でも、入部から一週間たって十二月に入っても、僕はまだ園芸部を続けていた。毎日放課後になるとあやが僕を部活に引っぱり出すからだ。彼女がどうして僕にそんなにかまうのか、何度考えてもわからなかった。

 園芸のことなんて全然知らないので、屋上のフェンスに寄りかかって、前と同じようにぼうっと街をながめてることがほとんどだった。その日の晴れた空には切り絵みたいな雲が二、三切れりつけられていて、じっと見ていると目がちくちくした。

 あの夜の、ラーメン屋からの帰り道で彩夏が言ったことについて、もう少しいてみたいという気持ちはいつもあった。でもけっきょく言葉にはできずに、僕はフェンスの向こう側をただ眺めていた。

「もう、ふじしまくんも手伝ってよ!」

 せんていばさみを手に、彩夏がほおをふくらませる。

「……なにやればいいのかわかんない。水やりは終わっちゃったし」

「アンプルすだけだから。一つの株に一本ずつ」

 あやはアンプル剤を手渡してくる。まくうち弁当についてる小さいしよう差しみたいなやつ。中には醬油の代わりに黄緑色の液体が入っている。

「これ、先っちょうまく切るの難しいんだよ。大きく切ると中身がすぐなくなっちゃうの。名人芸なのです」

 まんげに言いながら、彩夏ははさみでアンプルのせんたんを小さく切り落としている。

「ほら、あたし切る係でふじしまくんはす係。ちゃんと仕事して」

「仕事はきらいなんだ」

 ぶつくさ文句を言いながら、僕はうえばちの土にアンプルを逆さに突き刺していく。

「きらいじゃなくて、藤島くんはたぶん、自分が働いているところをうまく想像できないんだよ」

「なんですかいきなり核心を突くようなことを」あせったので思わず敬語になる。

「だって、あたしのおにいちゃんが同じこと言ってたから。生活するために働かなきゃいけないのがよくわからないんだって。だから高校も中退しちゃったし仕事も探さないでふらふらしてるの」

 働かなきゃいけないのがよくわからない。たしかにそれは僕も感じていたことだった。どうだろう、僕もいつか生活のための労働は致し方ないと割り切れる日が来るんだろうか。それとも、『ラーメンはなまる』の裏手につどう人々の一部に吸収されてしまうんだろうか。

 ぞっとしてその恐ろしい未来を打ち消し、僕はアンプルを土に挿す作業に集中する。花の季節ではないのでしなびた葉と茎が土の上でぐったりしているだけだ。準備期間。

「あのね、かんちがいしちゃったらごめんなんだけど、藤島くんとかお兄ちゃんのそれは、たぶん働くのがきらいなのより重症なのです」

「へえ」病気なのか、これ。

「だってほら、にんじんとかセロリは子供の頃きらいでも、大人おとなになったら食べられるようになったりするじゃない。でも、たとえば長ぐつとかタイヤとか食べろって言われたら困るでしょ。好ききらい以前の問題だから。大人になって食べられるようになるわけじゃないし」

「『自分が食べているところをうまく想像できない』?」

「そうそう」

「たとえ話うまいな。おかげでものすごく落ち込みました」

「元気出せ!」と彩夏は僕の背中をたたく。いや、おまえのせいだから。

「『はなまる』の人たちも藤島くんのこと、なんだか気に入ってたよ。たぶん、同類のにおいがしたんだよ。また連れてこいってテツせんぱいが言ってた」

「二度と行かないことに決めた」このままでは取り込まれてしまう。

「ええっ行こうよ! みんな待ってるよ」

 僕のどこが気に入ったんだろう。自分からはほとんどしやべらない、社交性ゼロの人間なんだけどな。

ふじしまくんは自分で思ってるほどダンゴムシみたいな人じゃないよ?」

「そうかな」ダンゴムシだとまでは言ってませんが。

「うん。独り言多いけど」

 僕は思わずアンプルを自分のくつつまさきに突き刺してしまった。

「そ……そんなに独り言いってる?」

「うん。だからなんとか話が通じてるんだと思う、って、大丈夫? 顔色悪いよ?」

 もう立ち直れないかもしれなかった。

「でも、もっと思ってることをちゃんとしやべってくれないと、わからないよ」

「喋り方をよく忘れるんだよ」と僕は適当なことを言った。でも、口にしてみるとそれはなんだかほんとうのことに思えてきた。あやは僕の顔をじっと見た後で、ため息をついた。

「じゃあ練習しなきゃ。ね?」


    ●


 けっきょく流されて、彩夏と一緒にまたラーメン屋に行ってしまう。その日の『はなまる』の勝手口には、まだだれも来ていなかった。夕方なのに客もいない。

「ナルミもまた来たのか」

 キャベツをざくざく刻みながら、ミンさんはあきれ顔でちらと僕を見て言った。前に見たのと同じ、さらしの上にタンクトップというすきだらけのスタイル。

「まあね、おまえもそうなるんじゃないかって気はしてたけど」

「そうなるって、どうなるんですか」

「今ならまだ間に合うぞ」とだけミンさんは言う。なにがだ。

「藤島くんもちゃんと喋る練習すれば、ニートにならずに済むよ、きっと」

 彩夏が言って、ちゆうぼうに回りエプロンを締める。僕はため息をついてドラムかんこしを下ろした。なんとでもおっしゃってください。

「あ、藤島くんもここでバイトすれば?」

「ナルミは仕事できなさそうだし、らない」ミンさんが即答する。

 僕がコーヒー・アイスをスプーンでかき混ぜながらいじけていると、ミンさんがどんぶりを手に厨房から顔を出した。

「そうだ、おまえにもできる仕事あった」

「なんですか?」

「これ、アリスんとこに持ってって」

 丼の中でを立てているのは野菜がたっぷりったタンメンだった。今回は少な目ながらめんも入っている。

「こないだおまえが持っていったら全部食べただろ。いつも残すんだよあいつ。今日もよろしく。どんぶりが空になってなかったらなぐるよ」


    ●


「なんだこれは。ぼくはタンメンの麵とにんじんとキクラゲとひきにく抜きを注文したんだ」

 アリスは丼の中身を目にしてほおふくらませた。

 その日もたんてい事務所はクーラーがきいていたけど、アリスはクマさんがらのパジャマだけのかっこう。寒くないんだろうかこいつは。

「麵も肉も、なにもかも全部入っているじゃないか。納得のいく説明をしてくれたまえ」

「ミンさんは栄養がかたよってるって心配してたよ」

「ほう。偏っているということは参照するべき標準があるということだな。ではその比較対象となる栄養標準とやらをこんきよも含めて聞かせてくれたまえ。言っておくが十年以上ドクターペッパーで暮らしてきたこのぼくに多数派の原理なんて安っぽいものを持ち出したら、二度と口が利けなくなるくらいこてんぱんに論破してあげるからそのつもりで」

 僕は嘆息した。探偵だかなんだか知らないけど、ほんとに口の減らないむすめだ。言い負かすのは無理だとわかっているので、ミンさんから授かった切り札を早々に出すことにした。

