君死にたもう流星群 2

第一章 迷子



「疑わずに最初の一段を登りなさい。階段のすべてが見えなくてもいい。

 とにかく最初の一歩を踏み出すのです」

──キング牧師  




◇ ◇ ◇


    1


 二〇一七年九月十八日十二時十五分。

 今日もざらついた鉄の感触を踏みしめて、僕はいつもの階段を上る。灼熱の太陽を存分に吸ったアパートは今にもようかいしそうなほど熱を帯びており、卵を落としたら冗談抜きで目玉焼きができそうだ。

 銀河荘二〇一号室。

『所属ト姓名ヲ告ゲテ下サイ』

「クルーのひらだいだ」

『声紋認証。登録クルー・【ダイチ・ヒラノ】ト確認シマシタ』まずは第一関門。それに続いて、『指紋認証。【ダイチ・ヒラノ】ノ登録指紋ト確認シマシタ』

 そして最後。

『ディスプレイヲ右目デのぞイテ下サイ』

 インターフォンを覗き込むと、光線が下から上に駆け抜けて、僕の右目を『スキャン』する。これがほしの発明した『スペースライター』──いわゆるタイムマシンであることを知る者はこの世に僕一人しかいない。

こうさいにんしよう。【ダイチ・ヒラノ】ト同一人物ト確認シマシタ。──開錠シマス』

 声紋・指紋・虹彩。三つの認証をクリアーして、ドアのロックがやっと解除される。バカと紙一重の天才が作った厳重なセキュリティシステムは、今日も本人の人間不信を雄弁に物語る。

 やっと玄関に入ったところで、ついに最終関門。宇宙船のハッチを模した頑丈そうな自動ドアに向かい、再び自分の姓名を告げる。

『ハッチ・オープン』

 幾何学模様の走った扉がスライドする。室内に踏む込むと、ひんやりとした空気が体を包んだ。外気とのあまりの温度差にぶるりと身震いする。

「クーラーかけすぎだぞ」

「…………」

 部屋の奥では、黒髪の少女が無言で振り返り、僕に視線をよこした。


 あまがわ星乃、十七さい


 そう、この時代では星乃。

 寝癖のついたぼさぼさ頭。いかにもくしの入っていない長髪。それが白いパソコンの向こうから海坊主のようにニュッと顔を半分だけ覗かせている。大きくて切れ長のひとみは薄暗い部屋の中で野生の猫のように光り、頭にかけた流線型のヘッドフォンが今はカチューシャのように見える。

「ちょっと温度上げるからな」

「…………」

 相手の返事は待たずに、僕はリモコンを操作してエアコンの設定温度を上げる。夏場に部屋をキンキンに冷やすのは昔からのほしの癖だ。

 設定温度を十八度から二十二度まで戻すと、

「…………」無言のまま、ピッピッピッピッと連続でエアコンの操作音が鳴り響いた。見れば、設定温度は十八度に戻っている。

「おい、それだと寒いだろ」

「だから?」海坊主が海面から浮上するように、星乃の上半身がパソコンラックの向こうからニョッキリと全貌を表す。

 顔色の悪い宇宙人のプリントがされた大きめのトレーナーを着込み、首元には季節外れのマフラー。上半身は真冬のような格好のくせに、なぜか下は短パンで、長い脚が床に向かってしなやかなラインを伸ばす。白いふとももに鳥肌が立っているのがますますチグハグだ。

「勝手なこと、しないで」低い、小さな声でぼそりと告げる。

「そうにらむなよ」

「睨んでない」切りそろえられていない前髪の奥で、相変わらずひとみは鋭い眼光を僕にぶつけている。部屋に出入りを許されてから二週間以上が経過したが、仲が良くなったかというとそんなこともなく、毎日不機嫌そうな少女のまなしを受けるのが僕の常となっている。

 ちなみに、このアパート『銀河荘』二〇一号室──星乃いわく『宇宙船』に入るためには、『船長』である星乃から『クルー』として認定を受けなければならない。

 僕は先日クルーにしてもらった。そのときはやっとここまで来たかと大いに喜んだが、「いちいち玄関で応対するのが面倒」「あなた何度追い払っても寄ってくるし」という、頭の悪い野良犬のような扱いをされ、船長から乗船を許可された次第だ。ついでに言うと、クルーはいつでも船長の一存でクビにできるらしい。

「弁当、食うだろ」「頼んでない」「特製エビフライ弁当な」

 オレンジ色の文字で『ほかうま亭』と書かれたビニール袋から、二つの弁当を取り出す。室内に香ばしい揚げ物のにおいが広がり、星乃の鼻がひくりと動く。

「食えよ」

 美しいまつ毛が上下したあと、また視線はエビフライ弁当に戻され、やがてトレーナーの奥から、グウウ、と盛大な音が聞こえた。星乃がおなかを押さえると、プリントされた宇宙人が不満げにまゆをひそめる。

「四百八十円な」

「…………」

 値段を告げると、星乃はまたグウウ、と音を鳴らし、それが恥ずかしかったのか、こちらに背中を向けた。それからパソコンラックの引き出しを開け、ごそごそと何かを探し始める。見つからなかったのか、今度は手提げ袋の中身をぶちまけ、それから床に転がる大量のぬいぐるみや書籍の中をあさり出した。

 やがて、テーブルの下に転がっていた財布を見つけると、ほしはバリバリとマジックテープを開けた。昔から使っているのか、テープの部分が毛玉だらけだ。

「……ん」彼女は言葉少なに、じゃりっ、と小銭の山を僕に渡す。

「毎度」

 確かめずにポケットに突っ込むと、特製エビフライ弁当にタルタルソースのミニ袋をつけて、彼女に渡す。一瞬、大きなひとみが輝き、顔がほころびかけたが、僕の視線に気づいたのかすぐにムスッとした表情に戻り、弁当を両手で持ってパソコンラックのほうに退散していった。

 僕も弁当のふたを開ける。おおぶりのエビフライがふんぞり返った形で出迎える。

 ──これ、星乃が好きなんだよな。

 白いタルタルソースをかけたエビフライを、がぶりと頭からかじる。サクサクの衣に、ぷりぷりのエビの触感、じゅわっと広がる油のうまみ。

 同時に、

「ん~!」向こうからも、喜びをみしめるような少女の声が聞こえた。ちらりと見えた横顔は目を細めて幸せそうな顔。星乃は好物を食べているときだけは笑顔だ。

 二人でエビフライを食べながら、ふと不思議な気分になる。

 前代未聞の人工衛星テロ『大流星群』により、あまがわほしは命を落とした。星乃を失った僕はぼうになり、ゴミをあさるほどの人生のらくしやになり果てた。だが、彼女ののこしていた発明品『スペースライター』により、僕は八年前の世界にタイムトラベルを果たし、こうして彼女と同じ部屋で、同じ時間を過ごしている。この時代にやってきて二ヶ月近くがつが、いまだに現実のことではないような気分になる。

 もちろん、『問題』は何も解決していない。『大流星群』は今から五年後の二〇二二年、彼女の命を奪うことになる。その運命を変えるために何をすればいいのか、そもそもあのテロは何だったのか、犯人は誰なのか──すべてはこれからだった。

「──なに、見てるの?」

 僕の視線に気づいた星乃が、また鋭い視線の矢を刺してきた。

「口にタルタルついてるぞ」

「…………」彼女は無言で口元をぬぐう。

「あーあー、裾で拭うやつがあるかバカ」

「バカじゃないわ。バカって言うほうがバカなのよバカ」

 子供じみた反論をしながら、彼女はこちらをにらける。気が強いけど生活力はない。僕が弁当を買ってこなければお菓子と固形保存食料だけで済ませるだろう。

「ほら、野菜も食え」

 僕は立ち上がって彼女の下まで歩き、野菜サラダのカップを彼女の脳天に置く。

「買わないわ」「サービスだ」

 和風ドレッシングをおまけで置くと、彼女はちゆうちよなくサラダをゴミ箱にたたんだ。

 食べものを粗末にするな、とゴミ箱からサラダを救出した僕の言葉を聞き流し、自称『宇宙人』の少女は真顔でこう言うのだった。


「地球の野菜はまずいのよ」


    2


 翌日。

「いや~、だいクンもお盛んですなぁ!」

 教室に入ると、歌舞伎町のホストに学生服を着せたような男子生徒が近づいてきた。

 やましなりようすけ。一応僕の親友で、今はれしく肩に手を回してくる。胸元にはシルバーのネックレスがぎらつくが、通販で買った安物だと僕は知っている。

「何の話だよ。ていうか暑いからくっつくな」

「おアツいのは大地クンのほうだろ~」お調子者らしく僕の背中をパシパシと叩きながら、涼介は続ける。「最近はあの美少女ちゃんの部屋に入り浸っちゃってさ。朝から晩までイチャイチャし放題だろ?」

