金曜日の夜の街は、どぎつい紫色に染まっていた。バスロータリーに向かって大口を開けた駅から、人の顔をつけた紫の粒々がどばどばと吐き出され、赤信号のたびに歩道にたっぷりと溜まり、鈍く流動している。なんでこの街は鬱血してぶっ壊れてしまわないんだろう、と僕はガードレールの際に立って、排気ガス臭い風を顔に浴びながら思う。
『……ナルミ、体調は?』
耳にねじ込んだイヤフォンがアリスの声で囁く。
「吐き気がする」
僕の声は、マフラーに隠した超小型マイクが拾ってくれているはずだった。頭には出来の悪い壺みたいな形のニット帽。中にはカメラが仕込まれている。もう、自分が人間だという気がしなくなってきた。ロボットなら吐き気もスイッチ一つで消せるはずじゃないか。
『その吐き気が消えたら、もう戻れないぞ。いいか、あんまりネガティヴなことは考えるな。マスターの作ってくれたアイスのことでも考えているといい。でないと吞み込まれるぞ』
アリスの忠告はたぶん無駄だった。口の中に、エンジェル・フィックスのざらついた苦味はまだしつこく残っていた。あんまり苦いので唇の裏を嚙み破って、血の味でごまかそうとしたけど、かえってひどい味になっただけだった。数分後に、血の味でごまかすとかいう自分の発想がもうすでにイカレていることに気づいて、背筋が寒くなった。同時に、最初の吐き気がやってきたのだ。
僕は、吞み込まれようとしていた。
「……なんか、もう目が変なんだよ。赤外線スコープのぞいてるみたい。なんでこいつらみんなお面つけてるの? 今日お祭り?」
『ナルミ、落ち着け。だれもお面なんてつけてない』
「いや、でもさ……」
信号が青に変わった。だれかが僕の背中を押す。両岸から暗いアスファルトの川に向かってお面の群れが流れ込む。僕もそれに巻き込まれて、つんのめりながら歩き出した。
どこかでヒロさんとテツ先輩が僕を尾行しているはずだった。それだけが命綱。それさえ思い出せなくなったら、僕はこの川で溺れて沈み、もう二度と浮き上がってこないだろう。
ヒロさんは、僕が売人を見つけた後でそれを尾行する役。
そしてテツ先輩は──僕の死体を回収する役だ。
ほんとうに見つかるかどうかもわからない。僕が無駄死にして終わりかもしれなかった。
車のクラクションが耳に痛い。横断歩道を渡り終えてまた人混みの中に潜り込むと、ドラッグストアの店内BGMが耳に突き刺さる。頭痛がした。吐き気が盛り上がってくる。
『センター街から坂を上ってホテル街を回ってくれたまえ』
「アリス、なんで歯鳴らしてるの? それ、うるさいからやめてよ」
『なに言ってるんだ、歯なんて鳴らしてないぞ』
言われて気づいた。それはちょうど隣を歩いていた大学生くらいの女のヒールの足音だった。僕は顔をしかめて立ち止まり、そいつと距離を取る。でも無駄だった。ヒールの音は四方八方から襲ってくる。耳をふさいで膝を折りそうになった。くそ、なんでこの街の女はどいつもこいつもかかとが尖ってんだよもっと平べったい靴はけよ!
『ナルミどうしたんだい? 通話の音量が大きすぎるのかい』
「なんでも……ない」
僕は唇の端の涎を手の甲で拭って、身体を起こす。OLが僕の顔をちらと見ながら追い越していった。大丈夫、ただの足音だ。息を大きく吸い込む。胃液が喉までせり上がってきたのをこらえる。飲んでからどれくらいたっただろう、二十分かそれくらいか? それとも僕が憶えていないだけで二週間くらい過ぎちゃってるのかもしれない。なにがエンジェルだ。気持ち悪いだけじゃないか。
よろめきながらセンター街を西へ。ゲーセンの前を通り過ぎるときは最悪だった。音の洪水のせいで、エアガン千丁くらいの一斉掃射を真横から喰らった気分になる。
『藤島中将、血圧が急激に上がってる、注意してくれ』
少佐の声が混じる。僕は左の肘の裏側に手をやる。少佐はカメラとマイクとイヤフォンだけでは飽きたらず、脈拍とか血圧とか体温なんかまで計測する装置をつけやがったのだ。もうほんとに遠隔操作のロボットになった気分。
『ナルミ、たぶんもうすぐ越境する瞬間がやってくる。楽しいことだけ考えろ、絶対だ』
楽しいこと?
HMVの店頭から出てきた制服姿の女の子三人連れが僕の肘をかすめて歩き去った。うちの高校の制服だった。僕の憶えている楽しいことなんて──
『彩夏のことは思い出すな今はだめだ!』
すさまじい勘で察したアリスが鋭い声で制する。でも遅かった。僕はあの日の屋上に引っぱり戻される。フェンスの向こうは夜の川。隣に彩夏がいる。じょうろの水が僕の手を鋭く濡らす。春になったら、と彩夏が言う。すると季節は春になる。夜が吹き飛ばされて僕の身体は柔らかい金色の光に包まれている。
なんだこれ?
