1.呪いの言葉と青い塔

 それは、青き塔にむ魔女。

 呪いを受けた王族。

 時を書き換えられるのなら何を望むのか。

 全ては塗り替えられる物語である。





 荒野に建つ塔は、うっすらと青い。

 草もまばらな大地が広がる中、青年は天にそびえる塔を馬上から見上げる。

「これが魔女の棲む塔か」

 目の前に建つ塔を仰ぐ彼には、気負いの欠片かけらもない。

 黒に近い茶色の髪。瞳は日の落ちた後の空と同じ、深い青だ。

 身なりのよさと秀麗な容姿からは、生まれながらの気品がうかがわれる。だがそれだけでなく、鍛えられた体に漂う隙のなさは、まだ若い彼に戦線に立つ覇者の印象を与えていた。

 そのまま馬を降りて塔へと踏みこみそうな彼を、後ろから弱々しい声が止める。

「殿下、やっぱりやめましょうよ……」

「うるさいぞ、ラザル。ここでひるんでどうする」

 青年はあきがおで振り返る。殿下と呼ばれる彼は、この塔の東に広がる大国ファルサスの王太子、オスカーだ。従者であるおさなじみ一人だけを連れてここに来た彼は、平然とうそぶく。

「せっかく城を抜け出してきたのに。帰ったら意味がないだろうが。単なる観光か」

「観光で魔女のところに来る人間なんかおりません!」


 ──魔女。

 それは大陸に五人しかいない、絶大な力によって異質とみなされる女たちだ。

『閉ざされた森の魔女』

『水の魔女』

『呼ばれぬ魔女』

『沈黙の魔女』

『青き月の魔女』

 この五つが彼女たちの通り名だ。魔女は気まぐれに現れ、その絶大な魔力をもつて災いを呼び、消えうせる。数百年もの長きにわたる畏れと災厄の象徴だ。

 中でも最も強大な力を持つとされる魔女が、『青き月の魔女』で、彼女はどこの国にも属さぬ荒野に青い塔を建て、その最上階に棲んでいる。この塔を登りきることのできた達成者は、彼女がその望みをかなえると言われているが、挑戦者が皆、塔から帰らないことが広まると、塔に近づく者も次第にいなくなっていった。

 そんな塔を二人が訪ねてきたのは、目的があってのことだ。


 ラザルと呼ばれた青年は、年若い主君に訴える。

「やっぱり危ないですって。魔女に呪いを増やされたらどうするんですか!」

「それはその時だ。もう他に手がかりもないだろう」

「まだ何か他に手段がありますから……探せばきっと……」

 すがりつくような言葉を聞きながらオスカーは馬を降りる。彼はくらにつけていた長剣を取ると腰の剣帯につけなおした。

「他に手段と言われても。十五年も何も見つからなかっただろうが。──まず『青き月の魔女』に会って呪いを解く方法を聞く。駄目だったらこのまま呪いをかけた張本人の『沈黙の魔女』のところに行って呪いを解かせる。完璧じゃないか」

「全然完璧じゃないです」

 ラザルは泣きながらようやく馬を降りた。ひょろっとした細い体は、どう見ても戦闘向きではない。武器も持っていないのは、とりあえず慌てて出立したせいだ。彼は城を抜け出した時もそうだったように、小走りに主君を追いかける。

「殿下のお気持ちは分かります……。ですが十五年もの間、誰も魔女たちに接触してこなかったのは危険が大きすぎるからです! 第一、『沈黙の魔女』は見つからないし、『青き月の魔女』に至ってはこの塔を登りきれた人間が誰もいなかったじゃないですか!」

「確かに歩いて登るには高いな」

 塔の壁は、青みがかった水晶のような材質だ。それが継ぎ目もなく空高くまで伸びている。

 オスカーはそのずっと先、よく見えない先端を仰いだ。

「まぁ何とかなるだろ」

「何ともなりませんよ! わながいっぱいらしいですよ! 貴方あなたに何かあったら、私はどんな顔して城に帰ればいいんですか」

「沈痛な顔して帰れ」

 軽く肩をすくめると、オスカーは無造作に歩き出す。

「待ってください。私も行きますって」

 それを見たラザルが慌てて、二人分の馬を木につないで後を追った。


 事の始まりは十五年前のことだ。ある晩、城の一室に、魔女の宣告が響いた。

『お前はもう子をすことができない。そこにいるお前の息子もだ。お前たちの血は女の腹を食い破るだろう。ファルサス王家はお前たちを以て絶えるのだ!』

 そんな呪いの言葉を、オスカー自身覚えているわけではない。彼の記憶に残っているのは、月を背にした魔女の影と、自分を抱きしめる父親の震える腕だけだ。「子を生すことができない」と言われても、当時五歳の彼にはその重大さが分からなかった。蒼白な父の顔に、ただぼんやりと何かよくないことが起きたのだ、と思っただけだ。

 彼は王の唯一の子だった。王家の存亡に直結する問題は、ごく一部の者を除いて伏せられ、解呪の方法を探すために何人もの優秀な魔法士や学者が時を費やした。

 一方、オスカー自身は利発で豪胆な少年となって武と学を修めた。その優秀さと整った容貌は、呪いのことを知らぬ周囲に期待を持たせるには充分なもので、国内ではもっぱら「将来は歴史に名を残す王になるだろう」とささやかれている。

