15 レイラ、線路、失くしたもの

 ぼくはそのとき、自分ののベッドでデレク&ザ・ドミノズのアルバムをぼんやりといていた。ふゆが学校に来なくなってから三日目の、すいようの夜。風が強くて、窓の外ではざあざあと立木のこずえがこすれあう音がしていた。

 てつろうは出版社に呼び出されていて不在だったから居間のオーディオも自由に使えたのだけれど、部屋を出るのもなんだかめんどうだったので、ずっと寝転がってミニコンポの貧相な音に耳をませていた。

 最初その音は、スピーカーの中でジム・ゴードンがずかずかと踏み鳴らすバスドラムに埋もれてほとんど聞こえなかった。でも、曲が静まってあのピアノリフが流れ出すと、ぼくはそれに気づいた。カーテンの向こうで、ガラス窓をたたく音。

 もちろん、あきが来たんだと思った。ほかにそんなことをするやつはいない。なんだよ、こんな夜中に。でも、カーテンと窓をいつしよに開いたぼくは、青いひとみと目が合って固まる。

 窓の外──張り出した屋根の上に立っていたのは、真冬だった。たしかに、真冬だった。きつい風にあおられた長いくりが、肩にかけたギターケースにからみついている。

「……な」

 声を出そうとしたけど、うまくいかなかった。

「入ってもいい?」

 真冬は無表情に言って、まずギターを肩からはずして窓から突っ込んできた。

「え……あ、う、うん」

 混乱しきった頭のまま、ぼくはギターを受け取ってすぐ横のかべに立てかける。ぼうぜんとしながらも、靴をぬぎまどわくをまたいで入ってくる真冬に手を貸す。そのときの彼女は、はじめてった日に着ていたのと同じようなひらひらで動きにくそうなみずいろのワンピースを着ていた。

 まだ信じられなかった。どこから夢の続きだったんだろう?

「……本物?」

 部屋の中を見回している真冬に向かって、思わずいてしまう。

「なにが?」

「え。いや。だって。おかしい。ここまで登れるはずないよ」右手動かないのに。

「手首は動くから」

 真冬はこともなげに言って右手をひらひらと振ってみせた。手首どころかひじまでき傷だらけだった。動かないといっても指だけだから、なんとか登れるのか? それにしたって。

 真冬はぼくのせんに気づいて、目をそらし、つぶやく。

「学校であいはらさんが、そんな話してたから。木登りして窓から勝手に入ってるって。……ちょっと、うらやましいなと思って。やってみたかったの」

 それからぼくのベッドに腰を下ろした。あき、教室でそんなこと言いふらしてたのかよ。誤解が広まるわけである。

 それにしても。

「なんで──」ここにいるのか。その、単純で核心的な質問を、ぼくはなぜか口に出せなかった。いたら消えてしまいそうだったから?

 かわりに出てきたのは、こんな言葉。「なんでぼくの家知ってんの?」

 ふゆはしばらくぼくの顔をじっと見つめた後で、ギターケースのところまで行って、ポケットからなにかを取り出してぼくに突きつけた。

「……ジョン・レノン?」

 それは一枚のCDだった。あの日、屋上でぼくがいた、『ロックンロール』。真冬が左手だけで器用にCDケースを開く。ぎんいろに光るばんの上に、折りたたんだルーズリーフがあった。取り出してみると、手書きとは思えないくらいせいかくしようさいな、ぼくの家周辺の地図が書いてあった。なんだこれ……。

の言いつけでずっとに閉じ込められてたから」と真冬は言った。あの人、というのは父親のことだろうか。「病院に行くときまで外に出られなかったの。それで、検診終わって帰ろうとしたら、いつの間にかわたしのバッグにこれが入ってた」

 ぼくは、わけがわからなくなって真冬の顔を見る。彼女は首をかしげた。

「あなたじゃないの? 病院までけてきて、こんなことするなんて」

「そんな鹿なことするやつ──」

 ぼくはちゆうで言葉をみ込んだ。一人ひとり、いる。そんな馬鹿なことを──実るかどうかもわからないえんな手回しを、手間も惜しまずに涼しい顔でひょいとやってのける人が。

「……ぐらざかせんぱいだ」

 学校に来てないと思ってたら、こんなことやってたのか……ていうか、どういうつもりなんだろう。真冬にぼくの家を教えて、なにをさせたいんだ?

