冬休みの間も、僕はちょくちょく『ラーメンはなまる』に顔を出すことになった。行けばだいたい彩夏がいるから。家に閉じこもっていてもしょうがない。

 最初のうち、彩夏は僕が店に顔を見せるたびに驚いていた。

「藤島くんが用もないのに家から出るなんて」

 僕は一体なんだと思われてるんだろう。

 冬の『はなまる』はいつもひまそうだった。日中は客がほとんど来ない。まだ松の内だったし、それでなくてもこの店はラーメン屋ではなくアイス屋だと思われているふしがあるのだ。

 その日は僕とヒロさんと彩夏とで、ミンさんきんせいの巨大なかがみもちアイスをつついていた。ラーメンの試食でしょっぱくなってしまった舌に、ぎゆうひとヴァニラアイスの甘みが心地よい。ミンさんのスープもだいぶ向上してはいるんだけど、連続はつらい。

「あのあと、トシから連絡あった?」

 ヒロさんの問いに、彩夏はスプーンをくわえてまゆをひそめ首を振る。

「けっきょくお正月も帰ってこなかったの」

 あやはトシさんがドラッグにはまっていることを知っているのだろうか。年末年始にかけてこの街で起きたいくつかの暴力事件は、加害者をつかまえてみるとしやべることがめつれつ、半日くらい後にこうしよで禁断症状にのたうち回る、というものだった。僕は朝晩のニュースの時間、テレビ画面にしのざきとしの名前を探すようになってしまった。

「たぶん、まだはかざかさんのとこにいると思うんだけど」と彩夏は言う。

「その人って、トシの彼女?」

「ちがうちがう。男だよ。大学生だったか大学院生だって」

 お兄ちゃんに彼女なんているはずないよ、と彩夏はいつになく真剣そうな顔で言う。断言されるトシさんはかわいそうだったけど僕も賛成だった。でもヒロさんはちがう意見。

「そうかな。ああいう、なよっとしたのはヒモに向いてるんだよ。今ごろ女のアパートに転がり込んでても、おれは驚かない。つうかその方が安心だな」

「安心だけど……でも、おにいちゃんには無理だよ。ご飯も作れないし洗濯もできないし」

「いやいや。ヒモってのは掃除も洗濯もしないよ」

「そうなの?」

「たまに誤解されるんだけどね。家事なんてやったら主夫じゃないか。それじゃヒモとは呼べない。ヒモってのは、女の子に『ああ、この人はわたしがいないとだめなんだ!』と思わせなきゃいけないんだよ。だから家事も全部女の子にやってもらうの」

 最低だこの人。

「うわあ。あたしには無理だなあ。絶対、申し訳なくなって家事やっちゃうよ。晩ご飯作って帰りを待ったりしちゃう」

「そうだね。ヒモってのはだから、母性本能をくすぐるのが仕事なんだよ。普通の人にはできない」

「すごいねヒロさん」

 すごくねえよ、なにまんげに言ってるんだよ人間のきわみじゃねえか! と僕は思うが、二対一では突っ込むのも疲れるだけなので、黙ってかがみもちアイスに集中する。

「結婚しちゃったら? とか、思わないの?」

「思わないね」

「どうして?」

「実はおれ、心に決めた人がいるの。だからほかの女とは結婚できない」

「でもどうせいはオッケーなんだ。女の人に悪いとか思わない?」

「思うけどやめられないね、自分の生きざまだから」

「いっぺん死ね」

「だめだよふじしまくん思ってることがせりふで出ちゃってるよ!」

 あ、ほんとだ。まあいいや。

はかざかと言ってませんでしたか?」

 僕の背中からいきなり声がする。振り向くと、ロシア兵のような四角い毛皮のぼうと、むっくりとぶくれたトレンチコート。しようだと気づくのに少し時間がかかった。ゴーグル型サングラスは目に食い込んで顔に同化しているように見える。

「あ、むかさんだ。お久しぶり、あけおめ! なんか注文ある?」

「任務中だ」

「ニンニクちゆう?」

「う……じゃあそれで」

 なぜか少佐は流されて注文してしまう。というかニンニク中華ってなんだ。

 どうも少佐はあやが苦手みたいだった。少佐をちゃんと名前で呼ぶのは、僕が知る限り彩夏だけだ。向井さん、というのを聞くたびに、だれそれ? と思ってしまう。

「ようやく仕事だ。ミンさん、冷やし中華のニンニクやまりで!」

 彩夏は立ち上がってちゆうぼうけ込む。この季節に冷やし中華かよ。少佐は生きたヒキガエルを丸みしたときみたいな顔をしてから、彩夏の座っていたドラムかんこしを下ろす。

「少佐、墓なんとかって人知ってるの?」とヒロさんがたずねる。

「うちの大学の院に、墓見坂っていうやつがいるらしいんですが」

 僕とヒロさんははっとして顔を見合わせる。ヒロさんは少佐の方に身を乗り出して言った。

「トシと最近つるんでるやつが、そういう名前らしいんだけど」

 少佐はあごに手を当てて少し考え込む。

「知り合い? ならいてみてよ」

「いや。名前知ってるだけです。有名人なんですよ、研究室に全然顔を出さないのに博士論文が通ったとかで。でもみよう同じだけかもしれませんよ。なんでトシがそんなやつと」

「そのへんに転がってるような名前じゃないだろ墓なんとかなんて。頼むよ。トシ、あれから全然連絡ないんだって」

「いやしかしねえ……今日行って来たばかりだというのに、また大学に顔を出せというんですか。学生や教授がうじゃうじゃいるんですよあそこは」

 そりゃ当たり前だ。というか少佐、大学生だったのか。ちょっとショック。

「たまに顔を出すと教授どもがうるさいのですよ」

「さっさと中退すりゃいいのに」

「なに言ってるんです。なるべく長く在学するために、単位をぎりぎりだけ取って、あとはほとんど講義に出ないで、進級したり卒業したりしないように戦線保持してるんです。きっかり八年在学してからやめますよ」

「……卒業しないんですか?」と僕はうかつにも訊いてしまった。

「大学をきちんと卒業するようなやからにニートがつとまるかッ! ニートの二文字目のEをなんだと心得てるんだ貴様はッ!」そんなことでられても困る。

しようはね、調べものすんのに便利だから大学生やってんだって」

「歴史書も軍事資料も高いんですよ。大学図書館に買わせるのが最良。中退するまでちんじようしまくっていずれ一室を自分しか読まない書籍でめ尽くし少佐ルームと名付けます」

 自分で買えよ。めいわくな学生だなあ。

「それで、ふふ、聞いてください、今回入った資料でせんかん武蔵むさしのね」

「つーか少佐、アリスになんか頼まれて大学行ったんじゃなかったっけ」

「ああそうだ。忘れてました」

 少佐はバックパックを開いてひっくり返すと、真ん中のテーブル代わりの木箱にざばざばと書類を広げる。

「コピー見ます? いやそれ上下逆です」

「見てもわからない」

「自分もわからんですがね」

 僕はヒロさんの手元の紙をのぞきこんだ。カラー印刷で、せんたんしんの花をつけた背の高い植物の写真がっていて、その周囲をびっしりと細かい文字が埋め尽くしている。

「今、街で騒いでる薬あるだろ。四代目に頼まれてアリスが調べてんの。そうとうヤバいらしいよ。まさかトシがやってんのもこれじゃないだろうな……」

 僕ははっとして、クリスマス色の街の輝きにかざされた、うすもも色の小さなじようざいを思い出す。天使の羽のこくいんと、二文字のイニシャル。トシさんが食っていた、『止まって見える』ドラッグ。名前は。名前は、なんといったっけ? 思い出せない。のどもとまで出かかっているのに。

