確か前の日には雨が降っていたと思った。水たまりに反射する日光を、かすかに覚えている。
朝から紺青の空が目にまぶしかった。かすかに吹く暖かな風は春先を思わせて、人の心を和ませる。東京に夏が来るまでの、ちょっとした休憩のような気がした。
少年はまだ子供で、少女も子供だった。彼の身体は今よりずっと小さくて、代わりに服が大きかった。少女もやはり小さかったが、彼より少し背が高かった。上下お揃いの赤い服が、雨上がりの草地に栄えていた。
住宅街の中、ブロック塀とアスファルトに囲まれた小さな空き地。このとき初めて二人は出会った。ここは貴重な遊び場で、子供たちには特別な場所であった。誰もが集まるささやかな聖地だが、お互い顔も知らなかった。
少年は、その日一番に遊びに来た。朝早かったから、いつもの子たちはいなかった。少女だけがただ一人、うずくまって泣いていた。
少年は戸惑った。女の子が誰で、一体どうして泣いているのか分からない。彼女は小さな訪問者に気づいたようだったが、それでもまだ幼い頰を濡らしている。左手に持った大きめのペンダントが、遠慮がちに光っていた。
彼は困惑しながら、話しかけた。
彼女は答えない。ただ悲しげなすすり泣きが聞こえてくる。
何度も訊いた。少年は活発であったが、同時に優しくもあった。泣いている女の子を、見捨てるような真似はしなかった。
かすかな、本当にかすかな声が、少女の口から漏れてきた。
彼女の家は、もうすぐ引っ越すことになっていた。両親は共働きで、いつも忙しそうにしている。ここに来たのもそれほど前のことではなく、荷ほどきも全部終わっていないのに、また遠くへ行くことになった。
それが少女は悲しかった。いつもいつも、友達ができる前にお引っ越しをしてしまう。寂しい思いばかりをした。もうどこにも行きたくない。
ようやく理由が分かったが、少年の当惑は消えなかった。彼だって少女と同じような子供だ。初めて会った女の子に、してやれることはほとんどない。
だが少年は、一つの決心をした。
そして彼は、少女を助けた。
願いをかなえたわけではない。ただ彼女を慰めただけだった。
だが女の子は泣くのをやめて、初めて笑顔を見せてくれた。
そして二人の出会いは終わった。彼女は遠くへと去っていき、二度と見ることはなかった。
これが少年の経験した、ずっと昔の出来事だった。
──なんて甘酸っぱい思い出は、はるか銀河の彼方まで飛び去って行き。
私立葵学園二年B組式森和樹は隠れていた。ただしかくれんぼではない。
あのときと同じような雨上がりだった。すでに梅雨は明けたので、日差しは結構強いものの、風のためかすごしやすい。だが彼の顔つきは、天気とはまるで違い、まったくに冴えてなかった。
朝からいいのは日和だけだ。起きた途端に湯飲み茶碗が音を立てて破裂したし、さっきは黒猫が二列縦隊で「黒猫のタンゴ」を歌いながら行進していた。おまけに近所の神社で鳥居が倒壊していた。
ところが、こんな不吉な出来事は彼の周囲だけで起こっているらしい。世間は実に明るくて、隠れている公園の樹々も、いつもより青く感じられる。特にここは緑が多いため、柔らかい日光に包まれて、全体が輝いているように感じられた。
もっとも彼に景色を満喫している余裕はない。今は椿の茂みに身を潜め、必死に気配を消そうとしていた。
視界の隅を通学途中の高校生たちが、軽やかな足取りで通りすぎていく。近くに学校があるためか、走ったりはしていない。男女混じったグループは、陽気に誘われるように喋り、笑いながら歩いている。空色の制服に包まれた身体が、楽しそうに跳ねていた。和樹と同じ、葵学園の生徒たちであった。
何人かの頭上には、金色の光点が浮遊していた。精霊でも召還したのだろう。いかにも魔術師候補である葵学園生らしい。魔法社会である現代日本では、ありふれた光景だ。
