放課後、教室からさっさと消えてしまう真冬の行き先については、彼女が転入してきて以来一年三組最大の謎とされていた。
「下駄箱に靴残ってたから、すぐ帰ってるわけじゃないと思うんだけど」
「いいんちょ何時に帰ったの?」
「んー、五時くらい」
「あたし職員室らへんで見たよ、あいつ」
朝のホームルーム前、まだ登校してこない真冬の机のまわり(つまりぼくのすぐ横)に女子どもが集まって情報交換していた。ほっとけよ。
「美術選択だから絵描くの好きなのかと思って、美術部誘ったらさあ……わけのわかんないこと言って逃げた。なにあいつ」
「ていうかあの娘、授業でもなんにもしないよね。クロッキー帳開いてじっとしてるの。頭おかしいんじゃないの?」
「音楽選択すればいいのにね。先生も困ってるっつの」
真冬の評判は順調に下がっているようだった。当然といえば当然だ。
「変態さん、なんか知ってるんじゃないの?」
いきなりぼくに話が振られる。
「その呼び方やめてくれないかな……」
「じゃあ蛯沢さん評論家」「うわーなんかストーカーみたい」
「それもやめて」
「間を取って変態評論家?」
「間取るな!」真冬の根も葉もない言いがかりのせいでぼくの人生は崖っぷちだった。「入学する前に一回逢ったことあるだけだよ。なんにも知らない」
なんだよその疑わしそうな視線は。
予鈴が鳴っても真冬は教室に姿を現さなかった。毎度のことだが千晶も来ていない。毎朝、どこかでドラムの練習をしているのだそうだ。ドラムスティックとメトロノームと古雑誌があればどこでも練習できるのがドラマーのいいところ。
本鈴が鳴り終わり、先生が出席簿を閉じた瞬間、教室の後ろの戸がやかましく開いた。
「セーフ! セーフだよね?」と言いながら駆け込んできたのは千晶だ。なぜか手を引かれて真冬が続いて入ってくる。むすっとした顔で、千晶の手を振り払う。
「二人とも間に合ったことにしてあげるから早く席に着いて」と、先生は優しい。たぶん千晶だけだったら容赦なく遅刻にしていただろう。
「悪いノート見せてダッシュで写すから!」
席に着くなり千晶はぼくの予習ノートをひったくる。
「なにしてたの? 二人で」とぼくはその必死な背中に小声で訊いてみた。
「三階の渡り廊下で練習してたら、なんか蛯沢さん迷子になってて」
「迷ってたわけじゃない」真冬がつぶやいた。ぼくは彼女の顔をそっと横目でうかがう。むくれて、ちょっと赤くなっている。そういやこいつ方向音痴だっけ。たしかに広い学校ではあるけれど、自分の教室に行く途中で迷うほどとは。
「今日は音楽準備室に寄ってて、それで帰り道が……」
「はいはい授業始めるから二人とも黙ってね」先生が言ったので教室じゅうから含み笑い。
音楽準備室? なんの用があったんだろう、と一瞬だけ訝ったが、宿題だったところを先生にいきなりあてられたので、千晶からノートを取り返すのに専念しなければならなかった。
放課後、いつものように千晶のしつこい勧誘から逃げ出し、図書室に寄って本をまとめて返してから裏庭の廃屋に行った。校舎の角を曲がって焼却炉の煙突が見えてきたとき、不意にエレクトリックギターのすさまじい速弾きが聞こえてきた。
ぼくが使っていた部屋の方からだ。一瞬、前の日にCDをかけっぱなしにしてそのまま帰ってしまったのかと思った。やばい。でも、ドアまで駆け寄ってみてそうじゃないことに気づく。部屋の中から流れてくる旋律は、ぼくがよく知っている──けれど、一度も聴いたことのないものだった。
リストのハンガリー狂詩曲第二番嬰ハ短調。
ピアノ独奏の難曲だ。とてつもない速度で連打される同一音の下を可憐な舞曲のメロディが駆けめぐる。それをギターで弾いてるのだ。なんだこれ。こんなとんでもねえCDなんか持ってない──いや、これ、生演奏だ。今、だれかが、このドアの向こうで、ぼくの改造したコンポのアンプにエレクトリックギターを直接つないで弾いている。
ぞっとした。だってこんなのひとりで弾けるわけがない。手が四本あったって足りない。でも、聞こえてくるのは一本のギターの響きだけだ。だれが……?
