それから暫く、二人であちらこちらを歩いては春の山菜を採って行った。休み休み採取していたので、気が付いた時には日が高くなっていた。
「ふぅ……」
沙夜は小さく息を吐きながら、立ち上がる。屈んでは立ち上がることを繰り返していたので、少し腰が痛くなってしまった。
「白雪、この蓬も竹籠に入れてくれる? ……白雪?」
沙夜は蓬を手にしたまま、周囲を見回した。先程まですぐ傍に竹籠を抱えた白雪がいたはずだが、姿が見えない。
「あら……? ……白雪、どこに行ったの?」
声を大きくしながら名前を呼んでも近くにはいないのか、白雪からの返事はない。
「……もしかして山菜を採るのに夢中になっていて、白雪とはぐれてしまったのかしら」
初めて山に入った沙夜にとっては周囲を見ても同じ景色にしか見えない。木々に遮られているので遠くを見通すことも出来ず、屋敷がある方向さえ分からなかった。
「どうしよう……迷子になるなんて……」
とりあえず、沙夜は蓬を自身の衣の袂に入れておくことにした。
きっと自分が近くにいないと知れば、白雪は驚き、心配するだろう。しかし、下手に動いて、山の中で更に迷子になるような事態だけは避けたい。
それまでは白雪と楽しく山菜採りをしていたので気付かなかったが、山の中に一人でいるのは思っているよりも怖い。自分の声が反響するだけで、あとは全て自然の音だ。がさがさと草を揺らす音が聞こえるたびに、沙夜の心には不安が蓄積されていく。
『──よ』
ふと、声が聞こえた気がして、沙夜は思わず顔を上げた。白雪が自分を呼んでいるのだろうかと思い、耳を澄ませた。
『神子よ。神子よ。尊き龍の、愛しき者よ。こちらへ……こちらへ……』
「えっ?」
沙夜が周囲を見回しても、声の主らしき姿は見当たらない。
……でも、声がする方向がどちらからなのかは分かるわ……。
『こちらへ……』
声色からでは男なのか女なのか分からないが、その声音は友に呼びかけるように穏やかだった。そのせいなのか、怖いという感情は出てこなかった。
……この声を聞いていると、何故か……懐かしい気持ちになってしまう。
自身を呼ぶ声の主が気になった沙夜は、そちらへと足を向ける。歩みを進めるたびに、空気が変わっていくのが肌で感じられた。
……柔らかくて、温かな空気が流れてくる。この感じ、どこかで……。
それは玖遠の妖力を纏った時に感じた、頭がぼんやりとしてくる温もりに似ていた。
小さな風が吹き、木々の間を薄紅色の何かがすり抜けていく。歩んでいる獣道の先は開けた場所になっており、沙夜は木々の隙間を覗くように視線を向けた。
「わぁ……」
視線の先に佇んでいるものに、沙夜の瞳は釘付けとなった。畳が横に二枚並んだ程に太い幹の巨木がそこには立っており、枝には淡く発光している薄紅色の花が咲いていた。
『龍の神が愛おしむ者……龍穴の神子よ……。久方ぶりの訪問、大変良きことなり……』
その言葉を聞いた沙夜は、先日「いとし子」と呼ばれたことを思い出し、ほんの少し胸がざわついてしまう。だが、今それよりも気になるのは自分を呼んだ相手のことだ。
どうやら、声の主はこの巨木のようだ。いくら沙夜が世間知らずでも普通の木が言葉を話さないことぐらい知っている。どうしてこの巨木は沙夜を懐かしそうに呼ぶのだろう。
……でも、龍穴の神子って……何かしら。
それが何を意味しているのかは分からないが、そんなことよりもこの美しい景色を間近で眺めたいと思った沙夜は一歩、巨木へと近付いた。
はらり、はらりと薄紅色の花びらが散っていく様は沙夜を招いているようにも見えた。
……綺麗……。
まるで引き寄せられるように無意識にもう一歩、前へと進んだ時だった。
「──それ以上、進んだら駄目だよ」
耳元で囁く声と共に、沙夜の身体は動けなくなってしまう。
はっとして、小さく振り返れば、そこには自分を抱き締める玖遠がいた。引き留めるように腹部に腕が回されており、沙夜の肩は玖遠の右手によって掴まれていた。
「く、玖遠様っ?」
突然、顔が近くなったことで、心臓が跳ね上がってしまう。
「な、何故、ここへ……?」
「君を捜しに来たんだよ。……仕事が終わって屋敷に戻れば、血相を変えた白雪が走ってきて、沙夜を見失ったって言うから、君に纏わせた俺の妖力を辿って来たんだ。……まぁ、こんなところにいるとは思わなかったけれど、何とか間に合ったようだね」
「間に合う、とは……どういうことですか?」
「ここから数歩先には強固な結界が張ってあるんだ。侵入を試みる者に攻撃を仕掛ける術を施しているから、沙夜がこの先に進まなくて本当に良かった……。……それにしても、こんな山奥まで道に迷わずによく来られたね」
玖遠は心底不思議に思っているのか、首を傾げている。
「えっと、その……何故なのか分からないのですが、身体が引き寄せられる心地がしたんです。それと私を呼んでいるような声が聞こえて……」