彼らが過ぎ去ってからしばらく、和樹は身体を動かした。繁みがかすかな音を立てる。灌木をかき分けて、頭だけ出した。
瞳をしきりに左右へ動かす。彼は生徒たちが通り過ぎたのを確認すると、四つん這いになって繁みから抜け出た。
中腰になって膝の土と肩についた葉を払い、ゆっくりと立ち上がる。小動物が天敵を警戒するように、しきりと周囲に注意を払った。
和樹は恐る恐る歩道に出た。登校する生徒たちの姿は遠くに去り、今は誰もいない。
鞄を小脇に抱え、いつでも走り出せるようにする。警戒は怠りないつもりであった。だが、もともと運動は得意ではない。ここで襲われても逃げ切る自信はなかった。
本当なら魔法で姿を消したり、空に逃げる。魔力の高い者なら瞬間移動も使うはずだ。しかし和樹は魔法学全般、特に実践が苦手であった。使えないことはないのだが、色々理由があり、自ら封じている。この日本で、これはかなり致命的であった。
もっとも、今は気にしても仕方がない。自分を罵っている場合ではなかった。
注意深くならなければならないのだ。発見されてはいけない。ウサギのように臆病に、ヘビのように狡猾に。たとえチキンと罵られようと、あたかも路上に捨てられたスーパーのレシートのごとく、密かに生きなければならない。
せわしなく左右に気を配る。誰かがつけているような気配はなかった。そろそろ警戒しなくても大丈夫……と思う。
緊張を解いた。なにもおこらない。
ほっとした。なんで一介の高校生が、朝から諜報員みたいな真似をしなければならないのかと嘆きたくなるが、これにも理由があった。人によっては羨ましくなるが、彼にとってはそれなりに深刻な。
和樹は肩の力を抜き、歩こうとした。
「和樹さん」
「うわーっ」
いきなり声をかけられ、和樹は跳び上がった。
振り向くと、長い髪の少女が立っていた。
彼より少し背の低い、なかなか魅力的な少女である。清潔感のある髪を肩まで垂らしている。大き目の瞳が美しく、笑顔の似合いそうな顔立ちだった。
ただ今は、唇を結びまなじりを吊り上げている。
「なにしてるんですか」
不機嫌そうな声が飛んできた。
「いや、なにって、学校に行く途中」
おどおどしながら、和樹は答える。
「ふーん。そうですか」
少女はまるで納得していない。不満げな声で続ける。
「じゃあなんで、わたしと一緒に行ってくれないんですか」
「え……。それは……その、夕菜寝ていたみたいだし」
「六時半に起きました。顔も洗ってご飯も食べて歯も磨いて、寮の玄関で待ってました」
ぶすっとした顔のまま、彼女は続ける。
「そうしたら、和樹さんは出てこなくて、それでも待っていたら、遠くの窓から出てきました。鞄を投げて、こそこそしながら塀を越えていっちゃいました。しかもいつもの通学路を避けて、誰も行かないような狭い道を通って、公園に隠れちゃいました。どうしてですか。わたし、ずっとずーっと、待っていたんですよ! 昨日、一緒に学校行きましょうって約束したじゃないですか!」
少女の名は宮間夕菜という。和樹と同じ、二年B組の同級生である。だが彼女自身は、ただの同級生とは思っていない。
「いや……だって、ほら、ねえ」
和樹はとにかくなにかを言って、少女の怒りを避けようとした。が、ちゃんとした言葉にならない。
彼女は余計に不信感を募らせたようであった。
「どうしてこそこそするんですか」
明らかに尋問口調だ。なじっている。
「だって、このところ誰かに見張られている気がして」
「誰かが尾行してるって言うんですか。どこにいるんですか」
目の前にもいるよ、とはさすがに言えなかった。
言葉を探していると、夕菜がいっそう不機嫌さを増していた。
「これじゃあ、一緒に暮らしている意味がありません」
「暮らしてないだろ!」