「全部食べないとアイスなしだって」

 アリスの顔がこおりついた。くちびるがわななく。

「……き、きたないぞ。けいほう二二二条によるきようはくざいだ。あるいは独占禁止法第一九条で禁じられたき合わせ販売」

 なみだになりながらも、アリスは両手をぱたぱた上下させて次から次へといかがわしい法律知識を並べ立てる。面白いのでしばらく黙って見ていた。

 そのうちにあきらめたのか、むくれ顔で割りばしを取り上げた。

「ドクターペッパーを持ってきてくれたまえ、三本だ!」

「食べる前に飲むの?」

「食べながら飲むんだ! 人参や肉なんかそのまま食べられるわけないだろう!」

 しんかんを片手に半泣きになってタンメンをすするアリスは、なかなかものだった。

「こっち見るなばか!」

 早くも飲み終わった一本目の空き缶を投げつけられたので、僕は笑いをこらえながらアリスに背を向ける。しかし、とんでもないへんしよくもいたものだ。ほんとに地球人なんだろうか。

「給食の時間とか、どうしてたの? 怒られたりしなかった?」

 ふと、思いついていてみる。

 しばらくの間をおいて、答えが返ってきた。

「学校には行っていない」

「え」

「生まれてこの方、教育機関に通った経験はないんだ。給食というシステムくらいは知っているけど」

 まともな人生を送ってきたやつとは思っていなかったけど、小学校も行ってないのか。

「テツに言わせれば最終学歴小卒未満というのはニートとしては最上級らしいがね。ふん。そんな序列には興味がない」

 でもなんとなく、こいつなら、ちゃんと小中高と学校に通うなんて普通の人生は馬鹿にするんだろうな、と思う。

「そんなことはない。ぼくは普通をべつしたりはしないよ」

 僕はびっくりして振り向く。どうやらまた、考えてることが言葉でれていたらしい。

「できれば小学校にも中学校にも通いたかったと正直に思っているのだよ。ぼくがにくむのはまいだけだ、普通であることは愚昧であることと関連がない。通学は純粋にぼくが為し得なかったことであり、ぼくの欠落でもある。同世代の人間が義務教育を受けている間、ぼくはなにをしていたと思う?」

 アリスはそこで言葉を切って、めんを一本だけすすり込んで苦い顔をしてドクターペッパーで流し込んだ。どうやら、僕への質問らしかった。

はなよめ修業?」

 アリスは口の中の物をき出しかけた。

「……きみはみようなユーモアのセンスがあるな。さぞかし周囲の人間からはうとまれているだろうね。深く同情するよ」

 同情されてしまった。その通りだけど。

「で、正解は?」

「うん? ああ、正解はね。見ての通りだ。ネットのそこらじゅうに窓を開いて、世界を見回っていたのさ。きわめて限定された、ゆがんだ世界をね」

 アリスは背後の壁をめ尽くす黒い機器の群れをあおぐ。

「……毎日ずっと?」

「きみが考えているよりもはるかに厳密な意味で、毎日ずっと、だ。そうしてぼくは情報だけを体内にめ込み、己の無力さだけをドクターペッパーで胃の中に流し込んで生きてきた。ぼくがこの世界に存在する意味を、ずっと探し続けてきたんだ。ねえ、知っているかい? 今現在、この地球上では三・六秒に一人の割合で、子供が貧困のために死んでいる。

「……は?」

 思わず変な声が出る。なに言ってんのこいつ?

「純粋な可能性の問題だよ。いいかい、もしぼくに充分な資産があり、食糧生産ラインがあり流通経路があれば、ぼくはする子供を救えたはずなんだ。貧困問題を憂えているわけではないよ、ぼくは聖人じゃない、繰り返すが純粋な可能性の問題だ。ぼくにその能力があれば、死んでいく子供を救うことができた。であれば、彼らが死んでしまったのはぼくの能力が足りなかったせいだ。同様に、テロリストが旅客機をハイジャックしてビルに突っ込んだのは、ぼくにそれを止める能力がなかったせいだ。しんさいや津波でじんだいな被害が出たのも、ぼくにそれを予知する能力がなかったせいだ」

 純粋な、可能性の問題。

 いや、でもそれ、その理屈ならなんでもアリスのせいになるんじゃないの?

「ぼくはそういう風にして、時間をかけて自分の無力さを確かめた。具体的に言えば八年くらいかな。これほど無力なぼくが世界に対してなにを為せるのかを、知りたかった。たとえば無力に死んでいく人たちをどうにかできるのか。あるいはなにもできないのか」

 八年。馬鹿だ。

「限界を感じたので家も出た。この新しいとりでに閉じこもって、ひたすら世界に向けて窓を開け続けた。ふふ、実家からは今も追われている身だよ。おかげで現実世界の方にも窓を開けなきゃいけないになった」

 アリスはちよう気味に微笑ほほえむと、ベッドの右手のゆか近くに並んだ無数の立方体小型モニタを見る。画像が小さすぎて最初はよくわからなかったけれど、『ラーメンはなまる』ののれんが映し出されているのに気づき、さとる。このビルの周囲の光景だ。合計六つのカメラによるリアルタイム映像。となりのビルの間や、裏側ももうしている。

「追われて……る?」

「実家もばかではないから、居場所はとっくに割れているだろうがね。まあ、非文明的手段を未然に防ぐための保険だよ。こうして家から逃げ、無力さから逃げ、ぼくの無能さゆえに失われ続ける世界から逃げ……それでも答えは見つからなかった。だから」

 僕はぼうぜんとしてアリスの顔を見る。

 真剣なんだ、こいつ。今までの、全部じようだんたぐいだと思っていたけど。

「だから、ぼくはたんていになることを選んだ」

「……ごめん、話が飛びすぎてついていけない」

「わからないかい? すでに死んでしまったもの、失われてしまったものに対してなにか意味のある仕事が為せる職業は、この世の中でたった二つしかないんだ。つまり作家と探偵だ。作家だけがそれを夢の中でよみがえらせることができる。探偵だけがそれをはかの中から掘り返して情報に還元することができる。それは宗教家にも政治家にもそう屋にも消防士にもできないことなんだ」

 僕はもうなにも言えなかった。アリスははしどんぶりの中身をゆっくりとかき混ぜながら、さびしそうな目を伏せる。

「でもね、ときおり不安になる。たんていはつまるところ、すでに失われたものに対してしか働きかけられないのではないか、と。起きていない事件は解決できない。まだできていないはかあばけない。これから深く傷つくはずの人がいても、ぼくはけっきょくそれに対して無力なままなんじゃないか、とね」

 それきりアリスは黙って、丼に集中した。僕はなんとなく、いたたまれなくなって、また背を向けた。キャベツをむ音がもの悲しく響いていた。

 長い長い時間をかけてアリスは丼を空にした。僕は黙って、かくし持っていたヴァニラアイスを差し出す。でも、アリスはそれをテーブルに置いたまま手をつけようとせず、僕の顔をじっと見上げていた。

「ええと……なに?」

「いや。なぜこんなにしやべってしまったのか不思議に思っていたところだよ」

 僕も不思議だった。アリスがこれほど自分のことを喋るとは思ってもみなかった。少しだけこのパジャマむすめの行く末が心配になった。僕に他人を心配する資格なんて一ミリもないのだけれど。

「なにか思うところあれば率直に言ってくれてかまわないよ」

「んん」少し迷ったけど、正直に言うことにした。気をつかったうそがどれほど人を傷つけるかは、よく知っていたから。「ちゆうしよう的すぎてなに言ってんのかよくわからなかったよ」

 二本目のかんを投げつけられるかと思ったけど、かわりにアリスは声を立てて笑い出した。長いくろかみをシーツの上に乱してひとしきり笑うと、じりなみだをこすりながら言う。

