だから僕の日常は、どうしようもなく続いていく。

 僕らは不必要に強くできていて、天使に手を引いてもらわなければこの世界から逃げ出すことだってできない。

 実のところ警察は、あや身体からだから検出された薬物から、トシさん、そしてはかざかろうに至るラインをすでにあくしていたのだそうだ。そりゃそうだ。日本の警察は無能じゃない。墓見坂史郎が政治家の息子むすこだったのでしよう固めにしんちようになっていたところを、ニートがおおぜいよってたかってむちゃくちゃにしたわけだ。僕を取り調べたけいさんはどうやらテツせんぱいの知り合いの人だったらしく、にがにがしい顔をしながらもこっそりと教えてくれた。

 僕は一回事情聴取を受けただけで済んだけど、ひらさか組は四代目をはじめとして何人か引っぱられたらしい。僕やアリスがすぐに解放されたのは、四代目がなにかえんまくを張ってくれたおかげかもしれなかった。別れ際に「おまえには借りができた」みたいなことを言っていたから。

 墓見坂史郎は救急車が到着したときすでに死んでいた。ほかにも、フィックスを作ってさばいていたスタッフのうち五人が、過剰せつしゆによるショックで、入院中に死亡。

 そうして、天使の羽はこの街から消えた。

 ありきたりの、結末。

 それ以上のくわしいことは知らなかった。あれ以来、『ラーメンはなまる』には一度も顔を出していなかったから。


    ●


 一月が終わって、二月は音もなく過ぎていった。何度か雪が降って、月の終わりには学年末テストがあって、赤点が三つに増えた。

 園芸部はずっと休んでいた。彩夏のことを思い出すのがつらかったから。なぜつらいんだろう、と教室の窓から荒れ放題のだんを見下ろして思う。彩夏にう前に戻っただけなのに。あの頃の僕は、ひとりがつらいことだなんて思いもしなかったのに。

 もちろん、知ってしまったからだ。だれかがそばにいるときの温かさを。だから僕はそれを忘れようとした。それ以上、だれともしやべらないようにした。心配して話しかけてくるクラスメイトたちにも、首を振るだけで、なにも答えなかった。追試が終わってしまうと、僕はまた学校に行くのをやめた。

 出逢う前に戻ったなんてうそだ。

 僕の中にはあやの不在がき傷みたいにしっかりと残っていた。


    ●


 時々どうしようもなく、彩夏のことを思い出す。夜中に自分の部屋のベッドにしゃがみ込んで、りガラスの向こうの黒い空をじっと見つめているようなときに。

 それからアリスの冷たい手を、ミンさんが作ってくれたシャーベットの味を、四人で囲んだどんぶりを鳴らすサイコロの音を、笑い声を思い出す。

 でもそれは僕のためにあるものじゃない。僕のためのものだと思い込んでそばにいれば、いつかほんとうのことに気づいたときに、奪われ、けがされ、失われて、痛ましい不在が残る。

 それなら、最初から近づかない方がましだった。

 だって、こうしてひとりでいても、だれも声をかけてこない。だれも僕の名前を呼ばない。


    ●


 けれどある夜、突然僕の携帯電話が鳴る。それは、不登校を続けたまま迎えた春休みの最初の日だった。僕は自分の寝室で、でんとうをつけてぼーっとベッドに寝転がっていたので、手が無意識に動いて携帯を取り上げることができた。

『ぼくだ。今すぐに学校に来てくれたまえ。きみの高校だ。校門のところで待っている』

 アリスだった。たしかに、アリスの声だった。

 僕は信じられず、しばらく言葉を失って、携帯を耳にあてたままぼうぜんてんじようを見つめていた。

『どうしたんだい? これから寝ようなどと考えているんじゃないだろうね。深夜はぼくの活動時間なのだよ、助手であるきみが寝ているとはどういうりようけんだい。今は春期休業中だろう、さっさとたくして出たまえよ』

「な……」声がうまく出せずに、僕は二、三度むせてしまう。「な、なんで? 学校?」

 というか今何時だと思ってんだよ?

