1 魔法学院入学編

【序章】

 アルマークのノルク魔法学院入学は、二年遅れた。


 彼の同級生となるはずの少年少女たちが南の魔法学院の門を初めてくぐる頃。アルマークは北の荒涼とした戦場で剣を振るい、自分と敵の流す赤い血にまみれていた。

 彼は、北の傭兵の息子だったからだ。


 南方で戦乱の火が絶えて、早百余年。それとは対照的に北方の戦火は衰える気配を見せなかった。様々な国が興っては消え、多くの人々の命が無為に失われ、それでも北の民は決定的な強国を生み出せないまま四十五年の歳月を戦乱に費やした。

 大陸中の血生臭い傭兵たちは立身出世と一獲千金の夢を求めて、自然、北に集まるようになった。正義も大義もなく戦場を駆ける彼らを、心ある人々は“北の傭兵”の名とともに恐れ、忌避した。

 そしてアルマークの父、レイズもまた、精強を誇る傭兵団「こくろう騎兵団」の副団長として北方にあった。


 アルマークが北の地で初めてノルク魔法学院の学院長ヨーログと出会ったのは、彼が五歳のときのことだ。


 傭兵団が一つの場所に長く留まることは少ない。雇い主を変え、戦場を変え、各地を転戦するのが傭兵団の常だからだ。

 そのとき黒狼騎兵団が母隊を連れて行軍していたのは、長年小競り合いを続けるフィラン王国とギル・バ王国という二つの国の緩衝地帯だった。

 北方に安全な行軍などありえない。その日も前方に砂塵を確認したレイズは自ら十騎の騎兵を連れて偵察に出た。

「遅れずについてこいよ」

 レイズは部下に指示して自ら先頭に立った。

 相手はすぐに知れた。この辺りを根城にする、傭兵崩れの野盗どもだ。普段は近隣の村落や通りかかる隊商を襲って飢えを満たし、近くで戦があれば傭兵として戦場にも出る、そういったはぐれ者たちの集団だった。その数はざっと見て三十といったところか。

 野盗たちはどうやら旅の老人を追っているところのようだった。

 目障りな連中だ、とレイズは吐き捨てた。

 ギル・バ王国の正規軍がこの先に展開しているという情報も入っている。さっさと蹴散らしてもう少し先まで足を延ばしてみるか。彼はそう決心して後ろの部下を振り返った。

「いくぞ」

 そのとき彼は追われている旅の老人をどうこうしようとは全く思っていなかった。彼が視野に入れていたのはあくまでも老人を追っている野盗であって、野盗に追われている老人ではなかったのだ。

 レイズ以下の騎兵は野盗の側面から奇襲をかけた。その黒狼の名に恥じぬ苛烈な攻撃をまともに受け、三倍の人数の野盗はたちまち崩れた。レイズが七人目を斬ったところで戦闘は終わった。

「残りは逃げたか」

 レイズは周りを見回して呟く。野盗はおびただしい死体を残して敗走していった。

 そこで彼は初めて老人に意識を向けた。老人はぜいぜいと荒い息をつきながら、どうも危ないところを、と途切れ途切れに礼を言った。

「災難だったな、じいさん」

 レイズは言った。

「この辺りはじきに戦場になる。一人旅は危険だぜ」

 それから野盗の死体を漁っている部下を振り返り、もうその辺にしとけ、と怒鳴る。集まってきた部下の数を数えたレイズは、ウェンナーがやられやがったな、と呟いた。

「もう少し先まで足を延ばす。ギル・バの正規軍が拝めりゃしめたもんだ」

 全員が騎乗したところで、レイズは思い出したように老人を振り返り、

「ここでしばらく待ってれば俺たちの母隊が来る。一人旅に懲りたなら、レイズって名前を出して馬車に入れてもらいな。なに、心配するこたあねえ。移動中の傭兵団だからな、女もいりゃあガキもいる。国境までなら一緒に行ってやれるぜ」

 と一息で言った。

「よし、行くぞ」

 老人の返事は待たなかった。レイズの号令一下、十騎の黒狼たちは一斉に走り始めた。


 母隊の野営地に戻ったとき、レイズはもう老人のことなどすっかり失念していた。

 期待していたギル・バ正規軍の姿は影も形もなかった。どうやら転進して攻略目標を東に移したらしかった。当面の敵を失った黒狼騎兵団はとりあえずこのまま進撃してフィラン王国正規軍の補給線を確保する任務に移ることになった。

