5
次の日から、僕はひどく忙しい生活を送ることになった。授業が終わると、まず
「
花が咲いていない冬場はほっとけばいいんじゃないかというのは僕の勝手な思い込みで、越冬をきちんとしないと来年咲かないのだそうだ。
園芸部を続けている意味は、自分でもよくわからなかった。
部活が終わると、自転車をとばして川を越え首都高をくぐって駅を
その日、僕より先に来ていたのはヒロさんだけだった。
ヒロさんは黒
「……あ、ミカちゃん? おれ、あーそう、ユミの友達の。そうヒロ。はじめまして。あはは。え、ほんと? 呼んでくれれば行ったのに……うん、うん、じゃあ金曜日とかは? ひま?」
僕が古タイヤに腰掛けて感心して見ていると、ヒロさんは右手の携帯を閉じて、
「女の子でもけっこう買ったやつがいるみたい、アレ。でも、だいたいみんな友達から買ったっつってんだよね。たどるのが大変」
「ヒロさん、女の人の知り合い何人くらいいるんですか?」と興味本位で
「うーん? わかんない」
と答えているうちにまた携帯が鳴って、ヒロさんは電話口でストロベリートークを始める。ほとんどひっきりなしだった。その間も指は休むことなく動いている。どうやらテーブルの上の紙は駅周辺の地図らしい。マルイ、パルコ、東急ハンズ、ブックファースト、見慣れた店の名前の間の通りに、赤いボールペンで次々と丸印が描き込まれていく。
「ふぅ」
ようやく一息ついたヒロさんは、携帯をテーブルの上にずらずら並べて(三つだけではなかった、ポケットからさらに二つ出てきた)、背伸びをし、
「これが女子高生用、こっちが奥様用、これは落としてる最中の
「ヒモっていうかジゴロみたいですね……」
ちょっと圧倒されてしまう。
「ヒモとジゴロのちがいってわかる?」
そう言い返されて、僕は首を傾げてしまう。
「ヒモはいちどきに特定の一人だけなの。ジゴロは同時に三人以上愛せないといけない。おれなんか、まだ
「はあ」複雑な世界だなあ。「同時に二人はなんていうんですか?」
「同時に二人のやつは、たいがい女に刺されて死ぬから、名前はついてない」
「なるほど」いや、納得するなよ僕。
「しかし、わかんないなあ、これ。四代目が手こずるのも無理ないよ」
地図を裏返してヒロさんは言う。そこにも、赤ペンで書かれた女の子の名前と数字がずらーっと並んでいた。
「なにがですか」
「安すぎるんだ。それに、知り合いから買ってるやつばっかりで、値段が安定しない。おかしいよ、こんな薬。こんだけ広まってるのに」
じゃあこの数字は値段なのか。相場がわからないから、安すぎるというのは実感できないけど、ゼロがいくつかあるのはわかった。無料で
「あの、こっちの地図は」
「あ、それは買った場所。二重丸は直売人くさいとこ」
僕は
「
後ろから声がした。振り向くと、
「ちょっと下ろすの手伝ってくれ、
「二日徹夜しましたよ」
「だいぶ張り切ったなあ少佐」
「カメラは前から作ってたんで。認識アプリのが時間食いました。こういう特定人物を
「こんなにいっぱい、なにに使うんですか」
「ちょうどいい、
さらりと失礼なことを言われた気がする。少佐は
「一度、外に出てから、ここにまた入ってきてくれ」
なにをやってるのか全然わからないまま、僕は少佐に言われた通りに一度店の前まで出ると、また二人のいるところに戻ってみた。ビルの陰に入ったとたん、少佐のPCがけたたましい警報音を響かせた。僕は驚いて後ずさり、ヒロさんもびっくりしてカメラを落としそうになる。少佐一人がにんまり笑って
「うんうん。さすがに
その後も少佐の指示で、下を向いたままとか横歩きとか首をぐるぐる回しながらとか、色々と馬鹿みたいな
それでようやく僕にも察しがつく。
「僕の顔、見分けてるんですか、それ?」
「その通りだ。至近距離から六面撮影すればこれくらいの精度になる。夏ぐらいに研究室に行ったら、ちょうど教授が実験してたんでアイディアだけもらってきた」
「へえ、面白いなあこれ」とヒロさんはカメラとPCの画面をかわりばんこにのぞき込む。いや、面白いとかそういうレベルじゃないんじゃないか? こんな技術がありながら、なんでこの人、ニートやってんの?
