第一章


 たしか前の日には雨がっていたと思った。水たまりにはんしやする日光を、かすかにおぼえている。

 朝からこんじようの空が目にまぶしかった。かすかにあたたかな風は春先を思わせて、人の心をなごませる。東京に夏が来るまでの、ちょっとしたきゆうけいのような気がした。

 少年はまだどもで、少女も子供だった。彼の身体からだは今よりずっと小さくて、代わりにふくが大きかった。少女もやはり小さかったが、彼より少し背が高かった。上下おそろいの赤い服が、雨上がりの草地にえていた。

 じゆうたくがいの中、ブロックべいとアスファルトにかこまれた小さな。このとき初めて二人は出会った。ここはちような遊び場で、子供たちにはとくべつな場所であった。だれもが集まるささやかなせいだが、おたがい顔も知らなかった。

 少年は、その日一番に遊びに来た。朝早かったから、いつもの子たちはいなかった。少女だけがただ一人、うずくまって泣いていた。

 少年はまどった。女の子が誰で、一体どうして泣いているのか分からない。彼女は小さなほうもんしやに気づいたようだったが、それでもまだおさなほほらしている。左手に持った大きめのペンダントが、えんりよがちに光っていた。

 彼はこんわくしながら、話しかけた。

 彼女は答えない。ただ悲しげなすすり泣きが聞こえてくる。

 何度もいた。少年はかつぱつであったが、同時にやさしくもあった。泣いている女の子を、てるようなはしなかった。

 かすかな、本当にかすかな声が、少女の口かられてきた。

 彼女の家は、もうすぐ引っすことになっていた。両親はともばたらきで、いつもいそがしそうにしている。ここに来たのもそれほど前のことではなく、ほどきも全部終わっていないのに、また遠くへ行くことになった。

 それが少女は悲しかった。いつもいつも、友達ができる前にお引っ越しをしてしまう。さびしい思いばかりをした。もうどこにも行きたくない。

 ようやく理由が分かったが、少年のとうわくは消えなかった。彼だって少女と同じような子供だ。初めて会った女の子に、してやれることはほとんどない。

 だが少年は、一つの決心をした。

 そして彼は、少女を助けた。

 願いをかなえたわけではない。ただ彼女をなぐさめただけだった。

 だが女の子は泣くのをやめて、初めて笑顔を見せてくれた。

 そして二人の出会いは終わった。彼女は遠くへと去っていき、二度と見ることはなかった。

 これが少年のけいけんした、ずっと昔のごとだった。



 ──なんてあまっぱい思い出は、はるかぎん彼方かなたまで飛び去って行き。



 私立あおいがくえん二年B組しきもりかずかくれていた。ただしかくれんぼではない。

 あのときと同じような雨上がりだった。すでには明けたので、しはけつこう強いものの、風のためかすごしやすい。だが彼の顔つきは、天気とはまるでちがい、まったくにえてなかった。

 朝からいいのは日和ひよりだけだ。起きたたんぢやわんが音を立ててれつしたし、さっきはくろねこが二列じゆうたいで「黒猫のタンゴ」を歌いながらこうしんしていた。おまけに近所のじんじやとりとうかいしていた。

 ところが、こんなきつな出来事は彼のしゆうだけで起こっているらしい。けんは実に明るくて、かくれている公園のも、いつもより青く感じられる。特にここは緑が多いため、やわらかいにつこうつつまれて、全体がかがやいているように感じられた。

 もっとも彼にしきまんきつしているゆうはない。今は椿つばきしげみに身をひそめ、ひつはいを消そうとしていた。

 かいすみを通学ちゆうの高校生たちが、かろやかな足取りで通りすぎていく。近くに学校があるためか、走ったりはしていない。男女じったグループは、ようさそわれるようにしやべり、笑いながら歩いている。そらいろせいふくに包まれた身体からだが、楽しそうにねていた。和樹と同じ、葵学園の生徒たちであった。

 何人かの頭上には、金色のこうてんゆうしていた。せいれいでもしようかんしたのだろう。いかにもじゆつこうである葵学園生らしい。魔法社会である現代日本では、ありふれた光景だ。

