ところであの練習用個室には、真冬に教えていない重大な欠陥があった。ドアの上の隙間のことだ。防音が完全ではないので外に音が漏れるのである。
そんなわけで数日たって、『放課後の裏庭から聞こえてくるすごいギターソロ』の噂は瞬く間に全校に知れ渡ってしまった。
「なんだっけあの『ちゃらり〜鼻から牛乳〜』の曲とか」
「それあたしも聴いた。頭ぐるんぐるんしてくる」
それはトッカータとフーガニ短調だ。バッハ好きなんだな、あいつ。ホームルーム前の教室で、クラスメイト女子の朝の噂放送局を聞くともなしに聞きながら、ぼくは真冬のレパートリーを一つずつ思い出す。
「別れの曲もやってたよ。すっごい速いの。最初なんの曲かわかんなかった」
「あ、あれ別れの曲かあ」
別れの曲ギターソロはぼくも聴いた。ショパンの最初の速度指定は現在知られているもののおよそ四倍という超高速なので、ある意味真冬の演奏は正しい。みたいなことを言ってやりたいのだが、そうするとまた変態評論家とかストーカーとか言われるにちがいないので黙っている。ていうかなんだこれは哲朗の評論家遺伝子が騒いでいるのか? やめてくれ。
チャイムが鳴っている途中にがらっと教室後ろの戸が開いて、真冬が入ってくる。クラスじゅうが沈黙し、視線がいっとき集まった後で、白々しくそれぞれの席へと散っていく。知らぬは当人ばかりだ。それでも周囲の妙な雰囲気は感じ取ったのか、訝しげな視線であたりを薙ぎ払いながら、真冬は席に着く。
「今日放課後聴きに行ってみる?」
「じゃあ部活の前にちょっとだけ──」
そんなひそひそ話が聞こえた。ときおり真冬に視線をちらっと走らせてにやにや笑っている男子もいる。転入してきてから一週間と少し、真冬に話しかける女子はほとんどいなくなっていた。珍獣扱いだ。
でも、困ったことになってしまった。ぼくの憩いの場だったのに、人が寄りつくようになっちゃった。さっさと真冬から取り戻さないと。
ぼくが思いついた対抗手段は、先にあの部屋に立てこもって真冬をしめだすというたいへん品のないやり口だった。六限の数学の授業が終わって先生に礼を済ませた直後に、鞄を取って教室を飛び出す。
しかし、裏庭の旧音楽科棟に着いたぼくは愕然とする。ドアに南京錠が取り付けられていたのだ。あの女、ぼくの(勝手に使っていた)部屋になんてことしやがる!
鍵を前にして、鞄の中のペーパークリップやマイナスドライバーの存在を思い出す。自作オーディオで鍛えたぼくの腕をなめるなよ? こんな安っぽい南京錠ごとき針金一本で。いやしかしそれは犯罪じゃないのか。ていうかピッキングしているところをだれかに見られたらどうしよう生きていけないでもたぶん一分とかからないぞ速攻でやれば「なにしてるのっ!」
いきなり後ろから声をかけられてぼくは三メートルくらい飛び上がって振り向く。
真冬だった。長い栗毛の髪が逆立って見えるほどに怒っている。
「鍵こじ開けようとか考えてたんでしょ犯罪者。もう近づかないで」
たしかにその通りなんだけど、なんで決めつけるんだ。
「なんでわたしにつきまとうの」
ひでえ。本人までストーカー扱いするのか。ストーカーは親告罪なのでぼくの人生はかなりやばいところまで来ていた。
「いや、あの、ここは元々ぼくが使ってたの。あのアンプだってぼくが改造したんだけどな」
辛抱強く説明する。
「無断使用してたくせに」
「でも向島先生も、ぼくだって使っていいって……」
「ここは練習室で、寝っ転がってCD聴いて暇つぶしするための部屋じゃない」
ぼくを押しのけて錠前を外した真冬は、中に入ってドアを閉めてしまった。ぼくは数秒の思考凍結の後、思わずドアをむしり取るように開いて中に押し入っていた。
「暇つぶしバカにすんな、人生は死ぬまでの暇つぶしだ!」
「じゃあさっさと死んだらいいじゃない!」
なんか今ぼくすごいこと言われてますよ?
