7 タオル、殺虫剤、ガムテープ
エレクトリックベースは、ギターと比べて
神楽坂先輩の口車に乗せられて買ってしまったベースを翌朝教室に持っていったぼくは、さっそくクラスメイトたちに囲まれて「なんか
「でもさあ、ベースってなんのためにあんの?」
男子の
「あ、それ前から思ってた。べつに
「わかりやすく説明しろ
「評論家呼ぶな」ぼくはクラスメイトの手からベースを取り返すと、ケースにしまった。実のところぼくも口ではうまく説明できない。でも世界中のベーシストの名誉のために、なにか言っておかないと。
「ちょっときみたち、そこに座りなさい」
「はいナオ先生」
「専門用語とかなしでお
うっ。先に
「……じゃあ、まずご
「なんで」
「いいから言う通りに」
男どもはおのおの目を閉じたり
「じゃあ次に、ご隠居の顔から口ひげを消したとこを想像してください。できた?」
「……できたできた」
「若い
「えなりはまだ若いぞ」
「はいはい次。じゃあ、ご隠居の髪の毛がなくなったとこをイメージして」
「ナオ先生これなんの意味があんの? 心理ゲーム?」
「やればわかるから。どう? イメージできる?」
「できるけど、ご隠居って意外に毛根強そうじゃないか?」
「ひげより楽だな髪の毛消すのは」
「じゃあ最後に、顔の
全員が、はぁ? という顔をした。
「なんだそれ」「意味わかんね」「輪郭ってどういうこと耳とか?」
「いや、そうじゃなくて、顔の形そのものを消すの。なんもない平面に目と鼻と口だけ浮いてる感じ。はいイメージ」
生徒たちはそろってうんうんいいながらこめかみに指を当てたり髪を
「……いや、無理だろ。顔消すとか意味わかんない」
「どうやってもあの丸っこい頭が浮かんでくる……」
「がんばれ、おまえいつだったか『どんなグラビアでも頭の中で水着が消せる』っつって自慢してただろうが」
いや、そんなにがんばらなくてもいいですよ?
二分くらいみんなで
「つまり、今みんなが
一様にぽかんとした顔をする
「ギターとか歌は鳴ってないところを想像できるけど、ベースは無理なんだよ。だから、どうして必要なのかも説明できません」
「はあ……」
「なんかわかんないけどわかったようなわかんないような」
どっちだよ。というか、わかられても困るんだけど。例によってでまかせだから。
「でもナオ先生すげえな。さすが
「継がないよ!」なんで同級生にまでそんなこと言われなくちゃいけないんだ。
と、そのとき
戸口で立ち止まった
「……どいて」
ぼそっと
「なあなあ先生」
「え? な、なにが?」変な声になってしまう。
「だって、なんか最近裏庭に通ってるじゃん」
「そうか、そうやって近づく手があったのか。先生頭いいなあ」
男子どもはちらちらと真冬の顔をうかがう。至近
その
「なあ、蛯沢」
勇気のある一人が、振り向いて真冬に声をかけた。真冬は教科書から目を上げて、ぼつりと答えた。「
「えーと、真冬さん」
「名前でも呼ばないで。気持ち悪い」
「気持ち悪いって言われた。
「がんばれ。おまえ顔はそんなに気持ち悪くないから」「顔は、ってなんだよ」
漫才はよそでやってくれ。それにしても、転入当日にも言ってたけど、そんなに自分の苗字がきらいなんだろうか。その場限りのでまかせだと思ってた。なんでだろう、エビマヨとかあだ名されていじめられた
「
「ていうか両方練習する時間よくつくれるよな」
「同時に練習してんじゃね。ほら、
「んなわけねえだろ」
真冬は教科書に目を戻していた。でも、その
「なんで……知ってるの?」
うつむいたまま言うので、男子たちはいっぺんに
「……ええと」
「いや、だって、
「なあ。有名だし。みんな知ってる」
いきなり真冬が立ち上がった。
「聞こえ……てたの?」
ああ、やばい。知らなかったのか。ぼくはこれから起こりそうな事態に暗い気持ちになりながらも、そっと口出しした。
「あの、教えてなかったけどさ、あの個室って防音
真冬の顔が
殴られるのかと
顔を上げると、みんなが
「……なにしてんだよナオ。早く追いかけろよ」
真冬に気持ち悪いと言われて生きる希望をなくしていたはずのやつが冷たく言った。
「なんでぼくが」
「だって蛯沢さんの担当でしょ」と、なぜか委員長の
「早くしないと授業始まっちゃうから。ほらほら」
意味がわからなかった。でも世の中には、雰囲気の力という
教室のすぐ外で、息せき切って走ってきた
「なにしてんのナオ。ねえねえさっきそこで蛯沢さんが」
「どっちに行ったの?」
「え? ああ、うん階段下りてったけど──ナオ? ちょっとナオどこ行くの?」
ぼくが
旧音楽科棟の前で立ち止まって、しばし考え込む。なにやってんだろうぼくは。クラスの連中の言いなりになって真冬を追いかけてきてしまったけど、どうしろっていうんだ。