「あの、それ」

むかさん、おまちどおさま」

 僕の声をさえぎってあやが冷やしちゆうを運んできた。僕は言葉をみ込む。この話は彩夏に聞かれたくなかった。ヒロさんは「ん?」と首を傾げる。僕はぶんぶん手を振ってみせた。

「なんですか、それ」彩夏が資料をのぞき込もうとしたので、とっさに僕はそれをヒロさんの手から引ったくって裏返していた。

「もー、なんでかくすのふじしまくん」

「なんでもない、なんでも」

 そのとき、ようやくその日はじめての客がラーメン屋の入り口に現れたので、彩夏はエプロンをひるがえして行ってしまった。僕はほっと息をつく。

「なんだよ、どうしたのナルミ君」

 僕が口を開きかけたとき、いきなり大音響の『コロラド・ブルドッグ』が鳴り渡った。少佐のがら身体からだは一メートルくらいび上がる。ヒロさんもあわてて携帯を取り出すけど、少佐が一歩早かった。

『来ているのはわかっているんだ、油を売ってないでさっさと持ってきたまえこっちにもきゆうの用があるんだ! ヒロはすぐ車を回してきたまえ、大至急だ!』

 電話の向こうのアリスの声が僕にもはっきりと聞こえた。しようの耳に刺さりそうなくらいとげがある。少佐がなにか言い返そうとしたら通話が切れたらしい。

「今日もげん悪いのかな、アリス」と、ヒロさんは背後のオンボロビルを見上げる。

「知らないんですか。アリスは二十九日周期で五日間ずつ、非常に精神的に不安定になるんですよ。綿密な調査の結果ですから間違いありません。原因はまだ究明できてませんが」

 そりゃ生理だ。でも手帳を取りだしてカレンダーのページを得意げにヒロさんに見せている少佐の顔を見てると、突っ込めない。

「いいから早く持っていきなよ」

「だから二十九日周期で今日はその二日目」

「おれ車持ってくる。なんの用だろうな」

 ヒロさんは行ってしまった。取り残された少佐は黙り込む。僕は首を傾げる。そんなにアリスが怖いのだろうか。というか機嫌悪いのなんていつもじゃないの? なんてことを口にしたら、ゴーグルの向こうからすげー目でにらまれた。

 やがて、少佐がおごそかに口を開く。

「貴様はざわさぶろうちゆうじようを知っているか。大日本帝国海軍の最後の連合かんたい司令長官だ」

「知るわけないです」

「レイテおき海戦も知らんのか。世界最大の海戦だぞ。小沢中将の機動部隊はおとりとしてかんに先行し、米海軍ハルゼーたいしようの注意を主力・くり艦隊から引き離すことに成功した」

「はあ」

「というわけでよろしく頼むふじしま中将」だれが中将だ。「やすくにおう」

「いやですよ!」


    ●


 でもけっきょく僕は少佐と一緒にアリスの部屋に行くことになった。アリスは自室のベッドの上で毛布にくるまって、半泣きになっていた。

「モッガディートの耳が取れてしまったんだ」

 ベッドの前には、巨大な茶色いクマのぬいぐるみが置いてあった。どう控えめに見てもアリスより大きい。アリスがちっちゃいだけなのかもしれないけど。彼女の言う通り、クマのモッガディートくんの右耳は糸がほつれてもげかかっていた。広がったい目の間から中の詰め物が見えている。

「そうっとだぞ! そうっと箱に入れてくれたまえ! かんしようざいもちゃんと詰めて! ナルミ、傷口にさわるな広がったらどうするんだ!」

 きんきん泣き叫ぶアリスの指示のもと、僕としようは手負いのぬいぐるみを大きな段ボール箱に納め、すきに丸めたタオルを大量に詰め込んだ。ものすごくかさばるこんぽうだ。たしかに一人で運ぶのはつらい。

「じゃあ、四代目のとこに持って行けばいいんだな」と少佐。

「必ず今夜中と頼んでおいてくれたまえ、ぼくの命がかかってるんだ!」

 なみだでアリスは言う。なぜに四代目? 命? 僕の頭の中で大量の疑問がうずを巻いたけど、なんだか口をはさめる雰囲気ではなかった。

「それで、頼まれてた資料」

 アリスは少佐の手からクリアファイルを引ったくると、パラパラ漫画でも見るみたいにしてものすごい速さで中身を読み、コピー一部だけ抜き出して僕に投げつけた。

「なにをぼさっとしているんだ、ついでに四代目に届けろと言われなきゃわからないのかい!」

 僕らは逃げるようにして、ぬいぐるみを入れた段ボール箱をアリスの部屋から運び出した。


    ●


 ヒロさんの車は深いブルーの高級そうな外国車だった。とてもじゃないけど十九さいが持ってていい車には見えない。

「車持ってんの、おれだけだからね。自分で買ったわけじゃないけど」

 彼女のプレゼントだという。しかも三つ前の彼女だって。いつか女に刺されるんじゃないだろうか、この人。

「でも、車で行くのは自殺行為じゃないかな……」と僕はきらびやかな夜の光に染まった線路の向こう側を見やる。南口前に集まる大動脈のごとき三本の通りは、じゆうたいしていないときなど見たこともない。

「だからって、これを歩きで運ぶのも自殺行為だろ」

 ぬいぐるみの入った段ボール箱を見下ろす。ヒロさんの言う通りだった。バイクの後ろにしばり付けて運ぶという手もなくはないけど、しようは大学に戻ると言って、原付に乗って行ってしまった。はかざかという人のことを調べるらしい。

 僕らは車の後部座席にその箱を押し込み、シートベルトでうまく固定してから運転席と助手席に乗り込んだ。

「なんなんですか、あのぬいぐるみ」

「あれがないとねむれないんだって、アリス」

「はあ」あれだけ大騒ぎして、そんなオチかよ。「でも、どうして四代目に」

「あー。四代目、ああ見えても手芸が趣味なの。前もこのクマ直してもらったんだよ。プロなみのうでなんだよね、おれもいっぺん作業中を見たことあるけど」

「な」

 車は音もなくすべり出した。夜景が光の川になる。

「何者ですかあの人は」

ひらさか組って知ってる?」

 聞きおぼえのある名前だった。学校でもたまに話題にのぼる。

「暴走族でしたっけ」

「違う違う。走ってないよ。ただこのへんのけんっ早いのとか騒ぐのが好きな子供が大勢集まってやくざ気取ってるチーム。四代目はそれの頭なんだ」

 ヒロさんはなんでもなさそうに言うけど、平坂組といえば引っ越してきたばかりの僕でも知ってるくらいだから、けっこうなビッグネームじゃなかったっけ。

「四代目の頭だから四代目って呼ばれてたんですね」

「いや、平坂組は初代だよ。あいつが作ったの。あいつ以外にあんな連中全員締められるやついないよ」

「え、じゃあなんで四代目なんですか?」

「それはね、関西の方に実家があって、逃げてきたらしいんだけど、そっちの四代目なんだってさ。そっちは本職のヤのつくお仕事」

 うわあ。マジかよ。そのまんま四代目やってろよ。

「四代目って呼ばれると、そりゃもう怒るんだよ。で、アリスがおもしろがって四代目四代目って呼んでたら、おれらの間ではそれで定着しちゃった」

「ひでぇ……」

 そうつぶやくと、ヒロさんはステアリングを手のひらでぱんぱんたたいて笑う。

「そうだね。ひどいやつだよ。でも、だれも勝てないんだよなあ。四代目も、おれらも。わかるだろ?」

 僕は、あの日本人形みたいな白いはだと大粒のひとみくろみつかみを思い出す。ヒロさんの言うことはわかった。僕だって勝てる気がしない。

「でもこれほかのメンバーに言っちゃだめだよ。四代目に殺される。平坂組はあれだ、自称・にんきよう団体だから。硬派なの。だから薬とか絶対に許さないわけ」

 それで僕は思い出す。

「あの、ヒロさん、そのヤバい薬の名前知ってますか」

「ううん……いや、忘れた。そこの資料に書いてない?」

 四代目に届けるための資料の束を探ってみた。むずかしい化学式と物質名だけで頭がくらくらしそうだった。常同行為、興奮、かくせい、不眠、食欲不振、血圧上昇、色覚えいびん化、聴覚鋭敏化、さんどう……一目で危険な薬だとわかる薬効がずらずら並んでいるけれど、かんじんのその薬の通称がっていない。

