1
古代王国として知られるカストゥール王国の滅亡とともに、魔法の時代が終わった。
およそ五百年前の出来事である。
その後に続く時代は〝新王国期〟あるいは〝剣の時代〟と呼ばれている。
魔法の時代に蛮族と蔑まれた人間が、剣の力によって新しい王国を次々と興していったからだ。五百年ものあいだに、いくつもの王国が生まれ、あるいは滅んでいった。
そして、アレクラスト大陸で、もっとも最近、建国された王国が、ここオーファンだ。〝竜殺し〟の英雄リジャールの剣によって興されたゆえ、〝剣の王国〟と呼称されている。
だが、剣の時代、それもこの剣の王国においても、古代王国の魔法文明は完全に失われたわけではない。〝魔術師〟と呼ばれる古代の魔術の使い手たちがいるからだ。
そして、そういう魔術師たちのなかに極めて希だが、戦いの技に長けた者もいる。
魔法を操る戦士ゆえ、彼らは〝魔法戦士〟と呼ばれている。
「おめでとう」
祝福の声が響いて、陶器の酒杯が四つ、高々と掲げられた。
「ありがとう」
長身で体格も立派な一人の若者が、四人の祝福に応えて酒杯を軽く上げる。そして薄く泡立つ赤色の液体に口をつけ、一気に飲みほした。
麦酒である。心地よい苦みと酸味が、口のなかに広がってゆく。
「あいかわらずだな」
若者の右隣に座っている別の若者が、呆れているのか感心しているのか分からないような口調で言った。
「この体格だもの、一樽だって一気に飲みほせるわよ」
同じテーブルを囲む五人のなかで唯一の女性が、隣に座る巨漢を横目で見ながら言った。
茶色がかった金髪が酒杯に落ちないよう、空いているほうの手で軽く押さえながら、舐めるように酒杯に口をつけている。
「いくらなんでも、一樽は無理だ」
そう答えながらも、若者は同時にエールのおかわりを店員に頼んでいた。
「一杯ぐらいじゃ、喉の渇きが収まらないのも確かだけどな」
そう言って、不敵な笑いを浮かべる。
若者の名前は、リウイ。
今年の夏で、十九歳になる。世間では、ようやく成人と認められる年齢だ。オーファンの王都ファンの街にある魔術師ギルドに入門している。
資格は、正魔術師。職人の世界に例えるなら、門弟というところだ。
他の四人も、全員が正魔術師である。
十年前に入門した同期生であり、見習い時代から同じ導師のもとで、あらゆる分野の知識と古代魔法王国の文化遺産ともいうべき古代語魔法を勉強してきた。最初、同期生は百人近くいたのだが、現在までギルドに在籍しているのはこの五人だけだ。
「結局、オレが最後になったな」
運ばれてきた二杯目の酒杯を見つめながら、リウイは一人ごとのように言った。
正魔術師になったのは、五人ともほとんど同時期だった。
〝上位古代語〟と呼ばれる魔法言語を唱え、古代語魔法を発動させられれば、正規の魔術師と認められる。そして魔法の発動体たる〝魔術師の杖〟とともに魔術師の組合を発足させた大賢者マナ・ライが著した基本の魔術教本が与えられるのだ。
この書物を完全に修めると、教本が変わる。古代王国時代の遺跡から発掘された古代の魔術書にである。
この〝古代魔術書の授与〟の儀式をもって、オーファンの魔術師ギルドでは、ようやく一人前の魔術師と認められる。一人ずつに担当の導師がつき、その指導のもと、独自の研究活動が許されるようになる。同時に、魔術師ギルドへの奉仕が義務づけられるようになり、たいした額ではないが俸給も与えられる。
リウイが古代魔術書の授与の儀式を受けたのは三日前。五人のなかで、いちばん最後だった。右隣にいるダリルと比べれば、たっぷり二年は遅れている。
ようやく仲間たちに追いついたわけだ。今日の酒宴は、その祝いとして、仲間たちが開いてくれたものだ。
「いちばん最後も何も……」
同期生のなかでただ一人の女性であるアイラが、口を開いた。