 だが、呪いの問題が解決しなければ、残るものは悪名だけだ。

 十歳を過ぎ、呪いの意味を理解できるようになった頃から、オスカーは自分でも解呪の方法を探したが、いくら文献を調べても、また剣の腕を磨いて手がかりがあるとおぼしき遺跡を訪れても、呪いを解くための糸口さえも得ることはできなかった。

 ──そして、あの夜から十五年が過ぎた。

 近い将来王となるべき彼は、国境を越えた西、魔女の棲むという青い塔の前に立っている。

「じゃあ行くか」

「そんな無造作に扉を! もっと慎重に開けてください!」

 ラザルの悲鳴を聞きながら、オスカーは両開きの扉を押し開けて中に踏み入った。

 見回すとそこは、広い円形の広間だ。中央部分は吹き抜けになっていて、右手に上へと登るための通路が見える。階段ではなく緩やかな坂になっている通路は、そのまま壁に沿ってせん状に上階へと伸びているようだ。他に人の気配もない塔内部を、オスカーは見上げた。

「大体記録通りか。入り口部分は」

「これで気がお済みになりましたか?」

「じゃあどんどん行くか。どんどん」

 城に残る記録によると、塔内部にはいくつもの試練があるという。そこを乗り越えて最上階まで到達できれば魔女が望みを叶えてくれる。今回の目的はそれだ。

 オスカーは腰の愛剣を確かめて歩き出す。

 手すりのない通路の先には、円形の踊り場が見えた。何やら大きな石板が立っているそこ目指して彼は通路を登り始める。こわごわ後ろに続くラザルに、オスカーは言った。

「危ないからそこで待ってろ。日が暮れるまでには戻ってくる」

「い、いえ……そういうわけには……」

 ラザルは昔から、城を抜け出すオスカーについてきては、巻きこまれてひどい目にあっている。その度ごとに泣き言を滝のように漏らしているが、まだ無謀な主人を見捨てる気はないようだ。

 オスカーはラザルの姿に微苦笑すると、前を向きなおす。

 近づいてくる踊り場は、小さな部屋くらいの大きさだ。中央に立つ石板には、数字の羅列が刻まれている。歩きながら考え始めるオスカーに、ラザルが震える声をかけた。

「殿下……あ、あれ……」

「今考えてる。規則性があるんだろうな、多分」

「そうじゃなくて! 蛇がいますよ! 蛇が大量に!」

「ちゃんと見えてる」

 踊り場の床には、所せましと無数の蛇がうごめいている。柵などないにもかかわらず蛇たちが階下に落ちて行かないのは、魔法障壁ででも囲まれているのだろう。

 オスカーは足を止めないまま身をかがめると、通路にはみ出していた一匹の頭をつかんだ。

「毒のないやつだから大丈夫だ。単に邪魔なだけだな」

 軽く後ろに放ると、ラザルが悲鳴を上げる。オスカーはそれに構わず蛇のただなかに踏み入った。石板のすぐ前まで来ると、顎に手をかけて悩む。

 上への通路は石板が塞いでいて通れない状態だ。足に絡まってくる蛇を無視しながらオスカーが考えていると、ラザルが小さな悲鳴を上げながらじりじりついてきた。

 おそらくはこれが最初の試練なのだろう。オスカーは石板を見たままうなずく。

「分かった。これ、百年くらい前に東の小国で研究されてた数学理論だな。解けない命題として一部で有名だった」

「解けないんですか!?」

「当時はな。十年くらい前に解かれてる。この塔の魔女は随分と博識のようだ」

 オスカーは手を伸ばして石板に触れる。指の触れた箇所がうっすらと白く光った。その軌跡を頼りに答えを書きこんだ直後──巨大な石板は砂となって崩れ落ちる。同時に足下で蠢いていた蛇たちもまた、幻のごとく消え去った。

 砂の山だけが残る踊り場を、オスカーは感心の目で見回す。

「なるほど、こういう感じか」

「……やっぱり帰りませんか?」

「駄目。面白くなってきたし」

 機嫌よく通路を登り出す主人を、ラザルはあわてて追いかける。塔の頂はまだはるか遠くだ。


  ※


 最上階の窓から流れこむ風は、いつもどこか乾いている。

 あちこちに本の積まれた床、雑然とした広い室内に声がかけられた。

「久しぶりの挑戦者がいますよ、マスター」

 戸口に立ってそう言うのは、姿形だけを見れば五、六歳の小さな子供だ。

 肩までの白い髪に薄青い瞳。整った顔立ちをしているが表情に乏しく性別は分からない。感情の感じられない声はどちらかというと、人形を連想させるものだ。

 子供の姿をした魔女の使い魔は、誰もいないテーブルを見つめる。そこには湯気の立つお茶のカップだけが置かれていた。一時間前からそこにあるお茶は、けれどまったく冷める様子がない。

 いるべき人間だけが欠けた光景。にもかかわらず、答えはすぐに返ってきた。

「挑戦者なんて珍しい。もうみんなこの塔のことを忘れたかと思ってた」

「一月前もおりましたよ。最初の石板が解けずに時間切れになりましたが」

 塔内の仕掛けは定期的に変えられているが、最初の試練があの問題になってから一つも突破できない挑戦者が増えた。大陸最難関とまで言われる塔で、まさかいきなりあんな問題を解かされるとは思っていないのだろう。加えて元々挑戦者も少ないので、塔の主人が勘違いするも無理はない。

