人生には取り返しのつかないことがあると云う人とないと云う人がいて、僕は当然のように前者の支持者だったのだけれど、ひょっとして取り返しのつかないことというのはつまるところ死ぬことであって、その瞬間それは人生のはんちゆうから除外されるために結果として取り返しのつかないことなんて存在しないという理屈が成り立つのじゃないだろうか──なんてことを屋上に出る扉の真ん中にテープでられた『立入禁止』のわらばんを見ながらふと考えた。

 では他人の死はどうだろう。取り返しのつかないことだろうか。たしかにその人はもう生き返ったりはしないけれど、その人のためにけてあった自分の中の部屋を、別の人でめたり、あるいは人じゃないがらくたで埋めたり、扉を閉ざしてガムテープでびっちりすきをふさいで忘れてしまうことはできる。そうすることができない不器用なやつは自分も手首を切ってとっくに死んでるから、やっぱり人生に取り返しのつかないことなんてないのだ。なんて、先週までの僕なら回心してしまったかもしれない。でも、今の僕は。死ですらないものをこの目で見た今の僕は、もっとろくでもない教義にとりつかれていた。

 

 それが確かに正しいことなのかどうかは、わからないけれど。

 一つ確かなことは、屋上に出る扉に鍵がかかっているということだった。屋上はしばらく完全ふうらしい。あやが飛び降りたのは、僕らがいつもはちえを世話していたこちら側ではなく、反対側の北校舎なんだけど、そういう問題でもないんだろう。

 ドアノブをしばらくがちゃがちゃやってから、あきらめて階段を下りた。どうも僕はたんてい助手に向いていないのかもしれない。できるやつなら、口はつちよう手八丁でなんとか屋上の鍵を借り出したり、あるいはあまどい伝いによじ登ったりして目的を達しただろうけど。


    ●


 探偵助手。

 僕とアリスとの間に雇用(?)契約が成立した、次の日のこと。アリスは僕を呼び出すと、彩夏について知っていることを思い出せる限り洗いざらいしやべらせた。全然気をつかわないやつなのだ。僕がその苦痛に満ちた一時間の供述を終えると、アリスはあっさりと言った。

「うん。わかった。全部つながった」

 なにがだ。でもアリスは教えてくれなかった。

「ぼくが今のところ知っているのは、真実であって事実ではないのだよ」と、わけのわからないことを言う。

「それ……どうちがうの?」

「真実を支えるのは究極的にはただの直観に過ぎない。ぼく自身はそれで事足りるけれど、そんなものを依頼者に提供して職務完遂とするのはぼくのきようが許さないというわけさ」

「ええと。……しようがないってこと?」

「わかりやすく言えばそうなるな。だからきみにも雑務を手伝ってもらうのだよ。それに、きみが依頼した件の情報料は労働で支払うのだろう。今教えてしまったら対価を得られないじゃないか。それでも事実を飛び越して真実だけ知りたいというのなら、自分で動くのだね。さあ、かくしされたロバのように働きたまえ」

 前の日に僕の手を握って泣きそうになっていたのがうそみたいに、アリスはいつもの調子で言った。

「今まで通り園芸部の活動をして、彩夏がふれたすべての場所をよく観察すること。それがきみの最初の仕事だ」


    ●


 だから僕は次にだんに向かった。

 放課後の中庭はひとがない。受験シーズンだからとか、冬だからとかいう理由もあるだろうけれど、だんと校舎の間のコンクリートゆかに広がった黒い大きなしみも理由の一つだろう。僕は黒いしみのそばに立ってじっとそれを見つめた。僕がはじめて見たリアルな死の気配は、まだそこに残っていた。雨や雪でいつかは洗い流されてしまうだろうけれど、そのときはまだくっきりとコンクリートに刻み込まれていた。

 ほかには、なにもない。

 こんなことをしてなんになるんだろう。アリスは、あやが飛び降りた理由を知っていると言った。でもしよは見つかっていないし、警察も沈黙している。週刊誌が、あまり優良とはいえなかった彩夏の家庭環境についてさわぎ立てているだけだ。他人には見えないものが、マシンにめ尽くされたあの小さな部屋からは見えているんだろうか。

 考えていてもしかたのないことだった。最後に残った場所、校舎裏の温室に行った。彩夏の聖域。職員室から借りてきた鍵で扉を開くと、むっと強い草のにおいがあふれてくる。

 床面積はたぶん僕の部屋の倍くらいだろう。十二じようってところ。かんさんとしている。目につく植物は、左右のラックに並んだ、しおれかけた熱帯植物のはちくらいだ。花は一つも咲いていない。あれから、だれかが片づけたんだろうか。

 見上げると、てんじようにはじゆうおうにパイプが張りめぐらされ、ところどころにはすの実のようなスプリンクラーがついている。たぶん自動で水や薬液をけるんだろう。補光装置もある。都立の普通高校なのに、なんでこんなに立派な温室があるのかわからない。予算が余ってたのか。

 僕はラックの下段にこしを下ろし、たないている部分に上半身を横たえた。目を閉じ、ぬるま湯のような土のにおいに身体からだを任せる。

 トシさんは見つかっていない。彩夏はもういない。僕の場所には、もう僕ひとりしかいない。病院とこうじよにぶち込まれる麻薬中毒患者だけが日に日に増えていく。

 とうとつに胸ポケットの携帯電話が震える。僕は驚いて身を起こし、ラックの上の段に頭をぶつけてしまった。

『ぼくだ。ちゃんと仕事をしているかい。寝転がってくだらないもうそうをかき回していたんじゃないだろうね。ぼくはニートだが他人のたいには厳しいからおぼえておきたまえ』

 電話の向こうから聞こえてくる少女の声。僕は思わず温室の中を見回してしまう。まさかカメラでも仕掛けられてるんじゃないだろうな。

『今、まだ学校だね?』

「……うん。温室に来てる。ちゃんと見て回ってるよ、言われた通り」

『それはちょうどよかった。きみに確かめてもらいたいことがある。その温室には出入り口が二つあるだろう?』

 ……え?

 僕は立ち上がった。出入り口が二つ?