「これ仕掛けてトシ見つけるわけ」
「あんま予算ないんで設置場所かなり
「つーかトシの顔どうすんの。最初に撮らなきゃだめなんだろ?」
「アリスの部屋の防犯カメラ、あれ
あれも
「ところでテツさんは?」
大量のカメラを
「警察行ってるはず」
「ああ、そっちの
「け……警察にも知り合いがいるんですか?」
僕の驚いてる顔がよっぽど面白かったのか、ヒロさんは苦笑した。
「あいつボクシング始める前はよく世話になってたからね。たしか少年課の人がジムに泣きついて、引き取ってもらったんだって。ボクシング始めればケンカしなくなるじゃん?」
けっきょく今はパチプロだけど、とヒロさんは落ちをつける。そんな話聞いたことない。それに、警察の捜査資料はさすがに手に入らないだろ……
と思ってたら、七時を回った頃に『はなまる』に姿を現したテツ
「テツ、ヤニ
「しょうがねえだろ。スロ屋より
「警察も全然進展してないですね」と少佐がノートをぱらぱらめくりながら言う。横からのぞき込むと、鉛筆書きの字がびっしり。テツ先輩がメモったのだろう。ほんとに警察の情報を聞いてきたのか。
三人はぼろい木の台を囲んで、あれやこれやと
もう、僕が首を突っ込む余地はなかった。
そのとき僕がなにをしていたのかというと、ラーメン屋の
「──これ、四代目にも回した方がいいかなあ」
「あいつの組の力借りるの気にくわないんだけど」
「でも情報は共有した方が効率的でしょう」
「おれコピーして持ってくよ。ついでにキャバクラいくつか回ってくる、
「じゃあテツさん、カメラ設置手伝ってくれませんか」
「おう」
洗い場で聞き耳を立てている間に、てきぱきと話がまとまり、三人は散っていってしまった。入れ替わりのように客が何人も続けて入ってきて、僕は騒がしい
よっぽどしょぼくれた顔をしてたのだろうか、ミンさんがぽんぽんと僕の
「……なんか……三人ともやけに慣れてるように見えるんですけど」
「あー、昔からあんなことやってるから、あいつら。アリスの手伝いとかでね。あれだけやれんなら働けよ、って思うだろ」
同感だった。
●
「それができないのが、ニートたるゆえんなのだよ」
アリスはベッドの上で自慢げに言った。いつもの308号室、冷房でぎんぎんに寒いサイバールーム。その日のパジャマ
「世の中の、ニートではない人間のほとんどは、人間の資質がスカラーではなくベクトルであるということを理解できないのだね。口では、だれにだって長所はあるだの人それぞれだの可能性は無限だのと言っておきながら、いざ実際に評価しようとすると一次元の世界しか想定できない」
「……ミンさんも理解できてないってこと?」
「マスターはちがう。だれにだって長所はあるとか人それぞれだとか可能性は無限だとかくだらないことは言わないからね。ぼくらの宿命をわかった上での、純粋に実利面だけを考慮した説教だよ。しかしそれは少数派だ。ほとんどの人間は、可能性が無限であるということがほんとうはどういうことなのか理解し得ない。自分が乗っている船の後ろの方で、自分とは逆向きにものすごい力で
まあ……それはそうかもしれないけど。
「だから、きみみたいなのが方向性をもたらすと、ああなるのだよ。テツや
あのとき、三人の目に浮かんでいた燃え立つような生気を思い出す。アリスの言う通りかもしれなかった。
「
アリスは
「神様は
「……でも、きみだってそうだろう?」
アリスが言う。
「なにをすればいいのか、わからないんだ。だから、知ってもどうしようもないことを、それでも知ろうとして、もがいて、もがいて、もがいてるんだ」
アリスの言う通りだった。だから僕はなにも答えなかった。
「どうしてだろうね。どうしてぼくらは、もう失われてしまったものにしか目が向けられないんだろう」
そこでアリスの言葉は
僕が立ち上がって冷蔵庫からドクターペッパーを持ってきて、アリスの目の前に置いたとき、ちょうどアリスはちゅるちゅると麵の最後の一本を食べ終わるところだった。
「きみもこれに関してだけは気が利くようになったなあ」
アリスは笑ってプルタブを起こす。僕はベッドの足下にしゃがみ込んで膝を
「
「ナルミ」
呼ばれて僕は顔を上げる。
アリスが、くいくいと手招きしている。……え、なに? そばに寄れってことだろうか。僕はいぶかしく思いながらも、膝立ちになる。
「よしよし」
頭なでられた。
「な」なにをする。僕は思わず
「その反応ははじめてだな。ヒロは喜ぶし、四代目とかはいやそうな顔はしても逃げないのだけれど」
「いや……あの、その、男の人にあんまそういうことむやみにしない方がいいですよ?」
「ん? どうしてだい?」
どうしてって。うまく説明できないけど。
「能がないなどときみが言うからじゃないか。ぼくの話を聞いていなかったのかい。人間にはだれでも長所があって無限の可能性があるというありがたーい話をしていたのに」
いや、それくだらないこととか言ってなかった?