 使い魔は、遥か階下にいる挑戦者たちの気配に意識を合わせる。

「この度の挑戦者は、順調に登っていらっしゃっているようです。様子をご覧に行かれますか?」

「行かない。全てはここに辿たどりついてからだ」

「左様で」

 魔女は歴史の影に潜むべきものだ。彼女が所在を明らかにしているのも、この塔の試練を越えられる人間が滅多に出ないからで、それを自ら踏み越える気はない。

 彼女は涼やかな声でうたう。

「お行き、リトラ。挑戦者が失敗した時にはいつものように」

「かしこまりました」

 乾いた風が吹く。リトラと呼ばれた使い魔が姿を消すと、魔女は天井に逆さに浮いたまま首をかしげた。開いたままの本を押さえてつぶやく。

「順調に登ってきてるって言っても、みんな大体、最初の守護獣辺りで詰むんですけどね」


  ※


 両刃の剣がの喉元を貫く。

 予想していた飛沫しぶきはかからない。真白い獅子は、侵入者に飛びかかろうとした姿勢のまま、造り物のように床へと崩れ落ちた。オスカーは剣を抜きながら、馬よりも一回り大きい体をのぞきこむ。

「やけに白いと思ったら本物じゃないのか。魔法で動く守護獣か何かか?」

「こんな大きな獅子がいたら恐いですし、まったく怯まない殿下も恐いです……」

「いい準備運動になった。次は何が来るんだろうな」

 獅子のいた広間を抜けると、そこは再び塔の通路だ。オスカーは吹き抜けになっている塔の中央部を見下ろす。いつのまにかかなりの高さにまで到達していたようだ。思わず気の遠くなりそうな階下の光景を、しかしオスカーは何の恐れもなく眺める。

「落ちたら死ぬかな」

「そんな端に寄らないでください!」

「下で待ってればよかっただろう……」

 振り返るとラザルは壁伝いに恐る恐る歩いている。あの調子ではいつまでっても最上階にはつかないかもしれない。だがラザルは、表情だけは必死に訴えた。

「殿下一人を死なせるわけにはいきません!」

「誰が死ぬか」

 オスカーは抜き身の剣を軽く振る。ここまで来る間に、いくつもの仕掛けや守護獣と思しき魔物がいたが、彼はそれらを難なく切り抜けてきている。そろそろ塔の中程は過ぎたはずだ。

 当初一番の心配だった塔自体の高さは、仕掛けを解くと次の階に自動転送されるようになっており、今のところ大した影響がない。一方の仕掛けは、体力、瞬発力、判断力、頭脳を満遍なく必要とし、試されているのだ、ということがありありと伝わってくる。

「本来は何人かで組んで登るものなんだろうか」

「二人で登る物好きなんていませんよ……」

「最後の達成者は俺の曾祖父だったって?」

「あの時は十人で登ったらしいですね。行き着けたのは当時の国王陛下だけだったようですが」

「なるほど……」

 彼は空いている方の手で顎に触りながら思案する。

 ──七十年ほど前、この塔を登りきった曾祖父、当時のファルサス国王レギウスは、「達成者」として魔女の助力を得た。しかし、そこにはそれなりの代償もあったらしい。今ではとぎばなしとして子供たちの間でのみ語られる話である。

「今のところは楽勝だがな」

「帰りましょうって!」

「お前だけ帰れ。役に立ってないし」

 きっぱり言われてラザルはさめざめと泣いた。

 そんな会話をしているうちに次の扉はもう目前だ。五階を過ぎた頃から、試練は通路の踊り場でなく区切られた一つの部屋に置かれるようになった。

 オスカーが何のためらいもなく扉を開けると、人の二倍はある翼の生えた石像が二体、部屋の中央に置かれている。子供が見たら泣き出しそうな光景に、彼はのんな感想をこぼした。

「近寄るといかにも動きそうだな、あれ」

「絶対! 動きますって! 帰りましょう!」

「お前本当に外で待ってろ……」

 彼が息を整えて剣を構えるのと、石像の肌が艶やかな黒に変わっていくのはほぼ同時だ。うつろながんあかい光がともる。

 二体の石像は、音もなく巨大な翼を羽ばたかせると、空中に浮かび上がった。

 オスカーが左手だけで指示すると、ラザルがあわてて壁際に下がる。

 ──その直後、石像の一体が彼めがけて飛びかかってきた。

 もうきんるいが獲物を襲うように黒い魔物は風を切って急降下する。鋭いかぎづめが体を引き裂こうとする寸前で、しかしオスカーは素早く左に飛びのいた。

 だが、そこまでを予測していたかのように、もう一体が彼の眼前に回りこんでくる。

「おっと」

 突き出される爪を剣で受け流しながら、彼は二体の間をすり抜けて背後に回った。無造作に、しかし圧倒的なりょりょくを以て最初の一体の片翼を切り落とす。

 翼を切られた石像は、耳を塞ぎたくなるような悲鳴を上げた。体勢を崩しながら床へと転がる魔物へ、オスカーは更に剣を振るう。そこまでがほんの一瞬の出来事だ。


  ※


「マスター、挑戦者は石像の間まで到達しました」

 使い魔の声が投げかけられると、お湯を沸かしていた魔女は軽くほほむ。

「それはすごい。何人?」

「二人……いえ、実質一人です」

 なかなか驚くべき事実に、彼女は片眉を上げた。

 ここ数十年、数人がかりでもそこまで到達した者はいなかったのだ。

 しかし石像の間を一人で何とかするのは無理だろう。宙を飛ぶ俊敏な敵二体が相手では、誰かが片方を引きつけておかなければ、もう一体とはまともに戦えない。今まででもっとも多く脱落者が出たのもあの部屋なのだ。

