいんですか!?」

「ちょうど人の入れ替わる時期で人手が足りないみたいだし。住むところはうちでいいでしょ」

「あ、ありがとうございます!」

 雫はあわてて頭を下げる。行き倒れから助けてもらっただけでなく、当面の足がかりができたのだ。人の善意に助けられた。

 だが全てはここからだ。足搔あがいて食らいついて元の世界に戻る。

 雫はそう自分を奮い立たせて、異世界二日目をスタートした。


 バイト先として案内された店は小さなパン屋だった。

 焼きたてのいい匂いが漂う店内を雫は見回す。置いてあるのは角パンと丸パン、棒状のものなど五種類ほどだ。菓子パンや総菜パンがないのは需要がないからだろうか。

「──こんな感じで売り子をして。いい?」

「分かりました。頑張ります」

 店主の男が簡単な説明だけをしてちゅうぼうに引っこむと、雫は手元のメモに視線を落とす。

「よし、気を引き締めていこう……」

 そこに書かれているのは数字の対応表だ。ここに来る前に確認したが、雫にはこの世界の文字がさっぱり読めなかった。会話が通じるだけに少し期待していたのだが、当然と言えば当然だ。そこでシセアに聞いて数字だけでも対応表を作ってきたのだ。

 幸い値段は大体同じだし、落ち着いてやれば大丈夫なはずだ。雫が顔を上げると、見計らったかのように中年の女性が二人入ってくる。

「あら、新しい子じゃない。ここらじゃ見ない顔ね」

「雫と言います。よろしくお願いします!」

「元気がいいわ。若い子がいると華やぐわね」

 彼女たちはくすくすと笑い合うと角パンを買っていく。雫は教えられたことを必死で思い出し、会計をして商品を紙で包んだ。

 それからもやってくる客たちは皆、彼女を見て驚き、笑顔で歓迎してくれる。中には「いつもこれを買うから覚えて」と言ってくる客もいて、雫は大学受験以来久しぶりに記憶力を働かせることとなった。

 そうしているうちに時間はあっという間に過ぎ去る。雫はほぼ全てのパンが売れた店内を見回して息をついた。町の生活に密着したパン屋は、毎日どれくらい売れるのか分かっているのだろう。

 厨房から出てきた主人は、まだ温かいパンの袋を雫に差し出した。

「はい、ご苦労様。シセアと食べな」

「ありがとうございます!」

「あと今日の給金。明日もよろしくね」

 主人は雫の手に五枚の硬貨を落とす。青銅色の硬貨一枚で丸パン三つが買えるくらいだ。雫は礼を言って帰路につきながら、ぶつぶつと呟いて考えをまとめる。

「今日働いたのは五時間くらい……かな。一時間でパン三つ。多分、頑張れば生きていくことはできる……」

 もちろん生活するために必要なものはまだまだあるが、このままでもつましく変わりなく暮らしていくことはできるかもしれない。だがそれでは帰れないままだ。

 雫はシセアの家に戻ると彼女の夫が仕入れてきた布地の整理を手伝った。それをしながら下宿代を払い、家事を手伝うことを申し出る。シセアは最初「そこまでしなくてもいい」と言ったが、さすがに何もかもは甘えられない。結局シセアの方が根負けすることになった。