「きみはほんとに面白いやつだな。あやから話だけ聞いたときは、手のほどこしようのないろくでなしみたいに思ったものだけれど、どうやらそうじゃないらしい」

「彩夏……なんて言ってたの?」

「ほう。気になるのかい。意外だな。きみは他人のことになんてなんの興味もないものかと思っていたよ」

 アリスは少し意地悪そうに笑う。

「べつに、気になるわけじゃ」と僕はつい言い返してしまう。

「そうかい。ではあえて教える必要もないわけだね」

 僕は下くちびるむ。いらついている自分に気づいた。もちろん気になるのだ。彩夏が僕をどう思っているのか。アリスはそれを見かしたように目を細めると、やがて口を開いた。

「……トシに似ていると言っていたな、きみのこと」

「トシ? だれ?」

「彩夏の兄だよ。中退生でね、よくテツたちとつるんでいたのだけど、最近見ない。そうだな、情けないところとかむっつり黙るところとか独り言が多いところとかあやめいわくをかけまくっているところとかは似てるかもしれないね」

 ひどい言われようだった。僕はおにいさんのことを話していた彩夏を思い出して、複雑な気持ちになる。じゃあ彩夏は、僕がお兄さんに似てて心配だったから、あの日屋上で僕を園芸部に誘ったんだろうか。なんか自分がものすごく馬鹿馬鹿しいことを考えている気がした。

「気にしなくていい。そこまで似ていないよ。きみはまだニートではないしね」とアリスは黙り込んでしまった僕に声をかける。「トシはきみほどかたくなじゃなかったし、だいいち──」

 とうとつにアリスの言葉がれる。彼女の目は、ベッドわきの監視モニタにじっと注がれている。

「……どしたの?」

うわさをすれば影だ。トシが来てる」

「え」

「なんで裏から来てるんだ、あいつは」

 アリスにつられて、僕もモニタをのぞき込む。そのそうしんの人影が映っているのは、右から三番目の箱。画面の左下にはドラムかんの上面が見える。たまり場の勝手口前を上の方から撮っている画像だ。フードつきのこん色のトレーナーを着たその人影は、ビルの間のずっと奥の方に立っていて、動かない。

「ナルミ、つかまえてきてくれ。このまま帰りそうだ、あいつ」

「なんで……」

「彩夏が心配してるんだ。いいから早く行け」


    ●


 僕が非常階段を下りきったとき、その人影はこちらに背を向けてビルの谷間の奥へと歩き去ろうとしているところだった。僕はゴミ袋の山をかき分けてその人にけ寄った。

「あの」

 トレーナーの背中がびくっと震え、振り向く。青白いほそおもて眼鏡めがねの奥で神経質そうな目が泳ぐ。一目で彩夏のお兄さんだとわかった。目元とかそっくりだ。あんまりたじろいでいるので、声をかけたこっちも、なんと言葉をつなげばいいのかわからなくなってしまった。

「お兄ちゃんっ?」

 彩夏の声が響く。振り向くと、勝手口から半分身体からだを乗り出した彩夏のエプロン姿。

 彩夏のお兄さん──トシさんの、観念したようなため息が聞こえた。

「電話してくれればよかったのに、お兄ちゃん」

「携帯止められてんだよ、今。料金払ってないから」

 彩夏はトシさんをビルの谷間のずっと奥まで引っぱっていくと、こっそりとさいからさつを何枚か取りだして手渡した。うわあ。それはどうなんだ兄として。僕は見なかった振りをする。

 戻ってきたトシさんは、階段にこしを下ろすと、ちゆうぼうに向かって「ミンさん、なんかアイス食べさしてよ。のどが乾いた」と言った。出てきたミンさんはまゆをひそめてトシさんをじろじろ見ると、「おまえ、またなんか変なもん食ってるだろ。冷たいもの食べたらまたくぞ」と言って、中に引っ込んでしまう。

「待ってておにいちゃん、なんか温かいもの作るから」と、あやも厨房に戻る。

 トシさんは舌打ちして、ポケットから小さなビニル袋を取りだした。中の小さなじようざいを半分にくだいて、口に放り込んで水もなしにみ込む。それから、じろっと僕を見た。

「彩夏から前に聞いたんだけど、同じ部活の?」

 ようやくトシさんは僕に話しかけてくれた。僕は少し緊張しながらうなずく。

「そっか。おまえがナルミか」

 彩夏はどんなことを話したんだろう、と思う。

「あいつ馬鹿だから大変だろ、一緒にいると」

 僕はぶんぶん首を振る。トシさんは曇った冬空を見上げて乾いた声で笑った。冷たい金属の棒で背中を引っくような笑い声。

 そこで僕らの会話(?)はれた。トシさんは背中を丸めてトレーナーのポケットに両手を突っ込み、きょろきょろと落ち着きなく視線をさまよわせながらときおり貧乏揺すりをしている。僕はその横顔をこっそりと観察した。

 僕に似ている、だろうか。

 わからなかった。似ているかもしれない。ねんれいは僕の一つか二つ上だろう。でもはだはがさがさに荒れていて、血の気がなかった。彩夏が心配するのもわかる。

「お? 珍しいのが来てる」

 いきなり後ろから声がした。振り向くと、相変わらず半そでTシャツのテツせんぱいと、かわジャンのヒロさんと、シベリアちゆうとんへいみたいな服装のしようがビルの合間に入ってくるところだった。

「トシ、おまえなにやってたんだよ今まで」

「え、いや、まあ、色々と」

 テツ先輩の質問を、トシさんは目をそらして言葉をにごしはぐらかす。

「ナルミもまた来たのか。こう、中退生が三人そろうと、やっぱ中卒こそニートの王道って感じだよな」テツ先輩は僕とトシさんを順番に見る。

「あの、僕まだ中退してませんから一緒にしないでください」

 僕の抗議はさっくりスルーされる。

「テツさんまでそういうことを言うから量産型が増えるんですよ。いつやめるかではありません、いかにしてやめるかです」「うるせー高卒。勝負すっか」少佐とテツ先輩はわけのわからない言い合いを始める。

「トシもいるし、久しぶりにゲーセン行こうよ」とヒロさんが言い出した。「おれ新しいコンボおぼえたし超必殺出せるようになったし、今ならトシに勝てる気がする」

「え、いや、あの」

 トシさんはしぶったけど、テツせんぱいうでを引っぱられていやおうなく席を立った。

「ナルミも行くだろ?」

「どこ行くの?」と、あやがあわてた様子でちゆうぼうから飛び出してくる。

「ちょっとゲーセン」ヒロさんがにこやかに答える。

「おにいちゃんも?」

「早く行こうヒロさん」

 トシさんは彩夏をわずらわしそうにいちべつすると、さっさと表に出ていってしまった。


    ●


 連れて行かれたのは、駅のショッピングモール内のゲーセンだった。ワンフロアはすべてUFOキャッチャーとプリクラにせんきよされ、二階も半分くらいは大型きようたいの音ゲーや通信ゲームやカーレースのスペース。昔ながらのゲームはすみっこに押しやられていた。

 トシさんの格闘ゲームの腕前は、おにのようだった。テツ先輩とヒロさんは、かわりばんこに乱入しまくって何度も何度も挑戦したのだけど、ついに一本も取れなかったのだ。

 しようはトシさんをガンダムの対戦ゲームに引っぱっていって、自信満々で挑戦。でも同じようにボコボコにされた。ザク2を操るトシさんはほんとにニュータイプみたいで、後ろに目がついてるんですか? という感じ。最初はいやいや対戦していたのに、勝ちまくっているうちに目つきが危なくなって変な声を発するようになった。少佐に六連勝したところでけたけた笑い出したかと思うと、次の瞬間さおになって、「ちょっとトイレ」と言って続行中のゲームを放り出して走って行ってしまう。