 入ってきた扉の反対側に、たしかに、もう一つ同じ造りのスティールドアがある。

 どうしてアリスがそんなことを知ってるんだろう。温室には二つ扉をつけるのが普通なのだろうか。それともネットをぎ回って調べたのか。

『もう一つの方を開けてみてくれたまえ』

「でも。向こう側、すぐ壁だよ」

 温室は学校の敷地の角、へいに押しつけられるようにして建っているのだ。

『そんなことを知らないぼくだとでも思っているのかい。いいから言う通りにしたまえよ』

 奥の扉の鍵を外し、ノブを回して押してみると、ごりっ、と音がしてすぐににぶかんしよくにぶつかった。十センチくらいしか開かない。

「開かないよ」

『……聞こえたかい? うん、じゃあそのへんだ。……板? ああ、おそらくそれだろうな』

 いきなりアリスは変なことを言い出す。声がちょっと遠い。あ、ひょっとして別のだれかとしやべっているんだろうか、なんてことを考えていたら、目の前のドアがいきなり外へと開いた。ノブを握ったままの僕はつんのめって転びそうになる。

 ドアの向こうに人影があった。顔を上げた僕の目と、もうじゆうめいた鋭い目が合う。僕は一瞬、頭が真っ白になった。

 四代目だ。

 なんで四代目が? ていうかどうしてドアが開くの?

 なにが起きてるのか、わからない。

 四代目は手にした携帯で「開いた。ああ。間違いないな。……うん。……いや、もう始末されてる。なんもねえ。張り込んでもだろ」としやべっている。それに答えるのは、僕がさっきまで聞いていた声。

『じゃあ、後はそっちに任せたよ。目の前にナルミがほうけた顔で転がってると思うから説明は四代目がしてくれたまえ。ぼくは忙しい』

「なんっ、おいアリス!」

 四代目の携帯は沈黙する。しばらく、居心地の悪い沈黙が僕と四代目の間をふよふよただよっていた。した打ちしながら温室に入ってくるので、僕はあわててわきにどく。四代目は僕をにらむのだけどなにも喋ってくれない。視線をそらし、ドアの外を見て、ようやく一つなぞが解ける。

 ドアの向こうにはすなぼこりよごれたせきの並びが見えた。学校にりんせつしたお寺の墓地だ。ちょうど温室の裏口にあたる箇所だけへいくずれていて、大きなベニヤ板でそのすきをふさいであるだけだったのだ。

 でも、どうしてアリスがこんな抜け道を知ってるんだろう? それに、どうして四代目が。

 四代目は僕を無視して携帯のカメラで温室の様子をあちこち撮影してる。

「あのう、どうして四代目がここに」

「おまえもそれで呼ぶんじゃねえ」

「ええと。じゃ、じゃあ、そうさん?」

「いつからおまえはおれの身内になった」

『四代目のみようひなむらだからヒナちゃんと呼ぶと喜ぶのだよナルミ』

 うわっ僕の方はまだアリスとつながってたのか。四代目はおにぎようそうで僕の携帯を取り上げて通話を切る。握りつぶされるかと思った。

「……ヒ、ヒナちゃ」「ぶっ殺すぞ」四代目は僕の口の中に携帯を突っ込んだ。なにしますかこの人は!

「おまえの仕事はここの鍵を開けることだったんだよ。もう済んだんだからさっさと帰れ」

 四代目の言葉に、僕はあつにとられるしかない。

「……どういう、ことですか」

「アリスからなんも聞いてないのか」

 僕はなんだかみじめな思いでうなずく。四代目は長いため息をついた。

「なら、てめえで考えろ」

 四代目と、あやの接点。

 トシさんだ。トシさんしかいない。それから、エンジェル・フィックス。

 じゃあ、彩夏が自殺しようとしたのは、やっぱりトシさんになにか関係があるのか。でも、どうして温室が? 僕の頭の中で、いくつもの断片がぐるぐる回っていた。元の絵を知らないままのジグソーパズル。

「待って、待ってください」

 温室から出ていこうとする四代目を、僕はあわてて呼び止める。振り向いたおおかみの目はけわしさを増している。

「……薬と、彩夏が、関係あるんですか? どうして、なにが──」

「関係あるに決まってるだろ。馬鹿かおまえは。あんなもんが出回らなきゃ、おまえは今でも平和に園芸部やってられたんだよ。ぶっこわれてからじゃねえと気づかねえのか」

 僕は言葉を失う。

 はかに続く扉は勢いよく閉じた。僕は温室の生ぬるい草いきれの中で、再びひとりになる。

 薬のせいなのか。彩夏が飛び降りたのは、あのくそったれなピンクのじようざいのせいなのか。どうして。トシさんがなにかしたのか?

 エンジェル・フィックスのせいで。



 いくら考えても、どこにも進めなかった。僕はあきらめて、職員室に戻って温室の鍵を返した。退出しようとしたとき、先生が僕を呼び止めた。

「こんなときにこんなこと言うのもあれなんだけど。園芸部、どうするつもり?」

「どうする、って」

「その……あんなことがあって、部員はふじしまくんだけでしょう」

 ああ、そうか。僕とあやった日のこと。僕らをつなぎとめていた約束を思い出す。

「私としては、できれば、続けてほしいんだけど。ほかの子にも声かけてみるつもり。だんつぶしちゃったら、みたいなこと言う先生もいるんだけどね」

 僕は黙って考え込む。はっきりいって園芸のことはなに一つ知らないので、僕ひとりで部活動を維持したり四月に入ってくる新入生を勧誘したりといったことは非現実的だった。デンドロビウムといわれたらガンダムの方を思い出すような人間だし。でも、このまま花壇や温室を荒れ放題にはしたくない気持ちもあった。彩夏の場所だから。

 たとえ、もう帰ってこないとしても。

 沈黙してしまった僕に、先生は少々誤解したようだった。

「ごめんなさい、こんなこと急に話して。藤島くんの気持ちもあるものね。いやなら、無理にとは言わない」

「あ、その……」

 小百合先生は教員生活五年目でこんなのになぜか未亡人とうわさされるほどのつやっぽいうわづかいが武器である。それにしたからぐさりとやられて僕はたじろぐ。

「いやなわけじゃ、ないんですけれど」

「そう?」

 ほっとした顔をする小百合先生。

しのざきさんが、あんなに大切にしてた花だものね。できればみんなちゃんと世話して残してあげたい。温室にはもうすぐ咲きそうなのもあったし」

 ……咲きそうだった?

「あの、温室の植物ほとんどなくなってたんですけど、先生が片づけたんじゃないんですか?」

 小百合先生は目を丸くする。

「なくなってた? ほんと?」

 ボールペンをくちびるの下にあてて考え込む先生。

「篠崎さんが処分したのかしら」

 彩夏が?

