まぶたをちくちくと刺す光で、目を覚ました。
頭を起こそうとすると、首筋から背中から腰から脇腹から、全身がみしみしと痛んだ。ぼくは喉から漏れそうになるうめき声を噛み殺す。
目を開けた。ぼくの右手側の窓から、くっきりと朝の光が射し込んでいた。
痛みに顔をしかめながら、助手席の方に首を巡らせる。真冬はぼくの方に顔を向けて眠っていた。栗色の髪が乱れて、リクライニングにしたシートの上に広がっている。顔色は、昨日よりずっといい。
狭い運転席で、身を左右にひねったり、肩を開いたり、首をぐるぐる回したりして、窮屈な柔軟体操をした。なんとか動けそうだった。ぼくはそっとドアを開けると、外に出た。
雨はすっかり止んで、濃い霧が出ていた。さっき目覚めた直後はやけにまぶしいように思えていたけれど、実際はまだ空が白み始めたばかりで、かなり薄暗い。ポケットから携帯を出して確認してみると、午前五時前だった。
でも、車に戻って二度寝する気分にはなれなかった。
昨日はあまりに疲れていたから、深く考えずにころっと眠ってしまったけれど、考えてみれば隣で真冬が眠っているのである。圧倒的な密室で。もう眠れるわけがない。
ベースがほんとうに直せそうかどうか確かめようと思い、慎重に音を立てないように、後部座席を開いた。
後部座席に寝そべったむき出しのベースを手に取ろうとして、工具類を一切持っていないことを今さら思い出す。馬鹿かぼくは。いつも持ち歩いてるから、そのときも手元にあるような気がしていたのだ。どうしよう、中の入部届も取り出せない。濡れてたりしないかな。
そのへんのゴミを漁ればドライバーくらい見つかるだろうか、と考え始めたとき、ふと、ぼくのベースに添い寝する真冬のギターが目に入る。前から思ってたけど、あれ、かなりいいギターだよな。触ってみたい。一度でいいから弾いてみたい。
真冬は穏やかな寝息をたてて眠っていた。だから、ぼくは欲求にあっさり屈した。ベースは放置してギターケースを車外に出し、気づかれないようにドアを閉める。この車、助手席側に向かってやや傾いて埋まっているので、ドアをこっそり閉じるのはかなり難しい。
斜面を登り、一段高いところに横たわった洗濯機に腰掛ける。湿り気を含んだ朝の空気は肌に心地よかった。
ギターを取り出す。木目がきれいなニス塗りの、フェンダー・ストラトキャスター。しかもこれ60年代のヴィンテージじゃないか。三百万円くらいするぞ? 期待に震える指で弦を弾いてみる。ソリッドボディとは思えないくらい豊かな響き。
ぼくは洗濯機に座り直すと、爪先で拍子を取りながら、スリーフィンガーでつま弾き始めた。憶えているかどうか不安だったけれど、曲は指にしみついていた。ほんものの鳥のさえずりが聞こえる中で、小声で霧の中に向かって歌を吐き出す。朝の空気はぼくの歌声を吸い取ってしまう。二コーラス目から、今度ははっきりと、どこかで耳を澄ませているかもしれない小鳥たちに向かって──
「……なんて歌?」
いきなり声がして、ぼくは洗濯機からずり落ちそうになった。
すぐ眼下に、真冬がいた。眠たげに目をこすりながらぼくを見上げている。
「え、えっと」
真冬は積み上がった廃品に足をかけて、ぼくのところまで登ってくると、隣に腰を下ろした。洗濯機の幅は狭い。体温がすぐそこにあった。
「ごめん、勝手に弾いて」
「べつにいい。なんて歌?」
ぼくはちょっと恥ずかしくなって、ネックを握った手元に目を落とす。
「『ブラックバード』っていう」
「いい歌だった」
驚いて真冬の顔を見る。どうしたの? とでも言いたげに首を傾げられてしまったので、またギターに視線を戻した。
「どんな歌なの」
今度は、でまかせを言う気になれなかった。
「……ビートルズのことはどれくらい知ってるの」
「あんまり」真冬は首を振る。