「……またあいつ、なんかやってんな」テツ先輩が心配そうに言う。

「なんかって」

「昔からネットで合法ドラッグ買ってやってたんだよ、あいつ」

 僕は、トシさんがんだじようざいのことをちらっと思い出した。ひょっとして、あれはそういうドラッグだったんだろうか。心配になってきた。

「あの、ちょっと様子見てきます」



 トシさんはトイレから白い顔で出てきた。くちびるはしれていた。ちょっとっぱいような変なにおいがする。いたんだろう。

「ちょっとおれ、外の空気吸ってくる」と言うので、僕も心配になって外までついていった。

 日が暮れていて、車道には車がぎっしりとすし詰めになり、ビング・クロスビーのクリスマスソングや赤と緑の装飾光が、歩道をすきなく流れる人の群の上に降り注いでいる。トシさんはゲーセンのすぐ外の石段にこしを下ろして、自販機で買ったファンタを一口。視線はまだうねうね泳いでいて気味が悪い。

「……大丈夫ですか?」

「止まって見える」

「え?」

「相手のキャラが止まって見えんの。マジで。1ドットの動きだってわかる。たぶん目ぇつぶって音だけでも勝てるよ」

 そう言ってまたけたけた笑う。ぞっとした。

「おまえ、けっこうテツさんたちとよく遊んでんの?」

 げっぷ混じりにトシさんはいてくる。

「んん……こないだはじめてったばっかりなんです」

「そのわりに、なんかんでんなぁ」

 トシさんは笑う。そんなに馴染んでるだろうか。

「……おれもさ。学校さぼってゲーセンばっか行ってたら、いつの間にかみんなとよく遊ぶようになっててさ。色々教えてもらった。おまえも格ゲーやれよ。今度教えてやるよ」

 僕は少し照れくさくなって自分のひざに視線を落とす。毎日こんなふうに遊べるのなら。たとえ高校を中退するになっても。たとえ行く先がニートしかなくても。それは──悪くない、かもしれない。

「じゃあ、トシさん、また『はなまる』に来るようになるんですか」

「え? あ……あぁ。あ、そうか。そうだよな。もう……」

 僕の質問に、いきなりトシさんは遠くを見る目つきになる。

「忘れてたよ。久しぶりにみんなと遊んだから──」

 言葉がれ、トシさんはいきなり激しくむせた。せきがおさまってからも、呼吸が荒く、丸めた背中がぐびぐび上下している。僕はどうしていいかわからず、トレーナーの背骨のあたりを何度もさすった。

 トシさんは震える手でポケットからビニル袋を取り出し、今度はじようざいまるまる一つをファンタでのどに流し込む。止めようとしたけど遅かった。炭酸飲料がトシさんのジーンズの膝にいっぱいこぼれてしゅわーっと音をたてたけど、トシさんは全然気にしてないみたいだった。通行人がじろじろと僕らのことを見た。

 やがて、トシさんの身体からだの震えが止まる。

「……エンジェル・フィックス」

「なんですか?」

「これだよ。いい名前だろ。天国に連れてってくれんの」

 トシさんは袋の中に二つだけ残ったじようざいを僕の顔に近づける。淡いピンク色の小さな粒には、一枚のつばさの図案と、A.F.という文字が彫り込まれていた。

「おまえもる? 安くしとくよ」

「要りませんよ……それ、やばい薬なんでしょ?」

「大したことないよ。ケミカルじゃないし。騒ぎすぎなんだよ、ドラッグくらいで」

 僕はぐっと苦いつばを飲み下した。

「どうして。……薬なんて」

「どうして、って。おまえ。おまえさあ」トシさんのしやべり方はねばっこくなる。「そもそも人間、なんのために生きてると思ってんの」

 トシさんが突然なにを言い出したのかわからず、僕は黙り込んだ。

「あのさあ。人間の脳ん中に報酬系神経系ってのがあるんだよ。A10神経系ってやつ。い飯を食ったりとか人からめてもらったりとか欲しいものを買ったりとかすると、伝達物質が合成されてシグナルが伝わっておれらは幸せを感じるわけ。逆にさあ、とうしつとかうつなんかだとドパミン機能が低下しててさあ。要するに、いくらがんって幸せなことしても脳味噌んなかでちゃんとモノが合成されないと幸せ感じないわけ。だから、俺らはA10系を刺激するために生きてるんだよ。わかる?」

 僕はなにも言えず、ただトシさんの顔をじっと見つめる。トシさんの目は、もう僕を見ていないのがわかった。だれに向かって喋ってるのかわかってるんだろうかこの人。さっきとは別人みたいによく喋るし。

「だったらさあ。薬でいいじゃん。ダイレクトで、わかりやすいだろ。そのままヒットするんだから。べつにがんって仕事して金かせいだり女見つけて結婚したりする必要ないんだよ。薬で結果が同じなんだからさあ。同じどころじゃないよな、つらい部分ないし時間もかかんないもんな。薬はパーフェクトだよ。俺なんかさあ、高校もバイト先もクビになったし、中卒じゃ仕事も見つからないし、っていうか探す気もないんだけどさあ、エンジェルは差別しないわけよ、そういうことで」

 トシさんは夜のにピンク色の錠剤の入った袋をかざす。僕は思わずそのかたをつかんで揺さぶっていた。

「大丈夫だよ。痛ぇよ揺らすな」

 大丈夫、大丈夫、とふしでもつけて歌うようにトシさんは繰り返す。

「そうだ、おまえにきたいことがあったんだ。あのさ、最近あのラーメン屋で、俺らと同じくらいのとしのやくざみたいなやつ、見かけなかった」

「……四代目のことですか?」

 僕はアリスの部屋に四代目がやってきたことを話した。

「あ、なんだ、四代目もアリスも知ってるのか。ならいいや。ほんとは用事それだけだったんだ。はは。おまえももう、なんか、あそこのメンバーだな」

 トシさんは歩道に足を放り出して、夜の空にけたたましい笑い声を投げる。通行人がまゆをひそめて大きくかいして行くので、僕らのまわりには半円形の空間ができあがった。

あやもみんなとちゃんとうまくやってるか?」

 僕はうなずく。

「あいつ、学校でも浮いてねえ?」

「そんなことないです」

 ちょっと変なやつだけど、僕とはちがう。クラスメイトとも普通に楽しそうにしやべってるし。

「そっか。なんでなんだろうな。あいつも中学じゃ登校拒否だったくせにさ。なんなんだよ。いつの間にかまともになりやがってさあ。おれのことも学校に引っぱり出そうとしてさ。俺にそんなことできるわけないだろ。こっちだって好きこのんで不登校やってたんじゃねえんだ。学校やめるって言ったら怒るしよ。いい加減うざいんだよ、あいつ」

 その言葉に、僕は座ったまま固まる。トシさんはかんだかい笑い声をあげながら、すっと立ち上がって、通行人の群れの中に飛び込んで表通りへと泳ぎ進む。トシさんの頭がどろどろの人の海の中にみ込まれていくのを、僕はしばらくぼうぜんながめていた。

 けんそうの中からも浮き上がって聞こえる、トシさんのけたたましい笑い声。僕ははっと立ち上がり、人の背中をかき分けて追いかける。あれはやばい。なんだかわからないけど、とにかくあれはやばい。

