一 プロジェクト・ファイアウォール始動(1)

 一九四四年。六月六日。

 フランス。ノルマンディー沿岸。


 海の色は重油のように黒く、空の色はネズミの死骸のような灰色をしていた。


 ──その日。

 イギリスとフランスを隔てるドーバー海峡を、千五百隻もの上陸用舟艇が、荒れ狂う波を突き破りながらフランスを目指して進んでいた。

 舟というよりただの鉄の箱に近い連合艦隊の上陸用舟艇、通称「ヒギンズボート」は、極端にきつすいが浅く、この荒波の中ではいつ転覆してもおかしくないほど激しく揺れる。

 ふるはしゆうのすぐ隣で、すのはらたいが今日五度目になるゲロを盛大にぶちまけた。汚物にまみれたその口を、ほぼ黒一色に近い迷彩の戦闘服の袖がぬぐう。その袖を、今度は吹き込んでくる氷水のように冷たい海水が洗っていく。

 から支給されたたい袋は既に満杯になって海の底に沈んでおり、ゆうが渡したその袋も、あと数分のうちに同じように船の外に捨てられることになるだろう。

 ただ、おうしているのはたいだけではない。

 むしろゆう以外の三十四人、いばらけんりつさくらおかこうとうがつこうの二年二組の同級生ほぼ全てが、断続的に襲い来る吐き気に背中をくすぐられ、船の中では絶えず胃液の逆流が起こっている。

 たいの胃液の臭いに催されたのかもしれない。

 その隣で、船に揺さぶられてぼろ雑巾のようになっていたがみが顔を真っ白に染め、自動小銃を抱えたまま口を両手で強く押さえた。

 しかしその努力は無駄なものになると理解したのだろう。

 は自身のヘルメットのあごひもを慌てて取り外すと、洗面器代わりのそれに、昨日の夜はごそうだったものを思い切り吐き出した。

 の顔を汚す吐しゃ物と涙とよだれとが、やはり絶えずシャワーのように流れ込んでくる海水によって洗い流されていく。

 ヘルメットにまっていたはずの汚れ物も、どこに流れて行ったのか、今やもうそこにはない。しかしそれを気にする人間など誰もいなかった。皆自分の吐き気さえ気に出来なくなるほどの恐怖と必死に戦っていた。

 今からこのクラスの中で、何人の仲間が死んでいくのか。

 いや、より正確には、今からこのクラスの中で、何人の仲間が「死の体験」をするのか。

 の顔がぐしゃっと潰れて、その目から涙があふす。

「お父さん……お母さん……」

 えつと共に悲痛な声を上げ、他の生徒と同様、祈るように胸の前で手を組んだ。


 ──その日。

 一九四四年の六月六日。

 現代においては「D─デイ」という名で知られるこの日。

 フランスの北西部ノルマンディーにおいて、名実ともに人類史上最大の上陸作戦が行われた。

 正式作戦名、『オペレーション・ネプチューン』。

 通称「ノルマンディー上陸作戦」として知られるこの作戦は、最終的に二百万人に近い兵士達をドーバー海峡からヨーロッパ本土に上陸させるという途方もない規模で展開され、第二次世界大戦時にナチス・ドイツ崩壊を決定付けた戦いの一つとして広く知られている。

 歴史の知識としてその戦い自体は知っていたが、海の荒れ狂い方についてまで教科書に記述があった記憶はない。

 沖合約二十キロの地点から出発したボートの中は、戦闘前から既にきようかんの地獄と化し、約半年の集中訓練を受けた兵士達は、まるで迷子のように父母のことを呼んでいた。

 ふとたいが死んだ魚のような目でこちらを見ていることに気づき、ゆうは我に返った。たいがいびつな笑顔を浮かべて口を開く。

「な? 言っただろ? やるならノルマンディーだって」

 その言葉を聞いて、ゆうは約半年前、高校二年生になる直前の春のことを思い出した。


 ……「D─デイ」よりおよそ百年後。現代。

「な? そう思うだろ? やるならノルマンディーだって」

 朝のホームルームが終了し、いよいよゆううつな一時間目が始まろうというその時。

 鼻息荒く自分の席に寄ってきたたいのことを、ゆうはやや面倒くさそうな視線で迎えた。

 頭が小さく背が高く、髪を短くそろえたたい。まだ春だというのに真っ黒に日焼けしているのは、既にエースとして活躍するサッカー部の練習で、太陽の光をさんさんと浴び続けている証拠である。