 そうかもしれない。後始末として……いや、ちょっと待て。

 そのとき僕は四代目の言葉を思い出す。アリスと電話で話していたときのせりふだ。『もう始末されている』と言っていなかったか。

 温室と、彩夏。

 トシさん。

 エンジェル・フィックス。

 僕の中で、ばらばらだったものがつながり始めていた。


    ●


 自転車を飛ばし、『ラーメンはなまる』に着いた頃には一月の短い日は早くも沈みかけて、ビルの足下にのれん越しの赤いだけが浮き上がって見えた。客は一人もいない。店の裏のポリバケツに自転車をぶつけて停めると、スタンドをり落としてビルの非常階段を上ろうとした。

 そのとき、ミンさんがちゆうぼうの奥から僕を呼び止めた。

「そこに座れ」

「あの、今急いで」

「いいから座れなぐるぞ」

 ミンさんがおたまを大上段に振りかぶったので、僕はおとなしく店に入ってカウンター席にこしを下ろした。

 目の前にとん、と置かれた紙カップ。その日はのシャーベットだった。氷の針が頭に突き刺さってくるような酸味。身体からだりがその穴から吸い取られていくみたいだ。それから、ほのかにからがある。不思議な味。僕は不意に今が冬であることを思い出して身震いした。

しようが入ってんの、それ」

「へえ……」そういえば生姜の味だ。意外に合うんだな……。

「後から身体が暖まってくるウィンタースペシャル」

 ミンさんは得意げに笑って、さらしを巻いた胸をずんと張る。

おやが根性だけで生きてるみたいなアウトドア体育会系でさ、よく冬山に連れていかれたり寒中水泳とかやらされたんだ。で、ダシ用の生姜かじってしのいでたの」にんじやの修行かよ。

「で、わたし実は泳げなかったんだよね、ガキの頃は」

「え」

「そんなに驚くなよ。だれにだって苦手なことはあるだろ」

 まあその通りなんだけど、そもそもミンさんの子供の頃というのがうまく想像できない。

「泳げないやつってさ、おぼれそうになると暴れるじゃん。わたしもよく親父に怒られたよ。泳げないならじっとしとけ、人間の身体は水に浮くようにできてるから、って。でも溺れてる当人にとっちゃそんなの思い出してるゆうもないしさ」

 そこでミンさんは言葉を切って僕をじっと見つめた。ようやく僕は、それが説教だったことに気づく。ミンさんは、はっきりとは言わないけれど。

 頭が冷えていく。

 たしかに、ほんの数分前までの僕は、とにかくアリスにって、あのパジャマむすめの首根っこを押さえつけて、なにもかもを洗いざらい聞き出してやろうというしようどうに突き動かされていた。でも、なにをけばいいのかは、これっぽっちも頭になかったのだ。まるっきり馬鹿だ。

 かたを落とす。泳げないならじっとしていればいい、人間の身体からだは水に浮くようにできている。でも、と僕は思う。だから、なんだっていうんだ?

「ミンさんは」

 ん、とネギを刻む手を止めて顔を上げるミンさん。

あやが。……いなく、なって。どう思いましたか」

「おまえ馬鹿か。そんなことで他人の意見参考にするなよ」

 ミンさんの声は本気で怒っているように聞こえた。

「わたしが見舞いに行ってわんわん泣きましたよって言ったら、自分も同じことしなきゃ、とか思うのか。べつにどうも思ってないよって言ったら、じゃあこれでいいのかって安心するのか」

 ミンさんの言葉は、いつかの四代目のボディブローのように僕の腹にずしずしと突き刺さった。僕はアイスのカップを握りしめてうなだれる。なんかここ数ヶ月、馬鹿なことをやって他人にあきれられるというパターンをずっと繰り返している気がしてきた。

 うつむいたまま立ち上がる。

「アリスのとこに行ってきます」

「ん」

 僕の目の前にミンさんの手が差し出される。カウンターに置かれたふたつきの紙カップ。食べ終わったばかりのしようシャーベット、もう一つだ。

「あいつにも持っていって。たぶん今日もげん悪いと思うから」


    ●


 ミンさんの予想通り、アリスは大変なありさまだった。クソ寒い一月だというのに冷房をガンガンにきかせ、ベッド前のゆかにドクターペッパーのかんはちの巣みたいに大量に並べて、シーツの上でクマのモッガディート(耳は職人芸で元通り)をはじめ色とりどりのぬいぐるみの大軍に囲まれ、保冷剤をひたいに巻き付けて目の下にくまをつくっている。

「ぼくの領地にそんなロシア兵みたいなかっこうでやってくるとはいい度胸だ。今すぐその見ているだけで暑苦しい上着を脱ぐかそれとも出ていくか選びたまえ」

「……あのさ、毎回思うんだけど、なんでいつもクーラーかかってんの?」

「きみの頭の両側についているのは持ち運び用の把手とつてかなにかかい? 脱ぐかそれとも出ていくかと言ったんだ」

 しぶしぶジャンパーを脱ぐ。シャレにならないほど寒い。アリスは背後のマシンにめ尽くされた壁を手で振って示す。

「ぼくのや耳たちはどうしているだけで熱を発するのだよ。永遠のやみせいじやくに比べれば寒さくらいどうしたというんだい」

「いや、でもさ、人間がそれにつきあう必要ないと思うんだけど」

 言い返す僕の歯の根は寒さでがちがち鳴っている。

「なんたるごうまん、あきれた人間中心主義者だなきみは。救いがたいよ。環境を人間につきあわせろというのかい? それこそこうだ。不確定性原理と不完全性定理によって人間が神に敗北することが明らかになって以来、哲学も自然科学も世界を変えるよりは自分たちが変わる方がよほど効率的だと気づいてそそくさと方向転換したというのに、きみはひとり沈みゆく船の船尾に立ってれんきんじゆつの旗をむなしく振り続けるわけか。いい見せ物だな。映画にしたいくらいだラジー賞を総なめにできるぞ」

「……えと」

 ふうむ、僕は傲慢な人間中心主義者だったのか。そうか。言われてはじめて気づいたぞ。どう考えてもアリスの方がべんをまくしたててるのは明らかなんだけど、寒さとちようこうぜつにやられた僕の脳みそは早くも白旗を揚げたがっていた。

「わかったよ。ごめん。ついでにセーターも脱いだ方がいいかな」

 アリスはその大きな目をぱちくりさせる。

「……きみはほんとにみようなやつだな。空調なぞ環境を人間につきあわせる最たるものの一つなのに、なぜそうもあっさりと反論をあきらめるんだい。貴様こそ人間中心主義者だ、くらい言いたまえ」

「ううん……」

 アリスにとうされてあんのようなものを感じている自分に気づき、僕はちょっとあせっていた。やばい人みたいだ。

「今、もういっぱいいっぱいなんだよ。反論する気力ないんだ」

 またアリスが口を開きかけたので、持ってきたシャーベットを渡して黙らせた。

 カップのふたを開けたアリスはの香りに目を輝かせる。でも一口食べるなり、「んんん」とうなって目をぎゅっとつむってしまう。

「どうしたの?」

「……からい」

 じりなみだを浮かべて言う。泣くほど辛いか?