 まわりの通行人も、笑い声から僕と同じことを感じたみたいだった。ふらふらと歩くトシさんのまわりには見えない巨大な浮き輪があるみたいに円形の空間ができている。人の流れが停滞して、近づけない。

 不思議なまくに包まれたトシさんは、黄色信号の横断歩道にはじき出された。その瞬間、信号が赤に変わり、クラクションが吹きつける。トシさんはまだ笑いながら向こう岸へ転がっていく。僕は歩道の際で為す術もなくそれを見つめていた。

 信号待ちの人たちの間で、少しだけひそひそ声がかわされた。でも左右の車道からいらついたエンジン音を鳴らして車が何台も交差点になだれこんで、トシさんの背中をあっという間にかくしてしまうと、もうみんなあの笑い声のことは忘れてしまったみたいだった。この街は変な人間に対してみようかんだいなのだ。いちいち気にしていたらきりがないから。



 でも、一人だけ、トシさんの見えなくなってしまったあたりをじっと見つめて微笑ほほえんでいる男がいた。僕のすぐとなり、車道に半歩乗り出して信号待ちをしている若い男だった。上等そうなカシミアのコート、ほおがこけてあごとがった鋭い顔立ちにふちなしの眼鏡めがね

 ほんの一瞬だけ、その男と目が合った。ぞっとさむが走る。理由はわからなかった。その男の目の奥に、そのとき僕はななにかを見たのだ。

 男の胸元で音楽が鳴る。静かなリズムのギターストローク。男は携帯を取り出して開いた。

「はい。……ああ、しのざきなら見つけた。拾ってすぐに戻る。うん? 蒸留はおれが戻るまで止めておけ。パケは続けろ足りないのはわかってるだろ? ああ、うん……」

 一度聞いたら忘れられそうもない、ぎざぎざの不快な声だった。携帯を耳に当てたまま男が歩き出す。僕は後ろの人に背中を押されて車道に倒れそうになり、ガードレールの支柱をとっさにつかんだ。気づかないうちに信号がまた青に戻っている。人が流れ出す。

 でも、僕は動けなかった。男の言葉が耳に残っていて、脚が震え、一歩も動けなかった。

 篠崎、とあの男はたしかに言っていた。トシさんを知っていたのだ。何者だろう。

 ひどくいやな予感がした。



「おい、トシは? どこ行った?」

 歩道のすみほうに暮れていた僕の背中に、そんな声がぶつかる。振り向くと、テツせんぱいしようもヒロさんもいた。

「……どっか行っちゃいました」

 ようやく声が出せた。僕がトシさんの様子を話すと、テツ先輩はあきれた顔で頭をいた。

「おもてでラリんなよあの馬鹿……」

 あの、眼鏡めがねをかけたみような男のことは話せなかった。どう説明していいのかわからない。

「探した方がいいんじゃないですか」と少佐。

「でも電話つながんないよ」ヒロさんが携帯を振ってみせる。

 三人はほとんど同時に、通行人にめ尽くされた表通りに目をやる。この街でだれかを探すなんてほぼ不可能だった。でも、テツ先輩は僕の頭にぽんと手を置いて言う。

「ナルミは『はなまる』に戻って、あやに適当に説明しとけ」

「え、えと」

「あんま心配させるようなこと言うなよ。おれらはトシ探すから」

 僕がなにか言うひまもなく、三人ともトシさんを追って人混みにまれてしまった。


    ●


 ラーメン屋に戻ってみると、だいぶ暗くなっているのに客が一人も見あたらず、彩夏の姿もなかった。ちゆうぼうではミンさんがボウルの中のクリームをあわてていた。

「今日、全然客が来ないから帰っていいよって言ったんだけどな。トシが戻ってくるかもしれないからって、上で待ってる」

「上、って、アリスのとこですか?」

「そう」

 あやは、たんてい事務所のベッドの上で、アリスをひざの上にせて長いかみにブラシをかけていた。

「おにいちゃん帰っちゃったの? どこに?」

「彩夏、痛い、髪引っぱってる」アリスが首をすくめて抗議する。

「あ、ごめん」

 彩夏も決して大柄な方ではないのだけど、こうしているのを見るとアリスのちっこさがよくわかる。ほんと人形みたいだ。

「ね、今どこに泊まってるとか言ってなかった?」

「……よくわかんない」

 僕は言葉をにごした。変な薬やってラリったままどこかに行ってしまったなんて、とてもじゃないけど言えなかった。

「困ったなあ。連絡先くらい教えてくれればよかったのに」

 トシさんは彩夏のことわずらわしく思っていたみたいだった。あれは本心だったんだろうか。それとも、薬ででたらめをしやべっていたんだろうか。

「彩夏もあんな、まいに手足が生えて眼鏡めがねをかけているような男はほっておきたまえよ。血縁こそ人類がまず打破しなければいけないおろかな信仰のいしずえだというのに」

「アリスこっち向いちゃだめ」

「むー」

 アリスは彩夏の方に振り向こうとして、頭をつかんで押さえられたので、げんそうな顔になる。

「ついでにぼくの髪の毛もほっておいてくれるとうれしい」

「だめだよ、こんなにきれいなロングなのに。ほっといたらすぐぼさぼさになっちゃうよ。ちゃんとあたしのあげたシャンプーとトリートメント、使ってるよね?」

「世話好きもたいがいにしたまえ、まったく」

 いやそうな声をあげながらも、アリスはおとなしく彩夏の膝の上におさまっている。世話好き。他人のことをほっておけない人種。彩夏もその一人なのだ。それだけのことなんだろう、たぶん。



 僕が事務所を出ようとすると、彩夏も一緒に帰ると言ってついてきた。

 非常階段の途中で、彩夏のかばんの中から着メロが流れ出す。

「……もしもし?」

『あ、あや? おれ

 電話口からのトシさんの声はめちゃくちゃでかくて、僕にまで聞こえた。まだトリップしているのかもしれない。に明るい声だった。

「おにいちゃんっ?」

『これはかざかさんの携帯借りてるから、あんま長話できない。俺いま墓見坂さんとこにいるから、かあさんにもそう言っといて』

「あの、でもお兄ちゃん」

 電話はかかってきたときと同じようにとうとつに切れた。彩夏は黙り込んだ携帯をじっと見つめて、それから僕を見た。困ったように笑うので、僕は思わず目をそらす。

「トシさんから?」

「うん。墓見坂さんのとこにいるみたい」

 はかみざか?

「んー。あたしも二、三回しかったことないから、よくわかんないんだけど、大学生の人。あのねポピーにすっごいくわしいの、将来学者さんかも」

「じゃあ、どこにいるのか知ってるの」

「ううん、知らない。非通知だし……こっちからもかけられないよ、ひどいなお兄ちゃん」

 彩夏はかなしそうにまゆをひそめると、かばんに携帯を放り込んだ。

「いっつも、なにも言わないで消えちゃうんだから」

 それはたぶん、うつとうしいからだよ。僕は胸の中でつぶやく。彩夏が僕の顔を見て首を傾げた。

「なに?」

「なんでもない」かぶりを振る。また独り言がれてたのかもしれない。

「……お兄ちゃん、なんか言ってたでしょ。かくしてるのわかるよ」

 僕は黙って目を伏せる。

「もう、なんで話してくれないかな」

 つばを飲み下し、視線を持ち上げる。

「……中学のとき登校拒否だったのは聞いた」

 なんでこんなことを言ってるんだろう僕は。彩夏の顔が一瞬だけこおりついて、それからあせっているのを隠すような不自然な笑みに変わる。

「あ、あたし、のこと? え、うん、その……」

 トシさんはだめだったけど、僕なら──

「僕ならなんとかできると思った?」

「……どういう、こと?」

 僕は彩夏に背を向けると足早に階段を下り始めた。自分でもなにを口走ってしまったのかよくわからなかった。なんでだ。なんでこんなことしやべってるんだ?

