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人生には取り返しのつかないことがあると云う人とないと云う人がいて、僕は当然のように前者の支持者だったのだけれど、ひょっとして取り返しのつかないことというのはつまるところ死ぬことであって、その瞬間それは人生の
では他人の死はどうだろう。取り返しのつかないことだろうか。たしかにその人はもう生き返ったりはしないけれど、その人のために
人生には取り返しのつかないことしかない。
それが確かに正しいことなのかどうかは、わからないけれど。
一つ確かなことは、屋上に出る扉に鍵がかかっているということだった。屋上はしばらく完全
ドアノブをしばらくがちゃがちゃやってから、あきらめて階段を下りた。どうも僕は
●
探偵助手。
僕とアリスとの間に雇用(?)契約が成立した、次の日のこと。アリスは僕を呼び出すと、彩夏について知っていることを思い出せる限り洗いざらい
「うん。わかった。全部つながった」
なにがだ。でもアリスは教えてくれなかった。
「ぼくが今のところ知っているのは、真実であって事実ではないのだよ」と、わけのわからないことを言う。
「それ……どうちがうの?」
「真実を支えるのは究極的にはただの直観に過ぎない。ぼく自身はそれで事足りるけれど、そんなものを依頼者に提供して職務完遂とするのはぼくの
「ええと。……
「わかりやすく言えばそうなるな。だからきみにも雑務を手伝ってもらうのだよ。それに、きみが依頼した件の情報料は労働で支払うのだろう。今教えてしまったら対価を得られないじゃないか。それでも事実を飛び越して真実だけ知りたいというのなら、自分で動くのだね。さあ、
前の日に僕の手を握って泣きそうになっていたのが
「今まで通り園芸部の活動をして、彩夏がふれたすべての場所をよく観察すること。それがきみの最初の仕事だ」
●
だから僕は次に
放課後の中庭は
こんなことをしてなんになるんだろう。アリスは、
考えていてもしかたのないことだった。最後に残った場所、校舎裏の温室に行った。彩夏の聖域。職員室から借りてきた鍵で扉を開くと、むっと強い草のにおいがあふれてくる。
床面積はたぶん僕の部屋の倍くらいだろう。十二
見上げると、
僕はラックの下段に
トシさんは見つかっていない。彩夏はもういない。僕の場所には、もう僕ひとりしかいない。病院と
『ぼくだ。ちゃんと仕事をしているかい。寝転がってくだらない
電話の向こうから聞こえてくる少女の声。僕は思わず温室の中を見回してしまう。まさかカメラでも仕掛けられてるんじゃないだろうな。
『今、まだ学校だね?』
「……うん。温室に来てる。ちゃんと見て回ってるよ、言われた通り」
『それはちょうどよかった。きみに確かめてもらいたいことがある。その温室には出入り口が二つあるだろう?』
……え?
僕は立ち上がった。出入り口が二つ?
入ってきた扉の反対側に、たしかに、もう一つ同じ造りのスティールドアがある。
どうしてアリスがそんなことを知ってるんだろう。温室には二つ扉をつけるのが普通なのだろうか。それともネットを
『もう一つの方を開けてみてくれたまえ』
「でも。向こう側、すぐ壁だよ」
温室は学校の敷地の角、
『そんなことを知らないぼくだとでも思っているのかい。いいから言う通りにしたまえよ』
奥の扉の鍵を外し、ノブを回して押してみると、ごりっ、と音がしてすぐに
「開かないよ」
『……聞こえたかい? うん、じゃあそのへんだ。……板? ああ、おそらくそれだろうな』
いきなりアリスは変なことを言い出す。声がちょっと遠い。あ、ひょっとして別のだれかと
ドアの向こうに人影があった。顔を上げた僕の目と、
四代目だ。
なんで四代目が? ていうかどうしてドアが開くの?
