3
冬休みの間も、僕はちょくちょく『ラーメンはなまる』に顔を出すことになった。行けばだいたい彩夏がいるから。家に閉じこもっていてもしょうがない。
最初のうち、彩夏は僕が店に顔を見せるたびに驚いていた。
「藤島くんが用もないのに家から出るなんて」
僕は一体なんだと思われてるんだろう。
冬の『はなまる』はいつもひまそうだった。日中は客がほとんど来ない。まだ松の内だったし、それでなくてもこの店はラーメン屋ではなくアイス屋だと思われているふしがあるのだ。
その日は僕とヒロさんと彩夏とで、ミンさん
「あのあと、トシから連絡あった?」
ヒロさんの問いに、彩夏はスプーンをくわえて
「けっきょくお正月も帰ってこなかったの」
「たぶん、まだ
「その人って、トシの彼女?」
「ちがうちがう。男だよ。大学生だったか大学院生だって」
お兄ちゃんに彼女なんているはずないよ、と彩夏はいつになく真剣そうな顔で言う。断言されるトシさんはかわいそうだったけど僕も賛成だった。でもヒロさんはちがう意見。
「そうかな。ああいう、なよっとしたのはヒモに向いてるんだよ。今ごろ女のアパートに転がり込んでても、おれは驚かない。つうかその方が安心だな」
「安心だけど……でも、お
「いやいや。ヒモってのは掃除も洗濯もしないよ」
「そうなの?」
「たまに誤解されるんだけどね。家事なんてやったら主夫じゃないか。それじゃヒモとは呼べない。ヒモってのは、女の子に『ああ、この人はわたしがいないとだめなんだ!』と思わせなきゃいけないんだよ。だから家事も全部女の子にやってもらうの」
最低だこの人。
「うわあ。あたしには無理だなあ。絶対、申し訳なくなって家事やっちゃうよ。晩ご飯作って帰りを待ったりしちゃう」
「そうだね。ヒモってのはだから、母性本能をくすぐるのが仕事なんだよ。普通の人にはできない」
「すごいねヒロさん」
すごくねえよ、なに
「結婚しちゃったら? とか、思わないの?」
「思わないね」
「どうして?」
「実はおれ、心に決めた人がいるの。だから
「でも
「思うけどやめられないね、自分の生き
「いっぺん死ね」
「だめだよ
あ、ほんとだ。まあいいや。
「
僕の背中からいきなり声がする。振り向くと、ロシア兵のような四角い毛皮の
「あ、
「任務中だ」
「ニンニク
「う……じゃあそれで」
なぜか少佐は流されて注文してしまう。というかニンニク中華ってなんだ。
どうも少佐は
「ようやく仕事だ。ミンさん、冷やし中華のニンニク
彩夏は立ち上がって
「少佐、墓なんとかって人知ってるの?」とヒロさんが
「うちの大学の院に、墓見坂っていうやつがいるらしいんですが」
僕とヒロさんははっとして顔を見合わせる。ヒロさんは少佐の方に身を乗り出して言った。
「トシと最近つるんでるやつが、そういう名前らしいんだけど」
少佐はあごに手を当てて少し考え込む。
「知り合い? なら
「いや。名前知ってるだけです。有名人なんですよ、研究室に全然顔を出さないのに博士論文が通ったとかで。でも
「そのへんに転がってるような名前じゃないだろ墓なんとかなんて。頼むよ。トシ、あれから全然連絡ないんだって」
「いやしかしねえ……今日行って来たばかりだというのに、また大学に顔を出せというんですか。学生や教授がうじゃうじゃいるんですよあそこは」
そりゃ当たり前だ。というか少佐、大学生だったのか。ちょっとショック。
「たまに顔を出すと教授どもがうるさいのですよ」
「さっさと中退すりゃいいのに」
「なに言ってるんです。なるべく長く在学するために、単位をぎりぎりだけ取って、あとはほとんど講義に出ないで、進級したり卒業したりしないように戦線保持してるんです。きっかり八年在学してからやめますよ」
「……卒業しないんですか?」と僕はうかつにも訊いてしまった。
「大学をきちんと卒業するような
「
「歴史書も軍事資料も高いんですよ。大学図書館に買わせるのが最良。中退するまで
自分で買えよ。
「それで、ふふ、聞いてください、今回入った資料で
「つーか少佐、アリスになんか頼まれて大学行ったんじゃなかったっけ」
「ああそうだ。忘れてました」