「お茶を用意しようかと思ったのに無駄になったかな。せっかくだから敢闘賞でも出しとこうか?」

「あっさり突破されそうですよ」

「……え?」


  ※


 すさまじい絶叫が広い部屋に響き渡る。

 右目に剣を突き立てられた魔物は、金切り声を上げてのたうった。

 もう一体の魔物は既に床に伏している。動きを止めた巨体は徐々に黒い粒へと分解され、その粒もまた宙にせつつあった。

 残る一体は、右目から黒い液体を流しつつも左腕を振るう。傷つけられた怒りのこもる一撃は、食らえば即死を免れないものだ。

 しかし──その腕はくうを切った。

 オスカーは恐るべき反射神経でその一撃をけると、魔物の首をいっせんで切り落とす。

 首が床に落ちる鈍い音。頭を失った巨体は一度左右に揺れ、しかしついに耐えきれず倒れた。

「こんなものか。なかなか面倒だった」

 彼は剣を振ると付着した血を落とす。振り向くと壁際でラザルがあんの表情を見せていた。

「ご無事で何よりです……」

「食らったら無事じゃ済まないからな」

 軽口をたたいてオスカーは前方を見る。石像の死体が消えると同時に、奥の床がうっすらと光り始めた。次の階への転送装置が作動し始めたのだ。

「行くぞ」

 転送装置に向かってオスカーは踏み出す。

 ──だがその瞬間、部屋全体が激しく揺れた。

「何だ!?」

 辺りを見回すと、床のあちこちに穴が空いている。部屋の崩落が仕掛けに含まれているのだろう。残った部分も徐々に崩れ始めていた。

「ラザル、急げ!」

 オスカーは肩越しに振り返って、そしてがくぜんとする。壁際にいたラザルと彼の間には、かなりの大きさの穴が空き、ラザルは完全に孤立してしまっていた。

 今、自分が跳べばぎりぎり届くかもしれない。しかしラザルにこの距離を跳ぶのは無理だ──そう判断したオスカーは、ラザルの方に向かってきびすかえす。

「待ってろ!」

 部屋の床はどんどん崩れ落ちていき、遥か下方に一階の床が見える。転送装置へ向かうための床も飛び石状態になりつつあった。

 しかしラザルは、自分の方へと向かってくる主人を、両手を前に出してとどめた。

「殿下、先にお行きください」

か! 落ちるぞ」

「いえ、平気です。私、申し訳ありませんが、先に帰っております」

 そう言ってラザルは蒼白な顔で、しかし微笑んで深く礼をした。

「どうか先に……。貴方が王になられる日を心より楽しみにしております」

 物心ついた頃よりずっとそばに居た従者は、頭を上げぬままそう告げる。僅かに震える声音にはしかし築き上げられた覚悟が込められていた。

「待て、ラザル!」

 声に焦りがにじむ。届かない腕を伸ばす。

 だが次の瞬間──激しいごうおんと共に、ラザルの立っている一帯の床が崩れ落ちた。



 残りの階は五つ。

 どれも難解な謎解きや強力な魔物が配されていたが、オスカーはそれら全てを淡々と切り抜けた。

 元々一人で登ってきたようなものだ。ラザルがいなくなっても戦力的には支障はない。ただ、何とも言えない虚脱感が全身を支配していただけだ。七十年前、十人の仲間と共にこの塔を登り、そして一人だけ辿りついた曾祖父もこんな気分を味わったのだろうか。

 そんなことを考えながら、彼はついに最上階の扉の前に立った。



 扉を開けてまず目に飛びこんできたのは、大きな窓から見える景色だ。

 塔の最上階だけあって、ずいぶん遠くの荒野の果てまで見通せる。落ちかけた日が赤く照らす自然は雄大で美しく、オスカーは言葉を失った。今までこれほど高所から景色を眺めたことはない。外からは柔らかい風が吹きこみ、彼の髪を揺らしていく。

 部屋は広く、しかし雑然としている。壁際にはよく分からない物々が無造作に積み上げられており、それらは剣や箱、つぼや像など様々だ。魔法の品も多く混ざっているのだろう。

 けれどそれら雑然とした品々を端に寄せて残った部分は、ごく普通の人が住む部屋だ。

「──ようこそ」

 笛のように細い声が彼の耳を打った。声の主は、死角になる奥の部屋にいるようだ。

「お茶をれてあります。こちらへどうぞ」

 腰の剣に手を掛けたまま、オスカーは慎重に歩を進めた。奥の部屋の、入り口とあまり変わらぬ物の多さが目に入る。左手の窓際には、小さな木のテーブルと湯気の立つカップが見えた。彼は深く息を吸うと、全身を緊張させて更に一歩を踏み出す。

 彼女はそこに、彼に背を向けて立っていた。

「あなたの連れは一階で眠ってます。はありませんよ」

 魔女は、そう言うと振り返って微笑んだ。


  ※


「初めまして。私はティナーシャといいます。もっとも私を名前で呼ぶ人はほとんどいませんが」

 さらりとした挨拶は拍子抜けするくらいの軽さだ。

 彼女に勧められ椅子に座ったオスカーは、うさんくさそうに問いかけた。

「お前が『魔女』? そうは見えないな」

「『魔女』に見かけを問うなんて愚問ですよ」

 可笑おかしそうに小首を傾げたティナーシャは、どう見ても十六、七歳の美しい少女だ。黒いローブを着ているわけでも、しわだらけの老婆でもない。質のよい生地でできた、しかし動きやすそうな平服で彼の向かいに座っている。