「やるなマスター……さすがのぼくもこれは予想し得なかった不意打ちだよ……う、む……」

「だいじょぶ?」

「……大丈夫。しいから全部食べる」

 アリスはべそをかきながらスプーンを口に運び、そのたびにもだえる。

「そんな無理しなくても。余ったら僕が食べるよ」

「とことん強欲だなきみは。下でたらふく食べてきたというのに、ぼくの楽しみまで奪おうというのか。一口たりともやるもんか」

 あかんべーまでされてしまった。それから十分くらいかけてアリスはシャーベットを平らげた。食べ終わると、まだからが口に残っているらしくくちびるをきゅっと結んで目をつむり、なにかを言いたそうに毛布の上で手をぱたぱた上下に動かしたので、僕は冷蔵庫からドクターペッパーを持ってきて渡した。

 一気に飲んで、一息。だいぶげんが良くなったみたいだ。

「きみもなかなかたんてい助手ぶりが板についてきたようだね。言わずとも主要業務をこなすようになればようやく半人前だ」

「助手の主要業務はドクペ運びだったのか……」

「ちがうとでも思っていたのかい?」

 いえ、わかってましたよ?

「さて。きみの方の用事を先に済ませてしまおうか。四代目はおそらくなにも説明してくれなかっただろうしね。たぶん答えてやらないと思うが、きたいことがあったら遠慮なく言いたまえ」

 なんだそりゃ。

 僕は考え込んでしまう。たしかに、なにを訊いても馬鹿にはするけど答えてはくれなさそうだ。ただ、答えてくれないというその事実が、そのまま答えになる場合もある。

 それに。

 僕だって、いつまでもくらやみの中を手探りで歩いているわけじゃなかった。

「訊きたいことがあるんじゃないのかい?」

 アリスはひざを立ててその上にあごをのせ、首を傾げる。

「なにを訊けばいいのか考えてるんだ」

「少しは成長したのだね」

 たぶんミンさんが食べさせてくれたシャーベットのおかげだろう。あのままけ込んでいたら思いついたはしから口にして、さんざんアリスに馬鹿にされていただろうから。

 かなり長い間考えてから、僕は言った。

「あの、エンジェル・フィックスの資料のコピーを僕にもくれないかな。写真がってたやつ」

 アリスの顔から笑みが消えた。しばらく答えはなかった。PCのファンのうなりだけが聞こえていた。ああ、正解だ、と僕は直観した。同時に、心臓がかかとの裏まで押し込められたような気分が襲ってくる。

 やがてアリスがつぶやく。

はかあばいて死者をはずかしめるかくが、できたのかい?」

 僕は──

 小さく、うなずいた。

 アリスもかなしげな目をしてうなずき返す。

「わかった。渡そう。でも、その前にナルミにやってほしい仕事がある」

 助手はいつでも出来高払いらしかった。アリスは僕をベッドへと手招きする。え。ちょっと待て。ベッド? あがれとおっしゃる?

「なにをたじろいでいるんだい。きみのうではその位置からこのキーボードまで届くほど長いのかい?」

「……キーボード?」

「マシンを使う仕事だからこっちまで来いと言っているんだ」

「あ、ああ……」

 なんかものすげー恥ずかしい誤解をしてしまったのを気づかれないように僕はアリスから顔をそむけて立ち上がる。

「ええと。あがっていいの?」

「早くしたまえ」

 僕は遠慮がちにシーツの上をひざ歩きしてアリスのとなりまで行く。女の子と同じベッドの上。なんかめちゃくちゃ緊張するんですけど。

「きみは画像をいじるのだけは得意だったろう。この写真のディフォルメを頼みたいんだ」

 アリスが指さすいちばん下段のモニタには、フォトショップが起動してあって、あごとがった若い男の画像が映っていた。

「ディフォルメ?」

「そう。大勢に配ってさがすための写真だからね。聞いたことがないかい、人間のおくは見たものをそのまま保存しているわけじゃないから、写真そのものよりも顔の特徴を大きく強調した方が印象が合致しやすいんだ。似顔絵なんかはその理屈だね」

 ああ、聞いたことがあるような。僕は再びモニタに目をやる。

 そのとき、背筋にぞっとかんった。僕はその男を知っていた。どこで見たんだ?

「……これ、だれ?」

はかざかろうという大学院生だ」

 僕ははっとしてアリスを見る。墓見坂?

 モニタに目を戻す。鋭くあごの尖った、理知的な顔。免許証の写真かなにかだろうか、一片の笑いも浮かんでいない。頭の中で、その顔にふちなしの眼鏡めがねを合成してみる。思い出した。間違いない、トシさんがいなくなったあの日、横断歩道のところでった、あのな男だ。

「七年前にT薬科大に入学、ただし薬学部じゃなくて生命科学部だ。遺伝子をいじる学問というと少しへいがあるかな。たいそう優秀な成績だったそうだよ。十九さいでイランに留学している。そのときにったのだろうね」

 出逢った? だれと?

「こいつと、だよ」

 アリスは僕に一束の紙を差し出した。いちばん上の一枚には、赤い花の写真。あのとき見た資料だ。

「もっとも、その写真にある花はそうそう珍しいものじゃない。あんな馬鹿げた薬効は生まれないから、おそらくはかざかが見つけたのはこれの突然へんしゆだろうね。アルカロイドの含有率が近い麻薬植物の中から、研究室があたりをつけたんだ。労働報酬だが、先に渡しておくよ。さておき」

 アリスはモニタに向き直る。

「墓見坂一人だけじゃない。ネット上で彼とつながりがあったとおぼしき人物を徹底的に洗った。全員が事件との関与があるかどうかはわからないが、とにかくね。なにからなにまでホームメイドな麻薬組織なのだよ。墓見坂の父親はぐんの有力な二世議員でね。おそらく資金は彼のづかいから出ているのだろう。父親名義で持っている物件は総ざらえしてみたが、今のところ居場所はつかめていない。周到かつだいたんなのだね。いつかいの院生がいちからネットで人材をつのり、この街で育て、作り、安価にばらまいた。これまで尻尾しつぽがつかめなかったわけだ」