「そんな関係じゃないよ、僕とあいつは」銀河荘に入り浸っているのは事実だが、ほとんどろくに口も利かないし、とてもりようすけが想像するような関係ではない。

「いいよなー、俺も彼女欲しいなあー」

じゃダメなのか?」

「あれはスタイルいいけど凶暴だからな──イッテ!」

 次の瞬間、涼介がのけぞるように飛び跳ねた。しりを押さえて振り向くと、そこにはまゆげた金髪少女。相変わらず髪の毛はシャチホコのごとく頭の上に盛っている。

「誰が凶暴だって?」キッ、ときつそうな性格そのままの目元で涼介をにらむ。

「痛いよー、だいクン痛いよー」

「僕を盾にするな」

 背中に回りこんできた涼介をがし、僕は軽く手を挙げる。

「朝から元気だな、伊万里」

「あ、うん……おはよう、ヒラノ」

 伊万里はげの髪をくるくると指で巻きながら、どこか上目遣いで僕を見る。

「どうした? 僕の顔に何かついてるか?」

「ううん、なんでもない。そうだ」伊万里は思い出したように言う。「アレやってきた?」

「アレって?」

「進路希望調査票」

「あー」そんなものもあったな、と思い出す。

「ヒラノは進学だったよね?」

「うん、まあ、そうかな」

 あいまいに答えながら、なんだか不思議な気分だった。十七さいの僕にとって、将来の進路は大事なことのはずだったが、ほしのことで頭がいっぱいですっかり抜け落ちていた。

 ──えーと、確か……。

 机の中をごそごそと探ると、奥のほうからしわだらけのプリントが出てくる。

「もう、クシャクシャじゃん。涼介じゃないんだから」

「うるせぇぞモリマン」「モリマンいうな」二人のいつものやりとりがあり、試合開始のゴングのようにチャイムが鳴った。

「ん……?」そこで僕は、足元に何かが落ちているのに気づいた。手を伸ばし、拾い上げてみると、丸めた紙クズだった。

 広げてみると、『進路希望調査票』の文字が見えた。右上の欄には『やましな涼介』と書き殴った名前。どうやら涼介の落としたもののようだったが、そこで教室のドアが開き、古文の教師が入ってくる。

 ──まあ、あとでいいか。

 何気なく用紙を見ると、『進路』の欄には何かを書いた痕跡があった。ぐちゃぐちゃに塗りつぶされているのが見えたが、『医学部』という文字だけがかろうじて判別できる。

 僕はりようすけを見る。彼はもう机に突っ伏している。

 進路希望調査票を裏返すと、そこには胸がやたらに大きいヌードモデルの落書きがしてあり、僕はため息をいた。


    3


「お兄ちゃん!」

 ドアが開くと、黒髪の小柄な少女は勢いよく僕に抱き付いてきた。

 わくづき、十二さい。僕とは小さいころから兄妹きようだいのように育った幼なじみ。八年後では肩まで伸ばしたつややかな黒髪も、今はややボーイッシュに短くまとめ、アニメプリントのシャツにデニムの短パンというラフな格好。大きなひとみがくりくりと動いて僕を映す。

「ねえねえ、今日は晩ご飯いっしょに食べるよね?」

「ああ、いいけど。……さんは?」

 抱き枕のように僕にしがみついてくる少女を押しのけながら、靴を脱いで廊下を進む。惑井家は昔から家族同然で出入りをしているので、家の間取りは把握している。

 居間にさしかかったところで、廊下の先でガチャリと戸が開いた。

「おーっす」

 現れたのは、見事な白銀の髪をした女性。風呂上がりらしく、ゆったりとしたパジャマ姿からすらりと長い手足が伸びている。こうして見るとモデルのようにスタイルがいい。

 惑井真理亜。葉月の母親で、JAXAの現役職員で、ほしの保護者。ちなみに星乃が入居しているアパート『銀河荘』のオーナーでもある。

「今日も仕事だったんですか?」

「まあなー。あそこは地味に人使いが荒いからなー」職場の愚痴を言いながら、真理亜は台所のほうに向かっていく。数秒後、プシュッと音がして「ぷはあーっ!」とうまそうな声が聞こえてきた。美人なのに飾らないところは今も未来も変わらない。

「お兄ちゃん、ちょっと待っててね! 今ご飯が炊けるから!」

 葉月がエプロンをつけながら母親の脇を通り過ぎ、「お母さん、ビールは一缶だけだよ、まだご飯の前なんだから!」と、どちらが親か分からないような注意をする。

「葉月、酒のアテはー?」「お兄ちゃんのご飯が先」「母親は後回しかい」「これでも食べてて」葉月は戸棚からいくつか乾物らしきものを出し、ポンと真理亜の前にほうる。

「お、ちゃんとあるじゃない」

 真理亜はいそいそと袋を破り、慣れた手つきでイカを裂く。ビール片手に裂きイカを食べる様子は絵に描いたようなのんだ。

「もしもし、ハナちゃん?」イカをくわえながら、行儀悪くスマホをいじる。「だいさー。ウチで晩メシを食べてくからねー。うん、うん、いいよいいよ、お互い様さー。悪いね、じゃあねー」

 僕の母親とは昔からのつきあいで、『ハナちゃん』『マリちゃん』と呼び合う仲だ。僕とづきが遊ぶようになったのもその関係だ。

「すみません、急に」

「いいさー。葉月も喜ぶし、あたしもいつもよりいいメシが食えるしー」

 そう言って彼女はビールをあおる。早くも一缶を飲み干し、ヘコんだ缶が転がった。


 一時間後。

「葉月、ビールおかわりー」「もうありません」「まだストックあるだろー」「本日の営業は終了しました」「ツレないねぇ」「もう、お母さんってば飲み過ぎ。明日も仕事でしょ」「だから今日飲むのさー」

 夕食を平らげたあとも、真理亜は楽しげに酒を飲み続けていた。娘にたしなめられたのもまるで聞かず、よっこいしょと立ち上がり、悪びれた様子もなく冷蔵庫まで歩いていく。しかし本当にビールがなかったのか、今度は戸棚を開けてウイスキーの瓶を取り出した。

「真理亜さん、マジで飲みすぎですよ」

「今日は気分がいいんだー。あれ以来、久々におまえとゆっくり話せるしねー」

 あれ以来、という言葉には妙に情感がこもっていた。それはJAXA筑波つくば宇宙センターで起きた先月の事件のことを差しているのは間違いない。通称『第二のエウロパ事件』。インターネットで殺害予告をした男が、真理亜とほしを襲撃した事件だ。犯人は逮捕され、僕と真理亜は重軽傷。星乃が無傷で済んだことと、これをきっかけに真理亜と星乃の『親子関係』が修復されたことは記憶に新しい。

「傷の具合はどうですか」

「なんともないよ。ちょっと肩のあたりが突っ張るけど、あの子に口を利いてもらえるようになったことに比べればこんな傷……」

 彼女は感慨深そうに窓のほうを見た。その視線はきっと星乃のいる銀河荘を向いている。

「あれから毎日、星乃ちゃんのところに顔出してくれてるんだって?」

「ええ、まあ。まだパソコンラックから先には入れてもらえませんけど」

「いいのさ、ゆっくりで。ホント、ありがとうね。だいには何度お礼を言っても言い足りないくらいさー」

「いやそんな……」思わず強く首を振る。僕は自分のしたいようにしただけで、むしろお礼を言いたいのはこちらのほうだった。あの事件のとき、真理亜が命がけで星乃をかばってくれたからこそ、今も星乃は生きており、僕は彼女といっしょにいられる。それだけじゃない。星乃がマスコミや世間のバッシングから守られているのは一重にこのわく真理亜という女性ののおかげなのだ。

