次の日から、僕はひどく忙しい生活を送ることになった。授業が終わると、まずだんの世話をする。これは先生が手伝ってくれた。

ふじしまくんが入ってくれる前は、たまに手伝ってたの」

 らんはちかかえて、先生はしんみりと言う。

 花が咲いていない冬場はほっとけばいいんじゃないかというのは僕の勝手な思い込みで、越冬をきちんとしないと来年咲かないのだそうだ。

 園芸部を続けている意味は、自分でもよくわからなかった。あやが育てた草花を世話し続けることで、彼女の考えていたことが少しでもわかるかもしれない──と心のすみの方で思っていたのはたしかだけど。

 部活が終わると、自転車をとばして川を越え首都高をくぐって駅をかいし『ラーメンはなまる』へ。ミンさんにしやくして、裏に回る。

 その日、僕より先に来ていたのはヒロさんだけだった。たけの短いメタルボタンのコートに白のデニムパンツ。この人、同じ服を着ているところを見たことがない。どうせ女の人に買ってもらったんだろうけど。

 ヒロさんは黒げのドラムかんこしを下ろしてかたと耳の間に携帯をはさみ、両手にも一つずつ携帯を持ってそれぞれメールを打っている。大道芸みたいだ。

「……あ、ミカちゃん? おれ、あーそう、ユミの友達の。そうヒロ。はじめまして。あはは。え、ほんと? 呼んでくれれば行ったのに……うん、うん、じゃあ金曜日とかは? ひま?」

 はたから聞いてると、ただナンパしてるだけに思えるのだけれど、ヒロさんの話はものすごく曲がりくねったルートをたどった上に、「あ、聞いたことあるんだ。そうピンク色の粉。うん、あ、いや、おれはやらないけど友達にすごいって聞いてさ。え、それ買ったってだれ? うん、うん」と、いつの間にか薬の話に行き着いているのだ。

 僕が古タイヤに腰掛けて感心して見ていると、ヒロさんは右手の携帯を閉じて、しやべっていた携帯をポケットにしまい、「やあ」と微笑ほほえむ。それから、左手の指の動きはそのままに、テーブルに置いた紙になにやらボールペンで書き始めた。

「女の子でもけっこう買ったやつがいるみたい、アレ。でも、だいたいみんな友達から買ったっつってんだよね。たどるのが大変」

「ヒロさん、女の人の知り合い何人くらいいるんですか?」と興味本位でいてみる。

「うーん? わかんない」

 と答えているうちにまた携帯が鳴って、ヒロさんは電話口でストロベリートークを始める。ほとんどひっきりなしだった。その間も指は休むことなく動いている。どうやらテーブルの上の紙は駅周辺の地図らしい。マルイ、パルコ、東急ハンズ、ブックファースト、見慣れた店の名前の間の通りに、赤いボールペンで次々と丸印が描き込まれていく。

「ふぅ」

 ようやく一息ついたヒロさんは、携帯をテーブルの上にずらずら並べて(三つだけではなかった、ポケットからさらに二つ出てきた)、背伸びをし、かんコーヒーを一口。

「これが女子高生用、こっちが奥様用、これは落としてる最中のこうげき用、んでこれが、あんまり好みじゃない娘からのぼうぎよ用」とかなんとか、それぞれの携帯をいちいち説明してくれた。攻撃用? 防御用?

「ヒモっていうかジゴロみたいですね……」

 ちょっと圧倒されてしまう。

「ヒモとジゴロのちがいってわかる?」

 そう言い返されて、僕は首を傾げてしまう。

「ヒモはいちどきに特定の一人だけなの。ジゴロは同時に三人以上愛せないといけない。おれなんか、まだぞうだから、おそれ多くてジゴロなんて名乗れないよ」

「はあ」複雑な世界だなあ。「同時に二人はなんていうんですか?」

「同時に二人のやつは、たいがい女に刺されて死ぬから、名前はついてない」

「なるほど」いや、納得するなよ僕。

「しかし、わかんないなあ、これ。四代目が手こずるのも無理ないよ」

 地図を裏返してヒロさんは言う。そこにも、赤ペンで書かれた女の子の名前と数字がずらーっと並んでいた。

「なにがですか」

「安すぎるんだ。それに、知り合いから買ってるやつばっかりで、値段が安定しない。おかしいよ、こんな薬。こんだけ広まってるのに」

 じゃあこの数字は値段なのか。相場がわからないから、安すぎるというのは実感できないけど、ゼロがいくつかあるのはわかった。無料でゆずったってことだろうか。

「あの、こっちの地図は」

「あ、それは買った場所。二重丸は直売人くさいとこ」

 僕はあつにとられて、になった地図を見つめる。トシさんをさがすと宣言してから、たったの三日。ヒロさん一人と携帯電話五つだけで、ここまで情報が集まるものなのか。

ふじしまちゆうじようも来てたのか。ちょうどいい」

 後ろから声がした。振り向くと、しようが小山のように巨大な登山用バックパックを背負って立っている。

「ちょっと下ろすの手伝ってくれ、こわれ物なんだ」と言うので、手を貸した。苦労してバックパックを地面にそっと下ろす。

「二日徹夜しましたよ」

 うれしそうに言って、しようは荷物から次々と小型のカメラみたいなものを取り出して木台の上に積み上げる。カメラといっても、手のひらだいの黒い立方体の一面に丸くレンズの窓がついているだけ。同じ形のものが、合計で二十個はあるだろうか。

「だいぶ張り切ったなあ少佐」

「カメラは前から作ってたんで。認識アプリのが時間食いました。こういう特定人物をさがす任務はこれまでなかったんで、ずっとおくら入りだったのですよ、ふふ」

「こんなにいっぱい、なにに使うんですか」

「ちょうどいい、ふじしまちゆうじようは実に特徴のない顔をしているから実験に使おう」

 さらりと失礼なことを言われた気がする。少佐はちゆうぼうの電源を借りてノートPCをつけると、いくつかのカメラを弧状に並べて僕の顔を撮影した。次に、カメラの一つをヒロさんに持たせて高く持ち上げさせ、PCの画面を確認しながら「もうちょい下に向けてください。はい。あ、そこでOK」と調整し、それから僕に言った。

「一度、外に出てから、ここにまた入ってきてくれ」

 なにをやってるのか全然わからないまま、僕は少佐に言われた通りに一度店の前まで出ると、また二人のいるところに戻ってみた。ビルの陰に入ったとたん、少佐のPCがけたたましい警報音を響かせた。僕は驚いて後ずさり、ヒロさんもびっくりしてカメラを落としそうになる。少佐一人がにんまり笑ってひざたたいている。

「うんうん。さすがにじかりは精度がいい。藤島中将、今度はうつむき加減で入ってきてくれ」

 その後も少佐の指示で、下を向いたままとか横歩きとか首をぐるぐる回しながらとか、色々と馬鹿みたいなをしながら外と勝手口前とを行き来した。そのたびに少佐のPCは警報をわめきたてる。しまいにはミンさんに「うるせーぞ黙らせろそれからコンセント勝手に使うんじゃねえ!」と怒られる始末。でも、ミンさんがカメラに映ってもPCはなにも言わなかった。

 それでようやく僕にも察しがつく。

「僕の顔、見分けてるんですか、それ?」

「その通りだ。至近距離から六面撮影すればこれくらいの精度になる。夏ぐらいに研究室に行ったら、ちょうど教授が実験してたんでアイディアだけもらってきた」

「へえ、面白いなあこれ」とヒロさんはカメラとPCの画面をかわりばんこにのぞき込む。いや、面白いとかそういうレベルじゃないんじゃないか? こんな技術がありながら、なんでこの人、ニートやってんの?