 彼らが過ぎ去ってからしばらく、和樹は身体を動かした。しげみがかすかな音を立てる。かんぼくをかき分けて、頭だけ出した。

 ひとみをしきりに左右へ動かす。彼は生徒たちが通り過ぎたのを確認すると、つんいになって繁みからけ出た。

 ちゆうごしになってひざの土とかたについたはらい、ゆっくりと立ち上がる。小動物がてんてきけいかいするように、しきりとしゆうに注意を払った。

 和樹はおそる恐る歩道に出た。登校する生徒たちの姿すがたは遠くに去り、今は誰もいない。

 かばんわきかかえ、いつでも走り出せるようにする。警戒はおこたりないつもりであった。だが、もともとうんどうは得意ではない。ここでおそわれてもげ切るしんはなかった。

 本当なら魔法で姿を消したり、空に逃げる。魔力の高い者ならしゆんかんどうも使うはずだ。しかし和樹は魔法学ぜんぱん、特にじつせんにがであった。使えないことはないのだが、色々理由があり、自らふうじている。この日本で、これはかなりめいてきであった。

 もっとも、今は気にしてもかたがない。自分をののしっている場合ではなかった。

 注意深くならなければならないのだ。発見されてはいけない。ウサギのようにおくびように、ヘビのようにこうかつに。たとえチキンと罵られようと、あたかもじようてられたスーパーのレシートのごとく、ひそかに生きなければならない。

 せわしなく左右に気をくばる。誰かがつけているような気配はなかった。そろそろ警戒しなくてもだいじよう……と思う。

 きんちよういた。なにもおこらない。

 ほっとした。なんでいつかいの高校生が、朝からちようほういんみたいなをしなければならないのかとなげきたくなるが、これにも理由があった。人によってはうらやましくなるが、彼にとってはそれなりにしんこくな。

 和樹はかたの力をき、歩こうとした。

「和樹さん」

「うわーっ」

 いきなり声をかけられ、和樹はび上がった。

 り向くと、長いかみの少女が立っていた。

 彼より少し背の低い、なかなかりよくてきな少女である。せいけつかんのある髪を肩までらしている。大き目のひとみが美しく、笑顔の似合いそうな顔立ちだった。

 ただ今は、くちびるを結びまなじりをり上げている。

「なにしてるんですか」

 げんそうな声が飛んできた。

「いや、なにって、学校に行くちゆう

 おどおどしながら、和樹は答える。

「ふーん。そうですか」

 少女はまるでなつとくしていない。不満げな声で続ける。

「じゃあなんで、わたしといつしよに行ってくれないんですか」

「え……。それは……その、ゆうていたみたいだし」

「六時半に起きました。顔もあらってごはんも食べて歯もみがいて、りようげんかんで待ってました」

 ぶすっとした顔のまま、彼女は続ける。

「そうしたら、和樹さんは出てこなくて、それでも待っていたら、遠くの窓から出てきました。かばんを投げて、こそこそしながらへいえていっちゃいました。しかもいつもの通学路をけて、誰も行かないようなせまい道を通って、公園にかくれちゃいました。どうしてですか。わたし、ずっとずーっと、待っていたんですよ! 昨日きのういつしよに学校行きましょうってやくそくしたじゃないですか!」

