15 レイラ、線路、失くしたもの
ぼくはそのとき、自分の
最初その音は、スピーカーの中でジム・ゴードンがずかずかと踏み鳴らすバスドラムに埋もれてほとんど聞こえなかった。でも、曲が静まってあのピアノリフが流れ出すと、ぼくはそれに気づいた。カーテンの向こうで、ガラス窓を
もちろん、
窓の外──張り出した屋根の上に立っていたのは、真冬だった。たしかに、真冬だった。きつい風にあおられた長い
「……な」
声を出そうとしたけど、うまくいかなかった。
「入ってもいい?」
真冬は無表情に言って、まずギターを肩から
「え……あ、う、うん」
混乱しきった頭のまま、ぼくはギターを受け取ってすぐ横の
まだ信じられなかった。どこから夢の続きだったんだろう?
「……本物?」
部屋の中を見回している真冬に向かって、思わず
「なにが?」
「え。いや。だって。おかしい。ここまで登れるはずないよ」右手動かないのに。
「手首は動くから」
真冬はこともなげに言って右手をひらひらと振ってみせた。手首どころかひじまで
真冬はぼくの
「学校で
それからぼくのベッドに腰を下ろした。
それにしても。
「なんで──」ここにいるのか。その、単純で核心的な質問を、ぼくはなぜか口に出せなかった。
かわりに出てきたのは、こんな言葉。「なんでぼくの家知ってんの?」
「……ジョン・レノン?」
それは一枚のCDだった。あの日、屋上でぼくが
「あの人の言いつけでずっと
ぼくは、わけがわからなくなって真冬の顔を見る。彼女は首を
「あなたじゃないの? 病院まで
「そんな
ぼくは
「……
学校に来てないと思ってたら、こんなことやってたのか……ていうか、どういうつもりなんだろう。真冬にぼくの家を教えて、なにをさせたいんだ?
「あの、髪長くて目つきが
「うん。……たぶん」
「あの先輩と、いつも……」と真冬は言いかけて、ぼくの
ベッドに戻って腰を下ろす真冬。ぼくは、ベッドに近づくわけにもいかず、逃げ出すわけにもいかず、
「あの……ええと」慎重に言葉を
「なんのこと?」
「いや、だからその……右手の、こと」
「
こっちだって気が滅入ってきたよ。
「それに、あなたはべつに……悪くない」
そう言って真冬はまた顔をそむける。
「あなたのせいじゃない。たまにああなるの。わたしの
ぼくは、しばらく言葉を失った。右の方からどんどん動かなくなる?
「なんでそんな、
「だって、他人事みたいなものだから」
真冬は顔を伏せたまま、少しだけ笑った。はじめて見た彼女の
「動かなくなっても、わたしはあんまり困らない。あの人とか、レコード会社の人とかは困るかもしれないけど」
「え……あ、いや、そういえば、アメリカ行くんじゃなかったの? あっちの病院で検査とか手術とかって」
「うん。あの人は
「じゃ、じゃあこんなとこに──」
「だから、逃げてきた」
ぼくは息のかたまりを吐き出した。逃げてきた? そういえばこいつ家出の常習犯だっけ。
「最初から、そうするつもりだったの。あっちに連れていかれる直前になったら、逃げることに決めてた。右手なんて、治んなくてもいい。ギター持って、逃げ出して、遠くまで、ずっと遠くまで、足がほんとに動かなくなっちゃうまで……」
真冬は、ぎゅっと目をつぶった。涙をこらえているみたいに。
『六月になったらわたしは消えるから』。
そういう意味だったのか。
それで?
ぼくは
遠くまで逃げて、それで、どうするの?
真冬に答えられるはずがないのはわかっていた。ぼくだってわからない。なにかから逃げるとき、人間はそんなことを考えたりしない。ただ必死で走って、
「……なんで、ぼくのとこに来たの」
「だって」
たしかに言った。そのときの真冬は、右腕を切ってよこせとか、ピアノ始める前まで時間を戻せとか──ああ、そういうことだったのか。ぼくは今さら泣きそうになる。
真冬は、ちゃんとぼくに教えてくれていたじゃないか。ぼくが気づかずにいただけで。
「だから」
真冬はちょっと言いにくそうに、またうつむく。
「わたしの手、こんなだから……荷物、あんまり持てないから。だから、
そこまで言って、真冬はぎゅっと目をつぶり、首を振った。
「なんでもない。ごめんなさい」
真冬は立ち上がった。ぼくの横を通り抜けて、ギターをまた肩にかける。靴を手に窓から出ようとしたとき、ぼくは思わず声をかけていた。
「ちょっと待って」
真冬は振り向く。まっすぐ
「……玄関から出れば?」
「お
「
「そう。でも、木登りなんてはじめてだったから、けっこう楽しかった」
全然楽しくなさそうな顔で真冬は言った。いや、そうじゃなくて!