 気だるい疲れを感じながら報告を終えて、レイズが団長のテントを出ると、母隊で炊事を担当している女の一人が寄ってきて、あんたの知り合いだって言う変なじいさんを途中で拾った、と言った。

 それでようやく彼は老人のことを思い出した。

「よう、じいさん」

 老人は馬車の隅っこに小さくなって座っていた。レイズが声をかけると慌てて立ち上がり、深々と頭を下げると、ヨーログと自らの名を名乗った。

「俺はレイズだ。ここの副団長をしている」

 ヨーログは彼に、何か礼をさせてほしいと言った。レイズは笑って、あんたには何ができるんだ、と尋ね返した。まあできるのなら炊事の手伝いでもしてもらおうと思っていた。

 ヨーログは、自分は南の大国、ガライ王国にあるノルク魔法学院の学院長で、才能のある子供を探して旅をしている途中である、と言った。

 レイズは笑って信じなかったが、ヨーログが、旅の途中で杖をなくしたのでこの程度のことしかできませんが、と言いながら足元の石を拾って頭上に放り投げ、それが一羽の鳥になって飛び去っていくのを見て、本物かよ、と呟いた。

「ノルク魔法学院なら俺も聞いたことがある」

 レイズは言った。

「魔法の才能さえありゃ出身地、身分の上下にかかわらず誰でも平等に教育が受けられるって話だ。それに卒業したら各国から引く手あまたで出世できるとも聞いた。あんたがそこの、学院長だって?」

 ヨーログは頷き、レイズのあやふやな知識を補足した。

 学院はガライ王国領のノルク島という島にあること、入学できる子供の年齢は九歳に限ること、生徒たちは初等部、中等部各三年の計六年間、全寮制の学院生活を経て正式に魔術師になるのだということ、専門分野の魔法を極めたい者はさらに高等部で三年間学べることなどである。

「ふうむ」

 ヨーログの説明を聞くとレイズは一度唸ったきり、しばらく黙って考え込んだ。ヨーログは静かに彼を見守る。やがてレイズは左の脇腹をぼりぼりと掻き始めた。それは、言いづらいことを言おうとするときの彼の癖だった。

「……あんたの学院は、才能のあるガキしか入れないんだったな」

「ええ」

 ヨーログが頷くとレイズはまた、ふうむ、と唸って脇腹を掻き始めた。

「頼みがある」

 ようやくレイズは切り出した。

「俺の息子のことだ」

 ご子息、とヨーログが反応する。

「ああ、アルマークってんだ。五歳になる」

 レイズはなおも脇腹を掻きながら言った。

「母親は、あれが生まれてすぐに死んじまった。俺が男手一つで育ててきたんだが、どうにも覇気がねえっていうか、気が弱すぎる。傭兵ってのは過酷な商売だ。敵はもちろん味方だって信用できねえ。頼れるのは自分と一握りの仲間だけだ。断言してもいいが、あいつがただの傭兵になったら、十五歳を迎える前に確実に死ぬ」

 ヨーログは無言でレイズの言葉に耳を傾ける。

「いや、分かってる。あいつはもちろん魔法の才能だってないだろう。だがとにかく、南に自分の住める足掛かりさえ見付ければ、向こうには戦はない。どうとでも生きていける。頼む、あいつをあんたの学院に入れてやってくれ」

 レイズはそう言って頭を下げた。

 ヨーログはしばらく黙っていたが、やがて笑いながら、おかしなことになりましたな、と言った。

「恩を受けたのは私なのに、あなたの方が頭を下げている」

 とにかくその子を見せてくれ、というヨーログの要望に応えて、二人は立ち上がった。

 気付くともう辺りは薄暗くなっていた。夕食の準備が始まっているようだ。あちこちで立ち上っている焚き火の煙の一つをレイズは、あそこだ、と指差した。

 女たちが忙しく立ち働く傍らに、その子はぼんやりと座っていた。焚き火の炎が彼の顔を赤く照らしている。

 アルマーク、とレイズが声をかけると、彼は顔を上げた。思いがけず、利発そうな顔立ちであった。だが弱々しい目の光が彼の気の弱さを物語っていた。

 父の姿を認め、少年は嬉しそうに駆け寄ってきた。だが、父の隣にいるのが見知らぬ老人であることに気付くとびくりと足を止める。

「大丈夫だ、アルマーク。このおじちゃんはいい人だ」

 レイズが言ったが、アルマークは父に駆け寄るとその陰にさっと隠れてしまった。

「人見知りするんだ」

 レイズはそう言ってため息をついた。

「全く情けねえ」

「いえ、とても利発そうな顔立ちです。警戒心が強いのもその賢さゆえでしょう」

 ヨーログは言いながらアルマークに近付き、どれ、と言って腰を屈めた。アルマークはレイズの脚にしがみついて出てこようとしなかったが、レイズが無理やり引きずり出した。その頭にヨーログがそっと左手を伸ばす。アルマークがびくりと震え、今にも泣きそうな顔になった。怖くねえぞアルマーク、とレイズが怒鳴る。