「これ仕掛けてトシ見つけるわけ」

「あんま予算ないんで設置場所かなりしぼらないといけませんが。かなり電池食うんですよこれ」

「つーかトシの顔どうすんの。最初に撮らなきゃだめなんだろ?」

「アリスの部屋の防犯カメラ、あれれきは一ヶ月にしてあるんでまだ残ってます」

 あれもしようが作った設備だったのか。なんかもうどんどん話が大きくなっていくので、僕は馬鹿みたいに口を開いて見ているしかない。

「ところでテツさんは?」

 大量のカメラをかばんにしまいながら少佐がいた。

「警察行ってるはず」

「ああ、そっちのそう資料もあれば設置場所がかなりしぼれますね」と少佐はこともなげに言う。

「け……警察にも知り合いがいるんですか?」

 僕の驚いてる顔がよっぽど面白かったのか、ヒロさんは苦笑した。

「あいつボクシング始める前はよく世話になってたからね。たしか少年課の人がジムに泣きついて、引き取ってもらったんだって。ボクシング始めればケンカしなくなるじゃん?」

 けっきょく今はパチプロだけど、とヒロさんは落ちをつける。そんな話聞いたことない。それに、警察の捜査資料はさすがに手に入らないだろ……



 と思ってたら、七時を回った頃に『はなまる』に姿を現したテツせんぱいは、Tシャツの腹からノートを取り出して、少佐とヒロさんの前にどんと置いた。

「テツ、ヤニくさいよ」

「しょうがねえだろ。スロ屋より煙草タバコ臭いのなんて警察署くらいだよ。それより、地図でまとめたからそっちのも見せろ」

「警察も全然進展してないですね」と少佐がノートをぱらぱらめくりながら言う。横からのぞき込むと、鉛筆書きの字がびっしり。テツ先輩がメモったのだろう。ほんとに警察の情報を聞いてきたのか。

 三人はぼろい木の台を囲んで、あれやこれやとささやき合いながら、ヒロさんが赤を入れていた地図に、さらに警察から持ってきた資料の記述を書き加え始めた。

 もう、僕が首を突っ込む余地はなかった。

 そのとき僕がなにをしていたのかというと、ラーメン屋のちゆうぼうどんぶりを洗っていたのである。ミンさんに言われてやってるのではなく、あまりにもいたたまれないので、自分から手伝いますと言ってしまったのだ。

「──これ、四代目にも回した方がいいかなあ」

「あいつの組の力借りるの気にくわないんだけど」

「でも情報は共有した方が効率的でしょう」

「おれコピーして持ってくよ。ついでにキャバクラいくつか回ってくる、ちよくで話したいも何人かいるから」

「じゃあテツさん、カメラ設置手伝ってくれませんか」

「おう」

 洗い場で聞き耳を立てている間に、てきぱきと話がまとまり、三人は散っていってしまった。入れ替わりのように客が何人も続けて入ってきて、僕は騒がしいけむりの中にひとり残された気分になる。

 よっぽどしょぼくれた顔をしてたのだろうか、ミンさんがぽんぽんと僕のかたたたいた。

「……なんか……三人ともやけに慣れてるように見えるんですけど」

「あー、昔からあんなことやってるから、あいつら。アリスの手伝いとかでね。あれだけやれんなら働けよ、って思うだろ」

 同感だった。


    ●


「それができないのが、ニートたるゆえんなのだよ」

 アリスはベッドの上で自慢げに言った。いつもの308号室、冷房でぎんぎんに寒いサイバールーム。その日のパジャマむすめはまずまずげんが良さそうだった。ちょっとだけめんの入ったしようラーメンも、文句を言わずに食べている。

「世の中の、ニートではない人間のほとんどは、人間の資質がスカラーではなくベクトルであるということを理解できないのだね。口では、だれにだって長所はあるだの人それぞれだの可能性は無限だのと言っておきながら、いざ実際に評価しようとすると一次元の世界しか想定できない」

「……ミンさんも理解できてないってこと?」

「マスターはちがう。だれにだって長所はあるとか人それぞれだとか可能性は無限だとかくだらないことは言わないからね。ぼくらの宿命をわかった上での、純粋に実利面だけを考慮した説教だよ。しかしそれは少数派だ。ほとんどの人間は、可能性が無限であるということがほんとうはどういうことなのか理解し得ない。自分が乗っている船の後ろの方で、自分とは逆向きにものすごい力でいでいる人間がいることなんて想像もつかないのさ。そうだろう? だってそっちを向いていないんだからね」

 まあ……それはそうかもしれないけど。

「だから、きみみたいなのが方向性をもたらすと、ああなるのだよ。テツやしようやヒロは、ほんとうはトシを助けたかったのかもしれない。一緒にどんぶりを囲んでサイコロを振り合った仲間なのだからね。ハードボイルドを気取っているから自分からはこしを上げられないんだ。きみが助けを求めるのを待っていたのさ」

 あのとき、三人の目に浮かんでいた燃え立つような生気を思い出す。アリスの言う通りかもしれなかった。

ごとのように言っているぼくも、なにをかくそう同類だからね。ぼくらニートが苦しむ理由というのは突き詰めれば一つしかない。なにをすればいいのか、わからないのだよ」

 アリスはどんぶりを置いて、力なくはしを握ったまま、さみしそうな目でくうを見つめる。

「神様はこうずいの後に、すべての生命に四つのえんでもって祝福の絶対命令を刻んだ。知っているだろう、『産めよ、増えよ、地に満てよ』だ。ぼくらは──それを書き忘れられたのさ」

 じようだんにしか聞こえなかったけど、まるで絶海の真ん中に浮かぶ救命ボートから三日ぶりの太陽を見上げたときみたいなアリスの微笑ほほえみを見ていると、とても笑う気にはなれなかった。

「……でも、きみだってそうだろう?」

 アリスが言う。ひざを立ててその上に丼をせ、スープのの向こうから僕を見つめて。

「なにをすればいいのか、わからないんだ。だから、知ってもどうしようもないことを、それでも知ろうとして、もがいて、もがいて、もがいてるんだ」

 アリスの言う通りだった。だから僕はなにも答えなかった。

「どうしてだろうね。どうしてぼくらは、もう失われてしまったものにしか目が向けられないんだろう」

 そこでアリスの言葉はれた。箸を持ち直して、しばらく丼に集中する。一本ずつめんをすするかすかな音。ネギをむ音。大量の機器のファンが回る音。

 僕が立ち上がって冷蔵庫からドクターペッパーを持ってきて、アリスの目の前に置いたとき、ちょうどアリスはちゅるちゅると麵の最後の一本を食べ終わるところだった。

「きみもこれに関してだけは気が利くようになったなあ」

 アリスは笑ってプルタブを起こす。僕はベッドの足下にしゃがみ込んで膝をかかえた。

ほかになにも能がないしね。いいよ、一生アリスにドクターペッパーを運んで過ごすよ」

 ちよう気味のじようだんのつもりだったけれど、口に出してみると自分でもそれが本気に思えてきて、さむがいっそうつのった。

「ナルミ」

 呼ばれて僕は顔を上げる。

 アリスが、くいくいと手招きしている。……え、なに? そばに寄れってことだろうか。僕はいぶかしく思いながらも、膝立ちになる。

「よしよし」

 頭なでられた。

「な」なにをする。僕は思わず退いていた。

「その反応ははじめてだな。ヒロは喜ぶし、四代目とかはいやそうな顔はしても逃げないのだけれど」

「いや……あの、その、男の人にあんまそういうことむやみにしない方がいいですよ?」

「ん? どうしてだい?」

 どうしてって。うまく説明できないけど。

「能がないなどときみが言うからじゃないか。ぼくの話を聞いていなかったのかい。人間にはだれでも長所があって無限の可能性があるというありがたーい話をしていたのに」

 いや、それくだらないこととか言ってなかった?