 アリスはほかのウィンドウを次々と見せる。まともに顔を正面から撮った写真は少なかった。集合写真の一部や、解像度が低くてかなり顔が判別しづらいものもある。

「どうやって集めたんだ、これ……」

「だからぼくはニートたんていだと言っただろう。墓見坂ろうの携帯を割り出すのがいちばん苦労した。あとはひとまず手当たり次第だ」

 僕はぞっとする。ほんとに通話記録をぬすみ出したのか。

「ハッカーってのはマジだったのか……」

「ハッカーじゃない。そもそもハッカーというのはマサチューセッツ工科大学の学生の間で、ぶっ飛んだ大掛かりな悪戯いたずらをするやつに対して与えられた尊称だ。きみが言いたいのはクラッカーだろうが、それもちがう。何度も言うがニート探偵だ。いいから画面に集中したまえ」

 アリスは僕の顔をつかんでぐいとモニタに向き直らせる。

 最後のウィンドウに映っているのは、見間違えようもない、トシさんだった。あやと同じ目、彩夏と同じ顔のりんかく。僕は泣き出しそうになった。わかっていた、わかっていたことなのに。

「たしか、なの?」

 それでも、僕はたずねてしまう。アリスは優しい声で答える。

「たしかではないさ。ぼくに見える世界は、ネットに開いた無数の小さな窓からの限定的な風景だけだ。トシはたまたまドラッグ専門サイトで墓見坂史郎と知り合って、携帯電話を借りられるほどの仲になり、直接フィックスをゆずり受けるようになっただけで、製造にも販売にもまったく関わってない……かも、しれない。その可能性は、否定できない」

 アリスの言葉は、劇の台本をぼう読みしているみたいに聞こえた。ひどく空々しい。

「トシの言動にはいくつか不可解な点がある。そもそも、あの日ここに久しぶりに顔を出したのも、ただあやに金を無心しにきたわけではないだろう」

「……え?」

「トシはきみにいたのだろう、四代目が最近ぼくのところに来なかったか、と。用事はそれだけだ、とも言ったのだったね」

「あ……」

 思い出す。たしかにトシさんはそう言っていた。あのときはなんのことかまったくわからなかったけれど、今なら、トシさんの背後にあるものを知った今なら、わかる。

「四代目とアリスが、薬のこと調査し始めてるかどうか……調べに来てたのか」

「一つの推測だ。まだ真実じゃない。その仮定だと、矛盾が生じるんだ。いいかい、トシがすでにぼくを警戒していたなら、なぜ、きみにエンジェル・フィックスを見せた?」

 僕は黙り込む。

 たしかに、変だ。アリスが薬について調べ始めているかもしれない、とかんづいていたなら、僕の目の前でドラッグをキメるようなかつはしないはずだ。

 それに、あのときはかざかも、トシさんをさがしていてやっと見つけたようなことを言っていた。じゃあ、あれはトシさんが勝手にやったこと?

 わからない。

 エンジェル・フィックスの名前を聞いたのが僕じゃなければ、もっと頭の回る人だったなら、アリスや四代目の持っていた情報とすぐに結びついて、もっとずっとましな展開になっていたはずなのに。僕じゃなければ。

 どうして、僕なんだろう。

 どうしてトシさんは──

 わからなかった。

「わからない。そこがぼくにはわからない。だから」

 アリスは僕の手をそっと取って、マウスの上に置いた。カーソルが画面の中で震える。

「きみと同じだよ。きみがその資料と、そして自分の目と耳とで真実を確かめようとしているように。ぼくも真実を確かめるのさ、本人を捜し出してね」



 六枚の画像を加工して、さらに切りりして一枚にまとめるのに二時間かかった。アリスは僕のとなりにしゃがみ込んで、じっと作業を見つめていた。普段かたときも口を閉じていないくせに、こういうときだけ静かなので、僕はひどく緊張してしまった。なるべくアリスの方を見ないようにと、モニタに集中する。首が疲れる。しやべっていないときの方が相手を意識するものなんだな、と僕ははじめて知った。

「アリス、できたよ」

「んん……んむ」

 寝てやがった。やけに静かだと思ったら。

「遅かったね。ねむってしまったよ。ふむ、まずまずの出来といったところか」

 ねぎらいの言葉はなし。いいんだけど。アリスは僕を押しのけてメーラを起動すると、圧縮した画像ファイルを送信した。それから、ぐしゃぐしゃのPCラックの奥の受話器を引っぱり出す。

「……四代目かい? うん、ぼくだ。画像があがったから、今そっちに送ったよ。……ん? それはアーカイヴファイルだよ。圧縮してあるんだ。え? ダブルクリックすればいいだけだ。A4で印刷するのがいいだろう。いやいや。ペインタくらい入ってるだろう。ないのか。ああそうか、四代目のマシンはしようが拾ってきて改造したやつだったね。フリーの画像ソフトでも落としたまえよ。え? わからない? だれかわかる人間が一人くらい……」

 喋っているうちに、アリスの声はあきれたように低くなったり、怒ったようにかんだかくなったりした。の果てに、「いい、もうわかった! ナルミをそっちにやるから待っていてくれたまえ!」と叫んで電話をたたき切る。え、ちょっと待って、僕?

「というわけだから」

 きっ、と僕を見て言うアリス。どういうわけだ。

ひらさか組にはPCのイロハすら知っている人間がいないのだよ。やれやれ。まいに相対しては神神自身が論ずるもむなしい。きみが直接行った方が早い」

「え、いや、ちょっと」

「助手業務だよ、さっさとしたまえ」

 反論する間もなく、僕はたんてい事務所からたたき出されてしまった。


    ●


「おまえの世話になるとは思わなかった……」

 四代目は苦々しげに言う。平坂組事務所の、奥の部屋だ。簡易ベッドとキチネットと冷蔵庫、それから奥まったところに事務机と簡素なPC。画面の光に群がるように、四代目はじめ組のメンバーがずらりといかつい顔を並べ、その真ん中のに僕は縮こまって座っていた。

そうさん、もう下にみんな集まり始めてます」

 ドアを開けて入ってきたメンバーの一人がそう報告した。

「おい、さっさとやれよ」

 僕のかた越しに画面をのぞき込んでいた、めちゃくちゃ背の高い組員が言って、僕の頭をはたいた。いつか見た、ボディガードの電柱の方だ。

「今ダウンロード中ですから」

 なんでこんな目にってまで、と思いながらも僕は、フリーソフトの大手サイトにつないで、画像処理ソフトでいちばん軽いやつを落とした。しようは必要最低限のアプリケーションしか入れていなかったらしく、ハードディスクの中身はほとんど空っぽ。メーラ以外使われたけいせきがない。最近の若い人間はパソコンくらいゆうで使いこなすものだと思っていたけど、そんなことは全然ないんだなと僕は痛感する。