ふじしまくん!」

 追いかけてくるあやの声を振り切って、ビルを飛び出した。帰り道をひとりで歩いている間、頭の中でずっとトシさんと彩夏の言葉が混じってぐるぐる回っていた。


    ●


 翌日は、五、六時間目の化学の授業をさぼってそのまま帰るつもりだった。色んなことが整理できていなくて、彩夏とは一緒にいたくなかったから。

 でも昼休み始まってすぐに、まわりの席の男子が話しかけてきたので、教室を脱出するタイミングを失ってしまった。

「藤島さあ、昨日きのうゲーセンで見かけたけど、一宮いちのみやせんぱいと一緒にいただろ?」

「あー、おれも見た、なに、知り合いなの? いいなあ」

「え、と」

 最近、クラスメイトが普通に話しかけてくるようになったのだけど、僕の方はまだ慣れない。というか名前をまずおぼえていないので、喋っていると後ろめたいのだ。でも、なんとか言葉を返す。

「……テツ先輩、のこと? だよね? 知ってるの?」

「知ってるもなにも、あの人、超有名だから。ボクシングジムからスカウトが来たりしてたらしいけど」

「そう。伝説。なんだっけ、体育教官室がプレハブなのはあの人がぶっこわしたからとか」

「裏門が閉まりっぱなしなのはあの人がなぐって曲げちゃったからだって」

「校長がハゲてんのもあの人が」

 そ、そんな有名人だったのか。

「なんで藤島、知り合いなんだよ」

 ええとそれは。

「彩夏のバイト先によく来るからでしょ? だよね?」

 女子生徒も話の輪に入ってきた。

「ラーメン屋だよね。いっぺん行ったことある」「店長がすっごい美人なんだよね」「マジか今度行く」「いのか」「アイスはしいよ」「アイスはってなんだよアイスはって。ラーメン屋じゃねえのか」

 当の彩夏は、なぜか黙りこくって会話に参加しようとしなかった。でも、僕と彼女を放置して話はとりとめもなく広がっていく。そのうちに五時間目の開始を告げるチャイムが鳴って、化学教師が教室に入ってきた。



 逃げ出すこともできずに放課後がやってきた。いつもならすぐにあやが僕を部活に引っぱっていくのだけど、その日の彼女は、ちらと僕の顔を見ただけで、わんしよううでに巻くと黙って教室を出ていってしまった。

「おまえらけんでもしたの」

 前の席の男子が何気なくいてきた。僕はぶんぶん首を振った。クラスメイトの視線が集まってきた。そのまま帰るわけにはいかない空気だったので、僕はかばんを教室に置いたまま中庭に行った。

 彩夏はシャベルを手にだんふちでしゃがみ込んでいた。僕も花壇のれんの上にこしを下ろして、準備期間中の草花をじっとながめた。言葉のはしっこは全然見つからなかった。

 先に口を開いたのは彩夏だった。

ふじしまくん、まだクラスのみんなの名前おぼえてないんだね」

「……なんでわかるの」

「話し方でなんとなく」

 でも、それってなにか問題あるのか?

「名前憶えてないのはいいんだけどさ。だれかに話しかけられるとすっごい警戒するよね。壁越しにしやべってるみたい。昨日きのうだって──」

 昨日のことを、彩夏はまだ引きずっている。いや、僕もか。トシさんが言っていたことがまだ、耳にまとわりついている。

「……なんでそんなに僕のこと気にするわけ? 学校になじんでないやつがいるとそんなにざわり?」

 口にしてしまった後で、これもちょっとひどい言い方だったかもしれない、と思った。昨日からそうだ。なんだかおさえがきかない。彩夏は三秒くらいぽかんと口を開けて僕の顔を見つめた後で、いきなりほおを赤くする。

「なんでそういうこと訊くかな」

 なんで、って。

「僕が壁越しでしか喋れないと、だれか困るの?」

「あたしが困るよ」

 顔を紅潮させたまま、彩夏は答えた。

「……あたしが困るの!」

 語気を強めて繰り返す。僕は口を半開きにして、彼女のくちびるを見つめているしかない。なに言ってるんだこいつ? どういう意味?

「べつにクラスになじまなくったっていいよ。でも、あたしと喋るときもそんなに身構えられると、かなしいんだよ」

「……なんで?」

「なんで? なんでって言った? わかんないの?」

 あやが立ち上がって声を荒くした。中庭にいた生徒が何人かこっちを見た。僕はこわれたせんぷうみたいに首を振った。わからなかった。どうして彼女が怒っているのかも、わからなかった。ただ、なみだのたまった目で見つめられていると、肺の中の空気がこおったような気分になった。

「僕が、え、あの、どう、して」混乱した思考をうわごとのようにらしながら、立ち上がる。

「……どうして。わかんないよ」

「いい。わかんなくていい」

 ほおゆうみたいな色に染めて、下くちびるみしめ、彩夏は首を振る。僕が固まっていると、彩夏はだんわきのベンチに置いてあったかばんを取り上げて僕に背を向け、いきなり走り出そうとした。

「……待って!」

 自分でもどうしてとっさに手が出たのかわからない。二のうでをつかんだ僕の左手を、彩夏は乱暴に振り払った。びいっ、となにかがける音がして、僕の全身にさむが走った。

 土の上に、黄色いものが落ちた。

 もうただのぼろぼろの布になってしまった、園芸委員のわんしよう

「あ……」

 振り向いた彩夏は、手で口を押さえて、しばらくそれを見下ろしていた。僕が顔を上げてなにか言おうとすると、またきびすを返して走り出し、あっという間に校門の向こうに見えなくなってしまう。



 取り残された僕は、しばらく冬のまりにしゃがみ込んで、彩夏の言葉をはんすうしていた。何度考えても、彼女を泣かせてしまった理由はわからなかった。どうすればいいのかもわからなかった。

 しばらくぼうぜんと立ちつくした後、しかたなくシャベルと破れた腕章を拾い上げる。じきに彼女は戻ってくるかもしれない、僕だけでも園芸部の仕事をやってよう、と思った。でも、僕ができることは水やりと草むしりだけだった。終わってしまうと、ぽっかり穴が開いたような気分になる。

 日が沈みかけても彼女は戻ってこなかった。

 久々にコンピュータ室に行って、窓際のいつもの席に座ってみる。でも、PCの電源を入れる気がどうしても起きなかった。ほかにだれもいないコンピュータ室はこんなに静かだったのか、と思う。

 破れたわんしようを机の上に広げて置いた。なんだったんだろう、あれは。なんであやは怒っていたんだろう。考えているうちに、僕もなんだか腹が立ってきた。なにも説明せずにいきなり泣かれても困る。僕のせいなのかどうかもわからない。いや、たぶん僕のせいなのだろうけど、黙っていなくなられたら、こっちはどうすればいいんだ。