「でも、きみがなにかできたとしても、きみを
アリスの静かな声で、僕の全身が
入り口
「きみにだってベクトルはある──けれど、その指し示す先には、もうなにもない。たどり着けた場所には、
アリスはベッドから下りて、僕に近づいてくる。彼女が少し
●
それから何日かは、なんの動きもなかった。
僕は毎日、学校帰りに『ラーメンはなまる』に顔を出したけど、とくにやることもない。ヒロさんは風俗店やキャバクラを回っていたし、
店を手伝わせてくださいと言おうと思ったら、ミンさんは鋭く察したのか、引きつった表情を浮かべて言った。
「いや……あれだ、おまえ家事の得意な
ひどい言われようだったけど、こないだ
一月も残り少なくなってきた頃に、大きいニュースがあった。僕はそれを登校前に自宅のテレビで見た。中年の男性アナウンサーが、見事に抑制されたほんの1ミリグラムほどの
「……で集団薬物中毒が発生しました。午後十一時頃、深夜営業のダンスクラブで、六名の男女が突然倒れ、……」
パルコのそばにある、僕でも名前だけは知っている有名なクラブだった。もちろん薬がなんだったのかなんてことはアナウンサーは言わない。
でも、その日の夜八時くらいに久しぶりに『はなまる』に顔を出したテツ
「四代目の方にもなんにも引っかからないんですか?」
「警察より大勢突っ込んでるはずなんだけどな。
「あのう」
僕は遠慮がちに口をはさんだ。テツ先輩と少佐が同時にこっちを向くので、ちょっと口ごもってしまう。
「……僕もそれ、手伝えませんか。人海戦術」
先輩は首を傾げる。
「四代目に言ってみれば。たぶんだめだと思うけど」
「え、ど、どうして」
「あいつ、なんかナルミのこと苦手みたいだぞ? 二、三回しか
「そ、そんな」
「ってのは置いとくとして、高校生だからだめだな。あいつ、あれでけっこうまともぶってるから、学校行ってるやつは仲間にしないんだ。かたぎになれるやつはかたぎになれってね」
そうか。僕はニートですらないんだもんな。がっくり
「なんだよ。一人増えようがなんも変わんないよ。ナルミはクライアントなんだから、なんもしないでどーんと構えてろどーんと」
それじゃ意味がないのだ。アリスに全部任せて、ドクターペッパー運びだけやらされているのと、なんのちがいもない。だれの手を借りてもいいけれど、僕が、この僕が、この手で、
たとえ埋まらないとわかっていても。
埋まらないのだ。だって、彩夏はもう
彼女にとって、僕はたぶん、その程度の存在だったんだろう。
今さらどうしようもない。
僕のうじうじした思考を断ち切るのは、いつもの『コロラド・ブルドッグ』の着メロだった。少佐もテツ先輩も立ち上がる。でも、今回は鳴っているのは少佐の携帯だけだった。
『ぼくだ。
レコーダー?
「持ってきてるが。なにに使うんだ」
その後、アリスと少佐は電話越しにしばらく言葉を交わした。電話を切った少佐は僕らを見回して言う。
「四代目のとこのを刺した売人が見つかったそうです。組の直営店で飲んでるとこを押さえられたって。ナイフ抜いて暴れたとか」
僕もはっとして立ち上がった。ついに、売人が見つかった。動き出したのだ。
「アホかそいつは。
「テツさんとヒロさんが調べた中に入ってたんですよ、その店。
「で、アリスはなんだって?」
「
「ああ、それでレコーダーか。でも、もう四代目がボコってる最中じゃね?」
「四代目もまだその店には着いてないらしいんで、急げって」
「さっさとしねえとあいつボロ
テツ先輩の言葉に、僕はぞっとした。
「自分、今日は歩きなんですよね。
「ナルミ、自転車だろ。後ろに乗っけてけよ」
え?