「でも、きみがなにかできたとしても、きみをめてくれる人はもういない」

 アリスの静かな声で、僕の全身がこおりつく。

 入り口わきの壁に背をくっつけたまま、僕はずるずるとゆかくずれ落ちた。

「きみにだってベクトルはある──けれど、その指し示す先には、もうなにもない。たどり着けた場所には、はかしかない。だから、せめて、ね」

 アリスはベッドから下りて、僕に近づいてくる。彼女が少しこしをかがめただけで、床にへたり込んだ僕と目の高さが合う。それから小さな冷たい手が、僕のかみにもう一度もぐり込んだ。


    ●


 それから何日かは、なんの動きもなかった。

 僕は毎日、学校帰りに『ラーメンはなまる』に顔を出したけど、とくにやることもない。ヒロさんは風俗店やキャバクラを回っていたし、しようは勝手口前のドラムかんの席にじんってものすごいぎようそうでノートPCに向かっていて、声をかけられる雰囲気じゃなかった。

 店を手伝わせてくださいと言おうと思ったら、ミンさんは鋭く察したのか、引きつった表情を浮かべて言った。

「いや……あれだ、おまえ家事の得意なよめさん見つけろそして台所には一生近づくな」

 ひどい言われようだったけど、こないだどんぶり洗いをしたときに二時間で五つも割るというあやすら為し得なかった新記録を達成してしまった僕には反論の余地はなかった。湿しめった土の上にしゃがんでうつむいていると、自分の役立たずぶりになみだが出てきそうになった。

 一月も残り少なくなってきた頃に、大きいニュースがあった。僕はそれを登校前に自宅のテレビで見た。中年の男性アナウンサーが、見事に抑制されたほんの1ミリグラムほどのかんそうな表情を浮かべてニュースを読み上げる。

「……で集団薬物中毒が発生しました。午後十一時頃、深夜営業のダンスクラブで、六名の男女が突然倒れ、……」

 パルコのそばにある、僕でも名前だけは知っている有名なクラブだった。もちろん薬がなんだったのかなんてことはアナウンサーは言わない。

 でも、その日の夜八時くらいに久しぶりに『はなまる』に顔を出したテツせんぱいは、「フィックスだった。ああ、うん、警察で聞いてきた」とこともなげに言う。大丈夫なのかこの街の警察は。十九さいのパチプロにこんなに簡単に情報をらすなんて。それともテツせんぱいだから、なのだろうか。

「四代目の方にもなんにも引っかからないんですか?」

 しようはノートPCのモニタからはまったく目をそらさずにく。

「警察より大勢突っ込んでるはずなんだけどな。じんかい戦術だから、そのうち引っかかると思うけど……おれらのしぼり込んだデータだって渡してるし。にしても、薬だけこんだけ出回ってて、なんで足がつかねえんだろな」

「あのう」

 僕は遠慮がちに口をはさんだ。テツ先輩と少佐が同時にこっちを向くので、ちょっと口ごもってしまう。

「……僕もそれ、手伝えませんか。人海戦術」

 先輩は首を傾げる。

「四代目に言ってみれば。たぶんだめだと思うけど」

「え、ど、どうして」

「あいつ、なんかナルミのこと苦手みたいだぞ? 二、三回しかってねーのにな」

「そ、そんな」

「ってのは置いとくとして、高校生だからだめだな。あいつ、あれでけっこうまともぶってるから、学校行ってるやつは仲間にしないんだ。かたぎになれるやつはかたぎになれってね」

 そうか。僕はニートですらないんだもんな。がっくりかたを落とした僕に、テツ先輩は不思議そうな顔をする。

「なんだよ。一人増えようがなんも変わんないよ。ナルミはクライアントなんだから、なんもしないでどーんと構えてろどーんと」

 それじゃ意味がないのだ。アリスに全部任せて、ドクターペッパー運びだけやらされているのと、なんのちがいもない。だれの手を借りてもいいけれど、僕が、この僕が、この手で、あやの飛び降りた理由を見つけ出さなきゃいけない。僕が見つけ出したと自分に言い聞かせなきゃいけない。彩夏のためになにかをしたという実感で、このむなしさをめなきゃいけない。

 たとえ埋まらないとわかっていても。

 埋まらないのだ。だって、彩夏はもうしやべることも笑うこともできないのだから。彩夏になにかしてくれと頼まれたわけじゃないのだから。彩夏はなにも言わずに、僕になにも打ち明けてくれないままに、飛び降りてしまったのだから。

 彼女にとって、僕はたぶん、その程度の存在だったんだろう。

 今さらどうしようもない。

 僕のうじうじした思考を断ち切るのは、いつもの『コロラド・ブルドッグ』の着メロだった。少佐もテツ先輩も立ち上がる。でも、今回は鳴っているのは少佐の携帯だけだった。

『ぼくだ。しよう、今日はレコーダーは持ってきているかい』

 レコーダー?

「持ってきてるが。なにに使うんだ」

 その後、アリスと少佐は電話越しにしばらく言葉を交わした。電話を切った少佐は僕らを見回して言う。

「四代目のとこのを刺した売人が見つかったそうです。組の直営店で飲んでるとこを押さえられたって。ナイフ抜いて暴れたとか」

 僕もはっとして立ち上がった。ついに、売人が見つかった。動き出したのだ。

「アホかそいつは。ひらさか組のなわりくらい知っとけよ」とテツせんぱい

「テツさんとヒロさんが調べた中に入ってたんですよ、その店。とうだいもと暗しというやつですか」

「で、アリスはなんだって?」

じんもんを聴きたいから録音してこいって」

「ああ、それでレコーダーか。でも、もう四代目がボコってる最中じゃね?」

「四代目もまだその店には着いてないらしいんで、急げって」

「さっさとしねえとあいつボロぞうきんにしちまうぞ。仲間に手出したやつにはようしやないから」

 テツ先輩の言葉に、僕はぞっとした。

「自分、今日は歩きなんですよね。あきばらからちよくで来たから……」

「ナルミ、自転車だろ。後ろに乗っけてけよ」

 え?

「四代目の手伝いしたいんだろ。話してみれば」

「でも」

「いいから行けよ。じっとしてらんないんだろ?」

 その通りだった。どうしてだろう、テツ先輩は僕の考えてることがみんなわかるみたいだ。それとも、僕のしょぼくれた顔がわかりやすいだけだろうか。

「よし行こうふじしまちゆうじよう。飛ばしてくれ」

 少佐が僕のしりかばんで思いっきりひっぱたいた。


    ●


『クラブ・ハプロイド・ハート』というその店は、東急プラザの裏側の飲み屋ばかりが並ぶ通り、こぢんまりしたビルの地下にあった。せまい下り階段の口の頭上に筆記体の黄色いネオンサインが掲げられ、その右下に、あのあげちようだいもんがプリントされたシールを見つける。直営店っていってたけど、ほんとに平坂組が経営してるのか。ニートが集まってやくざごっこしてるだけかと思っていた僕は、平坂組のことがよくわからなくなる。なにせ先月まで暴走族だとかんちがいしていたくらいだ。