 取り越し苦労だったらいいんだけど、と僕は思う。


    ●


 ひらさか組の事務所(?)は、駅前センター街の左手の坂を少し上ってわきみちもぐり込んだところのぎたないビルに入っていた。

 僕らは地下駐車場に停めた車から箱をおろすと、ぜんそく持ちの老人みたいなな音をたてるせまいエレベーターでそれを四階まで運んだ。出てすぐのところに待ちかまえていた金属扉の脇には、いかめしい毛筆調の行書体で『平坂組』と書かれたたてながの板。黒丸の中にあげちようがらもんまでついてる。いや、家紋じゃなくてだいもんというのか。僕は真剣にびびる。なんだこれは。ひょっとしてマジモンじゃないのか。でもヒロさんは呼び鈴も押さずにドアを開けた。

 中は学校の教室より一回り小さいくらい。壁際に並んだロッカーや部屋の真ん中に向かい合ったソファや奥に構えたデスクのせいでさらに狭く見える。座っていた四、五人の黒Tシャツの男たちがいつせいに立ち上がった。

、お疲れさんス!」

「お疲れさんス!」

 そろってヒロさんに一礼する。僕は思わず後ずさって、運んでいた箱を落としそうになってしまった。なんですかこのノリは。叔父貴?

 黒Tシャツはみんな若かった。高校卒業してるかしてないか、くらい。サロン焼けしたのとかかみを染めたのとかピアスを入れたのとか、夜のセンター街をよくうろついている普通の若者。普通じゃないのはTシャツの胸に入ってる揚羽蝶の代紋だけだ。

「いやあの、いつも言ってるけど叔父貴はやめてくれ」とヒロさん。

「でもそうさんと叔父貴は兄弟みたいなもんでしょう。荷物お持ちします」

 そう言って箱をゆかに下ろしてくれたのは、いつかのボディガードのいわ

「うーんまあ、おれも色んなとつきあってたからそういう意味の兄弟なら」どういう意味の兄弟ですか?

「ヒロてめえ殺されたいのか」

 右奥の扉が開いて出てきたのが四代目だった。その日は淡いむらさきそでしシャツ。左かたには代紋の入れずみ

「報告書じゃなかったのかよ。なんだそのでかい箱は。まさかそれいっぱいに入ってんじゃねえだろな」と四代目はデスクのこしを下ろしてけだるそうに言う。ヒロさんは首を振って、床に下ろした箱のガムテープをはがした。

「いやいや。アリスから頼まれごとでさ、ぬいぐるみの耳が取れちゃったから直し」

 聞くなり、四代目の身体からだが文字通りび上がった。デスクを越えて僕のすぐ目の前にだん、と着地すると、開きかけていた箱のふたを押さえてものすごいぎようそうでヒロさんをにらむ。

「わかったからこんなとこでしやべんじゃねえ!」

そうさん、なんスかその箱」と、取り巻きの一人が寄ってくる。

「なんでもねえ! おれの車に運んどいてくれ、中身見るなよ絶対だぞ見たらおくが消えるまでなぐるからな!」

 台風みたいなけんまくでまくしたてると、車のキーをその男の人に投げ渡す。「、男みがかせてもらいます!」と、男はキャッチして一礼。段ボール箱を運ぶとどういう理屈で男が磨けるんだろう。

ねえさんからの預かり物だていちように扱えよ」「押忍ッ」

 姐さんてアリスのことか。変な映画の見すぎじゃなかろうか。箱は黒Tシャツ二人の手によって事務所から運び出される。なんかすげーな労働しませんでしたか僕ら? とヒロさんを見上げると、にやにや笑っている。ああ、四代目にいやがらせするためにわざわざここまで運んだのか……。僕には喋るなとか言っておいて、からかう気満々だったのだ。

「今夜中だってさ」

「わかってるよ。終わったら俺が届ける」

 組長ともあろうお方が、ひきこもりのパジャマむすめのために夜なべで針仕事するのである。なぞだ。いったいどうなってるんだろう。みんな知ったら驚くだろうなあ、と僕は構成員の方々を見回した。

「おまえも知ってんのか。ヒロが喋ったか?」

 四代目が僕の胸ぐらをつかむ。

「し、知ってるってなんですか」

「だから。アレだよアレ」ここで僕の中の変なスイッチが入る。

「えと。アレって言われても」「アレだよ知ってんだろ? 俺の、アレ」「いや、あの、アレってのがなんなのか言ってくれないとわからないです」「とぼけてんじゃねえ! 俺の口から言えるか馬鹿」「えーと、じゃあ、よくわからないけど僕の口から心当たりを言ってもいいですか」「殺すぞ」「ナルミ君、楽しいのはわかるけどそのへんにしとけよ四代目がかわいそうだよ」「かわいそう言うんじゃねえ!」「んで、これが報告書」

 なにごともなかったかのようにクールに、ヒロさんはクリアファイルを差し出す。四代目は僕をゆかに投げ捨てて、ファイルを引ったくった。「おい、病院のファイル持ってこい」と言いつけると、黒Tシャツの一人が奥の部屋に引っ込み、しばらくして水色のファイルを手に戻ってくる。

 デスクの向こうに回り、二つのファイルを並べて四代目は真剣な表情になる。ヒロさんがそれをのぞき込んでいた。

「なにそれ」

「ここ一ヶ月でこのへんの病院に薬でぶち込まれたやつの病状、手当たり次第調べた」

「根性あるなあ……ああ、それで照合すれば」

「そう。……ん、こいつは……」四代目の指が、資料に書かれた薬効の上をたどり、それから水色のファイルのページをさす。「……当たりかな。にしちゃ長いし、覚醒剤エスならちよくで飲まねえし。若いし」

「フィックスですか?」

 ボディガードいわが横からファイルをのぞいて言った。

いてみなきゃわからない。N病院だ。行くぞ」

 四代目の一言で、座っていた黒Tシャツもみんな立ち上がって上着をる。部屋の空気がいきなり全部入れ替わったような気がした。

 ……フィックス?

 僕の中でそのときようやくおくが立ち上がる。天使の羽の下に刻まれていたのは、A.F.だった。トシさんは言っていた、エンジェルは差別しないって。

「……エンジェル・フィックス?」

 僕のつぶやきに、四代目がものすごいぎようそうで振り向いた。こしくだけそうになる。

「なんでおまえがそれ知ってんだ」

「え……あ、あの……」

 四代目にえりくびをつかまれながら、僕はトシさんとピンク色のじようざいのことを話した。

「トシって、あのトシのことか」

 四代目の問いに、僕のかわりにヒロさんが青い顔で答える。

「その日、おれも一緒にいたんだよトシと……あいつ……」

「おい、トシが持ってたのは錠剤なんだな。丸のまま、たしかだな?」

 僕は四代目に襟首をぎりぎりと締め上げられながら必死にうなずいた。ヒロさんが四代目のうでをつかんでほどこうとする。

「やめろよ殺す気か。錠剤がどうしたんだよ」

 四代目は僕をソファに投げ捨てる。僕はゆかに手をついてむせた。降ってくる四代目の声。

「前に言わなかったか。フィックスはさばけ方が特殊なんだよ。ルートがないも同然、買ったやつが割ったり粉にしたりして知り合いに転売する。もうける気がまるでないみたいに胴元が全然浮かんでこない。一つたしかなのは、錠剤を丸のままで何個も持ってるってことは」

