「何処だここは」
見渡す限りの大森林の中、一人の男が誰にともなくポツリと呟く。
ふと気が付けば見覚えのない景色。峠道の道中、多くはないが周囲に人も歩いていた。数瞬前まで町娘たちの姦しい声も聞こえていたが、今はただ木々のざわめきと鳥の囀りしか聞こえない。
先ほどまで遠くに宿場町が見えていたはずだが…………
噎せ返るような緑と土の匂い。太陽の光をいっぱいに浴びた自然が発する、独特の匂いだ。
ぐるりと辺りに視線を巡らしてみるも、樹齢百年はくだらないだろう大木が鬱蒼と生い茂っているのみで、ここまで半日歩いてきた街道は跡形もなく消えていた。
「……………………」
束の間の棒立ちのあと、男は当てもなく歩み始める。
────まぁ、いい。
ここが何処かなど知らん。この先が何処へ通じているのかも分からん。
だが別に、そんなものはいつものことだ。
見知らぬ森を一切の躊躇なく進むその男の腰には、大小二振りの日本刀が差されていた。
◆ ◆ ◆
黒須元親、齢二十七歳。領地を治める武家の三男として生を受け、物心ついた頃から木刀を振り回していた。ただひたすらに強くなれ、我こそが武士の中の武士であると胸を張れる漢になれと、武士道のなんたるかを叩き込まれて育てられる。
『朝が来るたび死を覚悟せよ。静寂のひとときに雷に打たれ、火に炙られ、刀や槍で切り裂かれる様を想像せよ』
『武士とは何の準備もなく暴風雨に曝されたとしても、ただ一人、立ちすくせる者でなければ価値はない。どのような修羅場であっても慌てることは許されん。無様に怯え、逃げ隠れすることこそが恥と知れ。死すべきときは、ただの一歩も引いてはならん』
『命か誇りを選ぶのであれば、命を捨てることに微塵の躊躇いも持ってはならん。そのことさえ忘れなければ、武士はただ情熱を傾けて生きるのみ。何も恐れることはない。周囲に心乱されず、ただ只管に我が道を往け』
父から課せれた鍛錬は剣術のみに留まらず、槍、弓、杖、鎌、縄など、ありとあらゆる武器術から、隠形術、組討術、水泳術、馬術まで多岐に及ぶ。音を上げることなど決して許されぬ修行は過酷を極め、幼い兄弟が何度も死の淵を彷徨うほどに凄まじいものだった。毎夜血濡れで帰宅する幼子を母は嘆き、どうか手心を加えてやってほしいと父に哀願したが、その願いは聞き入れられることはなく、そしてまた、子供たちも地獄のような生活を当たり前の日常として受け入れていた。
そんな日々を過ごすうち、末弟に武の才能が開花する。手足が伸びきる頃には兄たちを打ち負かし、すでに近隣に並び立つ者はいなくなっていた。齢十五にして己の剣に停滞を自覚した三男は、他領へ繋がる山道に陣取り、自作した木刀を持って通りがかりの武芸者に手当り次第、勝負を挑み始める。黒須三兄弟で最も武に貪欲な元親に、御家の領地は狭すぎたのだ。
「まっ、参った!! 某の負けじゃ! 降参するっ!」
「…………何を言っている。まだ右腕が折れただけだぞ」
尻もちをついて剣を手放し、滴る汗を拭うこともなくずりずりと後退る。
そんな相手を冷え切った表情で見下しながら、元親は血が滲むほど強く拳を握り締めていた。
────何故逃げる?
腕を折られたくらいで。眼玉を潰されたくらいで。
────何故怯える?
強くもないのに剣を握るな。覚悟もないのに武士を名乗るな。
────何処にいる?
俺と同じ覚悟を持つ者は。俺と同じ景色を見る者は。
俺など所詮、戦うことしか能のない乱暴者だ。特別でも何でもない。この腸が煮えくり返るような腹立たしさを、この胸を潰されるような歯痒さを、共有することのできる相手が必ず何処かにいるはずだ。村にはいなかった。町にはいなかった。山国にも、海国にも、雪国にも──────
『あの山には恐ろしい鬼子が棲みついている。刀を持つ者は見境なく襲われるそうだ』
そんな噂が他領の村々にまで広まった頃、喧嘩に明け暮れる暴れん坊は、とうとう父から呼び出しを受ける。女中に案内されたのは普段家族が過ごしている武家屋敷の居間ではなく、謁見の間。これは父親からの小言ではなく、当主としての苦言だと察した元親は、広い座敷の中央へ進むと居住まいを正して頭を垂れた。
しばし平伏したまま無言の時が流れたが、その静寂は叩きつけるようにして開かれた襖の音で破られる。どしどしと畳を踏み歩く、聞く者を威圧するかのような重い跫音。元親のひれ伏す場所から一段高い上座にどっかりと腰を下ろした父は、慇懃に口上を述べる息子を射竦めるようにして睨めつけ、面を上げることを許すと早速とばかりに口火を切った。
「元親よ、何故そうまで荒ぶるのだ。近頃は戦もなく、世の時流は泰平へと向かっておる。兄たちが剣より筆を握る時間が増えておることに、気づかぬ貴様ではあるまい」
地の底から響き、鳩尾の奥に鈍痛を感じさせるような、低く、高圧的な声。
咽喉を毀した角力取を思わせるがらがら声だ。
並居る猛者どもを恐怖に慄え上がらせてきた覇気は、還暦を過ぎてなお健在である。
「…………恐れながら、父上。泰平など泡沫の夢。たった一人の武将の心変わりで容易に崩れる砂上の楼閣にございます。御家を護るのが武士の務めでありますれば、時流がどうあれ、己の研鑽を止める由にはなり得ぬものと心得ます」
聞きようによれば傲慢とも取れるその発言に、父の眉が不快げに歪められる。
「貴様、兄たちが間違っておると抜かすか」
「そうは存じません。武士とは己の信じる武士道に生きる者。歩む道は違えども、行き着く先は皆同じかと」
「儂は貴様らに同じ道を歩ませたかった」
「お言葉ですが、父上。元親は父上の御指南通りに生きております。己が武士道を妨げる者を許すなと、信念を曲げるくらいならば死を選べと。どうしてもと仰せであれば…………命懸けで、親子喧嘩に臨む所存にございます」
────瞬間。親子の視線が交錯し、一触即発の危機を秘め激しく火花を散らす。
急速に膨れ上がった殺気は両者の間の空間が歪んで見えるほどの濃度となり、広間の襖がビリビリと一斉に震え始めた。