「あの、髪長くて目つきがひようみたいで変なこといっぱいしやべる先輩?」と真冬。そうか、真冬も神楽坂先輩のことはちょっと知っていたんだっけ。

「うん。……たぶん」

「あの先輩と、いつも……」と真冬は言いかけて、ぼくのせんに気づいてはっと目をそらし、ぶんぶん首を振る。「なんでもない」

 ベッドに戻って腰を下ろす真冬。ぼくは、ベッドに近づくわけにもいかず、逃げ出すわけにもいかず、なくまどぎわに立ちつくしていた。ぼくの部屋に真冬がいる。まだうまく状況がみ込めていない。でも、たしかにここに真冬がいるのだ。

「あの……ええと」慎重に言葉をえらぶ。「知らなかった……んだ。ごめん」

「なんのこと?」ふゆは首をかしげる。

「いや、だからその……右手の、こと」

あやまらないで。あなたが謝ってるの見ると、なんだか気がってくるから」

 こっちだって気が滅入ってきたよ。

「それに、あなたはべつに……悪くない」

 そう言って真冬はまた顔をそむける。

「あなたのせいじゃない。たまにああなるの。わたしの身体からだ、右の方からどんどん動かなくなっていくの。ときどき足も動かなくなる。どうしてかはわからない」

 ぼくは、しばらく言葉を失った。右の方からどんどん動かなくなる?

「なんでそんな、ごとみたいに言えるんだよ」

「だって、他人事みたいなものだから」

 真冬は顔を伏せたまま、少しだけ笑った。はじめて見た彼女のがおが、そんなさみしそうなものだということに、ぼくの胸は痛んだ。

「動かなくなっても、わたしはあんまり困らない。あの人とか、レコード会社の人とかは困るかもしれないけど」

「え……あ、いや、そういえば、アメリカ行くんじゃなかったの? あっちの病院で検査とか手術とかって」

「うん。あの人は明後日あさつてからアメリカでコンサートツアーだから、明日あしたこうに乗る」

「じゃ、じゃあこんなとこに──」

「だから、逃げてきた」

 ぼくは息のかたまりを吐き出した。逃げてきた? そういえばこいつ家出の常習犯だっけ。

「最初から、そうするつもりだったの。あっちに連れていかれる直前になったら、逃げることに決めてた。右手なんて、治んなくてもいい。ギター持って、逃げ出して、遠くまで、ずっと遠くまで、足がほんとに動かなくなっちゃうまで……」

 真冬は、ぎゅっと目をつぶった。涙をこらえているみたいに。

『六月になったらわたしは消えるから』。

 そういう意味だったのか。りようのためにアメリカに行くから、ではなく──その運命から逃げ出すことを、とっくに決めていたから。

 それで?

 ぼくはのどの奥で、その問いをえんした。

 遠くまで逃げて、それで、どうするの?

 真冬に答えられるはずがないのはわかっていた。ぼくだってわからない。なにかから逃げるとき、人間はそんなことを考えたりしない。ただ必死で走って、かくしよを探して──

「……なんで、ぼくのとこに来たの」

「だって」ふゆはぼくのつまさきのあたりをじっと見つめたまま言ってから、顔を上げた。「いつだったか言ってた。なにか困ってたら素直に言えって。おぼえてる?」

 たしかに言った。そのときの真冬は、右腕を切ってよこせとか、ピアノ始める前まで時間を戻せとか──ああ、そういうことだったのか。ぼくは今さら泣きそうになる。

 真冬は、ちゃんとぼくに教えてくれていたじゃないか。ぼくが気づかずにいただけで。

「だから」

 真冬はちょっと言いにくそうに、またうつむく。

「わたしの手、こんなだから……荷物、あんまり持てないから。だから、いつしよに……」

 そこまで言って、真冬はぎゅっと目をつぶり、首を振った。

「なんでもない。ごめんなさい」

 真冬は立ち上がった。ぼくの横を通り抜けて、ギターをまた肩にかける。靴を手に窓から出ようとしたとき、ぼくは思わず声をかけていた。

「ちょっと待って」

 真冬は振り向く。まっすぐかれて、ぼくは口ごもった。言おうとしていた言葉が口の中でくしゃりとつぶれて、かわりにどうでもいいものが出てくる。

「……玄関から出れば?」

「おうちの人、いないの?」

今日きようは出かけてる。もうすぐ帰ってくるかもしれないけど」

「そう。でも、木登りなんてはじめてだったから、けっこう楽しかった」

 全然楽しくなさそうな顔で真冬は言った。いや、そうじゃなくて!