 アルマークの頭にヨーログの手が触れたその瞬間、ばちっと電流のようなものが走った。ヨーログは不意を衝かれたような顔をして、慌てて手を引っ込めた。

「どうしたんだ」

 レイズが尋ねた。ヨーログは目を丸くして、アルマークの顔をまじまじと見た。

「……驚きましたな」

 ヨーログは手をさすりながら、この少年が信じられないほどの魔法の才能を秘めていることを父親に伝えた。

「私も多くの才能ある子供を見てきましたが……これほどの可能性を秘めた子供に出会ったのは初めてです」

「ほんとうかよ」

 レイズは素直に喜んだ。魔法の才能とやらがどんなものかは彼には分からなかった。しかしとにかく、息子はこの老人に認められたのだ。

「おそらく剣の才能も早くに芽吹くでしょう。きっと傭兵としても立派にやっていけることと思いますよ」

「剣の才能なんて大して重要じゃねえんだ」

 レイズは即答した。

「傭兵にはな。誰にも頼らねえで生きていける心の強さが必要なんだ。強いか弱いかなんて二の次さ」

 そう言って、レイズは乱暴にアルマークの頭を撫でた。

「こいつには多分それがねえ」

「……そういうことでしたら」

 ヨーログは頷き、学院への詳しい行き方をレイズに教えた。

 学院があるのは、南の大国、ガライ王国のさらに南の海に浮かぶノルク島だ。それは、北の人間にとっては途方もない遠隔地、遥かこの世の果てと言ってよかった。だが、レイズは精悍な笑顔で頷いた。

「そこにこいつが行きゃいいんだな。そうすりゃ魔術師にしてくれるんだな」

「ええ」

 ヨーログは父の脚から離れようとしないアルマークの顔を見た。

「この子が九歳になったら、学院に連れてきてください。必ずや優れた魔術師にしてみせましょう」

「ああ、分かった。必ず連れていくよ。……よかったな、アルマーク」

 レイズは息子を抱き締めた。アルマークは何も分からず、ただ汗臭い父に抱かれていた。

 ヨーログはその後、国境まで一緒に旅をした後、何度も頭を下げて去っていった。


 アルマークはヨーログの予言通り、聡明な少年に育っていった。

 レイズはアルマークに剣技を教えようとはしなかったが、彼は自ら、父の使わなくなった大人用の大きな剣を握り、稽古に励んだ。無口で人見知りなところは変わらなかったが、成長につれ、目にははっきりとした強い理性の光が宿っていった。

 アルマークの剣の才能は、何かに追われるような激しい鍛錬によって早くに芽吹いた。その剣の一振り一振りに鋭い風切り音が伴うようになると、レイズはぽつりぽつりと息子にアドバイスをした。

 そしてアルマークが八歳になったある日、皆を瞠目させる事件が起きた。

 その日、母隊を後方に残し、主力の男たちは皆戦場に出ていた。相手はモーリス傭兵騎士団。精強な黒狼騎兵団とて油断はできない強敵だ。そのため、母隊に残っていたのは女子供と老人だけだった。

 そこに、二人の傭兵が乱入してきた。彼らは流れの傭兵であったが、いずれも屈強の戦士だった。たちまち五人が血祭りにあげられた。女たちが逃げ惑う中、傭兵の前に突然飛び出したのは、アルマークだった。彼は子供には長すぎる父の長剣を器用に操り、たちまち二人を斬り伏せた。

 モーリス傭兵騎士団のエース、〝白き疾風”ガルカシュとの一騎討ちに引き分け、手傷を負って帰ってきたレイズは女たちからその話を聞いて、顔をしかめて、ふうむ、と唸った。戦場に出してみろよ、と団長のジェルスがレイズの肩を叩いた。二人も斬れるなら、戦場にも出られるだろうぜ。