 少女の名はみや夕菜という。和樹と同じ、二年B組のどうきゆうせいである。だが彼女自身は、ただの同級生とは思っていない。

「いや……だって、ほら、ねえ」

 和樹はとにかくなにかを言って、少女のいかりをけようとした。が、ちゃんとした言葉にならない。

 彼女はけいしんかんつのらせたようであった。

「どうしてこそこそするんですか」

 明らかにじんもん調ちようだ。なじっている。

「だって、このところ誰かにられている気がして」

「誰かがこうしてるって言うんですか。どこにいるんですか」

 目の前にもいるよ、とはさすがに言えなかった。

 言葉を探していると、夕菜がいっそうげんさをしていた。

「これじゃあ、一緒にらしている意味がありません」

「暮らしてないだろ!」

 和樹はあわてた。人聞きが悪いどころではない。誰か聞いていないかどうか、急いであたりを見回した。

「どうしてそういうことを言うんですか。同じ屋根の下です」

りんせつしているだけじゃないか!」

「心は一緒です」

「僕らまだ高校生だよ、高校生!」

「関係ないです」

「あるある。すごくある!」

つうの友達じゃないんですよ」

「だからそれはやめろって!」

「そんな……わたしの気持ちはどうなるんですか!」

 ついに夕菜は、目をうるませてうつたえた。そのしんひとみに、ついされた。

「わたしたちの仲は、お父様もこうにんしています!」

「……公認っても、一方的にだもんなあ……」

 和樹はつぶやき、ほうに暮れた。

 あのとき公園で泣いていた少女──夕菜と再び出会ったのは、それほど昔のことではない。そもそも彼女は、葵学園にてんこうしてきたばかりなのだ。

 出会いはとつぜんだった。ある日自室に帰ってみたら、夕菜がゆびついてむかえてきたのだ。それだけでも「ゆめか手のんだいたずらか」となるところに、彼女は「許嫁いいなずけふう」と言い出した。

 和樹はこしかさんばかりにおどろいた。もちろん覚えはない。なにしろ宮間家と言えば、日本でも名門である。ほねずいまでざつしゆの自分となんの関係があるのだろうか。

 よくよく聞いてみると、彼女の両親とが「式森和樹を婿むこにしてこい」と送り出したのだという。

 和樹ははっきり言って、をイラストにしてはなをつけたような人間である。わざわざしで婿にするほどとくちようがあるとは思えない。それは自分でもよく分かっている。だから、なにかのちがいだと思った。

 しかし彼女は間違いではないと言い張った。しかも「和樹さんでなくちゃなんです」とだんげんした。

 話によると、どうも和樹のにくたいにはみつがあるらしく、夕菜はそれを手に入れるためにじつから命ぜられてきたらしい。つまり「身体からだが目当て」なのである。

 当初、和樹ははらを立てた。たねけの馬じゃあるまいし、かつに決めないでしい。向こうの方が金になる分、まだめぐまれている。

 だが夕菜がけてきた理由はそれだけではなかった。あのとき、和樹が彼女を助けたときに、「大きくなったら、およめさんになってあげる」とやくそくしていたのだ。それを果たしたいとう。

 このこくはくに和樹はれた。自分はわすれていたのだが、夕菜はしんけんであり、本気だった。

 きよくせつの末、彼はれた。

 折れたとはいえ、いくらなんでも高校生で夫婦はまずい。他人の目もあるし、りんてきな問題もある。そもそも、役所への届けとかはどうなるのだ。

 その後、和樹をめぐさまざまそうどうひんぱつし、彼は百さい以上生きていてもまずないだろう、という経験をした。そして和樹と夕菜は「つきあっているような、そうでないような」関係となった。

 ところが彼女は、このちゆうはんじようたいこのましくないらしい。

「昔の和樹さんは、もっと優しい人でした」

 などと言う。

「昔って、いつ」

「小さいときです」

「覚えてないよ……」

「ほら! それがすごくつめたいんです」

「だってまだ小学生だったじゃないか」

ようえんです! どうしてそうなんですか……」

 彼女はなみだごえであった。言葉をまらせている。

「ひどすぎます……」

 ついに顔をおおった。すすり泣きが聞こえてくる。

 泣きたいのは和樹の方であった。なんだって朝から姿をかくしたり、女の子からきつもんされなければならないのか。まだ学校に着いてもいないのに。

 天をあおいだ。この世に神はいないのか。きっといないのだろう。あるいはアルバイトであくもやっていて、今はきんかんないなのだ。お願いいたします。ぜひすぐにでも、そのバイトをやめてください。きっとちんぎん安いはずです。

