第16話:種馬騎士、皇女の真意を知る
皇宮の敷地内にある広大な庭園の一角に、その建物は立っていた。
テロス教団プラタ大聖堂——
皇国の歴代皇帝が葬られてきた、アルギル皇家の霊廟である。
地上にある聖堂の建物は、皇都にあるほかの大聖堂と比べて、さほど壮麗でも豪華でもない。
皇宮に仕える人間以外は立ち入ることができないのだから、ある意味それも当然だ。歴史のある聖堂といえば聞こえはいいが、それは古ぼけた時代遅れの建築物ということでしかない。
だが、プラタ聖堂の真の価値は、地上ではなく地下にある。
建国以来八百年余りの歴代アルギル皇帝と主立った皇族ほとんどの遺体が、この聖堂の地下納骨室に納められているからだ。
「自分の名前を刻んだ墓碑を眺めるのは、少し不思議な気分だね」
壁に埋められた真新しい石版を見下ろしながら、フィアールカがおどけた口調で言った。
時刻はすでに真夜中だ。
迷路のように入り組んだ納骨室に、彼女とラス以外の人影はない。
窓のない地下空間を照らしているのは、フィアールカが煉術で生み出した光球だけ。
無色の輝きが照らす石版には、フィアールカ・ジェーヴァ・アルゲンテアの文字が刻まれていた。それは二年前に命を落とした、皇女フィアールカの墓碑なのだ。
もちろん墓碑の下に置かれているのは、本物の皇女の遺体ではない。
そこで眠っているのは、フィアールカの身代わりとなって戦死した彼女の双子の兄——皇太子アリオールなのだろう。
「ずいぶん立派な墓だな。歴代の皇帝並みじゃないか」
ラスが半ば呆れたように息を吐く。
実際にフィアールカの名前を刻んだ墓碑は、ほかの皇族たちのものに比べて不自然なほどに目立っていた。
単に分厚く大きいというだけでなく、装飾も豪華で凝っている。
フィアールカ本人の趣味ではないかと、思わず疑ってしまうほどだ。
「私は国民に愛された皇女だったからね。これくらいの待遇はむしろ当然だよ。なにしろ身を挺して都市連合国の軍を退けた救国の英雄なんだからね」
「まあ、それはそうかもな」
悪びれもせずに胸を張る皇女を一瞥し、ラスはふんと短く鼻を鳴らす。
そんな反応の薄いラスを睨んで、フィアールカは不服そうに唇を尖らせた。
「英雄の名誉、本来はアル兄様が受け取るべきものなのに、と思ってそうな顔だね」
「いや……死んでしまえば、名誉もクソもないからな。アルだってなんとも思ってないさ」
冷たく突き放すようなラスの言葉に、まあね、とフィアールカは同意した。
「でも、あの人の選択を愚かだったとは思わないよ。都市連合国軍との緒戦でアル兄様が負った傷は、実際のところかなり酷くてね。たとえ無事に戦場から戻れたとしても、皇帝の代理に復帰するまでには、おそらく長い療養が必要だった」
「病身の皇帝と、負傷療養中の皇太子か……厳しいな」
ラスは苦い表情で呟いた。
先代までの皇位継承争いで皇族の数が減りすぎたことが、アルギル皇国の政情不安の一因だ。
その結果、病に伏せる現皇帝に代わり、皇太子アリオールは若くして皇帝代理の任に就かざるを得なかった。
そして彼は軍の総司令として戦場に赴き、そこで重傷を負ったのだ。
「そんな状況で、最後に残った皇女までもが龍に殺されていたら、どうなっていたと思う?」
「三侯四伯あたりは、ここぞとばかりに皇位
「そうだね。だから、この国の平和が今も保たれているのは、私の身代わりになって死ぬことを選んだ兄様の決断のおかげなんだよ。正直あまり認めたくはないけどね」
「それは、あいつの身代わりに皇太子の役を演じた、おまえのおかげでもあるだろ?」
「それはどうかな。たぶんあの人には最初からわかっていたんだよ。自分がいなくなったあと、私がどういう行動に出るかってことくらいね」
フィアールカが不愉快そうに顔をしかめて呟いた。
自ら囮となって敵軍を引きつけることを選んだアリオールは、あえて妹である皇女の
自分が妹の代わりに死ねば、生き残ったフィアールカは、必ず自分の代役を務めてくれる。アリオールはそう確信していたのだ。