 ただ特筆すべきは、彼女がたぐいまれな美貌の持ち主であるということだろうか。

 長い黒髪と陶磁器のような白い肌。深い闇色の両眼は夜を水晶に閉じこめたかのようだ。どこか物憂げな、そしてせいひつな美貌は、今まで見たどんな姫君よりも印象的だった。

 オスカーは素朴な疑問を口にする。

「その外見は魔法で変えてあるのか?」

「失礼なことを聞く人ですね。地です地」

「何百年も生きてるそうだが。皺がないぞ」

「人の数倍は生きてますね。体は成長を止めてあるだけです」

 彼女は赤い花弁のような唇をカップにつける。想像していた『魔女』との落差に、オスカーは肩透かしを覚えた。その反応が予想のはんちゅうだったのか、ティナーシャは苦笑して先を促す。

「それで? 次は貴方がお話する番じゃないですか? ほぼ一人でここまで登ってきたのは貴方が初めてなんですよ。折角だから名乗ってください」

 言われて彼は眉を上げると姿勢を正した。自然と滲む高貴さと威厳が、彼の雰囲気を変える。

「失礼した。俺はオスカー・ラエス・インクレアートゥス・ロズ・ファルサスという」

 その名前の末尾に、魔女は軽く目をみはった。

「ファルサス? ファルサス王族?」

「第一王位継承者だな」

「レギウスの子孫?」

まごにあたる」

「へえええええええええ」

 ティナーシャはじろじろとオスカーの全身を見回した。

「そういえばちょっと似てる……かも? レギウスの方が人の良さが顔に出てましたけど」

「人が悪そうで悪かったな」

 平然とかわすオスカーに、魔女は声を出して笑った。

「ごめんなさい。でも貴方の方がいい男ですよ。レグは純真すぎてちょっと幼いところがありましたから……」

 そう言って窓の外を眺めた彼女の瞳に、瞬間懐かしさ以上のものがあふれるのをオスカーは見た。

 長き時を生きてきた者が見せるその目には確かに、この少女こそが『青き月の魔女』その人なのだと確信させる感傷がある。

 だがその感傷も、彼女が視線を戻した時にはれいに消え失せていた。まるでただの少女のように微笑む彼女に、オスカーは気になって尋ねる。

「お前はここに一人で住んでいるのか?」

「使い魔がいますけどね。リトラ!」

 主人の呼び声に答えて、部屋の入り口にリトラが音もなく姿を現した。性別を持たぬ使い魔はオスカーに向かって一礼する。

「お初にお目にかかります、リトラと申します。お連れ様は術が効いてよく眠ってらっしゃるので、毛布を掛けてまいりました」

「ああ、悪い」

 ラザルは無事で、今のところティナーシャに敵対姿勢は見られない。これではまるでただのお茶会だ。オスカーがカップに口をつけると心地よい香りが顔をくすぐる。それはちまたでまことしやかに囁かれる塔の印象とはかけ離れたものだ。

「ここに挑戦して帰ってこない連中はどうなったんだ? 集団埋葬でもしてあるのか?」

 その質問にティナーシャは露骨に顔をしかめる。

「人の住居の周りを勝手に墓場にしないでくださいよ。塔の中で死体を出したくないんで、死なないようにはしてあります」

「あの石像に殴られたら普通死ぬぞ」

「致命傷は当たったと判定された瞬間に一階に飛ばされます。失格者はその後、記憶を適当にいじって大陸のあちこちに転送しましたよ。ほとんどが腕試しや名声を上げたい人たちですし、これくらいの代償は覚悟の上でいて欲しいですね」

 微笑がえんぜんとしたものに色を変える。そうしてお茶を飲む彼女には塔の主人としての威風があった。仕草の上品さと美貌もあいまって、場所が場所なら王族と言っても通っただろう。

 オスカーが軽く目を瞠った時、リトラの声が割って入る。

「でも、マスターは子供の病気を治して欲しいとかでいらした挑戦者には、失格しても治してさしあげましたよ」

「余計なことを言うな」

 彼女はばつの悪い表情になるとオスカーから目をそらす。先ほどまでの威圧感は一瞬で消え、まるで外見より幼い少女のようだ。一向に定まらない印象に、オスカーは可笑しくなった。

「摑み所がないな」

「なくていいです」

 くされた返事がかえってわいらしい。

「街に下りたりしないのか? 他の魔女はもっと人前に現れているようだが」

「自分で買い出さなければいけないものがあれば下りますけどね……。あんまり無闇に人に干渉したくないんですよ。私の力はまぐれでふるっていいようなものじゃないですから」