彼女はリウイより二歳、年上である。五人のなかでも最年長だ。
「あれだけ怠けていれば、遅れて当然だわ」
ぴしゃりとした口調だった。
いつものことなのだが、彼女は言葉を選ぶということを知らない。
「心外だな。オレだって、毎日、夜遅くまで魔術書と格闘してたんだぜ」
リウイは惚けるように言った。
「時間をかければいいってもんじゃないわ。取り組む姿勢の問題ね。リウイって、まるで研究に集中しているように見えないもの。立派な魔術師になりたいと思ってるのかどうか疑問だわね」
「適性がないだけさ」
リウイは苦笑まじりに答えると、運ばれてきたエールのおかわりに口をつけ、ふたたび一気に飲みほした。
「適性……ね」
リウイが空にした二杯目の酒杯を見つめながら、アイラは肩をすくめた。
「その体格に、その飲みっぷり。確かに、世間の人が思い描いている魔術師とは似ても似つかないわね」
「好きで、こんな体格になったわけじゃない。酒だって、美味いと思うから飲むだけだ」
アイラが言うとおり、リウイの体格はおよそ魔術師らしくない。
武勇を誇るオーファンの騎士たちのなかに入っても、リウイの体格と体力は抜きんでているに違いない。
「カーウェス様の親戚だというのにね」
オーファン魔術師ギルドの長であり、この王国の宮廷魔術師を務めるカーウェスは、アレクラスト大陸で最高の魔術師の一人である。
リウイはこの大魔術師の遠縁にあたり、赤子の頃、両親を失ったため引き取られたのだ。
「爺さんのほうが、特別なんだよ」
リウイはきっぱりと答えた。
正確には養父なのだが、年が離れているため、子供の頃からそう呼んでいる。
「魔術師の親戚が全員、魔術師になれるんだったら、今頃、大陸中に魔術師が溢れかえっているさ」
ダリルがそう言って、笑う。
「魔術師は皆、古代王国人の青い血を受け継いでいると言われてるけどね」
「怪しいものだな」
ダリルの言葉に、リウイは戯けて応じる。
魔法文明で栄えたカストゥール王国人の血どころか、カーウェスと血が繋がっているかどうかも疑わしいと、彼自身は思っている。
偉大なるカーウェスは一度も妻帯したことがなく、兄弟がいるという話も聞いたことがないからだ。
リウイは別に、血の繋がりのあるなしを気にしているのではない。そんなものがあろうとなかろうと、カーウェスが養い親であることに変わりがないのだ。育ててもらったことを、感謝している。
ただ、自分の身体のなかに流れている血が、魔術師とは異質であるように思えてならないだけだ。
「カーウェス様から与えられたのは、どの系統の魔術書なんだ?」
リウイが黙りこんだのを見て、気分を害したと思ったのか、ダリルが話題を変えて、訊ねてきた。
「基本魔術だよ。基本呪文の唱え方と呪文の効果の拡大について記述されているそうだ」
そう答えるリウイの顔は、やや憮然としていた。
「カーウェス様は基本が大事と教えておられるものね」
アイラが、意地悪そうな笑みを浮かべる。
「オレは拡大魔術の系統を研究したかったんだけどな」
拡大魔術というのは、古代語魔法のなかで肉体的能力の拡大を得意とする系統である。瞬間移動や遠見といった呪文も、この系統に含まれている。
「それだけの肉体をしていて、まだ不満があるの?」
アイラがあきれたという顔をする。
「リウイらしいよ」
ダリルが楽しそうに言った。
「そんなに身体を鍛えたいなら、冒険者でも雇って、古代遺跡の発掘に行けばいいのさ」
「それはいい考えだ。リウイが研究材料を見つけてきて、僕たちが研究する。そのほうが効率がいい」
リウイの向かいの席に座っている二人が、そう言って笑いあう。
「冒険者か……」
彼らは冗談で言ったのだろう。
だが、リウイは心の奥で、真剣にそれを考えていた。
冒険者──