「そうか。ううん」ぼくは少しの間、物語を整理しようと頭を巡らせる。「この曲が入ってるアルバムを作ってた頃、ビートルズは全員の仲が最悪で、もう解散寸前だったんだ。そのアルバムも、まるでメンバーそれぞれのソロ曲の寄せ集めみたいなものになっちゃってて」
でも、傑作であることにはかわりがない。真冬の言った通りだ。評論家がどれだけ勘ぐったところで、音楽家は最悪の気分の中で最高の曲を作ることだってできる。
「ジョン・レノンが、『レヴォリューション9』っていう長い曲をテープいじくって作ってたとき、ポール・マッカートニーがほとんどひとりで録音したんだって」
ジョンの、だれにも届かない革命の歌の裏で、ひっそりとブラックバードに捧げられた歌。
「……だからギター一本で弾けるんだよ、この曲」
「うん。あなたにも弾けるくらい単純だけど、きれいな伴奏だった」
かちんときたぼくは、そこでふと、意地悪を思いついて言ってみる。
「でも真冬には無理だよ。スリーフィンガー奏法使ってるから。右手の薬指まで動かないと弾けない。ざまあみろ。悔しかったらアメリカ行って手術してこい」
真冬はむっとした顔でぼくを見た。それからいきなりギターを奪い取って構えると、弾き始めた。『ブラックバード』を──親指と人差し指だけで。
もちろんいくつか音を省略したりはしているのだろう。でも、ぼくには完璧な演奏にしか聞こえなかった。そもそも、今さっきはじめて聴いた曲のはずなのに。
ワンコーラス弾き終えた真冬は、つんとした顔でぼくの膝にギターを突っ返した。
「……そういう、才能のない人間が落ち込むようなことはしないでくれないかな」
「これくらい練習すればだれだってできる」
できる気がしねえよ。
真冬は洗濯機から下りて車に戻ると、後部座席のドアを開けて、ぼくのベースを取り出し、戻ってきた。またぼくの隣に座って、ベースを膝に乗せると、手早くチューニングし、促すようにリズムに乗せてGの音を弾き始める。
それに合わせて、ぼくはまた最初から弾き始める。テンポを抑えて、最後まで歌を併せて。
折れた翼を抱え、飛び方を手探りするブラックバード。これまで生きてきた中で、飛び立つときだけを待ち続けていたのだから。
「不思議。アンプに通してないと、普通のベースなのに」
歌い終わると、真冬がぽつりと漏らした。
「アンプはちょっとした音の違いも増幅するから。また調整しないと。あちこちぶつけたし」
真冬は少し不安げな目でぼくを見た。
「ちゃんと、直る……よね?」
ぼくは黙ってうなずき、また『ブラックバード』の最初のフレーズをつま弾く。翼が折れてしまったら、飛び立てるときまで待てばいい。
「だれかを勇気づける歌、なの?」
ふと真冬が訊いた。ぼくは少し迷ってから答えた。
「黒人女性の解放を歌ったんだって言われてる。ポール自身も、そんなことを言ってたらしいよ。でも、ぼくはそういう考え方があんまり好きじゃない」
「どうして?」
「だって、そんなのひねくれてるよ。そのままでいいじゃんか。ブラックバードのことを歌ってる歌なんだから」
「ほんとにいる鳥なんだ」
「うん。クロウタドリっていう。ちっちゃくて真っ黒で、くちばしだけ黄色くて、すごくきれいな声で啼くんだって。写真だけ見たことがある。日本には、たぶん一羽もいないけど」
真冬はそこで、淡く微笑んだ。それはぼくがはじめて見た、彼女のほんものの笑顔だった。
「……いるよ。わたし知ってる」
ぼくは首を傾げる。
「どこに?」
真冬は目を細めて、それからぼくの胸をとんと人差し指で突いた。
「ここにいる」
霧がゆっくり裂かれて、小鳥の啼き声がくっきりと聞こえてきた。朝陽が林の木々の間から射し込んで、真冬と、それから呆然とするぼくの影を、窪地の真ん中のピアノに向かって差し伸べた。