僕は色とりどりのネオンをぶらさげた雑居ビルが取り囲む十字路の真ん中に突っ立って、空を仰ぎ、それを見た。
「……天使?」
『ナルミ、なにを見ている? なんでもいいから言葉にしろ、説明しろ、感覚に溺れるな』
目を細めて、街灯の柱にしがみつく。そうでもしないと、光に押し流されてしまいそうだった。
「アリス、ねえ、爆発する花火の真ん中から見たことある?」
『あいにくとぼくはひきこもりで、花火を実際に鑑賞した経験はないが、もし今後その機会があるにしてもそんな鑑賞法はごめんこうむりたいね』
「そうか。たぶんこんな感じだよ」
僕は、あたりを取り巻く光の粒の一つにそっと手を伸ばした。甘い電流が指先からほとばしって頭に抜けた。
「ああ」
熱い息が漏れる。いつの間にか、吐き気も頭痛も消え失せている。そのかわりに僕の頭蓋骨の中に満ちているもの。長い冬が積み重ねた根雪を溶かす力。新しい一日の太陽を海の底から引き揚げる力。僕はそれの名前を知っていた。みんな知っているはずなのだ。天使が見えない人たちは、それを忘れてしまっているだけだ。
トシさんもこれを見たのか、と僕は思った。なら、赦そう。僕らは一つなのだから。なにも告げずにいってしまった彩夏も赦そう。彼女は天使に逢いに行っただけだ。ほら、手を伸ばせばすぐそこにいる。夜の川をただ流されていく顔のない紫色に病んだ人々もみんな赦そう、だって彼らは知らないだけだから。この光を。その名前を。
「アリス、知ってる? これの名前」
自分のつぶやきさえ、きらびやかな光の粒になって、白い吐息に混じり広がっていく。
『知っているよ。愛しかない。それが世界を動かしている』
少女の甘い声がボブ・ディランを引用する。そう、愛だ。ディランはそれをみんな投げ出してしまうまで、名前すら知らなかったかもしれない。でも僕らは知っている。それの名前は愛だ。だからもう二度と手放したりはしない。
『でも、ナルミ、きみが探すのはべつの歌だ。忘れたのかい? 「ノッキン・オン・ヘヴンズ・ドア」だ』
それを聞いて僕は思い出す。そうだ、忘れていた。探さなきゃ。天国の扉を、探さなきゃ。
彩夏に逢いに行かなきゃ。
夜の川の水面を歩き出す。僕の一歩一歩が波紋になって世界中に響いていく。世界もそれに応えてくれる。あなたがいてくれるからわたしたちはここにいるのだ、と。あなたとわたしは一つだ、と。拳を振り上げ、天使の羽が舞い落ちてくる空に向かって、歌い出したい気持ちになった。僕はこのために生きてきた。この坂を上って、愛の光に導かれて、天国の扉を開くために。ほら、ギターのかすかなストロークが聞こえる。立ち並ぶホテルは砂金の宮殿。すれちがう人たちの足音が、ざわめきが、遠くの車のうなりが、何千というエアコンの室外機のモーター音が、欲望に濡れた鼻息が、重厚なコラールへと溶け合って、ディランの乾いた歌声に寄り添う。
『ノッキン・オン・ヘヴンズ・ドア』。
聞こえる。たしかに聞こえる。僕を取り巻いて優しく愛撫する何千万という音楽の縦糸と横糸の中から、僕はその旋律だけをより分けて、たどることができる。
「……見つけた」
つぶやいた瞬間、切ないほどの歓喜が僕の唇の端や耳の穴から噴き出して肌を伝い落ちた。
その男はスプレーペイントでべたべたに汚れたシャッターにもたれてしゃがみ込んでいた。うつむいた両耳にイヤフォン。指が、聖歌のリズムに合わせて膝を叩いている。
『ナルミ、見つけたのか? ほんとうに?』
わからないのか。見えないのか、あいつの左右の頰にくっきりと描かれた、光る翼。まぶしいくらいなのに。
『ナルミ! 見つけたのなら答えろ、それ以上近づくな!』
耳の中で少女の声が跳ね回る、僕はホテルの塀に手をついて、天使に向かってゆっくり歩き出す。踏み込んだ地面は雲みたいな感触。もうすぐだ。もうすぐ届く。
『テツ、ナルミを止めろ、見られないように! ヒロわかるかしゃがんでるレザージャケットの男だイヤフォンをしている、逃がすな絶対に気づかれるな! ナルミ! ナルミしっかりしろ!』
僕はわめきたてるイヤフォンをむしりとって捨てた。天使の歌が直に頭の中に流れ込んでくる。天国のドアを叩く音。もうすぐだ。もうすぐ彩夏に逢える。僕が手を伸ばそうとしたとき、だれかが僕の肩を強くつかんだ。
放せ。放せ!
僕はもがいた。腕がもげ落ちてしまいそうなほどに。行ってしまう、天使が飛び立ってしまう、開きかけたドアが閉じてしまう。僕の指先はアスファルトを引っ搔いた。自分がうつぶせに倒れていることには気づかなかった。だからその光は僕の真上にあった。やがて暗闇が、長くて黒い雲が、まぶたの上からゆっくりと下りてきた。僕はそのドアを叩き続けた。何度も。何度も。何度も……
●
人がなんのために生きているのか、だれでも子供の頃に少なくとも一度は考えてみたことがあると思う。この国には、その答えをわかりやすく書いたテキストが存在しないから(かつて存在していたものは大東亜戦争とバブル経済崩壊で焼かれてしまった)。
ある人は、ごく単純に幸せになるためだと結論して考えるのをやめる。考えるのをやめなかった人は、幸せになるためというのは設問を言い換えただけなのに気づいてさらに泥沼にはまったりする。
またある人は中学校の保健体育の教科書で三大欲求とかいうものを知ってニヒルな方向で満足する。なんのためなのか答えを見つけるために生きているみたいな循環論法で満足する人もいるし、だれかにこの質問をされたときになにかかっこいいことを答えられるようにゲーテあたりを最初の四ページほどだけ読んで投げ出して忘れる人もいる。
僕はそのどれでもなかった。
僕がまだひねくれた高校生になる前、ちょっとひねくれた中学生だった頃、授業をさぼってひとりで河原の土手に座ってこの問題に取り組んだことがあった。
死にたくないから──というのが、僕に思いつけた唯一の解答らしき解答だった。でもこれは「なぜ生きているのか」の答えにはなっても、「なんのために生きているのか」の答えにはなり得ない。中学生の僕にもそれくらいはわかった。
それに、生きるということを「死んでいない」こととして定義することは激しく疑問だった。世の中には死んでいないのに生きてもいないという不思議な人種が存在することを僕は知っていた。たとえばうちの父親がそうだ。母が事故で死んだときに父の生きている部分は一緒にあちら岸へ持っていってしまったというのが、僕と姉の数少ない共通見解の一つだった。以来、僕の父はほとんど家に居着かず、ただ生活費を振り込んでくれるだけの背景になってしまった。
生きていても死ぬことは回避できない。色んな人がろくでもない行程の果てにこの結論に行き着く。肉親の人生を観察しただけでたどり着けた僕は幸運だったのかもしれない。
じゃあ、生きてることが定義できないのだったら、僕らはなんのために生きてるのだろう。僕はそのとき十三歳で、制服のスラックスの尻は土手の芝生についた露のせいでぐっしょりと濡れていて、そこから先には一歩も進めなかった。
一つだけ確信できたことがあった。
この問題は、たぶん考えていても答えが出ない。方程式がそこにあっても、不明な変数が多すぎるからだ。でも、わかるときは一瞬でわかるだろう。雷で打たれたみたいに。
じゃあそのとき、僕はどうなるのだろう?