「気だけいてもよくないからね、ゆっくり慣れながら帰る方法を探すといいよ」

「ありがとうございます」

 雫の気持ちをんでくれるシセアの温かさに、ほっと気がほぐれる。

 これはきっとただの幸運だ。人が優しい人間ばかりではないと、大人になりきっていない雫でも知っている。

 ただそれでも雫は、「人は優しくもある」とも思っていた。

 そうでなければもっと世界はかなしく、無彩色だ。鮮やかな世界に自分が立っていることを彼女はうれしく思う。

 それから二週間、雫は毎日を仕事と家事に明け暮れる。

 そうしてこの生活や世界にも慣れてきた──そう思った頃、転機は訪れた。


  ※


「元気そうだ、異世界人」

 店に入ってくるなりそう言った魔法士の青年に、雫は口を開けたまま止まってしまった。

 彼女は我に返ると乾いた笑いを見せる。

「異世界人です。いらっしゃいませ。何をお求めですか」

「パンを。パン以外あるの?」

「スマイルくらいですかね……。定番の無料です」

 そう言って雫は笑顔を作ったが、エリクには当然ながら通じなかったらしい。軽く無視され、彼女は笑顔のままこめかみを引き攣らせる羽目になった。

 エリクは迷いもせず丸パンを二つ指し示す。てきぱきとパンを詰める雫に、青年は感情の読めない声をかけた。

「君は元の世界に帰りたいんじゃなかったのか?」

「帰りたいですよ。でも今のところ方法が分かりませんし、何をするにしても軍資金と基礎知識は必要ですから」

「無謀なのか現実的なのか分からないな」

「やることやってりゃ気も紛れます」

 少しだけ本音が滲み出た言葉にエリクは片眉を上げた。藍色の目が不透明な思考をはらむ。

 彼はふっと息を吐くと懐から硬貨を取り出した。それを払いながら、教授がテキストを読み上げるような声で続ける。

「あれから一通りの文献にあたったけど、異世界からこの大陸に来訪者が来たという記録は残っていない。せいぜい違う位階の……上位魔族などが現出するくらいだ。ただ、とぎばなしはんちゅうのようなものだけど、この世界の法則に反するような事例はいくつか過去に記されている。もしかしたらそれが、君を帰す鍵になるかもしれない」

 雫はパンを入れた袋を握ったまま顔を上げた。大きな、きょうがくに満ちた目でエリクを見上げる。

「……信じてくれてたの?」

「初対面の人間にあんな噓をつく理由はない」

 エリクは当然のように返す。それはすがすがしいほどの断言だ。

 彼はこんな見も知らぬ人間のざれごとを、荒唐無稽な話を、信じて調べてくれていたのだ。

 雫は目元が熱くなって唇を嚙んだ。泣き出しそうな感情をのみこんで笑顔を作る。

「ありがとうございます。エリクさん」

「エリクでいいよ」

 彼はパンの紙袋を受け取る。雫の目に涙が滲んでいるのを気づいているだろうに何も言わないのは、きっと彼の優しさだ。エリクは店のドアに手をかけながら付け足す。

「詳しい話が聞きたくなったら図書館に来るといい。大体いつもいるから」

「あ、じゃあ今日仕事が終わったら伺ってもいいですか! 日没前には行けますから!」

「好きにすればいいよ」

 そう言って出ていく彼は愛想がないのかもしれないが、やはり優しいと思う。

 雫はそれからの約二時間、ふわふわと浮き立ちそうな気持ちを抑えつつ仕事に励む。

 そうして黄昏たそがれどき、彼女は再び町の外れにある図書館を訪ねた。



 まだ夜になっていない図書館は、けれど十分に薄暗かった。利用者がちらほらといる中、雫は奥へと進んでいく。意外に広い図書館は、先に進むほど人気がなくなっていった。そこかしこに静寂が存在感を持って沈殿している。

 エリクはもっとも北の部分、日の差しこまぬ一角で彼女を待っていた。広い机には青白い光を放つランタンが置かれている。雫はバッグを隣の席に置いて彼の向かいに座った。

「目が悪くなりますよ。もっと明かりを取らないと」

「強い光は本を傷める」

「気持ちは分かりますけど、私は視力を保ちたいんで……」

 この世界にも眼鏡があることは知っているが、精度が分からない矯正器具に頼るよりは視力を落とさない方向でいきたい。雫はランタンに触れると光量が調整できないかつまみを探した。だがあいにくそれらしいものは見つからない。

