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シジスモンの午後は、おだやかに過ぎていった。
春は過ぎ、若葉のまぶしい初夏である。先日まで滞在していたグリンヒルデはまだようやく春に染まりはじめたばかりだったのに、時のたつのは早いものだ。
グリンヒルデから戻ってきて、そろそろ一ヶ月が経とうとしていた。今日もミレーユは以前と同じく、店先に腰かけて番をしている。
突然の外出と長の留守を、母は別段なにもとがめなかった。祖父から事情を聞いていたらしい。しかし無残な短髪になって戻ってきた娘をみるとさすがに殺気立ち、送ってきたエドゥアルトはさんざんにしぼられていた。さぞ落ち込んでいるだろうと後でなぐさめに行ってみたところ、数年ぶりにジュリアが口をきいてくれたとえらく感激していたのでそのままにしておいた。
そのエドゥアルトがしぶしぶベルンハルトへ帰ってしまうと、何事もなかったかのような日々が戻ってきた。本当に拍子抜けするくらいに、あっさりと。
スカーフで隠した、短くなった髪。変わったのはそれぐらいだ。今こうして店先の椅子に座り、ぼんやりと頰杖をついていると、グリンヒルデでの毎日が夢だったのではないかと思えてくる。
(──ほんとに、夢だったのかも)
男の恰好をするのも、貴族の息子として王宮へあがるのも、陰謀に巻き込まれて危ない目にあうのも、夢の世界でなければ味わうことのない経験だ。
そして──すてきな騎士と、ダンスを踊るのも。
リヒャルトに会ったのは、あの舞踏会の夜が最後だった。あれきり、きっともう会うことなんてないのだろう。
ふいに響いたベルの音でミレーユは現実に引き戻された。
見ると、扉を開けて、郵便屋のおじさんが入ってくるところだった。
「やあミレーユ。調子はどうだい?」
「ありがとう、上々よ。手紙?」
「きみ宛てだよ。アルテマリスから」
「えっ」
渡された封筒を裏返してみると見慣れたフレッドのサインがしてある。
おじさんが出て行くのを見届けて、ミレーユはせかせかと封を切った。
『親愛なる妹へ
やあ、ミレーユ。元気かい?
このあいだは散々なことに巻き込んでしまって、すまなかったね。少しは落ち着いたかな?
ところでミレーユ。ここできみにひとつお知らせがあります。
兄は今から、傷心旅行に出ることにしました。
きみも知ってのとおり、兄は命をかけた恋にやぶれ、聞きたくもないのろけ話を強制的に聞かされるという、まことにかわいそうな毎日を送っています。
こんな生活もう耐えられない。ここはひとつ大海原へ出て、水平線にしずむ太陽にたそがれてこようと思う。
つきましては、ぼくがいなくなるのは困るので、きみ、もう一回グリンヒルデに来て身代わりをやってください。
もちろん断ったりなんてしないよね。きみは誰よりぼくの気持ちをわかってくれてるはずだもんね。
そう長く留守にするつもりはないから、ご心配なく。同じ顔の妹がいるとなにかと便利だなあと、兄はほくほく喜んでいます。
それでは、留守中くれぐれもよろしく。この手紙がつくころに迎えの人間がやってくると思うから。
きみの永遠の兄 フレデリックより
追伸
おみやげは東洋の大亀の甲羅を買うつもりです。貧乳に効くそうなので、お楽しみに。
さらに追伸
リヒャルトといちゃつくのは控え目にね。一応ぼくの身代わりなんだし、妙な噂がたっても困るからさ』
「……な……」
他にもいろいろ言いたいことはあったが、とりあえず乙女心を深くえぐった事項についてミレーユはさけんだ。
「なによ貧乳ってえぇっっ!!」
それからぐったりと商品棚につっぷした。
(なんなの……なんなのよこのふざけた手紙は……っっ)
巻き込んですまなかったと、その舌の根も乾かぬうちに、もう一回身代わりをやれという。どういう神経をしているのだ。そして太陽にたそがれるという行為になんの意味があるというのか。
(あのバカ、ほんと懲りないわね。毎回毎回アホな手紙送りつけてきて……)
リディエンヌに失恋したことは同情するし、くだらない文面は本心を隠しているだけなのかもしれないとは思う。──けれど。
まず間違いない。十中八九、これはひまつぶしに書かれたものだ。長いつきあいの双子の妹をなめてもらってはこまる。
ミレーユはぽいと手紙を投げ捨てると、なんとなく入り口の扉に目をやった。
(そりゃあね……嫌な思いもいっぱいしたし、こわい目にもあったけど)
正直なところ、あの日々が楽しくなかったと言ったら噓になる。くやしいけれど──ちょっぴり懐かしくさえ、ある。
でももう、戻ることはない場所だ。もともとが別世界のお話だったのだ。
(あたしにはもう関係ないのよ。永遠に……)
カランコロン──と入り口のベルが鳴った。
扉を見つめていた目が大きく見開かれる。ミレーユは椅子を蹴倒して立ち上がり、そのまま棒立ちになった。
長身の青年は、あの日と同じように、少し身をかがめるようにしながら入ってきた。
今はもう見知らぬ他人ではなくなった彼は、呆けたように突っ立っているミレーユにどこか申しわけなさそうに微笑んで、言った。
「すみません。上官命令でお迎えにきました。──ひきつづき護衛をしろということで」
「…………」
身代わり伯爵の冒険は、まだ終わりそうにない。