僕は僕でいられるだろうか?
●
目覚めは長く長く引き延ばされた激痛だった。
瞼を開こうとすると、まるでかさぶたをはがすときのような気色悪い抵抗があった。
まぶしい。蛍光灯の光が目に痛い。
目の前に、なにか黒い影があった。なんだこれ?
逆さまになった少女の顔だと気づくのに、ひどく時間がかかった。
「おかえり、ナルミ」
少女が微笑んだ。長い黒髪が一房、肩から滑り落ちて僕の首に触れた。
起き上がる。みしみしと背骨が痛み、僕は顔をしかめる。
僕が寝ていたのは、アリスの部屋のベッドの上だった。取り巻く黒い機械の壁、ファンのうなり、冷えきった人工の空気。
寒いはずなのに、身体がそれに反応していない。
自分の両の手のひらを見つめた僕は、それが自分の身体じゃないような気がした。もう何千回と見てきた、僕の皮膚、僕の手のしわだ。でも、その薄皮一枚をはがせば、名前も知らない液体が詰まっている。そんな気がした。
じゃあ、僕の身体はどこへ行ってしまったんだろう。
僕の魂は──どこへ消えてしまったんだろう?
天使が見えたあの一瞬を思い出そうとする。光の弾ける綺麗な世界と一体になって響き合っていたあの時間を。でも、それはもう消えてしまった。
ちがう。
消えてしまったんじゃない。
「気分はどうだい……というのは、愚問だね」
僕の背中でアリスが囁く。
気分がどうかって? 決まってるだろ。
最悪だ。
頭痛もない。吐き気もない。歯の痛みみたいなものも消えてしまった。寒さだって届かない。でも。でも──
僕はもう、わかってしまった。
考えるまでもなかった。トシさんはなんと言っていたっけ? 僕らが生きている理由。なんとか神経系を刺激するために生きていると。じゃあどうしてトシさんは、エンジェルに神経系を直いじりされたはずのあの人は、それから僕は、どうして、どうしてこんなに最悪なんだ? 決まってる、それは答えじゃないのだ。神経をいじって気持ちよくなることは「生きる」の中に含まれているだけだ。快感は目的ではなく手段に過ぎない。設問の不完全な式の左辺を構成する因数。そして今の僕には、フィックスされた今の僕にはその式が見える。赤い錠剤が変数に悦楽を埋め込む。簡単な式だ。だれだってその答えがわかる。わかってしまう。
答えはゼロだ。
僕らが生きていることに、意味なんてない。
呼吸をするのもつらかった。心臓を動かすのもつらかった。僕はシーツをきつくつかんで、肩を震わせてそれに耐えようとした。いや、なんで耐える必要があるんだろう。やめてしまえばいい。息をするのも、血を巡らせるのも、なにかを考えるのも。死にたくないから生きるという馬鹿な理屈が成り立つなら、その逆だってあっていいはずだ。
やめてしまえば。
「──ぼくへの依頼はこれで完遂、ということでいいね」
アリスの声。僕は振り向く。
ようやく気づいた。アリスはパジャマではなく、黒一色のドレスを着ていた。光沢のない闇色の布地に全身を包み、手袋も黒。つばのないトーク型の帽子をかぶり、ヴェールで顔を覆っている。
喪服だ。
「……依頼?」
「きみがぼくに依頼したのだろう。彩夏が自殺しようとした理由を知りたいと。そして、きみは今それを知った。だから──終わり、だ。そうだろう?」
「なに……」
アリスの肩越し、電源の入っていない画面の一つに、僕の顔が映り込んでいた。凸面で歪んだその顔には生気がまったくなかった。死人の顔の、両目の下には、赤黒い隈がまるでタールを塗ったように浮き上がっている。
「……あ、ぁ」
僕はそれを知っていた。思い出した。あの凍りつきそうに寒い朝。花壇の足下に広がった血。仰向けに倒れて虚ろな目を空に向けていた彩夏。その頰にあったしるし。
彩夏が飛び降りた理由。
それを僕は──もう、知っている。
いつだかアリスは言っていた、そこに謎は一つもない、なぜ死のうとしたのかなんて考えるまでもない、と。その通りだ。考えるまでもない。僕の中に渦を巻いているこの想いが、この虚しさが、そのまま答えだ。
彩夏も知ってしまったのだ。
生きていることには、意味なんてない、と。
「科学的な説明をするならば」
アリスが言った。ぼやけていた少女の顔にじわりと焦点が合う。
「その鬱血はエンジェル・フィックス中のある成分に対する拒絶反応だ。まれに身体に合わない者がいる。彩夏もきみもそうだった。それだけだ。拒絶反応は幻覚効果が減衰した後にもたらされる激しい虚無感の原因となる。わかるかい、きみの感じているそれはただのバッドトリップだ。真実ではあるかもしれないが事実ではない」
だから。だからどうした?
アリスはつらそうに僕から目をそむける。
「逆に言えば、事実ではないが……真実なのだね。わかっている。こんな説明にはなんの意味もないということはね。きみの手にした至福も、絶望も、すべてが薬物による神経細胞中の化学反応だったとしても」
そうだよ。なんの意味もない。だって僕らの感情は、怒りは、哀しみは、幸せは、虚しさは、みんな化学反応だろ?