「外でたいするか、ふじしまちゆうじよう

「ここまでアシに使っておいてそれはないです」

 こういう店は入るのがはじめてなので緊張する。おどり場でしゃがみ込んで携帯をいじっていた二人の若い男が、通り過ぎるしようと僕をまるで動物園から逃げ出したダチョウでも見つけたみたいな目つきでぎようする。

 階段のどん詰まり、分厚くて重い扉を開くと、中はゆかも壁もメタリックな塗装を施された短い通路になっていて、左手にカウンター、奥にもう一つ扉がある。SF映画に出てくるエアロックみたいだ。かすかにシャカシャカいうダンスビートの高音部が聞こえる。

「あのう、高校生の方はぁ、入店お断りしてるんですけれど」

 おかまっぽい黒のメッシュのセーターを着たカウンターの男が言って、僕をじろりとにらみ、それから、夜のクラブにはいかにもそぐわないアーミーファッションの少佐を頭のてっぺんからねめ回した。そういえば僕は学校からそのまんま来たので制服だった。

「いや自分らは客じゃない。そういちろうに呼ばれて来た」

 少佐はしれっとうそをつく。

「はあ、壮さんにですか」

「ついさっきトラブルがあったろう、その関係で──」

おれがいつおまえらを呼んだんだよ」

 鋭い声がして、少佐は二センチくらいび上がった。入ってきたばかりの扉を振り返ると、逆光の中に、しんのジャケット。背後にいわと電柱を付き従えて、四代目がこちらに歩み寄ってくる。

「そ、壮さん、お疲れさまですっ」

 カウンターのおかまが頭のてっぺんからかんだかい声を出す。ちらと見ると、こちんこちんに緊張して顔を紅潮させ、目だけが輝いている。

兄貴あにき、お疲れさんス!」

 岩男と電柱は声をハモらせて僕にだけ頭を下げる。少佐はげんそうに僕の顔をのぞきこむ。いや、僕だってなんでこんなことになったのかよくわからないんだってば。

「なにしに来た。またアリスが余計なこと言ったのか」

じんもんの内容を聴きたいそうですよ」

 少佐はかたをすくめ、手のひら大の細長いICレコーダーを取りだして見せる。四代目は舌打ちした。

「そっちの園芸部はなんでついてきてんだよ」

「藤島中将はアリスの助手らしいから」

「あー、もう、わかったよめんどくせえな」四代目は僕と少佐を押しのけてカウンターに顔を突っ込む。「めいわくかけたな。裏にうちのもんいるんだろ」

「は、はい」

 奥の扉を開けるとき、四代目が振り向いて言った。

「園芸部、せめてブレザー脱いでネクタイはずせ」



 店内は異次元空間だった。ちょうどスローテンポのナンバーがかかっている最中で、奥のステージだけが黒海の夜明けみたいな陰気なオレンジ色に浮かび上がって、色違いのシャツを四枚くらい重ね着した変なファッションのラッパーが、聴いている人間の心を落ち着かなくさせる六連符で低くつぶやいている。リズムに合わせてくらやみの中で人の頭が揺れ、かすかな光をアクセサリやグラスが照り返してきらめく。

 先頭が四代目、いわと電柱、僕、さいこうしようというみような一行は、黒い海の中を人の背中をかき分けて奥へと進んでいく。

「あ、そうくん」

「やだ壮くん久しぶり! こんな時間にいるなんて珍しいね」

 仕事帰りのOLらしき女の人の集団に四代目が囲まれてしまった。

「悪いけど今忙しい。後で」

「えー」

「ねえさっきすごかったんだよ、頭おかしいのがナイフ持って暴れてさ。ちよう怖かった」

「でもライヴ中止にならなくてよかったよ。今日のゲストDJ、もっさんだよ聴いていこうよ壮くん」

 岩男が歯をむいてかくし、できたすきに僕と少佐が続く。女の人の不審そうな視線が痛かった。その後も五メートル歩くごとに襲ってくる女の子を軽くあしらいながら、せん階段の陰にある目立たないドアにたどりつく。STAFF ONLYの表示。

 ドアを開けた瞬間、ろうの奥の方から奇妙にねじ曲がった悲鳴とも笑いともとれない男の声が聞こえ、僕の背筋にさむが走った。



 金属製のたなや木箱、積み重ねられた丸。コンクリートむき出しの壁に隙間なくられたペプシコーラのポスターは色あせて年季を感じさせる。広い倉庫だった。来るまでの廊下のちゆうにいくつもドアがあったので、共用倉庫かもしれない。

「お疲れさんス!」

「お疲れさんス!」

 だいもん入り黒Tシャツの数人が後ろで手を組んで四代目に頭を下げる。

あにもいらっしてたんですか」

 いわの後ろにかくれていた僕も目ざとく見つけられてしまった。

 倉庫の壁際のゆかに、その男は電源コードでしばられて転がされていた。ダークグリーンのフードつきトレーナーにうすよごれたダボパンツ。ぼさぼさのかみの間から、ゴミ捨て場をあさるからすみたいながぎょろついている。はだくちびるもがさがさに荒れていてねんれいはよくわからない。たぶん若いんだろうけど。

「かなりいっぱい持ってましたよ」

 メンバーの一人が、四代目にひとつかみのビニル袋を差し出す。小さな袋に小分けして入れられたじようざいだった。僕が見たのよりも色がしんに近かったけれど、羽の刻印とA.F.のイニシャルにはおぼえがあった。

「最近、出回る量が増えてるな」

「在庫いつそうセールかもしれませんね」

「ぉ、お、ご、」

 倒れていた男が身をよじりながら四代目の脚にからみつこうとした。黒Tシャツがその腹をばす。

 四代目はジャケットを脱いで後ろの電柱に放ると、かがみ込んで、男の乱れた髪をつかんだ。顔をねじ曲げて自分のかたへと向けさせる。

「このだいもん、わかるな? うちのもんを刺したのはおまえだろ?」

 男は答えのかわりにあわく。僕はされていて声も出ない。ひどくいやなにおいがそこらじゅうにただよっているようなさつかくにとらわれた。

「フィックスを作ってるやつらと、どうやって連絡を取ってる? やつらはどこにいるんだ?」

 四代目の低い声。それにかぶさるように、ジャンキーのかんだかい声。

「連絡なんか、取らない。やつらはそこにいるんだ。おれたちにしか見つけられない、頭に光る羽があって、歌が聞こえる、聞こえる、見える、俺たちには見える」

「寝言ぬかすんじゃねえ」

 メンバーの一人が男の背中をつまさきで蹴った。男は激しくせき込み、それでもしやべるのをやめなかった。

「おまえらに見えないだけだ、光る羽。俺たちには見える。ゴミどもの中で、歌が導いてくれる。聞こえないだろう。おまえらクズには聞こえないだろう。ディランだ。ボブ・ディラン。『ノッキン・オン・ヘヴンズ・ドア』だ。エンジェルが俺をフィックスして」

 エンジェル。エンジェルは差別しない。トシさんの言葉だ。僕は思わず、組員のでかい背中を押しのけ、男のそばにけ寄った。顔を寄せると血のにおいがする。

しのざきという人を知りませんか。あの、この、この」

 ポケットから、六人分の顔写真がった手配書のコピーを取りだし、突きつけていちばん右下を指さす。

「この人です。見ませんでしたか」

あに、寄っちゃだめだどいて」

 黒Tシャツにえりくびをつかまれ、引きがされる。男は手配書も、僕の顔も見ていなかった。細くしぼられた声で続ける。

「あれが見えないおまえらは、あれが聞こえないおまえらはそのまま死ねばいい。殺して、こ、殺してやるよ、おれは優しいから。あいつの腹にも突き立ててやったよ、血が、ぬるくて」

 メンバーがこめかみに血管を浮かせて手を振り上げた。

 ぴし、と音がしてそのうでが止まる。

「……そうさん」

 四代目は、つかんだ部下の手首をゆっくりと下ろした。

なわほどいてやれ」

「なにするかわかりませんよこいつ」

「いいから。こんなクズでも裁判は必要だ」

 裁判?