少佐はバックパックを開いてひっくり返すと、真ん中のテーブル代わりの木箱にざばざばと書類を広げる。
「コピー見ます? いやそれ上下逆です」
「見てもわからない」
「自分もわからんですがね」
僕はヒロさんの手元の紙をのぞきこんだ。カラー印刷で、
「今、街で騒いでる薬あるだろ。四代目に頼まれてアリスが調べてんの。そうとうヤバいらしいよ。まさかトシがやってんのもこれじゃないだろうな……」
僕ははっとして、クリスマス色の街の輝きにかざされた、
「あの、それ」
「
僕の声を
「なんですか、それ」彩夏が資料をのぞき込もうとしたので、とっさに僕はそれをヒロさんの手から引ったくって裏返していた。
「もー、なんで
「なんでもない、なんでも」
そのとき、ようやくその日はじめての客がラーメン屋の入り口に現れたので、彩夏はエプロンをひるがえして行ってしまった。僕はほっと息をつく。
「なんだよ、どうしたのナルミ君」
僕が口を開きかけたとき、いきなり大音響の『コロラド・ブルドッグ』が鳴り渡った。少佐の
『来ているのはわかっているんだ、油を売ってないでさっさと持ってきたまえこっちにも
電話の向こうのアリスの声が僕にもはっきりと聞こえた。
「今日も
「知らないんですか。アリスは二十九日周期で五日間ずつ、非常に精神的に不安定になるんですよ。綿密な調査の結果ですから間違いありません。原因はまだ究明できてませんが」
そりゃ生理だ。でも手帳を取りだしてカレンダーのページを得意げにヒロさんに見せている少佐の顔を見てると、突っ込めない。
「いいから早く持っていきなよ」
「だから二十九日周期で今日はその二日目」
「おれ車持ってくる。なんの用だろうな」
ヒロさんは行ってしまった。取り残された少佐は黙り込む。僕は首を傾げる。そんなにアリスが怖いのだろうか。というか機嫌悪いのなんていつもじゃないの? なんてことを口にしたら、ゴーグルの向こうからすげー目でにらまれた。
やがて、少佐が
「貴様は
「知るわけないです」
「レイテ
「はあ」
「というわけでよろしく頼む
「いやですよ!」
●
でもけっきょく僕は少佐と一緒にアリスの部屋に行くことになった。アリスは自室のベッドの上で毛布にくるまって、半泣きになっていた。
「モッガディートの耳が取れてしまったんだ」
ベッドの前には、巨大な茶色いクマのぬいぐるみが置いてあった。どう控えめに見てもアリスより大きい。アリスがちっちゃいだけなのかもしれないけど。彼女の言う通り、クマのモッガディートくんの右耳は糸がほつれてもげかかっていた。広がった
「そうっとだぞ! そうっと箱に入れてくれたまえ!
きんきん泣き叫ぶアリスの指示のもと、僕と
「じゃあ、四代目のとこに持って行けばいいんだな」と少佐。
「必ず今夜中と頼んでおいてくれたまえ、ぼくの命がかかってるんだ!」
「それで、頼まれてた資料」
アリスは少佐の手からクリアファイルを引ったくると、パラパラ漫画でも見るみたいにしてものすごい速さで中身を読み、コピー一部だけ抜き出して僕に投げつけた。
「なにをぼさっとしているんだ、ついでに四代目に届けろと言われなきゃわからないのかい!」
僕らは逃げるようにして、ぬいぐるみを入れた段ボール箱をアリスの部屋から運び出した。
●
ヒロさんの車は深いブルーの高級そうな外国車だった。とてもじゃないけど十九
「車持ってんの、おれだけだからね。自分で買ったわけじゃないけど」
彼女のプレゼントだという。しかも三つ前の彼女だって。いつか女に刺されるんじゃないだろうか、この人。
「でも、車で行くのは自殺行為じゃないかな……」と僕はきらびやかな夜の光に染まった線路の向こう側を見やる。南口前に集まる大動脈のごとき三本の通りは、
「だからって、これを歩きで運ぶのも自殺行為だろ」
ぬいぐるみの入った段ボール箱を見下ろす。ヒロさんの言う通りだった。バイクの後ろに
僕らは車の後部座席にその箱を押し込み、シートベルトでうまく固定してから運転席と助手席に乗り込んだ。
「なんなんですか、あのぬいぐるみ」
「あれがないと
「はあ」あれだけ大騒ぎして、そんなオチかよ。「でも、どうして四代目に」