 そこで四代目は言葉を切って、ちらと僕を見た。

「直で買ったやつか売人か、どっちかだ」

 メンバーが持ってきた白のハーフコートを羽織り、四代目は携帯でぎ早に指示を出す。病院に向かうのと、トシさんをさがすのと。四代目と留守番一人を残して、組員たちはあわただしく事務所を出ていく。

「帰ろう、ナルミ君」

 ヒロさんが僕のジャンパーのそでを引っぱった。ぼうっと突っ立っていた僕は、我に返る。

「あの、トシさん……さがさないんですか」

「おれ居場所知らないし」

「でも」

 僕が、もっと早く気づいてれば。

「なにやってんだ。さっさと帰れよじやだ」

 四代目が毒づいたので、ヒロさんは僕の腕を引っぱって出口に向かおうとする。でも僕の足は動かなかった。なにか僕にもできることがあるんじゃないだろうか。トシさんのことなんてなにも知らないけど、姿を消す直前に言葉を交わした最後の人間は僕だ。なにか。

「なんもねえよ。いいから消えろ。もうこの薬で人が死んでんだぞ」

 四代目がざくりと答える。

「でも……」

 僕のせいだ。あのとき、ちゃんとつかまえておけば。もっと早く、薬の名前を思い出して、だれかに相談していれば。

「ナルミ君」

 ヒロさんが後ろから口をはさもうとしたが、四代目がうでを持ち上げてそれを制した。み殺されそうな気がした。僕は口ごもって足下に視線を落とす。組員たちの足音がドアからすっかり流れ出してしまうと、僕はそっと顔を上げた。

 四代目はソファをはさんだ向こう側に立っていた。なのに、次の瞬間は僕のすぐ目の前におおかみがあって、腹ににぶしようげきが突き込まれ、僕は身を二つに折って口からよだれらしていた。四代目は僕にボディブローした腕でそのまま僕を支えるとソファに乱暴に転がした。

「これがナイフだったらおまえはあの世行きだ。いきがってんじゃねえガキ。おまえみたいな一般人が首突っ込んででもしたらこっちがめいわくなんだよ。消えろ」

 四代目も出ていってしまった後で、僕はヒロさんのかたを借りてなんとか立ち上がる。


    ●


 ラーメン屋に戻った頃にはすでに日はすっかり暮れていて、手でさわれそうなほど硬い冷気がビルの間にわだかまっていた。明かりに照らされた『ラーメンはなまる』ののれんの周囲だけがかすかにやわらいでいる。僕はそのこうぼうにしばらく見入ってしまった。

 店の勝手口に回ると、古タイヤの席にテツせんぱいの半そでシャツの背中があった。どんぶりかかえたまま先輩は振り向く。しばらく、暗がりにめんをすすりこむ音だけが響いていた。

「ヒロは?」

「今、車置きに行ってます」

 僕は古タイヤにこしを下ろした。次の言葉はなかった。せんぱいは塩ラーメンをスープまで平らげると、背中からくしゃくしゃになったパチスロ情報誌を取り出して開く。

 トシさんのこと聞いてないのか。それとも知ってるけど全然気にしてないのかな。もしかして、大した接点もないのにうろたえている僕の方が馬鹿なんだろうか。

「なんだよ?」

 僕の視線が気になったのか、テツ先輩は雑誌から顔を上げた。

「あの、トシさんのこと、聞きましたか」

「四代目からさっき電話あった。馬鹿だなトシは」

「昔、ここの仲間……だったんですよね」

「今でもそうだよ。顔出せば」と言ってテツ先輩は笑う。

 じゃあ、心配じゃないんですか?

 先輩の顔から笑みが消える。僕の思っていることを察したみたいだった。

「あのさ、あいつが助けてくれって言ってきたわけじゃないだろ。どこにいるかもわかんないんだし、ほっとくしかないだろ」

 それはそうなんだけど。

 でも、と僕は思う。もし、助けを呼べないほどにひどい状況だったとしたら? 声にならないその声を、だれが聞き取ってあげればいいんだろう。少なくとも、僕にはできない。僕にできることはなにもない。

おれは7を三つそろえるためにあるの。馬鹿なヤク中のガキをさがすのは四代目の仕事」

 そう言って先輩はパチスロ誌に目を戻した。

 この人、ほんとに元ボクサーなんだろうか……。

 僕はふと思いついて立ち上がるとテツ先輩に近寄った。先輩が雑誌から顔を上げるのとほとんど同時に、その腹に向かってこぶしを突き出す。ぱちん、とけな音がした。僕の拳はテツ先輩の大きな左手の中に収まっていた。

「なにしやがる」

 怒ってるふうでもない口調でテツ先輩は言う。僕は首を振って、地べたにしゃがみ込んだ。

「……テツ先輩。ボクシング教えてください」

「なんだよ急に」

「いや、なんとなく」

 自分が弱いのもガキなのも知っていたはずだった。でも腹の底にあらためて突っ込まれると、やっぱりこたえる。しょうがない。現実として僕にできることなんてなにもないのだ。

 そうだ、さすがにトシさんのことをあやに話しておくべきだろうか。でも、なんて切り出せばいいんだろう。そう思いながらちゆうぼうも店の外も捜してみたけど、彼女の姿はなかった。客はけっこう入っているのに。

「ミンさん、あやはどうしたんですか?」

 勝手口から頭を突っ込んでたずねると、ミンさんは強火のちゆうなべから目をそらさずに答えた。

「さっき早退したぞ。すっごい具合悪そうだった。なんかあったのか」

 早退?

 僕はテツせんぱいの顔を見る。

おれが来たとき、もういなかった」

 トシさんの薬のことを聞いた──わけじゃないのか。じゃあ、どうしたんだろう。残りのかがみもちアイスをひとりで食べて腹でもこわしたんだろうか。

 僕はドラムかんに背中をくっつけて地面にうずくまった。道を間違えたのに気づいて引き返すたびに、また別の袋小路にはまる。そんなことを延々と繰り返しているような気分になってきた。

 うなだれていた僕のポケットで携帯が震える。

『四代目から聞いた。こんな重要なことを忘れていたきみのまいさを追求するのは後回しにしよう。彩夏はどうしたんだ、携帯もつながらない』

 アリスの声も、心なしか冷たく聞こえる。

「……なんか、具合悪くて早退したって」

『早退? まいったな。トシにつながる唯一のラインなんだが。明日あしたから三学期だろう、学校で見かけたら即刻ぼくに電話するように言っておいてくれたまえ。あの兄妹がまだ連絡を取り合っているとも思えないが……』

 そこで僕は、あの夜、トシさんから彩夏の携帯にかかってきた通話を思い出す。はかざかという人の携帯を借りたと言っていた。

『どうしてそれをもっと早く言わないんだ! まったくきみのどんさにはあきれるばかりだ、たとえるものも思いつかないよ。しようにゆうせきが育つ速度だってきみの頭の回転に比べればまだしゆんびんだろうに』

 すげえ言われようだった。僕は縮こまる。

『その電話は何時頃だった? なるべく正確に思い出してくれたまえ』

「七時前……くらい、だったかな。なんで時間なんか」

『通話記録を調べれば相手がわかるだろう。トシの電話はずっと不通だが、その墓見坂なる人物の連絡先がわかれば前進だ』

 通話記録を調べる? どうやって?

「非通知だったって言ってたよ」

『それがどうしたんだ。彩夏の携帯に通知されていないだけだろう。局には通話記録が残ってるじゃないか』

 いや、それどうやって調べるんだ。犯罪じゃないの?