だったら、これは──まぎれもない真実なんだ。
「麻薬はあらゆる精神作用を拡大する。どんな些細な後悔も。自分の育てていた花が、犯罪に荷担していたという罪悪感も。それが故意ではないことなんて、薬の前にはなんの酌量にもならない。真実の前で事実はただ沈黙するしかない。だから」
僕を見つめる、一対の深い目。
「ぼくは、きみを引き留める言葉は持ち合わせていない」
僕はその薄桃色の小さな唇をじっと見つめ返す。
「きみがそちらへいってしまうのだとしたら、ぼくにはそれを引き留める力はない。ただ」
アリスの手に握られているのは、三重に折り畳んだ便箋。僕がフィックスを飲むと決意したあの日、アリスが僕に書かせた遺書だ。あのときは、なぜアリスがそんなものを書かせようとするのかわからなかった。ずいぶんいい加減な文章を並べたような気がする。
あれは、もう、今の僕じゃないのだ。
「ただ、きみの言葉は伝えよう。きみがたしかにここにいたことは、伝えよう。きみは勇敢だったと。やるべきことをたしかにやり遂げたと。必ず」
やるべきこと。
やるべきこと?
背後でドアが開く音がする。
「おい、アリス、なんで四代目に知らせたんだ!」
怒気を含んだテツ先輩の声。僕が振り向き、目を合わせると、先輩は玄関をあがってすぐの廊下でぎょっとした顔をして立ちすくむ。
「……ナルミ、もう起きてて大丈夫なのか」
僕は、弱々しくうなずく。
「ヒロは車を回してきてくれたかい? あまり四代目を待たせて焦らせるわけにもいかないからね、早く発とう」
「アリスも出んのか?」
「この格好を見てわからないのかい? 四代目だってぼくが直接行かなければ収まらないだろう」
「ああ……なあ、なんで四代目に知らせたんだよ。もう組の連中がやつらのねぐらを囲んでるぞ。あいつらトシだろうとだれだろうと全員ぶち殺すぞ?」
ああ。トシさんたちは、見つかったのか。
そうだった。僕はそのためにエンジェル・フィックスを飲んだのだっけ。忘れていた。今となっては、前世の記憶みたいなものだ。
やるべきことを、やり遂げた。
だから──なんなんだ?
アリスが僕の隣を這っていって、ベッドからおりた。
「ぼくは四代目と業務契約を結んでいるのだよ。フィックスの件に関して情報をすべて提供する義務がある。探偵としてね。それに、相手は少なくとも七、八人いるんだぞ。平坂組の力はどのみち借りなきゃいけなかったんだ」
「でもよ」
「だから、ぼくが行くまで手を出すなと条件を出しておいたんだ。安心したまえ、ちゃんと手は打ってある。トシに手は出させない」
テツ先輩はむくれて黙り込み、それから部屋を出ていった。
玄関のドアが閉まる音の残響がエアコンのうなりに吸い込まれて消えると、僕らはまた、二人きりになる。
アリスは振り向いた。
僕は枕に顔を半分埋めて、黒いヴェール越しの彼女の視線を受けた。
「きみのおかげだ。ここから後は、ぼくの自己満足のためのおまけみたいなものだよ。きみにとっては……どうでもいいこと、だろうね」
どうでもいいこと。
「……ぼくは出かけるから。眠ければ好きなだけ寝ていたまえ。飛び降りたければ右手奥のラックを手前にずらせば窓を開けられるよ。三階だから保証はしかねるが」
「……行くの?」
「前に言っただろう。ぼくは彩夏がなぜ学校の屋上から飛び降りたかを知りたいんだ。トシや墓見坂史郎なら、なにかを知っているだろう。そのために、そのためだけに、ここまでやってきたんだ。知ることができたとして、その後には虚しさしか残らないとしても」
「……僕を、置いて行くの?」
のろのろと身を起こす。蚊の羽音みたいな僕の声に、アリスはわずかに首を傾げる。
「きみも、ついていきたいのかい? どうして。ぼくの自己満足につきあうことなんてない」
僕は首を振る。ついていきたいわけはなかった。どこにも行きたくなかった。なにもしたくなかった。でも。
「なら──」
「……ぃて行くなよ」
アリスの目が見開かれる。
「きみは、なにを」
「置いて行くなって言ってんだよ!」
止めようもない叫び声が、からからに乾いた僕の喉からほとばしった。
「いつもいつも全部わかったような顔して、回りくどいことしたり顔で喋ってるくせに、こんなことも言わなきゃわかんないのかよ! ふざけんな!」
なにに怒っているのか自分でもわからなかった。ただ、目の前の黒いぼんやりした影に、僕は焼けた鉄のような想いを叩きつけた。
「いつもみたいに顎で使えよ、もう僕ひとりじゃ立てないんだよ見りゃわかるだろ? からっぽなんだ、どこにも行けないんだよ! なんでもいいから命令しろよ、でないと、僕は、僕は、僕は──」
ベッドの枠にしがみついて、僕は身体じゅうの空気を絞るようにして激しく何度も何度もむせた。骨がばらばらになってしまいそうだった。でも、どうせ僕の身体なんてもう必要ないのだ。この腕も、この脚も、なんの役にも立たなかった。だれのためにもならなかった。だからもうどうでもいい。ぶっ壊れてしまえばいい。最初からなかったことにすればいい。だれからも忘れられてしまえば──
冷たい手が、僕のうなじに置かれた。
全身が痙攣して、それから、震えていた肺が、肩が、心臓が、熱を吸い取られるようにしておさまっていく。
「──そうだね。きみの依頼は完遂したけれど……ぼくがもらうべき対価は、まだ、この手にはない」
ねじきれそうな皮膚の痛みをこらえて、僕は顔を持ち上げる。そこに、夜の川のような黒髪に縁取られた、アリスの微笑み。
「ならば最後まで働いてもらおう。きみはぼくの助手なのだからね。きみの腕も、きみの脚も、きみの眼も耳も、きみの喉も、きみの爪も、きみの歯も舌も、きみの血の最後の一滴までも」
小さな女王の人差し指が、そっと僕の額に触れた。
「──今はすべて、ぼくの道具だ」
●
車の後部座席の窓から見上げた空は、茜色の夕焼けだった。