なにが起きてるのか、わからない。
四代目は手にした携帯で「開いた。ああ。間違いないな。……うん。……いや、もう始末されてる。なんもねえ。張り込んでも
『じゃあ、後はそっちに任せたよ。目の前にナルミが
「なんっ、おいアリス!」
四代目の携帯は沈黙する。しばらく、居心地の悪い沈黙が僕と四代目の間をふよふよ
ドアの向こうには
でも、どうしてアリスがこんな抜け道を知ってるんだろう? それに、どうして四代目が。
四代目は僕を無視して携帯のカメラで温室の様子をあちこち撮影してる。
「あのう、どうして四代目がここに」
「おまえもそれで呼ぶんじゃねえ」
「ええと。じゃ、じゃあ、
「いつからおまえは
『四代目の
うわっ僕の方はまだアリスとつながってたのか。四代目は
「……ヒ、ヒナちゃ」「ぶっ殺すぞ」四代目は僕の口の中に携帯を突っ込んだ。なにしますかこの人は!
「おまえの仕事はここの鍵を開けることだったんだよ。もう済んだんだからさっさと帰れ」
四代目の言葉に、僕は
「……どういう、ことですか」
「アリスからなんも聞いてないのか」
僕はなんだかみじめな思いでうなずく。四代目は長いため息をついた。
「なら、てめえで考えろ」
四代目と、
トシさんだ。トシさんしかいない。それから、エンジェル・フィックス。
じゃあ、彩夏が自殺しようとしたのは、やっぱりトシさんになにか関係があるのか。でも、どうして温室が? 僕の頭の中で、いくつもの断片がぐるぐる回っていた。元の絵を知らないままのジグソーパズル。
「待って、待ってください」
温室から出ていこうとする四代目を、僕はあわてて呼び止める。振り向いた
「……薬と、彩夏が、関係あるんですか? どうして、なにが──」
「関係あるに決まってるだろ。馬鹿かおまえは。あんなもんが出回らなきゃ、おまえは今でも平和に園芸部やってられたんだよ。ぶっ
僕は言葉を失う。
薬のせいなのか。彩夏が飛び降りたのは、あのくそったれなピンクの
エンジェル・フィックスのせいで。
いくら考えても、どこにも進めなかった。僕はあきらめて、職員室に戻って温室の鍵を返した。退出しようとしたとき、
「こんなときにこんなこと言うのもあれなんだけど。園芸部、どうするつもり?」
「どうする、って」
「その……あんなことがあって、部員は
ああ、そうか。僕と
「私としては、できれば、続けてほしいんだけど。
僕は黙って考え込む。はっきりいって園芸のことはなに一つ知らないので、僕ひとりで部活動を維持したり四月に入ってくる新入生を勧誘したりといったことは非現実的だった。デンドロビウムといわれたらガンダムの方を思い出すような人間だし。でも、このまま花壇や温室を荒れ放題にはしたくない気持ちもあった。彩夏の場所だから。
たとえ、もう帰ってこないとしても。
沈黙してしまった僕に、
「ごめんなさい、こんなこと急に話して。藤島くんの気持ちもあるものね。いやなら、無理にとは言わない」
「あ、その……」
小百合先生は教員生活五年目で
「いやなわけじゃ、ないんですけれど」
「そう?」
ほっとした顔をする小百合先生。
「
……咲きそうだった?
「あの、温室の植物ほとんどなくなってたんですけど、先生が片づけたんじゃないんですか?」
小百合先生は目を丸くする。
「なくなってた? ほんと?」
ボールペンを
「篠崎さんが処分したのかしら」
彩夏が?