『きみはニートたんていを見くびっているのかい?』

 アリスは通話を切った。

 僕は冷たくなった自分の携帯を、しばらくじっと見つめていた。そういえばあいつはハッカーだみたいなことを言っていたっけ。そりゃ僕のプロフィールを調べるくらいは、ちょっとネットにくわしければドクターペッパー片手に鼻歌混じりでできるだろうけど、電話局の記録は無理だろ、と思う。

 僕が心配してもしかたのないことだった。僕にできるのは、あやにトシさんのことを伝えることだけだ。せめてそれくらいは、僕の役目だろう。でも、なんて言えばいいのだろう。おにいさんはヤク中だから近づくな、とでも?

 わからなかった。うまく話せる自信もなかった。


    ●


 始業式の日、彩夏は学校を休んでいた。よっぽどひどいでも引いたのだろうか、と心配になって彩夏の携帯にかけてみたけれど、出なかった。僕はしかたなく、だんと屋上のはちえの世話をひとりでした。温室は放置。

 次の日も彩夏は来なかった。ラーメン屋に行ってみても、いない。

「無断欠勤するようなやつじゃないんだけどな」と、ミンさんはまゆを寄せ、給仕にどんぶり洗いに、とぼうさつされていた。僕も洗い物をちょこっと手伝うになった。

 彼女がようやく学校に姿を見せたのは、新学期が始まって五日目の金曜日だった。放課後すぐに屋上に行ってみると、そこになつかしい後ろ姿があった。左うでには黒いわんしようはちえに水をやっている。振り向いた彩夏の顔を見た僕はぎょっとした。以前となにも変わっていないはずなのに、一瞬だけなんだか別人の顔に見えたから。

「ごめんね、勝手にいっぱい休んじゃって」

?」

「うん。まあ、そんなとこ」

 笑い顔に力がなかった。無理につくってるのが僕にもわかる。

「あたしのいない間もちゃんと部活やってたんだね」

「部員だからね」

「ありがと、ふじしまくん」彩夏は切ないくらいき通った笑顔を見せる。「でも腕章つけてくれるともっとうれしいかな」

「いや、あれは恥ずかしいから、わ、やめろ」

 あやは自分のわんしようを外して僕に襲いかかると、強引に僕の左手に通してしまった。

「今日一日、外しちゃだめ。部長命令です」

 その日の彩夏はほんとに楽しそうだった。せんていのしかた、たね選び、肥料の種類、花言葉、とてもおぼえきれないほどのことを教えてくれた。その様子を見て僕は、「なにかあったの?」という言葉を何度も、何度も、何度もみ込んだ。トシさんのことを言おうと思ったけれど、最初の言葉がついに見つからずじまいだった。

 やがて日没がやってきた。向こう側の校舎の時計は四時四十五分を指していた。僕らはフェンスの際に並んで座り、あかねぞらながめた。

ふじしまくんて兄弟いるっけ?」

 ぽつりと彩夏が問う。

「姉が一人」

「へえ。仲いいの?」

「あんまり。最近は毎日帰りが遅いからよく怒られる。でも飯をちゃんと作ってくれるくらいには仲がいいかな」

「あれ、おねえさんがごはん作ってるの? 親は?」

「父親は一年に五日間くらいしか家にいないし母親はもうこの世にいない」

「あー……ごめん」

「母親のことかれてもう死んでるって答えると、なぜかみんな謝るんだけどさ」と僕は言った。「なんでだろう。べつに僕は怒ったりしないのに。それともこういうところで怒るのが普通なのかな」

「うー……ん?」彩夏は視線を宙にさまよわせる。「無理に怒ることはないと思う」

「そうかな。なにが普通なのかよくわからない」

「藤島くんは、そんなに自分を欠陥品みたいに思うことないよ」

「そっちが最初に欠陥品だみたいなことを言ったんじゃなかったっけ」

 彩夏は乾いた笑い声をあげる。

「あれはさ。あたしのうそなの。あたしもね、しやべるの不器用だから。ほんとは藤島くんと話したかっただけ」

 ほおに彩夏の視線を感じた。僕は頭を動かせなくなってしまった。

「中学は全然行ってなくてさ。家で勉強してたの。この学校に入って、最初からやり直そうって思って、なんとか、なんとかね……。五月くらいまでは、昼休みも放課後も毎日、屋上で過ごしてたんだけど。だましだまし、みんなと喋って、なるべく屋上には来ないようにして。でもほんとは、心の中ではずっとひとりで、土いじりしてるときがいちばん安心して、でも」

 彩夏は夕空を見上げた。

「ある日、どうしてもつらくなって、屋上に来たら、藤島くんがいた」

 いつのことだろう、と僕は思う。僕が意識するよりもずっと前から、あやは僕を知っていた。

「話しかけようと思って、でもその日はできなくて、だから、だから、はちえをいくつか屋上に運び上げたの。部活するふりして屋上に来られるでしょ」

 僕はもう、息もできなくなる。

「あたし、ふじしまくんより不器用かもしれない。あのね、すっごい感謝してるんだけど、たぶん伝わってないと思う。だから、春になったら──」

 彩夏はそこで言葉を切って、雑草の生い茂ったコンクリートのゆかを見つめた。

 春になったら?

 なんだろう、今日の彩夏はほんとに変だ。心にぐさぐさ刺さってくるようなことばかり言う。やっぱりなにかあったのか、かなくちゃいけない。

 でも口を開きかけたとき、屋上の扉が開く音がした。

 見ると、淡い山葵わさび色のスーツと印象的なロングヘア。園芸部もん先生だった(みんな下の名前で呼ぶので実はみようを知らない)。

「あ、いたいた、二人とも」

 小百合先生は高いヒールで危なっかしく屋上の打ちっ放しコンクリートの床に下りると、手を振りながらこっちにけてきた。

しのざきさん、ずっと休んでたけど、?」

「もう治りました」

 彩夏は緊張した笑顔で言う。

「そう。よかった。それでね、ここに置いてある鉢植え、近々片づけてもらおうと思って」

「なにかあるんですか?」と彩夏がまゆを寄せる。

「卒業アルバムの全体集合写真。屋上に集めてヘリから撮るんだって」

 小百合先生は屋上を見回す。

「でもここ、草ぼうぼうね。草むしりまで二人にやってもらうわけにはいかないなあ」

 先生の言う通り、コンクリートブロックの境目にわずかに入り込んだ土にすがって、雑草はびっしりと一面に生えていた。

 先生はふところから巻き尺を取りだして屋上の幅を測り始めた。卒業生は二百人くらいいる(うちは都心の公立校にしては珍しいくらい生徒数が多いのだ)。全員入りきるのか? と僕は思う。

「そうか、もう卒業の時期なんだね。早いなあ」

 小百合先生が行ってしまった後で、彩夏がさみしそうに言う。

「でも藤島くんがいるから園芸部は大丈夫かな。来年、新入生いっぱい勧誘しなくちゃね」

 彩夏は僕のうでの黒いわんしように目をやる。僕は、黙ってうなずく。

 ずっと後になってからも、僕はこのときの彩夏の言葉を何度も何度も思い出すことになる。どっちの意味だったんだろうか、と。

 僕と二人だから大丈夫、だったのか。

 それとも──僕が残るから大丈夫、という意味だったのか。

「だからさ、ふじしまくん……」

 あやはなにか言いかけ、僕の顔をじっと見つめる。彩夏が言葉に出すのをためらったのは、それが最初で──最後だった。どうしてそのときの僕は、それに気づかなかったんだろう。それがほんとうに特別だということに、どうして気づかなかったんだろう。

