二 エンゲージ(5)

 もしここが本当に現実世界の方なのだとしたら、他の人たちはどこに行ったのだろうと思いつつ、ゆうは居住棟のエレベーターのボタンを押した。たいの話によると、居住スペースには人の姿が無い一方で、電気や水道は通っていて、に入ったりすることまで可能らしい。テレビやラジオは、まあ予想通りというか何も映らない何も聞こえない、だそうだが、ファイントに破壊されている部分を除けば、まるで人間だけが街からすっかりいなくなってしまったかのような、不気味な様相を呈しているという。

 ポーンというなつかしい電子音とともに、エレベーターが目的の十階に到着した。

 マンションと聞いていたが、中はホテルのようにれいな内装だった。

 目的の一〇〇一号室。その黒い重厚な扉は、軽自動車なら通過できてしまうのではないかというくらい大きい。勝手に間借りしている割には、随分いいところを使っているようだ。

 チャイムを鳴らす。……が、返事がない。

 自分で呼んだくせに、とだんだんいらちが募り、チャイムを連打するとガチャリとドアが開いた。我に返ってとっさに姿勢を正すとともに、怒られないための言い訳を考える。

 玄関ドアを開けているフロストバイターは……、か下を向いていた。

「は、入って……ください」

 あれ?、と思った。

 最初、何と言われたのか良く分からなかったのだ。そのくらい小さな声だった。

 それに加えて、くるりと後ろを向き、そそくさと部屋の奥へと戻っていく彼女。まるで巣穴に逃げ込む小動物のようで、先ほどまでの猛獣のような迫力が、すっかりどこかに行ってしまっているような気がした。

「? し、失礼します……」

 不思議に思いつつも、揺れる銀色の髪を追って部屋に入り、廊下を進む。

 突き当りに広いリビングがあり、フロストバイターが三人掛けのソファを指さしていた。

 飼い主に命じられた犬のように、ゆうが背筋を伸ばしてそこに腰掛ける。

「あ、あの……」

 ゆうの視線の先、下を向いて立ったままの少女が声を出した。ゆう身体からだに緊張が走る。再びのビンタに備えて歯を食いしばった。

 しかし、

ふるはしゆうさん……」

 彼女の平手は飛んでこなかった。

 その代わり、少女が上げた顔を見て、ゆうはビンタをくらった以上の衝撃を受けた。

 フロストバイターは顔を真っ赤に染めて、その目じりに涙をめ……、どう見ても、泣きそうな表情になっていた。

 突然。

 少女が頭をがばっと下げた。銀色の髪が一度、ふんわりと波打った。

「さ、先ほどは、大変、申し訳ございませんでした……」

「……え?」

 警戒を解いてよく見ると、彼女は両手で洗面器を持っていて、その中でタオルが一枚、気持ちよさそうに泳いでいる。少女がテーブルにそれを置き、タオルをギュッと固く絞った。

 そのままゆうの方に近寄ってくる。どんどん近寄ってくる。

 ゆうは動揺を隠せずソファの上をバタバタと後退するが、少女は構わず追ってきて、ついには逃げられないよう、なんとゆうおおかぶさってきた。

 いつの間にか目の前にある、人形のようにれいな顔。花束のような、柔らかくて甘い匂い。

「ちょ、ちょ、えっ?」

「突然、たたいたりして。こんなに、腫れちゃって」

 混乱するゆうの頰にれタオルが触れる。予想以上の冷たさに肩が跳ねる。しかししばらくすると……熱を持った肌が、徐々に楽になっていった。

 フロストバイターはタオルをゆうに渡すと、ソファから降りて少しだけ距離をとった。そして彼女の左の頰を、ぐいいっ、とゆうの方に突き出した。

「私、覚悟できてます。どうぞ思いっきり、やってください」

 たたけ、と言っているようにしか見えないが、そんなこと出来るはずもない。

「いやいやいや。しないしない。しないよ?」

 少女がはっとした顔をして、すぐさま悲しそうに眉をひそめる。

「そ、そうですよね。自分は大勢の人の前で恥をかかせておいて……。こんなことで、許される訳ないですよね……」

 いや。そうじゃなくて……。

「えっと……どこから、突っ込めば良いのか……」

 恐らくフロストバイターな人が、慌てて再び頭を下げる。

「すみません、きちんと自己紹介もせずベラベラと。私、あまみや千歳ちとせと申します。十六歳の高校二年生、第二レンジャー大隊A中隊所属、第一小隊長です」

 最後にびしっ、と決めた敬礼だけが、やたらと勇ましく板に付いている。

 あまみや、ちとせ?

 外見に比して随分と和風な名前だ……と思ってゆうがぽかんとしていると、あまみやとせがはっとして口を開いた。

「あ……。あの、私こんな見た目なんですけど、生まれも育ちもで、すいっ子なんですよ。へへへ」

 うわ……。

 一瞬で、体中の毛穴が開いたかと思った。

 そのくらい、はにかんだ彼女は

 ……いや。いやいや。

 外見のことは、今は置いておこう。

 なるほど、特徴的な目と髪の色、そして整い過ぎた目鼻立ちをしているので分かりにくいところはあるが、あまみやとせの顔かたちは確かに日本人風のそれである。

 しかしそれは今、重大な問題ではないのだ。

 性格である。

 性格がさっきと違い過ぎないだろうか? 見た目そっくりの別人と言われた方が、まだ納得出来ると思う。さっきなんて確か……

「骨の髄まで調教……」

「あっ! あう……」

 フロストバイターは真っ赤になってうつむいてしまった。

 ……やはり同一人物ではあるらしい。

「あの……」

 しばらくの沈黙の後、再びこちらを向いた彼女の顔には、困ったような……そしてどこか、悲しそうな笑顔が浮かんでいた。

「あれは……演技、なんです」

「え?」

「本当の私は、皆が思ってくれているような……リーダーなんかじゃ、ないんです」

 何か声をかけてあげたくて……でも、寂しそうに首を横に振る彼女の前で言葉が出ない。

ゆう君……」

 やがてゆうのことをまっすぐ見た少女は、今度は小さく、恥ずかしそうにほほんだ。

「私、あなたとお会い出来る時を、ずっと、心待ちにしていました」

 ゆうの目が、丸く広がった。

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