そうかもしれない。後始末として……いや、ちょっと待て。
そのとき僕は四代目の言葉を思い出す。アリスと電話で話していたときのせりふだ。『もう始末されている』と言っていなかったか。
温室と、彩夏。
トシさん。
エンジェル・フィックス。
僕の中で、ばらばらだったものがつながり始めていた。
●
自転車を飛ばし、『ラーメンはなまる』に着いた頃には一月の短い日は早くも沈みかけて、ビルの足下にのれん越しの赤い
そのとき、ミンさんが
「そこに座れ」
「あの、今急いで」
「いいから座れ
ミンさんがおたまを大上段に振りかぶったので、僕はおとなしく店に入ってカウンター席に
目の前にとん、と置かれた紙カップ。その日は
「
「へえ……」そういえば生姜の味だ。意外に合うんだな……。
「後から身体が暖まってくるウィンタースペシャル」
ミンさんは得意げに笑って、さらしを巻いた胸をずんと張る。
「
「で、わたし実は泳げなかったんだよね、ガキの頃は」
「え」
「そんなに驚くなよ。だれにだって苦手なことはあるだろ」
まあその通りなんだけど、そもそもミンさんの子供の頃というのがうまく想像できない。
「泳げないやつってさ、
そこでミンさんは言葉を切って僕をじっと見つめた。ようやく僕は、それが説教だったことに気づく。ミンさんは、はっきりとは言わないけれど。
頭が冷えていく。
たしかに、ほんの数分前までの僕は、とにかくアリスに
「ミンさんは」
ん、とネギを刻む手を止めて顔を上げるミンさん。
「
「おまえ馬鹿か。そんなことで他人の意見参考にするなよ」
ミンさんの声は本気で怒っているように聞こえた。
「わたしが見舞いに行ってわんわん泣きましたよって言ったら、自分も同じことしなきゃ、とか思うのか。べつにどうも思ってないよって言ったら、じゃあこれでいいのかって安心するのか」
ミンさんの言葉は、いつかの四代目のボディブローのように僕の腹にずしずしと突き刺さった。僕はアイスのカップを握りしめてうなだれる。なんかここ数ヶ月、馬鹿なことをやって他人に
うつむいたまま立ち上がる。
「アリスのとこに行ってきます」
「ん」
僕の目の前にミンさんの手が差し出される。カウンターに置かれた
「あいつにも持っていって。たぶん今日も
●
ミンさんの予想通り、アリスは大変な
「ぼくの領地にそんなロシア兵みたいなかっこうでやってくるとはいい度胸だ。今すぐその見ているだけで暑苦しい上着を脱ぐかそれとも出ていくか選びたまえ」
「……あのさ、毎回思うんだけど、なんでいつもクーラーかかってんの?」
「きみの頭の両側についているのは持ち運び用の
しぶしぶジャンパーを脱ぐ。シャレにならないほど寒い。アリスは背後のマシンに
「ぼくの
「いや、でもさ、人間がそれにつきあう必要ないと思うんだけど」
言い返す僕の歯の根は寒さでがちがち鳴っている。
「なんたる
「……えと」
ふうむ、僕は傲慢な人間中心主義者だったのか。そうか。言われてはじめて気づいたぞ。どう考えてもアリスの方が
「わかったよ。ごめん。ついでにセーターも脱いだ方がいいかな」
アリスはその大きな目をぱちくりさせる。
「……きみはほんとに
「ううん……」
アリスに
「今、もういっぱいいっぱいなんだよ。反論する気力ないんだ」
またアリスが口を開きかけたので、持ってきたシャーベットを渡して黙らせた。
カップの
「どうしたの?」
「……
「やるなマスター……さすがのぼくもこれは予想し得なかった不意打ちだよ……う、む……」
「だいじょぶ?」
「……大丈夫。
アリスはべそをかきながらスプーンを口に運び、そのたびに
「そんな無理しなくても。余ったら僕が食べるよ」
「とことん強欲だなきみは。下でたらふく食べてきたというのに、ぼくの楽しみまで奪おうというのか。一口たりともやるもんか」
あかんべーまでされてしまった。それから十分くらいかけてアリスはシャーベットを平らげた。食べ終わると、まだ
一気に飲んで、一息。だいぶ
「きみもなかなか
「助手の主要業務はドクペ運びだったのか……」
「ちがうとでも思っていたのかい?」
いえ、わかってましたよ?
「さて。きみの方の用事を先に済ませてしまおうか。四代目はおそらくなにも説明してくれなかっただろうしね。たぶん答えてやらないと思うが、
なんだそりゃ。
僕は考え込んでしまう。たしかに、なにを訊いても馬鹿にはするけど答えてはくれなさそうだ。ただ、答えてくれないというその事実が、そのまま答えになる場合もある。
それに。
僕だって、いつまでも
「訊きたいことがあるんじゃないのかい?」
アリスは
「なにを訊けばいいのか考えてるんだ」
「少しは成長したのだね」
たぶんミンさんが食べさせてくれた
かなり長い間考えてから、僕は言った。
「あの、エンジェル・フィックスの資料のコピーを僕にもくれないかな。写真が
アリスの顔から笑みが消えた。しばらく答えはなかった。PCのファンのうなりだけが聞こえていた。ああ、正解だ、と僕は直観した。同時に、心臓がかかとの裏まで押し込められたような気分が襲ってくる。
やがてアリスがつぶやく。
「
僕は──
小さく、うなずいた。
アリスも
「わかった。渡そう。でも、その前にナルミにやってほしい仕事がある」
助手はいつでも出来高払いらしかった。アリスは僕をベッドへと手招きする。え。ちょっと待て。ベッド? あがれとおっしゃる?