そのまま教室に戻ってしまえば済む話だった。どこ行ったのかわかんなかったよ、とクラスのみんなに言えばそれでおしまい。でも、ぼくの足は動かなかった。
やがて、二度目のチャイムが鳴る。遅刻
真冬は、長机の上に
「そういうもったいない使い方すんな。その座布団はぼくが持ってきたんだぞ。机に並べて寝るために三枚あるんだ。
真冬はほとんど姿勢を変えずにちょっとだけ腰を浮かせて左手で座布団を二枚抜き取ると、ぼくに投げつけた。顔でキャッチしたぼくは、一枚を投げ返し、もう一枚を
「……なにしに来たの」
真冬がからからに
「授業さぼりに来たんだよ。そしたらだれかさんがいた。うわあ
「
なんで嘘だってわかるんだよ証拠を出してみろ証拠を。嘘だけど。
「……なんで、教えてくれなかったの」
真冬は、床に目を落としたままつぶやく。ぼくは、
「なんでって、
再び座布団を投げつけられた。なんで怒られなくちゃいけないんだ。
「べつにいいじゃんか外に聞こえてても。やましいことしてるわけじゃないし」
「よくない」
「ピアノはCDまで出してたのにギター
「あなたになにがわかるの」
真冬が吐き捨てた言葉は、ぼくと彼女の中間点の
急に──怒りが、
「わかるわけないだろ」ぼくは真冬から目をそらした。そうしなければ、投げつけるための
はじめて
「──言ったら、助けてくれるの?」
ぼくははっとして顔を上げ、真冬の方を見た。泣き出しそうな彼女の目の色は、海に流れ込む河口の水の色みたいに暗く
「わたしの困ってることを全部
ぼくは言葉を失った。寒気がした。月の光さえない真っ暗な夜に深い池をのぞき込んで水面に見えるはずのないなにかを見てしまったような気分になった。
「できないくせに。勝手なこと言わないで」
「……いや、それ、ほんとにそんなことしてほしいわけ?」
真冬はふるふると首を振った。かすかな涙が飛び散ったのが見えたような気がした。
「そんなわけない」
「なら……言ってみなきゃ、わかんないよ? 言うだけならただだから」
「じゃあ、わたしがピアノを始める前まで時間戻して」
「できるか。神様じゃないんだから」
というか──やっぱり、なにかあったのかな。そんなにピアノがきらいになったんだろうか。それとも……
「なら、もうつきまとわないで。
つきまとってねえ。そこだけははっきりさせておかないと。
「あのさ、何度でも言うけど、ここは最初ぼくの使ってた場所だったんだ。そっちが勝手に入り込んできたんじゃないか。つきまとってるわけじゃない」
ぼくは、ちらと
それから立ち上がると、ロッカーを開けて使い古しのバスタオルを取り出す。
「ほら、ここ、ドアに
ロッカーからさらに
「掃除ちゃんとしろよ。
「……それでベースなんて持ってきたの?」
さっきまでべそかいてたくせに、なんだそのあきれた顔は。悪いか。
「ベースならわたしについてこれるとか思ってるの? ばかじゃないの」
「なんとでも言え。今はまだ
びっと箒の先を突きつけて言ってやった。言ってやった! 真冬は言葉も返せないようで、目を見開いて突っ立っている。あきれているのではなく
箒とちり取りをロッカーにしまうと、最後に一本のスプレー缶を取り出して机に置いた。
「……殺虫剤?」
「そう。この
部屋を出たすぐ後に、あわただしくドアを開ける音が背後で聞こえた。振り向くと真冬が青い顔をして練習個室から飛び出してくる。
「……なんだよ。ご要望通りぼくは出てったんだから、ゆっくりしてったら。もう今から授業に出ても欠席あつかい──」
「な、な、なんで最初に教えてくれなかったのっ」
今度の泣きそうな顔はひどく子供っぽかった。
「なんでって。
「ばか!」
二の腕を平手でばしばしと何度も
けっきょく、ぼくらが教室に戻ったのは一時限目の後の休み時間だった。泣きそうな顔でぼくの腕をつかんで
「あ、お姫様戻ってきた」
「ほんとに
教室に入っていくとみんながこっちを見るので、ぼくはたじろぐ。……お姫様?
委員長の
「クラス
真冬の顔はさあっと真っ白になった後、すぐに赤らんだ。前から思ってたけど、こいつ全然
「……な、んで?」
「だって
「だ、だからってっ」
「
「……やだ」
「あ、そう。じゃあこれからもよろしくねお姫様」
「お姫様、
あ、また泣きそう。なんだこれ
「あ、それからお姫様になにかめんどくさい用事があるときはまずナオくんに言うから」という
「なんでぼくが」
「それはな、ナオ」
斜め前の席の男子が言った。
「王子様とか王女様を
「いや……ていうかそれとどういう関係が」
「あれって『御殿の階段の下にいるお付きの人』って意味なんだってよ。偉い人には直接声をかけると失礼だからお付きの人を呼ぶわけ」
「おおー」「一つ頭がよくなった」まわりの
「つまりそれがおまえだ」
「ぼくかよ! なんでだ!」と、机をばんばん