「……わかったよ。ほかの荷物は? 下に置いてあるの?」

 真冬はぼくの顔をじっと見つめて、何度もまばたきした。

「……え?」

「ぼくも行く」



 庭の木陰に、真冬の持ってきた小さめのスポーツバッグが置いてあった。持ち手のところには、いつだったかぼくが直してあげたテープレコーダーがぶらさげてあった。

「ほんとについてくるの?」

「自分で一緒に来いって言ったんだろ」

「そうだけど、でも、どうして──」

 どうしてなのか、ぼくにもわからなかった。どこへ行くのかも。

 ただ、このまま真冬ひとりを行かせちゃいけない。それだけはわかった。

 バッグを取り上げて肩にかける。軽かった。

「ねえ、ベースはどうしたの。からのケースだけあったけど」

 暗がりの中で、ふとふゆが言った。

「捨てた」

「……どうして? ……あっ」

 真冬の声がうわずる。

「あ、あのとき? わ、わたし、よくおぼえてないけど、あばれてこわして……」

「いや、そうじゃなくて。壊れてなくたって、たぶん捨ててた」とぼくは言った。うそではなかった。直そうと思えば直せたのだ。真冬にあんまり責任を感じてほしくなかったし。

「……どうして」真冬の顔はもっとずっとかげる。

 どうして? ぼくは少し考え込む。

「……いやに、なったから」

「ロック好きだったんじゃなかったの」

 そういうストレートでな言い方をされると困る。

「最初のうちは楽しかったよ。練習してる間は。でも──」

 ぼくは口ごもる。どうして捨ててしまったのか、自分でもうまく説明できない。

「……あ、あのときの、わたしのあれ、気にしてるなら」

 ぼくは首を振って真冬の言葉をさえぎった。

「早く行こう、てつろうが帰ってくるかもしれない」

 夜のやみに沈んだ真冬の顔は、どんな表情を浮かべているのかよくわからなかった。でも、なんとなく、さみしそうな顔をしていたんじゃないかと思う。

 真冬を門の外に押し出し、バッグを肩にかける。

「どこ行く?」

「どこ行けばいいと思う?」

 ぼくらは、むなしくばかばかしい質問をわした。

 それから、どちらからということもなく、歩き出した。がいとうがぽつぽつと照らすひとのない住宅街の道を、駅の方へと。



 ところがぼくらの逃亡計画はいきなりとんした。終電が出てしまった後だったのである。宅地の真ん中にぽつんとある小さな駅で、周辺の深夜営業の店といえばコンビニが一つきり。電車が終わると人気はほとんどなくなってしまう。に広い歩道の上には、街灯に囲まれたぼくら二人ふたりかげだけが放射状に散らばっていた。

「どうしようか」と、ぼくはほうに暮れる。

せん沿いに歩いて死体を探しに行くんじゃないの?」

 いつかぼくが言ったでまかせをふゆが返す。

「歩くのかよ。疲れるよ?」

 こないだみたいに右足が動かなくなったらどうすんだよ。

「凍死っていちばんきれいな死に方だって聞いた。ほんとう?」

「六月の日本で凍死できるわけないだろ。というかさ、さっきから疑問だったんだけど」

「なに?」

「なんでギターとバッグ、両方ともぼくが持ってるんだろう」

 ギターの方もいつの間にか任されていたのだ。さすがに重い。

「だって荷物持ちでしょ」

「ちが……」ちがわないっけ、そういえば。

 線路に沿ってほんとうに歩き出した真冬の背中を、ぼくは追いかける。あわい色のワンピースの背中は、ちょっと見失っているうちに夜に溶けて消えてしまいそうだった。

 フェンス越しに暗い線路を右手に見ながら、ぼくらはゆるい上り坂を歩いた。真冬はなぜか、ぼくの母親のことを聞きたがった。

「あなたのおとうさんが、よくひようろんこんしたことを書いてたから」

 てつろうはもう少し評論家という自分の立場について考えるべきだと思う。

「おかあさんのことおぼえてる?」と、真冬はぼくの方に振り向いていてくる。

「そりゃ憶えてるよ。離婚したのは小学校に入る年だったし、今でも月一でってる」

「どんな人?」

「哲朗と結婚しようなんて鹿なことをどうして考えついたのかわからないくらい、まともな人。食事のマナーにうるさい」

「ふうん」真冬は線路の方を向いてしまう。

 そういえば真冬も両親離婚して父親に引き取られたんだっけ。それで母親のことを知りたかったのかな。

「わたしのママは」と、真冬は顔をそむけたまま言った。調ちようが心なしか遅くなる。「もっと小さいころにいなくなった。でも、今はドイツの人と再婚してボンにいるって聞いたの。それで、去年、ヨーロッパ公演で立ち寄ったから、必死で住所調しらべて、逢いに行った」