 そこで僕は思い至る。

 これでひとりに戻れたんじゃないか、と。

 でも、部屋にまった静けさは押しつぶされそうなほどだった。耐えきれなくなった僕は、腕章をポケットにしまうと、コンピュータ室を出た。


    ●


 ひとりで駅前に行くのは、考えてみればはじめてだった。バスロータリーのまわりはぎっしりと信号待ちの人でまっていて、ときおり弁が開いたみたいに広い横断歩道に向かってどばっとき出される。

 車の排気音や何百人分もの足音やドコモショップの店員の張り上げる声やクリスマスソングが入り交じった中を、背中やかたを押しまくられながらとぼとぼと歩いていると、不意にだれもいない冬の野原の真ん中に立ち尽くしているような錯覚がやってくる。

 頭を振って横断歩道を渡り、センター街のゲーセンに入った。

 何回かゲーム機にコインを入れたことはおぼえているけど、なんのゲームかわかっていなかった。手持ちの百円玉が尽きてしまうと、僕はこしけて壁にもたれながら、ゲームオーバーの画面をじっと見つめた。

 彩夏にう前に、自分がどうやってひとりきりの時間を過ごしていたのか、僕はもう思い出せなくなっていた。信じられないことだけれど。こうして、ラーメン屋に行こうと駅前まで出てきて、でもいざ彩夏と顔を合わせたときになんと言って謝ればいいのかわからなくて、ゲーセンでくすぶってる。だって彩夏はなにも言ってくれなかったのだから。

ほたるの光』が閉店を告げるまで、僕はそうしてぐったりと壁にもたれて座っていた。


    ●


 もう夜の十二時を回っていた。駅から少し離れると、街は夜の中にどっぷり沈んでいる。『ラーメンはなまる』の近くまで行ってビルの間から店の様子をのぞいてみると、のれんは外されて、真っ暗な中にちゆうぼうの明かりが一つだけともり、ミンさんの姿が見えた。ほかにはだれもいない。もう店じまいの時間なのだ。

 なにやってんだろう僕は。

 エアコンの室外機にかくれるようにしてうずくまった。なんかもうむちゃくちゃだった。このまま地面に穴を掘ってまりたい気分だった。土にしりをつけると、ダッフルコートの分厚い布地越しにもひたひたとさむが伝わってきた。このまま寝ようかな。とうできるかもしれない。

「なにやってんだナルミ」

 いきなり頭の上から声が降ってきたので、僕はびっくりして立ち上がった。はずみでエアダクトに頭をぶつけてしまう。目の前に星が散った。

「……っいつぅ」

「おまえ馬鹿だろ……」

 ミンさんはあきれ顔で言う。

「な」なんでここにいるのがわかったんだろう。

「アリスから電話あってさ。ちょろちょろかくれてるやつがいるからって。なにしてんだよ、あやなら帰ったぞ?」

「あ……」

 監視カメラか。くそ、なんてな高性能だろう。僕は恥ずかしくてミンさんの顔をまともに見られなかった。つむじのあたりにミンさんの視線を感じた。

 しばらく、言葉はなかった。

 やがて、息をく音。

「寄ってくか? 冬の新作があるんだ」

 僕は頭を持ち上げた。ミンさんはタンクトップすら脱いでいて、こしエプロンの上はさらしだけだった。

 うでを引っぱられて、店の中にまで連れていかれた。昨日きのうも来たのに、『はなまる』のにおいはなんだかものすごくなつかしかった。ちゆうぼうではおおなべがまだ火にかけられていて、盛大にをたてていた。冬とはいえ長時間仕込みしてると暑いんだろう。でも、おへそまで露出したミンさんのかっこうはちょっとその、青少年には刺激的すぎるので僕は目をそらした。

 ミンさんは紙カップを二つ持って客席の方に回ってきて僕のとなりに座った。おい、上半身そのままかよ。なんか着ろよ。僕はミンさんを見ないようにしてアイスに集中する。今回のアイスは表面にココアパウダーがまぶしてある。口に運ぶと、チーズの甘みと、かすかなオレンジリキュールの香り。これ、僕でも知ってる味だ。

「……ティラミス?」

「そう。たまにはメジャー路線。いだろ?」

 僕はうなずく。ここのアイスはラーメンに比べてお抜きでしいのである。たしか、tira mi suというのはイタリア語で『私を引っぱり上げて』という意味じゃなかったか。僕は落ち込んでいるのがそんなにはっきり顔に出るタイプだったのか。なんてことをつらつら考えていたら、つい口がすべった。

「こんなにしいアイスが作れるのに、なんでラーメン屋やってるんですか?」

 ……しまったァッ!

 おそるおそるミンさんの顔をうかがうと、そこにはごくどうつまもかくやというせいぜつな笑みが浮かんでいた。

「へえ? ラーメン屋でアイス出しちゃいけないのか? そんなこと言う口はこの口か?」

 ミンさんはぐっと身を寄せてきて両手で僕の顔をつかんだ。

「ラーメンとアイスがどれだけすごい組み合わせかわかってないのか? んん? 腹の底からわからせてやろうか?」

 あごを固定され、ミンさんの指が僕のくちびるをなでまわす。食われる、と一瞬本気で思った。

「いえ、大丈夫ですじゅうぶん知ってますからミンさんのおかげで」

「この店はおやがやってたの」二秒前の鬼相がうそのように普段の顔に戻って僕を解放すると、ミンさんは言った。「わたしは冷菓専門店出したくて修業してたんだけど、親父がある日いきなりしつそうしちゃって。それで、いだの」

「はあ……」なんと言っていいかわからず、僕はへこっと頭を下げた。「ごめんなさい、変なこといちゃって」

「謝ンな」とミンさんは笑う。

「ここ改築してアイスのお店にするとか……考えませんでした?」

「んん。考えたよ。でも、わたし、この店好きだったんだよね。集まる客とかさ、においとか。それはたぶんラーメン屋だから持ってるもので、改築したらなくなっちゃうよ。そう思って、守ることにしたの」

 ミンさんは、暗い店内を見回す。油のしみたメニューのたんざく。並べてり付けられた芸能人(たぶん)のサイン色紙。ひび割れたカウンター。古びてはいるけれどぴかぴかにみがき上げられたちゆうぼうてんじようと壁。