 僕が加工した画像を開くと、「おおっ」とまわりのメンバーたちからどよめきがあがる。いや、そんな驚くようなことじゃねえだろ。解像度をいじってA4にし、印刷。だいもんつき黒Tシャツの男たちが固唾かたずを飲んで見守る中、カラープリンタが六つの顔写真の印刷された紙をゆっくりとき出す。

「おお」

「すげえ」

かみわざだ」

「高度すぎてなにをやってるのか全然わからねえ」

「お、おい、あと五枚くらい頼む、いや、お願いします」

 合計六枚を印刷し終えると、さっき僕をかした電柱が、今度は目をうるませて僕の両肩をぎゅっとつかんだ。

「すンませんっした! さすがねえさんの助手、お見それしましたあに!」

「お疲れさんス、兄貴!」

「お疲れさんス!」

 いや、やめてくれなんだこのノリは。四代目は苦い顔のまま六枚のコピーを僕の手から引ったくると、「アホやってんじゃねえ、これコンビニで百枚ずつくらいコピーしてこい」とみんなに配る。

、男みがかせてもらいます!」

「押忍!」


    ●


 ひらさか組事務所の入ったビルの地下駐車場には、すさまじい人数が集まっていた。せいぜい普通車が二十台も入ればいっぱいになってしまうほどの暗いスペースを、ぎっしりと人影がめ尽くしている。やみの中で飛び交うささやき声。スタジャンやフィールドコートのすそがこすれあい、メッシュキャップやニューヨークハットがひしめいている。みんな、用もなくセンター街をうろついているような普通の若者だった。百人……二百人……いや、もっとか? 冬の夕暮れの寒さもその駐車場の中からは完全に締め出されていた。男ばかりなので異様な雰囲気。ライヴハウスで演奏が始まる直前の空気ってこんな感じじゃないだろうか。

あに、こっちへどうぞ」

 入り口で立ち往生していた僕のそでを、黒Tシャツの一人が引っぱって、右手奥へと連れていく。だいもんをつけたメンバーが応援団みたいに横一列に並んで立っている。いや、あの、僕は自転車を取りに来ただけなんですが。外にとめておけばよかった、と真剣に後悔し始める。

ひらさか組ってこんなに人数いたんだ……」

 僕の独り言を、黒Tシャツが聞きつけたようだった。

「いや、さかずき受けたのは二十人くらいですよ。でもそうさんはこのへんのチームはだいたい締めてるし、仕事のないやつらとかも壮さんを頼ってくるんで、一声かけりゃ」

 僕はたんそくして、うごめく群衆を見回した。頭が痛くなるような熱気だった。さっさと自転車を探し出して逃げよう、と背伸びしてきょろきょろしていると、不意にざわめきがふっつりとおさまる。

 全員の視線が集まった先、地下駐車場の入り口のスロープから、外の青白い光を背に四代目が下りてくるところだった。しんのジャケットが気圧差の風を受けてひるがえる。全員が、四代目の言葉を待っているのが空気でわかった。僕の頭の中からも、自転車のことが一瞬消えていた。

「ゴミを街に垂れ流してるやつがいる」

 四代目は静かな口調で言った。

「ピンク色で羽が生えてるゴミだ。警察は最近になって人が刺されるまで寝ていた。この街にしか出回っていないのと、売人が組織的じゃないからだ。作って流してるのはおれたちと同じガキだ」

 二百人の男の頭が一度だけ波打つ。

「これは、俺たちで片づける話だ。薬が切れてあわ吹いてんのも、ラリった売人に刺されて入院してんのも、俺たちの仲間だから。警察は、もう四、五人もやられなきゃマジで動かないだろう。やられた後じゃ遅いんだ。じゃあ止められるのはだれだ?」

 四代目の問いにこたえて、いくつもの言葉が入り交じった、特急列車の通過音みたいなごうおんくらやみの中からわき起こった。二百人がうでを振り上げてえている。その中でも、四代目の声はりんとして響いた。

「そうだ。俺たちしかいない。警察に任せておいたら、この馬鹿なガキどもはあと一ヶ月くらい好き放題した後で、安全な刑務所か少年院に放り込まれて三年もしたら出てくる」

 ふざけんな、殺せ、そんな声が聞き取れた。僕はぞっとする。二百ぴきを超えるきようぼうけもの。四代目の号令で、街にいつせいに解き放たれる。

「写真は行き渡ったな? そこにってるやつは、まだ薬と関係があると決まったわけじゃない。だから見つけても無茶は絶対にするな。口を割らせるのはおれたちひらさか組がやる。おまえらまでパクられるような危険をおかすことはない。見つけるだけでいいんだ。コピーしてばらまいてもいい。薬を売ってるやつを見つけたら、ここにっていない顔でもかまわず引っぱれ。全部終わったら、組が片を付ける」

 四代目が、僕の方を──いや、僕ではなく、僕のそばに並んでいた黒Tシャツの面々をさっと見た。

「この街には手を出せない、だれが見てもそうわかるような、派手な十字つるしてやるよ」



 二百人が流れ出してしまった後の、がらんとなった地下駐車場の真ん中に、僕はしばらくへたり込んでいた。コンクリートのゆかに、残った平坂組メンバー数人の長い影が伸びている。床にも壁にも、まださっきの獣のほうこうが染みついているみたいだった。

あに、自転車これですよね」

 メンバーの一人が、駐車場の奥の方から僕のママチャリをかついで持ってきてくれた。僕は弱々しくうなずく。

「世話んなったな。あとは俺らが全部やるから、おまえもこれ以上首突っ込むな。もうおまえに頼むようなことはねえから」

 四代目が僕の背中から声をかけた。それから足音が遠ざかろうとする。

「あの」

 僕は立ち上がって四代目を呼び止めた。振り向いたおおかみが僕をにらみえる。

「……トシさん、見つけたら、どうする……つもりなんですか」

「さあ。運が良ければはかじゃなくて病院で済むかもな」

 じようだんだろう、と僕は思った。だってトシさんは四代目とも知り合いじゃなかったの? でも、言葉は出てこない。

「おまえ、俺がトシを知ってるからって手を抜くとでも思ってんの」

 四代目は僕の腹の中を見かす。

「うちのもんだって刺されてんだ。それに、あいつの妹はあいつに殺されたようなもんだ。もう植物人間なんだろ。ゆるせんのか、おまえ」

 その言葉は、僕の心臓に深く深く食い込む。

 あやは、トシさんに、殺された?