 十二歳ともなれば一人前の大人と認められて戦場に出るのが当たり前のこの土地でも、それは常識外れの早さだった。しかし、レイズはアルマークを呼び、春が来たら戦場に出てみるか、と言った。アルマークは頷いた。

 冬が過ぎ、春が来た。

 アルマーク九歳の春。それはヨーログとの約束の年だった。しかし北方の情勢は日に日に悪化の一途をたどっていて、とてもレイズが傭兵団を離れられるような状態ではなかった。そして、アルマークは魔法学院の入学式を迎える代わりに初陣を飾った。大人たちに混じって四人を斬った。次も出ろ、と父は言った。

 二度目の戦は負け戦だった。彼は教室で本を読む代わりに冷たい北の大地に自らの血を流した。

 毎日、小さな戦いがあった。五回、大きな戦を経験すると、夏が来た。

 アルマークはすでにいっぱしの戦士になっていた。黒狼騎兵団に妙に強いガキがいる、という噂は北の傭兵たちの間に少しずつ広まりつつあった。

 しかしレイズは息子の魔法学院入学を諦めたわけではなかった。戦のない日は息子を呼び、自分の知っている限りの学問を教えた。文字の読み書きや数字の計算から、正しい言葉遣い。生きるためのあらゆる術。そして、自らの哲学。それらをアルマークは剣技を身に付けるのと同じように素直に吸収していった。

 その聡明さは、誰の目にも明らかだった。だが、アルマークはそれ以外の時間、専ら剣を振るい続けた。レイズはそれを内心では喜ばなかったが、敢えて止めることもしなかった。こうしてアルマークの九歳の夏は、レイズにとっては歯がゆいほど無為に過ぎていった。

 ある日、アルマークは戦場で命を落としかけた。〝陸の鮫”の異名を取るガレット重装傭兵団のエース、アンゴルの槍に胸を貫かれたのだ。幸い一命は取り留めたが、それでも一月もの間起き上がることさえできなかった。レイズはいよいよ息子と別れる決心をした。

 ようやく身体の全快したアルマークを呼び、レイズは、明日南に向けて発て、と言った。最初アルマークは抵抗した。父さんと一緒に戦う、と言うアルマークに、レイズは怒鳴り散らした。

「ばか野郎、てめえがいたんじゃ足手まといなんだよ」

 事実、黒狼騎兵団はこれから北でも五本の指に入る激戦地、バスティア王国に向かうことになっていた。危険なのは戦場だけではなくなる。

「もっと強くなる」

 とアルマークは言った。レイズは、ふん、と鼻を鳴らし、

「今からじゃ間に合わねえ」

 と吐き捨てるように答えた。

 黙ってしまったアルマークに、レイズは今度は穏やかな声で言った。

「アルマーク、お前は偉くなれ」

 意外な言葉に、アルマークは父の顔を見上げる。

「いいか」

 レイズは言った。

「傭兵なんてのは、一番割に合わねえ商売だ。手柄を立てて傭兵から騎士になったやつなんてたくさんいるような話はあるが、実際のところ何人もいやしねえ。みんないいようにこき使われて、利用価値がなくなれば最後は捨てられるのが落ちだ。お前だって見てきただろう、戦場に転がってるいくつもの傭兵の死骸を。あれが俺たちの成れの果てだ。そうならねえためには、剣だけじゃだめなんだ。……頭を使え、アルマーク。何をどうするのか、どうすべきなのか、俺に頼らずに自分で考えてみるんだ。勉強を積んで、賢くなって、偉くなって、何人もの人間を動かすようになれ」

 アルマークはしばらく黙っていたが、やがて、分かったよ父さん、と小さな声で言った。レイズはにこりともせずに、よし、物分かりのいい子だ、と言った。

「みんなに別れの挨拶をしてきな」

 アルマークは頷き、テントを出た。

 アルマークと同じ年頃の子供は二人いた。

 一つ年下のメリーはアルマークを実の兄のように慕っていた。大人の女たちに混じって炊事洗濯なんでもこなす利発な少女だった。アルマークに抱き着いたメリーは、私のこと忘れないでね、アルマークお兄ちゃん、と泣き笑いの顔で言った。

 ガルバはアルマークと同い年で、斧の名手“こくせん”ゲイザックの息子だ。もちろん初陣はまだだが、負けず嫌いでいつもアルマークと張り合ってきた。元気でな、アルマーク。ガルバは言った。次に会うときは俺も一人前の戦士だぜ。