「四代目の手伝いしたいんだろ。話してみれば」
「でも」
「いいから行けよ。じっとしてらんないんだろ?」
その通りだった。どうしてだろう、テツ先輩は僕の考えてることがみんなわかるみたいだ。それとも、僕のしょぼくれた顔がわかりやすいだけだろうか。
「よし行こう
少佐が僕の
●
『クラブ・ハプロイド・ハート』というその店は、東急プラザの裏側の飲み屋ばかりが並ぶ通り、こぢんまりしたビルの地下にあった。
「外で
「ここまでアシに使っておいてそれはないです」
こういう店は入るのがはじめてなので緊張する。
階段のどん詰まり、分厚くて重い扉を開くと、中は
「あのう、高校生の方はぁ、入店お断りしてるんですけれど」
おかまっぽい黒のメッシュのセーターを着たカウンターの男が言って、僕をじろりとにらみ、それから、夜のクラブにはいかにもそぐわないアーミーファッションの少佐を頭のてっぺんからねめ回した。そういえば僕は学校からそのまんま来たので制服だった。
「いや自分らは客じゃない。
少佐はしれっと
「はあ、壮さんにですか」
「ついさっきトラブルがあったろう、その関係で──」
「
鋭い声がして、少佐は二センチくらい
「そ、壮さん、お疲れさまですっ」
カウンターのおかまが頭のてっぺんから
「
岩男と電柱は声をハモらせて僕にだけ頭を下げる。少佐は
「なにしに来た。またアリスが余計なこと言ったのか」
「
少佐は
「そっちの園芸部はなんでついてきてんだよ」
「藤島中将はアリスの助手らしいから」
「あー、もう、わかったよめんどくせえな」四代目は僕と少佐を押しのけてカウンターに顔を突っ込む。「
「は、はい」
奥の扉を開けるとき、四代目が振り向いて言った。
「園芸部、せめてブレザー脱いでネクタイはずせ」
店内は異次元空間だった。ちょうどスローテンポのナンバーがかかっている最中で、奥のステージだけが黒海の夜明けみたいな陰気なオレンジ色に浮かび上がって、色違いのシャツを四枚くらい重ね着した変なファッションのラッパーが、聴いている人間の心を落ち着かなくさせる六連符で低くつぶやいている。リズムに合わせて
先頭が四代目、
「あ、
「やだ壮くん久しぶり! こんな時間にいるなんて珍しいね」
仕事帰りのOLらしき女の人の集団に四代目が囲まれてしまった。
「悪いけど今忙しい。後で」
「えー」
「ねえさっきすごかったんだよ、頭おかしいのがナイフ持って暴れてさ。
「でもライヴ中止にならなくてよかったよ。今日のゲストDJ、もっさんだよ聴いていこうよ壮くん」
岩男が歯をむいて
ドアを開けた瞬間、
金属製の
「お疲れさんス!」
「お疲れさんス!」
「
倉庫の壁際の
「かなりいっぱい持ってましたよ」
メンバーの一人が、四代目にひとつかみのビニル袋を差し出す。小さな袋に小分けして入れられた
「最近、出回る量が増えてるな」
「在庫
「ぉ、お、ご、」
倒れていた男が身をよじりながら四代目の脚にからみつこうとした。黒Tシャツがその腹を
四代目はジャケットを脱いで後ろの電柱に放ると、かがみ込んで、男の乱れた髪をつかんだ。顔をねじ曲げて自分の
「この
男は答えのかわりに
「フィックスを作ってるやつらと、どうやって連絡を取ってる? やつらはどこにいるんだ?」
四代目の低い声。それにかぶさるように、ジャンキーの
「連絡なんか、取らない。やつらはそこにいるんだ。
「寝言ぬかすんじゃねえ」
メンバーの一人が男の背中を
「おまえらに見えないだけだ、光る羽。俺たちには見える。ゴミどもの中で、歌が導いてくれる。聞こえないだろう。おまえらクズには聞こえないだろう。ディランだ。ボブ・ディラン。『ノッキン・オン・ヘヴンズ・ドア』だ。エンジェルが俺をフィックスして」
エンジェル。エンジェルは差別しない。トシさんの言葉だ。僕は思わず、組員のでかい背中を押しのけ、男のそばに
「
ポケットから、六人分の顔写真が
「この人です。見ませんでしたか」
「
黒Tシャツに
「あれが見えないおまえらは、あれが聞こえないおまえらはそのまま死ねばいい。殺して、こ、殺してやるよ、
メンバーがこめかみに血管を浮かせて手を振り上げた。
ぴし、と音がしてその
「……
四代目は、つかんだ部下の手首をゆっくりと下ろした。
「
「なにするかわかりませんよこいつ」
「いいから。こんなクズでも裁判は必要だ」
裁判?