ノブを握る。
そのときぼくの頭の中にふと浮かび上がったのは、吹きさらしのゴミ捨て場に埋もれたグランドピアノの影だった。
ノブを斜め下に押し込みながら回した。ぎちゃ、と汚らしい金属音がして、ロックが外れる手応えが返ってくる。引き開けた瞬間、音楽はぶっつりと途切れた。
長机の上に腰掛けた真冬は、ぽかんと口を開けてぼくを見つめていた。その膝から、ニス塗りのギターが滑り落ちそうになる。ぼくもたぶん同じような顔をしていたと思う。
なんで──真冬が。ぼくの(勝手に使ってた)部屋で。しかもギターで。なんだこれは。どこから夢だったんだまさか春休みにゴミ捨て場で彼女と出逢ったところから全部──
「……な」
真冬の方が先に我に返って声を漏らした。ぼくもはっとして後ずさる。
「え、あ、いや、……ちょっと待てやめろギターで殴ったら死ぬぞ!」
ストラトの重いボディを振りかぶって顔を真っ赤にして迫ってくる真冬から逃げるようにぼくはドアを閉めた。
「……なんでここにいるの! 変態! ストーカー!」
ドアの上の隙間から真冬のきんきん声。おまえこそなんでここにいるんだ。
「ここはぼくが前から使ってたんだけど、なんで勝手に」ぼくも勝手に入ったけど。
「わ、わたしは向島先生に許可もらってるから」
「え」
向島麻紀先生は麻紀ちゃんと呼び親しまれ恐れられている若い音楽教師だ。そうか、それで今朝音楽準備室に寄ってたのか。いや、でもなんで使用許可がもらえるんだ? ていうかひょっとしてぼくも頼めば許可出たのか。
「どこか行って早くっ!」
そう言われても、ぼくだってこの部屋にCDをいっぱい持ち込んだりコンポを改造したり座布団を用意したりと、住みやすくする努力をしてきたのだ。消えろと言われてハイそうですかというわけにはいかない。
「……えっと、どういうこと? なんで先生が」
返事のかわりに、巨大な爪で壁を引っ掻いたような音が返ってくる。ギターのフィードバック音だ。やめろアンプが壊れる。
ぼくはため息をついてドアから離れた。
校舎に戻って廊下を歩いているうちに怒りがこみ上げてきた。ぼくの場所なのに後からやってきて居座るとはどういう了見だ。こうなったら麻紀先生の方に文句言ってやる。しかしその怒りは、音楽準備室の入り口まで来たところでしぼんでしまった。引き戸には大槻ケンヂの大判ポスターが貼ってある。先生は筋肉少女帯のファンなのだが、それにしたって職員用の部屋の入り口にこんなもんを掲示するなんて許されていいのだろうか。
ぼくは大槻ケンヂとにらみあいながらしばらく頭を冷静にしようと努めた。隣の音楽室からは、吹奏楽部の合奏練習が聞こえてくる。『A列車で行こう』のやけに遅いメロディ。
なにせ無断使用していたのだ。先生に文句言ったらやぶ蛇じゃないか。
ううん、だからってこのまま引っ込むのも──
「なあに? 私に用事?」
後ろから声がかけられて、ぼくはびっくりして、大槻ケンヂの顔に額をぶつけるところだった。振り向くと麻紀先生がにこやかに微笑んで立っていた。白いブラウスにタイトスカートというテンプレートな服装が恐ろしいくらい似合うこの人は、陰でエロ女教師と呼ばれ、美術か書道を選択してしまった一年生男子をたいへん悔しがらせるのだが、実際に授業を受けてみると音楽選択こそ後悔したくなる。
「え、あ、いや用事ってわけじゃ」
「まーまー入って入って。お茶にしようかと思ってたの、どう?」
先生は準備室にぼくの背中を強引に押し込んだ。