事実、フィアールカはそれからの二年間、完璧な皇太子役を演じてきた。
アリオールが計算した通りに。
それが必要だったとはいえ、兄の思い描いたとおりに操られる結果になってしまったのが、フィアールカとしては不満なのだろう。
二人は仲のいい兄妹だったが、いつもどこか余裕めかしたアリオールに、フィアールカはいいようにあしらわれていたような記憶がある。
フィアールカのほうが気まぐれで、破天荒に振る舞っていたにもかかわらず、だ。
「たしかに、あいつはそういうやつだったな」
士官学校時代のアリオールの姿を思い出して、ラスは思わず失笑した。
皇太子アリオール・レフ・アルゲンテア。彼の印象を、ひと言で説明するのは難しい。少女のような繊細な美貌を除けば、突出してなにかが優れていたという人物ではないからだ。
剣の腕ではラスが彼に勝り、煉術の才ではフィアールカが兄を圧倒していた。座学の成績も悪くはなかったが、それでも学年首位を争うほどではなかったように思う。
しかし学生同士で競い合うことになれば、なぜか勝つのは常に彼だった。それは模擬戦でも、学園祭の屋台の売り上げでも同じことだ。
癖の強い味方を易々とまとめ上げ、まるで未来を知っていたかのような鮮やかな攻め口で、気づくと大勝しているのだ。
そしてアリオールは品行方正なようでいて、とんでもない悪戯好きだった。
経営難の孤児院を救済するために学生寮で密造酒を造って販売したのは、彼の行動の中ではまだ可愛げがあるほうだ。
セクハラ教官を罠に嵌めたときには、皇太子自ら女装して相手を誘惑したし、人身売買組織を潰すためには、訓練用の
そんな皇太子の行動に巻きこまれ、尻拭いのために奔走させられたのは、いつもフィアールカとラスだった。
そうなると、フィアールカが皇太子の身代わりを演じさせられているのも、アリオールの最後の悪戯のように思えてくる。だとすれば、ラスが筆頭皇宮衛士の役目を押しつけられたのも、ある意味、逃れられない宿命のようなものなのだろう。
「相変わらずきみは兄様のことが大好きだね」
無意識に微笑んでいたラスを睨んで、フィアールカは拗ねたように頬を膨らませた。
「好き? 俺がアルのことを?」
「兄様への評価が高いって意味だよ。きみがアル兄様に会うのをずっと避けていたのは、私が死んでしまったからじゃない。本当はあの人に失望するのが怖かったんでしょう? みすみす妹を死なせて自分だけ生き残るなんて、兄様らしくないからね」
「それは……そうかもな」
フィアールカの指摘に、ラスは歯切れの悪い答えを返す。
自覚していたわけではなかったが、言われてみれば腑に落ちた。
どれだけフィアールカの死を悲しんでいたとしても、それだけならラスがアリオールから逃げる理由はない。彼に会うのを拒んだところで、フィアールカが生き返るわけではないからだ。
それでもラスがアリオールとの再会を避けていたのは、自分が彼を憎まずにいられるという自信を持てなかったからだった。
フィアールカの言うとおり、ラスは自分が彼に失望するのを恐れていたのだ。
「大丈夫。アル兄様は、最後まできみが知っている兄様のままだったよ」
銀髪の皇女が、優しい口調でラスに呼びかけた。
フィアールカの言葉は真実だ。彼女の兄はこの国を危機から救い、そして妹の命も救った。彼らしい突拍子もないやり方で。
「だとしても、あいつに死んでほしかったわけじゃない」
ラスは足元の墓碑を見つめたまま、ぼそりと弱々しく呟いた。
別人の名前が刻まれた墓碑の下で、蒼い瞳の皇太子は今も眠っている。悪戯好きの彼らしい結末だ。
「きみが責任を感じる必要はないんだよ、ラス」
フィアールカが、静かに息を吐く。そして彼女は、そのまま投げやりに肩をすくめてみせた。
「それは私だって同じだ。兄様を犠牲にして生き延びたからには、私にはこの国を守る義務がある——なんて押しつけがましい考え方は好きじゃない」
「だったらおまえは、どうして男装までして皇太子の真似事なんかやってるんだ?」