 その時、エリクが無造作にランタンへ手を伸ばした。彼が口の中で小さく詠唱すると、途端に光が一度消え、より明るい光がつきなおす。雫は目を丸くした。

「……す、ごい。どうやったんです?」

「だから魔法。魔法士なら初歩の初歩だ」

「それって、私にも修行すればできます!?」

「できない。魔力の有無は生まれつきだ。魔力量も生まれた時から変わらないし、そもそも君には魔力がない。あと図書館では静かに」

「すみません……」

 てきぱきと好奇心と夢を砕かれ雫は肩を落とした。もう少し魔法を見てみたいと思うのだが、エリクはそれ以上何もする気はないようだ。彼は藍色の目でじっと雫を見やる。

「先に確認しておきたいけど、君は世界を移動した原因について心当たりはないのかな。例えばそちらの世界にはそういう魔法があるとか」

「ないです。というか、私の世界には魔法って実在しないってことになってますから」

「あれ? そうなの? なんで実在しないものなのに話が通じるの?」

「ずーっと昔には魔法があったなんて話があったんですよ。けど現代においてそれが本当に魔法だったかは意見の分かれるところです」

 雫は慎重に言葉を選んだが、魔法が「向こうの世界では存在しないもの」というのはほぼ通説だ。

 雫がいなくなったことは、もしかしたらいわゆる「神隠し」の一種なのかもしれないが、原因不明なことには変わりがない。雫は身振りで大きな穴を描く。

「こういう全身鏡みたいな穴が突然開いて、そこに吸いこまれたんですよ。で、気づいたら砂漠の真ん中でした」

「ああ、それで行き倒れか。よく死ななかったね。普通は死んでる」

「あっさり言わないでください。こわいんで」

 人の口から死地を通っていたと明らかにされても、砂漠道中を思い返してぞっとするだけだ。

 エリクの確認はそれで終わったらしく、彼は手元にあった厚い本を雫の目の前に差し出してくる。

「ほら、ここの話だ。約二百四十年ほど前、ヤルダという国でおかしな事件が頻発している。限られた範囲内に突然、まったく違う場所や時間が現出する。それは幻ではなく実体を伴ったもので、物質だけでなく生物も出現した。で、死者も出ている。百四十六人」

「あの、説明中申し訳ないんですけど、読めません」

「え、なんで?」

「何でって言われても。異世界人だからですかね……」

 数字はいい加減覚えたが、それ以外はまだ全然だ。よく使う単語をやっと覚えたくらいでそれも幼稚園児未満だろう。エリクは「理解しがたい」という目で雫を見たが、そんな出来の悪い生徒のように見られても事実は変えられない。

 だが今の問題は雫の識字能力ではなく、かつてあったというおかしな事件の方だ。雫は改めて聞きなおした。

「その事件のどの点がおかしいか教えてもらってもいいですか。正直、魔法のない世界から来たもので、この世界の常識が分からなくて」

「ああ、そうなのか。けど魔法のない世界って、それ生活困らない?」

「やっぱりそういう感じなんですか。こっちにも代替技術があるので大丈夫です」

 この世界では、魔法技術が生活に根差しているのだろう。ワノープの町でも医者は魔法士だ。エリクはそれを聞いて興味ありげな顔をしたが、説明を優先してくれるらしい。本を指で叩いた。

「魔法について説明するなら、魔法には確固たる法則が複数存在してるんだ。これらの法則に反することはどれほど強い魔法士であってもできない。で、この事件はそれら法則に反している」

「単に発見されていない法則を使ってるとかじゃないですか?」

「違うよ。魔法は無から有を作ることはできないんだ。手元に物を転移させたり、自然の成分を呼んだり作り変えることはできるけれど……例えば何もないところからりんを作ったりはできない」