 顔をもどす。まだ夕菜はうつむいて泣いていた。神は悪魔のをするのをやめてくれない。そんなにりがいいのだろうか。

 結局、自分でどうにかするしかないんだよな……。

 世の中はじようであった。和樹には特に。

 どうにかして慰めようと、かたに手をかけた。

 と、背後にようふんがした。誰かがいる。

 り向こうとしたが、できなかった。

 すじがぞくぞくした。首のあたりの毛がさかつ。ひんやりとしていた。

 誰かが自分をとらえている。もうきんるいが小動物をねらっているような、あるいはにくしよくじゆうらんらんと光るそうぼうにらみつけているような、そんなかんしよく

 実はこのはい、彼はよく知っていた。

 ぐいっと引っ張られた。

「ああー、和樹! こんなところにいたのね!」

 女性の声。力ずくで引きずられた。

 かいがくるりと回った。気がついたら、地面にたおされていた。

 目の前には、女性の顔があった。

 ゆたかなかみうすくちびる。ちょっときつめだが、じよゆうのような顔立ち。一見かなり年上のようだが、葵学園の制服を着ていた。

「く……さん……」

 かぜ椿つばき玖里子は、カモを見つけたホステスのように、にやりとした。

「もー、校門で待っていたのに。いつまでたってもこないんだからあ。探しちゃったじゃない」

「な、なんで待ってたんですか」

「決まってるでしょ。あたしとあんたはむすばれる運命にあるのよ。学校なんか行ってる場合じゃないじゃない。だからあんたが来たら、して、どこかひとのないところに連れて行って、泣こうがさけぼうが力ずくで……」

「わーっ、なんでそうなるんですかーっ!」

 めいを上げた。玖里子も夕菜と同じく身体からだ目当ての女の子だが、わんりよくにものを言わそう、という点にちがいがあった。ちゆう問わず、すきあらば和樹を押し倒そうとする。やり方がはんざいじみているのだ。おまけに実家がさんなので、あらゆるけんりよくを使ってものにしようとしていた。

 彼女の顔が、息がかかるくらいにせまってきた。

「あん。和樹、可愛かわいいわよ」

 ぞくりとするくらいのいろがある。ぼうにはていひようがあった。文化祭のミスコンに出るとゆうしようが決まってしまうので、出場えいきゆうきんになっているとのうわさすらあった。

「んー、最高。食べちゃいたい。ていうか、食べる」

 和樹はりよくまどわされないよう、けんめいに声を張り上げた。

「どうしてそうひんなんですか!」

「下品だなんてしつれいね。よくぼうちゆうじつと言ってちょうだい」

「忠実じゃなくていいですよう!」

「あら、たいの昔から行われてきたいとなみにケチをつけるのね。じんるいはこうやって発展してきたのよ。さんだいよくに背を向けるのは、進化にさからうつみぶかこうだわ」

「そんなのくつじゃないですか!」



 彼女は、「バレたか」と言った。

「ま、あんたも楽しむわけだし」

「やだー、楽しみたくなーい!」

 あおけのまま、ずるずるとげだそうとした。が、彼女ものしかかったまま、こうどうを動き回った。

「あきらめなさい。どうせいつかはこうなるんだから」

「そんな。ここ外だし! どうだし!」

 おまけに朝だ。たまたま人通りがないが、いずれ誰かが通りかかる。そうすればけいさつを呼ばれて、こうぜんわいせつだかなんだかで、暗くさびしいところに連れて行かれるかもしれない。