「なるほど。その姿勢は『沈黙の魔女』にも見習って欲しいものだ」

 突如出てきた別の魔女の名に、ティナーシャは首を傾げた。

「それは、貴方がここに来た目的に関係することですか?」



「──そういうわけで、呪いを解いて欲しい」

 彼女の疑問に応えて、オスカーは十五年前の夜の出来事を軽く説明した。

 ティナーシャは腕組みをし、眉をひそめて聞いていたが、話が終わると深いためいきをつく。

「何でそんな呪いをもらったんですか」

「父が話したがらないから、原因は突っこんで聞いたことは無い。その前に亡くなってる母に関係してるらしいんだが」

「……そうですか」

 彼女は瞬間、何かに気づいたように目を細めたが、オスカーがげんに思う前に、すぐ表情を元に戻した。腕組みを解くと、人差し指で自分のこめかみを軽くつつく。

「先にお断りしておくと、『呪い』というのは必ずしも解けるわけじゃないんです」

「というと?」

「いわゆる『魔法』は共通の法則に基づいて構成、発動しますが、『呪い』には法則がないんですよ。言語……それは言葉だけじゃなく、身振りなど伝達方法全てを含みますが、任意の言語に自分で定義した意味を持たせ、魔力を込めるのが『呪い』なんです。当然かける人間によって異なってきますから……極端な話、かける時に解呪の存在を定義していないと、術者にも解けません」

「……解けない?」

「解けません。ただその代わり『呪い』というのはそんなに強力な力を持てないんですよ。自然の力の流れを個人の意志によって遮ったり曲げたりするものですから。人を直接殺したりする力はないんです。せいぜい間接的に働くくらいで……それも避けられないものではありません」

 オスカーは怪訝に思って聞き返す。

「けど、この呪いは結構強力じゃないか」

「そう、貴方の呪いはその域を超えてますよね。それはかけられているものが実は『呪い』じゃなくて『祝福』や『守護』と言われる類のものだからなんです」

「は?」

 ぜんとしたオスカーを前に、ティナーシャは椅子から腰を浮かす。ほっそりとした体がテーブルの上に乗り出し、その白い手が彼に伸ばされた。

 処女雪を思わせる肌。近づいてくる魔女の指を、オスカーはいちべつしただけで止めない。

 けれど柔らかなてのひらは彼には触れず、顔のすれすれを拭うようにでていった。

 ──そこに瞬間、うっすらと赤い紋様が浮かび上がる。

「何だ?」

「貴方にかけられてる『祝福』を可視化したんですよ。これでほんの一部分ですけど」

 ティナーシャが手を引くと、たちまち紋様は見えなくなる。彼女は椅子に座り直した。

「基本的に『祝福』も『呪い』と同じ方法でかけるんですが、力の方向が違います。元々ある力を後押ししてやるんです。だからこちらは、術者の力量によってはかなり強力なものがかけられます。貴方にかけられているものは、それを逆手にとって、おそらくは胎児に非常に強力な力をまとわせて守護させるようになってるんでしょう。普通の母体はまず耐えられません」

 オスカーは、彼にしては非常に珍しいことに意表をつかれてぼうぜんとしてしまった。向かいでは魔女が、気の毒そうにそんな彼を見つめている。

「えーと、つまり、結局、解けない……と?」

「かけられているものが解析できれば、魔法で軽減することもできますが、二十くらい絡み合ってかけられてますからね……。さすが沈黙の魔女」

 ティナーシャは見えにくいものに目を凝らすように、両眼を細めて彼の胸元に焦点を合わせる。

「非常にお気の毒ですが……」

「おーい……」

 気まずい沈黙がその場に流れる。

 いつまでも続きそうな重い空気を打ち破って、ティナーシャは立ち上がると両手を軽く叩いた。

「せっかく来て頂いたのにこれではなんなので、私もできるだけのことはしますよ」

 そう言うと彼女は部屋の奥から水盆を持ってきてテーブルの上に置いた。水盆の中には魔法の紋様が刻まれており、薄く張られた水が落日を受けてきらめく。

「何か手段があるのか?」

「単純な対策があります」

 魔女は椅子に座りなおすと、右手を水盆の上にかざした。風もないのに水面に波紋が生まれる。

「胎児の守護力に母体が耐えられないのが問題なので、それが可能な強い女性を選べばいいんです」

「……確かに単純だが。そんな女がいるのか?」

「きっと、大陸に一人か二人はいるんじゃないかと……多分。魔力と魔法耐性を重視して探してみますから、他は目をつぶってください」

 水盆にどこか遠くの森の景色が映し出される。オスカーは頭痛のしそうな額を手で押さえた。

「人妻や老人子供だったらどうするんだ」

「人妻は人道にはずれるのでどうにもできませんが、老人は魔法で何とか……。子供だったら自分好みに育てられてお得ですよ! 王族なら二十歳差の婚姻とか普通ですし」

 ティナーシャは作られた笑顔で、明るく返す。

「とにかく探すんで、前向きにお願いします」

「おーい……」

 本当に頭痛がしてきた気がして、オスカーはついに両手で頭を抱えた。

 少なくない期待を持って塔に挑戦したにもかかわらず、「最強」と言われる彼女でこうである。しかもかけた当の魔女でもおそらく解けないとは、他に手段がないもいいとこだ。これはもう「前向き」とやらにならなければならないか……と考えて、ふとオスカーはあることを思いついた。