 真理亜は指先で、そっと耳元をでるような仕草をした。そこには星型のピアスがきらりと輝いている。幼いころの星乃から贈られたという、小さなピアスが彼女の宝物であることを僕は知っている。いとおしそうに宝物をでる彼女の横顔は、ほしの頭を撫でるときの表情と似ていた。

「そうだ、お兄ちゃん! 肝心なことを思い出したよ!!」

 洗い物でれた手をエプロンでぬぐいながら、づきが僕の前にやってくる。

 ぷくりとほおを膨らませて言う。

「最近ずっとあのオンナのところに行ってるんでしょう?」

「あのオンナ?」げんな顔をする。

「星乃のことですよ」

「ああー」

「お兄ちゃん、毎日毎日あのオンナのところに行って、いったいどういうつもりなの? 私という許嫁いいなずけがありながら……」

「小学校のときの話だろ」僕は葉月を押し返すが、少女は一人がけソファーに無理やりおしりを突っ込んできてぴったりと体を寄せる。

「それじゃ、あとは若い衆で~」

 真理亜はいつもの逃げ口上でそそくさと退散した。

 子猫のようにじゃれついてくる葉月に翻弄されながら、僕もどのタイミングで引き上げようかと裂きイカをくわえた。


    4


『人工衛星の最も多い国はロシアであり、その数は一四〇〇機を超える。二位はアメリカで約一一〇〇機となり、これが人工衛星大国の2トップと言える。だいぶ差が開いて、日本と中国が一三〇機程度で第三位の座を競っている。近年では新興諸国でも人工衛星打ち上げの機運が高まっており──』

 黙々と、関連書籍に目を通す。少しでも気になった記述にはせんを張り、ノートパソコンで知らない用語を調べる。

 銀河荘二〇一号室。今日も冷え切った部屋で、僕は『調査』を続ける。

 忘れもしない二〇二二年十二月十一日。後に人類が『大流星群』と呼ぶ前代未聞の人工衛星テロにより、宇宙空間にある数千の人工衛星はすべて大気圏に突入して燃え尽きた。その中にはISS国際宇宙ステーシヨンも含まれており、宇宙飛行士だったあまがわ星乃は光り輝く流星となって二十二さいで命を落とした。そして、この事件こそが僕が二〇一七年の世界にやってきた唯一にして最大の理由だ。

 星乃を救う。あの大流星群から──そして死の運命から。そのためにはあの大流星群がいったい何だったのか、とにかくなんでもいいから知識を仕入れておかねばならない。というよりも、事件の手がかりを何一つつかめていない今の僕にできることはこれくらいしかなく、こんな試験勉強みたいなことが何の役に立つのかは僕自身にも確証がないが、問題のテロ事件が人工衛星を標的にしたものである以上、基礎知識があるに越したことはない。

 気になるページにせんりながら、僕は思考を進める。調べながら、いつも頭に浮かぶ疑問が今日も僕を悩ます。

 大流星群以外にも、僕にはもう一つ気になることがあった。それは夏休みに起きたJAXA職員襲撃事件──通称『第二のエウロパ事件』。犯人は逮捕されたものの、それはほしの身に直接危険が及んだという意味でとてもショッキングな事件だった。エウロパ事件はこれまでに二度起こっており、第一のエウロパ事件では、星乃の母親が入院中に襲われ、第二のエウロパ事件では星乃とが襲われた。第三の事件が起きるかどうかは皆目分からないが、僕はインターネットのしんえんに潜むような『エウロパ』というハンドルネームにまつわる一連の事件に、何か得体の知れない恐怖を感じていた。星乃を巡る未来の危機が『大流星群』ならば、現在進行形の危機がエウロパ事件と言えた。

 ──た す け て。

 星乃を救うために、僕はこの世界にやってきた。だから、星乃に危害を加える者は誰であれ、僕が盾になって防がなければならない。なぜなら、それだけが僕がこの世界にいる存在意義なのだから──。



 その日の夕方のことだ。『ごめんお兄ちゃん、おしよう切らしちゃって』とづきから買い物を頼まれ、僕は駅前のスーパーへと向かっていた。ついでにビールと裂きイカを頼まれたので帰りは重くなりそうだ。

 最近は、比較的に穏やかな日常が続いていた。学校ではりようすけに会い、放課後は星乃のいる銀河荘に赴き、夕食時はわく家に立ち寄る。もちろん毎日ではないが、専らこういうサイクルで僕の日常は構成されていた。今日もそんないつもどおりの一日と言える。

 もちろん、あの『大流星群』のことは引き続き調べてはいるが、例のエウロパ事件の影響もあり、今は星乃と過ごす穏やかな日常が貴重に思えた。

 目的のスーパーまで、あと少しというところだった。角を曲がり、商店街に差し掛かったころで、目の前を何かが横切った。

 それは赤い光。何かと思って顔を上げると、道の向こうで一台のパトカーがまっている。ちょうどゲームセンターの前で、わずかに人だかりができている。

 ──なんだ?

 駅前のゲームセンターは、高校時代によく利用していた覚えがある。スマホ用のソーシャルゲームに押されて次々に減っていた店舗型のゲームセンターは、一時期は駅前に四軒あったが今やここが最後の一軒だ。そしてこのラスト一軒も、来年度の税務調査で申告漏れが発覚、追徴課税で倒産するまでが確定した未来だ。

「なになにー?」「けんだってよ」「どこどこ?」「事件?」

 通行人の会話を聞くともなしに聞きながら、僕は店舗のほうを見つめつつ歩く。店内から警察官が出てくると、スマホのシャッター音が響く。

 ゲーセンのけんなど正直どうでもよかったが、なんとなく胸騒ぎがして足を止めた。なぜか、この光景に心当たりがあるような気がしたからだ。

「っざけんな、離せよ! 悪いのはあっちのほうだろが!」

 キレた若者らしき、な感じの声が飛ぶ。

 二人の警察官から連行されて、店内から出て来たのは──

「え……!?」まるで刑事ドラマのワンシーンのように。

 警察に連行され、がなり立てているのは、茶髪ロンゲの、ホスト風のチャラ男。


 りようすけだった。


    ○


 ゆうで染まる白い建物が、鋭角的に空を切り取る。門前には二人のいかつい警察官。

 つき警察署。

 パトカーで連行された涼介を追って、僕も警察署まで彼を追いかけた。財布の中身が片道のタクシー代ですべて消えたが、この際そんなことに構っていられない。

 涼介はなかなか出て来ない。

 警察署の門前で、ただぼうぜんと立ち尽くしていると、不審に思った警察官から声をかけられた。さっき連行された友人が心配で……というむねを正直に話すと、同情されたのか、玄関ロビーまで通され、身元引受人が来るまでは帰れないだろう、みたいなことまで教えてくれた。涼介の場合は両親のどちらかだろう。

 ──あいつ、何やったんだ……。

 ロビーの硬いに座りながら、記憶の中にある当時の出来事を探る。

 涼介、ゲーセン、警察沙汰──キーワードをつなげるように記憶をたどってみるものの、やはりうまく思い出せない。一時期、涼介が進路のことで父親と険悪になったというようなことはおぼろげに記憶にあるが、それが高校二年の二学期だったかは定かでなかった。

 時間が長く感じた。に電話しようかとも思ったが、涼介なら知られたくないだろうと考え、やめておく。

 やがて、玄関には背広を着た中年の男性が現れた。

 太いまゆに、黒目がちな。どこか涼介と面影が重なるその顔には見覚えがあった。僕も二回くらいだが涼介の実家で見たことがある、彼の父親。たしか大きな病院の内科だか外科だかの部長。