駅までの道のりを、ぼくらは黙って歩いた。ぼくは左肩にスポーツバッグ、右手にはバスタオルを巻きつけたベースを持っていたので、ギターは真冬が自分で担いでいた。昨日とちがってしっかりした足取りだった。空も馬鹿みたいに晴れていて、このまま歩いてどこへでも行けそうな気分だった。
でもぼくらは、これからどこに行こうという話を一切しなかった。ただ、朝の光に乾かされていく町を並んで歩いた。二人とも、なにか予感めいたものがあったのかもしれない。
「足、大丈夫なの?」
「うん。今は平気」
「ほんとに、そのうち身体の右側全部動かなくなるわけ?」
「たぶん。お医者さんはなんにも言ってないけど、夜寝てると、右側が消えちゃって、水の中にずぶずぶ沈んでくみたいな感じがして怖いから、必ず左を下にして寝るの」
それ、真冬の妄想なんじゃないのか。……ていうか。
「昨日、右側下にして寝てたけど」
真冬はぴくんとこっちを向く。
「ぼくの方向いて寝てた」
「嘘」
「ほんとだってば」
「嘘!」
なんでこんなことで嘘つかなきゃいけないんだよ。
「ほんとに、こっち側だけ穴の中みたいな感じなんだから。もうすぐ手首も動かなくなるかもしれない。そしたら、ギターも弾けない」
ぼくは、だらりと身体の横に垂れ下がった、真冬の右手を見た。
「左手は動くんだろ? だったら」
自分の右手に目をやる。
「だったら?」真冬が言う。同じように、ぼくの右手を見つめながら。
「ジミヘンみたいに歯で弾けば?」
「ばか!」
真冬はギターケースを振り回してぼくを殴ろうとした。
「右手のかわりになってあげる、くらいのこと言えないのっ?」
「いや、だって、ぼくの右手だよ? 言っちゃなんだけどギターもピアノも下手くそだし。真冬のテクが台無しじゃん」逃げ回りながらぼくは答える。
「たとえばの話でしょ! もうっ」
ひとしきり暴れてから、真冬はぷいと前を向き、早足になる。ぼくは彼女の背中を追いかけ、少し迷ってから、声をかけた。
「ねえ、真冬」
「なに」不機嫌そうな背中越しの声。
「ベース見つかるかどうかで賭けしたの憶えてるよね?」
「……うん」
「だったら」ぼくは口ごもる。なんて言えばいいんだろう。真冬の右手はもう自分だけのものじゃない、バンドの問題だ、みたいな言い方したら怒るだろうし。
「ギターは今でも弾けるから、べつに大丈夫」
見透かしたように真冬がむすっとした声で言う。
「でも、そのうち」
「そしたら歯で弾けばいいんでしょ」
うわ。ぼくの軽口をそうやって返すか。けっきょく怒らせてしまった。
真冬の三メートルくらい後ろを歩きながら、ぼくは言葉を探る。
「わかったよ。バンドのことは、それでもいいけど。でも」
正直に、言えばいい。
「ぼくは、もう一度真冬のピアノが聴きたい」
真冬は立ち止まらなかったし、振り向きもしなかったし、しばらく返事もしなかった。でも、やがて歩みをゆるめて、ぼくの隣に並ぶ。小さくうなずいたような気もした。
けっきょく、その先は言えなかった。だからちゃんと専門の医者に治してもらえよ、って。
でも、それは真冬が決めることだった。ぼくができるのはせいぜい、家出につきあって、ときどき肩を貸してやることくらいだ。
ぼくらを最初に見つけたのは、自転車で道の反対側からやってきた若いお巡りさんだった。十メートルくらい手前で急停車し、ずっこけて側溝に落ちそうになり、手帳を取り出して何度もぼくらの顔と見比べた。それからどこかに無線連絡。
「どうしよう。走って逃げる?」
ぼくはお巡りさんに腕をつかまえられながらも、隣の真冬に耳打ちした。彼女は黙って首を振った。
そこが、旅の終わり。
上司からの指示を待っている間、そのお巡りさんはミーハーなことに真冬にサインを求めた。しかも警察手帳に書いてもらおうとすんの。いいのかそれは?