 でも彼女は、まどう僕に笑ってみせ、首を振った。

「ごめん、なんでもない」


    ●


 その日はそれでおしまい。部活の後、僕らは二人でラーメン屋に行った。彩夏は無断欠勤をミンさんにめちゃくちゃ怒られ、はしゃぎ回って仕事中にどんぶりを割りまくった。

 僕がやたらと苦いまつちやアイスを試食していると、テツせんぱいしようもヒロさんも、珍しく早い時間から姿を見せた。

「三人で見舞いに行ってきたんだ」とヒロさん。

「お見舞い? ですか」

「四代目のとこの若い子が刺された。フィックスの売人を見つけたんだけど、ラリっててナイフ持ってたんだって」

「え……」

「まあなんとか無事でよかった。あいつおれこうはいなんだよな」

 テツ先輩は非常階段にこしを下ろして、ふうっと息をつく。

「今、ひらさか組がめちゃくちゃさつ立って街中さがしてる。だから、もし、トシが薬売ってる側なら──」

 先輩は、ちゆうぼうの彩夏をちらと見て声を落とした。

「もうすぐ見つかるかも」

「それと、はかざかというのは、やっぱりうちの院生らしい」としようは教えてくれた。「そっちはアリスが追ってるから、そのうちそくできるだろうな」

 僕は、厨房の彩夏をちらと横目で見た。もうすぐ見つかるなら、無理に話すこともないかな、と自分に言い訳する。彩夏を心配させたくなかった。

 できれば、トシさんは、どっかのだれかから偶然フィックスを手に入れて、はまっちゃっただけ──であってほしかった。

「よし。トシが戻ってきたときのために、ナルミに色々仕込んでおこう」

「じゃあまずはチンチロからだね」

 え、なにそれどういう話の流れ?

 でもテツせんぱいしようとヒロさんに包囲されて逆らえるはずもなかった。僕ははじめてお金をけてチンチロリンをやらされ、なぜか大勝ちしてテツ先輩に二十七万円のさいけんをつくった。負けが込んできた先輩は、ちゆうから「持ってねえけど一万円張り!」とか「払う気はさらさらねえけど二万円張り!」とか言い出すのだ。むちゃくちゃだこの人。


    ●


 帰り道、バス停までの道のりをあやと一緒に歩きながらも、僕はけっきょくなにも言えなかった。橋を渡りきったところでちょうど僕らの前をバスが走り抜けた。彩夏はあわてて走り出し、途中で振り向いて僕に向かってうでを大きく振り回した。

 僕はそのときの彩夏の姿を、今でもはっきり思い出すことができる。

 彼女が最後に見せた、無傷の笑顔。


    ●


 彩夏が校舎前のだんに倒れているのが発見されたのは、次の週の火曜日の朝だった。空気がぎしぎしにこおりついた早朝六時。教員や運動部の生徒たちがつくるひとがきの真ん中、硬いコンクリートのゆかに広がった血。あやの上半身はちょうど、彼女が十ヶ月間たんせい込めて耕しただんの土の上だった。開かれたまぶたの下、青白いほおに、くっきりと赤黒いくまが浮いていた。どこかの先住民族のいくさしようのように。

 女子生徒が目をそむけておうしていた。教員が群がってくる生徒を追い払おうとやつになっていたけれど、そんな努力もむなしく人垣は増え続けていた。僕もその中に立って、近づいてくる救急車のサイレンをぼんやりと聞いていた。

 彩夏の小さな身体からだたんせられ、白いのっぺりとした車体が彼女をみ込み、走り出すまでを僕はじっと見ていた。再びサイレンが鳴り出した瞬間、僕は駐輪場にけ戻り、チェーンじようをひきちぎるように外して飛び乗り、走り出した。

 車道を下っていく救急車の背中を追いかける。冷たい風で耳がちぎれそうなほど痛んだ。

 病院に着いてからのことは、よくおぼえていない。骨の色をしたろうの壁。手術室の扉の上でじっとりと点灯したままのランプ。目の前を何度も行き来するストレッチャーと看護婦さんたちの足音。

 彩夏は手術室からそのまま集中治療室に直行し、僕は病院から追い出された。ロビーの入り口には、見慣れた制服姿がいっぱい固まっていた。もうこんな遅い時間なのに。

ふじしま、彩夏どうだった?」

「手術終わったの?」

「ねえ、無事だったんでしょ? ねえ!」

 クラスメイトたちに囲まれて、僕はただ目を伏せて、首を振ることしかできなかった。声が耳に刺さる。痛い。人垣をかき分けて逃げ出した。

 真っ暗な駐輪場で僕の自転車はこおりついたみたいに冷たくなっていた。

 家に帰ると、とんもぐり込んで、彩夏が屋上のフェンスを乗り越えて飛び降りるところを想像しようとしたけれどうまくいかなかった。なんだこれは。なんなんだこれは。握りしめた手が震えだした。ようやくき気がやってきた。必死にこらえていると、うつつとのさかいさえわからない夢の中にいつの間にか引きずり込まれてねむっていた。


    ●


 翌日朝のテレビで、M高校の屋上から飛び降りた女子生徒のニュースをやっていた。校舎屋上のフェンス際に彼女のうわきがそろえて置いてあるのが見つかったらしい。しよはその場にはなかったという。画面に映し出される、見慣れた校門と校舎の影。それを見たとたん、僕はトイレにけ込んで吐いた。胃液しか出てこなかった。

「今日は休むって学校に電話しとくよ?」

 再び部屋にこもった僕に、姉がドアの外から言った。目聡めざとくて事務的でようしやのない姉はこういうときにだけはありがたい存在だった。やがて「行ってきます」という声と、げんかんから出ていくくつ音が聞こえて、僕はひとりになった。

 僕は、ひとりになった。

 そうしてあの日の屋上に戻る。

 なにか間違った言葉はなかっただろうか。あやはなにか言おうとしてなかっただろうか。どうして僕になにも言ってくれなかったのだろうか。僕がなにか見逃していただけか。けば答えてくれただろうか。なんで訊けなかった。どうして。携帯が何度か鳴ったけど聞こえない振りをした。僕はあの屋上での数時間を何度も反復した。

 僕の手元に残っていた彩夏の欠片かけらは、オレンジ色のマークが入った園芸部のわんしようだけだった。あの日、彼女が自分でつけていたものだ。強引に着用させられて、そのまま忘れて持って帰ってきてしまった。

 あのとき、もう彩夏は決めていたんだろうか。

 わからなかった。

 ふと気づいてカーテンを開くと、もう外が暗くなっていて、電気をつけると窓ガラスにひどい顔をした男が映った。

 僕だった。

 あい色の夕空に背を向けてカーペットの上にしゃがみ込む。寒さすら他人の身体からだみたいに白々しく感じた。


    ●


 彩夏と面会できるようになったのは、その二日後だった。

 色のないみように明るい個室のベッドに、彩夏はまっていた。色んなパイプやホースやわけのわからない機器ではりねずみのようになっているおぞましい姿を想像していたけれど、うでへのてんてきだけだった。だから、それがたしかに彩夏の顔だとわかる。わかってしまう。かみを全部られ、頭にぴったりとテーピングされ、枕の中に沈み込んだ彩夏は、なんだかひどく縮んでしまったように見えた。

 僕は丸に座って、もう二度と開くことのないその青白いまぶたをじっと見つめていた。ベッドの向こう側では、医者が彩夏の母親に向かって、脳死状態と植物状態のちがいを説明していた。

 なにがちがうんだ、と僕は思った。

 もうしやべることも、笑うことも、できないのにかわりはないじゃないか。

 どうして僕がその場にいてなにも言われなかったのか、わからない。学校もとっくに始まっている時期なのに朝から来ていたから、家族だと間違われたのかもしれない。医者はそのうち、そんげんがどうとか、生命維持装置の一日あたりの費用がどうとかいう話を始めた。あるいはそいつは医者じゃなくて、無神経な保険会社の社員かなにかだったのかもしれない。とにかくおまえ黙れよ。なんであやの目の前でそんな話ができるんだ?

 どうして彩夏がこんな目にわなくちゃいけないんだ?