「あー。四代目、ああ見えても手芸が趣味なの。前もこのクマ直してもらったんだよ。プロなみの
「な」
車は音もなく
「何者ですかあの人は」
「
聞き
「暴走族でしたっけ」
「違う違う。走ってないよ。ただこのへんの
ヒロさんはなんでもなさそうに言うけど、平坂組といえば引っ越してきたばかりの僕でも知ってるくらいだから、けっこうなビッグネームじゃなかったっけ。
「四代目の頭だから四代目って呼ばれてたんですね」
「いや、平坂組は初代だよ。あいつが作ったの。あいつ以外にあんな連中全員締められるやついないよ」
「え、じゃあなんで四代目なんですか?」
「それはね、関西の方に実家があって、逃げてきたらしいんだけど、そっちの四代目なんだってさ。そっちは本職のヤのつくお仕事」
うわあ。マジかよ。そのまんま四代目やってろよ。
「四代目って呼ばれると、そりゃもう怒るんだよ。で、アリスが
「ひでぇ……」
そうつぶやくと、ヒロさんはステアリングを手のひらでぱんぱん
「そうだね。ひどいやつだよ。でも、だれも勝てないんだよなあ。四代目も、おれらも。わかるだろ?」
僕は、あの日本人形みたいな白い
「でもこれ
それで僕は思い出す。
「あの、ヒロさん、そのヤバい薬の名前知ってますか」
「ううん……いや、忘れた。そこの資料に書いてない?」
四代目に届けるための資料の束を探ってみた。
取り越し苦労だったらいいんだけど、と僕は思う。
●
僕らは地下駐車場に停めた車から箱をおろすと、
中は学校の教室より一回り小さいくらい。壁際に並んだロッカーや部屋の真ん中に向かい合ったソファや奥に構えたデスクのせいでさらに狭く見える。座っていた四、五人の黒Tシャツの男たちが
「
「お疲れさんス!」
そろってヒロさんに一礼する。僕は思わず後ずさって、運んでいた箱を落としそうになってしまった。なんですかこのノリは。叔父貴?
黒Tシャツはみんな若かった。高校卒業してるかしてないか、くらい。サロン焼けしたのとか
「いやあの、いつも言ってるけど叔父貴はやめてくれ」とヒロさん。
「でも
そう言って箱を
「うーんまあ、おれも色んな
「ヒロてめえ殺されたいのか」
右奥の扉が開いて出てきたのが四代目だった。その日は淡い
「報告書じゃなかったのかよ。なんだそのでかい箱は。まさかそれいっぱいに入ってんじゃねえだろな」と四代目はデスクの
「いやいや。アリスから頼まれごとでさ、ぬいぐるみの耳が取れちゃったから直し」
聞くなり、四代目の
「わかったからこんなとこで
「
「なんでもねえ!
台風みたいな
「
姐さんてアリスのことか。変な映画の見すぎじゃなかろうか。箱は黒Tシャツ二人の手によって事務所から運び出される。なんかすげー
「今夜中だってさ」
「わかってるよ。終わったら俺が届ける」
組長ともあろうお方が、ひきこもりのパジャマ
「おまえも知ってんのか。ヒロが喋ったか?」
四代目が僕の胸ぐらをつかむ。
「し、知ってるってなんですか」
「だから。アレだよアレ」ここで僕の中の変なスイッチが入る。
「えと。アレって言われても」「アレだよ知ってんだろ? 俺の、アレ」「いや、あの、アレってのがなんなのか言ってくれないとわからないです」「とぼけてんじゃねえ! 俺の口から言えるか馬鹿」「えーと、じゃあ、よくわからないけど僕の口から心当たりを言ってもいいですか」「殺すぞ」「ナルミ君、楽しいのはわかるけどそのへんにしとけよ四代目がかわいそうだよ」「かわいそう言うんじゃねえ!」「んで、これが報告書」
なにごともなかったかのようにクールに、ヒロさんはクリアファイルを差し出す。四代目は僕を
デスクの向こうに回り、二つのファイルを並べて四代目は真剣な表情になる。ヒロさんがそれをのぞき込んで
「なにそれ」
「ここ一ヶ月でこのへんの病院に薬でぶち込まれたやつの病状、手当たり次第調べた」
「根性あるなあ……ああ、それで照合すれば」
「そう。……ん、こいつは……」四代目の指が、資料に書かれた薬効の上をたどり、それから水色のファイルのページをさす。「……当たりかな。
「フィックスですか?」
ボディガード
「
四代目の一言で、座っていた黒Tシャツもみんな立ち上がって上着を
……フィックス?