「なにをたじろいでいるんだい。きみの
「……キーボード?」
「マシンを使う仕事だからこっちまで来いと言っているんだ」
「あ、ああ……」
なんかものすげー恥ずかしい誤解をしてしまったのを気づかれないように僕はアリスから顔をそむけて立ち上がる。
「ええと。あがっていいの?」
「早くしたまえ」
僕は遠慮がちにシーツの上を
「きみは画像をいじるのだけは得意だったろう。この写真のディフォルメを頼みたいんだ」
アリスが指さすいちばん下段のモニタには、フォトショップが起動してあって、
「ディフォルメ?」
「そう。大勢に配って
ああ、聞いたことがあるような。僕は再びモニタに目をやる。
そのとき、背筋にぞっと
「……これ、だれ?」
「
僕ははっとしてアリスを見る。墓見坂?
モニタに目を戻す。鋭くあごの尖った、理知的な顔。免許証の写真かなにかだろうか、一片の笑いも浮かんでいない。頭の中で、その顔に
「七年前にT薬科大に入学、ただし薬学部じゃなくて生命科学部だ。遺伝子をいじる学問というと少し
出逢った? だれと?
「こいつと、だよ」
アリスは僕に一束の紙を差し出した。いちばん上の一枚には、赤い花の写真。あのとき見た資料だ。
「もっとも、その写真にある花はそうそう珍しいものじゃない。あんな馬鹿げた薬効は生まれないから、おそらく
アリスはモニタに向き直る。
「墓見坂一人だけじゃない。ネット上で彼とつながりがあったとおぼしき人物を徹底的に洗った。全員が事件との関与があるかどうかはわからないが、とにかくね。なにからなにまでホームメイドな麻薬組織なのだよ。墓見坂の父親は
アリスは
「どうやって集めたんだ、これ……」
「だからぼくはニート
僕はぞっとする。ほんとに通話記録を
「ハッカーってのはマジだったのか……」
「ハッカーじゃない。そもそもハッカーというのはマサチューセッツ工科大学の学生の間で、ぶっ飛んだ大掛かりな
アリスは僕の顔をつかんでぐいとモニタに向き直らせる。
最後のウィンドウに映っているのは、見間違えようもない、トシさんだった。
「たしか、なの?」
それでも、僕は
「たしかではないさ。ぼくに見える世界は、ネットに開いた無数の小さな窓からの限定的な風景だけだ。トシはたまたまドラッグ専門サイトで墓見坂史郎と知り合って、携帯電話を借りられるほどの仲になり、直接フィックスを
アリスの言葉は、劇の台本を
「トシの言動にはいくつか不可解な点がある。そもそも、あの日ここに久しぶりに顔を出したのも、ただ
「……え?」
「トシはきみに
「あ……」
思い出す。たしかにトシさんはそう言っていた。あのときはなんのことかまったくわからなかったけれど、今なら、トシさんの背後にあるものを知った今なら、わかる。
「四代目とアリスが、薬のこと調査し始めてるかどうか……調べに来てたのか」
「一つの推測だ。まだ真実じゃない。その仮定だと、矛盾が生じるんだ。いいかい、トシがすでにぼくを警戒していたなら、なぜ、きみにエンジェル・フィックスを見せた?」
僕は黙り込む。
たしかに、変だ。アリスが薬について調べ始めているかもしれない、と
それに、あのとき
わからない。
エンジェル・フィックスの名前を聞いたのが僕じゃなければ、もっと頭の回る人だったなら、アリスや四代目の持っていた情報とすぐに結びついて、もっとずっとましな展開になっていたはずなのに。僕じゃなければ。
どうして、僕なんだろう。
どうしてトシさんは──
わからなかった。
「わからない。そこがぼくにはわからない。だから」
アリスは僕の手をそっと取って、マウスの上に置いた。カーソルが画面の中で震える。
「きみと同じだよ。きみがその資料と、そして自分の目と耳とで真実を確かめようとしているように。ぼくも真実を確かめるのさ、本人を捜し出してね」
六枚の画像を加工して、さらに切り
「アリス、できたよ」
「んん……んむ」
寝てやがった。やけに静かだと思ったら。
「遅かったね。
ねぎらいの言葉はなし。いいんだけど。アリスは僕を押しのけてメーラを起動すると、圧縮した画像ファイルを送信した。それから、ぐしゃぐしゃのPCラックの奥の受話器を引っぱり出す。