アレクラスト大陸全土を股にかける遺跡荒しのことだ。
五百年前に栄えた古代王国の遺跡に潜入し、そこに埋蔵されている莫大な財宝、貴金属や宝石、芸術品、そして魔法の宝物などを持ち帰ることを生業とする者たちだ。
彼らはまた英雄予備軍でもある。大陸各地に跳梁する怪物を退治したり、山賊団や海賊団を掃討することもあるのだ。
もちろん、すべての冒険者がそんな大仕事をしているわけではない。冒険者の多くは、隊商の護衛や金持ちの館の警備、その他、種々雑多な問題を解決することで、日々の糧を得ている。いわば、〝何でも屋〟である。
それでも、冒険者たちの生き方は自由かつ波乱に富み、頼りになるのは自分自身の才覚であることは間違いない。
リウイは、そこに魅力を感じている。
「仲間になろうと言ってくれる奴でもいればな……」
リウイは、ぽつりとつぶやいた。
そのときには、同期生たちの話題はすでに変わっていて、彼のひとりごとを気に止めた者はいなかった。
運ばれてきた料理の皿に手を伸ばし、リウイは仲間たちの話題に加わっていった。
祝いの酒宴は、夜遅くまで続いた。
2
祝宴が終わって、リウイたちは魔術師ギルドの宿舎に与えられたそれぞれの部屋へと戻っていった。
他の四人はかなり酔っているから、明日は魔術の研究どころではないだろう。
しかし、リウイはまったく飲みたりなかった。いったん飲みはじめると、とことん飲むまで満足できない性格なのだ。中途半端なところでやめると、かえって気分が悪くなる。
リウイは私服に着替えると、一人、街へと戻っていった。
自然に、足が裏通りへと向く。
街の西南の一角に、ちょっとした歓楽街があるのだ。真面目な人間なら、絶対に近づかないような場所。
だが、リウイはそこの常連だった。
魔術師になる──
リウイは赤子の頃からそう思っていたし、またそのようにも育てられてきた。
読み書きは二歳の頃から教えられたし、玩具はすべて魔法の宝物だった。
合言葉を唱えると様々に形を変える真銀の球や、小型の魔法人形や人造人間などだ。
そんな環境で育ったわけだから、魔術師になる以外の生き方など考えもしなかった。
だが、魔術師ギルドに入り、見習いになった頃から、決められた生き方に対する疑問が芽生えだしたのだ。
ただの反抗だと思う。
魔術師としての修業に身が入らなくなったのはそれからだ。もやもやとした気分が晴れることなく、魔術書を読むのにさえ、集中できなくなった。
得体の知れない衝動に突き動かされるように、リウイはこの歓楽街に足を運ぶようになった。酒を飲み、賭け事をし、女を抱き、喧嘩をする。そういう刹那的な快楽に身を任せていると、いくらか気分が晴れる。
だが、完全に満たされるわけではない。
そして、どうすれば満たされるのかも、リウイは分からずにいた。
大通りを曲がって、リウイは真っ暗な路地を、正面に見える明かりに向かって進んだ。
塵のすえた臭いが鼻をつき、人の気配を感じた鼠たちが逃げ惑い、リウイの足にぶつかってくる。どこからか、犬の遠吠えが寂しげに聞こえてくる。
そのときであった。
リウイが目指している方向から、突然、誰かの怒鳴り声が響いた。何かが壊れる派手な音と、歓声とも悲鳴ともつかぬ声がそれに続く。
この界隈では聞き慣れた声であり、音であった。
「喧嘩だ!」
瞬間的に、リウイは走りだしていた。
一歩ごとに高揚感が沸き上がってくる。楽しい夜になるかもしれない。
喧嘩の舞台は、繁華街に入ったところにある比較的まともな酒場だった。逆に言えば面白みのない店で、これまでリウイは行ったことがなかったのだが、今夜ばかりは行く価値がある。
酒場の入口を取り巻くように、二十人ほどの野次馬が集まっている。かなり激しい喧嘩のようで、物が壊れたり倒れたりする音が、店のなかから響いてくる。
