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──むせ返るような血臭が戦場に立ち込めていた。
数時間前まで開けた盆地だった戦場は、今ではあちこちで火の手が上がり、焼けた木々の弾ける音と怒号が飛び交っている。
空気には木と肉が焼ける臭いと、足下を浸すほどの血溜まりの臭いが入り混じり、人間の嗅覚を狂わせる。夕焼けと、炎と、足下と、世界は一面真紅に染め上げられていた。
「う、く……っ」
その真っ赤な世界の中で、震える足を引きずる青年がその場に膝を突く。血溜まりに膝が浸かるが、今さらそんなものは気にはならない。
青年の体はとっくの昔に、おびただしい量の血に汚されていたのだから。
──酷い、本当に酷い有様だった。
青年も、自ら望んで剣を振るう道を選んだ身だ。いずれは戦場で勇名を馳せ、一兵卒の身分から華々しい栄達を迎えたいと夢想した夜は何度もある。
甘かった。考えも、夢も、脇も全てが。
血も、傷も、痛みも、恨みも、鉄火も死体も、全ては戦場の習わしだ。
初陣が、王国で何年も続く内戦の中でも前例が乏しいほどの激戦であったこと。
今回の戦場の指揮官がどこぞの若い貴族で、箔を付けようと調子づいたところを敵軍に突かれて敗走し、戦線が総崩れになったこと。
敵味方が一瞬で入り乱れて混乱し、そこを魔法に吹き飛ばされて気を失ったこと。
いくつもの不幸な偶然が重なり合い、青年──グリム・ファウゼンは戦場で一人きりになり、濃密に漂う『死』の気配の中で足を引きずっていた。
「────」
意識すれば体が重くなり、足の傷はますます存在を主張してグリムを苦しめる。
──頭上から押し寄せた爆炎が、目の前の地面ごとグリムを吹き飛ばしたのだ。
火傷と足の傷だけで済んだ自分が幸運だったのは、自分以外の小隊員が消し炭になったことからわかっている。傍らにいた小隊長は、小隊唯一の正騎士でもあった。
戦いが始まる前、励まされたことは記憶に新しい。尊敬の念を抱いたのも事実だ。
そんな人物の命すらも、戦火は呆気ないほど容易く焼き尽くしていく。
「ぐ、ぅぅぅ」
歯を食い縛り、目に焼き付いた騎士の最期を忘れようとする。だが、決定的な場面は瞼の裏で何度も繰り返され、グリムの神経を確実に削り取る。蹲るグリムの手には、まだ一度もまともに振るわれていない剣があった。鋼の剣は投げ出してしまいたいほど重い。それでも戦場で剣を手放すなど考えられない。自分が戦えないとわかっていても、だ。
剣を手放すことは、命を投げ出すことに等しい。死ぬのは、いつだって怖かった。
「ひ──っ」
近くで野太い悲鳴が上がり、喉を引きつらせてグリムはその場から逃げ出す。
聞こえた悲鳴が敵のものか味方のものか、それを確かめる気力さえグリムにはない。
「はっ、はぁっ」
出くわすものは今や全てが敵に見えた。人だけではない。炎も、血溜まりも、風の音すらも、今のグリムには自分の命を狙う害意に思えてならない。
痛む足を引きずり、噴煙に飛び込む。見通しは最悪だが、それがかえってグリムの混乱を抑える役目を担ってくれる。その消極的な判断が事実、噴煙の外に目を凝らす敵兵から青年の姿を隠し、わずかながらに生存時間を稼ぐことを成功させていた。
だが、その幸運も長続きはしない。
「見つけたゾ、人間!」
「わ! わあ! わあああ!」
噴煙を抜けた直後、グリムの目の前に鉈のような刃を担ぐ敵が姿を現した。
分厚い筋肉と見上げるほどの巨躯、岩のような質感の紫色の肌をした亜人だ。
亜人は負傷したグリムを見て、その凶悪な面貌に嘲笑を浮かべる。容易く狩れる獲物を見つけたと、嗜虐的な色に男の双眸が揺らめくのをグリムは見た。
何かの間違いで最初の死を乗り越えた。だが、幸運は何度も続かない。これならば自分の命など、始まった戦いのどこで終わっていても同じだったではないか。
ならば何故、少しの時間だけでも長らえさせたというのか。
「──終わりダ!」