「そら。
足下に投げられたナイフを男は
「
黒Tシャツの背中が数人がかりで壁をつくって僕と
「あ、
「
少佐が
うつぶせになった男の頭のまわりの
「……お疲れさんス」
「お疲れさんス」
平坂組メンバーが、
「園芸部。おまえ外出てろ。こっからはガキの見せ物じゃねえ」
「え……」
「
僕がなにか言うひまもなく、メンバー二人がかりで
僕は、
やがてドアの向こうから聞こえてきたとぎれとぎれのうめき声は、ずっとずっと後になっても僕の耳にこびりついたまま落ちなかった。
●
廊下の
少佐に続いて出てきた四代目の
「……あの人は?」
「わけのわかんねえことしか
まだ? まだ殺してない?
じゃあ、聞き出すことがないやつはどうするんだ。
「少佐、これ一袋、またアリスんとこに持ってってくれ」
「成分が変わってるんですか」
「かもしれない。最近、病院行きが増えてる。少量で飛べるんでアホなガキは大喜びだけどな、どうも混ぜものが増えてるらしい」
混ぜものが増えてる。それは、ひょっとして、原材料の供給が減ってしまったせいなんじゃないのか、と僕は気づく。
少佐は四代目から受け取った
「
「おい、ちょっと待て高校生にそんなもん運ばせんな」
少佐は四代目の方に振り向いて
「藤島中将なら大丈夫ですよ。この通り顔も背格好も目立たないの
大きなお世話だ。
「なんでおまえが届けないんだよ」四代目は
「テープ編集しなきゃいけないでしょう。四代目が関節外す音とか、四代目が奥歯をへし折る音とか、四代目が腕の骨を踏みつぶす音とかは、アリスには聴かせられないから」
「おまえ、ほんとにいやなやつだな」
「そりゃどうも」
倉庫のドアから電柱が顔を出した。
「
「頼む」
四代目は
「──あの」
僕の声に、四代目はいつもひどく敏感に反応する。まるで首筋に不愉快な羽虫がとまったときみたいに。
ここは僕が呼吸できる世界じゃないのだ。
●
クラブからラーメン屋に戻る途中、公園
がしゃん、と音がした。
アスファルトの上に
「……あの」
『……お? あ? あ、ああ、ああ、やっぱりこの番号おまえか、あ、はは、は』
聞き
「──トシさんっ?」
『知ってるやつの番号、おまえとラーメン屋くらいしか入ってなくてさあ、かは、は』
トシさんは耳に刺さるようなけたたましい笑い声をあげる。ラリってるのだ。なんでトシさんが彩夏の携帯を? そんなの、考えるまでもなかった。彩夏は飛び降りる前、トシさんに
「今、今どこに──」
『なんかさあ、ビラ出回ってるんだよなあっちこっちに。
「あんた
『なんで、こんなことになっちゃったんだろな……』トシさんの声に、
『彩夏のこともさ。俺もさ。もっと、もっとさあ』
鼻をすすり上げる音。泣いてる。僕の声なんて聞こえていないのだ。
『もう逃げらんないのかな。俺ら……』
トシさんの声はどんどんか細くなっていく。
「どこにいるんだ、言えよ!」僕は
『……なぁ……た……けて……くれよ……』
「ふざけんな、あんた──」
突然、電話の向こうでなにかが転がり落ちたようなやかましい音がして、僕の言葉を断ち切る。『おまえ、だれと
僕が思わず携帯電話を耳から離そうとしたとき、聞き
『……おまえがアリスか?』
ざらついた声。
「だれ──」
「あんた──墓見坂だな、どこにいるんだトシさんをどうしたッ!」
『アリスってやつじゃないのか。
「答えろよ、あのとき連れてってなにしたんだッ!」
身を起こし、片手で自転車を引きずりながら、僕は歩き出す。まるで電話口の向こうにいるその男の首に必死にしがみつくみたいに。
『ああ、おまえ、あのとき
