10.無名の感情

 広い寝台は、どこまでも沈みこんでいきそうな柔らかさだ。

 或いはそれは溜まりこんだ疲労がそう思わせるのかもしれない。仰向けになっていたティナーシャは、何度目かの瞬きをした。天井に向かって上げた手に焦点を合わせる。

「こんなものかな……」

 眼球を傷つけたのは久しぶりだ。かつて最上位魔族と戦った時は危うく足を切断されかけたが、あの時も治すのが面倒だったのだ。どちらも致命傷とまではいかないが、戦闘には支障が出る深手だ。今回も一人であったらそれなりの苦戦を強いられていただろう。

 だが……それはそれとして、誰かの後ろに立って戦うのも、ずいぶん久しぶりだった気がする。

 前に立つ人間を信頼して、全てを預けて戦うこと。そんな経験は、もう記憶の遥か向こうだ。

 ティナーシャは我知らず微笑む。

「本当、変な人なんですから……」

 その契約者は、今は「親父を搾ってくる」と言って事後処理の最中だ。

 だがきっと今回の件については不明なことばかりだろう。ミラリスがエッタードの遠縁として城に入ってきたのも、おそらく何らかの記憶操作によるものだ。術者である彼女がいなくなった今、真相は闇に没してしまった。

 彼女が小さな欠伸を零した時、部屋の扉が叩かれる。

「ティナーシャ、起きてるか?」

「どうぞ。起きてますよ」

 思ったよりも早い来訪にティナーシャは起き上がる。

 入って来たオスカーは、彼女の前まで来るとまじまじとその全身を眺めた。

「ちゃんと治ってる……みたいだな?」

「なんで疑問形。治ってますって。何なら試してみますか?」

 右目だけを隠して左目で手を振ると、オスカーもようやく納得したらしい。彼は寝台の隣に座ると、子供にするようにくしゃりと彼女の頭を撫でた。

「色々すまなかった。迷惑かけたな」

「今回はお互い様という感じですけど。ミラリスたちは私に接触したかったみたいですしね。結局、彼女が持ち出そうとしたあの宝珠は何なんですか?」

「それがな……元はファルサスのものじゃなくて俺の母が持ちこんだものらしい。何に使うものかは不明だ。親父は知っているのかもしれないが答えなかった」

「貴女のお母様が、ですか?」

 だとすると話はまったく変わってくる。ティナーシャは一つだけある心当たりに聞いてみるべきか迷ったが、ルクレツィアとは違った意味で手強い相手だ。聞いても教えてくれない可能性が高い。オスカーの解呪が終わるまでは下手に動かない方がいいだろう。

 それよりも引っかかるのは、ミラリスが残した言葉だ。

 求めていた妄執との再会──それが、彼女が探し続ける人物のことを意味するなら、全てが終わる時が近づいているのかもしれない。

「……ラナク」

 遥か昔に呼んだきりの名が口をつく。そのまま考え事に集中していたティナーシャは、じっと自分を見てくる視線に気づいて眉を寄せた。

「なんですか」

「で、諦めて俺と結婚する気になったか?」

「あれは……」

 オスカーの宣言を思い出し、魔女は赤くなる両頰を押さえる。

 ──まったく彼は、とんでもないことを言い出すのだ。

 豪胆にもほどがあるし、呆れるくらい優しい。彼女を魔女と知りながら、当然のように手を差し伸べ、守ろうとしてくる。まるで理解しがたくて……だがそれが彼という人間なのだろう。

 胸が熱くなる。だがそれは彼女の知らない感情だ。

 ティナーシャは、少女めいた感情を飲みこむと微笑んだ。

「結婚とか絶対しませんから。貴方が諦めてください」

「断る。それよりこの前、すぐにできる願い事だったら叶えてもいいって言ってたな?」

「そんなこと言いましたっけ……すごく忘れたいんですけど……」

 この上何を言われるのか、逃げ出したい気分でティナーシャは視線を逸らす。だがそうして横を向いた彼女の左瞼に、男の指が触れた。

「簡単なことだ。ちゃんと俺に好かれてる自覚を持て。それが願い事だ」

「……何ですか、それ」

 おかしな契約者だ。それで彼自身何を得するのか少しも分からない。彼女が己への評価を変えたとして、自分たちの何が変わるのか。魔女が魔女である限り、きっと何も変わらない。

 ティナーシャは意味の分からなさをたしなめようとして……だがふっと微苦笑した。

「分かりました。これからは自覚を持って求婚を断ります」

「お前……待つからいいけどな」

「待たなくていいです」

 男の腕が伸びてきて、ティナーシャは膝の上に抱き上げられる。言葉の代わりに左瞼に口付けが落とされた。彼女は苦笑して男の胸に寄りかかる。心地よい温かさに目を閉じた。


 ──たとえ彼が己の選択肢を、自分一人に置いていたとしても。

 それを忘れるくらいの無数の選択肢を、自分は彼に贈るだろう。

 魔女と契約するとはそういうことだ。歴史の影から伸ばされるけがれた祝福だ。

 だから、自分が引いて進む過去の闇が、決して彼に届かないように。

 探し求める妄執が、彼の歩む道に触れないように。

 いつか、憂いなくこの手を離せる日が来るようにと、願う。


 ティナーシャは顔を上げると、自分を抱える契約者をねめつけた。

「そろそろ離してくださいよ。もう眠いんですから」

「俺もさすがに今日は疲れた。一緒に寝るか」

「帰れよ! 部屋に転移で叩きこむよ!」

 宙に浮かび上って彼女が逃げ出すと、オスカーは楽しそうに笑った。自分を見上げるその青い両眼をティナーシャは見つめる。

 夜になったばかりの空の色。深い青が、泣きたくなるほど美しい。

 王剣の主。揺るぎない強者で、たった一人の魔女の契約者。

 だからいつの日か──全てを終わらせた時には、彼が自分を殺してくれるだろう。



 これは、魔女の時代が終わるまでの一年間のお話。

 そして一人の王族と五番目の魔女の、長い長い無名の御伽噺だ。

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