「……声?」
「はい。……まるで、私の訪れを歓迎するように、何度も『神子』、と……いえ、『龍穴の神子』と呼んでいました。その声につられるように歩き進めていたら、いつの間にかこの場所に辿り着いていたんです」
素直に沙夜は答えたが、改めて不思議なこともあるものだと思い返した。
しかし、目の前の玖遠の表情が一瞬だけ強張ったのを、沙夜は見逃さなかった。
「玖遠様?」
玖遠は沙夜から離した右手で口元を覆い、何か難しいことを考えているような表情を浮かべていた。
「……沙夜。『呼ばれた』ことは誰にも話してはいけないよ」
「え? ですが……」
言葉を続ける前に、玖遠の右手の人差し指がぴたりと沙夜の唇へと添えられたため、それ以上は話すことが出来なくなってしまう。
「二人だけの秘密。……ね?」
玖遠から向けられる微笑を真正面から受けた沙夜は、口の中が甘いもので満たされたような心地になった。そのまま直視することは出来ず、こくりと頷き返せば、唇に添えられていた指先はやっと離れていった。どうやら沙夜の返答に満足してくれたらしい。
……でも、何故かしら。玖遠様の表情が、それ以上は聞かないで欲しいと言っているみたいに見えたわ……。
気のせいだとは思えなかったが、沙夜はそれ以上問いかけることが出来なかった。
「それじゃあ、屋敷に戻ろうか。白雪も君の帰りを待っているだろうし」
白雪の名を聞いて、沙夜は彼女のことをはっと思い出した。
「……あの、迷子になってしまって、申し訳ございませんでした。ですが、白雪をどうか、𠮟らないで下さい……っ。私がつい山菜採りに夢中になって、白雪から離れてしまったのが悪いのです……」
後で白雪に謝らなければと思い、沙夜が身体を縮めていると、玖遠がぽんっと背中を軽く叩いてくる。
「沙夜が無事だったんだから、白雪のことは大目に見るとするよ。……でも、もう一人にならないようにね?」
白雪が𠮟られないことに胸を撫で下ろしつつも、玖遠からの注意を真摯に受け止めた沙夜は強く頷き返した。
すると玖遠はお互いの手を絡めるように握ってくる。恐らく、沙夜がこれ以上、迷子にならないようにと配慮してくれているのだろう。
「あの……差し支えなければ、先程の巨木の名前を教えて頂くことは出来ますか? 花びらが散っていく様が見入ってしまう程に美しくて……。せめて名前だけでも知りたいのです」
「……そうか、沙夜は桜の樹を見たことがなかったね。……でも、桜は桜でも、あの巨木は普通の桜じゃないんだ。『常夜桜』と呼ばれている植物型の妖だよ」
「ええっ……。植物の妖、ですか?」
驚いた沙夜はぽっかりと口を開けてしまう。妖と言っても、色んな種がいるのだと改めて思った。
「季節に関係なく咲き続けていて、しかも妖達にとって妖力の源となる存在なんだ。その場から動くことは出来ないけれど、常に濃い妖力を放出しているから、妖力に慣れていない人間が近付くと中てられて不調を起こす場合もあるんだ」
「そうだったのですね……。あれ程美しいのに妖にとっては益のあるもので、人間にとっては害となるなんて……」
近くで見られないことを残念に思いつつ、沙夜は玖遠と共にその場から離れ、屋敷に向かって歩き始めた。
「人間側にとっても有益な特性は持っているけれど、かつて、それが原因で人間と妖は常夜桜を巡って争ったこともあるらしいよ」
「人間と妖が……」
「今はもう、数本しか残っていない。簡単に本数を増やせるものじゃないから、これ以上、常夜桜を失うことになれば、妖達は妖術が使えなくなるだろうな……。妖力というものは妖にとっては誇りでもあり、己の力を周囲に示すものでもあるから、そんなことになれば混乱どころじゃ済まないだろうね」
玖遠は背後の常夜桜へと振り返った。その瞳には揺るぎ無い何かが宿って見えた。
「妖にとっては要なんだ、常夜桜は。だから、伐採されたり、悪用されたりしないように守っているのが各地の妖の頭領達、というわけだ。頭領達は常夜桜を守るために常に結界を張り、己の守護領域内に侵入する者達に睨みを利かせているんだ」
「つまり、玖遠様も常夜桜を守っている方の一人で、とてもお強いということですね」
ふと思い出したのは、先日、妖達と顔を合わせた時のことだ。風香の発言に玖遠は圧を浴びせていたが、その際の妖達の瞳には畏怖のようなものが浮かんでいた。
沙夜は玖遠の一部しか知らないが、きっと想像しているよりも強い妖なのだろう。それでも彼のことを恐ろしいと思えないのは、共に過ごした時間の中で積み重ねられた親しみと信頼のような感情を彼に抱いているからかもしれない。
「まぁ、守っているだけで、甲斐甲斐しく世話をしているわけではないけれどね」
玖遠は何てこと無さそうに笑っているが、守り続けることはきっと大変に違いない。
頭領としての責務を果たし続ける玖遠が遠くに感じられ、眩しく思えた。