 父親は受付で頭を下げ、それからその場で待った。高そうな革靴をコツコツと床にぶつけ、イライラしているのが見て取れた。

 やがて、警察官に連れられて、涼介がロビーに姿を現した。父親を見ると、ふてくされたように顔を背けた。

 出会いがしらだった。バアンッ、と音がして、りようすけがぶっ飛んだ。父親が息子の顔に思い切りビンタを食らわせたのだ。「私に恥をかかせるな!」といったような台詞せりふがあり、涼介が床からにらけると、父親はなおも何か怒鳴り、それから息子に向かって何かを投げつけ、背を向けて帰っていった。警察官のほうが驚いて、「あ、あの、ちょっと!」と追いかける始末だったが、父親は取り合わなかった。

 父親が玄関口に消えると、ロビーには涼介が残された。一人の警察官が付き添っていたが、彼はまだ床にいつくばったままだった。

 ──涼介……。

 どこか、その姿が僕自身に重なる。スペースライト前に、に殴られた僕。あるいは、同窓会でにひっぱたかれた僕。

「大丈夫か?」

 駆け寄ると、彼はそのときやっと僕の存在に気づいたらしく、「だいクン……?」と目を丸くして僕を見上げた。警察や父親の前で張っていた虚勢が崩れ、だけどいつものチャラ男の顔でもない、さびしそうな少年の顔がそこにあった。医師になって立派な社会人をやっていた、将来の涼介がうそのように、その姿は小さく見えた。

「へへ、来てたのか」

「おい、血が出てるぞ」

 僕はハンカチで顔をぬぐってやる。

「どうしたんだ」

「えっと……」

 そこで僕は、足元に落ちている『それ』を見つけた。

「ん?」拾い上げると、それは一万円札。「なんで万札が落ちてるんだ?」

「オヤジが捨ててった。タクシー代だと」涼介が吐き捨てるように言う。そこで僕は、涼介の父親が去り際に投げつけたものが、この一万円札だったことに気づいた。

 ──息子をほうって、金だけ置いてったのか……。

 他人の家庭ながら、腹の底でムカムカと怒りがく。大きな病院の医師だから、立派な人物だと勝手に思っていたが、想像と実物はまるで違った。

 ただ、腹を立てている僕と違い、息子のほうは冗談めかしたように言った。

「医者が息子を殴るなんて、ひどいと思わね?」

 ふと、進路調査票に書かれた『医学部』の文字を思い出した。



 タクシーは使わなかった。

 涼介は僕に一万円札を差し出し、「大地クンはこれで帰って」と申し出たが、僕はとてもそれを受け取る気にはなれなかった。タクシー使うならいっしょに乗ろうぜ、と提案すると、りようすけは複雑そうな顔で、「だいクンの分はともかく、俺はそのカネ、使いたくないんだわ」と言った。

 だから帰りは徒歩になった。二人で、街灯だけの薄暗い道をとぼとぼと歩く。

 しばらくは無言だった。確かに帰るために歩いているのだが、家には帰りたくない。涼介の足取りからはそんな心情がありありと見て取れ、血で汚れたえりもとや、鎖の切れたネックレスが荒廃した雰囲気を漂わせていた。

 近道なのか、遠回りなのか。夜の公園に差し掛かったところで、涼介が口を開いた。

「ごめんな」

「ん?」急に謝られて、僕は隣を見る。

 歩く幅をさらに小さくして、涼介は続ける。

「なんか、ヘンなことに付き合わせちゃって」

「いいよ、べつに」

 チャラ男だけど、妙なところで気を遣うし、神経が細かい。見かけの派手さと中身のまっすぐさが一致しないところが、どこかに似ている気がした。

「なんでけんなんてしたのさ」

「うーん」涼介はのどの奥から出るような、くぐもった声で返す。「自分でも分かんね」

「なんだよ、それ」

 ちょっと笑ってみせると、彼も少し笑った。

「いやあ、ゲーセンで格ゲーやってたらさ、なんか後ろ歩いていた野郎がぶつかってきてさ。それで手元が狂って、俺のキャラ死んだんだよ。ふざけんな、って俺が言ったら、相手もヤンキーっぽいやつで、にらみ返してきてさ。あとはまあ、売り言葉に買い言葉っつーか、だんだん俺も腹が立ってきて、気づいたら胸ぐらつかんで殴り合ってた」

「らしくないな。普段ならつまんない喧嘩は買わないじゃん。ってか、女の子以外に興味を示さない」

「だよなあ。なーんか、ムシャクシャしててさ」

 涼介は前髪を掴んで、くしゃりと曲げる。ポリポリと、ネックレスの鎖のあとがついた胸元をかゆそうにく。ひだりほおに手が触れると、痛そうに顔をしかめた。

「オヤジさん、すげえ一撃だったな」

「ひでぇだろ? 強パンチよ、強パンチ」

「ビンタだけどな。でも、マジでぶっ飛び方が格ゲーみたいだったな」

「俺の体力ゲージがマッハで減ったよ」

 ゲームにたとえて二人で笑ってみせるが、涼介はまた痛そうな顔をする。

「なんかあったの? 家で」

「あー」空を見上げ、涼介はどこかほうけたような声を出す。月は妙に明るくて、うさぎの形をしたクレーターがよく見えた。

「最近、オヤジが口うるさくてよー。俺の顔を見ては勉強しろ勉強しろって。夏期講習だって勝手に申し込んだのオヤジだし、医学部受けなきゃ家から追い出すって言うしさ」

「あー、言いそう」りようすけの父親の顔を思い出し、僕も同意する。まゆりあがった様子は融通の利かない頑固親父おやじそのものだった。

「病院でも家庭でも、エラソーに命令ばっかで、こっちの意見なんて一ミリも聞かないし、逆らうとビンタだし」

「分かる。ザ・権力者ってタイプに見えた」

「ハハハ、いいねそれ。ザ・権力者。あるいはザ・王様」

「そこはジ・王様じゃね?」

「細かいよだいクン」

 また二人で笑う。湿っぽい空気が少しだけ、乾いた笑いで中和される。

 ──いても大丈夫、かな。

 僕は核心に触れた。

「進路のことで、オヤジさんとめた?」

「えっ」涼介はびっくりした顔で僕を見る。それから「大地クン、俺のハートを読んだ?」と乙女チックな動作で胸を押さえる。

「おまえの顔を見れば分かるよ。ってか、これ見てさ」

 僕はポケットからブツを取り出し、ネタばらしをする。

 それは進路希望調査票の用紙。志望校欄の『医学部』が塗りつぶされたアレだ。

「あー、そっか。どこでくしたかなって思ってた」

「教室に落ちてたぞ、恥ずかしい落書きが」

 用紙を裏返すと、そこには無駄にうまいヌードモデルの落書き。

「なんだよ、捨てといてくれよ」

「医学部に行きたいんじゃないのか」

「俺には無理だって。地頭悪いんだし、根性ないしさ。──それに」

 涼介は立ち止まった。

 公園の出口には、湾曲した形の車止めがあり、彼はそこに寄りかかった。

「嫌なんだよ、なんか。オヤジに行けって言われるから、医学部に行くの。オヤジに全部、俺の未来まで決められてるみたいでさ」

 彼は街灯を見上げて言う。そこにはなどの虫がたくさん集っており、光源にぶつかっては跳ね返され、パチ、パチというかすかな音を立てている。

 どうすればいいんだろう。どうすれば彼を励ませるのだろう。ほおが赤くれた彼の横顔を見ながら、僕は焦りにも似た気分にさいなまれていた。

 涼介は医者になる。それは彼が将来成し遂げる、確定した『未来』──そのはずだった。しかし僕は、を交通事故から助けたことで、その未来を変えてしまった。伊万里がをしなかったので、涼介は病院に見舞いに来ず、リハビリにも付き合わない。結果、伊万里の懸命なリハビリに付き合うことで医学の道を志すことを決めた涼介の『決意』もまた、変わってしまった。を自動車の前から突き飛ばした瞬間に、過去が分岐し、りようすけのルートは、『医者を目指すルート』から外れてしまったのだ。