僕の中でそのときようやく
「……エンジェル・フィックス?」
僕のつぶやきに、四代目がものすごい
「なんでおまえがそれ知ってんだ」
「え……あ、あの……」
四代目に
「トシって、あのトシのことか」
四代目の問いに、僕のかわりにヒロさんが青い顔で答える。
「その日、おれも一緒にいたんだよトシと……あいつ……」
「おい、トシが持ってたのは錠剤なんだな。丸のまま、たしかだな?」
僕は四代目に襟首をぎりぎりと締め上げられながら必死にうなずいた。ヒロさんが四代目の
「やめろよ殺す気か。錠剤がどうしたんだよ」
四代目は僕をソファに投げ捨てる。僕は
「前に言わなかったか。フィックスは
そこで四代目は言葉を切って、ちらと僕を見た。
「直で買ったやつか売人か、どっちかだ」
メンバーが持ってきた白のハーフコートを羽織り、四代目は携帯で
「帰ろう、ナルミ君」
ヒロさんが僕のジャンパーの
「あの、トシさん……
「おれ居場所知らないし」
「でも」
僕が、もっと早く気づいてれば。
「なにやってんだ。さっさと帰れよ
四代目が毒づいたので、ヒロさんは僕の腕を引っぱって出口に向かおうとする。でも僕の足は動かなかった。なにか僕にもできることがあるんじゃないだろうか。トシさんのことなんてなにも知らないけど、姿を消す直前に言葉を交わした最後の人間は僕だ。なにか。
「なんもねえよ。いいから消えろ。もうこの薬で人が死んでんだぞ」
四代目がざくりと答える。
「でも……」
僕のせいだ。あのとき、ちゃんと
「ナルミ君」
ヒロさんが後ろから口をはさもうとしたが、四代目が
四代目はソファをはさんだ向こう側に立っていた。なのに、次の瞬間は僕のすぐ目の前に
「これがナイフだったらおまえはあの世行きだ。いきがってんじゃねえガキ。おまえみたいな一般人が首突っ込んで
四代目も出ていってしまった後で、僕はヒロさんの
●
ラーメン屋に戻った頃にはすでに日はすっかり暮れていて、手で
店の勝手口に回ると、古タイヤの席にテツ
「ヒロは?」
「今、車置きに行ってます」
僕は古タイヤに
トシさんのこと聞いてないのか。それとも知ってるけど全然気にしてないのかな。もしかして、大した接点もないのにうろたえている僕の方が馬鹿なんだろうか。
「なんだよ?」
僕の視線が気になったのか、テツ先輩は雑誌から顔を上げた。
「あの、トシさんのこと、聞きましたか」
「四代目からさっき電話あった。馬鹿だなトシは」
「昔、ここの仲間……だったんですよね」
「今でもそうだよ。顔出せば」と言ってテツ先輩は笑う。
じゃあ、心配じゃないんですか?
先輩の顔から笑みが消える。僕の思っていることを察したみたいだった。
「あのさ、あいつが助けてくれって言ってきたわけじゃないだろ。どこにいるかもわかんないんだし、ほっとくしかないだろ」
それはそうなんだけど。
でも、と僕は思う。もし、助けを呼べないほどにひどい状況だったとしたら? 声にならないその声を、だれが聞き取ってあげればいいんだろう。少なくとも、僕にはできない。僕にできることはなにもない。
「
そう言って先輩はパチスロ誌に目を戻した。
この人、ほんとに元ボクサーなんだろうか……。
僕はふと思いついて立ち上がるとテツ先輩に近寄った。先輩が雑誌から顔を上げるのとほとんど同時に、その腹に向かって
「なにしやがる」
怒ってる
「……テツ先輩。ボクシング教えてください」
「なんだよ急に」
「いや、なんとなく」
自分が弱いのもガキなのも知っていたはずだった。でも腹の底にあらためて突っ込まれると、やっぱりこたえる。しょうがない。現実として僕にできることなんてなにもないのだ。
そうだ、さすがにトシさんのことを
「ミンさん、
勝手口から頭を突っ込んで
「さっき早退したぞ。すっごい具合悪そうだった。なんかあったのか」
早退?