 いましめを解かれた男は、ロボットみたいに角張った動作で立ち上がった。四代目は、男のふところから抜き取った馬鹿でかいアーミーナイフのさやを払ってやいばを確かめる。

「そら。ひらさか組の裁判は、とあるアホの発案で中世ヨーロッパ式なんだ。しんめい裁判とか言ってたな。おまえが正しけりゃ神様が勝たせてくれるんだとさ」

 足下に投げられたナイフを男はえた犬みたいに拾い上げる。僕は声をあげそうになる。

退がっててください兄貴」

 黒Tシャツの背中が数人がかりで壁をつくって僕としようを倉庫の入り口まで退たいさせる。

「あ、あぶないですよ、な、ナイフ……」

ふじしまちゆうじよう、四代目なら大丈夫だ」

 少佐がささやいた瞬間、ジャンキーの身体からだが壁をってねた。ナイフの切っ先が空気をく音さえ聞こえた気がした。でも、四代目の身体からだはすでにそこになかった。どう動いたのかわからない。つんのめるジャンキーの背後に四代目はいつの間にか立っていて、ひじいつせんし男のえんずいをえぐった。倒れるとき、歯が折れる音が響いた。

 うつぶせになった男の頭のまわりのゆかに、じわりと黒いしみが広がっていく。

「……お疲れさんス」

「お疲れさんス」

 平坂組メンバーが、おごそかに礼する。四代目はぴくりとも動かない男の身体を足で持ち上げてあおけにした。顔は血まみれだった。

「園芸部。おまえ外出てろ。こっからはガキの見せ物じゃねえ」

「え……」

あに、すんませんが」

 僕がなにか言うひまもなく、メンバー二人がかりでろうに押し出されてしまった。ドアが閉じる瞬間、ICレコーダーのスイッチを入れるしようと、男のかみをつかんで引っぱり起こす四代目が見えた。

 僕は、けいこうとうが照らす寒々しい廊下にひとり。

 やがてドアの向こうから聞こえてきたとぎれとぎれのうめき声は、ずっとずっと後になっても僕の耳にこびりついたまま落ちなかった。


    ●


 廊下のすみにうずくまって両うでに顔をうずめていた僕は、ドアの開く音で顔を上げた。

 少佐に続いて出てきた四代目のこぶしに、血がついているのに気づく。

「……あの人は?」

「わけのわかんねえことしかしやべらなかったから、殺してない。まだ聞き出すことがあるからな」

 まだ? まだ殺してない?

 じゃあ、聞き出すことがないやつはどうするんだ。

「少佐、これ一袋、またアリスんとこに持ってってくれ」

「成分が変わってるんですか」

「かもしれない。最近、病院行きが増えてる。少量で飛べるんでアホなガキは大喜びだけどな、どうも混ぜものが増えてるらしい」

 混ぜものが増えてる。それは、ひょっとして、原材料の供給が減ってしまったせいなんじゃないのか、と僕は気づく。

 あやが、もういないから。

 少佐は四代目から受け取ったじようざい入りの小さなビニル袋を僕に放った。

ふじしまちゆうじようが届けてくれ。自分はいったん帰る」

「おい、ちょっと待て高校生にそんなもん運ばせんな」

 少佐は四代目の方に振り向いてかたをすくめた。

「藤島中将なら大丈夫ですよ。この通り顔も背格好も目立たないのきわみ。たとえ皇居でテロがあったって職務質問を一度も受けずに千代田区を横断できるにちがいない」

 大きなお世話だ。

「なんでおまえが届けないんだよ」四代目はしたちする。

「テープ編集しなきゃいけないでしょう。四代目が関節外す音とか、四代目が奥歯をへし折る音とか、四代目が腕の骨を踏みつぶす音とかは、アリスには聴かせられないから」

「おまえ、ほんとにいやなやつだな」

「そりゃどうも」

 倉庫のドアから電柱が顔を出した。

そうさん、手当て終わりましたけど、あいつ事務所に連れて行きますか」

「頼む」

 四代目はろうの奥へと歩き出そうとした。

「──あの」

 僕の声に、四代目はいつもひどく敏感に反応する。まるで首筋に不愉快な羽虫がとまったときみたいに。

 おおかみににらまれて、僕の声はちゆうでしぼんでしまった。なにを言おうとしたのか、自分でもわからなかった。たしか、トシさんをさがす手伝いをしに来たのだ。でも、そんなこととても言い出せる空気じゃなかった。

 ここは僕が呼吸できる世界じゃないのだ。


    ●


 クラブからラーメン屋に戻る途中、公園わきの歩道を自転車で走っているとき、不意にポケットで携帯が震えた。停車し、取り出した携帯の液晶画面に表示された名前を見て、僕は声をあげそうになる。


 しのざき あや


 がしゃん、と音がした。ひじひざに痛みが走った。自転車が倒れて、道路に投げ出されていたのだ。酔っぱらったサラリーマンの一団が僕にせいを浴びせながら通り過ぎた。それでも僕は、両手で握りしめた携帯から目をそらせなかった。彩夏。彩夏だ。そんな馬鹿な。どうして彩夏から?

 アスファルトの上にいつくばりながら、震える手で電話に出る。

「……あの」

『……お? あ? あ、ああ、ああ、やっぱりこの番号おまえか、あ、はは、は』

 聞きおぼえのある声だった。高くてかすれ気味の、男の声。

「──トシさんっ?」

『知ってるやつの番号、おまえとラーメン屋くらいしか入ってなくてさあ、かは、は』

 トシさんは耳に刺さるようなけたたましい笑い声をあげる。ラリってるのだ。なんでトシさんが彩夏の携帯を? そんなの、考えるまでもなかった。彩夏は飛び降りる前、トシさんにっていたのだ。

「今、今どこに──」

『なんかさあ、ビラ出回ってるんだよなあっちこっちに。はかざかさんの顔まで割れてんの、はは、おれアリスのこと見くびってたなあ、あいつ化け物だな』

「あんたあやになにしたんだッ」

『なんで、こんなことになっちゃったんだろな……』トシさんの声に、湿しめった音が混じる。

『彩夏のこともさ。俺もさ。もっと、もっとさあ』

 鼻をすすり上げる音。泣いてる。僕の声なんて聞こえていないのだ。

『もう逃げらんないのかな。俺ら……』

 トシさんの声はどんどんか細くなっていく。

「どこにいるんだ、言えよ!」僕はたたきつけるように叫ぶ。僕の怒声の向こうで、トシさんがつぶやく。

『……なぁ……た……けて……くれよ……』

「ふざけんな、あんた──」

 突然、電話の向こうでなにかが転がり落ちたようなやかましい音がして、僕の言葉を断ち切る。『おまえ、だれとしやべってんだ馬鹿!』別の男の声が叫ぶのが聞こえた。食器だなをひっくり返したような音がその後に続いた。