「……四代目かい? うん、ぼくだ。画像があがったから、今そっちに送ったよ。……ん? それはアーカイヴファイルだよ。圧縮してあるんだ。え? ダブルクリックすればいいだけだ。A4で印刷するのがいいだろう。いやいや。ペインタくらい入ってるだろう。ないのか。ああそうか、四代目のマシンは
喋っているうちに、アリスの声は
「というわけだから」
きっ、と僕を見て言うアリス。どういうわけだ。
「
「え、いや、ちょっと」
「助手業務だよ、さっさとしたまえ」
反論する間もなく、僕は
●
「おまえの世話になるとは思わなかった……」
四代目は苦々しげに言う。平坂組事務所の、奥の部屋だ。簡易ベッドとキチネットと冷蔵庫、それから奥まったところに事務机と簡素なPC。画面の光に群がるように、四代目はじめ組のメンバーがずらりといかつい顔を並べ、その真ん中の
「
ドアを開けて入ってきたメンバーの一人がそう報告した。
「おい、さっさとやれよ」
僕の
「今ダウンロード中ですから」
なんでこんな目に
僕が加工した画像を開くと、「おおっ」とまわりのメンバーたちからどよめきがあがる。いや、そんな驚くようなことじゃねえだろ。解像度をいじってA4にし、印刷。
「おお」
「すげえ」
「
「高度すぎてなにをやってるのか全然わからねえ」
「お、おい、あと五枚くらい頼む、いや、お願いします」
合計六枚を印刷し終えると、さっき僕を
「すンませんっした! さすが
「お疲れさんス、兄貴!」
「お疲れさんス!」
いや、やめてくれなんだこのノリは。四代目は苦い顔のまま六枚のコピーを僕の手から引ったくると、「アホやってんじゃねえ、これコンビニで百枚ずつくらいコピーしてこい」とみんなに配る。
「
「押忍!」
●
「
入り口で立ち往生していた僕の
「
僕の独り言を、黒Tシャツが聞きつけたようだった。
「いや、
僕は
全員の視線が集まった先、地下駐車場の入り口のスロープから、外の青白い光を背に四代目が下りてくるところだった。
「ゴミを街に垂れ流してるやつがいる」
四代目は静かな口調で言った。
「ピンク色で羽が生えてるゴミだ。警察は最近になって人が刺されるまで寝ていた。この街にしか出回っていないのと、売人が組織的じゃないからだ。作って流してるのは
二百人の男の頭が一度だけ波打つ。
「これは、俺たちで片づける話だ。薬が切れて
四代目の問いに
「そうだ。俺たちしかいない。警察に任せておいたら、この馬鹿なガキどもはあと一ヶ月くらい好き放題した後で、安全な刑務所か少年院に放り込まれて三年もしたら出てくる」
ふざけんな、殺せ、そんな声が聞き取れた。僕はぞっとする。二百
「写真は行き渡ったな? そこに
四代目が、僕の方を──いや、僕ではなく、僕のそばに並んでいた黒Tシャツの面々をさっと見た。
「この街には手を出せない、だれが見てもそうわかるような、派手な十字
二百人が流れ出してしまった後の、がらんとなった地下駐車場の真ん中に、僕はしばらくへたり込んでいた。コンクリートの
「
メンバーの一人が、駐車場の奥の方から僕のママチャリをかついで持ってきてくれた。僕は弱々しくうなずく。
「世話んなったな。あとは俺らが全部やるから、おまえもこれ以上首突っ込むな。もうおまえに頼むようなことはねえから」
四代目が僕の背中から声をかけた。それから足音が遠ざかろうとする。
「あの」
僕は立ち上がって四代目を呼び止めた。振り向いた
「……トシさん、見つけたら、どうする……つもりなんですか」
「さあ。運が良ければ
「おまえ、俺がトシを知ってるからって手を抜くとでも思ってんの」
四代目は僕の腹の中を見
「うちのもんだって刺されてんだ。それに、あいつの妹はあいつに殺されたようなもんだ。もう植物人間なんだろ。
その言葉は、僕の心臓に深く深く食い込む。
「おまえがどう思ってようと関係ないけどな。俺たちが、見つけた連中をどうしようと俺たちの自由で、俺たちの責任だ」
組員たちがそろって真剣な顔でうなずく。
四代目や平坂組のメンバーもみんな出ていってしまった後で、僕は暗い駐車場の中にひとり、自転車のサドルにすがって立ちつくしていた。
彩夏は、トシさんに殺された。
●