「……わかったよ。
真冬はぼくの顔をじっと見つめて、何度も
「……え?」
「ぼくも行く」
庭の木陰に、真冬の持ってきた小さめのスポーツバッグが置いてあった。持ち手のところには、いつだったかぼくが直してあげたテープレコーダーがぶらさげてあった。
「ほんとについてくるの?」
「自分で一緒に来いって言ったんだろ」
「そうだけど、でも、どうして──」
どうしてなのか、ぼくにもわからなかった。どこへ行くのかも。
ただ、このまま真冬ひとりを行かせちゃいけない。それだけはわかった。
バッグを取り上げて肩にかける。軽かった。
「ねえ、ベースはどうしたの。
暗がりの中で、ふと
「捨てた」
「……どうして? ……あっ」
真冬の声がうわずる。
「あ、あのとき? わ、わたし、よく
「いや、そうじゃなくて。壊れてなくたって、たぶん捨ててた」とぼくは言った。
「……どうして」真冬の顔はもっとずっと
どうして? ぼくは少し考え込む。
「……いやに、なったから」
「ロック好きだったんじゃなかったの」
そういうストレートで
「最初のうちは楽しかったよ。練習してる間は。でも──」
ぼくは口ごもる。どうして捨ててしまったのか、自分でもうまく説明できない。
「……あ、あのときの、わたしのあれ、気にしてるなら」
ぼくは首を振って真冬の言葉を
「早く行こう、
夜の
真冬を門の外に押し出し、バッグを肩にかける。
「どこ行く?」
「どこ行けばいいと思う?」
ぼくらは、むなしくばかばかしい質問を
それから、どちらからということもなく、歩き出した。
ところがぼくらの逃亡計画はいきなり
「どうしようか」と、ぼくは
「
いつかぼくが言ったでまかせを
「歩くのかよ。疲れるよ?」
こないだみたいに右足が動かなくなったらどうすんだよ。
「凍死っていちばんきれいな死に方だって聞いた。ほんとう?」
「六月の日本で凍死できるわけないだろ。というかさ、さっきから疑問だったんだけど」
「なに?」
「なんでギターとバッグ、両方ともぼくが持ってるんだろう」
ギターの方もいつの間にか任されていたのだ。さすがに重い。
「だって荷物持ちでしょ」
「ちが……」ちがわないっけ、そういえば。
線路に沿ってほんとうに歩き出した真冬の背中を、ぼくは追いかける。
フェンス越しに暗い線路を右手に見ながら、ぼくらはゆるい上り坂を歩いた。真冬はなぜか、ぼくの母親のことを聞きたがった。
「あなたのお
「お
「そりゃ憶えてるよ。離婚したのは小学校に入る年だったし、今でも月一で
「どんな人?」
「哲朗と結婚しようなんて
「ふうん」真冬は線路の方を向いてしまう。
そういえば真冬も両親離婚して父親に引き取られたんだっけ。それで母親のことを知りたかったのかな。
「わたしのママは」と、真冬は顔をそむけたまま言った。
たぶん
「でも、ママは逢ってくれなかった。
真冬は不意に立ち止まった。動かない右手の指をフェンスに押しつけ、そこに
「あの人は、わたしがママそっくりだって言ってた。だからママも、たぶん、気味が悪くて顔を見たくなかったんだと思う。ママもピアニストだったし──」
「その次の日はもうロンドンに飛んでたの。それで、コンサートの直前にいきなり指が動かなくなった。気にしてなかった、はずなのに」
左手の指を、右の二の腕にきつく突き立てて、真冬は吐き出す。
「だから、わたしの
「……気持ち悪いこと言うのやめようよ」
ぼくの言葉を振り払って、真冬はまた歩き出した。
これまで
「お
しばらく答えはなかった。真冬はぼくの二歩前を、ちょっと足を引きずるようにしてゆっくり歩いていた。
「考えたこともなかった」
真冬の声はアスファルトにぼたっと落ちてぼくの
「きらいとか、そういうのじゃなくて……底なし沼にだれも近づかないのと同じで」
「同じじゃないよ。きらいならきらいって言えよ」
真冬は
「……なんでそんなわかったようなこと言うの?」
「見ればわかるよ。
真冬は、顔を
ぼくにこんなこと言う資格はあるんだろうか。真冬の
四駅ぶんくらい歩いた
「右足?」
「ううん。両方。あれとは関係なくて」
ただの歩きすぎらしかった。ぼくもギターケースのストラップが肩に食い込んでけっこうしんどかったので、
星のない
「昔から、足がすごく疲れやすかったり、よくつっちゃったりしたの」
そんなんで、線路沿いに歩いて死体を探しに行こうとか言うなよ。
「……ああ、それでペダル全然使わずに
「それは関係ない。バッハはペダル使わないのが当たり前」
「いや、それにしたってペダルなしであの
「……そんなにわたしのCD
「
「気持ち悪い」
自分の演奏だろうが。気持ち悪いってなんだよ。
「世界中にあるわたしのレコードが
いやなら
「弾きたくもないのにピアノやってたわけ?」
「弾いてて楽しいと思ったことなんてほとんどない」
「ショパンの『
「
それはまあ、そうかもしれない。
しょせんは音の
「それでいやになって、もうピアノは弾きたくないってこと?」
「どうせ弾けない。親指と人差し指しか動かないもの」
真冬は右手を持ち上げて開こうとする。
中指と薬指と小指は、ぐったりと背を曲げたままだ。
「検査受けて手術すれば──」治るかもしれないだろ?