和樹は慌てた。人聞きが悪いどころではない。誰か聞いていないかどうか、急いであたりを見回した。
「どうしてそういうことを言うんですか。同じ屋根の下です」
「部屋が隣接しているだけじゃないか!」
「心は一緒です」
「僕らまだ高校生だよ、高校生!」
「関係ないです」
「あるある。すごくある!」
「普通の友達じゃないんですよ」
「だからそれはやめろって!」
「そんな……わたしの気持ちはどうなるんですか!」
ついに夕菜は、目を潤ませて訴えた。その真摯な瞳に、つい気圧された。
「わたしたちの仲は、お父様も公認しています!」
「……公認っても、一方的にだもんなあ……」
和樹はつぶやき、途方に暮れた。
あのとき公園で泣いていた少女──夕菜と再び出会ったのは、それほど昔のことではない。そもそも彼女は、葵学園に転校してきたばかりなのだ。
出会いは突然だった。ある日自室に帰ってみたら、夕菜が三つ指ついて出迎えてきたのだ。それだけでも「夢か手の込んだいたずらか」となるところに、彼女は「許嫁で夫婦」と言い出した。
和樹は腰を抜かさんばかりに驚いた。もちろん覚えはない。なにしろ宮間家と言えば、日本でも名門である。骨の髄まで雑種の自分となんの関係があるのだろうか。
よくよく聞いてみると、彼女の両親と祖父祖母が「式森和樹を婿にしてこい」と送り出したのだという。
和樹ははっきり言って、地味をイラストにして目鼻をつけたような人間である。わざわざ名指しで婿にするほど特徴があるとは思えない。それは自分でもよく分かっている。だから、なにかの間違いだと思った。
しかし彼女は間違いではないと言い張った。しかも「和樹さんでなくちゃ駄目なんです」と断言した。
話によると、どうも和樹の肉体には秘密があるらしく、夕菜はそれを手に入れるために実家から命ぜられてきたらしい。つまり「身体が目当て」なのである。
当初、和樹は腹を立てた。種付けの馬じゃあるまいし、勝手に決めないで欲しい。向こうの方が金になる分、まだ恵まれている。
だが夕菜が押し掛けてきた理由はそれだけではなかった。あのとき、和樹が彼女を助けたときに、「大きくなったら、お嫁さんになってあげる」と約束していたのだ。それを果たしたいとう。
この告白に和樹は揺れた。自分は忘れていたのだが、夕菜は真剣であり、本気だった。
紆余曲折の末、彼は折れた。
折れたとはいえ、いくらなんでも高校生で夫婦はまずい。他人の目もあるし、倫理的な問題もある。そもそも、役所への届けとかはどうなるのだ。
その後、和樹を巡る様々な騒動は頻発し、彼は百歳以上生きていてもまずないだろう、という経験をした。そして和樹と夕菜は「つきあっているような、そうでないような」関係となった。
ところが彼女は、この中途半端な状態が好ましくないらしい。
「昔の和樹さんは、もっと優しい人でした」
などと言う。
「昔って、いつ」
「小さいときです」
「覚えてないよ……」
「ほら! それがすごく冷たいんです」
「だってまだ小学生だったじゃないか」
「幼稚園です! どうしてそうなんですか……」
彼女は涙声であった。言葉を詰まらせている。
「ひどすぎます……」
ついに顔を覆った。すすり泣きが聞こえてくる。
泣きたいのは和樹の方であった。なんだって朝から姿を隠したり、女の子から詰問されなければならないのか。まだ学校に着いてもいないのに。
天を仰いだ。この世に神はいないのか。きっといないのだろう。あるいはアルバイトで悪魔もやっていて、今は勤務時間内なのだ。お願いいたします。ぜひすぐにでも、そのバイトをやめてください。きっと賃金安いはずです。
顔を戻す。まだ夕菜はうつむいて泣いていた。神は悪魔の真似をするのをやめてくれない。そんなに実入りがいいのだろうか。
結局、自分でどうにかするしかないんだよな……。