「おまえがどう思ってようと関係ないけどな。俺たちが、見つけた連中をどうしようと俺たちの自由で、俺たちの責任だ」

 組員たちがそろって真剣な顔でうなずく。

 四代目や平坂組のメンバーもみんな出ていってしまった後で、僕は暗い駐車場の中にひとり、自転車のサドルにすがって立ちつくしていた。

 あやは、殺された。

 彩夏は、トシさんに殺された。


    ●


 次の日、僕はアリスからもらったエンジェル・フィックスの資料を学校に持っていった。

 昼休み、授業から戻ってきたばかりの先生を職員室でつかまえる。

「どうしたのふじしまくん? 友達がいないから先生と一緒にお弁当を食べようとか? うーん残念だけど私、午後の授業の準備があってね」

 小百合先生はいつもながらみようなテンションだった。余計なお世話だ。ほっといてください。

「そうじゃなくて。ちょっとだけきたいことがあるんです」

「なあに?」

「先生は、温室にあった植物を前に見てるんですよね? 二学期中に、ですか?」

「そうね。何回か温室には入ったけど」

 僕はポケットから一枚の紙を取り出す。フィックスの資料から切り抜いた、花の写真。差し出すと、先生はそれを見て首を傾げ、それから「ああ」とうなずいた。

「この花、たくさん咲いてた。水栽培だったな、ゆかにケースがいっぱい並んでて。この写真よりもうちょっと色が青かった気がするけど」

「……それはたぶん、突然へんしゆだからですよ」

 自分の声が、なんだかプールの底から聞こえてくるあわの音みたいだった。そうか、本物は色が青いのか。真実をみんな知っているみたいな顔をしていたアリスも、これだけは知らなかっただろう。僕は絶望的な気分の中で、温室の空調の風に揺れる青むらさきの花を思い浮かべる。

 彩夏が育てていた花。

「これ、なんて花?」

「パパヴェル・ブラクテアトゥム・リンドルというんだそうです」

「うわ、したみそう。きれいだけど」

 でも突然変異種だし、栽培可能だったってことは種として確立しているわけで、別の名前がつけられるべきなんだろうな。そんなことを考えながら僕は職員室を後にした。女子生徒の一団が購買部で買った戦利品を手に、楽しそうにおしやべりしながら僕を追い越していった。

 はかざかろうはあの花になんて名前をつけたんだろう。

 あんな花のせいで、彩夏は──

 僕の手は無意識に、写真の切り抜きをきつく握りつぶしていた。


    ●


 放課後、『ラーメンはなまる』に行った。客は一人もいないかわりに、店の前でテツせんぱいしようとヒロさんがドラムかんを囲んでなにかやっていた。ぱちぱちとはぜる音、たちのぼるうっすらと黒いけむり

「なにやってんですか……」

だよ。ほら、おれらもいつホームレスになるかわかんねえから、予行演習」

 テツ先輩はドラム缶の上に手をかざしながら言う。中では雑誌とか新聞紙、解体したか机の脚なんかが勢いよく燃えている。

「あとはダンボールハウスの組み立て方をおぼえればいつでもホームレスになれますね」と少佐。いやな演習だなあ。みようにリアリティあるし。

「でも、店の前でこんなことしてたらミンさん怒るんじゃ」

「いいのいいの、どうせ客来ないし、これ店の片づけ手伝った後始末だから。さいの神っていうんだっけ、一月十五日だったかな」

 なるほど、よくよく中をのぞきこむと松葉やの模型、いなわらなわなんかの正月飾りも燃やされている。

「おまえらがいるから客が来ないんだ」

 ちゆうぼうからミンさんが毒づく声が聞こえた。おまえらも燃えてしまえと言わんばかり。まだ夕方の五時だから、もう少したって日が沈めば何人かは来るだろうけど。

ふじしまちゆうじようも、なにか燃やしたいものがあったら入れるといい」中将呼ぶな。

「おれ去年つきあってたのプリクラ全部焼いちゃった。すっきり」

「金杯の外れ馬券燃やした。ちくしょうJRAみてろよ。今年は絶対プラスにする」

「自分は学生証を焼こうとしたんだが二人に止められて」

 いや、それは焼くなよ。しよう、大学でいやなことでもあったんだろうか。

 僕はぱちぱちと音をたてて揺らめくほのおじようたんをしばらくじっと見つめた後で、かばんから紙束を取りだしてドラムかんに放り込んだ。文字や化学式がびっしりと書き込まれたコピー用紙は、あっという間に火に侵されてねじくれ、灰に変わっていく。

「……それ、薬の」

 ヒロさんが気づいたようだった。

「アリスからもらったやつだろ? いいの、燃やしちゃって」

「いいんです。もう、終わったんで」

「なんか調べてたの」

 僕はあいまいにうなずき、不意にものすごい疲労を感じて地面にしゃがみ込んだ。ドラム缶の表面からほのかな熱がただよってきて、寒さをいっそうくっきりと感じさせた。

 じっと黙ってを囲む僕たちの頭の上に、やがてゆっくりと日暮れがおりてきた。店の方で、客がミンさんに注文する声が聞こえた。暗くなっていくあたりの空気に吸い取られるようにして、まきのはぜる音はしぼんでいく。

「おまえ、アリスに似てるんだな。やっとわかった」

 テツせんぱいがぽつりと言った。僕ははっとして顔を上げる。

「ひとりで全部背負い込んで、なんも言わないとことか。自分がいっぱいいっぱいになると他人のこと全然見なくなるとことか。全部自分のせいだと思ってるとことか。だから変に気が合うのかね」

 似てる? 気が合う? 自分では、とてもそうは思えない。

「でも、アリスは有能ですからね。ふじしまちゆうじようとちがって」

「身もふたもねえなしよう

 テツ先輩は笑った。僕は笑えなかった。その通りだったし。

「そろそろ裏に引っ込もうよ」

 ヒロさんが言った。ラーメン屋に客がぼちぼち集まり始めていた。

 ドラムかんはすぐに動かせないので放置して、僕らは勝手口の方に移動した。その日のラーメンはテツ先輩が全員分おごると言い出した。最近、競馬でもスロットでも不ヅキ続きなのでげんなおしだそうだ。僕は冷やしちゆうニンニク大盛りを頼んだ。ミンさんは、たぶん文句を言いに出てきたのだろうけど、僕の顔を一目見るなりちゆうぼうに引っ込んで、ちゃんと注文通り作ってくれた。かんのいい人なのだ。