「十五時間くらい眠ってたんじゃないかな」と、運転席のヒロさんが言う。助手席にテツ先輩。後ろに、アリスを挟んで僕と少佐。それからアリスがしっかりと抱きかかえたクマのぬいぐるみ。モッガディートよりもふた回りほど小さい。名前はリッリルウというそうだ。奇妙な五人と一匹を乗せた青い外国車は、川沿いの道を街に背を向けて走っている。白く透けた月だけが僕らを追いかけてくる。
「ナルミ君の家には連絡しといたよ。全然心配してなかったな。後でお姉さん紹介してくれ」
テツ先輩がヒロさんの頭をひっぱたくのと、少佐が運転席のシートの背中に蹴りを入れるのはほとんど同時だった。でも僕は笑わなかった。そうか、そういえば僕にも家があったんだっけ、とぼんやり思い出す。最後に家に帰ったのがなんだか三年くらい前のような気がする。
走行中、アリスは一言も口を利かなかった。ぬいぐるみを抱きしめた手の甲が真っ白になっていた。冷や汗が出ているのもわかる。
そういえばこいつ、ひきこもりだったっけ。なんで、そうまでして外に出てきたんだろう。四代目やテツ先輩たちに任せておけば、勝手になにもかも終わらせてくれただろうに。
もうすぐ終わるんだな、と月を見ながら思う。
彩夏に逢ったのは──いつだっけ? 十一月だ。もうすぐ一月が終わる。三ヶ月。こういうのに、ひどく陳腐だけどぴったりの言葉がある。長い夢を見ていたみたい。
目をつむる前はからっぽだった。目が覚めた後は、たぶんもっとからっぽだろう。
もうすぐ、終わる。
車ががくんと揺れて停まった。
人気のない商店街だった。蕎麦屋、写真店、自転車屋、ペットショップ、まだ夕方の五時なのにみんなシャッターが下りている。駅から車でほんの五分ほどの距離なのに、とても同じ区内とは思えなかった。
商店街には不釣り合いな広い駐車場に、蝶の代紋の入った黒Tシャツの少年たちが集まっていた。ヒロさんはその駐車場の端に車を突っ込んだ。
「姐さん、お疲れさんス!」
「お疲れさんス!」
ぬいぐるみを抱いたまま車から降りる黒いドレスの少女に、十何人もの悪そうな面をした少年やくざが一斉に頭を下げる。夕映えがその光景をオレンジ色に染めている。今この瞬間、世界が滅亡してもおかしくないくらいシュールな眺めだった。
「兄貴もお疲れさんです」
「聞きました、兄貴が命張ってここ見つけたって」
「さすが兄貴」
岩男や電柱が僕にまとわりついてくる。僕は目をそらして首を振った。僕はなにもしていない。なにもできなかった。
平坂組の男衆を割って、深紅のジャケットを羽織った狼が近づいてくる。
「おまえ、外歩いて大丈夫なのか……」
四代目はアリスを見下ろして心配そうに言う。
「ちっとも大丈夫じゃない。見ればわかるだろう」
ぬいぐるみの頭で顔を半分隠し、腕を小刻みに震わせてアリスは気丈にも憎まれ口を返す。
「なんでわざわざ出てきたんだよ。前の事件でもそうだったけどよ、最後の最後で」
「なぜならぼくが、ニート探偵だからさ。探偵は安楽椅子にふんぞり返ってどれほど論理をもてあそぼうとも、最後には必ず自分の手を血だまりに突っ込まなければいけないんだ。そうしなければ、死んだ世界にしか触れられなくなってしまう」
アリスは唇を紫色に染めて、痛切な声で答えた。でも、意味がわからなかった。四代目は額に手を当てて頭を振った。
「囲んで一匹も外に出してねえけど、一時間くらい前から不気味なくらい静かになったぞ」
駐車場に隣接した、のっぺりとした四階建てのビルを四代目は顎で指す。
「中には入ったのかい?」
「おまえが入んなって言ったんだろが。少なくとも六人いるのは確認してる。おい、もういいだろ突っ込ませろ。俺ら何時間待ってると思ってんだ」
「そうもいかない。トシはぼくらの仲間だからね」
「俺らが一人だけ特例で見逃すとでも思ってんのか?」
「思っていないよ。だから」アリスは、テツ先輩の後ろに隠れた。「トシの分だけ、裁判はテツがかわりに受ける」
テツ先輩は呆気にとられた顔でしばらく固まり、それから嘆息して言った。
「そういうことかよ……なにが『手は打ってある』だ」
示し合わせたように四代目もため息をつく。
裁判。平坂組の裁判は、ただのケンカだ。つまり──
「お、おい、おい、壮さんとテツ伯父貴の勝負か」
「これまでは?」
「四十九勝四十九敗三分けだったな」
「キメの勝負じゃねえか」
「よし壮さんに五千円」
「伯父貴に一万」「てめえこの裏切り者」「だってそうしねえと賭けが成り立たねえだろ」「蹴り無しなら伯父貴のがちょっとだけ強いぞ」
黒Tシャツたちがにわかに盛り上がり始める。
「おい、おまえら──」四代目があわてておさめようとしたけど、すでに遅かった。あっという間に胴元役が決まって紙幣が集まり、組員の人垣が環になって駐車場の真ん中に即席のリングをつくり出す。アリスはそっとテツ先輩の背中を離れて脱出し、リングの中には先輩と四代目だけが向かい合ったまま取り残される。
「まあいいんじゃねえの、こういう俺らっぽい馬鹿な締め方も」
拳に包帯を巻きながらテツ先輩が苦笑する。
四代目は苦い顔をして、なにか言葉を口の中で嚙み潰して、それからジャケットを脱いで背後に放った。
「壮さん秒殺お願いしぁス!」「伯父貴、俺の一万円頼みましたッ」
組員たちの野太い声援が飛び交う。あまりの馬鹿な展開に啞然とする僕の裾を、アリスが引っぱった。
「行くぞナルミ。ぼうっとしてるな。少佐、シャッターの鍵を開けてくれたまえ」
「え。え? でも、テツ先輩が」
「あんなのただの時間稼ぎに決まってるだろう。四代目がすぐに突っ込んでしまっては、だれに話を聞く時間もないからね」
すでに少佐がビルのシャッターの前でピッキングの道具を取り出している。さすがに気づいたのか、四代目の声が飛んだ。
「おい、アリスてめえ! 待たせといて勝手に入る気かよ!」
アリスはくるりと振り向いて四代目にびっと指先を向けた。
「一度始まった神聖なる裁判を放棄するつもりじゃないだろうね」
「く……」
ファイティングポーズのテツ先輩が、苦笑いしながら四代目との距離を詰める。四代目もしかたなく拳を持ち上げた。