「うーん? つまりシルクハットからウサギを出したりはできないわけですか」

「何それ」

「余計な合いの手です。聞き流してください」

 黙っているのも息苦しいのでつい口を挟んでしまうが、常識の違いで話が転がらない。

 エリクは呆れた目で彼女をいちべつしただけで、話題を戻した。

「もう一つ、魔法では時間遡行ができない。これも法則に反していることだ。他にも色々あるけど、この二つの点でヤルダの事件は異常だとされている」

「過去にタイムスリップはできないってことですね……その事件ではできた人がいたんですか?」

 何だかさっぱりのみこめない。もっと具体例を聞きたいと雫が思った時、エリクは本を指でなぞりながら読み上げた。

「……『この日、ヤルダのカドスとりで周辺に突如見知らぬ軍勢が現れた。おおよそ十五万人ほどの大軍はまるで今までずっと戦い続けていたかのように二軍に分かれて争い始めた。この戦いにおいてカドス砦もまた攻められ応戦したが、襲ってきた者たちは確かに実在する相手であったと、魔法士も含め複数の証言がなされている。ヤルダに百人を越える死者を出した突然の戦争はしかし、彼らが現れてから約三時間後、突如として終わりを迎えた。彼らは現れた時と同様、何の痕跡も残さず消え去ったのだ。ただカドス砦周辺には彼らとの戦いで戦死したヤルダ兵の死体が残っており、それが夢ではないと証明していた。その後、カドス砦に駐留していた一人の老兵が証言した。あの謎の軍勢、あの戦いは、自分が十年前に経験した、タァイーリとメディアル二国の興亡を賭けた戦争と、まったく同じであったと』」

「え……つまり、十年前の戦争が実体を持って再現されたってことですか? 本当にあった怪奇事件じゃないですか」

「怪奇であることは確かだね。こういう事件がその当時は頻発したんだ。これらについて当時の魔法士たちは『限定された空間内に、人の過去の記憶を現実のものとして存在させる何らかの力が働いたのではないか』と、結論づけている」

「すみません、分かりやすく言ってください」

「つまり、人の過去の記憶が現実になるんだ。例えば君が鍵だったら、君がさっきパン屋で働いていた、その光景が突然ここに現れる。パン屋の建物も客ももちろん君も、現実のものとして」

「怪奇過ぎる!」

 理解はできたが奇妙な話だ。元の世界にも不思議な話が山ほどあるが、魔法の世界であってもそういった原因不明の事件はあるらしい。

 ようやく異例さを理解した雫は、けれど納得すると同時に首をかしげた。

「それが私とどう関係するんですか?」

「このカドス砦の件、実は行方不明者が出ている。砦を離れ敵軍の中に斬りこんでいた将軍と兵士たち五十三人、魔法士三人のあわせて五十六人だ。彼らは一週間後、タァイーリとメディアルが本当に戦った平野、つまり遠く離れた戦場跡で発見された。で、見つかった魔法士たちは転移の構成などは何も働いていなかったと証言している。気がついたらその場所にいたのだと」

「あ……それが私と似てるってことですか」

「大陸内での移動だからまったく同じではないけど、解明できない移動という点では一緒だ。だからこの件をつきつめて調べれば何か糸口があるかもしれない」

 エリクはそこで言葉を切るとじっと雫を見つめた。

 彼女は思わず息をのむ。

 急に自分の手の中に抱えきれないほどの謎を乗せられた、そんな気がした。

「当時頻発したってことは他にもあったんですよね。他の事件もそんな感じだったんですか?」

「この事件と前後して三ヵ月に渡り、二十件程記録されている。全てがヤルダ国内でのことで、共通しているのは誰かしら鍵となる人間の記憶が使われることと、現出した過去の中に巻きこまれた人間は、現象が収まった時『今のその場所』に飛ばされる、ということだ」

 言い回しが難しくて分かりにくいが、要するに異常事態が発生している場所にいた人間は、事が終わった時、記憶によって呼び出されていた場所に瞬間移動させられてしまうということだろう。過去に飛ばないだけましだが、それでも充分迷惑な話だ。

 雫は自分を吸いこんだ黒い穴を思い出す。あれはもしかして「呼び出された過去」だったのだろうか。そんな気もするし違う気もするが、今はわずかな手がかりでもすがりたい。

「じゃあ、それについて調べるとして……どうすればいいんでしょう。二百年以上も前の話なわけですよね」

「そう。ほとんど御伽噺だな。ただこれについては少しおかしな後日談があるんだ」

「後日談?」

 エリクは頷くと開いていた本を指で叩いた。

「この事件についての証言とファルサスが出した考察が載っている本……つまりこの本だけど、実は発行後一ヵ月で改訂されている。現存しているのはほとんど改訂後の本の方だ。中には改訂前の本を、ファルサスから来た人間が新しいものに交換していったという話もあるらしい」