世の中は無情であった。和樹には特に。
どうにかして慰めようと、肩に手をかけた。
と、背後に異様な雰囲気がした。誰かがいる。
振り向こうとしたが、できなかった。
背筋がぞくぞくした。首のあたりの毛が逆立つ。ひんやりとしていた。
誰かが自分を捉えている。猛禽類が小動物を狙っているような、あるいは肉食獣が爛々と光る双眸で睨みつけているような、そんな感触。
実はこの気配、彼はよく知っていた。
ぐいっと引っ張られた。
「ああー、和樹! こんなところにいたのね!」
女性の声。力ずくで引きずられた。
視界がくるりと回った。気がついたら、地面に押し倒されていた。
目の前には、女性の顔があった。
豊かな髪。薄い唇。ちょっときつめだが、女優のような顔立ち。一見かなり年上のようだが、葵学園の制服を着ていた。
「く……玖里子さん……」
風椿玖里子は、カモを見つけたホステスのように、にやりとした。
「もー、校門で待っていたのに。いつまでたってもこないんだからあ。探しちゃったじゃない」
「な、なんで待ってたんですか」
「決まってるでしょ。あたしとあんたは結ばれる運命にあるのよ。学校なんか行ってる場合じゃないじゃない。だからあんたが来たら、無理矢理拉致して、どこか人気のないところに連れて行って、泣こうが叫ぼうが力ずくで……」
「わーっ、なんでそうなるんですかーっ!」
悲鳴を上げた。玖里子も夕菜と同じく身体目当ての女の子だが、腕力にものを言わそう、という点に違いがあった。昼夜問わず、隙あらば和樹を押し倒そうとする。やり方が犯罪じみているのだ。おまけに実家が資産家なので、あらゆる権力を使ってものにしようとしていた。
彼女の顔が、息がかかるくらいに迫ってきた。
「あん。和樹、可愛いわよ」
ぞくりとするくらいの色気がある。美貌には定評があった。文化祭のミスコンに出ると優勝が決まってしまうので、出場永久禁止になっているとの噂すらあった。
「んー、最高。食べちゃいたい。ていうか、食べる」
和樹は魅力に惑わされないよう、懸命に声を張り上げた。
「どうしてそう下品なんですか!」
「下品だなんて失礼ね。欲望に忠実と言ってちょうだい」
「忠実じゃなくていいですよう!」
「あら、太古の昔から行われてきた営みにケチをつけるのね。人類はこうやって発展してきたのよ。三大欲に背を向けるのは、進化に逆らう罪深い行為だわ」
「そんなの屁理屈じゃないですか!」
彼女は、「バレたか」と言った。
「ま、あんたも楽しむわけだし」
「やだー、楽しみたくなーい!」
仰向けのまま、ずるずると逃げだそうとした。が、彼女ものしかかったまま、公道を動き回った。
「あきらめなさい。どうせいつかはこうなるんだから」
「そんな。ここ外だし! 道路だし!」
おまけに朝だ。たまたま人通りがないが、いずれ誰かが通りかかる。そうすれば警察を呼ばれて、公然猥褻だかなんだかで、暗く寂しいところに連れて行かれるかもしれない。
しかし玖里子は、まったく意に介してなかった。
「外って、燃えない?」
「うわーっ!」
絶体絶命であった。純潔とか、心の中の大切なものとかが、まとめて失われそうな気配である。
そのとき、ふっと、玖里子の姿が消失した。
圧力がなくなったので、和樹も頭を上げる。そろそろと立ち上がった。
すぐ側で、夕菜が玖里子と向かい合っていた。
「……どうして、いつもいつも和樹さんに手を出そうとするんですか」
彼女は無理矢理玖里子を立たせたのか、手首をほぐしている。先ほどまでの涙は噓のように消え、きっとした表情である。
玖里子は前髪をぱっと跳ね上げた。
「んー、だって夕菜ちゃん泣いてたし。あれは、『もうわたしはあきらめます』って合図かなーって」
「都合のいい解釈をしないでください。わたしと和樹さんは、なにがあっても離れないんですから」