リウイは人垣をかきわけて、店のなかへと入っていった。店に入れば、喧嘩に巻きこまれる可能性だってある。内心、それを期待していた。喧嘩は見ているだけでも楽しいが、やるのはもっと楽しいのだ。
だが、喧嘩の現場を見て、リウイは思わず唖然となった。
喧嘩をしているのが、男二人と女三人だったからである。そして、一見しただけでも分かるほど、女たちのほうが優勢だった。はっきり言えば、一方的である。
三人の女たちは、初めて見る顔だった。
一方、相手の男たちのほうには見覚えはある。職人のような格好をしているが、オーファンの騎士見習いである。
以前、彼らの隣のテーブルで飲んでいるとき、二人の会話を聞くとはなしに聞いたからだ。はっきりと身分を言ったわけではないが、話の内容からリウイには、彼らの正体はすぐに分かった。
真面目ばかりではいられないという人間は、どこにでもいるということだ。もっとも、オーファンは建国してからの歴史が浅いので、騎士とはいえ、傭兵や流れの戦士たちとあまり違いはない。そのかわり、武勇を誇る気質は衰えていない。見習いであっても、厳しい戦闘の訓練を受けている。そして、そのなかには格闘術もあるのだ。
だが、そんな二人の騎士見習いを、三人の女は問題にもしていなかった。
女の一人は、リウイと同じぐらいの体格をしていた。長い赤毛と豊かに膨らんだ胸がなければ、男と間違えていたかもしれない。革製の部分鎧をつけ、手首と足首には白布を硬く巻きつけている。露出の多い肌は浅黒く日焼けしていて、文字とも模様ともつかぬ印が頬や太股、二の腕などに描かれていた。
オーファンの北部、ヤスガルン山脈に住む小部族の習慣だと、リウイの知識は教えていた。何かの理由があって、集落から出てきたのだろう。
勇敢な山の民で、オーファン建国のおりには何十人もの戦士を派遣し、建国王リジャールに協力している。その功績によって王国から自治を認められ、昔ながらの暮らしを営んでいると聞いている。
もう一人は、ゆったりとした衣服を身につけた金髪の女性だった。口許には上品な笑みを浮かべていて、喧嘩に加わっているようにはとても見えない。しかし、やっていることはまったく容赦なかった。
痣だらけになりながら向かってくる男に、優雅な動作で平手打ちを入れる。手首の返し方が見事で、男はそれだけで床に倒される。
形よく膨らんだ胸の左には、戦鎚を意匠化した紋章が刺繍されている。
戦の神マイリーの紋章だ。
神聖魔法の使い手である司祭なのか、ただの信者なのかは分からないが、彼女が戦神マイリーを信仰しているのは間違いない。
最後の一人は小柄な少女だった。
鼠を弄ぶ仔猫にも似た表情を浮かべ、俊敏に立回りながら、二人の騎士見習いに低い体勢から蹴りをたたきこんでいる。
少年のような体形で、胸の膨らみも浅く、腰の曲線にもまだまだ硬さが残っている。ランプの明かりに、きらきらと輝く黒い瞳が印象的だった。普通にしていれば、きっと愛らしく見えるだろう。
三人ともまだ娘といってよい年齢だった。リウイともそう年齢は変わらないだろう。
その三人娘は、二人の騎士見習いを徹底的に叩きのめしている。
店の内外にいる野次馬たちは、げらげらと笑いながらそれを見物していた。確かに、見せ物としては面白い。だが、いくらなんでもやりすぎだった。ここまで容赦なくやられては、騎士見習いたちも後に引けなくなる。
「こりゃあ、死人が出るかもな……」
酒杯を片手にリウイの隣で見物していた男が、目を輝かせながらつぶやく。
リウイも同感だった。だが、人死にを期待するほど、彼は悪趣味ではない。
(止めるべきかもしれないな)
リウイは思った。
だが、それを望んでいる者は、やられっぱなしの騎士見習いを含めて誰もいない。
(どうしたもんかな?)