「え? また何で。何が違うんですか」

 誤植でもあったのだろうか。何気なく問う雫に対し、彼は眉を寄せて考えこむような表情になった。一旦本を閉じ、一番後ろのページを開き直す。

「この本は、数少ない改訂前の本だ。ある魔法士が持っていたものを数十年前に司書が譲り受けた。二つを見比べると違っているのは、一番最後に起きた事件についての証言だ」

「証言?」

「そう。改訂前の本には──『魔女を見た』という証言があったんだよ」

 青年の声は深刻な重みを持って響く。雫はげんな顔で彼を見返した。

 ──魔女、と聞いて雫が思い浮かべるのは、子供向けアニメに出てくるような、ほうきに乗って三角帽子を被った魔女だ。もっと頑張って記憶を探って、せいぜい「オズの魔法使い」だろうか。もっともこちらは子供の頃読んだきりなのでほとんど記憶に残っていない。

 彼女は二、三度首を傾げ、聞き返した。

「つまり、魔法使いが関係していることが問題?」

「違う、魔女。魔女は魔法士だけど魔法士は必ずしも魔女じゃない。非常に強大な力を持っている魔法士の女性たちを過去そう呼んでたんだ。今では御伽噺くらいにしか話されないけどね」

「じゃあ、その魔女に会いに行けば帰れるかもしれない、と?」

 確かオズの魔法使いもそんな話だった気がする。

 雫も一応一生懸命考えて質問しているのだが、エリクは芳しい表情をしなかった。何かおかしなことを言ってしまっただろうかと、彼女は沈黙する。

 エリクはややあって頷いた。

「そうかもしれないし、そうでないかもしれない。ただ魔女が大陸にいたのは三百年も前の話だ。今もどこかにいるのかもしれないし、いないのかもしれない。いたとしても本来的には魔法士である彼女たちに、法則に反する力が扱えるのかは分からない」

「う、方針が定まらないですね……」

「まぁ最後まで聞いて。僕が言いたいのはね、ファルサスが本を改訂してまで魔女の関与を隠蔽したということだ。そしてその時期ファルサスには一人魔女がいた。王姉フィストリアがその人だ。目撃された魔女が彼女かどうかは分からないが、わざわざ隠蔽するくらいだ、その可能性は高いだろう。つまりファルサスはこれらの事件について、本当はもっと多くのことを知っていたんじゃないだろうか」

「ファルサス……」

 魔法大国だという国。馬車で三ヶ月もかかるという遠いそこは、確かに雫の中でぼんやりとした目標になっていた。見も知らぬ国が今の話で確かな存在感を帯びた気がして、彼女は息をつく。

 雫は我に返るとバッグの中からノートを取り出した。

「ちょっと待ってくださいね。メモしちゃいますから」

「いいよ。ゆっくりで」

 雫は今聞いたことを思い出しながらノートに書き出し始める。

 大学に入って真っ先に学んだのはノートの取り方だ。それはただ板書されたものを書き写せばいいというわけではない。どれだけ重要なポイントを分かりやすく押さえられるか、後から読み返しても理解しやすいかが重要だ。

 シャープペンを使ってドイツ語のノートの続きにメモを取り始めた雫を、エリクはまじまじと見つめた。正確には彼女ではなく、彼女が書いているものに見入っている。ファルサスを中心にいくつかのキーワードを書き出してしまうと雫は顔を上げた。

「何ですか」

「いや、面白いね。それ君の独自文字?」

「私はどんだけ変な人間なんですか。私の国の文字です」

「こっちと全然違うけど」

 エリクは見開きのページの左右を順に指差した。左にはドイツ語の基礎構文が書かれている。一方、今右に雫が書いたのは日本語だ。

「ああ、こっちは外国語。今勉強中なんです」

「外国語? 国が違うだけでこんなに変わるの?」

「そりゃ海を隔ててますから。こっちの世界だってそうじゃないですか? 他にも大陸があるんでしょう?」

「あるらしいね。全部で五つ。ただ確認されてるのは東の大陸だけで、そこともごく限られた国が交易をしてるだけだ」

「なるほど……?」

 大陸があるらしい、とは変わった言い回しだが、察するに大陸外への航海はさほど普及していないのだろう。エリクは雫の疑問に応えるように続ける。

「東の大陸は、暗黒時代にこっちの大陸からかなりの人数が移民して開拓してるんだ。その時に文字も伝わったらしくて、ほぼこっちと同じになってる」

「ああ、イギリスとアメリカみたいな感じですか。納得」

 怪訝な顔になるエリクを置き去りに、雫は一人だけ納得するとノートのまとめに戻る。大陸地図も書き写そうか、と思った時、エリクが今書いたばかりの単語の中から一つを指差した。