夕菜はきっぱりと言い切った。
「でも和樹は、離れたがっていたわよ」
「そんなはずありません。玖里子さんみたいに、強引な人が誘惑するからです」
「あなたも結構都合いいわね」
呆れたような玖里子。
「でも、あたしもそう簡単に手を引きたくないのよ。商売絡んでいるし」
彼女の実家は、新興の富豪である。同族にも拘わらず冒険的な経営で、財界に新風を巻き起こしていた。
「和樹の血は重要なの」
「そういう、よこしまな考えがいけないんです」
夕菜は顔を紅潮させた。
「わたしなんか、ずっとずっと前から、和樹さんのお嫁さんになるって決めていたんですから」
「思いつめて本気になっちゃうのが、夕菜ちゃんよねえ」
玖里子はくすくすと笑った。
「でもま、それくらいの方が、あたしも張り合いがあるってことか。勝負する?」
玖里子が軽く右手を挙げる。指先にきらきらした粉のようなものがまとわりつき、ゆっくりと回転した。
精霊魔法である。小声で契約のための呪文を唱えている。玖里子は元々霊符を使った魔法が得意だが、他の術を知らないわけではない。それに葵学園は魔力の大きい生徒を集めたエリート高校であり、彼女はトップクラスの成績を誇っていた。
金色の粉は、よく見るとそれぞれ意志を持って独自に動いている。さすがにこんな場所なので名もない精霊たちを集めたようだが、それでも攻撃されればただではすまない。
「どうする夕菜ちゃん。ここでやるの? あたしはいいわよ」
「負けません!」
夕菜は引かなかった。彼女は逆に腕を大きく掲げる。
「風!」
竜巻のような精霊たちが発生した。空気が渦となって音を立てる。風圧が玖里子だけではなく、和樹の顔面をも襲った。
玖里子とは逆に、夕菜は精霊魔法を得意としていた。彼女もまた葵学園の生徒にふさわしく、高い魔力の持ち主であった。
それぞれ、魔力を高めて睨み合いをしていた。心なしか、気温が下がったようにすら感じる。
気がつくと、和樹は二人に挟まれていた。
「あ……ちょっと」
背筋に汗が流れる。
夕菜は和樹のことを無視したかのごとく、竜巻を操つる。
「覚悟!」
「カマン」
玖里子が人差し指をちょいちょいと動かす。同時に金色の精霊たちが防壁のように広がった。そこに激昂した夕菜の竜巻が襲いかかる。
二人の間で魔法と魔法がぶつかりあい、爆発した。
「ひええっ」
和樹は寸前で伏せた。運動が苦手のわりには素早い行動であったが、完全に避けることはできなかった。空気が破裂した余波を受け、身体が持ち上がり、跳ばされる。
「うわあああっ」
くるくる回転した。そのままふらふら動き回る。出来損ないの地球ゴマみたいになりながら、どすんとぶつかる。そこで止まった。
「……え?」
ブロック塀に衝突した、のではなかった。柔らかい感触がある。布団だと思ったが、それにしては暖かい。
ずり落ちそうになるのをなんとか防ぎ、顔を上げる。
冷たい瞳が見下ろしていた。
日本人形みたいに髪をそろえた少女だった。肌も白く、なめらかだった。よく見ると、背はあまり高くない。
和樹はバランスを崩しながら、よりによってその胸に顔を埋めていた。
「……ほう」
明らかに、怒りの混じった声がした。
「朝っぱらの痴話喧嘩、ご苦労なことだと思ったが、なにか? 私に対する嫌がらせだったのか?」
「り、凜ちゃん……そんなことない……よ」
和樹は顔を引きつらせながら答えた。
彼女は一年生の神城凜。二人と同じく、和樹を婿にしろと実家から言われている少女である。ただし夕菜や玖里子と、決定的に違うところがあった。
「お前という男には、軟弱という言葉すらもったいないようだ」
怒気に満ちた、静かな声だった。彼女は和樹のことが大嫌いなのである。
「偶然じゃないか。そう、偶然」