 僕が思わず携帯電話を耳から離そうとしたとき、聞きおぼえのある男の声が流れ出す。

『……おまえがアリスか?』

 ざらついた声。

「だれ──」

 こうとして、相手が答える前に僕は気づく。最後にトシさんにった日、横断歩道の手前で僕のとなりに立っていた、あの男の声だ。

「あんた──墓見坂だな、どこにいるんだトシさんをどうしたッ!」

『アリスってやつじゃないのか。たんていが俺をさがしてるんだろ? おまえアリスの関係者か』

「答えろよ、あのとき連れてってなにしたんだッ!」

 身を起こし、片手で自転車を引きずりながら、僕は歩き出す。まるで電話口の向こうにいるその男の首に必死にしがみつくみたいに。

『ああ、おまえ、あのときしのざきを追いかけてた高校生か』

 わらっている。墓見坂ろうが、彩夏の携帯を通して僕を嗤っている。耳の穴から流し込まれた煮えたぎる血みたいな怒りが、僕の呼吸を圧迫した。

『探偵に伝えてくれ。見つけてみろよ。俺をつかまえてみろ。おまえたちも俺に届いたら、俺の実験は完成する』

「あんた……なに、が、したいんだ」

『おまえに説明してもだ。おまえには無理だ、こっちには来られない。見たときにわかった。でもできるやつはいる。まだ大勢いる。気づいてないだけだ。おれはそいつらをフィックスする。一人でも多く連れていく』

 はかざかの声がこうこつとして高まったところで、とうとつに通話が切れた。

 僕は親指が折れるほどに何度も何度もあやの番号にリダイヤルした。つながらない。電波が届かないか電源を切っている、と案内音声が冷たく告げる。

 自転車に飛び乗ると、ペダルを思いっきり踏み込んだ。走りながら、なにかわけのわからないことを叫んでいたかもしれない。


    ●


「アリス!」

 308号室のドアを引きがすように開けて中に飛び込む。ベッドの手前にあぐらをかいていたテツせんぱいが驚いてこしを浮かせ、その向こうでアリスのくろかみねる。

「なにごとだナルミ、インタフォンの鳴らし方も忘れて──」

「トシさんから電話あった、今、彩夏の携帯をトシさんが持ってる墓見坂も一緒だ!」

 アリスと目が合った。その一瞬で、通じた。アリスは口をつぐんでキーボードに向き直ると、ものすごい勢いでキーを鳴らしながら、受話器を取り上げてあちこちに電話をかけ始める。

 携帯電話が発する微弱電波を捉えて、衛星でその位置をあくする探知サービス。本来なら、探知先の対象の許可が必要だけど、アリスなら。通話記録さえ割れるほどのクラッカーなら。

「ナルミ、落ち着け。とりあえず座れ」

 テツ先輩が、僕の頭のてっぺんをつかんで押しつぶすようにして冷蔵庫のとなりに座らせた。頭ががんがん痛んで、呼吸がつらくなった。首から下が冷たいのに顔だけがっている。目の前でちかちかした星が飛び交い、くちびるの震えが止まらない。

「ゆっくり息しろ、過呼吸だ。いいか、……一、二、三」

 テツ先輩の大きな手が、僕の背中をゆっくりとさする。握りこぶしくらいある空気のかたまりのどでつっかえているみたいに感じたけど、無理矢理にカウントに合わせて息をした。最初のうち、締めつけられるようだった胸の奥が、だんだんと楽になっていく。



「だめだ。電源が切られている」

 十五分くらい後で、アリスはようやくこちらに顔を向けて言った。僕は冷蔵庫の側面にべったりと背中をくっつけて、まだ荒い呼吸をしていた。テツ先輩が買ってきてくれたスポーツドリンクを一口。

「ナルミ、大丈夫かい」

「……ぅ……」

 うん、と答えようとしたけど、声がうまく出せなかった。テツせんぱいはベッドのはしこしける。

あやの携帯は忘れてたな。くそ」

「ぼくだって見落としていたさ。もっと早く気づいてれば」

 アリスはくやしそうに顔をゆがめて、親指で下くちびるをこする。

「でも通話記録で、少なくともこの近辺にまだいることだけはわかったよ」

「そろそろケツまくって逃げるんじゃねえのか」

「どうかな、たぶん、薬を精製する施設がこの街にあるから、このかいわいを中心に流通しているのだと思う。全部投げ出して逃げるにはそれなりのかくるだろう。……ナルミ、トシはなんて言ってたんだ?」

 問われて、僕はぼんやりとベッドの奥のアリスを見た。自分への質問だということが、しばらくの間はうまく理解できなかった。

 トシさん。トシさんは、電話で、なにをしやべっていたっけ。ビラが出回ってるとか。もう逃げられないとか。それから。それから──

「……助けてくれ、って、言ってた」

 テツ先輩の表情が、ほんのわずか、変わったのがわかった。

「ほんとか?」

 僕はうなずく。

 あの、最後の一瞬。トシさんはたしかに言った。『助けてくれ』。

「アリス。わかったよ」

 僕の言葉に、くろかみが揺れる。

「トシさんがなんで僕にフィックスを見せたのか、わからないって言ってたよね」

「……うん」

「あの日、トシさんは、彩夏に金を借りに来たわけでも、アリスの仕事をスパイしに来たわけでもなかったんだ。ほんとは」

 確証はなかった。でも、僕にはわかった。

「ほんとは、助けてくれって言いに来たんだよ。だけど、言い出せなくて、だれかに、だれでもいいから、気づいてほしくて、それで、それで……」

 トシさんははかざかにも助けを求めたのだろうか。そしてあの男は、手を差し伸べるかわりにピンク色のじようざいを渡したのだろうか。

 なんて馬鹿なんだろう。あのときに言えばよかったのに。それを、なんで今さら。「もう遅いんだよ。馬鹿じゃないのか。もっと早く言えよ、あのときに! 彩夏が飛び降りる前に! なんで言ってくれなかったんだよ! なんで僕になんも言わずに飛び降りたんだよ、なんで、なんで……ッ」

 そのとき僕は、怒っていた。トシさんに対しても、あやに対しても。その二つが頭の中でごちゃごちゃになって、勝手に言葉としてれ出ていた。でもそれを止めることはできなかった。今さら助けてくれだって? あんたのせいで彩夏は植物になっちまったんじゃないか。ふざけるな。ふざけるな!

 冷え切ったフローリングに手をついて、おうするみたいにして僕は言葉をき続けた。



 言葉にならない叫びも吐き出しきって、胃液すら出てこないようになると、じわじわと押しつぶされるような沈黙がやってきた。

 氷結した部屋の中で、最初に動いたのはテツせんぱいだった。ベッドから立ち上がると、僕のとなりを通り抜けてげんかんに向かう。

「やっと本気かい」

 アリスが無表情な声で問う。先輩はドアノブに手をかけ、振り向かないままで答えた。

「馬鹿、ずっと本気だよ。急いでなかっただけ」

「そうか。早くしないと、トシはエンジェルに喰われるか四代目になぐり殺されるからね」

「わかってる」

 ドアが閉まる音が、僕の奥歯にじんじんと響いた。

 アリスはそのときに限ってはなにも言わなかった。ドクターペッパーさえ自分で冷蔵庫から出して飲んだ。僕の隣にしゃがみ込んで。パジャマの生地越しに、僕とアリスのうでれ合った。体温はひどく遠かった。


    ●


 次の日の放課後。

 ひとりで学校のだんすみにかがみ込んで土をいじりながら、もう『ラーメンはなまる』に行くのはやめようかな、とふと思った。なにもやることがないだけじゃなくて──なんか、僕はじやしてるだけみたいな気がしていた。

 たとえなにもできなくても、ひとりでできることを探した方がいいんじゃないだろうか。ビラを持って一日中街をうろつくとかでもいい。ドラムかんの上に座ってなにもせずに待っているだけだと、つぶされてしまいそうだった。