 しかし玖里子は、まったく意にかいしてなかった。

「外って、えない?」

「うわーっ!」

 ぜつたいぜつめいであった。じゆんけつとか、心の中の大切なものとかが、まとめて失われそうなはいである。

 そのとき、ふっと、玖里子の姿すがたが消失した。

 あつりよくがなくなったので、和樹も頭を上げる。そろそろと立ち上がった。

 すぐそばで、夕菜が玖里子と向かい合っていた。

「……どうして、いつもいつも和樹さんに手を出そうとするんですか」

 彼女は玖里子を立たせたのか、手首をほぐしている。先ほどまでのなみだうそのように消え、きっとした表情である。

 玖里子はまえがみをぱっとね上げた。

「んー、だって夕菜ちゃん泣いてたし。あれは、『もうわたしはあきらめます』ってあいかなーって」

ごうのいいかいしやくをしないでください。わたしと和樹さんは、なにがあってもはなれないんですから」

 夕菜はきっぱりと言い切った。

「でも和樹は、離れたがっていたわよ」

「そんなはずありません。玖里子さんみたいに、ごういんな人がゆうわくするからです」

「あなたもけつこう都合いいわね」

 あきれたような玖里子。

「でも、あたしもそうかんたんに手を引きたくないのよ。しようばいからんでいるし」

 彼女の実家は、しんこうごうである。同族にもかかわらずぼうけんてきな経営で、ざいかいに新風を巻き起こしていた。

「和樹の血はじゆうようなの」

「そういう、よこしまな考えがいけないんです」

 夕菜は顔をこうちようさせた。

「わたしなんか、ずっとずっと前から、和樹さんのおよめさんになるって決めていたんですから」

「思いつめて本気になっちゃうのが、夕菜ちゃんよねえ」

 玖里子はくすくすと笑った。

「でもま、それくらいの方が、あたしも張り合いがあるってことか。しようする?」

 玖里子が軽く右手をげる。指先にきらきらしたこなのようなものがまとわりつき、ゆっくりとかいてんした。

 せいれいほうである。小声でけいやくのためのじゆもんとなえている。玖里子はもともとれいを使った魔法が得意だが、他の術を知らないわけではない。それに葵学園はりよくの大きい生徒を集めたエリート高校であり、彼女はトップクラスのせいせきほこっていた。