「偶然とやらは私にぶつかるようになっているのか」
「確率からいけば、あり得ない話じゃない……と思う」
「狙ったとしか思えん」
「いや、凜ちゃんの胸なんかに興味はないし」
やばい、余計なことを、と思ったときには、少女の表情は変わっていた。
「……多少は男らしいところがあるのではと思ったときもあったが、やはり期待するだけ無駄だったようだな」
彼女は背中の荷物を下ろした。
取り出したのは黒鞘に納められた日本刀であった。ゆっくりと鯉口を切り、抜く。
ぞっとした。二尺二寸はある真剣である。小柄な彼女にはやや不釣り合いだが、迫力は桁違いだ。
凜は学校では生物部に属していて、およそ武道には縁がない。だが、その実腕前は一級で、剣道部から助っ人を頼まれることもしばしばであった。
「その性根、叩き直してくれる」
「いや、ちょっと待って。誤解っていうか」
とんでもない話であった。確かに胸に顔を埋めたし、いい思いをしたと言えなくもないが、代償がこれでは。
しかし、彼女は許してくれそうにない。
「峰打ちにしてやる。骨折くらいですむはずだ」
「うわーっ」
この日何度かの悲鳴を上げて逃げようとした。背後から、凜の刃が迫る。
「覚悟!」
「凜さん!」
ようやく気がついたのか、夕菜が立ちはだかった。
「和樹さんになにをする気ですか」
「知れたこと。式森を倒します」
「そうはいきません。大事な男性を傷つけるわけにはいかないんです!」
「……夕菜さんも、同類とみなしますが」
「まずわたしを倒してください」
「ならば!」
白刃が走った。曲線の軌道を残して、和樹と夕菜に襲いかかる。
夕菜の精霊たちが、その刃に絡みつく。抵抗となって威力を落とした。さらに空気の層がクッションとなって、はじき返す。
「はっ!」
夕菜が気合いを入れる。小型の竜巻が凜を下方から狙った。
彼女は日本刀に力を込めた。魔力を受け、虹色に輝く。そのまま竜巻にぶつけた。破裂音がして、空気が四散する。
夕菜の前には精霊たちが盾となり、爆発を防いだ。和樹にはそんな気の利いたものがなく、またも跳ばされた。
「ああっ、和樹ったら、結局あたしの元に来るのね」
くるくる回った先は玖里子だった。夕菜が目ざとく見つける。
「駄目ですってば!」
片手で凜と戦いながら、もう片手で玖里子に精霊を飛ばす。
「きゃっ。和樹、助けて」
玖里子は飛んできた和樹の襟首を摑んだ。精霊に投げつける。
ボンと音がして、またもあらぬ方向へ弾かれた。
「こら、こっちに来るな」
凜が近づいてきた和樹を蹴飛ばした。
「ひどい、なんてことをするんですか」
と言いながら、夕菜は和樹を引き寄せようとした。しかし、戦っている最中なのでなかなかうまくいかない。失敗して、指先で弾いた。また凜の方へ行く。
「だから邪魔だ」
蹴られる。
「あん。盾になって」
投げられる。
「大丈夫ですか!?」
と言いつつ失敗。
和樹は三人の間を、まるでピンボールのように、あちこち跳ね返っていた。頭がシェーカーのように揺さぶられ、脳がとろけていくような気がする。
三人はなおも戦闘をやめない。薄れゆく意識の中で、和樹は思った。
神様、聞こえますか。アルバイトで悪魔をやっているなんて言ってすみません。きっと本職だったんですね。そうでなければ、こんなに手際が良くないはずですから──
とどめとばかり、誰かの放った魔法で爆発が起こった。
○
和樹たちからやや離れたところにある、小高い丘の上。
「ふん……」
つぶやいて、女性はカールツァイスの刻印が押された双眼鏡をおろした。
背の高い、金髪の女性だ。切れ長の眼で前方を眺めている。モデルばりの美貌と言ってもいい。そろそろ夏だというのに、クリーム色のロングコートを着ていた。