運命を呪い、膝が落ちるグリムの脳天に鉈が振り下ろされる。
すでに何人の命を奪っていたのか、鉈はこびり付いた血肉でどす黒く染まっており、きっと楽には死ねないだろうとひどくぼんやりとした感慨がグリムの脳裏を掠めた。
こんな間抜けな思いが、最期の瞬間なのか。
──そのときだ。
「づぁぁぁ!」
裂帛の気合いが突き抜け、目の前で鋼同士が打ち合う火花が上がる。
鉈を振り上げ、かろうじて一撃を防いだ亜人が呻き声を漏らしながら下がり、グリムと亜人との間に人影がゆらりと舞い降りた。
黒に近い、茶褐色の髪を揺らす影だ。細い革鎧姿に大量の鮮血を浴び、手にした拵えの立派な剣が炎を照り返している。凄絶な雰囲気の中、その剣の印象だけが不可解に浮かび上がり、やけにグリムの目に強く焼き付いていった。
しかしその感傷は、続く一瞬の交錯によって即座に打ち砕かれる。
「しぃっ!」
鋼が弧を描き、銀閃が戦火の中で一段と強く輝く。
鋭い呼気と共にひた走る刃、それはある種、場違いな美しささえ孕んでいて、
「あ?」
呆気に取られた声はグリムのものだったのか、亜人のものだったのか。
銀光一閃──鮮やかな斬撃が亜人の首を刎ね、血を噴く巨躯が地面に倒れ伏していた。
「────」
骸となった亜人を見下ろし、影は鋭く剣を振って血糊を払う。どれほどの切れ味だったのか、剣には今しがた斬った亜人の血がほとんど付着していなかった。
「ぁ、お……」
それを見届け、自分が命を拾ったことをようやく自覚し、グリムはとっさにその人物に声をかけなくてはと思った。礼、そう、礼を言わなくてはならない。
亜人は敵だ。その敵を斬ったのなら、斬った相手は味方だ。命を救われた、恩人だ。
「な、なぁ、君……」
震えるグリムの呼びかけに、胡乱げな目つきで人影が振り返った。
その顔を真正面から見て、グリムは想像以上に相手が若いことに驚く。背丈がさほど高くないのは、おそらくまだ成長期の途中だからだ。今年十八になるグリムより、さらに二つか三つは若い。まだ十五歳ほどだろうか。少年と、そう呼ぶべきだろう。
だが、さらなる呼びかけをグリムは躊躇った。恐怖が持続し、喉が引きつっていたわけではない。震えは止まっている。他でもない、少年の目を見たからだ。
「────」
空虚な目だった。ただ、それは少年の中に何もないという意味ではない。
少年のグリムを見る目に、何の感情もこもっていないという意味で空虚なのだ。
そのことに気付いて、グリムは少年に感謝も何も伝えられなくなった。少年は黙り込むグリムをしばし見ていたが、やがて元から薄かった興味を逸した顔で歩き出す。
「ま……っ」
何も言えなかったグリムだが、何もないここへ取り残されることだけは拒んだ。
後ろを見ずに歩く少年を必死に追いかけ、見捨てられることだけは拒絶する。ただひたすらに、生き残ることだけが今のグリムの願いだった。
血溜まりと噴煙を抜け、少年の足が止まるまで必死に追い縋る。
やがて、噴煙の開けた場所で、むせ返るような血臭とともにグリムは見た。
「これ、は……」
それはうず高く積まれた、多数の亜人の屍だった。
全てが斬撃を浴びて果てたものであり、その表情は苦痛や恐怖、怒りに歪んだものばかりだ。それらがいったい、誰の手によるものか気付いてグリムは震えた。
「──なんだ。案外、戦いなんてこんなものか」
空を見上げ、少年がぽつりとそう呟いたのが聞こえた。
つられてグリムも空を見上げて、「ああ」と掠れた声で弱々しく呟く。
──空に浮かぶ赤と青の円を描く輝きは、王国軍全体へ勝利を伝える報せだ。
「王国軍が、勝った……」
あまりにも実感のない勝利宣言を目の当たりにし、グリムは力なくこぼした。
小隊は壊滅し、何もできないまま戦場を転げ回り、死にそびれて命を拾う──そんな無様なグリムの有様で、何に勝利したといえるのか。
勝利したと声高に言えるのはきっと、この少年のように──。
「大したことなかったな」
そんなグリムの感慨すら気にも留めず、少年は不満げに首をひねっているのだった。