次の日、僕はアリスからもらったエンジェル・フィックスの資料を学校に持っていった。
昼休み、授業から戻ってきたばかりの
「どうしたの
小百合先生はいつもながら
「そうじゃなくて。ちょっとだけ
「なあに?」
「先生は、温室にあった植物を前に見てるんですよね? 二学期中に、ですか?」
「そうね。何回か温室には入ったけど」
僕はポケットから一枚の紙を取り出す。フィックスの資料から切り抜いた、花の写真。差し出すと、先生はそれを見て首を傾げ、それから「ああ」とうなずいた。
「この花、たくさん咲いてた。水栽培だったな、
「……それはたぶん、突然
自分の声が、なんだかプールの底から聞こえてくる
彩夏が育てていた花。
「これ、なんて花?」
「パパヴェル・ブラクテアトゥム・リンドルというんだそうです」
「うわ、
でも突然変異種だし、栽培可能だったってことは種として確立しているわけで、別の名前がつけられるべきなんだろうな。そんなことを考えながら僕は職員室を後にした。女子生徒の一団が購買部で買った戦利品を手に、楽しそうにお
あんな花のせいで、彩夏は──
僕の手は無意識に、写真の切り抜きをきつく握り
●
放課後、『ラーメンはなまる』に行った。客は一人もいないかわりに、店の前でテツ
「なにやってんですか……」
「
テツ先輩はドラム缶の上に手をかざしながら言う。中では雑誌とか新聞紙、解体した
「あとはダンボールハウスの組み立て方を
「でも、店の前でこんなことしてたらミンさん怒るんじゃ」
「いいのいいの、どうせ客来ないし、これ店の片づけ手伝った後始末だから。
なるほど、よくよく中をのぞきこむと松葉や
「おまえらがいるから客が来ないんだ」
「
「おれ去年つきあってた
「金杯の外れ馬券燃やした。ちくしょうJRAみてろよ。今年は絶対プラスにする」
「自分は学生証を焼こうとしたんだが二人に止められて」
いや、それは焼くなよ。
僕はぱちぱちと音をたてて揺らめく
「……それ、薬の」
ヒロさんが気づいたようだった。
「アリスからもらったやつだろ? いいの、燃やしちゃって」
「いいんです。もう、終わったんで」
「なんか調べてたの」
僕は
じっと黙って
「おまえ、アリスに似てるんだな。やっとわかった」
テツ
「ひとりで全部背負い込んで、なんも言わないとことか。自分がいっぱいいっぱいになると他人のこと全然見なくなるとことか。全部自分のせいだと思ってるとことか。だから変に気が合うのかね」
似てる? 気が合う? 自分では、とてもそうは思えない。
「でも、アリスは有能ですからね。
「身も
テツ先輩は笑った。僕は笑えなかった。その通りだったし。
「そろそろ裏に引っ込もうよ」
ヒロさんが言った。ラーメン屋に客がぼちぼち集まり始めていた。
ドラム
「おまえ、よくそんなん食べる気になるな……」
僕の
「……少佐がこれ頼んだ日のこと、
僕の問いに、少佐とヒロさんは顔を見合わせた。
「少佐が大学から資料を持って帰ってきて、ここで僕と
僕はあの日のことを──まだ彩夏が元気そうに厨房と客席を
「僕とヒロさんは四代目のところまで届け物に行って、帰ってきたら彩夏は早退してました。彩夏の様子が変になったのは、あの日からです。たぶん」
絶対にそうしないようにと注意していたのに、僕は思わずヒロさんの顔をちらと見上げてしまった。
「彩夏はここに置いてあった、エンジェル・フィックスの資料を見たんです。そして、自分が学校の温室で育てている花が、ドラッグの原料だってことを知っちゃったんだ」
「おれの……せい?」
ヒロさんがうめく。僕は
「置き忘れたのはヒロさんのせいじゃないです。だって、あれが
「でも、ナルミ君」
「ここから先は推測です。彩夏はたぶん、去年の夏か秋くらい、久しぶりに帰ってきたトシさんに頼まれて、学校でこっそりあの花を栽培し始めたんです。温室の裏口を使って、定期的にトシさんが実を採集しに来てたんだと思います。彩夏は、
僕の言葉はそこで
その先は? わからない。兄が自分にさせていることに気づいた彩夏は、どうしたんだろう。トシさんにそのことを問い
わからない。
なにがどう間違って、彩夏は飛び降りなきゃいけなかった?