平日の昼間に、双眼鏡を片手に丘に登っている女性の姿は、奇妙と言えば奇妙であった。だがここは樹木が密集しており、よほど眼をこらさない限り、外から見つけられる恐れはない。そのためか、彼女は和樹たちの監視に集中していた。
「どうだ」
隣の男が訊く。無精ひげを生やした、陰気な感じのする青年である。彼女とは対照的に、背は低い。
「馬鹿なことをしている。高校生にしては子供っぽい。あれなら二キロ先からでも感知できる。監視の必要もなかった」
「どれどれ」
男も手にした双眼鏡で覗いた。本来、監視・尾行には遠方可視のような魔術が使われるが、それには多大な精神力と集中が必要であった。しかも油断すると精度が落ちることが多い。こと日常的な見張りに関しては、双眼鏡はまだまだ有効な手段であった。
「ほほっ」
笑い声が漏れた。
「男が子猫ちゃん三人に小突き回されてるじゃねえか。誰だあれは」
「フロインディンだ」
「へっ、女友達ときたか。ありゃあどう見てもSMだぜ。マゾっ気のある奴にはたまらねえんじゃねえか」
彼女は男の言葉を無視して、双眼鏡を使った。
レンズの向こうでは、和樹が三人に振り回されていた。ときおり魔法が使われるのか、小爆発が起こっている。
「よくこんなところでやってるな。魔力の無駄遣いじゃねえか」
「まだ子供だ。使いどころが分かっていないのだろう」
魔力は個人によって差があり、肉体と精神を酷使する。そのため、普通は滅多なことでは使わなかった。
「……にしても、日本の女はケツの形がいいねえ」
女性はわずかに顔をしかめた。男の言葉の中に、下卑た響きを感じ取っていた。
「日本人は年齢に比べてガキっぽく見えるっていうが、俺はまったくかまわねえ。こっちの方が好みだ」
「…………」
「ディステル、見てみろよ。あの真ん中の女、なんて言った、ユウナか。いいケツしてるじゃねえか。涎が出そうだ。熟れる前の女には、たまらねえ匂いがあるからな」
金髪の女性、ディステルは答えなかった。無言で軽蔑を表していた。
男はその雰囲気を感じたのか、口の端を曲げた。
「お高く止まるなよ。監視なんて仕事は、これくらい楽しみがなきゃやってられねえ」
「監視だけが任務ではないはずだが、ヴィペール」
「そいつは先の話だ。何日もこうやって見張ってみろよ。目の前に女が三人だ。ふるいつきたくなるってもんだろうが」
ヴィペールは、なおも双眼鏡で夕菜たちを見つめた。舌で何度も、唇をなめ回す。
「くそっ、我慢できねえ。思い出すぜ、半年前のイスタンブールをよ。あれは最高だった」
半年前、ディステルはまだこの男とは組んでいなかったが、噂は聞いていた。イスタンブールを訪れた女性二人組の観光客に「眠ってもらう」任務だったはずだ。簡単なことだったが、連れてこられた二人は、どちらも精神的ショックを受けて使い物にならなくなっていた。身体に傷があったので、ヴィペールがなにをしたか誰にでも推察できた。だが本人は「事故があった」としらを切り通し、そのうちうやむやになった。
彼が任務に加わると知ったとき、ディステルはあからさまに嫌悪感を示した。優秀な男かも知れないが、チームが崩れる可能性があった。しかし押し切られる形で、加えなければならなかった。
「あいつら無防備もいいところだぜ。ここでやっちまおう。待つ必要なんかねえ」
「駄目だ」
ディステルは感情のこもらない声で言った。
「まだ工作が終わっていない。いま実行に移したら騒ぎになる」
「けっ、マスコミと警察の根回しくらい、さっさとやれってんだ」
「じきに完了する。それまでこっちはじっとしていればいい」
彼女は双眼鏡をしまった。騒ぎは収まったのか、和樹と少女三人は、葵学園に向かっていた。
「いくぞ」
「なんでえ、お楽しみは終わりかよ」
ヴィペールは鼻を鳴らした。
「この国で外国人は目立つ」
「慎重なこった」