音楽準備室は通常の教室のちょうど半分の広さで、楽譜がぎっしり並んだ棚やアップライトピアノが置かれているせいでだいぶ手狭。
「じゃあポットにお湯入ってるから。ティバッグその引き出しね。あとカステラ切って」
全部ぼくがやるのかよ。
「あ、カップは一つでいいよ。カステラは三つね」
「え? 先生飲まないんですか」
「なに言ってんの? 私だけ飲むの。だれもあなたのぶんがあるなんて言ってないよ」
絶句。
「どうしてもっていうなら出涸らしのティバッグをしゃぶらせてあげよう」
要らないよ。帰ろうかな、もう……。
先生はぼくの肩をどつき、冗談だと言って笑った。二人分のお茶とお菓子の準備を済ませてぼくがようやく椅子に腰を下ろしたところで先生はいきなり切り出した。
「音楽科棟のことでしょ?」
ぼくは一口ふくんだ紅茶を噴き出しそうになった。
「な、なんで知って」
「あらあら。全部知ってるよ、あなたが二週間前から勝手に使ってることとかCDデッキ改造して外部入力取り付けたこととかラジオのアンテナ引いたこととか座布団なかなか座り心地がいいとか」
「ああああああああああ」
ぼくは机の下に隠れようかと思った。もうだめだ殺される。
「きれいに掃除してくれてるから、まあ、ほっといたんだけど。私しか気づいてないし」
「ごめんなさいごめんなさいもうしません」
「それに真冬ちゃんがそのまま使うのにちょうどよかったからね」
ぼくは頭を抱えていた両腕をほどいて先生の顔を見た。
「そのことで文句言いに来たんじゃないの?」と先生は笑う。
「いや……だって文句言える筋合いじゃ」
「べつに使ってもいいよ。真冬ちゃんに特例で認めちゃった以上、あなたにだけ駄目っていうわけにもいかないし。仲良くね」
「いや無理ですそれは」
というか、事情がさっぱりわからない。
「ひょっとして先生と真冬って知り合いなんですか?」
「そう。お父さんの教え子なの、私。それで昔は真冬ちゃんともよく遊んでて」
先生の顔は、少し寂しそうになる。
「真冬ちゃん、ちょっと色々あってね……うちに転校してくることになって、それで放課後ひとりで使える部屋がほしいっていうから。ぶっちゃけ理事の娘のわがままってことなんだけど、べつにだれかに迷惑かけるわけじゃないし」
「はあ」つまり職員室公認なのか、あれは。
「だからあなたも、真冬ちゃんが一緒ならあそこ使ってOK」
叩き出されるのがオチだろう。
「でも、なんでギターやってんですか? ピアノもうやめたってのはほんとう? だって音大付属に行く予定だったんですよね。なんでうちに」
「それは私からは言えない」先生は急にまじめな顔になった。「本人が知られたくないと思っている以上はね。ほんとは……あんなこと、やめた方がいいと思うんだけど、でもそれは真冬ちゃんが決めることだから」
さっぱりわけがわからなかった。かといって真冬が話してくれるわけもないし。
そんなことより、あの部屋をこれからどうするかの方が大問題だった。普通にばれて怒られて使用禁止を言い渡されたのならあきらめもつくんだけど。でも真冬がギター弾いてる横でCD聴くなんて、もういろんな理由で無理だよなあ。
「一緒に使おうって話してみたらいいじゃない」
「話しただけでギターで殴り殺されそうになるんですけど?」
「あなたってほんとにあきらめるの早いね。若い子がそんなことじゃだめだよ?」
麻紀先生からわけのわからん説教をいっぱい浴びた後で、ぼくは準備室を出た。