「おい、おまえらも行け」テツ先輩から視線を外さないまま、四代目がまわりに命じる。
「……え? いや、でも、この勝負は見逃せねえス」
「見逃したら一生後悔します」
「俺の一万円」
「うるせえ馬鹿さっさと行け! あいつらだけ突っ込ませてなにかあったらどうすんだッ」
入り口のシャッターをこじ開けて中に入った瞬間から、奇妙なにおいが鼻についた。青臭く、いがらっぽく、苦い、生の植物のにおい。僕はそれを知っていた。ビルの中に踏み込んだ十数人の中で、僕だけがそのにおいを知っていた。まだ口の中で残っているような気さえした。入ってすぐの埃っぽい狭いロビーは、壁際にみすぼらしいソファがいくつも押しつけられていて、廃病院みたいだった。
「アリス、やっぱり車の中で待ってたら?」
ヒロさんが囁く。アリスは僕の背中にぬいぐるみを押しつけてしがみついたまま、首を横に何度も振った。振り向いて見ると、顔がさっきよりもさらに青白くなっているのがわかる。
「きみは、ぼくにこのまま、世界とまったく触れ合うことなく生きていけというのかい? 冗談じゃない」
黒Tシャツたちが僕らを追い越して、階段へと走っていく。
「ワンフロア四人で探せ」
「だれか見たら殴っていいんだよな?」
「あんま騒ぎ起こすなよ!」
上へ、下へと散っていく足音。
世界とまったく触れ合うことなく。
僕はまた自分の手のひらを確かめる。あのときの、身体と心がぶっつり切り離されてしまったような感触は、まだ残っている。それはもう消えないのだ。僕はこれから先、一生、自分のものではない身体の中に閉じこめられながら生きていくのか、と思った。自分ではなにも触れられないままに。
地階は巨大な立方体の空間で、丸ごと精製プラントになっていた。壁際に設えられた階段を下りていくうちに、手すりの向こうにプラントの様子を一望できた。壁に並んだ背の高い冷蔵庫みたいな機械。隅に無造作に積み上げられた土囊。机の上にびっしり並べて立てられた試験管は、切れかけて明滅する蛍光灯の光を不気味に照り返している。開けっ放しの蛇口からは水がぼたぼたと落ちてシンクの底を打っている。地階の空気には、僕のよく知っている、あのにおいがたっぷりと溜まっていた。ヒロさんも少佐も、ついてきた黒Tシャツも、顔をしかめて服の袖で鼻を押さえながら階段を下りきった。
脚を折ってベッドがわりにした黒ソファが隅の一角に並べられて、そこに何人かの男が折り重なって突っ伏している。
その奥。象が暴れたあとみたいに、棚がいくつも倒れて床に横たわっている。その男は、白衣を毛布がわりにして、斜めに傾いた棚の背中に腰掛け、ぐったりと裸コンクリートの壁に背中を預けていた。足下には割れたガラスが散らばっている。
「……やあ」
男は、のろのろと顔を上げて、僕を──ではなく、僕の背中にしがみついたアリスを見て、気味の悪い笑い方をした。僕の記憶にある顔とも、アリスが探してきたあの写真とも、ずいぶんちがう。髪は襟にかかるくらい伸びていて、頰はこけ、眼鏡の奥のぎょろっとした眼は飛び出してきそうだ。
でも僕にはそれが、墓見坂史郎だとすぐにわかった。
「ずいぶん背の低い天使だなと思ったら、あんたがアリスか」
墓見坂は彼方の天井に向かってけたたましい笑い声をあげる。
「篠崎に聞いてはいたんだけどね……ほんとにガキだったのか。まさかこんなに早く見つけてくれるとはね。嬉しいよ」
「おい、トシはどこだ?」とヒロさんが僕を押しのけて墓見坂に近づく。
「そのへんに転がってるだろ。あいつもけっこういっぱい飲んだから、生きてるかどうか知らないけど。ふん。最後の在庫くらいは自分たちで楽しまないとね」
ぞっとした。
この人は、もう、終わっている。
この部屋はもうなにもかもが死んでいる。
ヒロさんと、それから黒Tシャツ二人は倒れた棚と机を乗り越えて部屋の奥に向かう。土囊のあたりでいくつものうめき声が聞こえた。
「トシ。おい、トシ、しっかりしろ! 吐けるか? いいから吐き出せ!」
ヒロさんの悲痛な声。
「おい、水持ってこい!」
黒Tシャツのばたばたした足音。にわかの騒がしさを、墓見坂は鼻で笑う。
アリスが僕の腕をぎゅっと握りしめた。
「墓見坂史郎。きみの実験はこれで成功なのかい」
アリスの言葉に、墓見坂の眉がぴくんと持ち上がる。
「もちろん。どこからどう見ても成功じゃないか。みんなほんとうの世界を見てくれただろ? 何人かは実際にエンジェルが連れていってくれた。エンジェル・フィックスはただそれ自身の力だけで、拡散し循環するシステムを作り上げたんだ、ほかのどんな薬にそれができる? 俺はやり遂げた。成功だ。成功だよ」
ふたたび、背骨を直接こすられるような甲高い不快な笑い声。僕はもう彼の言葉を、彼の声を聞いていたくなかった。だれでもいい、早く連れていってくれ。
でも、アリスはさらに問いかける。
「……彩夏も成功だったときみは主張するのかい」
「あやか?」
「トシの妹だ」
墓見坂の目が焦点を失う。
「ああ……。あれはしかたない。花の正体に気づいたし、警察に行くなんて言い出したからね。飲ませるしかなかった。今は……植物状態……だっけ?」
「無理矢理、薬を飲ませたということか?」少佐が棚の上に飛び乗り、墓見坂の襟首をつかんで持ち上げる。
「それが、ど、どうした? 飲まないことはつ、罪だ」
答える墓見坂の呂律は回っていない。
「アリス、こいつに人民解放軍式の拷問術を試してもいいか」
「やめておきたまえ少佐、きみのナイフをそんなやつの血と肉で汚すことはない」
僕は無意識に、アリスの手をきつく握り返していた。
単純な事件だった。謎なんて一つもなかった。
彩夏は薬のフラッシュバックに耐えられなくて飛び降りたのだ。
たったそれだけのことだ。
原料となる花を育て、犯罪に荷担していたという罪悪感。フィックスがそれを押し広げ、彩夏を吞み込んだ。
がらんどうになった僕の頭の中に、墓見坂の鈍い声が響く。
