第25話:種馬騎士、魔狼を駆る
ラスがグラダージに到着したときには、大渓谷周辺の森林地帯は混乱状態に陥っていた。
無数の魔獣と
どうやら
「くそ……! どういう状況なんだよ、これは⁉︎」
魔獣に取り囲まれて孤立していた
交戦中の相手は
本来なら群れで狩りをする危険な敵だが、混乱しているのか、仲間との連携が取れていない。ラスは剣を抜くまでもなく魔獣の一体を殴り飛ばし、もう一体を煉術砲撃で焼き尽くした。
傭兵の乗った
「おい、無事か⁉︎」
『ああ、すまない。助かった』
無線機から流れ出したのは、荒い呼吸を続ける
命を救われたことに気づいているのか、ラスに対する敵意や警戒心は感じない。
「シャルギアのギルドに所属している傭兵だな? いったいなにが起きている?」
『暴走だ。ヴォス湖に
「……
ラスは唖然として訊き返す。
ティシナ王女が暗殺者に襲われる可能性は考えていたが、
『そうだ。俺たちはティシナ王女に命じられて、魔獣たちが人里に向かうのを防いでたんだ』
「やはりティシナ王女も来てたのか……王女はどこだ⁉︎」
『わからん。こっちに逃げてきてないってことは、龍と戦うつもりでグラダージ大渓谷の砦に残っているのかもしれん』
「龍と戦う……まさか……」
ラスは酷い目眩に襲われた。
王女がたまたま大渓谷の視察に行くと言い出し、その大渓谷でたまたま
そんな偶然があってたまるか、とラスは思う。
考えられる可能性はひとつだけだ。ティシナ王女は、今日、この大渓谷に
未来予知の煉術など存在しない。未来を知ることなどできるはずがない。
それでもティシナ王女は未来の出来事を知っている。
そう考えなければ辻褄が合わないのだ。
『——龍? 龍と戦う? 殺す?』
操縦席に
その言葉にラスはハッと我に返った。
今は王女の能力について、あれこれ考えている場合ではない。
龍がそこにいるのなら、ラスがやるべきことはたった一つだ。
龍を殺す。それが黒の剣聖の弟子であるラスの役目だ。
たとえそれがティシナ王女によって仕組まれた状況だったとしても、だ。
「ああ、そうだ。相手が暗殺者だろうが、上位龍だろうが、フィアールカの花嫁を殺させるわけにはいかないからな」
ラスが獰猛に微笑んで言った。
その瞬間、
『わかった。ぼくたちが龍を殺す』
そして漆黒の
◇◇◇◇
グラダージ砦では、砦の守備隊とテグネール伯爵家の兵士たちが、無線機に齧りついて必死に戦況の把握に努めていた。
すでに動ける
しかし戦況は芳しくない。
中小の魔獣をいくら減らしても、肝心の
「姫様、雑龍どもはあらかた始末しましたが、我々の戦力では水龍の侵攻を防げません。せめて砦の地下に避難を——」
「あら、伯爵。そんな必要はありませんよ」
強張った表情のギリスとは対照的に、ティシナはにこやかに微笑んで言った。
蒼穹を思わせる青い瞳で、彼女は、光学系の煉術で映し出された水龍の姿を楽しげに眺めている。
「あの人が、ようやく来てくれたようです」
「……あの人……とは……?」
ギリスが眉間に深くしわを刻んだ。そんなギリスが、不意に目を大きく見張る。
大渓谷の岩場を悠然と進み続ける水龍の前に、見知らぬ漆黒の影が立ちはだかったからだ。
深紅の輝きに身を包む鋼の獣である。
「ま、
砦の守備兵の誰かが、怯えたように呟いた。
グラダージ大渓谷に舞い降りた機体は、まさしくその
「なんだ、あの禍々しい機体は⁉︎ あれも
ギリスが掠れた声で呻く。
だとすれば、あの機体の正体は
翼を持ち空を駆ける、獣の姿をした
その凄まじい機動力をもって、あの機体は
だが、真の驚きはさらにその先に待っていた。ギリスたちが呆然と見守る中、漆黒の機体はゆらりと立ち上がって、轟音とともに姿を変えたのだ。
「なんと……
伯爵家の従士の一人が、驚嘆の息を吐く。
ギリスは驚いて声も出せない。
実のところ、変形する
しかし、あれほどまでに禍々しい姿の
「馬鹿な! 正面から龍に挑む気か⁉︎」
兵たちの間に悲鳴が上がった。
どれだけ強力な
速度でも、そして力でも、
にもかかわらず、
幻惑系の煉術を併用した変幻自在の駆け引きと、針の穴を通すかのような精密な剣技。
関節の裏側や、鱗の隙間。龍気を制御するための角や、目、耳などの感覚器。
漆黒の
その事実に気づいている兵士が、はたしてこの戦場に何人いるか——
「強い……まさか、あのような機体を乗りこなすとは……何者だ?」
ギリスは我知らず身震いした。あの漆黒の
だがそれほどの乗り手であっても、
水龍を圧倒しているように見える漆黒の
「なんということだ……いくら強力な機体とはいえ、一機では……」
ギリスが、己の無力さに歯噛みする。
あの漆黒の
そうなれば現在の均衡は、たちまち崩れ去ることになるだろう。
一軍、などという贅沢はいわない。
だが、せめてあと数機——否、あの漆黒の
しかし今のギリスには、ただ手をこまねいて見ていることしかできない。
その事実にギリスは屈辱を覚えた。だが、
「いいえ、問題ありません」
ティシナが静かに呟いた。まるで未来を見てきたかのような、迷いのない口調だ。
ギリスは戸惑いながら彼女に目を向けて、
「しかし、相手は上位龍に近い力を持つ個体ですぞ?」
「上位龍に近い力を持つということは、裏を返せば上位龍には及ばないということ。それではあの方は止められませんよ。ほら」
無邪気な子供のような表情で、ティシナが笑う。
煉術で映し出された画面の中。水龍の攻撃をかわして、漆黒の
致命傷には程遠くても無数の傷を負わされた水龍は、大量の血を失って動きが鈍っていた。
そんな水龍の首に向けて、漆黒の
龍気を纏った
「
砦にいた多くの兵たちが見守る中、漆黒の
「黒の剣技——お見事です、ラス」
あまりの驚きに兵士たちが静まりかえる中、王女が口の中だけで小さく独りごちる。
そして次の瞬間、水龍の巨体が地響きを上げて転がり、砦の中は爆発的な歓喜の渦で満たされたのだった。