そう自分の心に問いかけた瞬間、騎士見習いの一人が、ついに剣の柄に手をかけた。
歓声とも悲鳴ともつかぬ声が、あちこちから起こる。
「衛兵だ!」
それと同時に、店の外の野次馬たちから、そんな叫び声が聞こえてきた。
路地の騒ぎを聞きつけて、大通りを巡回していた衛兵がやってきたのだろう。新興国だけに、オーファンの治安は悪くはない。騒ぎがあって、それを見て見ぬふりをしたことが発覚したら、重罰を受けることになる。
「それを抜いたら、生命がなくなるよ」
赤毛の女戦士が、不敵な笑みを浮かべながら、騎士見習いを睨みつけた。
リウイの肌にも鳥肌が立つほどの凄みが感じられる。
その迫力に、騎士見習いは一瞬、躊躇した。だが、やはり騎士の誇りは捨てられなかったようだ。腰の剣を引き抜くと、白刃を夜の明かりに煌めかせた。
もう一人の騎士見習いも、当然のように同僚に倣う。
「殺しあいだって、受けてやるさ」
女戦士は悠然と答え、護身用に持っていたらしい短剣を抜いた。
小柄な少女も、どこに隠し持っていたものか、細身の短剣を取りだしている。
もう一人の金髪の女性は、武器こそ取りださなかったが、精神を集中させて明らかに魔法を唱えようという態勢だ。どうやら、彼女は神聖魔法の使い手である司祭のようだ。戦士の訓練を受けた神官戦士なのだろう。
両者は互いに睨みあっているが、動きがあった次の瞬間には勝負は決すると思えた。負けるのは、もちろん、騎士見習いのほうだ。
(放っておくわけにはゆかないな)
リウイは決心した。
喧嘩は好きだが、命のやりとりまでする必要はないと思っている。
だいたい衛兵たちがやってきているのだ。彼らがこの現場を見れば、騎士見習いたちの立場は更に悪くなる。女に喧嘩で負けたことが知られれば、一生の笑い者だ。
女たちのほうも、もはやこの街にいられなくなるだろう。もともと流れ者かもしれないが、賞金首になるのは本意ではあるまい。
「そこまでにするんだな!」
お節介とは承知しつつ、リウイは大声を上げて、両者のあいだに割って入っていった。
周囲の野次馬から不満の声があがる。もっとも、新しい展開を期待する歓声も数人分ほど混じっていた。
自分のことを知っている者たちだな、とリウイは思った。
いつもの彼なら、喧嘩を収めたりはしない。むしろ、大きくする。だが、今日のところは、そういうわけにはゆかない。
リウイの行動は決まっていた。五人の男女があっけにとられているあいだに、電光のように動いた。
武器を構えたまま硬直している二人の騎士見習いを左右の拳、一発ずつで叩きのめす。そして振り向きざまに、女戦士の顔面を殴りつける。
不意をつかれた女戦士は、リウイの拳をもろに受け、酒場の壁まで飛んでいった。
「何をしやがる!」
声はかわいらしいが下品な物言いで、小柄な少女が低く回し蹴りを放ってきた。
かわせないと知ったリウイは、足を踏ん張って、その蹴りを受け止めようとする。
鞭のように鋭い蹴りが、左の太股に命中した。
「痛ぇ!」
だが、そう叫んだのは、小柄な少女のほうだった。
「てめえの足は、丸太かよ!!」
愛らしい顔を苦痛と怒りで歪めながら、少女は足を抱えてうずくまる。
「女性の顔を殴るなんて……」
金髪の女性が、怒りの表情もあらわに進んできた。
目にも止まらぬ速さで、リウイの頬に右手が飛んでくる。リウイはその手首をなんとか掴むと、そのまま彼女を引き寄せた。
端正な顔が目の前に迫ってくる。リウイがその気なら、上品な唇を奪うことだって可能だろう。
女司祭ははっとなり、全身を硬くさせた。青い瞳が怯えたように揺らぐ。
「男を殴るような女ならな……」
リウイはまず、彼女の抗議に対して律儀に答を返しておいた。
それから声を落として、
「衛兵が来ている。この場に残っていると、牢屋に入ることになるぜ」
と続ける。
「衛兵が!」
金髪の女は驚いたように、入口を振り返った。
どうやら、喧嘩に集中していて、外の野次馬の声が聞こえなかったらしい。
