6 葬送、会議、経費
「
翌朝の教室で、
「ああ、うん」ぼくはうんざりして答える。「逢ったっていうか
「じゃあ、もう入部決まりだね?」
「なんでだよ」
「先輩、なにかほしいと思ったら絶対手に入れる人だから」
そのやばいせりふは
『私はほしいと思ったものはどんなことをしてでも手に入れる。
先輩の宣言する後ろで、練習個室から
千晶のせいで昨日の
「あの人、百万円くらいするギターがどうしてもほしくなって、その楽器屋さんにバイトで入って、店長の弱み握っ……じゃなかった仲良くなって、けっきょくただでもらっちゃったんだって」
「
「ギターもすぐゲットできたんだから、ナオなんか秒殺じゃないかな」
ぼくの価値は百万円もないのかよ。
「あんな人と
「でも、かっこいいでしょ神楽坂先輩」
うーん。二キロくらい
「先輩となら結婚してもいいな」
「よし。結婚しろ。日本じゃ同性婚は認められてないからカナダ行けカナダ」そして二度と帰ってくるな。
「あたしも先輩も料理できないからナオも一緒だよ?」
「なんでだよ!」
千晶と言い合っていると、教室の後ろの戸が開いて真冬が入ってきた。ようやく教室の場所を
足音が追いかけてくる。
「どうしたの?」と、
「トイレだよ。ついてくんな」
「
ぼくは立ち止まった。
「べつにぼこぼこにされたわけじゃ」
「自分で音楽やらないやつはあの
「そうやって挑発するとぼくが民俗なんとか部に入るとでも思ったら大間違いだ。ぼくのやる気のなさを甘く見るなよ?」自分で言っててちょっとむなしくなるぼく。
「ナオだってギター
「あんなの弾けるうちに入らない」
だいいち、昔使ってたのは捨てちゃったから、ギター持ってないし。
「また練習すればいいのに。先輩すごい
「だったら先輩が蛯沢んとこに直接行って
ぼくはなんの関係もないじゃないか、と思う。ほっといてほしい。
千晶はいきなり
「……なんでナオを
しぼり出すような声で千晶は言う。
「……わかん、ない、よ」
ぼくはたじろいで、後ずさって廊下の
「ナオのばか。あんたの
そう言い残して千晶は教室に
ぼくはもやもやした気持ちを抱えながらトイレに行き、個室にこもって便座のふたに腰を下ろした。なんなんだ、いったい。
ぼくだって、ギターを弾けるようになれたらいいとは思う。でも、真冬のあれを
しかし、二時限目の授業からはちゃんと出てしまうのがぼくの
昼休みも半分過ぎた
近寄ってかがみ込んで中をのぞいてみたぼくは頭が
あの女なんてことするんだ。ぼくはノブを引きちぎるような勢いで回してドアを開いた。ギターの音が真正面から直接
「……勝手に入ってこないでって言ってるでしょ!」
机の上の
「なにすんだよ!」と、ゴミ袋をつかみ上げて
「棚が狭かったから外に出しただけ」
「だれのCDだと思ってんだ」
「あなたのじゃなかったら捨てたりしない」
怒るのも通り越してぼくはあきれる。なんだよそれ。
「あのさ、仮にもエレキ
「ロックなんて
そのとき、ふとぼくの頭に、すさまじい早口のメロディが浮かんだ。葬送行進曲を耳から閉め出して、集中して思い出そうとする。チャック・ベリーだ。
邪魔だとか言ったな? 聴いたこともないくせに。ぼくのつまらない人生の半分以上を
ゴミ袋を抱えて教室に戻ったぼくは、CDを一枚ずつあらためては机の上に
どうやって。どうやってぶっとばす?
きまってる、ロックギターのすごいところを
ようやくチャック・ベリーのベストアルバムをCDの山から発掘する。ウォークマンに入れると、イヤフォンを耳に押し込んだ。
ぼくは午後の授業を、ずっと彼の歌声に埋もれて過ごした。
授業が終わると家に飛んで帰った。玄関をそっと開けるのを忘れたので、
「
ぼくが居間のドアを開けたとき、哲朗は
スピーカーから流れる
「なにをする
「人生の第三楽章途中で止まってる中年男がなにをえらそうに」
「うわあ。ナオくん、そんな口汚い
あんたの
「いいから、たまにはぼくの話もまじめに聞けよ。寝っ転がってないでちゃんと座っ──パソコンの上に正座すんな壊す気か!」
「大事な話か?」
「うん。家族
「なんだよ再婚する気はとうぶんないぞ?