 金色の粉は、よく見るとそれぞれを持ってどくに動いている。さすがにこんな場所なので名もない精霊たちを集めたようだが、それでもこうげきされればただではすまない。

「どうする夕菜ちゃん。ここでやるの? あたしはいいわよ」

「負けません!」

 夕菜は引かなかった。彼女は逆にうでを大きくかかげる。

シルフ!」

 たつまきのような精霊たちが発生した。空気がうずとなって音を立てる。ふうあつが玖里子だけではなく、和樹の顔面をもおそった。

 玖里子とは逆に、夕菜は精霊魔法を得意としていた。彼女もまた葵学園の生徒にふさわしく、高い魔力の持ち主であった。

 それぞれ、魔力を高めてにらみ合いをしていた。心なしか、気温が下がったようにすら感じる。

 気がつくと、和樹は二人にはさまれていた。

「あ……ちょっと」

 すじあせが流れる。

 夕菜は和樹のことをしたかのごとく、竜巻をあやつる。

かく!」

「カマン」

 玖里子が人差し指をちょいちょいと動かす。同時に金色の精霊たちがぼうへきのように広がった。そこにげつこうした夕菜の竜巻が襲いかかる。

 二人の間で魔法と魔法がぶつかりあい、ばくはつした。

「ひええっ」

 和樹はすんぜんせた。運動が苦手のわりにはばやい行動であったが、完全にけることはできなかった。空気がれつしたを受け、身体が持ち上がり、跳ばされる。

「うわあああっ」

 くるくる回転した。そのままふらふら動き回る。そこないの地球ゴマみたいになりながら、どすんとぶつかる。そこで止まった。

「……え?」

 ブロックべいしようとつした、のではなかった。やわらかいかんしよくがある。とんだと思ったが、それにしてはあたたかい。

 ずり落ちそうになるのをなんとか防ぎ、顔を上げる。

 つめたいひとみが見下ろしていた。

 日本人形みたいに髪をそろえた少女だった。はだも白く、なめらかだった。よく見ると、背はあまり高くない。

 和樹はバランスをくずしながら、よりによってその胸に顔をうずめていた。

「……ほう」

 明らかに、いかりのじった声がした。

「朝っぱらのげん、ごろうなことだと思ったが、なにか? 私に対するいやがらせだったのか?」

「り、りんちゃん……そんなことない……よ」

 和樹は顔を引きつらせながら答えた。

 彼女は一年生のかみしろ凜。二人と同じく、和樹を婿むこにしろと実家から言われている少女である。ただし夕菜や玖里子と、決定的に違うところがあった。

「お前という男には、なんじやくという言葉すらもったいないようだ」

 ちた、しずかな声だった。彼女は和樹のことがだいきらいなのである。

ぐうぜんじゃないか。そう、偶然」

「偶然とやらは私にぶつかるようになっているのか」

かくりつからいけば、ありない話じゃない……と思う」

ねらったとしか思えん」

「いや、凜ちゃんの胸なんかにきようはないし」

 やばい、けいなことを、と思ったときには、少女の表情は変わっていた。

「……多少は男らしいところがあるのではと思ったときもあったが、やはり期待するだけだったようだな」

 彼女は背中の荷物を下ろした。

 取り出したのはくろざやおさめられた日本刀であった。ゆっくりとこいぐちを切り、抜く。

 ぞっとした。しやくすんはあるしんけんである。小柄な彼女にはややり合いだが、はくりよくけたちがいだ。

 凜は学校では生物部にぞくしていて、およそ武道にはえんがない。だが、そのじつうでまえは一級で、剣道部からすけたのまれることもしばしばであった。

「そのしようたたき直してくれる」

「いや、ちょっと待って。かいっていうか」

 とんでもない話であった。確かに胸に顔をうずめたし、いい思いをしたと言えなくもないが、だいしようがこれでは。

 しかし、彼女は許してくれそうにない。

みねちにしてやる。こつせつくらいですむはずだ」

「うわーっ」

 この日何度かの悲鳴を上げて逃げようとした。はいから、凜のやいばせまる。

かく!」

「凜さん!」

 ようやく気がついたのか、夕菜が立ちはだかった。

「和樹さんになにをする気ですか」

「知れたこと。式森をたおします」

「そうはいきません。大事なきずつけるわけにはいかないんです!」

「……夕菜さんも、どうるいとみなしますが」

「まずわたしを倒してください」

「ならば!」

 はくじんが走った。きよくせんどうを残して、和樹と夕菜におそいかかる。

 夕菜の精霊たちが、そのやいばからみつく。ていこうとなってりよくを落とした。さらに空気のそうがクッションとなって、はじき返す。

「はっ!」

 夕菜が気合いを入れる。小型のたつまきが凜をほうからねらった。

 彼女は日本刀に力をめた。魔力を受け、にじいろかがやく。そのまま竜巻にぶつけた。れつ音がして、空気がさんする。

 夕菜の前には精霊たちがたてとなり、ばくはつふせいだ。和樹にはそんな気のいたものがなく、またもばされた。

「ああっ、和樹ったら、結局あたしの元に来るのね」

 くるくる回った先は玖里子だった。夕菜が目ざとく見つける。

ですってば!」

 片手で凜と戦いながら、もう片手で玖里子に精霊を飛ばす。

「きゃっ。和樹、助けて」

 玖里子は飛んできた和樹のえりくびつかんだ。精霊に投げつける。

 ボンと音がして、またもあらぬ方向へはじかれた。

「こら、こっちに来るな」

 凜が近づいてきた和樹をばした。

「ひどい、なんてことをするんですか」

 と言いながら、夕菜は和樹を引き寄せようとした。しかし、戦っているさいちゆうなのでなかなかうまくいかない。失敗して、ゆびさきで弾いた。また凜の方へ行く。

「だからじやだ」

 られる。

「あん。たてになって」

 投げられる。

だいじようですか!?」

 と言いつつ失敗。

 和樹は三人の間を、まるでピンボールのように、あちこち跳ね返っていた。頭がシェーカーのようにさぶられ、のうがとろけていくような気がする。

 三人はなおもせんとうをやめない。うすれゆくしきの中で、和樹は思った。

 神様、聞こえますか。アルバイトで悪魔をやっているなんて言ってすみません。きっとほんしよくだったんですね。そうでなければ、こんなにぎわが良くないはずですから──

 とどめとばかり、だれかの放った魔法でばくはつが起こった。


    ○


 和樹たちからややはなれたところにある、小高いおかの上。

「ふん……」

 つぶやいて、女性はカールツァイスのこくいんされたそうがんきようをおろした。

 背の高い、きんぱつの女性だ。切れ長の眼で前方をながめている。モデルばりのぼうと言ってもいい。そろそろ夏だというのに、クリーム色のロングコートを着ていた。

 平日の昼間に、双眼鏡を片手に丘に登っている女性の姿すがたは、みようと言えば奇妙であった。だがここはじゆもくみつしゆうしており、よほど眼をこらさない限り、外から見つけられるおそれはない。そのためか、彼女は和樹たちのかんに集中していた。

