12 記憶、約束、言い訳
練習で明け暮れている間に、二週間があっという間に過ぎて、五月の終わりがやってきた。ぼくの左手の指先は、乾いた泥みたいに
「ベーシストらしくなってきたね」
E.T.みたいに指先を触れ合わせながら、先輩は笑ったものだ。
でも、
五月第四
すべてを終えて南京錠をかけ、校舎の方へ戻ろうとすると、角を曲がったところでばったり真冬と
お互い、思わず立ち止まってしまった。どちらからともなく
あの日以来、ほとんど一言も口をきいていなかった。そのせいで、クラスの連中がお姫様への
「もう、あきらめたの?」
「……え?」
「ベース。前は屋上で
「まだやってるよ? 最近は北校舎の方の屋上で練習してる。
「
そりゃ嘘だけど。ここんとこナガシマ楽器店によく通って、先輩の知り合いのベーシストさんに練習を見てもらっていたのだ。必死に練習していたことはあんまり知られたくなかったので、つい嘘が出てしまった。
「……ていうか、捜した? って?」
「あ、あのっ、ちがうの、そうじゃなくて。ちょっと気になっただけで」
「……こないだの、あれ、気にして……るんじゃないかと、思って」
ぼくは
「あれは、忘れて。なんでもないから。気にしないで」
忘れて。真冬が何度も、口にした言葉。
ぼくは、少しだけ腹を立てている自分に気づいた。だから、正直に言葉を吐き出した。
「あのさ、人間の脳みそをなんだと思ってんだよ。ハードディスクじゃないんだから、
真冬は、その大粒の
「一言も忘れてないからな。ベースならついてこれるとでも思ってるのか、とか言ったのもちゃんと
「……なに? 勝負って」
「だからベースとギターで勝負。ぼくが最後まで演奏についてけたら勝ち。勝ったら、あの
「本気で言ってるの?」
当たり前だ。ぼくはそれ以上なにも言わずに、真冬の横を通り抜けて歩き出した。
はっきり言って、自信はこれぽっちもなかった。でも、
あの、ほしいものを手に入れるためにはどんな(汚い?)手でも使う人が口にするせりふとしては、背筋が寒くなるくらい心強いものだった。すがれるものは、
「なかなか言うようになったじゃないか少年」
屋上に戻るなり、フェンス
「ほんの三週間前の負け犬と同じ人物だとは思えないよ」
「負け犬言わないでください」と、ぼくは先輩から目をそらして言う。どうもあの日以来、この人の顔をまともに見るのが
「考えてみれば、ぼくにはなに一つ損のない勝負だから。負けたとこで、どうせあの部屋を使えないのは元からだし。先輩とじゃんけんしたときと同じです」
そんなひねくれた考え方は、もちろん半分くらいは
「あのじゃんけん勝負で私がやったことを
ぼくは
「べつに私はきみの心理を読んで裏の裏をかいたわけじゃないよ。そんなことをしたところで、あんな単純な勝負の勝率は上がらない。じゃんけんの必勝法はなんだと思う?」
「さあ」ていうか必勝法なんて使ってたの?
「
「なっ」
「私が指にピックを挟んだことに、とくに深い意味はなかったんだ。ただきみを混乱させて、手を出すリズムをこっちの型にはめる。そのためだったんだよ。
ぼくは
「戦いは始める前に終わっている、とは、こういうことだよ。いかに相手を自分のフィールドに引きずり込むか、だ。さて、じゃあ、どうして
そう言って先輩は、ぼくのギターケースの背ポケットから
「この曲を選んだ理由は四つある」と、先輩は語り出した。
最初から教えろよ、とぼくはちょっとだけ思った。なにせここ数日の間、なんでこの曲で、なんでこんなアレンジなんだろう、と
「──勝てる気が、してきた?」
「ううん……ほんのちょっと」
ぼくは正直に答える。勝率倍増! 0・2%になりました、みたいな気持ちだった。先輩は笑ってぼくの肩を肩で突き飛ばした。
「それでいいよ。きみの戦いがどうなるのかは、きみにしかわからない。私がわかるのは自分の戦いの行く末だけだよ。私が戦うわけじゃないからね」
「先輩がぼくのかわりに行ったら、勝てる……ってことですよね?」
ぼくは弱々しく
「勝てるものか」
ぼくは少し
「前に言ったじゃないか。きみじゃなきゃだめなんだ」
ぼくは答えられず、またうつむく。
その鼻先に、
「じゃあ、最後の準備だ。
目を上げると、それは、
ぼくは目をそらしてはぐらかす。
「ええと……それはまだちょっと保留させてください」
「なぜに? これだけ教えてあげたのに。ひょっとして、私のことがきらい、なのかな?」
どうせ演技のくせにそういうしょんぼりした顔しないでください。
「その。なんというか」
ぼくはベースを
「まだそんな資格ないと思うんです。先輩も