 僕にできること。

 僕にしか、できないこと。

 そんなものあるのだろうか。

 くさった根をシャベルでほじくり返していると、胸ポケットからなにかが土の上に落ちた。

「あ……」

 小さなビニル袋。赤いじようざいが四つ。彫り込まれた天使のつばさ

 昨日きのう、四代目から預かったエンジェル・フィックスだった。そうだ、もともとこれをアリスに届けるために戻ったのに、忘れていた。

 僕は袋を拾い上げて、しばらく冬のぼやけた太陽にかざして見た。

 中庭を、ランニング中の野球部員が走り過ぎる。テニスラケットを持った女の子が二人、それとすれちがう。僕が今、天使を呼べる魔法の薬を持ってるなんて、だれにも思いもよらないだろうな。こんなちっぽけな薬のせいで、もう何人も死んでいるのだ。

 こんな薬のせいで、あやは。

 またとうとつに怒りがいてきた。僕はビニル袋を握りしめ、シャベルを土にざくざくと突き刺しながらこらえた。これはただの薬だ。けいの実からちゆうしゆつして調整して丸く固めただけのものだ。たたつぶして粉にして燃やしてやっても、彩夏が戻ってくるわけじゃない。

 目をつむり、ゆっくりと息をく。

 それから、ビニル袋をまた目の高さに持ち上げ、もう一度自分に言い聞かせる。これはただの薬物だ。

「……ん?」

 なにか、違和感があった。

 正体はわからない。僕はビニル袋を高くかざしたまま、何度も裏返したり向きを変えたりしてみた。なんか……変だ。なにが変なのかわからないけど。

ふじしまくーん!」

 女の人の声が僕の思考をぶったぎった。僕はあわてて薬をポケットに突っ込む。校舎の方から、真っ白なスーツにタイトスカートの先生がけてくるところだった。

「あのね、ごめんね、このへんのはちえ、わきにどけてくれるかな」

 先生は、だんはしに並んだ花の咲いていない鉢を指して言う。

「なんか……あるんですか?」

 き返す僕の声は、まだちょっとぎくしゃくしている。

「卒業アルバムの撮影ね、屋上へいしちゃったでしょ。だから中庭で撮ることになったの。それで場所空けなくちゃいけないから」

 ああ……そんなことか。

「あのう、ひょっとして僕もじやですか」

 小百合先生は苦笑いする。

「そうね、今日は園芸部はできないかな」

 とにかく立ち上がって、どこかへ歩き出せ。しゃがみ込んでくだらないことを考えるのはやめろ。だれかがそう言ってるみたいだった。僕はため息をつくと、こしを上げてひざの土を払った。先生が手伝ってくれたので、はちえをげんかん口まで残らず運び入れるのも、ほんの五分で済んだ。


    ●


 けっきょくその日もラーメン屋に行くことにした。届け物を忘れたままおとなくなるわけにもいかない。

 だれかに薬を渡したらすぐに街にでも足を伸ばすつもりだった。でも勝手口にはだれの姿もない。さすがに時間が早すぎたからだろうか。でもアリスに直接渡すのは気が引けた。きっと僕の顔を見ただけでなにか読みとってしんらつなことを言ってくるにちがいない。

 しかたない、だれか来るまで待つかと思ってドラムかんこしを下ろそうとしたら、スープの仕込みをしていたミンさんが、「みんな上に集まってるぞ」と教えてくれた。

 みんな?

 308号室、NEETたんてい事務所のドアを開けると、奥から聞きおぼえのある男のだみ声が聞こえてきた。

『……おれたちにしか見つけられない、頭に光る羽があって、歌が聞こえる、聞こえる、見える、俺たちには……』

 ベッドの両わきにヒロさんとテツせんぱいが立ち、アリスの正面にはしようが座っている。シーツの上にはピンクのじようざいが入ったビニル袋が大量に積まれ、その上で声をき出し続けているのは、少佐のICレコーダーだった。『クラブ・ハプロイド・ハート』でつかまった売人の声だ。

「警察にパクられたやつもほとんど同じこと言ってるな」テツ先輩がつぶやく。

「頭に光る羽をつけていて、ボブ・ディランをかけているからすぐに見つかる……やれやれ、そんな目立つやつが街にいたらとっくにひらさか組が見つけているはずだね」

 アリスが頭を振って、レコーダーを止めた。

「ナルミ、なんでげんかんにぼうっと突っ立っているんだ。ミーティング中なんだからドアを閉めて、それからドクターペッパーを持ってきてくれたまえ」

「あ……うん」

 会議中か。そうぜつにおじや虫だな、僕。早く出よう。

 ドクターペッパーのかんと一緒に、エンジェル・フィックスの入った袋をアリスに渡す。

「ん? ……ああ、昨日きのう四代目から預かったやつか。まったくきみってやつはよくよく重要なことをするっと忘れるたちなのだね」

「うん……ごめん。じゃ、用事それだけだから」

 部屋を出ていこうとした僕のダッフルコートのすそを、少佐が引っぱった。

「どこに行くんだふじしまちゆうじよう。作戦会議中だぞ」

「いや、だから……じやでしょ?」

「いいから座りたまえよ、きみはぼくの助手だろう、きみが帰ってしまったらこのドクターペッパーを飲みきった後の二本目をだれが持ってくるんだ」

 アリスはいつもとまったく変わらないごうがんな口調で言う。僕の中で色んな言葉がうずを巻いた。でもけっきょく、下くちびるんでそれを押し殺し、わきにどいてくれたしようとなりのスペースにこしを下ろす。せまい。人が五人も集まれる部屋じゃない。

 たとえ邪魔なだけだとしても、ミーティングを聞いていれば、なにか思いつくかもしれないな、と考え直す。なにか、僕にできることを。

「暗号とか、いんなんじゃないの、羽とか歌とかさ」

 ヒロさんが資料をぱらぱらめくりながら言う。

「四代目にうでの骨踏み折られながら、そんなフカシ続けられねえだろ。それに、五人パクられて同じこと言ってるんだぜ」

「売人に共通点がない……というか、こいつら売人じゃないですね。じようざいの状態で買った、第一次きやくというだけで」

「無料でもらっている者もいる。営利団体じゃないのだね、おそらく実験のつもりなんだ」

「じゃあ、ほんとに顔に光る羽があって音楽流してて、それが目印でヤク中が集まってくるんだけど、ヤク中以外にはわからないわけ? うそだろ?」

 みんなの話で、だいたいのところが飲み込める。いまだに、製造組織に直結する人間がつかまってないのだ。こないだ四代目が半殺しにした男も、定期的に買って大量にばらまいていたというだけで、作っている連中のことはなにも知らなかったらしい。

 そんなことってあるだろうか? たとえば警察やひらさか組が、薬を買う振りをして接触すればすぐに見つかるんじゃないのか。

「おれも、フィックス買ったことのあるたどってるんだけどさ、つかまんないんだよね」

「なにかサインがあるはずですよ、定期的に供給されてるのに、おとりそうには引っかからないんだから」

「だから羽と歌だろ」

「意味不明ですよそれ」

 ヒロさんと少佐とテツせんぱいの話し合う声を聞きながら、僕はアリスの足の間に大量に散らばったエンジェル・フィックスの袋をじっと見つめていた。あのとき──学校のだんで覚えた違和感が、再び僕をとらえつつあった。なんだろう、この感覚は。なにが引っかかってる?