 ひとなつこい笑顔を浮かべ、人がいないのをい事に、隣の机へドスンと尻を乗せた。

「なになに? ノルマンディーって?」

 振り向いた二人の視線の先には、いつの間にかそばに来ていた。くりくりとしたつぶらな瞳で、ゆうたいを交互に見つめている。

 しやべり方と同様、性格もややおっとりとしているくりいろのふわふわしたくせと、笑うと線のように細くなる目が特徴的で、見ていると何となく優しい気持ちになる。

 この三人は小学校の時からの知り合いで、つまりはそろっておさなじみだった。ちなみにだけれど、たいは中学の卒業式の日にに告白し、二人はその日から、めでたく交際を始めている。

 たいが「彼女」の登場により、ぱっと明るい顔になった。「そうそう」とうなずいてから、もつたいぶったように一度ゴホンとせきばらいをする。担任のまえをして、ぴん、と人差し指を立てて見せる。が小さく噴き出した。

「いいか。ノルマンディーっていうのは、フランスの北西部にある地方の名前だ。第二次世界大戦の時に行われた最も有名な作戦の一つ、『ノルマンディー上陸作戦』の舞台。けっこう世界史でも重要な知識のはずだから、ちゃんと覚えておいた方がいぞ」

 たいの説明を聞いて、は感心したようにうなずいた。そしてすぐに困惑の表情になる。

「え? でもそれじゃ……たい君は、今度の『プロジェクト・ファイアウォール』で、そのノルマンディーを選択しようとしているの?」

 たいが鼻息荒く「当然」とうなずき、ゆうに対して「なあ?」とウィンクしてくる。

 勝手に仲間にされている事に抗議の視線を向けたゆうに、今度はが不安げなまなしを向けてきた。

「ゆうちゃんも……、賛成なの?」

 問われてゆうは、小さく首をかしげて見せた。

「うーん。正直、微妙、かな。PFって、結局VRでしょ? 戦場なんてどこでもいと思うけど……。まあただ、出来るなら、一番早く終わるところか、一番楽なところがい、かな」

 も同意見だったのだろう。ちょっと元気になって、うんうんと二回うなずいた。

 ゆうだけではない。このクラスのほぼ全員。

 いや、このPFことプロジェクト・ファイアウォールに参加する全世界約一億人の人間は、ほぼ全員、似たような意見に違いない。たいのようにやる気のある人間の方が珍しいのだ。


『プロジェクト・ファイアウォール』


 誰もが本当に起こるなんて思っていなかった核戦争は、二年前、日本海の北西部で、ある日突然現実のものとなった。死者・行方不明者数およそ百万人、被爆者数はその数倍。戦争というよりむしろ虐殺だったそれは、全人類に強烈な反戦ムードを喚起させることになった。

 特に重視されたのが「教育」である。

 今後の人類の未来をになう若い世代に、その悲惨さ残酷さを徹底的に教え込むことにより、戦争を起こさない人間に育てよう。

 主導で始まったこの全世界的規模の教育プログラム。

 当初は戦争を実体験した方々の話を聞く……といった内容が中心だったのだが、「話し手のバックグラウンドにより、歴史がねじ曲げられる」という意見が多くの国々から噴出し、結果、プログラム維持の困難に直面した国連は、ある日、計画の内容を抜本的に見直すことを考えた。

 その結果が、「仮想現実VRを利用した過去の戦争の『実』体験」。

 通称、『プロジェクト・ファイアウォール』である。

 たとえ仮想とはいえ、戦争を実体験させるというあまりにも非人道的な内容。

 そして何より、各国の青少年世代の一部を強制的に、しかも同時にプログラムに参加させるという方針には、全世界から非難が殺到したが、結局のところ計画を主導していた常任理事国達の力によって、他国は半ば強引に押しきられた。

 余談だが、「ファイアウォール」という名称は、プログラムを受けた人間達に、戦争というごうから人類を守る防火壁になって欲しい、というぎようぎようしい期待を込めて付けられたものらしい。

 日本ではつい先日、対象となる世代全員が、プロジェクトに関するVR適性テストを受けたところである。このテストの結果、高校生については、全国の学校単位でのランキングが作成され、今回はその上位一割が、「教育強化特別指定校」として文部科学省に指定されていた。

 そしてこのさくらおか高等学校のように、指定されたが最後、例外なく強制的にプログラムへの参加を求められていた。

「どこでもいならいいじゃん。ノルマンディーで」

 二対一でやや劣勢のたいが口をとがらせる。

「うちの学校の戦場選択はクラス単位だろ? もし投票になったら、二人とも味方してくれよな?」

 ゆうは小さくため息をいた。

 たいはいわゆるクラスの人気者で、彼が言い始めたら、恐らくこの組の多くの人間が彼に同調していくことになるだろう。

 半年後にはノルマンディーかと思うと、ゆうの心はどんよりと重くなった。

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