「ティナーシャ」

「うわ、びっくりした! 何ですか」

「何でびっくりするんだ」

 驚きに呼応してか、水面が触れてもいないのに跳ね上がってテーブルをらした。ティナーシャは濡れた右手を払う。

「名前を呼ばれることが滅多にないので……」

「名乗っておいて何を言う」

「すみません」

 ティナーシャはリトラから布を受け取ってテーブルの水を拭き取った。布を畳みながら問い返す。

「で、何ですか?」

「ああいや、お前はどうなんだ」

 質問の意図が摑めないティナーシャは、自分の顔を指差して怪訝な顔をした。それに応えてオスカーは尋ねる。

「お前は、沈黙の魔女の魔力に耐えられるのか?」

「そりゃ余裕で耐えられますけど……って……」

 ようやく理解したティナーシャの顔色がみるみる青ざめていく。

「じゃあ決まりだな」

 オスカーは椅子に深く座りなおすと、お茶を最後まで飲み干した。対面にいるティナーシャは真っ青な顔で腰を浮かしている。

「え、ちょっと待ってください……」

「いるかどうか分からない女を捜すより確実じゃないか。俺の達成者としての望みは、お前がここを下りて俺の妻になること、でいこう」

 当然の権利のように出された要求。それを聞いたティナーシャは、愕然と凍りついた。

 だがすぐに小さな両手がテーブルを叩く。

「う、受け付けられませんよ、そんなの!」

「できるだけのことはすると言ったじゃないか」

「限度があります! 無理です無理!」

 青い顔でむきになっている魔女を、オスカーは面白そうに見返した。

「実は結婚しているとかか?」

「結婚歴はありません」

「恋人がいるとか」

「いたことはないです」

「老人は何とかできるそうだが」

「確かに老人だけど老人よばわりは腹立たしい! とかそういうことじゃなくて!」

 ティナーシャは身を乗り出して、引きつった笑いを浮かべた。額には冷や汗が浮かび始めている。

「『魔女』の血を王家にいれようなんて、正気じゃないです。重臣たちがそろって吐血しますよ」

「それはちょっと見てみたいな……」

 必死の抵抗をのらりくらりとかわすオスカーに、魔女は脱力して椅子に崩れ落ちた。

「レグに似てるんだか似てないんだか……すごい性格ですね」

「人が悪いんだな」

 しれっと答える彼をねめつけると、彼女は頭を振って呼吸を整える。

「とにかく駄目です。そんな望みが通るなら、私は今頃あなたの曾祖母ですよ」

 その言葉にオスカーは内心、かなりの驚きを覚えた。

 が、同時に不思議と納得するものもある。

 彼の純真すぎたという曾祖父はおそらく、七十年前この魔女に魅了されたのだ。しかしティナーシャはその申し出を受けなかった。ファルサスに伝わる御伽噺とは大分違う過去の出来事に、オスカーは少しだけ興味を抱いた。詳しい話を聞いてみたいが、会ったばかりでそれはしつけだろう。彼は子供のような疑問を飲みこむ。

「曾祖父は引き下がったかもしれないが、俺は俺だから特に関係ないというか」

「何言っちゃってるんですか。どっちも駄目! 一律駄目!」

「七十年も経ってるのに一律とかどうなんだ。もっと柔軟に構えてみろ」

「柔軟にも程があるし!」

 騒ぎ立てる主人の脇から、リトラが手を伸ばして空のカップを下げる。

 使い魔がそうして新しいお茶を入れたポットを持ってきた時、二人はまだ押し問答をしていた。

 オスカーはしれっとしているが決して引かず、魔女は精神的にかなり疲労してきているようだ。

 ついに限界に達した彼女は、溜息をついた後、投げやりに言った。

「あーもう、あんまり聞き分け悪いと、記憶弄って城に戻しちゃいますよ!」

「その発言は人としてどうなんだ」

「それはこっちの台詞せりふです」

 ティナーシャは立ち上がると、にっこり笑いながら右手をオスカーの方にかざした。何かがその手の中に収束していく。空気の流れが急に変わった。

「おいおい、反撃するぞ」

 悠長に構えていたオスカーも、さすがに腰を浮かして剣を抜きかけた。その剣のつかを見て、ティナーシャは露骨に嫌な顔をする。

「なんでそんなの貴方が持ち歩いてるんですか。国宝扱いでしょう」

「こういうものは実用した方がいいからな」

 両刃のよく磨かれた剣身は、ティナーシャの視線を受けて鏡のように煌いた。剣の柄には年代物の装飾が施されている。

 ──ファルサスに伝わる王剣アカーシアは、絶対魔法抵抗を持つ世界で唯一の剣だ。

 その昔、人ならざる者が、湖から抜いて与えた剣だという伝説もあるが、詳しくは定かではない。建国時からある王剣とあって、今まではめったに実戦には使われず、王が公式の場で帯剣するのみだったが、オスカーはその剣を普通に自分のものとして扱っていた。当然ながら魔法士には「天敵」といっていい代物だ。それは魔女であるティナーシャにとっても例外ではない。