 アルマークは戦場で世話になった黒狼騎兵団の戦士たちにも挨拶に回った。

 団長のジェルスを始め、いつも冷静なモルガルドや、口は悪いが腕は確かなガドル。ガルバの父ゲイザック。皆、アルマークの肩を叩き、旅の無事を祈ってくれた。

 戦場に出るようになったアルマークに特に目をかけて親身に面倒を見てくれた歴戦の十人組長デラクは、挨拶に来たアルマークを見て、日に焼けた顔を少し寂しそうに綻ばせた。大丈夫、あんたはレイズの旦那のお子さんなんだ。デラクの低い声はアルマークの心に染み入るように響いた。そのことを決して忘れちゃいけねえ。あんたなら、どこへ行ったって立派にやっていけますぜ。デラクはそう言って微笑んだ。

 翌朝早く、アルマークは旅立った。

 見送りに出たレイズは、

「お前はもう一人前の戦士だ。心配はしてねえよ」

 と言って笑った。

「ただ世の中には万が一ってこともある」

 そう言うと、懐から小さな赤いペンダントを取り出す。

「シェティナの形見だ」

 レイズは死んだ妻の名を口にした。

「何があっても、こいつがお前を守ってくれる」

「ありがとう」

 アルマークは荷物を地面に置き、それを両手で受け取った。

「……行ってくるよ。父さんもどうか元気で」

「ああ」

 そうして二人は別れた。しばらく歩いて振り返ると、父はまだアルマークを見ていた。アルマークは最後に大きく手を振った。それに軽く手を挙げて応えてから、レイズは踵を返して野営地の中に戻っていった。

 さよなら父さん、とアルマークは口の中で呟いた。父の姿はじきに見えなくなった。そしてこれが、この親子の最後の別れとなった。


 アルマークが南の果て、ノルク魔法学院にたどり着くためには、危険な北の地を抜け、ちゅうげんと呼ばれる大陸中部地域を越え、さらに南の地を踏破する必要があった。

 傭兵団で実戦の経験を積んでいるとはいえ、アルマークはたった九歳の子供だ。北の土地での一人旅は想像を絶するほど過酷なものだった。しかも季節は秋を過ぎ、冬になろうとしていた。

 飢えと寒さ、魔物、それに心の荒んだ人間たち。北ではあらゆるものがアルマークの敵だった。彼は何度も命を落としかけ、そのたびに子供離れした剣技と強運によって窮地を脱してきた。時には移動中の傭兵団に入れてもらい、時には旅の戦士や魔術師と行動をともにした。彼は、自分が頼ったそうした人間たちから八割がた裏切られた。苦く辛い思いをし、心に傷を負いながら、アルマークは信用できる人間とできない人間とを見分けるすべを学んだ。

 大陸北部と中原とを隔てるメノーバー海峡を越える頃には季節は春になっていた。アルマークは北の最も過酷な冬を何とか生き抜いたのだった。この険しい旅の中でアルマークの五感は研ぎ澄まされ、生き延びるための多くの技能を身に付けた。

 中原は戦乱の絶えて久しい豊かな地だ。そこはアルマークに生まれて初めての新鮮な感覚を与えてくれた。

 毎日の変わることない生活に何の疑問も抱かず、暮らす人々。その日食べるものの心配をしなくてもいい生活。アルマークは不思議な気持ちでそれらを眺めた。そして、旅するアルマークに対して人々は優しかった。人の成長の早いこの世界においても、わずか九歳で北から一人旅をしてきたこの少年は、中原の人々にとってまさに超人以外の何者でもなかった。

 中原での旅でアルマークは、初めて旅の楽しさを知り、人々の優しさに触れた。そして戦乱のない国々の豊かさを知った。季節は十歳の春から夏を過ぎ、秋に差し掛かっていた。

 大陸南部に着く頃には路銀は尽き果てていた。アルマークはまるでぼろ雑巾のような姿で旅を続けた。季節は冬になっていたが、北の冬を越えてきた彼にとっては南の冬の寒さなどどうということもなかった。毎日野宿をし、星空を眺めながらアルマークは、自分自身との対話の仕方を学んだ。

 季節は巡り、アルマーク十一歳の春が来た。ノルク島は海を隔ててすぐそこだったが、彼は船賃を稼ぐために港で一月働いた。貯めた船賃で船に乗り込むと、ヨーログとの約束から二年遅れて、ようやくアルマークはノルク魔法学院に到着したのだった。

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