「悪いとは思ってるよ。殺すつもりなんてなかったんだ」
「殺すつもりなんてなかっただと?」少佐の怒気に満ちた声が間に挟まる。それでも墓見坂はつぶやくのをやめない。
「いい娘だったよ篠崎とちがって。俺のこと、ずっとケシの花の専門家だと思ってたらしくて、ガーデニングのこと楽しそうに喋ってた。謝礼も現金で渡すつもりだったけど、花でいいからって言って……」
「花?」
アリスは僕の後ろから半歩だけ身を乗り出す。
「彩夏は、花をほしがったのかい?」
「ああ。同じ株のがいっぱい必要だからって。だから、種から培養してやったよ。千株くらい造ったんじゃないかな」
「その花の名前は?」
「雑草だ。ナガミヒナゲシ。いい花だよ。俺と趣味が合った。でも地獄の方にいっちまったんだよな。しかたない。たまに、天使が見えてもそれを死神だと勘違いするやつがいるんだ。光の扉を通る資格がないやつ」
墓見坂のどろりとした目が、僕をねめつける。
「……おまえもそうだな。……やったんだろ? はは。俺の言った通りだ。残念だったな。俺はちゃんと連れていってもらうよ」
骨まで響くほどの寒気がした。
墓見坂の言う通りに、残念だと思っている自分がいたからだ。
僕はあの光に届かなかった。天使の手をつかめなかった。それはもう失われてしまって、二度とやってこないのだ。かわりに煮詰めた闇みたいな虚無だけがこの手に粘りついている。
「あんた、……なにがしたかったんだ」
そんなこと訊きたくはなかった。でも、口が勝手に動いた。墓見坂の眉がべつの生き物みたいにびくびく震えた。
「わかるだろ。直接見たおまえなら、わかる、だろ? スパークの嵐の向こうに、戸口がある。マホガニーの重たい扉。いつも二インチだけ隙間が開いていて、そこからあっちが見える」
墓見坂のざらついた声は、甲高くなる。
「夜だ。永遠の夜。そこは四千五百年前のギリシアなんだ。時間は環になってつながってる。ずっと回ってるんだ。月の光が、潮風でぼろぼろになった煉瓦を照らしている。みんなが真っ白な砂浜に並んで立って歌っている。俺はそのドアに何度も指をかけたんだ。そのたびに引き戻された。届かないんだ。もっともっと足下に死体を積み重ねなきゃ届かないんだ、今度こそ、こ、んど、こそ」
僕は、なにか、なにか言ってやろうとした。でも、不意に胸元に押しつけられた柔らかい感触がそれを遮った。アリスがクマのぬいぐるみを僕に預けたのだ。そして彼女は僕の背中から前に出ると、倒れた棚の間に踏み込み、墓見坂の正面に立ってその顔をのぞき込んだ。
「ぼくが見えるね? なにに見える?」
「……天使……」
「そうだ。ぼくは神様のメモ帳を見たことがある。そこに書かれた十四万四千人の名簿も見たことがある。きみの名前はなかった」
「……うそだ」
「きみは王国には呼ばれていない。そのまま、名づけられてもいない、なまあたたかい薄暗がりで悠久の時を過ごしたまえ。それがきみの得た永遠だ」
「うそだ! う、そ」
墓見坂の頭が、がくんと向こう側に落ちた。青白い喉仏が闇の中に浮かび上がって見える。
ざらついた静寂の中、アリスが振り向く。黒衣は闇に溶けて、ヴェールの向こうの白い顔だけが浮き上がって見える。
「……なに言ったんだ?」少佐がほとんど吐息に等しい声で訊ねる。
「なんでもない。癪だったから、適当に虚言を並べてジャンキーをおちょくっただけだよ。あのまま気持ちよくいかせてたまるものか」
アリスは僕のところまで戻ってくると、ぼんやりと立ち尽くす僕の腕からぬいぐるみをむしり取って抱え、また背中にぴったりと張りついて服の裾を握りしめた。
「行こう、ナルミ。もう終わった」
背中越しに、つぶやく声。
「すべてつながった。もう、ここにはなにもない。あとは平坂組に任せよう。ぼくの仕事は終わった。もう探偵の出る幕じゃない」
●
夕暮れの紫に染まった駐車場の真ん中で、四代目とテツ先輩は向かい合って座り込み、額と拳を突き合わせてなにかやっていた。二人ともかなり殴り合ったのか、顔に赤いあざがいくつもできていて、服も汚れている。両側からボディガードの電柱と岩男が心配そうにそれをのぞき込んでいる。近づいてみると、指相撲をしているのだとわかった。
「まだやっていたのかいきみたちは……」
アリスが呆れた声で言う。
「おまえがやれって言ったんだろがッ!」
「往生際悪いんだよ、俺のが三発くらい多く入れただろ!」
大勢の足音が駐車場に入ってきて、二人の延長戦は中断された。四代目は険しい顔つきになると、膝の砂埃を払って立ち上がる。
「そ、壮さん勝負やめちゃったら賭けが」と岩男。「うるせえ!」即座に四代目に殴り倒される。
ビルに入った平坂組メンバーのほとんどが戻ってきていた。少佐も、ヒロさんもいる。ヒロさんの肩にぐったりと身を預けているトシさんもいる。
「……首尾は?」と四代目。
「八人。二階から上はだれもいませんでした。でも、全員薬でほとんど意識が飛んでます。喋れそうなのはそいつだけです」と、黒Tシャツの一人がトシさんをあごでしゃくる。
「救急車呼んだか」
「押忍」
四代目はうなずく。ちゃんと助けるのか、と僕は意外に思う。
「意識もないようなジャンキー袋叩きにしてもしょうがない。退院したらあらためてボコるんスよ」と、組員の一人が僕に耳打ちしてくれた。律儀な少年やくざ。
「で、トシの始末はどうすんだ。もうアホな時間稼ぎはなしにしろよ」
四代目はヒロさんに向かって怒鳴った。ヒロさんは黙って、トシさんの身体をゆっくりとアスファルトの地面に下ろした。
トシさんは泣いていた。
目にはちゃんと意識の光がある。眼鏡のフレームはひん曲がって、頰は真っ赤に腫れて、顎まで涎と涙に濡れている。なにかぶつぶつ言ってる。
あんたに泣く資格があるのか。僕の中のからっぽに、どろりとした冷たい溶岩みたいなものが流れ込んでくる。
「……んで連れ出したんだよ……ほっといてくれよ……」
トシさんのつぶやきが聞こえる。あんたが助けてくれって言ったんだろ。ふざけてんのか?