 責任を感じる。これは僕のせいだ。僕が余計なことをしたせいで、彼の輝かしい未来が変わろうとしている。どうしよう。なんて言葉を掛ければいい? 涼介は医学部に受かる。立派な医者になる。やればできることは保証されている。しかし、そのことを『現時点の彼』に伝えるにはどうすればいいのか。涼介は自分の可能性を知らない。本気でやれば伸びる学力も、腹を決めれば継続できる持続力も知らない。涼介は自分のことを根性ナシだと思っている。テニス部の練習がきつくて三ヶ月で逃亡している。成績も留年スレスレ。僕が試験のヤマ当てをしたり、宿題を見せてやらなければ一年次にすでに落第していただろう。そう、僕だって、もし未来でこの目で医者になった彼を見ていなければ、とても信じられない。涼介が医者になる? そんなの無理に決まってるじゃん。高校時代の僕は一秒も迷わずに、鼻で笑っていただろう。

 だからこそ、難しい。『現在』の涼介に、『未来』の可能性を伝える。『未知』の才能を知らせる。そんなことをどうやってやればいいのか。偏差値30台のヤツに、頑張れば東大に受かると励ますようなものだ。まったく現実味がない。

 無言のまま、時が過ぎた。

 夏の夜でも、だいぶ気温が下がり、肌寒さを感じるようになったころ、涼介は静かに口を開いた。

「なんていうか、ここ最近、ずっと考えてたんだけど、俺さ──」

 次の一言は衝撃だった。


「高校、やめようかと思うんだ」


    5


 いつものスターライトカフェ、通称スタカは相変わらず混んでいた。

 席に座り、静かに人を待ちながら、僕は先日のことを思い出す。

 ──俺さ。高校、やめようかと思うんだ。

 ぴくりと、自分のほおが引きつる。

 涼介が学校をやめる。そんなことは考えもしなかった。いや、かつての──『一周目』の僕なら、もっと軽い気持ちで受け止めたかもしれない。涼介は成績が悪い。留年スレスレで、赤点など日常茶飯事。学校だってよくサボる。もし学校をやめる生徒がいるとすれば、イの一番に思い浮かぶのが涼介だ。

 あの夜。どうしてやめたいのかと理由をき返した僕に、涼介はこう答えた。「俺、このまま行くとフツーに留年じゃん? 一年のときはだいクンに助けてもらったけどさ、なんつーか、高校行ってる意味が最近分かんないっつーか」「自主退学ってことか」「まあそんなとこ」「大学はどうするんだ」「何言ってんだよだいクン。高校卒業しないのに大学もクソもないだろ」「いや、でも、高認とかあるだろ」「コウニン?」「高卒認定試験。前は大検って呼ばれてたけど、高校中退しても大学受験資格が得られるやつ」「へえ、そんなんあるんだ。でも俺、勉強嫌いだし、そもそも大学行きたいと思わないし」「だ、だけど、医学部は」「受かるわけねーべ。俺の偏差値いくつだと思ってんのよ」

 ──まあ、今すぐってわけじゃないし、留年決定してから考えてもいいし。あ、これモリマンにはナイショね。

 りようすけは軽い感じで笑ってみせた。しかしそのほおの赤いれが、どこか傷ついた彼の内心をうかがわせた。

 将来の進路、父親との確執、医学へのおもい。もっといろいろきたいことはあったが、そのときはしり切れとんぼになった。「寒くなってきたし、帰ろうぜ」という彼の言葉で、その日は終わりとなった。翌日の学校で、涼介はいつもどおりだったし、頬にったガーゼは「階段で転んだ」としていた。口止めされている手前、の前で話を持ち出すわけにもいかず、あれから涼介とそのことは話題にしていない。

 ──僕のせいだ。

 改めて、自責の念がく。涼介が医学部を目指さないのは、僕が『過去』を変えてしまったからだ。伊万里を事故から助けたことで、彼の将来まで狂ってしまった。医師になることも、伊万里と結婚することも、すべて。

 気づけばのどがカラカラになっていて、氷がけて薄くなったカフェラテをごくごくと飲み干す。腹の中がぬるりとした液体で膨らみ、それはまるで僕の嫌な気分の重さを表すようだった。

「ごめーん、なんか時間かかっちゃって!」

 金髪の少女がドリンクを持って、向かいの席に座る。

 伊万里は新作ドリンクなのか、キャラメルティンクルマキアートという舌をみそうな飲み物を、ストローでちゅるりと一口飲むと、「それで、さっそく用件だけどさ」と切り出した。

 今日は、放課後に伊万里からお茶に誘われた。ほしのことが頭をよぎったが、彼女がどうしてもと言うので付き合うことになった。なんとなく、彼女と一対一で会うのは涼介に悪いような気がして、僕は微妙に後ろめたい気分でいた。

「進路のことなの」

「デザイナーの?」

「うん」

 指先でトールサイズのカップをつつくようにしながら、伊万里は話を続ける。

「この前、ヒラノに相談乗ってもらったじゃん? だからちょっと、今回も聞いてもらえるかなって」

「また親とけんした?」

「ううん、違う違う。あ、まあ、これからけんになるかもだけど」

「何をやらかしたんだ」

「えっとね……」

 そこでは、軽快なアコースティックギターの洋楽が流れる店内の中で、何気なく言った。


「あたしね、リューガクしようかと思って」


「え?」

 一瞬何を言われたのか分からない。リューガク?

「リューガクって、あれか。海外に行くのか」

「そうだよ。他に何かある?」

「なんでまた急に」

「話したのは初めてだけど、実は前からちょっと考えてたんだ。本格的にファッションデザイナーを目指すなら、海外の学校も視野に入れないとなって。あたしの尊敬してるデザイナーさんも、けっこう海外の学校出身の人多いし」

 伊万里は普通のことのように自分の進路を話す。しかし僕の内心は混乱の極みにあった。

 おかしい。伊万里は確かにデザイナーを目指すが、海外留学なんてしていなかった。僕の知る『一周目の世界』では、彼女は国内のデザイン系の専門学校に進み、アパレル系のショップでバイトをしながら夢を追っていたはずだ。それがなぜ留学?

 ──あっ!!

 僕はやっと思い出す。そうだ。留学──確かにそうだ。僕は核心となる事実を思い出す。

 伊万里は一周目の世界でも、海外留学しようとしていた。しかし、不慮の事故に遭ったために、それを断念し、当面は足のリハビリに専念することになった。伊万里は元々、留学志望だったのだ。それが『事故』によって国内の学校に進路変更したのだ。

 つまり、僕が彼女を自動車の前から突き飛ばしたあの瞬間、彼女のルートは変更されたのだ。伊万里はをしない。結果、海外に留学する。僕が彼女の未来を変えてしまった。

 また僕のせいで、未来が変わってしまう。伊万里が海外に留学すると、どうなる? りようすけとは離れ離れになるのか? そうしたら二人の結婚する未来は? これはもしかして、決定的に取り返しのつかないことなのでは?

「調べてみたら、けっこういっぱいあるんだよね、海外の学校って。パリのモダールインターナショナル学院とか、ベルギーのアントワープ王立芸術アカデミーとか。ロンドンにもニューヨークにも有名な学校があるみたいだし。だから、今すぐは無理かもしれないけど、国内だけに絞らず、視野を広げて考える必要あるかなって」

「で、でも、言葉はどうするんだ?」気づけば僕は反論していた。「おまえ、英語だって苦手だろ」

「うん、だから勉強しようと思う」

「勉強って、そんな、大変だぞ」

「そうだね」

「海外って、文化も習慣も違うし、治安だって日本より悪いぞ」

「気をつけるよ」

「だ、だけど、だけどさ──」僕は何を言っているのだろう。気づけば、ネガティブなことを言って、彼女を思いとどまらせようとしている。

 デザイナーを目指すのはいい。だけど海外留学? なんでだ? なぜそうなる? はどうして、そんな選択をするんだ?

