街並みを抜ける下校路の脇に小さな神社がある。
天抜神社
色の落ちた鳥居。古びた、小さな社。
社の割りには大きな境内には、樹木が生い茂っている。
うらさびしい雰囲気だ。先代の神主が亡くなってから跡を継ぐ者がなく、近所の老人がたまに掃除をするだけになっている。
そんな神社でも、いまだ完全に打ち捨てられていないのは、その独特な雰囲気が最近では貴重であるからだろう。
春は花見。夏は捕虫網を持った小学生。秋は虫の音と落葉。冬になれば雪が積もることもある。さすがは神の土地。誰もをなごませる雰囲気があるのだった。
実際、この神社では、はるかな昔から不思議なできごとが数多く起こってきた。ここで神に祈った戦国武将はわずかな手勢で大軍に勝利し、豊穣を祈れば必ずたわわに稲が実った。数知れないほどの恋人たちがここで愛を告げ、実らせた。実に霊験あらたかな神社だったのである。
ただし、良いことばかりではない。日本の神は祟る神であり、何か願いを叶えるためには捧げ物をしなければならない。
天抜神社も例外ではなかった。
この街の古い記録には願いをかなえるために神が何を求めたかがはっきりと記されていた。
神隠し──
なんの前触れなしに境内で人が姿を消す。そんな事件がいくつも記録されているのだ。
神隠しのあと、境内の御神木にかけられた注連縄が必ずちぎれていた、とも。
しかし、それも昔の話だ。
時代とともに、農村が街にかわり、住む人々がかわってゆくなか、神隠しも迷信のひとつとして忘れられていった。境内で人が姿を消す出来事は十数年に一度の割合でおこり続けていたが、それを神の御業と信じる人は消え失せた。どんな街でもたまにはおこりうる人間蒸発。行方不明。よっぽどの理由がなければ警察が真剣には捜査しようとはしない事件として扱われるようになっていた。現代の日常を生きるのに、ロマンチシズムは邪魔者でしかないからである。
昔とかわらぬたたずまいの中にあるものは神社だけだった。住民たちは、季節ごとにこの神社がみせてくれるたたずまいを楽しんでいた。
ここで、誰からも注目を浴びることのない者たちが十数年に一度の割りに消え失せることに決して気づくことなどなく。
あ、あとひとつ。
天抜神社の境内は、近くにある公立天抜高校の生徒たちにも良く利用されてます。
苛めを楽しむ格好の場所として。
今日もそうだった。
獲物はちょっと風変わりではあったが。
──どこからか、鈴の音が響いている。
いや、気のせいだろうか?