衛兵は店の外までやってきたが、権力嫌いの野次馬たちと揉みあっているらしく、店のなかにはまだ入ってきていない。
「逃げるのなら、今のうちだぜ」
リウイはそう言って、女司祭の手首を離した。
そのときには、女戦士と少女も立ち上がっていて、殺気に満ちた目で彼を睨んでいた。
「聞こえないのか? 喧嘩は終わったんだよ」
納得できないという顔をしながらも、三人の女たちは店の裏口に向かって、走り去っていった。
それを見届けて、リウイはほっと一息をついた。
不意をついたからなんとかなったものの、まともに喧嘩をしていたら、勝てたかどうか分からない。
そして、リウイは騎士見習いのほうに向き直る。
よろめきながらも、彼らは起き上がろうとしていた。
そんな二人の前に悠然と立ち、
「おまえたちを叩きのめしたのは、オレだからな」
と、リウイは言った。
騎士見習いたちは、惚けたような顔で見あげてくる。だが、戦意はもう失せているらしく、荒く息をつくだけだった。
リウイはもう一度、同じ言葉を繰り返し、
「誇りと名誉を大切にしたいのならな」
と続けた。
その瞬間、衛兵たちがようやく野次馬たちを押しのけて店内に入ってきた。
「何事だ!」
背後から肩を掴まれ、リウイは強制的に衛兵たちのほうに顔を向けさせられた。
「見れば分かるだろ。ただの喧嘩さ……」
リウイは衛兵に答えると、手近なテーブルに置きっぱなしにされていた葡萄酒の壷を掴み、ぐいっと呷る。
「酔っ払いが!」
衛兵がリウイの顔面を殴りつけようとした。
力のない一撃だったので、リウイはそれを避けもしない。拳が頬に当たった瞬間、ふらふらと後ろによろけたのも芝居だった。
衛兵たちは、当然のように二人の騎士見習いの正体に気づいた。そして、目配せをしあうと、リウイ一人を連行しようとする。
不公平きわまりない処置だが、リウイの狙いどおりでもあった。二人の騎士見習いの名誉は守られるし、あの娘たちも王国から追われずに済むだろう。
後ろ手に縄をかけられ、リウイはオーファンの王城にある地下牢へと連行された。
馬鹿な真似をしたとも思うが、今夜の事件は十分、刺激的だった。
まだ飲み足りないことだけが、リウイの唯一の不満だった。
3
リウイが釈放されたのは、翌日の昼前だった。
牢屋に放り込まれるとき、養父カーウェスの名を出していたから、この結果は予想どおりだった。
「酔っ払って喧嘩とは、な」
宮廷に出仕し、リウイが牢屋に入れられたことを聞いたとき、カーウェスはひどく慌てたらしい。
だが、リウイと対面しても、意外なことにそれほど怒らなかった。短い説教をしただけで、かえってリウイは拍子抜けした。
「国王には会っておるまいな?」
説教を終えると、カーウェスはそんな質問を投げかけてきた。
「王様は、地下牢によく来るのかい?」
養父の質問の意図が分からず、リウイは戸惑いながら答えた。
養子であるリウイが牢屋に入れられたことが国王に知られたら、立場上まずいのは間違いない。だが、それぐらいでカーウェスの評価が変わるとも思えない。
「会っておらなんだらいいのだ」
安堵のものとおぼしき溜息をついて、カーウェスは会話をうち切った。
そして執務があるからと言って、去っていった。
そんな養父の態度を怪訝に思いつつも、リウイは深く詮索をしなかった。
汚れた身体を湯で洗い、牢番が差し入れた新しい服に着替えて、裏門から出てゆく。王城がそびえ建つ丘の斜面を一回りして、王都ファンの市街に向かう。
すでに昼なので、ひどくお腹が空いていた。どこかで食事でもして、それからゆっくりと魔術師ギルドへ帰ろうと、リウイは思った。
飯屋を探して街路をぷらぷら歩いていると、突然、路地から人影が飛び出してきた。それも三つ。
現れたのは、昨晩、会った三人組の娘たちだった。
「おまえたち……」
リウイの目に警戒の色が浮かぶ。
彼女たちは殺気にも似た異様な雰囲気を漂わせている。
(それほどの恨みを買うとはな)
意外に思ったが、売られた喧嘩から逃げるのはリウイの流儀ではない。