『探偵に伝えてくれ。見つけてみろよ。俺をつかまえてみろ。おまえたちも俺に届いたら、俺の実験は完成する』
「あんた……なに、が、したいんだ」
『おまえに説明しても
僕は親指が折れるほどに何度も何度も
自転車に飛び乗ると、ペダルを思いっきり踏み込んだ。走りながら、なにかわけのわからないことを叫んでいたかもしれない。
●
「アリス!」
308号室のドアを引き
「なにごとだナルミ、インタフォンの鳴らし方も忘れて──」
「トシさんから電話あった、今、彩夏の携帯をトシさんが持ってる墓見坂も一緒だ!」
アリスと目が合った。その一瞬で、通じた。アリスは口をつぐんでキーボードに向き直ると、ものすごい勢いでキーを鳴らしながら、受話器を取り上げてあちこちに電話をかけ始める。
携帯電話が発する微弱電波を捉えて、衛星でその位置を
「ナルミ、落ち着け。とりあえず座れ」
テツ先輩が、僕の頭のてっぺんをつかんで押し
「ゆっくり息しろ、過呼吸だ。いいか、……一、二、三」
テツ先輩の大きな手が、僕の背中をゆっくりとさする。握り
「だめだ。電源が切られている」
十五分くらい後で、アリスはようやくこちらに顔を向けて言った。僕は冷蔵庫の側面にべったりと背中をくっつけて、まだ荒い呼吸をしていた。テツ先輩が買ってきてくれたスポーツドリンクを一口。
「ナルミ、大丈夫かい」
「……ぅ……」
うん、と答えようとしたけど、声がうまく出せなかった。テツ
「
「ぼくだって見落としていたさ。もっと早く気づいてれば」
アリスは
「でも通話記録で、少なくともこの近辺にまだいることだけはわかったよ」
「そろそろケツまくって逃げるんじゃねえのか」
「どうかな、たぶん、薬を精製する施設がこの街にあるから、この
問われて、僕はぼんやりとベッドの奥のアリスを見た。自分への質問だということが、しばらくの間はうまく理解できなかった。
トシさん。トシさんは、電話で、なにを
「……助けてくれ、って、言ってた」
テツ先輩の表情が、ほんのわずか、変わったのがわかった。
「ほんとか?」
僕はうなずく。
あの、最後の一瞬。トシさんはたしかに言った。『助けてくれ』。
「アリス。わかったよ」
僕の言葉に、
「トシさんがなんで僕にフィックスを見せたのか、わからないって言ってたよね」
「……うん」
「あの日、トシさんは、彩夏に金を借りに来たわけでも、アリスの仕事をスパイしに来たわけでもなかったんだ。ほんとは」
確証はなかった。でも、僕にはわかった。
「ほんとは、助けてくれって言いに来たんだよ。だけど、言い出せなくて、だれかに、だれでもいいから、気づいてほしくて、それで、それで……」
トシさんは
なんて馬鹿なんだろう。あのときに言えばよかったのに。それを、なんで今さら。「もう遅いんだよ。馬鹿じゃないのか。もっと早く言えよ、あのときに! 彩夏が飛び降りる前に! なんで言ってくれなかったんだよ! なんで僕になんも言わずに飛び降りたんだよ、なんで、なんで……ッ」
そのとき僕は、怒っていた。トシさんに対しても、
冷え切ったフローリングに手をついて、
言葉にならない叫びも吐き出しきって、胃液すら出てこないようになると、じわじわと押し
氷結した部屋の中で、最初に動いたのはテツ
「やっと本気かい」
アリスが無表情な声で問う。先輩はドアノブに手をかけ、振り向かないままで答えた。
「馬鹿、ずっと本気だよ。急いでなかっただけ」
「そうか。早くしないと、トシはエンジェルに喰われるか四代目に
「わかってる」
ドアが閉まる音が、僕の奥歯にじんじんと響いた。