「きみが私たちについてくるんじゃないよ。その逆だ。前に言ったよね?」
「でも、どっちにしろ、今は決められないです。だから」
ベースを持ち上げ、じっと弦に目を
「だから、真冬に勝って、あいつを入部させられたら……」
「勝てたら入部する?」
ぼくはうなずいた。
だって、それくらいでないと、なんか
「じゃあ、負けたらどうする」
先輩の言葉に、ぼくは息を止めた。それは、考えないようにしていたこと。
でも、やっぱり今決めなきゃいけない。
「……負けても、ベースは続けますよ。でも、バンドには入りません。だって、ここまで先輩に世話になっといて、負けても自分だけ入れてくれとか、言えないです」
少しの
「きみは誇り高い男だね。最近わかった」
先輩は
「いいだろう。じゃあ、これは遠い日の約束として、しまっておくよ」
先輩はぼくの
「……なんでこんなとこに」
「ほら、ちょっとだけ紙がこすれあう音がするだろう」
先輩はぼくの膝に戻したベースの弦をはじいた。紙がこすれあう音なんて──
「いや、聞こえませんよ」
「私には聞こえるよ?」あんたの耳は猫なみだろうが。「
んなわけあるか。
「というのはこじつけとして、おまじないだよ。武士が
「私たちの約束は、いつでもきみとともにある。忘れないで」
ちょっとためらってから、ぼくはうなずく。
「幸運を祈るよ」
「最近、なんか真冬ちゃんにちょっかいかけてるみたいだけど」
帰りの電車でたまたま
「いや、ちょっかいっていうか」
「素直に、一緒に
言えると思うんですか? ぼくが? 真冬に?
「で、なにしてるわけ? 二年の
「ええと、その」
首の後ろをものすごい力でつかまれたので、ぼくは白状した。
「ギター勝負?」
麻紀先生は
「ばかばかしいっていうか神楽坂さんらしいっていうか……」
ため息混じりの先生の感想。神楽坂先輩、
「で、真冬ちゃんはやるって答えたの? まさか」
「いえ。あきれてました」
「だよねえ。どうすんの。ほんとにそんなことやろうと思ってんの?」
「まあその
ぼくは言葉を
麻紀先生はしばらく、形のよい
「あのね。真冬ちゃんの相手をしてくれるのはありがたいんだけど、あんまり
「はあ」
そう言われても、一方的にデリカシーを要求されるのもなんだか腹立たしい。だってぼく、あいつにとんでもないこといっぱい言われてるんですよ?
「ううん」先生は腕組みして、言葉に迷うそぶりを見せる。「あれ、たぶん半分くらい
「……なんですか、心因性って」
先生は口をつぐんで、ぼくの顔をまじまじと見た。それからうつむき、「ナオくんになら、教えても……」とかすれた声でつぶやき、すぐに首を振って打ち消した。
「やっぱり私からは言えない。
心因性。ぼくは、あのとき真冬が握りしめていた薬袋をふと思い出した。
やっぱり真冬はどこか悪いんだろうか。そうは見えないけど、でも──
「あの、先生」ぼくは、もう一つ思い出したことを
「転校? どうして?」
「……あ、いえ。なんでもないです」
六月になったら消える。あれは、じゃあ、どういう意味だったんだろう。ぼくはまた
「ギター勝負ねえ。若いなあ。でも、いいことかもしれない」
「真冬ちゃん友達つくろうともしないし。そうやって無理にでも部活に引っぱり込んだ方がいいのかも。そしたら
「ぼく、勝てると思ってます?」
「ううん全然」
即答された。ぼくはつり
「だってあの子、ギター始めたの半年前だって」
「マジすか」半年であそこまで上達すんのかよ。神様は不公平すぎる。
「でも、やらなきゃいけないときってのがあるんでしょ? がんばれ男の子。真冬ちゃんを泣かせたらただじゃおかないぞ」
そう言って先生はぼくの背中を引っぱたいた。
その夜、
自室のベッドに腰掛けて、ベースを
特別な曲だ、と思った。あれが
あきらめてオーディオを止めた。
ベースのチューニングをしながらふと、真冬に向かって「負けたら二度と近づかない」などと言い放ってしまったことを思い出した。うわあ。ちょっと頭にきていたとはいえ、なに言ってんだあのときのぼく。あれは
これで負けたら、と思う。
真冬に話しかける口実も、なくなっちゃうのかな。
それに、負けたら民俗音楽研究部には入らない、とも言ってしまった。だって、勝てなかったとしたら
ぼくは、あの日スタジオで弾いた『カシミール』を思い出す。息も詰まるほどの、焼けるように甘い
なに一つ損がないなんて、まるっきり
いつの間にか、失うかもしれないものがたくさんできていた。失いたくないものが。
負けたら──
首を振って、その考えを追い払った。もう、そんなことを考えてもしょうがない。