 とうとつに怒りがわいてきた。

 だれのせいだ。だれが彩夏をこんなところに追い込んだんだ。神様がメモ帳の彩夏のページになにか書き込みやがったのか。それはひどく馬鹿馬鹿しい考えだったけど、止まらなかった。僕の知らない場所で僕の知らないだれかはいくらでも刺されたりたれたりかれたりすればいい、でも、どうして彩夏なんだ。

 僕は病室の硬い丸の上で、ひざかかえてその想いがどこかにき出してしまうのをじっとこらえた。

 それから、クラスメイトの男女が何度も病室を訪れた。みんな、彩夏よりも僕の顔を見てぎょっとした表情になった。元気出せとか、学校来ないとだめだよとか、そんなようなことを言われた気がするけど、よくおぼえていない。

 いつの間にか、病室には僕だけが残されていた。僕と、彩夏の抜けがらだけ。カーテン越しに差し込む冬のはゆっくりとやせ細っていく。

 耐えきれなくなった僕は、こわばった身体からだを引きずって病院から逃げ出し、家に帰って寝室に閉じこもった。


    ●


 次の日も、その次の日も、僕は部屋から出なかった。

 もう病院に行こうとは思わなかった。クラスメイトとそうぐうしたくなかったし、あんな彩夏を見ているのはつらすぎる。

「あんたもう一週間も学校さぼってるじゃない」と姉が僕の部屋の戸をたたいた。僕が黙って首を振ると、それが見えたはずもないのに、姉は大量のおかゆが入ったどんぶりをドアの前に置いて、それから仕事に出かけてしまった。

 まったく手をつけないままお粥が冷め切ってしまい、昼の十二時を回った頃、僕は三日ぶりに窓を開けて外の空気を吸い込んだ。のどと肺がひりひり痛んだ。いきは手でつかめそうなくらいくっきりと白い。晴れた空がまぶしくて、目も痛んできた。

 彩夏と最後に屋上で過ごした日も、こんな晴れた空だった。

 自分がこんなふうになってしまったことが、ひどく不思議に思えた。自分じゃないだれかが屋上から飛び降りただけで。自分じゃないだれかと、もうしやべることも笑いあうこともできなくなった、それだけのことで。

 三ヶ月前の僕が今の僕を見たら、わらうだろうか。それとも──

 不意にチャイムが鳴った。僕はびっくりしてまどわくの下に身をかくした。じっとしていると、二度目のチャイム。三度目。さらに、連打。かんだかい電子音がつらなって僕の耳を打つ。だれだ。なんてことするんだ、子供のいたずら?

 やがてチャイムはえ、少ししてから小さな排気音が聞こえた。僕はそうっと窓から外の道路をのぞいた。原付に乗った小さなめいさい服の人影が遠ざかり、角を曲がって消えた。

 しようだ。

 どうして少佐が?

 僕は階段をけ下りてげんかんを開けた。敷石の上にぽつんと、真っ黒い箱が置いてあった。箱の上には見慣れた白抜き文字の『はなまる』。僕は震える手でそれを取り上げ、セロテープの封を外し、開いた。

 もやっとした白い煙が流れ出してくる。白く濁ったかたまり──ドライアイスの中に、透明プラスチックの丸いカップが二つ、まっている。表面にココアパウダーを敷いたアイスケーキ。

 ティラミス。

『私を引っぱり上げて』。

 僕は箱を台所まで持ち込むと、ゆかにへたり込み、カップの一つを取り出して一口すくった。のどの中に流し込むのにひどく苦労した。二口目でむせた。冷たくて、甘くて、痛い。

 二つとも食べ終わってしまった後で、箱の中のドライアイスが気化して消えていく様を僕はじっとながめていた。ひざの上の重みと冷たさは、長い長い時間をかけて、やがてすっかりなくなってしまう。



 に入ると、全身の骨と肉がばらばらになってしまいそうなさつかくにとらわれた。

 いつの間にか夕方の五時を回っていた。僕は身体からだかみいて服を着ると、家を出た。


    ●


 ほんの一週間ほど来ていなかっただけなのに、『ラーメンはなまる』はすっかり様変わりしてしまったように見えた。店内は客の背中で埋まり、店の外のやビールケースにもどんぶりかかえた人の姿がある。それはいつものこの店の光景だ。でもそこにあやがいない。

 ミンさんは、店の入り口にじっと立ちつくす僕にちらと目をやった。ぎようをかじりながらスポーツ新聞を広げていたサラリーマンもじろじろと僕のことを見た。

「ちゃんと二つとも食ったか」とミンさんは言った。僕はうなずいた。

「そうか。あれ、一個はあやの分だから」

 ミンさんの言葉が刺さる。

 僕は店の光から身をかくすようにして勝手口に回った。ビルの入り口前の暗がりには、テツせんぱいの姿だけがあった。階段の二段目にこしけて、パチスロ情報誌を読んでいる。僕が重ねた古タイヤに腰を下ろすと、一度だけ目を上げたけど、やっぱりなにも言わなかった。僕も、なにをしやべっていいのかわからなかったので、じっと黙って、店の方から聞こえる注文の声や食器がれ合う音を聞いていた。

 やがてテツ先輩が立ち上がった。僕はびくっとして背筋を伸ばす。

「ナルミ。ボクシング教えろって言ってたよな」

「……え。あ、は、はい」

「おまえには二十七万、借金があるからな。で教えてやるよ。二年コースで」

「あの……」

「立て。上着脱げ」

 テツ先輩の声色は有無を言わさぬ強いものだった。僕は立ち上がってジャンパーを脱いだ。

「なんでボクシング習いたいなんて思った?」

 僕はテツ先輩の顔をぼんやりと見つめ、それから、かさかさになって皮のむけた自分の手のひらを見下ろした。

「……強く、なりたい、から……」

「うん。じゃあ、強くなるのにいちばん手っ取り早い方法はなんだと思う?」

 僕はこんわくした。テツ先輩の言っていることがよくわからなかった。

「ええと。練習、するんじゃないんですか」

「はずれ。正解は」

 テツ先輩はかたわらのバッグの中から、二巻きのほうたいを取り出した。

「バンデージをしっかり巻くことだ」

「え」

「ボクサーと一般人の最大のちがいは、強いか弱いかじゃない。人を平気でなぐれるかどうかだ。人を殴れば自分のこぶしだって痛い。相手も痛い。相手が痛いのを想像しちゃったら人は殴れない。そこで、バンデージ」

 テツ先輩は僕の両方の拳に、包帯をしっかりと巻き付けてくれた。握りしめると、まるで自分の手じゃないみたいだ。それから先輩は、バッグの中からウレタンのパンチングミットを取り出して自分の両手にはめる。

「ほら、殴れ。どこでも殴っていいぞ」

 僕はうつむき、ためらう。拳が持ち上がらない。

「いいから殴れよ。人間、なにか殴った方がいいときってのがあるんだよ。なにも考えずに殴れ」

 顔を上げた。テツせんぱいは笑っている。

「おまえのへたれパンチくらい全部受けてやるから」

 ぶるり、とかたが震えた。なにかどろりとしたものが、こし骨の裏あたりからわきはらを伝ってい登ってくる。そのまま動かずに立ちつくしていたら、わけのわからないことを叫びだしてしまいそうだった。だから僕は握りしめたこぶしを振り上げた。

 突き出した右拳が、ぱんと乾いた音を立ててミットに食い込む。えきった僕のひじと肩にしびれるような痛みが走った。かまわず左拳を振るう。うでがちょうど伸びきったところにミットのしようげき。痛みは歯まで伝わってくる。右。また左。右。僕は一心不乱に、テツ先輩の大きな影をなぐり続けた。めちゃくちゃにうでを振り回しているはずなのに、必ずミットの張りつめたかんしよくが僕の拳を受け止め、反作用の衝撃を伝えてくる。痛い。人を殴ると、自分も痛い。それはものすごくシンプルで説得力のある真実だった。あやは痛かっただろうか。それとも、痛みすら感じる間もなかっただろうか。汗が目に入り、視界がにじんだ。自分の荒い息づかいと、拳がミットをたたく音のほかにはなにも聞こえなかった。それは僕のリアルな世界の音、リアルな痛みだった。