「いや、ぼくが死んだら母や妹たちが哀しむから」と口からでまかせを言うと、「あなたの家族がろくでもない父親一人なのはとっくに知ってる」なんて返された。くそ、哲朗の評論読んでやがったのかこいつ。あのクソ親父は音楽評論に平気でぼくのことを書くのである。この指揮者のアダージョの鈍さは息子の作るポテトサラダのようである、とか。でも──
「ろくでなしなのは認めるけど、あいつをバカにしていいのは実際に迷惑かけられてるぼくだけだ。謝れ。おもにぼくに謝れ」
「評論家なんて存在自体が迷惑。あることないこと書いて」
おいおいなんの話だよ。真冬の顔はいつの間にか真剣に泣きそうになっている。ていうかぼくもこんな場所でなに喋ってんだろう。ふと我に返ると、頭がさあっと冷えてくる。
「自分が弾くでもないのに、人の演奏のうわっぺりだけ聴いて、あなたみたいにでまかせばっかり」
「えと、いや──」でまかせばっかりなのはぼくの癖ですよ。って言おうとしたけど、よく考えてみると反論になっていないのでぼくは言葉に詰まる。
「……ぼくだってギターくらい弾けるよ?」
不意に漏れ出た言葉は、でまかせではなかった。
ぼくもロックを色々聴いてきた男として、ギターに手を出したことがある。中二の夏のことだ。家の物置で埃をかぶっていたガットギターを引っ張り出して、『天国への階段』のイントロを必死になって練習した。
今は、もう──触ってもいないけれど。
真冬の目は冷たく、細くなる。どうせでまかせでしょ? とでも言いたげに。
ぼくがさらになにか言おうとしたとき、真冬は机に立てかけてあったギターを取り上げてアンプにつなぐと、ヘッドフォンを手にいきなりぼくのそばまで寄ってきて、強引に頭にかぶせた。
「な……」
「動かないで」
彼女の二本の指が柔らかくつまんだピックが、弦を掻きむしった。ぼくは音の奔流の中に突き落とされた。叩きつけるような不協和音から岩だらけの滝を流れ落ちるめまぐるしい下降音。そして谷底から立ち上がる壮大で不気味なアルペッジョのアーチ、その上で足を踏みならして跳舞する切り詰められた旋律。
これは──ショパンの練習曲第十二番ハ短調。
ぼくの頭の中を吹き荒れた嵐は、唐突な終始和音でざっくりと断ち切られる。
呆然とするぼくの頭から、真冬はヘッドフォンをむしり取った。現実の音がおそるおそるぼくの耳に流れ込んでくる。自分の心音や、息づかいや、遠くの車道の排気音、ランニング中の野球部のかけ声、どれもなんだか白々しい。
真冬が斜めにぼくを見つめてきた。弾くというのはこういうことだ、という無言の力。
「……ギターくらい弾ける、なんてまだ言えるの?」
彼女のため息みたいな声。
バカにすんな、と言おうとしたけれどうまく言葉にならなかった。
「出てって。ここは練習する場所だから」
「楽器弾けるのがそんなに偉いのかよ」とぼくはぼやく。「じゃあなにか、ぼくもギター持ってくればここ使っていいってこと?」
「下手なくせに真似事だけしないで。邪魔」
ふらふらになったぼくを、真冬は部屋の外に押し出した。
閉じたドアの上の隙間から、やがて聞こえてくる曲は、ショパンのピアノソナタ第二番変ロ短調。葬送行進曲だ。いやみか? いや、外に音が漏れてるのは気づいていないんだっけ。
くそ。
ドアに両手をついてうつむき、しばらく真冬のギターを身体に染み込ませる。それはすでに耐え難い苦痛になっていた。でも、その場を離れられなかった。
なんでギターなんだよ、と思う。
おとなしくピアノ弾いてろよ。そうすればぼくは、若いのに巧いなあ、なんて無邪気に思いながら聴いていられたのに。どうしてこっちの世界に踏み込んでくるんだ。だいたいおまえの弾いてるのは全部ピアノ曲じゃないか。なんの嫌がらせなんだよ。
下手なくせに、真似事。
ぼくは真冬の言葉を思い出して、肩を落としドアから手を離す。真冬の超絶技巧に比べりゃだれだって下手くそだろうけど、ともかく三ヶ月とたたずにギターもやめてしまったぼくに言い返す言葉はなかった。
しかたない。もともと勝手に使ってただけだし。ヘッドフォンではなくちゃんとしたスピーカーで好きなCDを好きなだけ聴けるという環境は実に魅力的だったけど、逆に言えばそれだけのことだし。べつになくなっても困らない。
踵を返して校舎の方に歩き出そうとしたとき──
「あきらめるのか、少年」
背中に声がかけられた。
驚いて振り向いたぼくの目に映ったのは、ドアのすぐ上、音楽科棟の低い屋根に片膝を立てて腰掛け不敵な顔で笑う、制服姿の女だった。唖然として立ちすくむ。
……な、なにこの人?
目つきがおっかないほどに鋭いその顔立ちは、エジプトかどこかの王家から逃げ出してきた高貴な育ちの牝猫みたいだった。ぼくは襟章の色を確認する。二年生だ。
「このまま言われっぱなしですごすご逃げ帰るのか。敗北主義者になっちゃうぞ?」
「え、ええと」麻痺していた足がようやく動くようになったぼくは、後ずさる。「……な、んのことですか」
そこでその女は歌を口ずさんだ。レイ・チャールズの『ボーン・トゥ・ルーズ』だ。
「負けるために生まれてきた。まさに少年のためにあるような歌だよ。そう思わない?」
「……失うために生まれてきた、じゃありませんでしたか?」いや、なに言い返してんだよぼく。逃げろ。やばいぞこの人近寄らない方がいい。
彼女は乾いた笑い声をあげた。
「ちゃんと反駁できるじゃないか、少年。少し安心した。どうして武器をとらない? 今まさに自分の国が蹂躙されているというのに」
練習室のドアをかかとでとんとんと叩く彼女。なんであんたにそんなこと言われなくちゃいけないんだ? ていうかあんただれだ。
「さっき蛯沢真冬が弾いて聴かせただろう。ショパンのハ短調練習曲──革命のエチュード」
彼女はぴんと指を立てて言った。ぼくは「はぁ……」とうなずいてから、はたと思い至る。
ヘッドフォンだったぞ? なんでわかるんだ。
そこで彼女が見せた凄絶な微笑みは、象も失神しそうなほどのものだった。
「私には、世界中の革命の歌が聞こえる」
ふわり、と彼女は屋根から飛び降りた。編んだ長い髪が猛禽の尾羽みたいにはためく。ぼくとドアの間に音もなく着地すると、立ち上がった。
「蛯沢真冬を同志に迎え入れたい。そのためには、少年、きみの力が必要だ。手伝え」
いやもうなに言ってんのかさっぱり──
「神楽坂響子という」
神楽坂。どこかで聞いたことがある。ぼくは記憶を探る。
そうだ。千晶が言っていた名前だ。
神楽坂先輩は、ぼくに向かって手を差し伸べた。
「民俗音楽研究部は、きみを歓迎する」