まだ言葉もろくに知らないくらい、小さくて幼かった頃。

 僕は一度、本物の地獄を見たことがある。

 ──あの日……。

 呼吸もままならないほどのふんじんき込みながら、まるでたった今世界に生まれ落ちたかのような寂しさと不安と恐怖の中、

 僕は、目を覚ました。


 爆発の直前まで、たくさんの笑顔であふれていたその大型ショッピングモールは、今やコンクリートのガレキと化し、あちこちで炎が上がっていた。

 地上三階建ての華やかな空間は、地底深くのしようにゆうどうのような姿へと変わり果てていた。天井からは、ぶらぶらと何かのケーブルが垂れ下がっていて、植物のつたのようにからまり、時折バチバチという音と共に火花を吐き出していた。そして僕の周囲には、たくさんの人の遺体や、もはや遺体とも呼べないかつて人間の身体からだだった肉の塊が、あふれ返っていた。

 モールの側面には、先ほどまでは無かった大穴が開いていて、けれど、虫の群れのように見える濃いすなぼこりのせいで、日光は少しも入って来ない。

 視界が悪くてほとんど何も見えない中、それでも時々、まだ生きている人々が、幽鬼のように彷徨さまよっているのが見えた。強烈な耳鳴りに混ざり、人々の悲鳴や怒号、そしてうめき声やすすり泣く声が聞こえていた。くうにへばりつくふんじんには、吐き気がするほどの血の臭いと、肉の焦げた臭いとがみ付いていた。

 ……僕の目の前で、お父さんは横になっていた。

 母をかばい、後ろから抱きめていた父は、もう既に右腕と、首から上とを失っていた。

「お母さん……」

 悲しくて怖くて、僕は泣きながら、姿の見えない母を呼んだ。

ゆう……」

 母の声に僕は驚き、そして喜び、声のした方に早足で近付いた。

 巨大な鉄柱が倒れていて、れきとの間に空間を作っていた。僕は少しだけかがんでのぞき込んだ。

 ──母が、その中で倒れていた。

 腰から下がどうなっているのかは見えない。母はれきと、巨大な鉄柱とに、挟まれていた。

「お母さんっ」

 泣きながらのぞき込む僕を──まだ元気な僕を見て、ほこりで汚れた顔の母は、涙を流して喜んだ。

ゆう……。ああっ……神様……」

 子供の僕は、地面と柱の隙間に入っていく。

「駄目っ! ゆうっ」

 母が叫んだ時と、僕が鉄柱に触れた瞬間は同じだった。痛みと錯覚するほどの熱さに、僕は悲鳴をあげ、反射的に柱から手を離した。

ゆう、駄目っ。来ては駄目!」

 ──ゴ……ン

 静かな、うなり声のような音がして、鉄柱が僅かに傾いた。母が、苦しそうな声を上げた。

 最悪の未来が、見えた気がした。

「お母さんっ!」

「大丈夫っ。大丈夫だよ……」

 母はそう言うと、ほほんで見せた。そばに転がっていた太いパイプを立て、鉄柱の支えにした。

 でも……それでも柱は、徐々に下がってくる。

「誰かっ! 誰かっ! 助けて!」

 僕は泣きながら叫んだ。でも周囲にまともに動ける人なんて、僕以外、一人もいなかった。

 僕はてのひらを上にして、鉄柱を支えた。

「あう、うっ、うう……うう……」

 肉が焼けて白い煙が立つ。熱くて、痛くて、僕はうめきながら涙を流した。

 母は口元を押さえて、顔をくしゃくしゃにして泣いていた。

ゆう……お願い。逃げて……。お願いだから。お願いだから……」

 僕は泣きながら首を振る。熱くて痛くて──それなのに、鉄柱は徐々に下がってくる。

ゆう、こっちにおいで?」

 母が泣いたまま、ふと笑顔になって、僕の方に手を伸ばした。

 行けば、二人とも潰れてしまうのは分かっていた。それでも僕は、母の所に行きたかった。

 体を低くして、隙間に入る。

 母が僕を迎え入れようとして──突然、僕のことを突き飛ばした。

 あっという間に、僕は隙間から転がり出る。訳が分からず、つんいのまま母を見た。

ゆう……ごめんね。痛いことして、ごめんね……」

 謝りながら泣く母の手が、鉄柱の支えになっていたパイプをつかんだ。

 何をする気なのか──すぐに分かった。涙が目からあふした。首を必死に横に振った。

「やめて……。お母さん……。やめてよぅ……」

ゆう……」

 涙を流しながら、それでも母は、僕に満面の笑顔を見せた。

「お母さん、愛してる。ゆうのこと、ずっと、ずっと愛してるから……」

 母が、パイプを外した。

 ほんの少しだけ開いていた隙間が、ゆっくりと、ゆっくりと……消えてなくなった。


 暗闇の中、僕の絶叫が、いつまでも鳴り響いていた。

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