「テツとかヒロとか無職どもがうちの裏をじろにしてんのもさ、まあ、ほかに行く場所がないんだろうし、いいかなって思う」

 そう言ってミンさんは、エプロンに書かれた白い『はなまる』の文字をぽんぽんとたたく。アイス専門店の夢と引き替えにしてまでミンさんが守った、この店のシンボル。

「そう……ですか」

 そうして僕はまたろくでもないことを考えて、口にしてしまう。

「でも、おとうさんは、お店がいやになって消えちゃったのかもしれないですよね。ミンさんにいでもらいたくなんてなかったのかも」

「そんなの知るかよ」

 ミンさんは僕のかたをどやしつけて笑った。

「あっちがなに考えてるかなんてどうでもいいんだよ。わたしがやりたいからやってんの。それでいいだろ? みんなそうやって押しつけ合って生きてるんだからさ」

 僕はぼんやりとミンさんの顔を見つめた。

「どうせ他人の頭の中なんてわかんないんだから。自分と同じ人間だって思い込むしかないよ」

 ……ああ、そうか。

 ようやく僕は気づく。あやが怒った理由。

 僕と同じだ。僕だって彩夏がなんにも言わずに行ってしまったとき、かなしかったし、腹が立ったりもしたじゃないか。

 だって、僕には彩夏しかいなかった。

 僕に話しかけてくれたのは、彩夏だけだった。

 なんでこんな、馬鹿みたいに単純なことに、ずっと気づかなかったんだろう。なんで今さら気づくんだろう。



 長い沈黙があった。ふと気づくと、僕はミンさんのかたひたいをくっつけてうなだれていた。はだしゆつした肩に。あわてて頭を持ち上げる。

「あ、あのっ、ご、ごめんなさい」

 ミンさんは笑って、優しく僕の頭をたたいた。大丈夫、気にすんな馬鹿。そういう笑い方だった。

 大丈夫、なのかな。まだ、なにをしたらいいのか全然わからないけど。身体からだが安心してゆるんだのか、おなかがぐぅっと鳴った。ミンさんはそれを聞きのがさなかった。

「ラーメンの新作もあるけど、食べる?」

「え……えと……」

 僕は口ごもってしまう。なにか察したのか、ミンさんは目を細めて、顔を近づけてきた。

「……あのさ。おまえってけっこう思ったことをすぐ口に出すタイプだと思うから、きたいんだけど」

「はあ」そんな風に思われてたのか。それたぶん独り言ですよ?

「……うちのラーメンて、どう? い?」

 ミンさんの表情が切実になる。僕の両手に両手をかぶせてぐっと握りしめて、目をうるませて下からのぞき込まれるように見つめられると、黙っているわけにはいかなくなる。

「えと」

「正直に答えて。なぐったりしないから」

「ちょっとスープが甘いかなー、と、思ったり思わなかったり」

「ちゃんと言って。美味いのかいのかどっち?」

「どっちかっていうと不味いですあいたっ殴らないって言ったじゃないですか!」

「うるせーばかーっ!」

 僕は店からたたき出された。

「そのうちおまえもなみだ流して美味い美味い言うようなスープ作ってやるからなおぼえてろ!」

 子供みたいなせりふを僕に投げつけるとミンさんはがらがらと店のシャッターを下ろし始めた。やがて僕は、ビルの足下の暗がりに取り残される。

 今さらなにができるんだろう。どうやって謝ればいいんだろう。簡単だよ、とあやがいつか言った言葉が頭の中で再生される。怒ったら普通に怒鳴って、うれしかったら普通に笑って、ほしいものがあったら普通に言えばいいだけだよ。ふじしまくんにもできるよ。

 それが簡単にできるなら僕はこんなところにいない、と思った。じゃあ、なにができるんだろう。ぐじぐじと考えながら、僕ははだざむい夜道を歩き出した。


    ●


 二日も学校を休んだ。べつに病気でもでもなかった。我ながら馬鹿だとは思うけど、準備ができるまで教室で彩夏と顔を合わせたくなかったのだ。

 金曜日、授業が終わった頃を見計らって学校に行った。久々に放課後の屋上に出てみると、彩夏はいなかった。フェンス越しに校庭を見渡しても、だんのところに彼女の影はない。

 もう遅いのかもしれない、と思った。なにもかも、どうしようもなく失われてしまった後で、僕はこつけいに走り回っているだけなのかもしれない。それもしかたない。馬鹿だったから。

 しばらく考えてから、もう一つ探してない場所に思い至った。

 温室は校舎の裏、外壁の際にあった。へいのすぐ向こうはおはかなので、あんまり人の寄りつかない場所である。園芸部員になってから一ヶ月たっていたけど、温室には近づくのもはじめてだった。専門的な技術が必要なのです、といってあやが全部ひとりでやってしまうのだ。

 ガラスが曇っていて中はぼんやりした緑しか見えないけれど、教室くらいの大きさはあるだろうか。

 スティール製の立派なドアに手を伸ばしたら、中から開いた。

「……ふじしまくんっ?」

 僕といきなりはちわせした彩夏は、とんきような声をあげた後、しばらく固まった。僕も同じだった。目の前に彩夏がいるということが、なんだかすぐにはみ込めなかった。

「あ、あの、中で薬いたから近づいちゃだめだよ」

 先に我に返った彩夏は、両手でぐいぐいと僕の胸を押して温室から引き離した。

「なんでこんなとこ来るの」

 彼女の声はまだ怒ってるように聞こえた。

「……いや、僕も園芸部だし」

「もうそんな無理しなくていいよ。無理に誘ったあたしが悪かった。お互いゆうれい部員でいいでしょ?」

 彩夏は目をそらして早口で言う。

「……だめだよ、そんなの」

 消え入りそうな声で僕は言った。もう彩夏は僕のことをゆるしてくれないのかもしれない。そう思うとさむがした。

「どうして。だって藤島くん──」

「せっかく作ったのがになるから」

「──え?」

 ポケットからビニルの包みを取り出すと、中の一枚を彩夏の手に押しつけた。彼女はそれを広げて目の高さに持ち上げる。黒い布の──わんしようだった。丸いシンボルマークがオレンジ色でプリントされている。《C》の中に《G》、その中に丸まった《M》。

 彩夏はそれをしばらくじっと見てから、顔を上げて言った。

「……かんげき退たい・マシーン?」

「やっぱ返せ」

「わあ、うそうそ、ごめん」

「内側から読むの。M高ガーデニング・クラブ」

「……あたしたち?」

 僕が目をそらしてうなずくと、あやの表情が複雑に変化する。笑い出しそうな、泣き出しそうな。

「どうやって作ったの、これ? え、あの、ひょっとしてこれ作るために二日も休んでたの?」

「うん。PCで画像作って専門店に持ち込んだ」

 彩夏はほうっと息をつくと、おそるおそるわんしよううでに通した。それから両腕を真横に広げてみせる。こわばっていた表情が、とけていく。

「……ふじしまくんの分もあるの?」と彩夏は僕の手の中のビニル包みを見ていてくる。

「うん。最低十枚からだったから」

 色々謝る言葉を考えていた僕の頭は、真っ白になってしまっていた。

「藤島くんがここまでしやべるの不器用だとは思わなかったよ」

 今度こそ彼女ははっきりと笑う。僕はもう死ぬほど恥ずかしくなってうつむいた。

「でもこれ、すっごいうれしい」

 彩夏はそう言ってくれた。僕はなんとか顔を上げて、ぎこちなく笑い返して、「うん。……ごめん」と消え入りそうな声で言った。それが、そのときの僕の精一杯だった。

「ね、もっと大きいの作ろうよ。旗とか。それで、体育祭の部活対抗リレーで使うの」

 だれが走るんだ。二人しかいないのに。

「あ、そうか。じゃあホームページ作ろう。このマークがうぃーんて浮かび上がってくるの。ふじしまくんそういうの得意でしょ?」

 なにせるんだよ。でも僕がなにか言い返す前に、あやは「屋上の鍵借りてくるね!」と言って走って行ってしまう。

 その背中を見送りながら、今はこれでもいいのかな、と思った。

 たしかに僕はどうしようもなく不器用かもしれないけど、それでも、できることを少しずつ、少しずつやっていけばいい。


    ●


 でもそれはけっきょくのところ、遅すぎたのだ。僕の知らないところで、僕のささやかな世界は静かに、確実にむしばまれていた。その日の夕刊のかたすみに、区内の病院に入院していた若い男性かんじやが薬物中毒で死亡したという記事が載せられていた。

 僕の十六さいの冬をぼろぼろにした『エンジェル・フィックス』事件の、それが最初の死者だった。


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試し読みは以上です。


続きは好評発売中

『神様のメモ帳』でお楽しみください!


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