『午前三時三十五分だよ。三十分で来たまえ。外で待たされるなどまっぴらだからね』

「なんで僕が……」

『いちいちうるさいなあ。きみはぼくの助手だろう、よう契約はまだ有効なのを忘れているんじゃないだろうね? きみにどうしても見てもらわなきゃいけないものがあるんだ、いいから口答えせずにさっさと家を出たまえ』

 そうして電話はぶつりと切れる。

 僕はしばらく、携帯を何度も何度も裏返してはめつすがめつしていた。その通話自体が全部僕のもうそうだったような気がした。でも液晶画面にはたしかに着信れきが表示されている。

 僕に見せたいもの?

 そのまま無視して寝てしまおうかとも思った。もうわないと決めたのだから。でも、目を閉じても、寝返りを打っても、アリスのあの言葉だけが引っかかって消えなかった。

 学校。見なきゃいけないもの。

 あやの──ことだろうか。

 僕はベッドから起きあがり、姉を起こさないようにそっと階段を下りて、げんかんを出た。もうがんを過ぎたからか、ようやくコートなしでも夜に外に出られるほどの気温になっていた。

 自転車のペダルを踏み込む。夜風はやわらかだった。


    ●


「十二分の遅刻だ」

 アリスは怒っていた。あの日と同じ、黒ずくめのドレスにヴェールつきのぼうにクマのぬいぐるみというかっこうで、門柱の足下にしゃがみ込んでいる。

 M高校の校門前。真夜中の学校に来たのはこれがはじめてだった。へい沿いにぽつりぽつりと立った青白いけいこうとうが、弱々しく校舎を照らしている。三階のガラス窓の一角に、月が細切れになって映っていた。ひとはまったくない。

「きみはいまひとつ理解していないようだからこの際言っておくが、ぼくはひきこもりなんだ。部屋の外にいると苦痛の体感時間は指数関数的に延びていく、たった十二分ときみは思うかもしれないがすでに部屋を出てここまで来るのに要した二十五分を加味すれば」

「ごめん。夜だしあんまり声をたてない方がいいと思うけど」

 アリスは黙って立ち上がる。震える手で、僕のベルトをしっかりとつかむ。

「屋上に案内してくれたまえ。はちえがいつも置いてあった方だ」

「屋上……? でも」

「ぼくはニートたんていだぞ? セキュリティくらい切ってあるし、鍵もここにある」

 なんであるんだよ。

「入手方法はしよういてくれたまえ、ぼくはくわしく知らない。さあ」

 少佐……前々から犯罪者っぽいと思っていたけど、本物だったのか。でも、なんで屋上に?

 アリスはそれ以上答えようとしなかった。行けばわかる、とでも言いたげな顔で、僕の背中をぐいぐい押す。僕はため息をついて、鍵束を受け取った。



 扉を開け、おうとつだらけのコンクリートのなつかしいかんしよくを踏む。屋上は真っ暗だった。照らすものがないからだ。がいとうの光は低すぎるし、星の光はあまりに高すぎる。

 フェンスの向こうにはちらちらと夜景が見える。川を越えて駅のあるあたりに目を向けると、夜をぼうとくするほどにきらびやかなのに、そちらに背を向ければ、夜空と地上のめいりような境目にビルの窓の明かりや車のヘッドライトが散らばっているだけだ。