アリスはそのときに限ってはなにも言わなかった。ドクターペッパーさえ自分で冷蔵庫から出して飲んだ。僕の隣にしゃがみ込んで。パジャマの生地越しに、僕とアリスの
●
次の日の放課後。
ひとりで学校の
たとえなにもできなくても、ひとりでできることを探した方がいいんじゃないだろうか。ビラを持って一日中街をうろつくとかでもいい。ドラム
僕にできること。
僕にしか、できないこと。
そんなものあるのだろうか。
「あ……」
小さなビニル袋。赤い
僕は袋を拾い上げて、しばらく冬のぼやけた太陽にかざして見た。
中庭を、ランニング中の野球部員が走り過ぎる。テニスラケットを持った女の子が二人、それとすれちがう。僕が今、天使を呼べる魔法の薬を持ってるなんて、だれにも思いもよらないだろうな。こんなちっぽけな薬のせいで、もう何人も死んでいるのだ。
こんな薬のせいで、
また
目をつむり、ゆっくりと息を
それから、ビニル袋をまた目の高さに持ち上げ、もう一度自分に言い聞かせる。これはただの薬物だ。
「……ん?」
なにか、違和感があった。
正体はわからない。僕はビニル袋を高くかざしたまま、何度も裏返したり向きを変えたりしてみた。なんか……変だ。なにが変なのかわからないけど。
「
女の人の声が僕の思考をぶったぎった。僕はあわてて薬をポケットに突っ込む。校舎の方から、真っ白なスーツにタイトスカートの
「あのね、ごめんね、このへんの
先生は、
「なんか……あるんですか?」
「卒業アルバムの撮影ね、屋上
ああ……そんなことか。
「あのう、ひょっとして僕も
小百合先生は苦笑いする。
「そうね、今日は園芸部はできないかな」
とにかく立ち上がって、どこかへ歩き出せ。しゃがみ込んでくだらないことを考えるのはやめろ。だれかがそう言ってるみたいだった。僕はため息をつくと、
●
けっきょくその日もラーメン屋に行くことにした。届け物を忘れたまま
だれかに薬を渡したらすぐに街にでも足を伸ばすつもりだった。でも勝手口にはだれの姿もない。さすがに時間が早すぎたからだろうか。でもアリスに直接渡すのは気が引けた。きっと僕の顔を見ただけでなにか読みとって
しかたない、だれか来るまで待つかと思ってドラム
みんな?
308号室、NEET
『……
ベッドの両
「警察にパクられたやつもほとんど同じこと言ってるな」テツ先輩がつぶやく。
「頭に光る羽をつけていて、ボブ・ディランをかけているからすぐに見つかる……やれやれ、そんな目立つやつが街にいたらとっくに
アリスが頭を振って、レコーダーを止めた。
「ナルミ、なんで
「あ……うん」
会議中か。
ドクターペッパーの
「ん? ……ああ、
「うん……ごめん。じゃ、用事それだけだから」
部屋を出ていこうとした僕のダッフルコートの
「どこに行くんだ
「いや、だから……
「いいから座りたまえよ、きみはぼくの助手だろう、きみが帰ってしまったらこのドクターペッパーを飲みきった後の二本目をだれが持ってくるんだ」
アリスはいつもとまったく変わらない
たとえ邪魔なだけだとしても、ミーティングを聞いていれば、なにか思いつくかもしれないな、と考え直す。なにか、僕にできることを。
「暗号とか、
ヒロさんが資料をぱらぱらめくりながら言う。
「四代目に
「売人に共通点がない……というか、こいつら売人じゃないですね。
「無料でもらっている者もいる。営利団体じゃないのだね、おそらく実験のつもりなんだ」
「じゃあ、ほんとに顔に光る羽があって音楽流してて、それが目印でヤク中が集まってくるんだけど、ヤク中以外にはわからないわけ?