三人の娘は、しかし完全武装であった。女戦士は両手持ちの大剣。神官戦士は、小振りの戦鎚。そして、小柄な少女は細身の小剣。
リウイはと言えば、護身用に短剣を帯びているだけ。武器を使った戦いになれば、勝ち目はない。そもそも喧嘩なら慣れているが、武器の扱いには慣れていないのだ。
どう考えても逃げたほうが利口だった。最悪、殺されるかもしれない。だが、リウイの心に恐怖感は湧いてこなかった。むしろ気持ちが高ぶっている。
(オレは狂ってるのかもしれない)
心のなかで、リウイはつぶやいた。
魔術師として異端なだけではなく、人間としても異端なのではないかと思う。
娘たちは、どう見ても戦い慣れている様子だ。大柄な女性は傭兵経験がありそうで、本物の戦場にも出ているだろう。
金髪の女性は戦神マイリーの神官戦士であり、戦いの訓練を受けているだけでなく、神の奇跡たる神聖魔法も使う。
そして小柄な少女は、昨晩は気づかなかったが、おそらく盗賊だ。独特な足の運びからそれと分かる。
そんな三人が一緒に行動しているのは、不自然と言えば不自然だ。だが、たったひとつの言葉で、その疑問は霧消する。
彼女らは、冒険者なのだ。
それもかなりの経験を積んだ冒険者だろう。
そしてすべての冒険者が、善人とは限らないのである。
人気のない路地にリウイを誘い、広まった場所に来てから、娘たちは振り返った。
リウイは、無言で三人を見つめ返す。
彼のほうには、言うべきことはない。愛想笑いを浮かべる気もないし、慈悲を乞うつもりもない。なるようになれという気持ちだった。
「おまえ、リウイって言うんだってな」
小柄な女性がリウイの全身をじろじろ眺めながら言った。
どうしてそれをなどと、お決まりの台詞をリウイは言うつもりはなかった。同時に、彼女が盗賊であることを確信する。盗賊ギルドなら、人の素性ぐらい簡単に調べがつく。
「オーファン魔術師ギルドに属していて、最高導師カーウェス様の養子なのですね?」
金髪の神官戦士が、ゆっくりとした口調で言う。
訊ねているのではなく、確認している感じだった。
答えるまでもないので、リウイは無言でうなずいた。
「魔術師なんかに殴られるとはな……」
赤毛の女が地面に唾を吐いた。彼女の右目には昨晩、リウイが殴った痕が、見事な青痣となって残っている。
「不意をついたからな」
「それぐらいで殴られるなら、わたしは戦場で十度は死んでいる」
たいした自信だと、リウイは思った。
だが、自信なら彼も負けない。武器を使って戦った経験こそないが、殴りあいなら負けたことがない。ほとんどの相手を、拳一発で倒してきた。
「用があるから、誘ったんだろう。オレだって、それほど暇じゃないんだ」
どうやら喧嘩は避けられそうにもない。
リウイは覚悟を決めて、三人の動きに油断なく注意を払った。
「昨日の続きといきたいのは山々なのだがな……」
リウイの気配を悟ったらしく、女戦士がそう言って、金髪の神官戦士の肩を叩いた。
促されるように、彼女は一歩、進みでてきた。
「わたしの名前は、メリッサと言います。ラムリアースに生まれました」
メリッサと名乗った女性は、優雅な動作と丁寧な言葉遣いで挨拶を送ってきた。
間違いなく騎士階級の出身だと、リウイは思った。
おそらく上級騎士──貴族の出身だろう。
ラムリアースはアレクラスト大陸最古の歴史を誇る王国である。宮廷儀礼も洗練されている。オーファンの宮廷に出入りしている女官では、とても彼女の真似はできまい。
「不本意ながら、あなたが勇者であるとの啓示を神から賜りました。本日から、あなたに仕えさせていただきます」
「はあ?」
思いもかけぬ言葉に、つい間の抜けた声が出た。
「オレが、勇者だって……」
言葉を失って、メリッサという名の神官戦士の端正な顔を呆然と見つめる。
「啓示を受けたからには、勇者に仕えるのがわたしたちの信仰ですから……」
リウイの視線から逃れるように、金髪の神官戦士はそっぽを向く。
「仕えるなんて言われてもな……」
なんとか落ち着きを取り戻して、リウイは言った。