 暗いのはありがたかった。きっと、明るかったら、あやを思い出してしまっただろうから。

「ああ、ちょうどいいものがあるね。これには登れるのかい」

 僕のベルトの真後ろのところを握りしめたまま、アリスは言う。振りあおぐと、夜空にぼっかりと空いた巨大な黒い穴──ではなく、給水とうの影がそこにあった。

「……登るの?」

「高いところの方がいい」

 暗いからあぶないよと言おうとしたけれどアリスの有無を言わさぬ目にされてしまった。でも実際に登る段になると、非力なアリスを引っぱり上げるのにめちゃくちゃ苦労した。

「なんだこのはしは。ぼくのような体格の者も使うことくらいこうりよしたまえよ、まったく!」

 給水塔のてっぺん、わずかに盛り上がった不安定な面にアリスはへばりつき、荒い息をつきながら文句を言う。

「いや、ぬいぐるみを下に置いてくりゃいい話だろ……」

「きみはぼくにリッリルウなしで外での苦痛の時間を過ごせというのかい、無神経でれいこくな人間とは知っていたがこれほどとは思わなかった!」

「いや、わかった、わかったよごめん」

 僕の服にしがみつきながら怒るものだから、全然迫力がなかった。

「で、この後どうすんの、UFOでも呼ぶの?」

「夜明けを待つんだ」

「……え?」

「このままここでじっと、夜が明けるのを待つのだよ」

 僕はしばし絶句した。

 なにか文句を言おうとしたけれど、ひざかかえてぬいぐるみにあごをうずめ、じっと屋上のコンクリートのゆかを見つめるアリスの顔を見ると、なにも言えなくなった。

 僕に、見せるものがあると言っていた。アリスは僕のために、僕のためだけに、自分のからであるあの機械だらけの部屋から出てきて、待っていてくれたのだろうか。

 アリスのとなりにしゃがんだ。体温がそこにあるのを感じた。

 聞こえるのはかすかな風鳴りと、遠くの車の排気音、すぐそばのアリスの息づかい。



 どれほど時間がたったのか、わからない。夜の底辺に澄んだ水がしみ込むように、空が青みがかっていく。街の光が色あせていく。屋上のゆかまっていたやみも徐々にき通って、すっかり雑草におおわれたコンクリートが見える。

あやは」

 アリスが、そっと言った。

「ほんとうに、きみになにも言わずにいってしまったのかい」

 僕はくちびるんでうなずく。

「そうか。では、ぼくがその失われた言葉を暴こう。死者の代弁者として」

「……え?」

「彩夏が、この学校の屋上から飛び降りた理由だよ。もうすぐ夜が明ける」

 それは、アリスの言っていた、たった一つのなぞ

 僕とアリスをつなぎとめていた謎だ。

「……わかったの?」

「彩夏はね。んだ」

「……な……に?」

「わからないのかい。きみと過ごしたこの聖域に、なんぴとも踏み込ませないようにするために、あちらの校舎の屋上から飛び降りたのだよ。卒業アルバムの撮影場所に予定されていたのだろう。でも、自殺があれば、学校としては安全のためにしばらくは屋上に出るすべての通用口を閉鎖せざるを得ない。──ほら、始まった」

 始まった? なにが?

 僕はアリスの視線をたどって、また屋上のゆかに目をやる。

 長く長く引き延ばされたみような時間の中で、最初の陽光が僕らの背後から射す。光とやみが優しく混ぜ合わされたせいちような朝の冷気があたりに満ちている。そうして僕はそれに気づく。

 最初はほのかな違和感だった。けれど、コンクリートの上に茂る草が太陽のかすかな気配を浴びて緑を取り戻すにつれて、そこかしこで、染み出すように、あざやかな朱色が浮かび上がってくるのがわかる。