「どうだ」

 となりの男がく。しようひげをやした、いんな感じのする青年である。彼女とはたいしようてきに、背は低い。

鹿なことをしている。高校生オーバーシユーレにしては子供っぽい。あれなら二キロ先からでもかんできる。かんの必要もなかった」

「どれどれ」

 男も手にした双眼鏡でのぞいた。本来、監視・こうには遠方可視フエルンズイヒトのような魔術が使われるが、それには多大なせいしんりよくと集中が必要であった。しかも油断するとせいが落ちることが多い。こと日常的な見張りに関しては、双眼鏡はまだまだゆうこうしゆだんであった。

「ほほっ」

 笑い声がれた。

「男がねこちゃん三人にき回されてるじゃねえか。誰だあれは」

「フロインディンだ」

「へっ、女友達フロインデインときたか。ありゃあどう見てもSMだぜ。マゾっのあるやつにはたまらねえんじゃねえか」

 彼女は男の言葉を無視して、双眼鏡を使った。

 レンズの向こうでは、和樹が三人にり回されていた。ときおり魔法が使われるのか、小爆発が起こっている。

「よくこんなところでやってるな。魔力のづかいじゃねえか」

「まだ子供だ。使いどころが分かっていないのだろう」

 魔力は個人によって差があり、肉体と精神をこく使する。そのため、つうめつなことでは使わなかった。

「……にしても、日本の女はケツの形がいいねえ」

 女性はわずかに顔をしかめた。男の言葉の中に、ひびきを感じ取っていた。

「日本人はねんれいくらべてガキっぽく見えるっていうが、おれはまったくかまわねえ。こっちの方が好みだ」

「…………」

「ディステル、見てみろよ。あの真ん中の女、なんて言った、ユウナか。いいケツしてるじゃねえか。よだれが出そうだ。れる前の女には、たまらねえにおいがあるからな」

 金髪の女性、ディステルは答えなかった。ごんけいべつを表していた。

 男はそのふんを感じたのか、口のはしげた。

「お高く止まるなよ。監視なんて仕事は、これくらい楽しみがなきゃやってられねえ」

「監視だけがにんではないはずだが、ヴィペール」

「そいつは先の話だ。何日もこうやって見張ってみろよ。目の前に女が三人だ。ふるいつきたくなるってもんだろうが」

 ヴィペールは、なおも双眼鏡で夕菜たちを見つめた。したで何度も、くちびるをなめ回す。

「くそっ、まんできねえ。思い出すぜ、半年前のイスタンブールをよ。あれは最高だった」

 半年前、ディステルはまだこの男とは組んでいなかったが、うわさは聞いていた。イスタンブールを訪れた女性二人組の観光客に「ねむってもらう」任務だったはずだ。簡単なことだったが、連れてこられた二人は、どちらもせいしんてきショックを受けて使い物にならなくなっていた。身体に傷があったので、ヴィペールがなにをしたか誰にでもすいさつできた。だが本人は「事故があった」としらを切り通し、そのうちうやむやになった。

 彼が任務に加わると知ったとき、ディステルはあからさまにけんかんを示した。ゆうしゆうな男かも知れないが、チームがくずれる可能性があった。しかし押し切られる形で、加えなければならなかった。