 彼女は苦い顔でしばらくちゅうちょすると、構成しかけていた魔法をかき消す。

「うー。もうちょっと話し合いますか」

「まったくだ。落ち着け」

 二人が座りなおした隙に、リトラはお茶を注ぎなおした。ティナーシャは乱れかけた黒髪を手でかき上げる。

「貴方、ちょっとおかしいくらい頑固ですよ。そろそろ譲ってください」

「お互い様だと思うが……」

 オスカーは思案顔でお茶に口をつける。その時、ふとあることを思い出した。

「そういえばお前、七十年前はファルサスの城でしばらく暮らしてたらしいな」

「半年間くらいですね。魔法教えたり花育てたりしてましたよ。結構面白かったです」

 想像できるようなできないような暮らしにオスカーは首をひねった。

「それが曾祖父の望みだったのか?」

「いいえ」

 ティナーシャは目を閉じて微笑む。きっぱりとした口調からは、レギウスの本当の望みは何だったのか、教える気がないことが伝わってきた。

 オスカーは軽く片眉を上げたが、彼女の意をんでそれ以上重ねて問うことはしない。代わりにしたことは、思いついた望みを口に出すことだ。

「じゃあこうしよう。一年間ここを出て、ファルサスで、俺の傍で暮らす。これが達成者としての要求だ。これなら受け入れられるか?」

 言われたティナーシャは予想外の要求にきょとんとした。

 しかしここまでを振り返って考えると、彼にしてはかなりの譲歩だ。

 一年は、彼女にとっては決して長くない。かつて瞬きするほどの短い間、人と共に暮らしたファルサスの懐かしい風景が目に浮かんだ。

 魔女は深く息を吸いこむ。そして、それを全て吐き出したとき、彼女の心は決まった。

「いいでしょう。ならば私は、貴方の守護者として塔を下りましょう。今日から一年間、貴方が私の契約者です」

 ティナーシャはすっと腕をあげると、白い人差し指をオスカーの額に向ける。指先に淡く白い光が灯ると、それは彼女の指を離れて空中を滑るように動き、オスカーの額の中に吸いこまれた。

 彼は自分の額を指で探ったが、特に変わったことは何もない。

「何をしたんだ?」

「目印です。とりあえずの」

 魔女は微笑んで立ち上がると、両手を上げて伸びをした。硬くなっていた体をほぐす。

「塔を出るなら入り口閉めないとね。リトラよろしく」

「かしこまりました」

 リトラが部屋から立ち去るとオスカーも席を立つ。

 日はすっかり落ち、遠くの山間に残光が見える。彼はティナーシャの横に立つと、自分より大分背の低い彼女を、人の悪い笑顔で覗きこんだ。

「途中で気が変わったらファルサスに永住してもいいぞ」

「変わりませんよ!」

 こうして『青き月の魔女』はファルサス王太子の守護者として、おおよそ七十年ぶりに歴史にその姿を現すことになった。彼女自身の運命を覗きこむ物語は、これより始まる。



  ※


「ラザル! 起きろ!」

 主人の声に彼が反射的に飛び起きると、そこは塔の前、馬を繫いだ木の陰だった。ラザルはきょろきょろと辺りを見回し、すぐ後ろにいたオスカーを見上げる。

「あれ、殿下……私は塔を……登ってたんでしたっけ……もう夜?」

「いいから帰るぞ。起きろ」

 はっきりしない頭と記憶に、首を捻りながらラザルは立ち上がった。馬を繫いでいた縄を解く。

「お帰りでよろしいんですか?」

「ああ、もう用は済んだからな」

 不思議に思いながらも馬を引いて戻ったラザルは、その時初めて主人の陰に誰かが立っていることに気づいた。年若く美しい少女は、ラザルの視線に気づくと花のように微笑む。どこの国の出か分からない黒い髪と白い肌、力を帯びた闇色の両眼にラザルはすっかり飲まれてしまった。

「殿下、この方は……」

「魔女の弟子で、塔を出るからしばらくファルサスで暮らすことになったんだ」

「ティナーシャと申します」

 少女が丁寧にお辞儀をしたので、ラザルも慌てて頭を下げた。塔を出るという割には、彼女はその身一つで何の荷物も持っていない。そのことを不思議に思いながら、ラザルは馬を引く主人に近づいて耳打ちする。

「魔女の弟子ってことは、魔女に会ったんですか?」

「ああ、会ったぞ」

「とって食われませんでしたか」

「お前、殺されるぞ……」

 オスカーはあんじょうに飛び乗るとティナーシャに手招きをした。彼は心配顔のラザルに何か言いかけて、不意に苦笑する。

「まぁ色々、面白かったな」

 そのままオスカーは、何故なぜか苦い顔をしている少女の手を取ると馬上に引き上げた。小柄な彼女は鞍の上、彼の前に収まると長いまつを伏せる。

 髪や瞳のせいか、透き通る夜を思わせる美貌の少女は、そうしているとまるでずっと昔からオスカーの傍にいたかのようによく似合う。ラザルは絵になる一対にぼうっとれた。オスカーがそんな幼馴染に不思議そうな顔をする。

「どうした、帰りたいんじゃなかったのか」

「あ、そ、そうでした……すみません」

 ラザルは急いで馬に乗る。辺りの日はすっかり落ちて、夜が足早に訪れようとしていた。ティナーシャが手を一振りすると、馬の鼻先より少し前方に小さな光が浮かび上がる。みちゆきを照らす明かりにオスカーが感嘆の声を上げた。

「魔法か。便利だな」

「これくらいならいつでも。何かを焼き尽くしたいのなら要相談で」

「不要だ。お前は俺の傍にいればいい」

 さらりと返すオスカーを、少女は呆れたように見上げる。だが彼女はすぐに目を閉じて微笑んだ。

 そんな二人を見ていたラザルは、不意にかすかな予感を覚える。

 ここから先、何かが濁流のように変わっていってしまうような、そんな予感を。

「行くぞ、ラザル」

 少女を乗せて主君の馬は走り出す。ラザルは自分も手綱を取りながら、ふと塔の方を振り返った。

 見ると薄闇の中、確かにあったはずの塔の扉は消え、そこには周囲と同じ、ただの青い壁が続いているだけだった。

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