8 王女、革命家
その日の
「遅いじゃないか少年。チャイムが鳴り終わってしまった」
「いや、先輩が早すぎるんですよ……」
授業があるのに、チャイムが鳴り終わる前に屋上に到着できるわけないだろ。
「この時間帯、ちょうど向かいの工場の時報メロディと、
「はあ」ていうか危ないですよ、そんなとこに座ってたら。
先輩はフェンスから飛び降りてぼくの目の前に着地した。
「入部の決心はついた?」
「ええと」ベースを肩から下ろしてフェンスに立てかけ、ぼくは少し言葉に迷う。「ベースは、教えてください。でもバンドには……」
「どうして?」
「いや、ぼくはあの
「でも、私に呼ばれるとちゃんとここにやってくるんだね」
「だって、
「教わることは教わっておこうというわけだ。私がきみを利用するように、きみも私を、と」
ちょっと人聞きの悪い言い方だったけど、ぼくはうなずいた。真冬に勝つためには、なりふりかまっていられない。
すると、先輩はそこで
「うん。わかった。もう負け犬の顔じゃないね」
いつもの
「いいだろう。どうせきみは入部することになる。予言しておくよ。それじゃ始めよう」
先輩はかがみ込んで、
「……でも、なんで屋上で練習するんですか?」
「少年は、ベースの
弦を袋から取り出してほどきながら先輩が言う。
「んー……
一定のテンポに合わせて、人差し指から小指まで順番にフレットを押さえながら一音ずつ
「その前にやるべきことがある。だから屋上に呼んだんだ」
先輩は弦の両端を持ってぴんと張った。
「この屋上から、向かいの校舎の屋上まで、ベース弦をつないだ
ぼくは
「……えぇ?」
「弦に命を預けられるくらいの信頼がなければベーシストにはなれない。あちらの屋上できみの無事を心から祈っているよ。落ちたらたぶん死ぬからそのつもりで」
「いや、いやいやいや、なに言ってんですか?」
先輩はやれやれと肩をすくめた。
「ベーシストには命を
「だれですかその、日本でいちばん有名なベーシストって……」
「
「ドリフのコントじゃねえかよ!」ぼくはギターケースを
「ドリフターズはちゃんとしたミュージシャンだぞ。ビートルズの前座もつとめた。失礼
「知ってますよ話をそらさないでください!」
「
こ、この人は……。
もうなにを言っても
「屋上に呼んだほんとうの理由は、あれだよ」
それにしても、タオルで防音するやり方教えたはずなのに、どうして音がまだ聞こえてるんだろう。ゆったりしたメロディは、ラヴェルの『
「七日前のことだ」
神楽坂先輩は、フェンスに背中を押しつけて空を
「私は一時間目から授業をさぼってこの場所で街の音を
学校になにしに来てんだ、この人。
「そうしたら、
「
「第二十四番ロ
ぼくの
「あのう、先輩?」
「ん?」
「真冬は女の子ですよ?」
「それがどうした。私は
「しれっととんでもないこと言わないでください」
「まさか一年足らずであそこまでドラムが上達するとは私も思ってなかったな」
「
「大丈夫。同志
「公認で手当たり次第かよ」
もうあきれてものも言えない。こんな人だとは──思ってたけど。今からでも遅くないから独学で練習しようかな。そんなことを考えながらぼくはチューニングを始めた。
「ところが
ぼくははっとして顔を上げた。
「だからきみの力が必要なんだ、少年」
ぼくはなんだか先輩の顔を直視できなくなって、手元のベースにまた目を戻した。そんなことをだれかに言われたのは、生まれてはじめてだった。いや、ちょっと待て、落ち着いてよく考えろって。先輩も自分で言ってた。ぼくは利用されてるだけじゃないか。
「要するに可愛い女の子集めたいだけなんですか? まじめにバンドやるんじゃなくて」
ぼくがストレートに疑念を口にすると、
「少年は、人間がなんのために生まれてきたか知ってる?」
なんだよいきなり。知るかそんなの。
「答えは
不意に、ざあと風が鳴って、先輩の長い髪を巻き上げた。ぼくは肩にその風を少し感じただけで倒れそうになってしまった。なんでこんな話してるんだろう、どこかでぼく、人生間違えたっけ? なんてことを
「レフ・トロツキーという男のことは……知らないだろうな」
もはや首を振る気力すらない。
「最後から二番目の革命家だよ。政争で
先輩は
「彼の不運は、隣にポール・マッカートニーがいなかったことだ。最後の革命家には──ジョン・レノンには、ポールがいた。幸運なことにね」
先輩はハイ・ポジションを押さえると、弦を指の
「だから、私の中で恋と革命と音楽は不可分なものなんだ。永続革命を推し進める力と、私だけのポールを探し求める力と、その
質問への答えだったのか……。
「いやもうなに言ってんのかさっぱりわかりません」
ぼくがなんとか感想を言葉にして吐き出すと、
「しょうがないなあ。きみの頭に合わせてわかりやすく言うと、こういうことだよ。
「最初っからそう言えよ!」ぼくはまたギターケースを
「きみはもうちょっと詩心というものを持った方がいいよ」
「先輩のは、ただ人をおちょくってるだけじゃないですか。得意げな顔しないでください
「少年の反応が
先輩は照れ笑い。つい、じゃねえ。
「さ、ベースの改良をしよう。きみはすぐ
ぼくか? ぼくが悪いのか? なにか言ってやろうと口を開いたぼくの腕に、ベースが突っ返される。
「練習の前に、まずサウンドを
先輩は
「……って、いきなり改造するんですか」
「きみのアリアプロⅡは安物とはいえ、私が
先輩はフェンスの下を指さす。きらびやかな真冬の