「これ何?」

「ファルサス……多分」

 固有名詞は一応それっぽく書いてある。

 この世界の人間の話し言葉は雫には日本語に聞こえるが、固有名詞は外国語の発音に近いのだ。そのため他の単語と区別がつきやすいと言えばつきやすいが、文字に起こす時は少し自信がない。

 だがエリクは感心したように頷くと別の単語を指差した。

「これは?」

「魔女」

「ファルサスと大分違う」

「カタカナと漢字だからです。私の国の文字ってすっごく多いんですよ。多分あわせて何万字」

 彼女がそう言うとエリクは目を丸くした。彼のそんな表情を見るのは初めてかもしれない。何だかおかしくなって雫は笑ってしまう。

「それ本当? 君の独自文字が何万字もあるんじゃなくて?」

「だからどんな変人なんですかって……。本当ですよ」

 自分だけの文字を何万字も作っていたら本当に変な人間だ。だが、漢字を知らない文化圏の人間からするとこの文字数は驚くべきものなのかもしれない。

 エリクはそれを聞いて「へぇ」と軽く言っただけで、分かったのかどうか表情からはうかがえない。

 雫は彼に確認しながら重要だとおぼしき部分をメモすると、ノートを閉じる。シャープペンをしまう彼女を、つかみ所のない魔法士は顔を斜めにして眺めていた。

 バッグに荷物をしまうと、雫は立ちあがり頭を下げる。

「今日はありがとうございました。参考になりました。正直、何から調べればいいか見当もついてなかったんで助かります」

「うん」

 頷く彼は淡白だ。こういう性格なのだろう。だんだんそのことが分かってきた雫は、微苦笑してもう一度頭を下げるときびすかえす。その背に彼は問うてきた。

「君はこれからどうするつもりなの?」

「お金をめてファルサスに行きます」

 今の話から導ける結論はそれだけだ。ファルサスに行ったら行ったで大変だろうが、それでも行ってみなければ何も始まらない。

 けれどエリクはそれを聞いて首を傾げた。

「君は根性もあるようだし、現実的なところもあるみたいけど、ファルサスまでどれくらい旅費と時間がかかるか分かってる? それでもし着いたとしてどうするの。まさか城に異世界人です! って言いにいくの?」

「結構かかるんだろうなぁとは思ってますが、いざとなったらヒッチハイクでも日雇いでもします。城に着いたらまぁ、その場で臨機応変に考えます」

 おじづいていても、他の誰かが何とかしてくれるわけではない。自分のことなのだ。それを当然と覚悟している雫に、エリクは感情の窺えない目で続けた。

「僕も行こうか」

「……へ?」

「異世界人一人よりましだと思う。一応魔法士だし、君だけよりもファルサスで動きやすいだろう」

「え」

 突然何を言い出すのか。こうして調べてくれただけでも充分親切だと思っているのに、どうして付き添おうなどと言ってくれるのだろう。ファルサスは遠くて、そこから先も困難があるとは彼自身が言ったことだ。そして、仮にそこまでしてもらっても雫から返せるものは何もない。

 彼女はぽかんとしたまま、正直に返した。

「それは……エリクさんもファルサスに用事がある、とかですか」

「ない。できれば関わりたくない国一位かな」

「そこまで!? なんで!?」

「個人的な感想だから気にしないでいい。確実に魔法技術ではあの国が一番だ」

「実はめちゃくちゃディストピアとかじゃないですよね……」

 雫は不安になったが、言葉の意味がエリクには伝わらなかったらしい。「君の言ってる意味はよく分からないけど、平和で栄えてる国だよ」と返ってきた。

 だがだとしたら何故、好きでもない国に付き添ってくれるのか。これが美人で有名な姉や妹なら「単なる好意で」ということもありうるだろう。だが、雫は自分がそうではないと知っている。それにエリクの方も、そんな理由で動く人間には見えないのだ。