 花だ。

 屋上の敷地いっぱいにびっしりと茂る草の間から、数え切れないほどに伸びたくきの先の花弁が、あかつきを迎え入れるようにして、ゆっくりと開こうとしている。

 僕はなにかを叫びだしそうになった。のどに、なにか熱いものがつかえた。暗い緑の中から浮かび上がる朱色の星々は、はっきりと一つの図形を描こうとしていた。

「円形に並べて植えられていたのだね……いや、これは二重円……三重か……?」

 アリスがいきとほとんど変わらない小さな声でささやく。僕はひざかかえた指にぎゅっと力を込めて、首を振った。そうじゃない。円じゃない。Cの中にG、その中にMだ。

 僕らの旗だ。

 僕と彩夏をつなぎとめていたしるし。

 朝の光の中で、花々は歓喜を顔中に受け止めるようにいっぱいに開いていく。どれほどの長い時間、僕とアリスはそれを見つめていただろう。

「ナガミヒナゲシ」

 アリスが、僕らの旗にじっと目を注いだままつぶやく。

「夜明けに咲く。そして一日で散る」

 僕もまた、目をそらさないままうなずく。胸が締めつけられるように痛んだ。熱いものがこみ上げてきた。もう、僕しかいない。この旗の下には、僕しかいない。そのとなりには、もうだれもいない。どうして。どうしてこんなもの残したんだ。どうして思い出させるんだ。

あやは薬で頭を塗りつぶされていたかもしれない。でも、最後にこれを思い出したんだ。この場所を守ることを」

 アリスの、細く、けれどたしかな声。

「わかってるよ」僕ののどかられる声は、湿しめっていた。

「彩夏はきみのことを考えていたんだよ」

「わかってるよ!」

 だから、なんなんだ。こんなものほしくなかった。僕はただ、彩夏に元気でいてほしかった。それだけだ。それだけなのに。

「もちろんそれは、ぼくの推測だ。ほんとうのところはわからない。はかの中から掘り返した死者の言葉は──」

「黙れよ!」

「──しょせん、生者のなぐさめのためだけにある。彩夏がなにを考えていたのかなんて、わからない。……でも」

 アリスは僕のひざの上の手に、手をそっと重ねる。

「この美しさは、ほんとうだ。これだけは事実だ。だからこれは、きみが受け取らなきゃいけない。そうだろう?」

 僕の目に映っていた、花々で形作られた旗が、不意ににじむ。朝の屋上が海の中に溶けていく。最初のいつてきほおを伝って落ちると、なみだは後から後からあふれてきて、僕の世界を塗りつぶした。それは、彩夏がいってしまってから、僕がはじめて流した涙だった。

 どうして人は、その想いだけを残していくんだろう。おくも一緒に持っていってしまえばいいのに。もう消せない。僕はこの先ずっと、この光景の中に彩夏の言葉を探しながら生きていくのだ。

「ナルミ。これを見せたぼくを……うらんでいるかい」

 アリスの言葉に、僕は涙をき散らしながら首を振る。もう恨むことだってできない。

「では、ぼくを恨むといい。前に話したね。彩夏があんなふうになったのも、きみが悲しむのも、みんなぼくのせいだから」

「やめろよ」

「ぼくはそういう風にしかこの世界と関われないんだ。だからぼくを憎むといい。ぼくを責めるといい」

「やめろよ!」

 き捨て、アリスに向き直る。彼女の大粒のひとみれているように見えた。でもそれは僕のなみだかもしれなかった。

「そんなことしてなんになるんだよ、馬鹿じゃないのか。かなしかったら普通に泣いて、怒ったら普通に怒鳴って、うれしかったら普通に笑って、ほしいものがあったら普通に言えばいいじゃないか、なんでそんな簡単なことができないんだよ!」

「ぼくがぼくだからだよ、そんなこともわからないのかい」

「わからないよ!」

 僕の服を握りしめていたアリスの手を振り払った。

「ナルミ! 待って──」

 給水とうから飛び降りる。ひざこしに響く痛み。アリスがなにか言った。僕はそれを無視してドアに飛び込み、階段をけ下りた。自分がなにに怒っているのか、自分でもわからなかった。少なくともアリスに対してではないし、あやに対してでもないし、自分に対してでもなかった。