 僕は無意識に、袋の一つに手を伸ばしていた。アリスがそれに気づき、「ナルミ?」と声をかけてくるけど、かまわず取り上げる。けいこうとうにかざす。裏返して、もう一度裏返す。そのとき、ようやく気づいた。中の錠剤じゃない。違和感の正体は、だ。

「アリス」

 自分の声が震えているのがわかった。

「──水性ペン、ある?」

「水性ペン?」

「水性インクならなんでもいい、あったら貸して」

 いつの間にか、ほかの三人も黙り込んで僕を見ている。アリスから赤ペンを受け取った僕は、じようざいを取り出した後の袋を壁に押し当てて、すみからペンで塗りつぶした。

「あ」「ああ……」

 驚きの声がだれのものだったのか、僕にわからない。あるいは僕自身の声だったのかもしれない。赤い斜線でほとんどすきなく塗りつぶしたはずの透明な袋──そこに水性インクをはじいて浮かび上がる、いつついの広げたつばさの図案。

「これ……ほとんど透明なインクで、描いてあるのか」

 しようがつぶやき、僕はうなずく。

 どの袋もそうだった。見えないインクで描かれた同じ図案が、水性インクの空白として浮かび上がる。錠剤に刻まれたものと同じ翼と、それに向かい合う反転形の片翼。天使の両翼。

「ナルミ、おまえよくこんなの……気づいたな……」

「……でも、これがどうしたの」

 ヒロさんがたずねる。

「光る羽ですよ。だから警察にもひらさか組にも見つからないんだ」

 僕はそう答えて、赤ペンを入れていない薬の袋を見つめる。こんなの、よほど近くで光にかしてみなければわかるはずがない。

「これが?」

 売人の証言。『頭に光る羽が見える』。『歌が聞こえる』。

 それが、薬でラリった連中の、げんかくではなく──

 すべて、ほんとうのことだとしたら。

 同じインクで、フェイスペイントでもしているのか、あるいはぼうにでもプリントしているのかもしれない。そして、ボブ・ディランをエンドレスで流すウォークマン。ポケットいっぱいの赤い魔法の薬。

「でもなんで買うやつはこれで気づけるんだよ、おかしいだろ」

「エンジェル・フィックスの薬効に、色覚と聴覚の極端な鋭敏化が挙げられているのだよ。そうだね? ナルミ」

 アリスが、かわりに答えてくれた。僕は黙ってうなずく。トシさんはあのとき言っていた。

『止まって見える』。『1ドットの動きもわかる』。『目をつぶっても音だけで勝てる』。

 フィックスすれば──天使が、見えるのだ。

「薬キメてアタマがとがったやつが、見つけてくれるのを待つのか。そんな馬鹿な売り方ってあるか?」

「売り方としてはたしかに馬鹿げているね。でも、もし、としたらどうだい?」

「……なんだそれ」

「実験だよ。薬効がどれほどのものかを確かめるための人体実験だ。この街のけんそうの中からでも、天使の羽と歌を見つけ出すほどの信者を、つくり出せるか否か──」

 アリスは足下のフィックスの袋を一つかみ持ち上げて、またシーツの上にばらまく。

「──そうして彼らの実験は成功した」

 テツせんぱいは、口を半開きにしたまま言葉を失う。

 しばらくの沈黙の後で、ヒロさんがそっと言った。

「……ぜんぶ推測だろ?」

「もちろん」

 アリスはじようざいの山に目を落としたまま、答える。

 でも僕にはそれがほとんど真実だとわかる。だって、はかざかが同じことを言っていたのだ。

「……で、どうするんですか?」

 しようの言葉を最後に、部屋の中から言葉が奪い去られた。

 こおった石油を窓から流し込まれたような、重たい沈黙だった。なぜって、その場にいた五人ともが、次に言うべき言葉を知っていたからだ。たぶん。

 そのとき僕が感じていたのは、全身を締めつけるほどの既視感だった。この場面は知っている、と思った。何千年も、何万年も前から知っている。そんな気がした。それはもちろん錯覚なのだろう。

 でも、僕は今でもこう思う。ひょっとしたら僕は、生まれる前に神様のメモ帳の自分のページを見たのかもしれない。そこに書いてあったほかのことはみんな忘れてしまったけれど、この場面で自分が言うべきせりふだけは、おぼえていたのかもしれない。

 だって、そのときその場所に僕がいた意味があるとしたら──

 他に、ないだろう。

 だから僕はその言葉を、口にした。


「僕が薬を飲むよ。それで売人をさがす」


 となりで少佐が息をんだ。

 アリスは、ただじっと僕の目を見つめてきただけだった。

 テツ先輩は息をき出してPCラックの段にこしを下ろした。

 ヒロさんが、ようやく口を開く。

「ナルミ君に、そんなことさせるわけには……」

「じゃあ、ほかのだれがやるんですか?」

 僕はぴしゃりとヒロさんの言葉をさえぎる。

「僕以外に、この袋の絵を見つけた人いましたか? フィックスしたからってだれでも見つけられるわけじゃないでしょう、だれでもいいならもっと早くにわかってたはずだから」

「いや、でも推測なんだろ」

「じゃあ! 他にどうしようっていうんですか! 僕にできるのはこれしかないんだ、止めるなら勝手にやります」

 僕はフィックスの入った袋を破れそうなほどに握りしめる。

「その薬で死んだやつだっているんだよ、だから」

「ヒロ、黙ってくれ」

 アリスのりんとした声が響いた。

 ヒロさんはほんの一瞬だけ、あつにとられた顔を見せた。それからすぐに、従順なひようみたいにうずくまって頭を垂れる。

 アリスはベッドの上で立ち上がった。くろかみが細いかたを流れ落ちる。機械の壁を従えた小さな女王は、はるかな高みから冷たい目で僕を見下ろした。

「ナルミ。その薬を服用するということは、死ぬことと同義だ。たとえ肉体的に無事だとしてもね。ぼくの言っていることがわかるかい? いや、わからないだろうな。飲んでみるまではわからない。どうしようもないりつはいはんだ」

 僕はじっとアリスの言葉を受け入れる。

「それでも──やるというのなら、ぼくは止めない。だれにも、止めさせたりしない」

 何万年も前から決まっていた。そんな気がした。だから僕は答えをためらわなかった。

「やるよ。もう決めたんだ」

 アリスはかなしそうな目をした。なみだを払うときのように、長いまつげを伏せて、それからまたまぶたを開く。

しよう。極小型マイクとイヤフォン、ぼうにつけるタイプのカメラの用意だ。ヒロとテツは場所と日時を選定してくれたまえ、今からぼくが総合データを地図にまとめる」

「アリス……いいのか」

 ヒロさんが僕をちらと見て、不安げな口調で食い下がる。アリスはそれをいちべつで振り払った。

「他に道がないのなら、この道を進むしかないだろう。それが──」

 そのときのアリスの顔は、ほんとうに、ほんとうに寂しげな、見ていると心臓をじかに細い糸で締め付けられるような、ふとしたはずみでくだけて涙の粒になってしまいそうな、そんな表情だった。

「それがたったひとつのえたやりかた。だから、もうなにも言わないで。きみはきみの仕事をしたまえ」


    ●


 たんてい事務所を最後に出たのは、僕だった。アリスに言われて、居残って書き物をしていたせいだ。外は風が強まっていて、冷房の効いていた部屋の中よりもさらに寒かった。ねむらない街の明かりが夜の底をとげとげしく照らしているのが見えた。星は一つも見えない。

 振り向いて、事務所のかんばんを見つめる。


 It's the only NEET thing to do.


 ほんとうにそうなのだろうか。わからなかった。

 ただ、僕にできるたったひとつのやりかたなのは、たしかだった。あやのためでも、トシさんのためでもない。ほかのだれのためでもない、自分のために。

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