そう言いながら、ヴィペールは丘を降りていった。厚底の靴──鉄板でも入っているのだろう──が小石を踏みしめる音が響く。
少し歩いただけで、彼は振り返った。
「なんでえ、戻らねえのかよ」
ディステルは立ち止まって、今いた場所を見ていた。丘の向こう、林に隠れた住宅街をじっと睨んだ。
「──誰か」
「はん?」
「誰か、我々の他に任務に就いていたか」
「なに言ってんだ。ここは俺とお前だけだぜ。フィアールカはもう潜入している。オグロは例の場所で工作の真っ最中だ」
ヴィペールが怪訝な顔をする。
「なんか見えたのか」
「いや……気配がしたのだが……誰かに見られている」
「へーっ、こいつは珍しい。天下の『血まみれディステル』が心配性かよ」
軽口は聞き流した。ほんの一瞬だが、かすかに気配を捕らえた。痕跡を残すのを防ぐため不可視の結界を張らなかったが、裏目に出たかもしれない。
気力を集中する。が、もはや捉えられなかった。誰かがこっちを注視している感もない。あるいは、気のせいだったのか。
いらいらしたように、ヴィペールが言う。
「行くんじゃねえのか。そこに突っ立ってるほうが、よっぽどやべえだろうが」
「……そうだな」
彼女は歩き出した。
丘を降りる。そこに車が止めてあった。乗ろうとして、今度は二人とも足を止めた。向こうから、自転車に乗った警官が近づいてきていた。
急いでいる様子はない。ここら一帯を巡回しているようだ。あるいは「高校生が魔力を使って喧嘩をしている」と通報でもあったのか。
自転車はブレーキをきしませて止まり、小太りの巡査長が降りた。ちら、と車を見る。
「この車、あんたらの?」
横柄な口調で訊いてくる。ディステルは笑顔を浮かべながら答えた。
「ええ。私の車です」
日本語で答える。特訓で習得した発音に自信はあった。年輩の警官は、驚いて目を丸くしていた。
「あ、ああ、そう」
驚きを隠したいのか、よりいっそう車を眺め始めた。
「このところ、車の盗難事件が多くてねえ」
警官が聞こえよがしに言った。
彼女は黙っていた。ナンバーは本物だし、車検証も免許証も持っている。不審なところはない。
「駄目だよこんなところに止めちゃ。免許証見せて。ここらは学校が多いから、変なやつも多いんだ。犯罪も最近増えているから、ちょっと交番まで……」
警官はそれ以上言うことができなかった。
いきなり顔を引きつらせ、苦悶の形相を浮かべだした。しきりと胸元をかきむしっている。
眼球が飛び出さんばかりになり、舌も突き出ている。喉が笛のように音を立てた。そのまま前のめりになり、倒れる。
確かめるまでもない。警官は絶命していた。
背後にはヴィペールが立っていた。
「ちょれえ。真空を使えばこんなもんよ」
楽しげな口調に、ディステルは顔をしかめる。
「なんで殺した」
「なんではねえだろう」
彼はにやにや笑っていた。
「このままだったら、交番まで連れて行かれたぜ。めんどくせえことになったろう」
「偽装は完璧だ。余計なことをする必要はない」
「甘えこと言ってんじゃねえよ。もうすぐ実行だぜ。警官に捕まる方が余計じゃねえか。それより、こいつを片づけてくれ」
ヴィペールが、息絶えた警官を見下ろした。
「この上、私に手間をかけさせる気か」
「ここに放っておく気か? こういうのはあんたが得意だ。いまさら嫌になったわけでもあるまい。殺しも処理も、たくさんこなしたはずだ」
彼はおかしそうに顔をゆがめた。
「びびったか? やめろよ。悪い冗談だ」
言葉とは裏腹に、目は笑っていない。値踏みするように、突き刺すようにディステルを見ていた。その視線は、蝮の通り名そのものであった。
「さ、やってくれよ。燃やせ」
屈したりはしない。この変質者の尻拭いまでさせられるのはごめんだ。だが、警官の死体を放置するわけにもいかなかった。
彼女は口の中で、小さく呪文を唱えた。