 たぶん迷子まいごになったんだろうな、と思う。

「でも、ママは逢ってくれなかった。だんさんが玄関に出てきて、ものすごくていねいな英語で、帰ってくれって」

 真冬は不意に立ち止まった。動かない右手の指をフェンスに押しつけ、そこにひたいをあてる。だから顔は見えなかった。肩がふるえているのが泣いているせいなのかどうかも、ぼくにはわからなかった。

「あの人は、わたしがママそっくりだって言ってた。だからママも、たぶん、気味が悪くて顔を見たくなかったんだと思う。ママもピアニストだったし──」

 ふゆは振り向いた。ほとんど無表情のままだった。

「その次の日はもうロンドンに飛んでたの。それで、コンサートの直前にいきなり指が動かなくなった。気にしてなかった、はずなのに」

 左手の指を、右の二の腕にきつく突き立てて、真冬は吐き出す。

「だから、わたしの身体からだがどんどん右側から動かなくなって、そのうち左側まで動かなくなって、しんぞうが止まって死んじゃったら、はくせいにしてあの人のところに送りつければ、たぶん自動ピアノの前に座らせて満足してくれると思う」

「……気持ち悪いこと言うのやめようよ」

 ぼくの言葉を振り払って、真冬はまた歩き出した。

 これまでけなかったことが、いくつも頭に浮かんだ。真冬はほんとうに消えてしまうつもりなのかもしれない、と思った。だからぼくは、それを一つ一つ、言葉にすることにした。

「おとうさんのこと、きらいなの?」

 しばらく答えはなかった。真冬はぼくの二歩前を、ちょっと足を引きずるようにしてゆっくり歩いていた。

「考えたこともなかった」

 真冬の声はアスファルトにぼたっと落ちてぼくのあしもとまで転がってきた。

「きらいとか、そういうのじゃなくて……底なし沼にだれも近づかないのと同じで」

「同じじゃないよ。きらいならきらいって言えよ」

 真冬はおどろいて立ち止まり、振り向いた。ぼくだって自分の声に驚いていた。でも、今さら口をつぐむわけにはいかなかった。

「……なんでそんなわかったようなこと言うの?」

「見ればわかるよ。おやがきらいなんだろ。ややこしいこと考えんなよ。こんの後で、ぼくは何度もてつろうに言ってやった。おまえは鹿はくじようでろくでなしで大きらいだって。おかげでぼくは母親だけじゃなくて父親もくしたけど、かわりに家族は全員喪くさずに済んだ」

 真冬は、顔をこうちようさせて髪をふるわせ、ぼくをにらみつけていた。それからふいときびすを返し、また歩き出す。

 ぼくにこんなこと言う資格はあるんだろうか。真冬のせんがはずれた後で、そんな考えがいてくる。ずり落ちそうになったギターを肩にかけ直して、ぼくは彼女の後を追いかけた。



 四駅ぶんくらい歩いたころだろうか、足が痛いと真冬が言い出した。ぼくらは線路沿いの小さな公園のベンチに腰を下ろした。狭い砂場とシーソー二台とベンチだけの、さみしい空間。

「右足?」

「ううん。両方。あれとは関係なくて」

 ただの歩きすぎらしかった。ぼくもギターケースのストラップが肩に食い込んでけっこうしんどかったので、きゆうけいはありがたい。

 星のないくもぞらを見上げると、ふと、なにしてんだろうこんなところで真夜中に──というまっとうな疑問が浮かんでくる。これからどうするつもりなんだ? ぼくは頭を振ってあしもとせんを落とし、その疑問を忘れることにした。