僕はテツ
「
トシさんの薬のことを聞いた──わけじゃないのか。じゃあ、どうしたんだろう。残りの
僕はドラム
うなだれていた僕のポケットで携帯が震える。
『四代目から聞いた。こんな重要なことを忘れていたきみの
アリスの声も、心なしか冷たく聞こえる。
「……なんか、具合悪くて早退したって」
『早退? まいったな。トシにつながる唯一のラインなんだが。
そこで僕は、あの夜、トシさんから彩夏の携帯にかかってきた通話を思い出す。
『どうしてそれをもっと早く言わないんだ! まったくきみの
すげえ言われようだった。僕は縮こまる。
『その電話は何時頃だった? なるべく正確に思い出してくれたまえ』
「七時前……くらい、だったかな。なんで時間なんか」
『通話記録を調べれば相手がわかるだろう。トシの電話はずっと不通だが、その墓見坂なる人物の連絡先がわかれば前進だ』
通話記録を調べる? どうやって?
「非通知だったって言ってたよ」
『それがどうしたんだ。彩夏の携帯に通知されていないだけだろう。局には通話記録が残ってるじゃないか』
いや、それどうやって調べるんだ。犯罪じゃないの?
『きみはニート
アリスは通話を切った。
僕は冷たくなった自分の携帯を、しばらくじっと見つめていた。そういえばあいつはハッカーだみたいなことを言っていたっけ。そりゃ僕のプロフィールを調べるくらいは、ちょっとネットに
僕が心配してもしかたのないことだった。僕にできるのは、
わからなかった。うまく話せる自信もなかった。
●
始業式の日、彩夏は学校を休んでいた。よっぽどひどい
次の日も彩夏は来なかった。ラーメン屋に行ってみても、いない。
「無断欠勤するようなやつじゃないんだけどな」と、ミンさんは
彼女がようやく学校に姿を見せたのは、新学期が始まって五日目の金曜日だった。放課後すぐに屋上に行ってみると、そこに
「ごめんね、勝手にいっぱい休んじゃって」
「
「うん。まあ、そんなとこ」
笑い顔に力がなかった。無理につくってるのが僕にもわかる。
「あたしのいない間もちゃんと部活やってたんだね」
「部員だからね」
「ありがと、
「いや、あれは恥ずかしいから、わ、やめろ」
「今日一日、外しちゃだめ。部長命令です」
その日の彩夏はほんとに楽しそうだった。
やがて日没がやってきた。向こう側の校舎の時計は四時四十五分を指していた。僕らはフェンスの際に並んで座り、
「
ぽつりと彩夏が問う。
「姉が一人」
「へえ。仲いいの?」
「あんまり。最近は毎日帰りが遅いからよく怒られる。でも飯をちゃんと作ってくれるくらいには仲がいいかな」
「あれ、お
「父親は一年に五日間くらいしか家にいないし母親はもうこの世にいない」
「あー……ごめん」
「母親のこと
「うー……ん?」彩夏は視線を宙にさまよわせる。「無理に怒ることはないと思う」
「そうかな。なにが普通なのかよくわからない」
「藤島くんは、そんなに自分を欠陥品みたいに思うことないよ」
「そっちが最初に欠陥品だみたいなことを言ったんじゃなかったっけ」
彩夏は乾いた笑い声をあげる。
「あれはさ。あたしの
「中学は全然行ってなくてさ。家で勉強してたの。この学校に入って、最初からやり直そうって思って、なんとか、なんとかね……。五月くらいまでは、昼休みも放課後も毎日、屋上で過ごしてたんだけど。だましだまし、みんなと喋って、なるべく屋上には来ないようにして。でもほんとは、心の中ではずっとひとりで、土いじりしてるときがいちばん安心して、でも」
彩夏は夕空を見上げた。
「ある日、どうしてもつらくなって、屋上に来たら、藤島くんがいた」
いつのことだろう、と僕は思う。僕が意識するよりもずっと前から、
「話しかけようと思って、でもその日はできなくて、だから、だから、
僕はもう、息もできなくなる。
「あたし、
彩夏はそこで言葉を切って、雑草の生い茂ったコンクリートの
春になったら?