「あいつらぼうもいいところだぜ。ここでやっちまおう。待つ必要なんかねえ」

「駄目だ」

 ディステルは感情のこもらない声で言った。

「まだ工作が終わっていない。いま実行にうつしたらさわぎになる」

「けっ、マスコミと警察のまわしくらい、さっさとやれってんだ」

「じきにかんりようする。それまでこっちはじっとしていればいい」

 彼女は双眼鏡をしまった。騒ぎは収まったのか、和樹と少女三人は、葵学園に向かっていた。

「いくぞ」

「なんでえ、お楽しみは終わりかよ」

 ヴィペールは鼻を鳴らした。

「この国で外国人は目立つ」

しんちようなこった」

 そう言いながら、ヴィペールはおかを降りていった。あつぞこくつ──てつぱんでも入っているのだろう──が小石をみしめる音がひびく。

 少し歩いただけで、彼はり返った。

「なんでえ、もどらねえのかよ」

 ディステルは立ち止まって、今いた場所を見ていた。丘の向こう、林にかくれたじゆうたくがいをじっとにらんだ。

「──誰か」

「はん?」

「誰か、我々の他に任務にいていたか」

「なに言ってんだ。ここは俺とお前だけだぜ。フィアールカはもうせんにゆうしている。オグロは例の場所で工作の真っ最中だ」

 ヴィペールがげんな顔をする。

「なんか見えたのか」

「いや……はいがしたのだが……誰かに見られている」

「へーっ、こいつはめずらしい。天下の『血まみれデイ・ブルーテイヒディステル』が心配性かよ」

 かるくちは聞き流した。ほんのいつしゆんだが、かすかに気配をらえた。こんせきを残すのをふせぐためけつかいを張らなかったが、うらに出たかもしれない。

 気力を集中する。が、もはやとらえられなかった。誰かがこっちを注視している感もない。あるいは、気のせいだったのか。

 いらいらしたように、ヴィペールが言う。

「行くんじゃねえのか。そこにっ立ってるほうが、よっぽどやべえだろうが」

「……そうだな」

 彼女は歩き出した。

 丘を降りる。そこに車が止めてあった。乗ろうとして、今度は二人とも足を止めた。向こうから、自転車に乗った警官が近づいてきていた。

 急いでいる様子はない。ここら一帯をじゆんかいしているようだ。あるいは「高校生が魔力を使ってけんをしている」とつうほうでもあったのか。

 自転車はブレーキをきしませて止まり、小太りのじゆんちようが降りた。ちら、と車を見る。

「この車、あんたらの?」

 おうへい調ちよういてくる。ディステルは笑顔をかべながら答えた。

「ええ。私の車です」

 日本語で答える。とつくんしゆうとくした発音に自信はあった。ねんぱいの警官は、おどろいて目を丸くしていた。

「あ、ああ、そう」

 驚きを隠したいのか、よりいっそう車をながめ始めた。

「このところ、車のとうなん事件が多くてねえ」

 警官が聞こえよがしに言った。

 彼女はだまっていた。ナンバーは本物だし、しやけんしようめんきよしようも持っている。しんなところはない。

だよこんなところに止めちゃ。免許証見せて。ここらは学校が多いから、変なやつも多いんだ。はんざいも最近えているから、ちょっとこうばんまで……」

 警官はそれ以上言うことができなかった。

 いきなり顔を引きつらせ、もんぎようそうを浮かべだした。しきりとむなもとをかきむしっている。

 がんきゆうが飛び出さんばかりになり、したも突き出ている。のどふえのように音を立てた。そのまま前のめりになり、倒れる。

 確かめるまでもない。警官はぜつめいしていた。

 背後にはヴィペールが立っていた。

「ちょれえ。真空ルフトレーア・ラオムを使えばこんなもんよ」

 楽しげな口調に、ディステルは顔をしかめる。

「なんでころした」

「なんではねえだろう」

 彼はにやにや笑っていた。

「このままだったら、交番ポリスボツクスまで連れて行かれたぜ。めんどくせえことになったろう」

そうかんぺきだ。余計なことをする必要はない」

あめえこと言ってんじゃねえよ。もうすぐ実行だぜ。警官につかまる方が余計じゃねえか。それより、こいつを片づけてくれ」

 ヴィペールが、いきえた警官を見下ろした。

「この上、私にをかけさせる気か」

「ここにほうっておく気か? こういうのはあんたが得意だ。いまさらいやになったわけでもあるまい。殺しもしよも、たくさんこなしたはずだ」

 彼はおかしそうに顔をゆがめた。

「びびったか? やめろよ。悪いじようだんだ」

 言葉とはうらはらに、目は笑っていない。みするように、すようにディステルを見ていた。その視線は、ヴイペールの通り名そのものであった。

「さ、やってくれよ。やせ」

 くつしたりはしない。このへんしつしやしりぬぐいまでさせられるのはごめんだ。だが、警官の死体を放置するわけにもいかなかった。

 彼女は口の中で、小さくじゆもんとなえた。

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