駅まで連れていかれた。バスロータリーには何台かの車が停まっていて、かなり大勢の大人たちが集まっていた。顔を知らない人たち──後から聞いたところだと、わざわざ真冬を捜すために手伝いに来てくれたオーケストラ団員だったそうだ──の間に、お巡りさんの姿がちらほら。ぼくと真冬の姿をみとめると、わっと寄ってきたので、びっくりする。
その中に、麻紀先生の姿もあった。うわあ。なんでここにいるんだ。学校はどうした。音楽教師だから多少自由がきくのか? 大股で歩み寄ってきた先生は、にこやかな笑みを唇の端で引きつらせ、なにも言わずにぼくの頬を張り飛ばした。
「いや、ちょ」
言い逃れしようとしたら反対側にもう一発。
それから──
一台の車がバスロータリーにものすごいスピードで駆け込んできてドリフトし、パトカーにぶつかる寸前で停まる。運転席のドアを蹴り開けて飛び出してきたのは──
「……パパ?」
真冬がぼくにしか聞こえないくらいの声でつぶやく。たしかにそれは蛯沢千里だった。Yシャツはよれよれで、寝ていないのか目の下にくまをつくって、喧嘩に負けたライオンみたいに髪をくしゃくしゃにして、駆け寄ってくる。
「やっぱりここにまた来ていたのか! なにをしてたんだ丸々二晩も! みんなにどれだけ心配かけたと──」
「……コンサートは? だって、今日から」
真冬がうわごとのようにつぶやく。エビチリの眉はつり上がった。
「なにを言ってるんだおまえは、コンサートどころじゃないだろう! 勝手にいなくなって」
それからエビチリはぼくに向き直って噛みついてきた。
「きみか! きみが真冬を連れ出して──」
襟首をつかまれ、がくがく揺さぶられる。ああ、なんだ、ただの父親じゃないか、とぼくはぼんやり思う。ひょっとしたらうっすら笑ってさえいたかもしれなくて、エビチリの怒声はなんだかわけがわからなくなった。
「なにを考えているんだ、真冬になにかあったらきみはどう責任をッ」
と、真冬がぼくと父親の間に割って入り、引きはがす。勢いを食って尻餅をついたぼくは、ぱあんとあざやかな音を聞いた。
真冬は、父親の頬を張り飛ばした自分の手のひらを──指の動かない右手を、信じられないような目で見ていた。頬を腫らしたエビチリは、一瞬鼻白んだ後、すぐに目に怒気を取り戻し、真冬の頬をはたき返した。よろけて、ぼくの上に倒れそうになったところを、肩をつかんで引っぱり起こす。
「とにかくみなさんに謝りなさい!」
父親に手を引かれ、集まった人たちの輪の中へと連れていかれる真冬の背中を、ぼくは地べたに座ってぼんやりと見つめていた。すぐ手をあげるのは遺伝なのかな。
真冬と一緒にお巡りさん三人がかりでこってりとしぼられた後で、他の捜索員のみなさんも、三々五々それぞれの車に散っていく。
エビチリの車に乗せられるときに、真冬は一度だけぼくの顔を見た。
そのときの彼女の目は、もう、いつかのような曇り空ではなくなっていて、それはそれで嬉しいような、寂しいような、よくわからない気分になる。
エビチリが運転席から顔を出して、言った。
「きみも乗りなさい。送っていこう」
後部座席のドアが開く。そいつはありがたい。なんか車内は死ぬほど気まずそうな気がしたけれど、何時間も電車を乗り継いで帰らなくてもいいというのは抗いがたい誘惑だった。
ところが、車の方に歩きかけたぼくの襟首を、後ろからつかんだ人がいる。
「蛯沢先生、すみませんけど、こいつは私と一緒に電車で帰りますから」
麻紀先生の冷たい声が降ってきた。恐ろしくて、振り向けない。
エビチリはうなずいて、窓を閉めてしまった。そんなにあっさり引き下がるなよ! ぜひ送らせてくれとか言えよ!
でも、排気ガスの雲を残して、蛯沢親子を乗せた車は走り去ってしまった。他の車もそれに続く。車のナンバープレートを見送りながらそのときのぼくが感じていたのは、あのときとはべつの温度を持った、けれどあのときと同じ想いだった。
だめだ、行かせちゃいけない。
だってぼくはまだ真冬に入部届を渡していない。たとえ、もうアメリカに行ってしまうとしても。うちの学校には戻ってこないとしても──。
でも、車の排気音はすっかり聞こえなくなり、かすかな海鳴りだけになる。
他に人のいなくなったバスロータリーに、ぼくは取り残されてしまった。
後ろに立ってるのは人じゃなくて鬼だったし。
「さて、ナオくん。たくさん訊きたいことがあるんだ。わかってるよね?」
麻紀先生は不気味なくらい親しげな声で言って、ものすごい力で襟首を引っ張り上げてぼくを立たせた。ぼくはため息をついた。
こうして、ぼくらの逃走は終わった。
つまり、帰りの電車でトイレだの飲み物買ってくるだのと口実を作ってがんばったけれど、ついに麻紀先生からは逃げられなかった、ということである。