なんだろう、今日の彩夏はほんとに変だ。心にぐさぐさ刺さってくるようなことばかり言う。やっぱりなにかあったのか、
でも口を開きかけたとき、屋上の扉が開く音がした。
見ると、淡い
「あ、いたいた、二人とも」
小百合先生は高いヒールで危なっかしく屋上の打ちっ放しコンクリートの床に下りると、手を振りながらこっちに
「
「もう治りました」
彩夏は緊張した笑顔で言う。
「そう。よかった。それでね、ここに置いてある鉢植え、近々片づけてもらおうと思って」
「なにかあるんですか?」と彩夏が
「卒業アルバムの全体集合写真。屋上に集めてヘリから撮るんだって」
小百合先生は屋上を見回す。
「でもここ、草ぼうぼうね。草むしりまで二人にやってもらうわけにはいかないなあ」
先生の言う通り、コンクリートブロックの境目にわずかに入り込んだ土にすがって、雑草はびっしりと一面に生えていた。
先生は
「そうか、もう卒業の時期なんだね。早いなあ」
小百合先生が行ってしまった後で、彩夏がさみしそうに言う。
「でも藤島くんがいるから園芸部は大丈夫かな。来年、新入生いっぱい勧誘しなくちゃね」
彩夏は僕の
ずっと後になってからも、僕はこのときの彩夏の言葉を何度も何度も思い出すことになる。どっちの意味だったんだろうか、と。
僕と二人だから大丈夫、だったのか。
それとも──僕が残るから大丈夫、という意味だったのか。
「だからさ、
でも彼女は、
「ごめん、なんでもない」
●
その日はそれでおしまい。部活の後、僕らは二人でラーメン屋に行った。彩夏は無断欠勤をミンさんにめちゃくちゃ怒られ、はしゃぎ回って仕事中に
僕がやたらと苦い
「三人で見舞いに行ってきたんだ」とヒロさん。
「お見舞い? ですか」
「四代目のとこの若い子が刺された。フィックスの売人を見つけたんだけど、ラリっててナイフ持ってたんだって」
「え……」
「まあなんとか無事でよかった。あいつ
テツ先輩は非常階段に
「今、
先輩は、
「もうすぐ見つかるかも」
「それと、
僕は、厨房の彩夏をちらと横目で見た。もうすぐ見つかるなら、無理に話すこともないかな、と自分に言い訳する。彩夏を心配させたくなかった。
できれば、トシさんは、どっかのだれかから偶然フィックスを手に入れて、はまっちゃっただけ──であってほしかった。
「よし。トシが戻ってきたときのために、ナルミに色々仕込んでおこう」
「じゃあまずはチンチロからだね」
え、なにそれどういう話の流れ?
でもテツ
●
帰り道、バス停までの道のりを
僕はそのときの彩夏の姿を、今でもはっきり思い出すことができる。
彼女が最後に見せた、無傷の笑顔。
●
彩夏が校舎前の
女子生徒が目を
彩夏の小さな
車道を下っていく救急車の背中を追いかける。冷たい風で耳がちぎれそうなほど痛んだ。
病院に着いてからのことは、よく
彩夏は手術室からそのまま集中治療室に直行し、僕は病院から追い出された。ロビーの入り口には、見慣れた制服姿がいっぱい固まっていた。もうこんな遅い時間なのに。
「
「手術終わったの?」
「ねえ、無事だったんでしょ? ねえ!」
クラスメイトたちに囲まれて、僕はただ目を伏せて、首を振ることしかできなかった。声が耳に刺さる。痛い。人垣をかき分けて逃げ出した。
真っ暗な駐輪場で僕の自転車は
家に帰ると、
●
翌日朝のテレビで、M高校の屋上から飛び降りた女子生徒のニュースをやっていた。校舎屋上のフェンス際に彼女の
「今日は休むって学校に電話しとくよ?」
再び部屋にこもった僕に、姉がドアの外から言った。
僕は、ひとりになった。
そうしてあの日の屋上に戻る。
なにか間違った言葉はなかっただろうか。
僕の手元に残っていた彩夏の
あのとき、もう彩夏は決めていたんだろうか。
わからなかった。
ふと気づいてカーテンを開くと、もう外が暗くなっていて、電気をつけると窓ガラスにひどい顔をした男が映った。
僕だった。
●