「寝言は寝て言え犯罪者。哲朗なんかと結婚する物好きがこの世に
「今度はなに買いたいんだ?」
急にまじめな
「ほしいもんがあるんだろ」
「え……ああ、うん」
「……ギターが、ほしい」
「うちの物置になかったっけ」
「
楽器を大切にしないやつに音楽を
「……女か?」
哲朗がいきなり言った。
「え? な、なにが?」
「男がいきなりギター始める理由なんて一つしかないだろ、女にモテたい」
「んなわけあるか。世界中のギタリストに
「素直に認めないなら出費には反対票」
ぼくは絶句する。なんて
「だいたいおまえ、ギターっつったっていくらぐらいの買うつもりなんだ。五、六万出さないとろくなもん買えないだろ。おまえの
「なんでそういうことだけしっかり
ぼくはむくれてソファに身を沈める。
「なんなら今から自分で
哲朗はテーブルの上のノートPCをぐいっとぼくの方に押しやる。
「いや、……あれは、もうやめようよ」と、ぼくはPCを押し返した。以前、しめきりでいっぱいいっぱいだった哲朗の代筆をしたことがあるのだ。まさか中学生が書いたコラムがちゃんとした音楽雑誌に
ところが、その原稿料はそのままぼくの小遣いにはならなかった。三割は自由に使える枠で、残りの七割は家計に入れろ、と哲朗は言ったのだ。なんで自分が
つまり、ぼくがもっと代筆の仕事をして稼げば、哲朗なんぞの同意も必要なくなるというわけだけれど。でもなあ。中高生の文章が載っちゃってだれも気づかない音楽雑誌ってどうよ。それに、ぼくは今すぐギター買って練習したい。原稿料なんて最速でも二ヶ月かかる。
「コラムも解説も、けっこう評判よかったぞ。おれの才能がちゃんと
遺伝とかいうのやめてください。二度と書くもんか。
「それがいやなら素直にモテるためだって認めろ。じゃなきゃ出費には同意しない」
「なんでそんなのにこだわるの」
「だっておまえ、前にギター始めたとき続かなかっただろ」
ぼくはクッションを抱えて
「そう……だけど、でも」
「だから、男がなにか始めようと思ったら、モテるためだって考えるのがいちばんいいんだよ。認めちゃいなさい。そして今度こそ
わけのわからん理屈だったけど
「……わかったよ。女にモテたいからギターがほしいです。だから出費を認めて」
「うわあ。ナオくんがそんな頭の悪いこと言うなんて。お
「哲朗が言えっつったんだろが!」
ぼくがぶち切れてクッションを投げつけると、哲朗は
「
哲朗に新聞紙だの食べかけのバナナだのをさんざん投げつけてなんとか怒りを収めた後、ぼくは自分の
ちゃんとした楽器店には行ったことがなかったのだ。レコード屋の一コーナーによくギターが置いてあるけど、ああいうところでしょぼいのつかまされるのもいやだし。だからといって街に出て楽器店を探すのもなんだか不安。できれば安く買いたいし。
さんざん迷った末に、
『──ナオ? あんた帰るの早すぎ、
「なにが卑怯なんだ。それよりさ、えっと、頼みがあるんだけど」
『あたしに頼み? どうしたの? 聞いてあげてもいいけどかわりに入部』
「しないよ。あのさ、いい楽器屋知ってたら教えてほしいんだけど」
電話口の向こうでばんざいのポーズをつくって
『楽器屋? なんでぇ?』
「楽器買うからにきまってるだろ。ギターほしくなったから」
ちょっと後悔しつつぼくは答えた。やっぱり根掘り葉掘り
『どしたのどしたの? 夢にだれが出てきたのエリック・クラプトン?』
おまえと
『それとも
ぼくはぐっと答えに詰まった。
『あ、
「……べつに──」
『ねえ、ナオと蛯沢さんって──』
ぼくらはほとんど同時に言葉を途中で
『じゃあ、今から帰るから
「え? ……いや、場所教えてくれればひとりで行くよ」
『いいからいいから。あたし常連だし、連れてくと安くしてくれるよ?』
「それはありがたいけど、でも」
『じゃ、電車来たから。駅で待っててね』
なにか答える前に切られてしまった。なんか最後の方、やけに声がはしゃいでたけど。不安に思いながらも、ぼくは生活費用の封筒から五万円を抜き出して
まだ
千晶が連れていってくれた楽器店は、駅南口の空中歩道をずっと下っていちばん
「あたしがいつも使ってる店。がんばって値切ると
「でも、なんでまたギター始めることにしたの?
やっぱり訊かれるのである。
「うーん。なんとなく」
「あんたがなんとなくでなにか始める人間じゃないのは、あたしがいちばんよく知ってるんだけど……まあいいや。こんちはー」
千晶はぼくの手をつかんで店に入った。
「店長いるー?」
「お? 千晶ちゃんか。悪いけど今忙しいから」
「失礼な。ちゃんとしたお客です。こいつがギターほしいって」
千晶がぼくを店長の前に引っぱり出そうとした、そのときである。奥の戸口からもう一つ、
「店長、弦の在庫が全然合わないんだが──ん?」
「あれ?