「だから逃げてきたの」
右手を自分の胸に押しつけ左手でかばうようにして、真冬は言った。
「あの人はわたしとベートーヴェンの二番を
ベートーヴェンは五つのピアノ協奏曲を残した。第二番変ロ
「でも、いつだったか昔の
それは──
ぼくは開きかけた口をつぐんだ。
考えすぎじゃないのか、とは言えなかった。
「それにどうせ、もう治らない。なんとなくわかるの」
「だって、わたしはあの人がピアノを
どこが自然なんだ。自分で言っててばかじゃないのって思わないのか?
「じゃあ、なんでギター弾いてんだよ」
うつむいたままの真冬の肩がぴくっと
「しかもピアノでやってた曲ばっかりじゃんか。ほんとにピアノきらいなの?」
真冬は下唇を
「最初は。……はじめてママと『ハンガリー
真冬は、バッグの持ち手にぶらさげたテープレコーダーの
やっぱり、母親のものだったんだ。大切なものだって、言っていた。
「でも最初のうちだけ。なんでも弾けるようになったけど、ママはいなくなって、わたしはひとりになって。ピアノだけが残って……一曲終わるたびに次の
ベンチの上に足を引きあげ、
「でも、弾いてると息が詰まった。弾かないともっと苦しかった。もう、わかんない。あの人に言われて曲を詰め込んでたときのことしか思い出せない。そうなる前にどんな気持ちだったのかもよくわかんない。どこに置き忘れてきたのかも。戻ってくるはずない。ずっとずっと昔に
ぼくはいつの間にか目を閉じて、真冬の痛切な声を聞いていた。
もう、見つからないだろうか。だとしたら、ぼくが真冬のためにできることは、もうなにもないんだろうか。
「……ひとりでいるからだよ。音楽って、それじゃだめになる」
ぼくはそのとき、有名な推理小説の問答を思い出す。だれもいない森の中で倒れた木は音をたてるか? 答えは
「ぼくもそれを、
ぼくは自分の言葉を見失った。なに言ってるんだこいつ。自分で捨てたじゃないか。
「……やっぱり、あの先輩が言ってたバンドに入れるつもりだったの?」
「え? ……ああ、うん」
そうだった。個室を使えるようにするとか、ロックの意地とか、そんなことは
「勝負に勝ったら、一緒に民俗音楽部に入ってもらおうと思ってた。あの
「バンドなんて……考えたこともなかった」
真冬は、秋の終わりに渡り鳥を見送るときみたいな目になる。ぼくは顔をそむけた。
「ごめん。ぼくひとりで勝負だとかなんとか盛り上がって、勝手に押しかけて……なんか、いやなこと思い出させちゃったみたいだし」
「ちがう」
ぼくはうなだれる。もう一度同じベースを買ってきて、同じように改造して、あれと同じ音が出せるか? 絶対に無理だ。ほんの一ミリのずれで、電圧のちがいで、
「……魔法なんだよ、たぶん。バンドって、そういうものなんだ」
「うん。『エロイカ』
「だったら」ぼくは顔を上げた。
真冬の目の端に、
「でも、わたしには無理。だれかと
「無理? なんで?」
真冬は
「だから。きっとまただめにする」
「なに言って──」
「だって捨てちゃったんでしょ。わたしが、
真冬がつぶやく。ぼくは言葉を
「どうしてあんなことしたのか、自分でもわからない」
あのとき、真冬はぼくのベースをもぎ取って
「あのベースのせいで、いろんなこと思い出したから。もう消えちゃったものなのに。それが、つらく、て」
真冬は言葉を
やがて真冬は小さく息を吐き出す。
「……ごめんなさい」
真冬が
「みんなわたしが壊したんだよね。……ほんとうだね、ひとりだと、だめになる」
真冬はベンチの上に両膝を抱え上げて、腕を重ねて顔をうずめた。
「こんなこと話してもしょうがない。あなたのベースが戻ってくるわけじゃないし。わたしだって、もう……」
くぐもった真冬の声。
そんなことを
ぼくに、できること──
言葉は、ひとりでにぼくの口からこぼれ落ちた。
「消えたわけじゃないよ。探しに行こう」
真冬はゆっくり顔を持ち上げてぼくを見た。少しまぶたが
「……なに?」
「探しに行くんだよ。ベース。捨てちゃったやつ。直せば使える」
「だ、だって……」
真冬はぐずっと鼻を鳴らす。
「いつ捨てたの? もう持ってかれちゃったんでしょ」
「
「どこに持ってったか知ってるの?」
「知らないよ。だから探すんじゃないか」
ぼくは立ち上がった。真冬は
「見つかるよ」