アリスはその理由を知っているという。まだ僕の知らないピースをアリスが持っているのか、それとも僕の見落としているつながりがあるのか。わからない。なんで彩夏は飛び降りてしまったんだろう。なんで僕に一言もいわずにいってしまったんだろう。僕にもなにか、なにかできることが……
「じゃあ、もう、確実なんだな」
テツ
「トシが薬売る側に回ってるってのは、確実なんだな」
僕は弱々しくうなずいた。
アリスは、トシさんが関わっていない可能性もあると言っていた。僕にエンジェル・フィックスを見せた理由がわからない限り、たしかなことは言えないと。
四代目は、手配書に
二人とも、よくもあんな優しいことが言えたもんだ。
エンジェル・フィックス。
あの薬が。あのろくでもないピンク色の羽が、彩夏を連れていった。
「それで、おまえはどうすんの」
僕は口を半開きにしたままテツ先輩の顔を見た。責めるでもなく、怒るでもない、同情してもいない、まるでスロットのリールを見つめるときのような、温度のない先輩の目。思わず目をそらし、うつむく。
僕は──どうする?
わからなかった。だって、なにもできることがない。できることがあれば、もっと前にやってた。
今、彩夏のために僕ができることは、ただ、彩夏が死のうとした理由を掘り返すことだけ。なにか知っているはずのトシさんを見つけ出して。
「それ、ほんとに彩夏のためか?」
テツ
彩夏のため?
そんなわけない。もう、彩夏の心は死んでしまったのだから。
だから──
だから、僕が今こうしているのは、僕のためなのだ。自分の気を晴らすために、ただもがいているだけ。
「それでもいいじゃんか」
テツ先輩が言う。僕は顔を上げた。
「前に言ったろ。
「じゃあ」僕はテツ先輩と、
「当然だ。
「おれらニートは助け合って生きていかないと」ヒロさんは笑う。
でも、ニートが三人と将来たぶんニートになる頭の悪い高校生が一人集まって、なにができる? こんなちっぽけな手が八つ集まったところで、なにが──
「なんだってできるだろ」
テツ先輩が言った。
僕は
「……けて、……ださい」
歯を糸でこするような声が、僕の
「助けて、ください」
三人が
「……アリス? ああ、俺。今からトシの件で俺らも動くから」
見上げるとテツ先輩が携帯を耳に当てている。アリスの声がかすかに聞こえる。
『まだきみたちにはなにも
「ナルミから直接依頼受けた」
『では、今回は報酬は出せないぞ。ナルミから直接受け取りたまえ。支払い能力が
「ああ大丈夫、
「え、ちょっと待ってそれ得するのテツだけじゃん」
ヒロさんが口を
「おまえらには焼き肉おごるから」
「計算おかしくね? 二十七万チャラなのに焼き肉だけって」
「自分、欲しいモデルガンがあるんですがそれが八万七千円」
「うるせえないいだろそんなの!」テツ
僕は
力なく顔を持ち上げると、三人の顔が目に入る。僕は息を