 涙をのどに詰まらせながら、早朝の街を走った。肺が焼けるように痛んだ。歩道橋を渡るとき、ちょうどあさが僕の顔を真横から照らした。

 僕はしばらく立ち止まり、手すりにひじをついてうつむき、もう少しだけ泣いた。落ちた涙は、長距離トラックが巻き上げるじんの中に吸い込まれた。


    ●


 それでも僕は意気地なしで、頭が悪くて、無神経ではくじようなただのガキだった。不条理な怒りはその日のうちに消えてしまったし、涙ももう出てこなかった。

 人はなんにでもれてしまう。

 しかも、慣れてしまうことを哀しいと思うことができない。

 それを哀しいと思えるのは、たぶん、この空のどこかにいるだれかさんだけだ。

 僕らはそいつが適当に書き散らしたメモ帳に振り回されながら、毎日ちょっとずつ怒って、ちょっとずつ笑って、ちょっとずつくやしがって、なんとか生きていくしかない。


    ●


 だから僕は、二日後の夕方、えきった身体からだにダッフルコートを巻きつけて自転車をふらふらとぎ、病院に行った。

 あやねむり続けていた。

 いやになるくらい清潔で明るい病室の真ん中にぽつんと置かれたベッドで、彼女は目を閉じてじっと横たわっていた。顔にはいつぺんの赤みもない。呼吸はしているのよ、と看護婦さんは言った。でも、胸も少しも動いていない。静かすぎて、てんてきえきくだを通る音が聞こえそうだった。

 彩夏の身体はたしかにここにある、と僕は思った。

 でも、心がどこにあるのかはわからない。

 あのとき薬でこじ開けた扉の向こうの光の中に見えたのは、たぶん、彩夏のいる場所じゃなくて、僕自身なのだ。はかざかろうがいってしまった場所も、自分の中のくらやみだ。僕らはずっとこの身体の中に閉じ込められていて、もうどこにも行けないのかもしれない。

 ああそうだ、ふじしまくんってあなたのことでしょう? 看護婦さんの言葉に、僕は顔を上げる。たぶん彩夏ちゃんのクラスの子たちだと思うけど、あなたがもしお見舞いに来たら渡してほしいものがあるって。

 看護婦さんは、壁際のたなからそれを取り出して僕に手渡した。十枚入りの折り紙のパック。表には油性ペンで、『藤島のノルマ』と書かれている。

 僕がぽかんとして看護婦さんの顔を見ると、看護婦さんは笑ってベッドの方を指さした。ようやく気づく。ベッドの枕元には、せんづるつるされている。たんざくには一年四組より、とある。

 なにかあったら呼んでね。そう言って看護婦さんは病室を出ていく。

 僕はひとりだけになる。

 じっと折り紙のビニルパックを見下ろす。

 どうしてみんな僕のことを忘れてしまわないんだろう、と思う。何度話しかけられても一言も返さなかったのに。もうずっと顔も出していないのに。

 そのままでいたら、またなみだが出てきそうだったので、僕は丸こしけて、パックから折り紙を取り出した。



 十羽折るのにも、ひどく時間がかかった。できあがった鶴はどれもしわくちゃで不格好だった。千羽鶴に加えようとまくらもとに回ったところで、ふとそれに気づく。

 ベッドをへだてた向こう側にある背の低いたなの上に、たぶんだれかの見舞い品なのだろう、みような取り合わせのものが乗っかっている。

 手のひら大のとうめいケースに入っているのは、花札一式。

 そのとなりに、プラモデルの戦車。

 ひとつだけまともなドライフラワーのバスケット。

 それから、しんの350ミリリットルかん

 僕はベッドのはしあやの顔のそばにこしを下ろして、しばらくそれをじっと見つめていた。

 どこにも行けないなんて、うそだ。だって僕はまだ自分の足で歩くことができる。彩夏はもうそれさえできないけれど。僕には、行かなきゃいけない場所がある。



 十羽増やしたせんづるをベッドのわくつるし直し、病室を出ようとして、僕はふと立ち止まる。

 なにか聞こえた気がして、振り向く。だれかが僕を呼んだ気がする。もちろんそれは気のせいで、白々しいクリーム色で統一された部屋の真ん中で彩夏はじっとこおりついている。でも僕はそれに気づく。ベッドにけ寄り、彼女の顔をのぞき込む。