みんなの話で、だいたいのところが飲み込める。いまだに、製造組織に直結する人間が
そんなことってあるだろうか? たとえば警察や
「おれも、フィックス買ったことのある
「なにかサインがあるはずですよ、定期的に供給されてるのに、
「だから羽と歌だろ」
「意味不明ですよそれ」
ヒロさんと少佐とテツ
僕は無意識に、袋の一つに手を伸ばしていた。アリスがそれに気づき、「ナルミ?」と声をかけてくるけど、かまわず取り上げる。
「アリス」
自分の声が震えているのがわかった。
「──水性ペン、ある?」
「水性ペン?」
「水性インクならなんでもいい、あったら貸して」
いつの間にか、
「あ」「ああ……」
驚きの声がだれのものだったのか、僕にわからない。あるいは僕自身の声だったのかもしれない。赤い斜線でほとんど
「これ……ほとんど透明なインクで、描いてあるのか」
どの袋もそうだった。見えないインクで描かれた同じ図案が、水性インクの空白として浮かび上がる。錠剤に刻まれたものと同じ翼と、それに向かい合う反転形の片翼。天使の両翼。
「ナルミ、おまえよくこんなの……気づいたな……」
「……でも、これがどうしたの」
ヒロさんが
「光る羽ですよ。だから警察にも
僕はそう答えて、赤ペンを入れていない薬の袋を見つめる。こんなの、よほど近くで光に
「これが?」
売人の証言。『頭に光る羽が見える』。『歌が聞こえる』。
それが、薬でラリった連中の、
すべて、ほんとうのことだとしたら。
同じインクで、フェイスペイントでもしているのか、あるいは
「でもなんで買うやつはこれで気づけるんだよ、おかしいだろ」
「エンジェル・フィックスの薬効に、色覚と聴覚の極端な鋭敏化が挙げられているのだよ。そうだね? ナルミ」
アリスが、かわりに答えてくれた。僕は黙ってうなずく。トシさんはあのとき言っていた。
『止まって見える』。『1ドットの動きもわかる』。『目をつぶっても音だけで勝てる』。
フィックスすれば──天使が、見えるのだ。
「薬キメてアタマが
「売り方としてはたしかに馬鹿げているね。でも、もし、その供給手段そのものが目的だったとしたらどうだい?」
「……なんだそれ」
「実験だよ。薬効がどれほどのものかを確かめるための人体実験だ。この街の
アリスは足下のフィックスの袋を一つかみ持ち上げて、またシーツの上にばらまく。
「──そうして彼らの実験は成功した」
テツ
しばらくの沈黙の後で、ヒロさんがそっと言った。
「……ぜんぶ推測だろ?」
「もちろん」
アリスは
でも僕にはそれがほとんど真実だとわかる。だって、
「……で、どうするんですか?」
そのとき僕が感じていたのは、全身を締めつけるほどの既視感だった。この場面は知っている、と思った。何千年も、何万年も前から知っている。そんな気がした。それはもちろん錯覚なのだろう。
でも、僕は今でもこう思う。ひょっとしたら僕は、生まれる前に神様のメモ帳の自分のページを見たのかもしれない。そこに書いてあった
だって、そのときその場所に僕がいた意味があるとしたら──
他に、ないだろう。
だから僕はその言葉を、口にした。
「僕が薬を飲むよ。それで売人を
アリスは、ただじっと僕の目を見つめてきただけだった。
テツ先輩は息を
ヒロさんが、ようやく口を開く。
「ナルミ君に、そんなことさせるわけには……」
「じゃあ、
僕はぴしゃりとヒロさんの言葉を
「僕以外に、この袋の絵を見つけた人いましたか? フィックスしたからってだれでも見つけられるわけじゃないでしょう、だれでもいいならもっと早くにわかってたはずだから」
「いや、でも推測なんだろ」
「じゃあ! 他にどうしようっていうんですか! 僕にできるのはこれしかないんだ、止めるなら勝手にやります」
僕はフィックスの入った袋を破れそうなほどに握りしめる。
「その薬で死んだやつだっているんだよ、だから」
「ヒロ、黙ってくれ」
アリスの
ヒロさんはほんの一瞬だけ、
アリスはベッドの上で立ち上がった。
「ナルミ。その薬を服用するということは、死ぬことと同義だ。たとえ肉体的に無事だとしてもね。ぼくの言っていることがわかるかい? いや、わからないだろうな。飲んでみるまではわからない。どうしようもない
僕はじっとアリスの言葉を受け入れる。
「それでも──やるというのなら、ぼくは止めない。だれにも、止めさせたりしない」
何万年も前から決まっていた。そんな気がした。だから僕は答えをためらわなかった。
「やるよ。もう決めたんだ」
アリスは
「
「アリス……いいのか」
ヒロさんが僕をちらと見て、不安げな口調で食い下がる。アリスはそれを
「他に道がないのなら、この道を進むしかないだろう。それが──」
そのときのアリスの顔は、ほんとうに、ほんとうに寂しげな、見ていると心臓を
「それがたったひとつの
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振り向いて、事務所の
ほんとうにそうなのだろうか。わからなかった。
ただ、僕にできるたったひとつのやりかたなのは、たしかだった。