「なんで……そんなに自信あるんだ?」

「え?」

 彼女がきょとんとする。

 僕は変なことを口走っている。その自覚はあるけれど、かずにはいられなかった。

「伊万里は、海外に留学して、それでファッションデザイナーを目指すんだよな。海外留学して、もしデザイナーになれなかったら、どうするんだ? 日本の大学に行ってない分だけ、就職はいっぺんにきつくなるぞ?」

「そうかもね」

「その『自信』は、どこから来るんだ?」それはどうしても訊きたいことだった。

 僕は自信がない。実現困難なことにチャレンジして、それを突破する自信がない。定期テストや、自分の偏差値に見合った大学受験なら自信を持てるが、自分の実力の二ランクも三ランクも上のことには自信が持てない。当然だ。だってランクが上なんだから。現時点のりようすけもそうだ。自分が劣等生だから、とても医学部受験なんて考えられない。それは当然の感覚なんだ。伊万里だって成績は良いほうじゃない。涼介に少々毛が生えた程度で、英語の成績はいつだって僕のほうが上だ。その彼女が、海外留学?

 僕の質問に、彼女はまばたきをしたあと、意外な答えを述べた。

「アハハハ。何言ってんの、ヒラノ」

「え?」

「自信なんてあるわけないじゃん。だってあたしバカだよ? まあ涼介ほどじゃないけどさ」

「それは……」違うと答えたかったが、違わないとささやく内心の声が聞こえた。伊万里は別に、地頭は悪くない。話していると頭の回転の速さとか、機転の切り替えが利くのは知っている。真面目に勉強に打ち込めば成績が伸びるタイプだ。その点、涼介とよく似ている。

 知りたかった。

 ──俺には無理だって。地頭悪いんだし、根性ないしさ。

 涼介は、自分の能力が信じられずに、『最初の一歩』を踏み出せないでいる。

 は違う。もう『最初の一歩』を踏み出している。夢に向かってあれこれと調べ、海外留学まで視野に入れている。この違いは何なのか。何がきっかけで、『最初の一歩』を踏み出せたのか。僕にはそれが知りたかった。そのきっかけを知ることが、りようすけを励ますためにどうしても必要に思えた。

「教えてくれ。おまえは何が『きっかけ』で、デザイナーになろうと思ったんだ?」

「きっかけ……きっかけねえ」僕の期待の大きさとは裏腹に、彼女は軽い感じで言う。「そんなのあったかなあ」

「え、だってあるだろ。おまえ、とんでもなくリスクの高いことやろうとしてるんだぞ?」

「なにそれ、キョーハク? 気分悪いんだけど」

「あ、ごめん。言い方悪かった。すまん」

「アハハハ、冗談冗談。ヒラノってばすぐ真に受ける」

 彼女が笑い飛ばしてくれて、わずかにほっとする。しかし問題は解決していない。

「たとえば、だ。こういう話があるとしよう。……あるところに、学力の低い少年がいる。クラスでも落ちこぼれで、テストはいつも赤点。だけど少年は将来、学者になりたいという夢がある。でも自分は落ちこぼれだから、なれっこないとあきらめている。そういうとき、どうすればいい?」

 もちろんこれは涼介のことだ。学者と医者の違い以外は同じシチュエーション。

「それは、まあ、勉強するしかないんじゃない?」

 質問の趣旨がいまいち飲み込めないというふうに、伊万里は首をひねる。それからドリンクをストローでちゅるるっと音を立ててすすった。僕は真剣だが、彼女のほうは世間話のように緊張感がない。

「いや、でも、本人が自信なくて、勉強に手がつかないときは?」

「ほっときなよ」突き放したように言う。「そんなん自業自得でしょ」

「えっと、そうだ、じゃあこうしよう」僕は必死だった。「そいつはやればできるやつで、本当は地頭がいい。勉強すればぐんぐん伸びるタイプなんだ。だけど、今はほんのちょっとだけ自信をなくしている。そういうとき、なんて声を掛ければいい?」

「えー、めんどくさいなあ。あたしそーいうウジウジしたタイプ嫌いなんだけど」

「そう言わずに」

「まあ、フツーならほうっておくけど、そうだなあ……もしそいつが、親友とか彼氏だったら……、バーンと背中たたいてあげるかな」

「は? 背中?」

「だってそうでしょ。そんなの、なんでもいいから前に踏み出すしかないじゃん。理屈じゃないでしょ?」

 背中を、バーンと、叩いてあげる。あまりにも直球すぎて、僕はあつに取られる。

「いや、じゃ、じゃあさ」僕は情けないほどにすがりつく。伊万里が頼りだ。こういうことに関しては。「伊万里は、誰かに背中を押されたことはあるのか? 迷っていたときに、こう、夢に向かって『最初の一歩』を踏み出すきっかけをくれた人とか」

「え~? そんなのいないよ。そりゃあ、あこがれのデザイナーさんとか、ファッションモデルさんとかいるけど、別に知り合いでもないし、話もできないし。ツイーターで勝手にリプ飛ばしたことあるけど、返事来ないし」

「本当にないのか、そういうのは。最初の一歩は。背中バーンは」

「自分で言っておいてなんだけど、ないなあ、背中バーン。だって、そんなんドラマとか漫画の世界だけでしょ。たとえば世界一のサッカー選手がいて、幼いころに奇跡みたいな出会いがあって、俺は海賊王を目指す──みたいなのは」

「前段と後段がつながってないぞ」

「あ、ごめんごめん。でもそういうこと。ドラマチックなきっかけとかないし、背中を押してくれる人もいなかった。自分で勝手に憧れて、自分で勝手に決めた」

「それだけ?」

「うん、それだけ」

「…………」絶句する。

 それだけなのか。本当に? 夢を目指して、リスク満載の道を選び取るときに、何のドラマも、エピソードもなく?

 喫茶店を流れるBGMが、トーンを変える。マイナーだった洋楽が、いくらかメジャーな曲になる。

「あ、なんか分かった。ヒラノの悩み」

「え?」

 ピンと来たことを表現するように、彼女はストローをカタパルトのごとくはじいた。

「ヒラノはさ、なんだ」

「論理的?」

「何か『理由』があって、それで『決断』を下す。自分の『決断』に『理由』を求めるタイプ」

「もうちょっと分かるように説明してくれ」

「たとえばさ……って、今日はたとえ話が多いね。ええと、なんだっけ。そう、たとえば新しいラーメン屋さんに入るとき、ヒラノは店先のメニュー表を見て、値段を確かめて、最後に『食いログ』のレビューをチェックする。それから入店するかどうか決断するタイプ。どう?」

 うなずく。まさにそのとおりだ。僕は飲食店もコスパで判断する。新しいラーメン屋で、なけなしの小遣いを使ってマズかったりしたら目も当てられない。

 ──ねえ、君さ。食いログって好き?

 一瞬、何かがよぎったが、それは話の中で流れる。

「あたしはさ、『エイッ!』って入るタイプ」

「は?」

「だから、新しいラーメン屋さんがあったら、『エイッ!』って入るの」

「ちょ、なんだそれ。事前情報は仕入れないのか」

「うーん、友達がしいと言ってたり、テレビの紹介とか参考にすることもあるけどさ。最後は勘っていうか、気分かな。あ、この店しそうって思ったら、エイッて飛び込む」

「まずかったらどうするんだ」

「それは仕方ないじゃん」

「へ?」

「人生に失敗はつきものだよ」

「で、でも、待て待て。じゃあ、その人生を丸ごと失敗しそうな場合はどうする? デザイナーでも、プロ選手でも、なんでもいいけど、失敗したら人生丸ごと棒に振るような決断の場合は? それでも『エイッ!』と飛び込むのか? そんなわけないよな?」

「ううん、基本はいっしょだよ。まあもちろん悩んだりもするけど、最後は『エイッ!』って飛び込むよ。なんていうか、『ジャンプ』するみたいな感じ」

「ジャンプ……」

「うん。ジャンプ。不安はあるけど、飛び込んじゃえばあとは頑張るだけじゃん? それに飛び込まないと結局分からないことのほうが多いし。ラーメン屋だって、一度入っちゃえばあとはなんでもないでしょ? 敷居が高いのは最初だけだから」

 当たり前のようにそう言うと、彼女はチュルッとすする。

「今日の『コレ』も、初めて飲んだけどしかったよ」

「…………」僕はスマホを出し、『スタカ』『新作ドリンク』『キャラメル』と打ち込む。『キャラメルティンクルマキアート 評判』という検索候補が出て、それを押すと、「クソマズ」「甘すぎ」「前のキャラメルのほうが良かった」と酷評が続く。