 まぶたが、わずかに開いている。

 ひとみの色が見える。僕を見ているわけじゃない。彩夏の目は僕の顔も、病院のてんじようも、その上に広がっている馬鹿馬鹿しいくらい晴れた春の青空も通り越して、たぶんあの開きかけたドアを見ている。

 僕の手は勝手に動いた。ナースコールのボタンを、何度も何度も何度も押した。たくさんの足音が近づいてきて、僕を取り囲む。看護婦が僕を押しのけて彩夏の顔に顔を近づける。先生を呼んできてと言われてもう一人の看護婦があわただしく部屋を出ていく。やがて、白衣の男女がうじゃうじゃとベッドを取り巻いて、脳波検査がどうのどうこう反応がどうのとやかましく話を始め、僕は病室から追い出されてしまう。

 ろうのソファに座ってぼうぜんとしている僕に、出てきた総しらの医者が説明してくれる。まだわからない。くわしく検査してみないと、なにもわからないけれど、そういうことがまれにある。そういう可能性がわずかながらある。

 だから今日は帰りなさい。

 耳をふさいで、そのままじっと待つことも選べた。

 でも僕には、行かなきゃいけない場所があった。だからうなずいて、立ち上がる。


    ●


 橋を渡り首都高をくぐり駅を大きくかいして、一ヶ月半ぶりに『ラーメンはなまる』に顔を出した。

「新しく『ごまバターラーメン』考えたんだけど、試食してけよ」

 仕込みをしていたミンさんは、僕を見かけるなり、なんでもなさそうに言う。まるで昨日きのうもおとといも来ていたような口調で。それを聞くとちょっぴり胸が痛んで──でも、安心する。

「……ごまもバターもいいと思うんですけど、両方は……どうかな」

 というかたぶんいですよそれ。

「いいから食えよすぐできるから」

「あの、アリスんとこに行かなきゃいけないんで」

「んー? ああ、ああ」

 ミンさんはカウンターの向こうから身を乗り出して、ぽんぽんと僕のかたたたく。

「めちゃくちゃ怒ってるから。かくしとけ」

 うう。やっぱり怒ってるのか。

「でも今回はアイスなし。助けてやんない。がんばれな」

 ミンさんは意地悪く笑って、僕の背中をどんと押した。しかたない。僕のせいなんだから。


    ●


 NEETたんてい事務所の空気はぴりぴりにこおりついていた。クーラーから吹き下ろす冷風にとがった氷が混じっているような気分だった。パジャマ姿のアリスは僕に背を向けたまま。シーツの上にいくつもの支流を作って広がるくろかみも、その日はガラス製のものみたいに見える。

「いいんだ、ぼくに謝る必要はない。まったくのみの頭ほどもない。あの日ぼくは屋上の給水とうに取り残されて、それこそはいされた静止衛星みたいな気分を二時間も味わったわけだけれど、それについてきみが謝る必要はもちろんこの世界中のどこを探しても存在しない。独力ではしをおりることができなかったぼくの、百パーセントこのぼくの責任なのだからね。どうしても謝りたいというのであれば、朝からぼくに電話で呼び出され、当直のきようの目をかいくぐって屋上にまで迎えに来てくれたしように頭を下げるといい」