四代目は、僕の背中に隠れたアリスをじろりとにらむ。
「俺の拳はこんな哀れなやつを殴るためにあるわけじゃないとか、そういうくだらないことは言うなよ」
「言わないよ。陳腐は愚昧ほどではないがきらいだ。しかしね、四代目。落とし前なんてものがそんなに大切かい? 傷をつけられたら同じ場所につけて返さなければ、きみの生きている世界は成り立たないのかい」
「当たり前だ」斬って捨てるように四代目は即答する。「わかってることを訊くんじゃねえよ。俺の世界に、落とし前より大事なもんなんてない」
「そうだね。愚問だった」
アリスが笑ったのが見えたような気がした。
「でもね、四代目。だとしたら、落とし前をつけるのはきみの役目じゃないはずだ。ぼくの言っていること、わかるね?」
四代目の顔は、一瞬呆けたようになり、次に怒りに染まり、けっきょくはため息に落ち着いた。頭を搔きながら憎々しげに吐き捨てる。
「あー、あー、そういうことかよ。くそ、ほんっと口の減らないやつだなおまえ。わかった。わかったよ。引っ込みゃいいんだろ」
狼の視線は、最後に僕の顔をえぐった。
ジャケットを羽織り直し、四代目は背を向ける。
「園芸部。時間がねえ。救急車が来る前にきっちり落とし前つけろ」
その言葉を合図に、テツ先輩も、黒Tシャツのみんなも、息を詰めて僕から距離を取る。僕? どうして僕なんだ。
「ナルミ」
背中にぴったりくっついていたアリスが囁く。
「トシに訊きたいことがあれば、訊けばいい。言いたいことがあれば、そのままぶつければいい。これは、きみの事件だったんだ。だから、きみが最後の始末をつけたまえ」
それから、彼女の体温も離れていく。
円陣の中に残されたのは、立ち尽くす僕と、うずくまるトシさん。
訊きたいこと?
彩夏が……最後に、なにか言い残していなかったかどうか。
そんなこと、僕はほんとに知りたいのか? 答えはわかってるじゃないか。彼女は薬で頭をやられていたのだ。僕のことなんて考えていたはずはない。考えていたなら、考えてくれていたのなら──
なにも言わずに、いってしまうはずはない。
「なあ、ナルミ……薬くれよ、どっか、そのへんに……ある、だろ? 全部吐いちゃったんだよ、俺……くそ……」
ヘドロの底からわく泡みたいに、トシさんの不快なつぶやきが僕の意識の表面で弾ける。虫酸が走った。
「もう、どうせだめなんだよ……いいから死なせてくれよ、俺なんか、俺なんかさあ、もう、もう……」
訊きたいことも、知りたいことも、もう一つもない。それでも。それでも。
「……立てよ」
僕の声はひどく毛羽立っていた。ほんの一言なのに、喉がざらりと痛んだ。トシさんはどろどろに溶けた目で僕を見た。
「立て、って言ってるんだ」
トシさんはアスファルトの上にくしゃりと潰れたまま動こうとしなかった。僕はその襟首の後ろをつかんで強引に引っぱり起こした。トシさんの身体はひどく軽かった。
「ナルミ。バンデージ要るか」
背後からテツ先輩が言う。僕は振り向いて首を振る。
そのまま向き直り、半歩トシさんから離れると、腰をひねって拳を引いた。
ストレートがトシさんの頰に突き刺さった瞬間、指と腕の骨が悲鳴をあげて、痺れるような痛みが脳天にまで走った。トシさんは血混じりの涎を散らして真後ろに吹き飛び、リングを形作る平坂組メンバーの足下に仰向けに倒れた。僕の肩と肘はまだびりびり震えていた。人を殴ると、自分も痛い。僕はそのシンプルな真実を、もう一度自分の身体で、裸の拳で、事実として確かめなければいけなかった。
「寝てんな。立てよ!」
トシさんの腕をつかんで足の甲を踏んづけ、立ち上がらせる。腹に左のブローを叩き込む。くの字に折れたトシさんの身体を受け止めると、突き飛ばし、その顎を右拳でとらえる。激痛が走った。指を汚すのはトシさんの血だけじゃなかった。骨も折れたかもしれなかった。自分の心臓の音のせいで鼓膜もずきずきと痛んだ。それは僕のリアルな世界の音、リアルな痛みだった。
だれかが僕の肩に手を置いた。ぎい、ぎいという不愉快な音は、僕が肩で息をしている音だと気づいた。トシさんはアスファルトに突っ伏して背中を震わせて泣いていた。
「もういいだろ、ナルミ君」
ヒロさんの優しい声は、白々しく僕の背中を流れ落ちた。
テツ先輩と少佐がトシさんに近づき、かがみ込んで、抱き起こす。
そこが長い夢みたいな十六歳の冬の終わりだ。
目が覚めた後は、やっぱりからっぽだった。だれかを殴ってみたって埋められなかった。
彼方から近づいてくる救急車のサイレンを遠く聞きながら、感覚がなくなって指も半分ほどしか開かない血まみれの手を見下ろす。それは僕の手、僕の痛み、僕の身体だった。ようやく取り戻した、僕がこれから先も引きずっていかなきゃいけない、僕自身だった。