先輩と
「……このサウンドはグレッグ・レイクのベースに匹敵するよ」
二時間くらい後。
「私のレスポールもきみに頼もうかな。もうちょっと音をダークにしたいと思ってたんだ」
「いや、そんな高いギターいじる度胸ないです」
先輩は笑って工具やゴミを片付けた。
「練習はできる限りアンプにつないでやるようにね。本番で鳴らすのと同じ音を
ぼくはうなずいて、再びベースをミニアンプにつないだ。買ってすぐとは比べものにならない切れ味になっている。
先輩に
「当然ながら、地味な反復練習などはやらせない。必要なのはたしかだけど、そういうのは家でやること。きみにはいきなり曲を
先輩は一枚の
「なんの曲かわかるね?」
タイトルは書いていなかったけど、一目でわかったぼくはうなずいた。
「ベースというパートが目立たないことは私も否定しない。なにより、ベースを弾いただけでだれもがそれとわかる曲がほとんどない。
それは、ベン・E・キングの『スタンド・バイ・ミー』だった。ダッ……ダッ……ダダダッ……ダッ……というベースパターンには、たしかに、わずか二小節でこの歌を
「じゃあ、メトロノームに合わせてずっとこれを弾いてること。夜がやってきてあたりが暗くなり月明かりしか見えなくなるまで、ね」
さらっと歌詞を引用すると、
先輩には
違和感は、練習を始めてから一時間くらいたった
メトロノームのテンポを少し速めて、また最初から弾き始める。今度は歌詞を口ずさみながら。メロディとベースはリズムがちがうので、これはけっこう
でも、ぼくの指はまたさっきの違和感で止まった。
屋上の出入口のドアが、閉まっていたはずなのに、今はほんの少し開いている。ぼくはベースをフェンスに立てかけると、ドアに
「……なにしてんの?」
すんでのところで倒れるのをこらえた真冬は、ぼくの手を振り払った。ぷいと横を向いて答える。
「なんか、上の方がうるさかったから」
ぼくはちょっとびっくりして、背中越しに自分のベースにちらと目をやる。聞こえてたのか。全然音量出してないんだけどな。
「なんでこんなとこで練習してるの」と、真冬は
「タオル詰めて防音するやり方教えたじゃんか」
「あんなことしたら、なにかあったときすぐに逃げられない」
なにかあったとき?
「だから……なにか、出たとき……とか」
真冬はうつむいて言葉をぼやかす。
「ああ、ムカデとかゴキブ」「わーっ! わーっ!」両耳を手でふさぐと、真冬はぼくの脚を何度も
ばかばかしくなったのでベースを置いてあるところまで戻ると、なぜか真冬もついてくる。
「えっと……なに?」
「音ずれてる」
真冬はぶすっとした顔でぼくのベースを指さした。
「え?」
「三弦が低すぎるの。さっきからずっと気持ち悪くてしょうがなかった。気づいてないの?」
チューナーにつないでみると、たしかに少しだけチューニングがずれていた。三階下から聞いててよくわかったな、こんなの。
「貸して」
「こいつはありがとう。一回十円払うからこれからもお
「ばか」
ふと思いついて、『スタンド・バイ・ミー』を
「なんて曲?
「『スタンド・バイ・ミー』っていう歌」
「……どんな歌?」
「どんな、って……ううん。
真冬は
「またでまかせ?」
「いや、
しばらくの間、真冬は屋上出入口のドアのところに腰を下ろして、ぼくのたどたどしいベースに聴き入っていた。ていうかいつまでここにいるんだよ。やりづらいから早く帰れよ。真冬にじっと見つめられているせいで、ぼくは何度も運指を間違えた。
「楽しい?」
いきなり真冬がぼそっと言うので、ぼくは手を止めて顔を上げた。
「……弾くの、楽しい?」
「うん、まあ。弾きたい曲がだんだん弾けるようになるのはけっこう楽しいよ」
「そう」
真冬はものすごくつまらなさそうな顔をしてまた
「ギター楽しくないの?」と、ぼくは真冬に同じ問いを返す。
「全然」
「楽しくないならやめればいいのに」
「あなたも死ねばいいのに」
ぐっとベースのネックを握りしめて、深呼吸した。よし、大丈夫。怒ってない。いちいち
「楽しくもないのに、なんで毎日個室にこもって弾いてんだよ。家でピアノ弾いてろよ」
「あなたには関係ない」
関係ありまくりだよ。
「あのさ、
「なんで金曜日すぐ帰るって知ってるのっ? 変態」
変態関係ねえ。見てればわかるだろ、そんなの。
「やだ。絶対近づかないで」
会話はそこで
ぼくが
「──お姫様?」
真冬は
「あなたまでそうやって呼ぶのっ?」
「じゃあなんて呼べばいいんだよ。
ものすごい目でにらまれた。
「真冬さん」
今度は斜め下に
「なにか用があるんならちゃんと言いましょうって、
「なんだかえらそう」
おまえが言うのかよそれ? ところが、ぼくがにらみかえすと、真冬は視線をそらし、ものすごく言いにくそうにぼそりとつぶやいた。
「……棚の裏で、なにかカサカサいってたの」
ん? ……ああ、それで逃げてきたのか。
「殺虫剤あるだろ」
「
いや、それ使い方ちがう。バルサンじゃないんだから。
「直接かけないと効果ないよ?」
「わたしにそんなことやれっていうのっ?」
髪を
「どうしてもいやならおとなしく部屋を明け渡せば?」
「
真冬は
でも、どうしても気になって、フェンスの外を見下ろしてしまう。
個室のドアの前で、
カサカサいう音の正体は虫ではなかった。裏庭まで下りて練習個室に踏み込んだぼくが棚をずらしてみると、
見つけるのは完全にあきらめていたので、かなり