「……ごめん、僕が悪かった。謝る」

 アリスは振り向きもしなかった。キーボードをたたく音はひどく乱暴で、ベッドの足下に二段重ねで並んだドクターペッパーの空きかんは分厚い壁をつくっている。

 怒ってるよな、やっぱり。なんて馬鹿だったんだろう、僕。

 ぐちゃぐちゃだった自分の感情を、ただとなりにいてしやべっていたというだけで、アリスに叩きつけてしまった。まるっきりガキだ。

「謝る必要はないと言っているじゃないか」

 背中越しに、とげとげしいアリスの声。

「でも、外にアリスをほっておいて帰っちゃったのは、たしかに僕が悪いんだし。ごめん。もうあんなことしないよ。今度外に出るときは、ちゃんと、ずっと──」

 黒髪がびくんと飛びねて、アリスが振り向く。ほおが朱に染まっている。

「あ、あ、あれはっ、きみがたまたま近くにいただけだ! まるできみが一緒でなければぼくが満足に外界を歩けないみたいな言い方はやめたまえ!」

「あ、ご、ごめん」

 僕は縮こまる。そんなつもりじゃなかったんだけど。

「なにしに来たんだきみは、ぼくをおちょくる以外の用件があるならさっさと言いたまえよ!」

 アリスは顔を赤くしたまま、まくらを振り回して毛布をばふばふたたく。

 用件。

 さっきのあれが、用件だったんだけどな……。そんなこと正直に言ったら、さらに怒らせてしまうだけだろう。どう切り出せばいいだろう?

 アリスはぷいと僕に背を向けて、またキーボードに戻ってしまう。

 しばらく言葉を探す。

 いけるだろうか、こんなひねくれた理屈で。

 わからなかった。試してみるしかない。

「……僕の、よう契約って、まだ……続いてるの?」

 キーを叩く音がやんだ。くろかみの流れがゆっくりとゆがんで、アリスがこちらに顔を向ける。ひそめたまゆ、少し曲げられたくちびる

「終わっているに決まっているだろう。ぼくが真相を知るまでの期限付きだったのだから」

「でも」

 僕はくちびるした湿しめらせて、緊張をなんとかおさえる。

「でも、アリスは言ったよね。ほんとうのところはわからない、って。だとしたら」

 せつげ足取りだった。アリスなら、いつものアリスなら、即座に十五倍くらいのべん強弁雄弁を取り混ぜて言い返してくれただろう。でもそのときのアリスは、僕の言葉にしばらく固まった。

「だとしたら、僕はまだアリスの助手、だよね?」

 アリスの目をじっと見上げて、僕は言葉をつないだ。

「だから、謝りに来たんだ。これからも──」

 いつか、あやが目を覚ますかもしれない。そうして、ほんとうのことを語るかもしれない。その日まで。

 僕の言葉は、アリスがいきなり投げつけてきたドクターペッパーの空きかんのせいでさえぎられた。くわん、と間の抜けた金属音が響く。

「ばか。出てけ」

 ほおをかすかに染めてアリスが言った。それは僕が聞いた中でいちばん短い彼女の言葉だった。

 僕はうつむき、息を止め、き出し、それから立ち上がった。

 ドアから出ていくときに、ふと思い出す。そうだ。ほんとうは謝りに来たのでもなく、助手がどうのこうのと言いに来たのでもなかった。馬鹿馬鹿しいような気がして無意識にきやつしていたけど、やっぱりこれは、これだけは、言わなくちゃいけない。

「……ありがと。色々と」

 クマさんパジャマの背中に、そう声をかける。

 外に出てドアを閉めると、かんばんの文句が目に入った。


 It's the only NEET thing to do.