千晶とカウンターに
「やあ同志
「え、あ、いや、な、なんで」
そういえば千晶が言っていたじゃないか。楽器店に
「ゆっくり見ていってくれ。ここは私の店だし
「いや、
「店長の店なんだから私の店だろう。それよりマーティンのエクストラの在庫が全然足りないんだ。どこかべつの場所にしまってあるんじゃないのか」
「え、や、そのへんはチーフが出勤してくれないとわからないなあ」
「ほんとに店長は役立たずだな……」
店長泣きそうだった。
「しかたない。少年、時間が
「え? あ、あの、べつになにか買いに来たわけじゃ」とっさに
「ギターほしいんだって。先輩、おすすめのある?」
千晶が口を
「ふむ。予算はどれくらいだ少年」
「ええと……」
「お、けっこう持ってる。五万くらい」
「勝手に他人の
ぼくは千晶の手から財布を引ったくった。
「五万か。その程度だと、こんな店じゃ安物買いの
「こんな店って言うなよ……」店長がカウンターの向こうで
「それではこうしよう、少年。私とじゃんけんで勝負して、きみが勝ったら在庫で眠っている十万のギターを
「ちょっとまって
「半額って……」いいのかそれ?
「気にすることはない。
「意味わかんないんですけど……」
「平たく言えば、この店の楽器はだいたいぼったくりだから、半額にしてもちゃんと利益が出るってこと」
「響子ちゃんっ」店長は涙目だった。
「店長がうるさいから外で勝負しよう。少年、受けるのか受けないのか」
店長はかなりかわいそうだったけど、先輩の申し出は悪い話じゃない。というか、ぼくには全然損がないように聞こえる。そこがかえってあやしい。
「安くするかわりに入部しろとかいうなら帰りますよ?」
「なぜそんな
言いたい放題だった。くそ。
「わかりましたよ。勝っても負けても、ちゃんとしたギター売ってくれるんですよね? 故障品押しつけたりしませんよね?」
「もちろん。楽器店の名誉にかけて保証するよ」
「じゃあ、やります」
「いい心がけだ。それではハンデをあげよう」
神楽坂先輩はにんまりと笑うと、ポケットからなにかを取り出して、右手の中指と薬指の間に
それ……チョキが出せないんじゃないか? いや、待て、これは
先輩の、パーに開かれた手から、ピックが
「……少年は素直だなあ」
頭をなでられた。汚い。いや、汚くないのか勝手に引っかかったぼくが悪いのか? 勝ち誇った
「じゃあ、ちょっと倉庫を探してくる。予算内でいちばんいいのを
ちょっと落ち込んでしゃがんだぼくのそばに、
「ナオはほんと弱いね」
「うるさいな……」
「勝負受けた時点で負けてたけど」
ぼくは顔を上げる。千晶の言葉の意味は、戻ってきた先輩が持っていたメタリックグレイのギターを見たときに明らかになった。
「アリアプロⅡだ。ほんとは税込みで五万四千六百円だけど、五万ちょうどにまけてあげる」
「……あのう、弦が四本しかないように見えますけど」
「ん? 知らないのか? これはベースギターといって、普通のギターより弦が二本少なく、一オクターヴ低い音が出る」
「いや、そのくらい知ってますけど、なんでベース」
ぼくはギターを買いに来たんだけど。
「ベースだってギターの一種だぞ?」
「え、えっと、どういう──」
千晶が、ぽんとぼくの肩に手を置いて言った。
「だからね、ナオ、民音部にはベーシストがいないの。そういうこと。わかった?」
ぼくは二秒ほど考えた後で、あんぐりと口を開けた。はめられたことに気づいたのだ。この人の目的は、ぼくが買うギターを勝手に選ぶことにあったのだ。そして、勝っても負けてもそうなるように条件を提示した。気づかなかった間抜けが、このぼくだ。
「ちょ、ちょっと待って」
「負け犬の言葉は聞きたくない。領収書は
神楽坂先輩はにこやかに言う。この人こんな
「ぼくベースなんて
「ギターだって大して弾けないだろう」
か細い
「それに、少年はあの
「う……」
ぼくは言葉に詰まった。
「あの女はギター一本でショパンやリストが弾けるんだぞ。少年の初心者丸出しのギターが入り込む余地はどこにもない」
べつにそんな、勝負を挑むとかそういうんじゃなくて、ただ──
「でも、ベースなら勝てる」
「私が勝たせる」