、それ、本当に美味しかった?」

「うん。ちょっと甘かったけど、わりと好みの味だった。……何?」

 ──最後は『エイッ!』って飛び込むよ。なんていうか、『ジャンプ』するみたいな感じ。

 もし、僕だったら注文しなかっただろう。前評判を調べて、リスクを回避する。

「ごめん、伊万里。それ、ちょっとだけもらってもいい?」

「え? う、うん……いいけど」

 伊万里はなぜか赤い顔で、僕にカップを差し出す。

 ちゅるっ、と僕はストローで一口飲む。あっ、と伊万里が声を上げたのが聞こえる。

「…………」意外とうまい。確かに甘ったるいが、僕の嫌いな味ではない。少なくとも前評判の「クソマズ」では決してない。

 カップを返すと、伊万里は妙にもじもじと両手を動かしている。

「ごめん、嫌だったか?」

「ううん、いいのいいの。飲みかけだし、べつに」

 彼女はカップを見つめ、大げさに首を振る。金髪が少し乱れる。それからカップを両手で持ち、ためらいがちにストローに口をつけようとする。

「あ、ごめん、全部飲んじゃった。残りちょっとだったから」

「そ、そ、そうなんだ」慌てて口をストローから離す。

「意外とうまいのな、それ」

「でしょ。まあ、だいぶ甘ったるいけど」

「だな」

 二人でちょっと笑う。

「ええと、なんだっけ……そうだ、ラーメン屋さんの話だっけ?」

「ああ、いや、少年の話。学者を目指している」

「そうだ。その、学者になりたいウジウジ少年もさ。とにかく始めちゃえばいいんだよ。新作マキアートを注文するくらいの気安さでさ」

「そう、かな」

「そうだよ。──あたしみたいに、『エイッ!』ってね」

 ちょっとだけ跳び上がるような仕草をして、彼女は微笑ほほえんでみせた。


    6


「ピザプラネットでーす」

 昼下がりにドアを開けると、宅配ピザの男性店員がさわやかにあいさつした。

「いくらですか」「二千六百円でーす」というやり取りの後、代金を払ってピザを受け取る。平たい紙の容器はあったかく、こんがりとしたチーズのにおいが玄関に漂う。弁当を買ってきても良かったが、なんとなく今日は面倒で、宅配を利用した。こんなものでも固形保存食料よりはいくらかマシだろう。

 三分後。

「はふ、はふ、ふー、うー、あっつ、あっ」

 ラックの向こうでほしの声が聞こえる。「火傷やけどするなよー」と声を掛けつつ、僕もサラミピザにかぶりつき、コーラをがぶりと飲む。あまり体に良いとは言えない取り合わせだが、たまに食べると実にうまい。

 そういえば高校のころは、こうやって星乃とピザを食べたっけか。彼女がエビ入りシーフードで、僕はサラミソーセージ。そんなことを振り返りつつ、一枚目を平らげる。

 ──俺さ。高校、やめようかと思うんだ。

 また、りようすけのことを思い出す。

 昨日は、それとなくに相談してみた。「そうだ。その、学者になりたいウジウジ少年もさ。とにかく始めちゃえばいいんだよ。──あたしみたいに、『エイッ!』ってね」それは、実に伊万里らしい答えだった。だけど僕には、彼女のをすることはできないし、それは涼介も同じに思えた。エイッと飛び込んで、それでなんとかなるようならとっくに問題は解決している。そして──

 ──あたしね、リューガクしようかと思って。

 いけない。首を振る。大流星群のことも、エウロパのことも、そして涼介と伊万里のことも──深く考え始めると気分が落ち込む一方だ。いっぺんに解決しようとしてはいけないし、解決できるはずもない。

 とにかく今は自分にできることをやろう。

 そう考えて、僕はとにかく手を動かした。その間は余計なことを考えずに済むからだ。次々にめくられるウェブページ、あふれる情報の洪水。自らそこに飛び込み、流されるように僕はネットサーフィンを続けた。人工衛星、テロ、宇宙機関、ハッキング、先行事例、エウロパ事件──そうやって、おぼれるように情報収集を続けた。

 しばらくしたころ。「ん……?」リンク切れになっていたブックマークを整理しているときだった。過去の衛星事故の関連ワードに、『あまがわ星乃』の名前が表示された。

 なんとなくクリックすると、さらに関連ワードが出て来て、ウィキペディアの『天野河星乃』の項目が現れる。自然に指先が動いてそれを開くと、『人物・来歴』『事件』『脚注』『関連項目』『外部リンク』などが並び、星乃の個人情報が淡々と記されていた。


 ■天野河星乃(あまのがわ ほしの、二〇〇〇年(平成十二年)×月×日──)は、日本の女性。彼女の母親が人類史上で初めて宇宙空間で懐胎したため、『スペースベイビー』と呼ばれる。~


 ほしのおいたちは、おおむね正確で、何も目新しいものはなかった。強いて言うなら先月あった『JAXA職員襲撃事件』(通称・第二のエウロパ事件)』という部分が最近追加された項目だったが、これまでのマスコミ報道をなぞっただけのものだ。

 気になるものは他にあった。

 ──え?

 一番下にある『外部リンク』を開くと、そこにはこんな項目があった。


 【あまがわ星乃(@spacebaby2017)──Tweeter】


「これ……」思わず画面に近づいて凝視する。確かに『天野河星乃』のツイーター・アカウント。外部リンクには本人のブログや公式サイトがリンクされることが多いが、まさか星乃のアカウントがあるとは思わなかった。

 星乃が、SNS……? ちらりと少女のほうを見てから、半信半疑でクリックすると、画面が切り替わる。おなじみの青い鳥を模したロゴが現れ、わずかな待ち時間ののちに問題のアカウントが表示される。


 ■天野河星乃(@spacebaby2017)

 はじめまして、天野河星乃と言います。両親ともに宇宙飛行士で、スペースベイビーと呼ばれていたこともあります。夢は宇宙飛行士です。


「……マジか」僕は顔を上げる。

 薄暗い室内で、星乃の後頭部が見える。ぼさぼさの黒髪はパソコンの前で右に左に揺れ、今は何かの音楽を聴いているのか、独特の形状のヘッドフォンを耳に当てている。

 その様子を横目で眺めつつ、僕は画面をスクロールする。驚いたことに、アカウント作成日時は一ヶ月ほど前になっており、フォロワー数はすでに三万を超えている。

 星乃がSNS? ありえない。

「お、おい、星乃」

「……?」彼女が不審げに顔を上げる。

「あ、えーと、おまえさ……」なんと言おうか迷ったが、まずは事実確認が先だった。「おまえ、その……SNSとか、やってる?」「…………」「ほら、ええと、フェイスムックとか、インスタントグラムとか」「…………」「ツイーターは?」「…………」

 彼女は無言のまま僕を見つめる。それが肯定なのか否定なのか読めない。

「えっと、一ヶ月くらい前に、ツイーターでアカウントを──」

「ニセアカ」

「え?」

「私じゃない」

 ──知っていたのか。

 僕は今日初めて気づいたが、彼女はとうに気づいていたらしい。

「削除しないのか? 運営に言えばアカウントを停止させられるぞ」「無駄」「なんでだよ」「何度やっても、無駄」

 そして彼女は、相変わらずの冷めきったひとみで言うのだった。

「地球人は愚かだから」


    7


 数日後。

「ふーん、人工ふぇいふぇいね……」

 裂きイカを葉巻のようにくちびるからはみ出しながら、はつぶやく。テーブルには横倒しになったビールの空き缶が何本も転がっており、彼女のほおはすでにうっすら桜色だ。今日もわく家で、づきの手料理をごちそうになり、食後のまったりとした時間が流れていた。

 皿洗いをする葉月の鼻歌と、水道水が跳ねる音を聞きながら、僕と真理亜はソファーで話をしていた。議題は僕から切り出した『人工衛星』の話だ。

「……それで、話を戻すんですけど」なるべく世間話を装いつつ、それでも話は核心に触れる。「人為的に人工衛星を墜落させたり、あるいはコントロールを奪ったり……ということは本当に可能でしょうか」