「そんなのは、私がいちばん上手くやれるからに決まってるだろ。少なくとも私は、私以外の誰かに今のアルギル皇国を任せる気にはなれないね。そんなことになれば半年も保たずに国が潰れてしまうよ。それはさすがに後味が悪すぎる」
「……もう少しほかに言い方があるだろ。この国の民を愛している、とかなんとか」
ラスは苦笑まじりにフィアールカをたしなめた。
しかし彼女の発言を否定はしない。
「そんな上っ面だけの綺麗事で、皇帝代理なんて面倒な仕事はやってられないよ。だからね、ラス——」
フィアールカが、ニヤリと微笑んでラスを見る。
「だから、私の代わりに皇国を任せられる人間が現れたら、私は潔く身を引くよ」
「身を引く?」
「名前を捨てて、どこかで平民として暮らすかな。シャルギアのティシナ王女が子を産めば、皇家の後継者問題にも片が付くしね。それなら私が消えても問題ないでしょう?」
事も無げな口調でフィアールカが告げた。
ラスは無言で彼女を見返す。
皇太子に成りすまし、異国の姫と婚姻を結ぼうとしている男装の皇女。
たとえシャルギアの王女の協力を取り付けたとしても、そんな不安定な状況が長く続くはずがない。
フィアールカはそれを理解している。だから彼女は、いずれ自分がいなくなるところまで含めて計画を立てた。皇位継承権を持つ子供が生まれたら、フィアールカは自分の死を偽装して、政治の表舞台から姿を消すつもりなのだろう。
「残された人間はどうすればいい? 誰が国の舵取りをするんだ?」
「それはティシナ王女に任せるよ。次期皇帝の母親なら、その資格は充分だ。きみや宰相の協力があれば、そう悪いことにはならないよ」
「ティシナ王女が、皇国を任せられるような人間でなかったらどうするつもりだ?」
「そのときは私が第二皇妃なり側室なりを娶って、きみに子供を作らせれば済むことさ」
「……王女を口説くところまでは諦めたが、子作りまで協力すると言った覚えはないぞ」
「きみはなにを言ってるんだ。正統な皇位継承者の不在が問題の原因なのに、皇太子妃が子供を産んでくれなければ、なんの解決にもならないじゃないか」
「おまえ……最初からそのつもりで……!」
ラスが苦々しげに目を眇めて、フィアールカを睨んだ。
フィアールカの計算は、ティシナ王女が世継ぎを産まなければ成り立たない。ラスが王女を孕ませるところまでが、フィアールカの計画だったのだ。
「きみのお祖母様は先代皇帝の妹君だ。きみの子が皇位継承者になっても血統的には問題はない。なに、今さらきみの浮気相手が一人や二人増えても、私は寛大な心で許すよ、
フィアールカが皮肉たっぷりの口調で言う。
そこでラスはようやく気づいた。
割り切った発言とは裏腹に、フィアールカも、ラスが自分以外の女性を抱くことを歓迎しているわけではないのだ。むしろラスがこれまで娼館に出入りしていたことを、しっかり根に持ってすらいるらしい。
学生時代のフィアールカは人並みに嫉妬深い性格だったし、根本的なところは今も変わっていないのだろう。
浮気を許すという言葉とは裏腹に、洩れ出ている不機嫌な気配がその証拠だ。
「ここに俺を連れてきたのは、そんな話をするためだけじゃないんだろ、フィー?」
これ以上の反論は不毛だと判断して、ラスは唐突に話題を変えた。
フィアールカが驚いたように小さく眉を上げる。
「なんだ、気づいていたのかい?」
「合理主義者のおまえが、墓参りなんかのために俺を連れ出すとは思えないからな」
「失敬だな。私にだって死者を悼む気持ちくらいはあるよ。いちおうね」
自分に対するラスの評価に、フィアールカが反論する。
「ただ、この霊廟に墓参り以外の用事があったのも本当だよ」
「用事?」
「皇帝陛下が言ってたでしょう、きみに
フィアールカに言われて、ラスは思い出す。
二年前の上位龍殺しの報酬として、ラスには
「この霊廟の地下には、皇家が保有する
そう言ってフィアールカは、思わせぶりな視線を納骨室の奥へと向けた。
いつになく緊張感をにじませた彼女の横顔を見て、ラスは嫌な予感に襲われたのだった。