「おまえ、よくそんなん食べる気になるな……」

 僕のひざの上の皿をのぞき込んでテツ先輩がおえっとしたを出す。

「……少佐がこれ頼んだ日のこと、おぼえてますか?」

 僕の問いに、少佐とヒロさんは顔を見合わせた。

「少佐が大学から資料を持って帰ってきて、ここで僕とあやとヒロさんがアイス食べてて、アリスから電話がかかってきて……」

 僕はあの日のことを──まだ彩夏が元気そうに厨房と客席をけ回っていた日のことを思い出そうとする。

「僕とヒロさんは四代目のところまで届け物に行って、帰ってきたら彩夏は早退してました。彩夏の様子が変になったのは、あの日からです。たぶん」

 絶対にそうしないようにと注意していたのに、僕は思わずヒロさんの顔をちらと見上げてしまった。

「彩夏はここに置いてあった、エンジェル・フィックスの資料を見たんです。そして、自分が学校の温室で育てている花が、ドラッグの原料だってことを知っちゃったんだ」

「おれの……せい?」

 ヒロさんがうめく。僕は微笑ほほえんで首を振った。うまく笑えているだろうか。

「置き忘れたのはヒロさんのせいじゃないです。だって、あれがあやに見せちゃいけないものだって気づけたのは、僕だけだったんだから」

「でも、ナルミ君」

「ここから先は推測です。彩夏はたぶん、去年の夏か秋くらい、久しぶりに帰ってきたトシさんに頼まれて、学校でこっそりあの花を栽培し始めたんです。温室の裏口を使って、定期的にトシさんが実を採集しに来てたんだと思います。彩夏は、はかざかという人のことを少し知ってたから、大学の実験かなにかをトシさんが手伝ってると思ってたんじゃないかな。……でも、そうじゃないことにあの日気づいた」

 僕の言葉はそこでえた。沈黙。背中越しに、どんぶりれ合う音、めんをすすり込む音、食後のアイスを注文する声。

 その先は? わからない。兄が自分にさせていることに気づいた彩夏は、どうしたんだろう。トシさんにそのことを問いただしたんだろう、たぶん。そして──

 わからない。

 なにがどう間違って、彩夏は飛び降りなきゃいけなかった?

 アリスはその理由を知っているという。まだ僕の知らないピースをアリスが持っているのか、それとも僕の見落としているつながりがあるのか。わからない。なんで彩夏は飛び降りてしまったんだろう。なんで僕に一言もいわずにいってしまったんだろう。僕にもなにか、なにかできることが……

「じゃあ、もう、確実なんだな」

 テツせんぱいの言葉に、僕はのろのろと顔を上げる。

「トシが薬売る側に回ってるってのは、確実なんだな」

 僕は弱々しくうなずいた。

 アリスは、トシさんが関わっていない可能性もあると言っていた。僕にエンジェル・フィックスを見せた理由がわからない限り、たしかなことは言えないと。

 四代目は、手配書にっている人間は薬の関係者だと決まったわけじゃないと言っていた。

 二人とも、よくもあんな優しいことが言えたもんだ。

 エンジェル・フィックス。

 あの薬が。あのろくでもないピンク色の羽が、彩夏を連れていった。

「それで、おまえはどうすんの」

 僕は口を半開きにしたままテツ先輩の顔を見た。責めるでもなく、怒るでもない、同情してもいない、まるでスロットのリールを見つめるときのような、温度のない先輩の目。思わず目をそらし、うつむく。

 僕は──どうする?

 わからなかった。だって、なにもできることがない。できることがあれば、もっと前にやってた。あやが飛び降りてしまう前に。トシさんが消えてしまう前に。

 今、彩夏のために僕ができることは、ただ、彩夏が死のうとした理由を掘り返すことだけ。なにか知っているはずのトシさんを見つけ出して。

「それ、ほんとに彩夏のためか?」

 テツせんぱいの言葉が降ってくる。僕の背中はこおりつく。

 彩夏のため?

 そんなわけない。もう、彩夏の心は死んでしまったのだから。身体からだだけをあの病室に残して、冬の空に拡散して消えてしまったのだから。

 だから──

 だから、僕が今こうしているのは、僕のためなのだ。自分の気を晴らすために、ただもがいているだけ。

「それでもいいじゃんか」

 テツ先輩が言う。僕は顔を上げた。

「前に言ったろ。おれ、助けてくれって言わないやつをわざわざ助けたりしないから」

「じゃあ」僕はテツ先輩と、しようと、ヒロさんの顔を順繰りに見る。みんなの顔は、なぜだかぼやけている。「助けてくれって言ったら助けてくれるんですか」

「当然だ。ふじしまちゆうじようほうぐんじゃないか」と少佐。

「おれらニートは助け合って生きていかないと」ヒロさんは笑う。

 でも、ニートが三人と将来たぶんニートになる頭の悪い高校生が一人集まって、なにができる? こんなちっぽけな手が八つ集まったところで、なにが──

「なんだってできるだろ」

 テツ先輩が言った。

 僕はくちびるんでまたうつむいた。こういうときに、こういうかんじんなときに、僕は相手の目を見てきっぱりと言えない、な人間なのだ。

「……けて、……ださい」

 歯を糸でこするような声が、僕ののどかられた。

「助けて、ください」

 三人がいつせいに立ち上がるのがわかった。

「……アリス? ああ、俺。今からトシの件で俺らも動くから」

 見上げるとテツ先輩が携帯を耳に当てている。アリスの声がかすかに聞こえる。

『まだきみたちにはなにもようせいしていないはずだが』

「ナルミから直接依頼受けた」

『では、今回は報酬は出せないぞ。ナルミから直接受け取りたまえ。支払い能力がかいなのはわかっているね?』

「ああ大丈夫、おれのチンチロの負け分チャラにしてもらうから」

「え、ちょっと待ってそれ得するのテツだけじゃん」

 ヒロさんが口をはさんだ。

「おまえらには焼き肉おごるから」

「計算おかしくね? 二十七万チャラなのに焼き肉だけって」

「自分、欲しいモデルガンがあるんですがそれが八万七千円」

「うるせえないいだろそんなの!」テツせんぱいは逆ギレした。「おまえもいつまでうじうじしてんだよ立て!」

 僕はうでをつかまれて、ものすごい力で引っぱり起こされた。

 力なく顔を持ち上げると、三人の顔が目に入る。僕は息をむ。薄暗いラーメン屋の勝手口前。7を三つそろえるためだけのが、軍事資料を読みあさるためだけの眼が、女の子を物色するためだけの眼が、そのときぎらぎら輝いていた。

ラノベ愛読家・石谷春貴が選ぶ!! 絶対に読んで欲しいラノベ7選

関連書籍

  • 神様のメモ帳

    神様のメモ帳

    杉井光/岸田メル

    BookWalkerで購入する
  • さよならピアノソナタ

    さよならピアノソナタ

    杉井光/植田亮

    BookWalkerで購入する
  • 楽園ノイズ

    楽園ノイズ

    杉井光/春夏冬ゆう

    BookWalkerで購入する
Close