 困惑を表情に出す雫に、青年は軽く手を振った。

「君は自分がどれだけ特殊な存在なのか分かってる? 千五百年近い大陸の歴史の中で、君の存在は前例がないんだ。ファルサスが何を隠したのかも気になるし、僕はこの謎に興味がある」

「それは……」

 確かに雫自身も知りたいと思っているのだ。

 何故こうなったのか、何が起きたのか。穴に吸いこまれ、気がついたら砂漠の真ん中に立っていた。そこには何が隠されているのだろうか。意味は、あったのか。

 まるでひたすらに深い断裂をのぞいているかのようだ。知りたい、と思うその先は果てしない気がして、雫は息を止めた。もしかしたら帰れないのかもしれない、そんな目を背けていた可能性さえ頭をよぎる。

 雫が緊張に青ざめたのに気づいて、エリクは眉根を寄せた。

「大丈夫?」

「…………はい」

 かけられる声に彼女は反射的に返事をする。震えそうになる指を固く握った。エリクはそんな雫の様子を見て、思い当たったかのように首を傾いだ。

「ああ、もしかして僕を警戒してる? 安心して。人間にあまり興味がないから」

「うわ」

 ドライな言葉に雫は現実に引き戻された。あわててかぶりを振って否定する。

「違います。ただ途方もないな、って思っただけです」

「それは仕方がない。限られた中での幸運を喜んだ方がいい」

 雫は軽く目を瞠る。

 ──結局そうなのだ。幸運でなければ今頃自分は砂漠で死んでいただろう。

 それが住むところも、職も、食べ物も得られている。これ以上ないくらい恵まれている。

 今の状況に、感謝以外に何を思えばいいというのか。彼女はややあって微笑を浮かべた。

「本当にそうですよね……ありがとうございます」

「別にいいよ。不安なのも無理もない。で、どうする?」

 答えは一つしかないだろう。

 エリクはよく分からない人間だが、真面目な人なのだろうとは感じている。そして彼は、この世界の知識人で、魔法士だ。唐突に始まった不思議な旅を助けてくれる相手として、これ以上の人間はいないだろう。

 雫は意を決すると姿勢を正した。両手を体の前で揃え深く頭を下げる。

「ぜひともお願いします。私を助けてください」

「分かった」

 返ってきた声は、温かくはなかったが誠実なものに思えた。雫はバッグを握る指に力を込める。


 旅を始めるのだ。不思議な世界を渡る旅を。

 先は見えない。何が待っているのかも。

 だが進まないわけにはいかないだろう。雫がかつての日常に帰りたいと思う限り。

「僕も準備があるし、君も何かあるだろう? 出発は一週間後でいいかな」

「はい」

 ようやく慣れてきたこの町を離れるのはさみしいし怖い。シセアやパン屋の主人、他にもみになってきた人々と別れなければならないのだ。

 だが、いつかは進み出すと決めていた。あの日砂漠の中、第一歩を踏み出したように。

 強い意志を目に宿した彼女を見て、エリクは微笑する。

「あと、一つお願いがある。これも僕が同伴する目的だと思ってほしい」

「何でしょう」

「僕に、君の国の文字を教えてくれ」

「え」

 少なからず驚く彼女と、どこか静かな情熱を秘めた青年の視線がぶつかる。

 二人の間には分け合えるものは何もない。

 ただ異なるものばかりを抱いて、彼らは立っていた。

 遥か後に彼女は思い出す。

 彼女にとっての転換は、あの砂漠に立った時だった。

 彼女の物語の幕開けは、彼と出会った時だった。

 そして、彼らの旅のはじまりは、彼のこの言葉だったと。


 運命などはしょせん人が左右するものだ。

 だから雫は自ら選んでこの道を進み始める。

 優しいはじまりの町から、優しくないただ在るだけの世界へと。

 それはしかし、この大陸の根底を覆す変革のこうであるのだと、まだこの時二人ともが知らなかった。

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