彩夏と面会できるようになったのは、その二日後だった。
色のない
僕は丸
なにがちがうんだ、と僕は思った。
もう
どうして僕がその場にいてなにも言われなかったのか、わからない。学校もとっくに始まっている時期なのに朝から来ていたから、家族だと間違われたのかもしれない。医者はそのうち、
どうして彩夏がこんな目に
だれのせいだ。だれが彩夏をこんなところに追い込んだんだ。神様がメモ帳の彩夏のページになにか書き込みやがったのか。それはひどく馬鹿馬鹿しい考えだったけど、止まらなかった。僕の知らない場所で僕の知らないだれかはいくらでも刺されたり
僕は病室の硬い丸
それから、クラスメイトの男女が何度も病室を訪れた。みんな、彩夏よりも僕の顔を見てぎょっとした表情になった。元気出せとか、学校来ないとだめだよとか、そんなようなことを言われた気がするけど、よく
いつの間にか、病室には僕だけが残されていた。僕と、彩夏の抜け
耐えきれなくなった僕は、こわばった
●
次の日も、その次の日も、僕は部屋から出なかった。
もう病院に行こうとは思わなかった。クラスメイトと
「あんたもう一週間も学校さぼってるじゃない」と姉が僕の部屋の戸を
まったく手をつけないままお粥が冷め切ってしまい、昼の十二時を回った頃、僕は三日ぶりに窓を開けて外の空気を吸い込んだ。
彩夏と最後に屋上で過ごした日も、こんな晴れた空だった。
自分がこんな
三ヶ月前の僕が今の僕を見たら、
不意にチャイムが鳴った。僕はびっくりして
やがてチャイムは
どうして少佐が?
僕は階段を
もやっとした白い煙が流れ出してくる。白く濁った
ティラミス。
『私を引っぱり上げて』。
僕は箱を台所まで持ち込むと、
二つとも食べ終わってしまった後で、箱の中のドライアイスが気化して消えていく様を僕はじっと
いつの間にか夕方の五時を回っていた。僕は
●
ほんの一週間ほど来ていなかっただけなのに、『ラーメンはなまる』はすっかり様変わりしてしまったように見えた。店内は客の背中で埋まり、店の外の
ミンさんは、店の入り口にじっと立ちつくす僕にちらと目をやった。
「ちゃんと二つとも食ったか」とミンさんは言った。僕はうなずいた。
「そうか。あれ、一個は
ミンさんの言葉が刺さる。
僕は店の光から身を
やがてテツ先輩が立ち上がった。僕はびくっとして背筋を伸ばす。
「ナルミ。ボクシング教えろって言ってたよな」
「……え。あ、は、はい」
「おまえには二十七万、借金があるからな。
「あの……」
「立て。上着脱げ」
テツ先輩の声色は有無を言わさぬ強いものだった。僕は立ち上がってジャンパーを脱いだ。
「なんでボクシング習いたいなんて思った?」
僕はテツ先輩の顔をぼんやりと見つめ、それから、かさかさになって皮のむけた自分の手のひらを見下ろした。
「……強く、なりたい、から……」
「うん。じゃあ、強くなるのにいちばん手っ取り早い方法はなんだと思う?」
僕は
「ええと。練習、するんじゃないんですか」
「はずれ。正解は」
テツ先輩は
「バンデージをしっかり巻くことだ」
「え」
「ボクサーと一般人の最大のちがいは、強いか弱いかじゃない。人を平気で
テツ先輩は僕の両方の拳に、包帯をしっかりと巻き付けてくれた。握りしめると、まるで自分の手じゃないみたいだ。それから先輩は、バッグの中からウレタンのパンチングミットを取り出して自分の両手にはめる。
「ほら、殴れ。どこでも殴っていいぞ」
僕はうつむき、ためらう。拳が持ち上がらない。
「いいから殴れよ。人間、なにか殴った方がいいときってのがあるんだよ。なにも考えずに殴れ」
顔を上げた。テツ
「おまえのへたれパンチくらい全部受けてやるから」
ぶるり、と
突き出した右拳が、ぱんと乾いた音を立ててミットに食い込む。
どれほどの間、スパーリングを続けていたのかわからない。気づくと僕は、
そのときようやく僕は、自分がここになんのためにやってきたのか気づいた。