 たぶんもっとうまいやりかたがあったんだろう。でもしょうがない。僕は意気地なしで、頭が悪くて、無神経ではくじようなただのガキで、その僕にとって、あれが精一杯だった。それでだめだったのなら、やんでも始まらない。

 もうここに来る理由もなくなってしまった。

 それが、僕の選んだ先にあった、結末。人生には取り返しのつかないことしかないのだから。


    ●


 非常階段を下りて表に出ようとしたとき、浅黒い顔といきなりはちわせした。テツせんぱいだった。僕はうろたえる。一ヶ月半も顔を見せなかったのだ。最初にどんなことをしやべっていいのかわからない。なにも言わずにわきを走り抜けて逃げようかとさえ思った。

 でも、テツ先輩はなんでもないような顔で言う。

「お? ナルミじゃん。おまえタイミングいいなあ、いつも」

 その後ろからどやどやと、ヒロさんが、モデルガンをかたにかけたしようが、それからむらさきそでしシャツの四代目までもが、勝手口前に入ってくる。

「ナルミ君、久しぶりだね。今日トシの見舞い行ったんだよ。警察病院だよ警察病院。いいばしにあんの、行ったことある? ないよね? おれもはじめて」とヒロさんはいつものさわやかな笑顔。「なんでか四代目も来ててさ。いやあ、五年くらい出てこられないのかと思ってたら、もう出所したんだって。んで出所祝いやろうってことに」

「出所じゃねえ人聞きの悪いこと言うな。こうりゆうが解けただけだ」

「しかし組もたい者は出なかったんでしょう。めでたいですよ。おごりということなら自分はえんりよなくチャーシューメン大盛りで」

「おいちょっと待てよ、なんでおれのおごりなんだ普通逆だろ?」

「いやほら、ゴルフでホールインワン取るとみんなにばらでおごるっつうじゃんそれと同じ」

「同じじゃねえだろ!」

「あーもーうるせえなあ。じゃあ五人いるし大貧民の十回勝負で決めよう。最後に大貧民だったやつのおごり」

 テツ先輩はトランプをポケットから取り出す。

 五人?

「なにやってんだよナルミ、早く座れ」非常階段にこしを下ろしたテツせんぱいは、自分のとなりをぽんぽんたたく。ドラムかんに腰掛けたヒロさんも、重ねたタイヤの席のしようも、ビールケースに座った四代目も、僕を見ている。

「……僕も……いいんですか」

「当たり前だろ」ヒロさんが僕の背中を叩いた。

 僕はその場に突っ立ったまま、うつむいた。目をつむってこらえる。どうしたんだろう、どうしてこんなことでなみだが出てきそうになるんだろう? あの日以来、僕の心のどこかがこわれてしまったみたいだ。それとも、これでいいんだろうか。壊れたんじゃなくて──

 そのとき、ポケットで携帯が震える。

 僕は、かじかんだように感覚のにぶい手で、それを取り出した。

『最初に二つ業務命令がある』

 アリスが言った。たしかに、アリスの声だった。

『一つ目。この番号からの着信メロディは「コロラド・ブルドッグ」にすること』

 携帯を持つ手が震えた。僕は晴れた空を無理矢理に見上げる。涙が落ちないように。

『二つ目。ドクターペッパーがなくなった。通りを出て右にまっすぐ行ったところのローソンで買ってきてくれたまえ。一ケースだ』

「うん。あ、あの……」

 涙声で答える。

ゆるしたわけじゃないぞ。そもそもっ、ぼくは怒ってないしきみが謝る理由もないんだから!』

「うん。わかってる」

『領収書はNEETたんてい事務所でね』

 そうして通話はぶっきらぼうに切れる。僕はれぼったいじりをぬぐう。振り向くと、あきれていたり、笑っていたりする四人の顔がそこにある。

「……じゃあおれアミノサプリ」

「自分はワンダのブラックで」

「おれ百パーセントじゆうならなんでもいいよ」

「ウーロン茶。サントリー以外の買ってきたら殺す」

 あっという間にパシリにされてしまった。それでもいい。僕は意気地なしで、頭が悪くて、無神経ではくじようなただのガキかもしれないけど、その僕にもできることくらいはある。

 テツ先輩にしりばされた僕は、ポケットいっぱいにコインを詰めて、表通りに向かって走り出した。


〈了〉

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