 どれほどの間、スパーリングを続けていたのかわからない。気づくと僕は、身体からだを折って古タイヤに両手をつき、とぎれとぎれのいがらっぽい呼吸を繰り返していた。急な運動のせいで耳鳴りがして、胸が苦しかった。汗がひたいからあごにまで伝い落ちた。

 そのときようやく僕は、自分がここになんのためにやってきたのか気づいた。あやのためにできること。自分のために、できること。

 顔を上げると、テツせんぱいの涼しい目。

「まだやるか?」

 僕は首を振った。

「ありがとう、ござい、ました。今日は、もうじゅうぶんです」

 バンデージをほどいて先輩に返す。身体からだはまだっている。当たり前だ。僕は生きているのだから。彩夏はもうこの熱さえ感じられないかもしれないけれど、僕はまだ自分の足で立っているのだから。

「アリスに、ってきます」


    ●


 照明がすべて落とされた部屋は、それでも十数基のモニタ・ディスプレイに照らされてほのあかるかった。ベッドの奥に座ったアリスの後ろ姿は、つややかな長いくろかみのせいでガラスびんみたいに見える。びんの中には天の川の星がいっぱい詰まっている。

「これはね、ぼくなりのあいしようの表現なのだよ。ほかにやり方を知らないのでね」

 僕に背を向けたままアリスは言った。くらやみの中、キーボードをものすごい速さでたたく音が、まるで地球の裏側の戦争で使われている自動しようじゆうしやげき音みたいに聞こえていた。

「彩夏のカルテを調べさせたよ。そんなことしなければいいのにと自分でも思う。もうかいふくの見込みがないことなんて、その目で見たきみがいちばんよく知っているはずだというのにね」

 恢復の見込みが──ない。

 ないのだろう。医者もそう言っていた。彩夏はこれからの一生を、ベッドの上のなまあたたかい植物として過ごすのだ。

「それなのに、きみはここにやってきた。ずっと部屋に閉じこもっているか、あるいは手首でも切っているものかと思っていたのに」

「そう」

 僕はベッドのすぐ手前にこしを下ろした。アリスは手を止めて振り向く。カラフルなパジャマはモニタの明かりだけに照らされて水銀色に沈み、そのひとみには、ちょっと指でつつけばくずれてしまいそうな、もろい光がたまっている。

「……これだけ言ってもきみは怒らないんだね」

「え?」

「いや。なんでもないよ。ぼくが悪かった」

 ものすごく珍しいものを聞いた気がした。アリスが謝っている。

「怒る筋合いもないよ。だって、ほっておいたら、たぶんアリスの言う通りだったと思う」

「そうか。では氷菓づくりのうまいマスターに感謝しなければね」

 僕はうなずく。

「用件を聞こう」

「アリスはたんていだよね」

「ただの探偵じゃない。ニート探偵だよ」

「部屋に居ながらにして世界中を検索し真実を見つけだす?」

「その通りだ」アリスはかなしそうな目のまま、ちよう気味に笑う。

 その大げさなうたい文句を信じていたわけじゃなかった。ただ、僕には、ほかに頼れるものもなかったのだ。

「じゃあ」僕はつばみ込む。「調査を、依頼したい」

 自分で口にした言葉だったけれど、それはひどくこつけいに聞こえた。

 僕はしばらくの間、アリスの大きな深いひとみにじっと見つめられて、息が詰まるほどの想いを味わった。やがて少女は、ほとんど聞こえないほどの小さな声でささやく。

「なにを知りたい?」

「どうしてあやが、……あんなことに、なったのか」

 アリスは長いまつげを伏せた。じっと考え事をしているようにも、あるいは聞こえないはずの音に耳をませているようにも見えた。

「……前にぼくが言ったことをおぼえているかい。たんていの本質は死者の代弁者だと。はかあばいて失われた言葉を引きずり出し、死者の名誉を守るためだけに生者を傷つけ、生者になぐさめを与えるためだけに死者をはずかしめる、と」

「憶えてるよ」

 アリスはまぶたを開いた。

「では今一度こう、ぼくの手は、彩夏がかくしておきたかった真実さえ暴き立て、無知によって保たれたはずのきみのへいおんを破壊する可能性がある。それでも知りたいかい?」

 僕は少しだけためらった。彩夏が隠しておきたかったこと。あるのだろうか。いや、たぶん、あるのだろう。僕に言えなかったことが。

 それでも。

 それでも、僕は──

「知りたいよ」

 アリスは深く息をき出した。

「わかった。引き受けよう。料金はらない、ぼくはもう答えを知っている」

 僕は目を見開いた。

「……え?」

「きみが知りたいことを、ぼくはもう知っているんだ。遅すぎた……けれど」

「じゃ、じゃあ」

 僕の言葉をアリスの鋭い声がさえぎる。

「今やそこになぞは一つもない。なぜ死のうとしたのかなんて考えるまでもない。ぼくが知りたいのはそこじゃないんだ」

「なに言って……」

「ぼくが知りたいのはね、あやだ」

 僕は一瞬、ほうけたようになる。アリスの言っている意味がわからなくなる。

「あの前日の月曜日、彩夏は授業に出ていない。それはきみも知っているね。しかし授業が終わった後でなぜか学校に行っている。いくつか目撃証言がある。そして家に帰っていない。月曜日の夜、じゆんかいしていた警備員が、開けっ放しになっていた北校舎屋上の扉の鍵を閉めたという証言がある。つまりそのとき彩夏は屋上にかくれていたんだ。そして朝を待って飛び降りた。わかるかい、しようどう的に校舎の屋上を死に場所として選んだんじゃない、最初からあそこに決めていたんだ。じゃあ、その理由はなんだ?」

 僕の背筋がぞくりとする。

 学校を死に場所に選んだ理由。死に場所に──選んだ?

「わからない。ぼくには理由がわからない。ぼくは理由を知らなきゃいけない。だから、きみに手伝ってもらう。この二ヶ月、彩夏にいちばん近い場所にいた、きみに」

「僕……に? どうして、どうしてそんなことを、知りたがるんだ」

 アリスは片方のまゆをくいと持ち上げる。目を見開く。怒っているような、驚いているような、不思議な表情。

「どうして? どうして知りたがるのかって? そんなことをきみがくのか? 彩夏が飛び降りた理由を知りたがるきみが、ぼくにそれを訊くのか」

「あ……」

「きみと同じだ。ぼくは知らなくちゃいけないんだ。だって、ぼくは彩夏が飛び降りるのを止められたはずなんだ。もっと、ぼくがもっと多くを、もっと早くに知っていれば、止められたはずなんだ。彩夏がああなったのはぼくのせいだ。今からでも、知らなくちゃいけない、なんとしてでも、そうでなければ、ぼくは、ぼくは……」

 アリスは思い詰めたような、追いつめられたような声で繰り返す。僕は胸が締め付けられるような想いを飲み下した。なんだろう、この少女を前にして浮かんでくるこの感情はなんだろう。なつかしさ。痛ましさ。切なさ。

「手伝って、くれるね? それが料金がわりだ」

 アリスはすがるような目で、僕をじっと見つめる。もろい光。ガラスの中の星。今にも、くだけてしまいそうな。

 だから、僕は、差し伸べられたその手を──

 そっと握った。

「わかったよ。僕は、アリスの助手だったよね」

 僕の言葉に、アリスはびっくりした表情を浮かべる。

 冷たい指先。

 れたやみまったひとみ

 やがてそれは、微笑ほほえみへとけた。

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