顔を上げると、テツ
「まだやるか?」
僕は首を振った。
「ありがとう、ござい、ました。今日は、もうじゅうぶんです」
バンデージをほどいて先輩に返す。
「アリスに、
●
照明がすべて落とされた部屋は、それでも十数基のモニタ・ディスプレイに照らされて
「これはね、ぼくなりの
僕に背を向けたままアリスは言った。
「彩夏のカルテを調べさせたよ。そんなことしなければいいのにと自分でも思う。もう
恢復の見込みが──ない。
ないのだろう。医者もそう言っていた。彩夏はこれからの一生を、ベッドの上のなまあたたかい植物として過ごすのだ。
「それなのに、きみはここにやってきた。ずっと部屋に閉じこもっているか、あるいは手首でも切っているものかと思っていたのに」
「そう」
僕はベッドのすぐ手前に
「……これだけ言ってもきみは怒らないんだね」
「え?」
「いや。なんでもないよ。ぼくが悪かった」
ものすごく珍しいものを聞いた気がした。アリスが謝っている。
「怒る筋合いもないよ。だって、ほっておいたら、たぶんアリスの言う通りだったと思う」
「そうか。では氷菓づくりのうまいマスターに感謝しなければね」
僕はうなずく。
「用件を聞こう」
「アリスは
「ただの探偵じゃない。ニート探偵だよ」
「部屋に居ながらにして世界中を検索し真実を見つけだす?」
「その通りだ」アリスは
その大げさな
「じゃあ」僕は
自分で口にした言葉だったけれど、それはひどく
僕はしばらくの間、アリスの大きな深い
「なにを知りたい?」
「どうして
アリスは長いまつげを伏せた。じっと考え事をしているようにも、あるいは聞こえないはずの音に耳を
「……前にぼくが言ったことを
「憶えてるよ」
アリスはまぶたを開いた。
「では今一度
僕は少しだけためらった。彩夏が隠しておきたかったこと。あるのだろうか。いや、たぶん、あるのだろう。僕に言えなかったことが。
それでも。
それでも、僕は──
「知りたいよ」
アリスは深く息を
「わかった。引き受けよう。料金は
僕は目を見開いた。
「……え?」
「きみが知りたいことを、ぼくはもう知っているんだ。遅すぎた……けれど」
「じゃ、じゃあ」
僕の言葉をアリスの鋭い声が
「今やそこに
「なに言って……」
「ぼくが知りたいのはね、
僕は一瞬、
「あの前日の月曜日、彩夏は授業に出ていない。それはきみも知っているね。しかし授業が終わった後でなぜか学校に行っている。いくつか目撃証言がある。そして家に帰っていない。月曜日の夜、
僕の背筋がぞくりとする。
学校を死に場所に選んだ理由。死に場所に──選んだ?
「わからない。ぼくには理由がわからない。ぼくは理由を知らなきゃいけない。だから、きみに手伝ってもらう。この二ヶ月、彩夏にいちばん近い場所にいた、きみに」
「僕……に? どうして、どうしてそんなことを、知りたがるんだ」
アリスは片方の
「どうして? どうして知りたがるのかって? そんなことをきみが
「あ……」
「きみと同じだ。ぼくは知らなくちゃいけないんだ。だって、ぼくは彩夏が飛び降りるのを止められたはずなんだ。もっと、ぼくがもっと多くを、もっと早くに知っていれば、止められたはずなんだ。彩夏がああなったのはぼくのせいだ。今からでも、知らなくちゃいけない、なんとしてでも、そうでなければ、ぼくは、ぼくは……」
アリスは思い詰めたような、追いつめられたような声で繰り返す。僕は胸が締め付けられるような想いを飲み下した。なんだろう、この少女を前にして浮かんでくるこの感情はなんだろう。
「手伝って、くれるね? それが料金がわりだ」
アリスはすがるような目で、僕をじっと見つめる。もろい光。ガラスの中の星。今にも、
だから、僕は、差し伸べられたその手を──
そっと握った。
「わかったよ。僕は、アリスの助手だったよね」
僕の言葉に、アリスはびっくりした表情を浮かべる。
冷たい指先。
やがてそれは、