 僕の念頭にあるのは、もちろんあの『大流星群』のことだった。今から五年後の未来に、人類の打ち上げたすべての人工衛星を葬り去った前代未聞の犯罪──そしてほしの命を奪った宇宙テロ。

「コントロールを奪うか……。可能か不可能かで言えば、そりゃ可能だけれども」

 彼女は裂きイカを裂きながら続ける。

「今から十年くらい前だったかなー。NASAの科学調査用の衛星が実際に乗っ取られたことがあったよなー。えーと、確か『Landsat-7』と『Terra』だったかー」

「それは僕も聞いたことがあります。確か外国の仕業とか」

 この間に調べた知識で、僕も話についていく。

「それはアメリカ側の調査委員会の言い分だねー。実際には犯人の追跡は困難だったらしいけど、ともかくも二つの衛星が数分間、何者かにコントロールを奪われた。幸い、犯人は何もしなかったので事なきを得たけどねー」

「その気になれば、地上に落下させたりとか、そういうこともできるんでしょうか」

「どうだろうねー。そのへんはあくまで可能性の話だけれど、そういうコマンドを打ち込めばそう動くのが人工衛星ってもんだからねー」

 そこで彼女はまたビールをあおる。白いのどが上下し、ゴキュリという音が大きく聞こえる。

「NASAは年間数千件のサイバー攻撃を受けているし、そのための対策予算も一千億円以上投入している。JAXAのサーバも四年前には不正アクセスを受けて、『きぼう』の運用準備情報と関係者のメーリングリストが漏れる事件があったし、その前年にはイプシロンロケットの情報流出もあったし……ある意味、日常茶飯事さ。あってはならないことだけどねー」

「では、そのうち人工衛星が乗っ取られて、地球に墜落させられるという話も……」

「あるんじゃないかー。バレたら戦争だろうけどー」

「アニメや映画だけの話じゃないんですね」

「人間の想像力の及ぶ範囲のことは、だいたい現実になるものさー。さすがにテロは勘弁だけれどねー」はまた缶に口をつけるが、それは空だったらしく、くしゃりと缶をへこませた。「づきー、ビールー」

「ありませーん。お母さん、今からちょっと洗濯物にアイロンかけるから、お酒飲みすぎちゃダメだよ。お兄ちゃん、お母さんが冷蔵庫開けないように見張っててね」

「あたしゃ子供か」「子供はお酒を飲みません」娘にぴしゃりとやられて、真理亜はアメリカンな感じで肩をすくめる。

 葉月が部屋を出ていくと、少しだけ沈黙が訪れた。しばらく戻ってきそうもないな、と思った僕は、今のうちにまだ真理亜に話せていなかったことを切り出そうと思った。

 それは今日の本題。

 ──地球人は愚かだから。

 あまがわほしを名乗るニセのアカウントは、その後も活動を続けていた。『私、天野河星乃! 宇宙で生まれた人類初の生命!』『私、天野河星乃! 将来の夢は宇宙飛行士!』といった決まり文句を延々とネットに投下し、一定の周期でコメントがループする。ニセモノというよりは、どちらかといえば『BOT』と呼ばれるアカウントに近く、特定のキャラクターになりきって、機械的なコメントを繰り返す存在。台詞せりふは単調だが、毎日かなりの頻度で短い文章を投稿し続ける点も似ている。

 ニセモノのアカウント──すなわち『ニセアカ』が現れること自体は珍しくもなんともない。匿名掲示板やSNSでも、有名人や芸能人になりすましてぞうごんを書き込むやからなどいくらでもいる。嫌がらせか、あるいは愉快犯か。匿名のネット空間では実に容易たやすいことで、日常茶飯事といってよい。

 ただ、今回の場合はどこか変だった。特に気になったのはフォロワー数で、アカウント作成からたった一ヶ月でフォロワーが三万人突破というのはどう見ても過剰だった。かつて『スペースベイビー』と持てはやされ、空前のブームを作っていた時代ならともかく、本物かどうかも分からないアカウントが爆発的にフォローされることは考えにくい。

 思い当たる節があるとすれば、例の襲撃事件だ。先月下旬に発生したJAXA職員襲撃事件──通称『第二のエウロパ事件』。ハンドルネーム『エウロパ』を名乗る男がJAXA筑波つくば宇宙センターで講演中のわくを襲撃し、居合わせたあまがわほしも危険な目に遭った。新聞各紙でも記事にもなったし、翌日のワイドショーでもそれなりの時間を割いていたので、その中には真理亜のみならず星乃の名前も報道された。ただ、死者が出たわけでもなければ、衝撃映像が残っているわけでもない一刑事事件は、情報の洪水にすぐに埋もれていき、翌週には大物芸能人の不倫のニュースにあっさり主役を奪われた。先々週に『あのスペースベイビーは今……!?』という小さな記事がゴシップ誌に載ったことを最後に、報道は完全に下火となっている。

「ん? どうしただい。すごい顔してるよ。トイレかー?」真理亜が僕を見ながら柿ピーをほおる。

 星乃の保護者であり、エウロパ事件にも深く関わる彼女に、このけんはぜひ相談したいと思っていた。それが今まで遅れたのは、星乃が「真理亜には話さないで」とかたくなに僕に口止めしていたからだった。ただ、ツイーターのみならず、他のSNSにまで日に日にニセアカが勢力を拡張していく様子を見て、それもそろそろ限界だった。とにかく真理亜の耳には入れておきたい。星乃のことで最も頼りになるのは絶対にこの人だからだ。

「あの、真理亜さん。ちょっと相談したいことがありまして」

「なんだい、改まって」ボリボリとピーナッツを食べながら彼女は振り向く。いつの間にか新しいビールの缶が開いている。

「えっと、その、星乃のこと、なんですけど──」

 そのときだ。

 着信が鳴った。それはホルスト作曲、『惑星』のひとつ──『木星ジユピター』。

 ソファーの上では、一台のスマホが明滅している。宇宙空間のようなブラックの機体には『JAXA筑波宇宙センター』という発信者が表示されている。

「ったく、休みだってのに。ちょいとごめんよ」彼女はスマホを拾い上げ、耳に当てる。そして「おー、どうした、なんかあった?」と気軽な口調で話し始める。

 相変わらず忙しそうだな、と横目で見ていると、

「──なんだって?」声のトーンが変わった。

 一瞬、僕のほうに視線を走らせ、目が合うと「あー、そう、ふーん、チョーさんには? 分かった、お疲れさん。あたしも朝イチで行くよ」と答え、通話を終えた。

「何かあったんですか?」

「いやあ、それがさー」

 肩をすくめつつ、その目は笑っていなかった。ただ事じゃないな、と雰囲気で分かる。


「ウチの衛星がひとり、迷子になったみたいなんだ」




    【recollection】


ほし……ッ!!」

 いったい、もう何度同じ夢を見たのだろう。

だいくん──どうか、どうか、素敵な未来を、つかんでね……』宇宙空間の中で、地球に向かって墜落するISS。過去の星乃と、時空を超えてつながった奇跡の『通信』。

『ああ──だけどやっぱり、悔しいよ、せっかく、せっかく、ここまで来れて、大地くんと、いっしょに、夢を、お父さんと、お母さんの、夢の続き、これからなのに、やだ、やだよ、やっぱりこんなの、あんまりだよ、せっかく、せっかく、ここまで、ああ、ああ、大地くん、大地くん、大地くん──』

 そして最期のときが来る。スクリーンには、ああ──なんということだ──一人の女性が、ISSの残骸の影から投げ出される。長い黒髪を宇宙空間になびかせ、救いを求めるように手を伸ばす星乃。そのくちびるは確かに、音のない宇宙で僕に向かってこう叫んでいた。


 た す け て


 そして星乃の姿が、大きな光に飲み込まれ、光り輝く流星となって──

このエピソードをシェアする

  • ツイートする
  • シェアする
  • 友達に教える

関連書籍

  • 君死にたもう流星群

    君死にたもう流星群

    松山剛/珈琲貴族

  • 君死にたもう流星群 2

    君死にたもう流星群 2

    松山剛/珈琲貴族

  • 君死にたもう流星群 3

    君死にたもう流星群 3

    松山剛/珈琲貴族

Close