「昔から、足がすごく疲れやすかったり、よくつっちゃったりしたの」

 そんなんで、線路沿いに歩いて死体を探しに行こうとか言うなよ。

「……ああ、それでペダル全然使わずにくのか」

「それは関係ない。バッハはペダル使わないのが当たり前」

「いや、それにしたってペダルなしであの持続音テヌートは見事なもんだと思う」

「……そんなにわたしのCDいてるの?」

てつろうのところに送られてきたから。発売されたのは全部聴いたかな」

「気持ち悪い」

 自分の演奏だろうが。気持ち悪いってなんだよ。

「世界中にあるわたしのレコードがえちゃえばいいと思う」

 いやならろくおんしなきゃよかったのに。

「弾きたくもないのにピアノやってたわけ?」

 ふゆはうなずいた。

「弾いてて楽しいと思ったことなんてほとんどない」

「ショパンの『パピヨン』とか、すごい楽しそうに聞こえたけど」

ひようろんがよく、演奏してる人間の感情とかをいろいろかんぐったりするけど、ばかじゃないのって思う。楽しい気分じゃなくたって楽しい曲は弾ける」

 それはまあ、そうかもしれない。

 しょせんは音のれつだ。音楽に心が介在するとしたら、それは常に聴き手の中の問題。

「それでいやになって、もうピアノは弾きたくないってこと?」

「どうせ弾けない。親指と人差し指しか動かないもの」

 真冬は右手を持ち上げて開こうとする。

 中指と薬指と小指は、ぐったりと背を曲げたままだ。

「検査受けて手術すれば──」治るかもしれないだろ?

「だから逃げてきたの」

 右手を自分の胸に押しつけ左手でかばうようにして、真冬は言った。

はわたしとベートーヴェンの二番をきようえんするのが夢なんだって。どうしてその曲なんだろうってずっと思ってた。あんまり人気のある曲でもないのに」

 ベートーヴェンは五つのピアノ協奏曲を残した。第二番変ロちよう調ちようは、最近の研究だと第一番よりも前に作曲されたとされていて、ベートーヴェンの協奏曲中いちばん演奏かいが少ない。

「でも、いつだったか昔のろくおんを探してて気づいたの。ほかの四曲は、ママといつしよったのが録音で残ってた」

 それは──

 ぼくは開きかけた口をつぐんだ。

 考えすぎじゃないのか、とは言えなかった。

「それにどうせ、もう治らない。なんとなくわかるの」

 ふゆは左手で右手の手首を握りしめる。

「だって、わたしはあの人がピアノをかせるために作ったようなものだから。ピアノを捨てたら動かなくなる。すごく自然だと思う」

 どこが自然なんだ。自分で言っててばかじゃないのって思わないのか?

「じゃあ、なんでギター弾いてんだよ」

 うつむいたままの真冬の肩がぴくっとふるえた。

「しかもピアノでやってた曲ばっかりじゃんか。ほんとにピアノきらいなの?」

 真冬は下唇をみしめて、言葉を探していた。やがて、まぶたを閉じて息を吐く。

「最初は。……はじめてママと『ハンガリーきよく』が連弾できたときは、うれしかった。四歳くらいのとき。これピアノの上に置いて、よく一緒に録音した」

 真冬は、バッグの持ち手にぶらさげたテープレコーダーのりんかくを指でたどる。

 やっぱり、母親のものだったんだ。大切なものだって、言っていた。

「でも最初のうちだけ。なんでも弾けるようになったけど、ママはいなくなって、わたしはひとりになって。ピアノだけが残って……一曲終わるたびに次のがくが目の前に出されて。そんな感じ。ギターで、それが取り戻せるんじゃないかと思った。やっぱり最初はちょっと楽しかったけど、でも」

 ベンチの上に足を引きあげ、ひざひたいをあてて真冬は声をくもらせる。

「でも、弾いてると息が詰まった。弾かないともっと苦しかった。もう、わかんない。あの人に言われて曲を詰め込んでたときのことしか思い出せない。そうなる前にどんな気持ちだったのかもよくわかんない。どこに置き忘れてきたのかも。戻ってくるはずない。ずっとずっと昔にくしちゃったんだから。もう、見つからない」

 ぼくはいつの間にか目を閉じて、真冬の痛切な声を聞いていた。

 もう、見つからないだろうか。だとしたら、ぼくが真冬のためにできることは、もうなにもないんだろうか。

「……ひとりでいるからだよ。音楽って、それじゃだめになる」

 ぼくはそのとき、有名な推理小説の問答を思い出す。だれもいない森の中で倒れた木は音をたてるか? 答えはいなだ。だれの耳にも届かなかったら、それは音じゃない。ただ空気がふるえただけだ。