「いろいろと悪さはしているが、オレはこのまま魔術師を続けるつもりだ。それに魔術師が勇者になったなんて話は聞いたことがない。爺さんのように、勇者を助けることならできるかもしれないが……」
それにしても、今の実力ではとうてい無理だ。
「わたしだって、戸惑っているのです。しかし、神の啓示は絶対ですから」
よく見れば、メリッサは何かを耐えるように拳を握りしめている。あいかわらずリウイの顔を見ようともしない。どう考えても、好意は感じられない。
「残念だが、あんたの期待には応えられないな。オレは勇者になるつもりなんてない」
「いいえ、応えていただきます」
メリッサという女性は強硬だった。
信仰の問題だから、それは仕方ない。だが、突然、勇者だと言われてもどう振る舞えばいいのか考えもつかない。
予想もしなかった展開に、リウイはただ混乱するばかりであった。
「わたしたちは冒険者さ」
そんなリウイの様子を見て、女戦士が溜息まじりに言った。それから、思い出したように、ジーニと名乗った。
「わたしは、見てのとおりの戦士。メリッサは戦神マイリーに仕える神官戦士、そしてミレルは盗賊」
ミレルという名の小柄な女性が、不機嫌そうな顔で会釈した。
リウイの予想は、完全に当たっていたわけだ。
「そして、わたしたちは仲間を探していたんだ。魔術師か精霊使いのね」
その事情も、リウイには分かる。
冒険者はあらゆる状況に対処する必要がある。そのため、魔法使いは仲間として欠かせないのだ。神聖魔法の使い手たる司祭も魔法使いには違いないが、治癒呪文が主で攻撃呪文や補助呪文は充実していない。危険な仕事を成功させるつもりなら、魔術師か精霊使いが必要なのだ。
「女の魔法使いを探していたんだけどね」
ミレルという名の盗賊の少女が、吐き捨てるように言った。
少女の言葉に、女戦士のジーニが不承不承というようにうなずいた。
「ところが、おまえが勇者だという啓示をメリッサが受けてしまった。彼女はおまえに、仕えねばならない。だから、選択の余地がなくなってしまった……」
そこまで言われれば、彼女らが言わんとしていることが、リウイにも分かった。
「オレに仲間になれ、というのか?」
「不本意ですけれど……」
ようやくリウイの顔に目を向けて、神官戦士のメリッサが言った。
「オレが冒険者に?」
リウイはうつろな声で繰り返した。
冒険者になって古代王国の遺跡を探索する。頭のなかにはそういう考えもあった。
魔術師ギルドの同期生たちが期待したように、研究材料を探すためではない。リウイが欲しているのは遺跡に眠る報酬ではなく、待ち受ける〝危険〟のほうだった。精巧な罠や恐るべき怪物。
命懸けの冒険。だが、リウイにはそれがたまらなく魅力的に思えた。
仲間がいないだろうとあきらめていたのだが、その仲間たちが向こうからやってきた。
リウイは運命という言葉など信じていない。
だが、不思議な偶然というのは時にあるものだ。今がまさにそうであるように……
この偶然に乗るかどうかは、リウイ次第だった。それに、目の前の三人の表情を見る限り、断っても認めるつもりはなさそうだ。
脅迫されて従うのは、リウイの流儀ではない。だが、生まれて初めて、彼は脅迫されてもいい気分になっていた。
「しかたないな……」
リウイはたっぷり時間をかけてから、渋々と言ったように答えた。
恩というものは売っておいて損はないのだ。
三人の女たちは互いに顔を見合せたあと、複雑な面持ちでうなずいた。
安堵しているような、それでいて悔しそうな表情。彼女たちのほうも、リウイを歓迎しているわけではないのだ。
だが、彼女らの気持ちなど、リウイにはどうでもよかった。自分の心の奥底で燻っていたものが、ようやく出口を見つけだしたような気がした。酒でも、女でも、喧嘩でも、完全には得られることのなかった充足感……
冒険によって、それが得られるかどうかは分からない。
それは実際に試してみるしかないのだろう。そしてその機会を、リウイは手に入れた。
そう、リウイは冒険者になったのだ。