「ぼくもそれを、せんぱいあきに教えてもらった。だから……」

 ぼくは自分の言葉を見失った。なに言ってるんだこいつ。自分で捨てたじゃないか。ふゆを傷つけるだけだと知って、つくろおうともせずに、投げ出したじゃないか。

「……やっぱり、あの先輩が言ってたバンドに入れるつもりだったの?」

「え? ……ああ、うん」

 そうだった。個室を使えるようにするとか、ロックの意地とか、そんなことはちゆうからもうどうでもよくなっていた。ぼくは真冬といつしよにバンドがやりたかったんだ。先輩みたいに、最初から素直に言えればよかったのに。

「勝負に勝ったら、一緒に民俗音楽部に入ってもらおうと思ってた。あので、四人でバンドやろうって」

「バンドなんて……考えたこともなかった」

 真冬は、秋の終わりに渡り鳥を見送るときみたいな目になる。ぼくは顔をそむけた。

「ごめん。ぼくひとりで勝負だとかなんとか盛り上がって、勝手に押しかけて……なんか、いやなこと思い出させちゃったみたいだし」

「ちがう」ふゆはいきなり声を高くする。「ちがうの。あのときは。……ちょっと、思い出せた。楽しかったころのこと──『エロイカ』は、好きな曲だったし。あなたのベース、な音だった。わたしのギターとあわせて一つの楽器みたいだった。あんなのは、はじめて。ほうみたい」

 ぼくはうなだれる。もう一度同じベースを買ってきて、同じように改造して、あれと同じ音が出せるか? 絶対に無理だ。ほんの一ミリのずれで、電圧のちがいで、ひびきは別物になる。それはもう、せきの領域。

「……魔法なんだよ、たぶん。バンドって、そういうものなんだ」

「うん。『エロイカ』いてるときに、ちょっとだけ思った。右手が、戻ってきたみたいで。ママと弾いてた頃に、戻ったみたいで。あれがバンドの魔法なんだとしたら、……わたしもそこにいたいって」

「だったら」ぼくは顔を上げた。

 真冬の目の端に、がいとうを照り返す光の粒があった。

「でも、わたしには無理。だれかといつしよに……バンドやるなんて」

「無理? なんで?」

 真冬はひざがしらひたいをこすりつけるようにして首を振る。

「だから。きっとまただめにする」

「なに言って──」

「だって捨てちゃったんでしょ。わたしが、こわしたから」

 真冬がつぶやく。ぼくは言葉をみ込み、自分の二の腕をぎゅっと握りしめた。

「どうしてあんなことしたのか、自分でもわからない」

 あのとき、真冬はぼくのベースをもぎ取ってゆかたたきつけたのだ。

「あのベースのせいで、いろんなこと思い出したから。もう消えちゃったものなのに。それが、つらく、て」

 真冬は言葉をころして、自分の右手首を左手できつく握った。ぼくは耳をふさいでしまおうかと思った。

 やがて真冬は小さく息を吐き出す。

「……ごめんなさい」

 真冬があやまることなんてない。ぼくは首を振る。

「みんなわたしが壊したんだよね。……ほんとうだね、ひとりだと、だめになる」

 真冬はベンチの上に両膝を抱え上げて、腕を重ねて顔をうずめた。

「こんなこと話してもしょうがない。あなたのベースが戻ってくるわけじゃないし。わたしだって、もう……」

 くぐもった真冬の声。

 そんなことをふゆに言ってほしくなかった。こんなことのために、ついてきたわけじゃなかった。ぼくは。

 ぼくに、できること──

 言葉は、ひとりでにぼくの口からこぼれ落ちた。

「消えたわけじゃないよ。探しに行こう」

 真冬はゆっくり顔を持ち上げてぼくを見た。少しまぶたがれている。

「……なに?」

「探しに行くんだよ。ベース。捨てちゃったやつ。直せば使える」

「だ、だって……」

 真冬はぐずっと鼻を鳴らす。

「いつ捨てたの? もう持ってかれちゃったんでしょ」

一昨日おととい。もう回収車が持ってっちゃった」

「どこに持ってったか知ってるの?」

「知らないよ。だから探すんじゃないか」

 ぼくは立ち上がった。真冬はひざを抱え、ほうに暮れた目でぼくを見上げている。

「見つかるよ」

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